第15話:風
小夜子さんはカタログをぱらぱらとめくり、やがてあるページの上で指を止めた。表紙にもなっているあの『赤、黄、青、白、黒の長方形によるハーモニー』が描かれたページだった。小夜子さんは分厚いまぶたを持ち上げ、その絵を食い入るように見つめた。描かれている長方形の数をかぞえ、一つ一つの大きさを測り、あらゆる色の意味を説き明かそうとでもするかのような、熱量に富んだ眼差しだった。私は息を呑み、彼女が次に発する言葉を待った。
「この作品」小夜子さんは笑みを浮かべて言った。「綺麗ね」
「彼の代表作です」
私は笑顔を取り繕ったが、内心では上手に笑えているか不安でしかたなかった。このとき私は小夜子さんの答えを聞いて勝手にがっかりしていたのだった。小夜子さんに対してではない。クレーの作品が持つそこはかとない暗さについて誰とも共有できないことに私はがっかりしていた。美術館には同じ展覧会に作品を出し合った作家数人と訪れたが、私以外の仲間はみな色彩の豊かさについてしか話さなかった。色とりどりのパッチワークの裏側に当てられた夜空の色の裏地について、私だけがずっと気にしていた。
小夜子さんなら気づいてくれるかもしれない。私は心のどこかでそう思っていたのだろう。『城』の夜の部分に着目してくれた小夜子さんなら、と。その当てが外れたことで、私は独りよがりな落胆に沈んだのだ。
そんなことを知るよしもない小夜子さんは、聞き覚えのあるクラシックを口ずさみながら裁縫道具を片づけ始めた。大きな裁縫箱は、黄色い目の黒猫がプリントされたもっと大きなトートバッグに飲みこまれた。バッグがぱんぱんに膨らんで、細身の黒猫が横に大きくなった。私はふと、小夜子さんは猫を飼っているのではないかと思った。プリントされた黒猫の体にひっかき傷がいくつもついていたからだ。
可愛いバッグですね。お家では猫を飼ってらっしゃるんですか。私は訊ねたが、小夜子さんは鼻歌に夢中で聞こえていないようだった。白い壁と天井に囲われた教室の、ちょうど対角の位置に私たちはいた。この空間で最も遠い位置に分かれている事実が私を心細くした。こちらの角からあちらの角までの距離が変化することはないのに、小夜子さんがどんどん遠くなっていく。
はたして小夜子さんが向こうへ離れているのだろうか。それとも私が遠のいているのだろうか。どちらも同じ意味のように思えた。私は軽い目眩を感じながら小夜子さんの背中を見つめた。真っ白な室内で彼女の黒いワンピースが不自然に際立っていた。
小夜子さんの鼻歌がかつてない盛り上がりを見せるなか、換気のために開けた窓から春先のひんやりした空気が吹きこんだ。寂しい気持ちのときほど風は冷たく感じられるものだ。私は羽織っていたカーディガンのボタンを留めた。
この冷たさにはおぼえがあった。物心ついたころから風は私の頬を、首筋を、胸の奥にあいた空洞を幾度となく吹き抜けていった。風は孤独の吐息である。私は風から逃れたくて、しかしどうあっても逃れられず、いつしか逃れられないことに居心地の良さを感じるようになった。




