第16話:誘い
片付けが終わり、壁に展示されたタペストリーになにげなく視線を移す。ずらりとならぶ作品群の右端には、名古屋で出展したばかりの『青い記憶』が飾られている。
肌寒くてたまらなかった。窓を閉めようと立ち上がった私に小夜子さんが振り返って訊ねた。
「先生、今週末は空いてらっしゃる?」
小夜子さんをはるか彼方の黒い点として認識していた私は、その彼女がとつぜん目のまえにあらわれたので肩をすくめた。少しのあいだ固まって、それから彼女に誘われているらしいことを理解する。
「なにも予定はありませんけど」
吐き出された声はなぜか自信なげだった。質問されたとき、語尾に『けど』をつけて返すのは子どものころからの悪い癖である。
「じつは主人が会社で先生の話をしたら、ぜひ会いたいって人がいたんですって。キルトづくりが趣味で、先生のことも以前から知っていたみたいなの」
私は表面上はにこやかに話を聞いていたが、心の内では憂鬱がどんどん募っていた。人付きあいが得意でなく、一人でいるほうがずっと気楽な私にとって、知らない人を紹介されるのはストレスでしかない。
小夜子さんではなく彼女の旦那さんの紹介というのもまた気がかりだった。旦那さんとは結婚式で一度会ったきりだったが、私は彼のことがあまり得意ではなかった。旦那さんの会社の人間に会うとなれば、当然ながら彼も同席するだろう。小夜子さんには悪いが、どうにかして断る方法はないだろうか。私は必死に考えを巡らせた。
「もちろん、無理にとは言わないんだけど、もし先生さえよかったら」
私の顔色や態度からなにかを察したのか、小夜子さんは控えめなトーンで言った。彼女に気を遣わせたうしろめたさから、私は反射的に、
「私もぜひ会ってみたいです」
と嘘をついた。
とたんに小夜子さんの顔が光に当てられたように明るくなる。
「よかった。じゃあ、主人にも伝えておくわね。詳しい時間と場所はまた電話するから」
それから小夜子さんはご機嫌で鼻歌を口ずさみ始めた。今度の曲はオペラ『蝶々夫人』の『ある晴れた日に』だとすぐにわかった。しかし『蝶々夫人』は海軍士官の夫ピンカートンに見捨てられた蝶々さんの悲劇の物語ではなかったか。アメリカに戻ってしまった夫を思い『ある晴れた日に』を歌う蝶々夫人は、本当に彼が帰ってくると信じていたのだろうか。私が同じ立場ならあんな美しいアリアを歌い上げる気分にはならないが、たんに私が他人を信用できない人間だからかもしれない。私は自分から離れることにも他人から離れられることにも慣れすぎていた。小夜子さんならどうだろうか。彼女にとってのピンカートンを笑顔で待ち続けられる人だろうか。




