第10話:スランプ
白紙のスケッチブックとかれこれ二時間以上も睨みあっている。
次のグループ展に出す新作のデザイン案を練っているが、納得の行くものが思い浮かばなかった。思いついた図案や風景、モチーフを片っ端から描いては、ああでもないこうでもないと自分自身で文句をつけて没にするのをかれこれ三十回は繰り返していた。これまでデザイン段階で行き詰まることなどなかっただけに焦りが募る。鉛筆を忙しなく走らせ、思いついたものを無心で描いてみるが、どれも心には響かなかった。
スランプの四文字が脳裏に浮かんだ。そうか。これがスランプというものか。スケッチブックの片隅に『スランプ』と書き殴った。スランプなど熱海の旅館に籠もった作家だけが陥るものとばかり思っていた。少なくとも私の人生とは無縁であると。だが、そうでもないらしい。
すでに二十四時を過ぎていた。明日は平日だからそろそろ寝なければならないが、どうしてもデザインのことが頭から離れず、スケッチブックを手にソファへと向かった。片方の肘置きに足を乗せて横になり、これまでに書き溜めたデザイン案を見返してみる。観音様、雪の結晶、曼荼羅、睡蓮、京都旅行のときに撮影した写真の模写。スケッチブックがまるまる一冊埋まりそうだった。
ページをめくるうち、思ったよりも仏教に関係する図案が多いことに気づく。このところ仏教関連の書籍を読み漁っているのが影響しているのかもしれない。ふとテーブルに目をやると、中村元訳の『ブッダのことば―スッタニパータ―』が置かれていた。
もともと宗教に興味があったわけではなく、大学などで仏教について学んでいたわけでもない。南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経という言葉は知っているが意味はわからなかった。私が仏教徒なのは単に親がそうだったからで、親が仏教徒だったのも単に祖父母がそうだったからに過ぎない。おまけに私は結跏趺坐どころか半跏趺坐だってできないくらい体が硬いから、どれだけ努力しても悟りは開けないだろう。
ではなぜ仏教の、しかも原始仏教の本を読むようになったのか。その理由をはっきりと説明できるほど、私は私自身のことを知らない。ただ、両親の離婚がきっかけのひとつなのは確かである。長年連れ添った二人が別れ、人生の終盤を孤独に生きるさまを見ていると、人間とは孤独を運命づけられた生きものではないかと思えてくる。仏教も同じだ。世俗への執着を捨て、悟りに至ろうとする道のりは孤独な旅路である。私はその孤独さに魅了されたのだ。




