第29話:対面
夜更けから降り始めた雨が日大通りの並木の桜を散らしていた。コンビニで買ったパンとペットボトルの水が入ったビニール袋を左手に持ち、右手に傘を持って花びらの絨毯のうえを歩いていると、柴犬を連れた親子連れが前方から向かってきた。柴犬は私の姿を見つけると、一回だけ大きな声で吠えた。威嚇されたかと思って私は身構えたが、柴犬は口を大きく広げて笑っているかのような表情でこちらを見つめていた。すれ違いざまに母親が「すみません」と告げ、男の子が「おはようございます」と言った。私は反射的に「おはようございます」と返したが、頭を下げた先に柴犬がいたので、なんだか柴犬に挨拶をしたような構図になってしまった。
買ってきたパンを食べ、心を落ち着けるために読みかけの小説を少し読み進めてから出かける準備を始めた。鏡に向かって化粧をしながら、これから会うmasaさんのことについて考える。アプリの写真のように穏やかな笑みを浮かべてあらわれるだろうか。それとも真剣な表情で待っているだろうか。波が寄せてはひくように、期待と不安が私の胸に交互にやって来る。自分の顔をある角度から見ると自信が湧いてきて、別のある角度から見るとその自信がみるみるしおれていく。masaさんは私の姿を見てどう思うだろうか。私は彼と違って、アプリに自分の顔写真を載せていなかった。
京王線で新宿に向かうと、雨はさらに勢いを増した。地上に出て大量の傘が駅前を埋め尽くす光景を目の当たりにした瞬間、私は急に帰りたい衝動に駆られた。雨が私の心を花冷えにさせていた。こんな悪天候のなかで出会った人と、晴れやかな関係が築けるはずがない。桜色の折り畳み傘を握りしめながら東口の階段で俯いていると、スマートフォンが鳴った。
『こんにちは。いま東口に到着しました。紺色のシャツに黒いズボン姿です』
私は少し悩んでから返信した。
『こんにちは。私も東口にいます。階段の上のあたりで、桜色の折り畳み傘を持って立っています』
ややあって、背後から階段を上がる足音が聞こえてきた。きっとmasaさんのものだという確信が私にはあった。たくさんの足音のなかで、その一つだけが私をめがけてまっすぐ響いている気がした。
「カノンさんですか?」
すぐうしろで声がした。私はハッとして振り返った。
「初めまして。マサです」
「初めまして。カノンです」
私は深々とお辞儀をしたあと、マサさんの顔を見上げた。マサさんは想像していたよりも背が高くて、写真よりも少しふっくらしていたが、笑顔だけは変わらず丸みを帯びていて柔らかかった。
「なんだか、緊張しますね」
マサさんがこめかみを掻きながら言う。私は黙って頷いた。
「お昼、まだですよね。近くにスパゲッティが美味しい喫茶店を知ってるんです。スパゲッティは好きですか?」
「スパゲッティは好きです」
「じゃあ、行きましょう」
マサさんはこれから向かう方角を指さしながら歩き始めた。私は探検隊の隊長についていく隊員のように、マサさんのうしろについて歩いた。いつのまにか雨は上がっていた。




