第206話『俺、あの日のノアを知らない』
今回と次回は、あとがきをお休みします。
実は、ヒロインたちの過去をこうしてしっかり描いたのは、今作で初めてかもしれません。
だからこそ、今回は余計な言葉を挟まずに、彼女たちの“理由”をまっすぐに届けたくて。
ノアはなぜ、そこまで想うのか。
カエデはなぜ、あんなふうに笑うのか。
少しでも彼女たちの想いに触れて、好きになってもらえたら嬉しいです。
──バタン、と玄関が閉まった音が、やけに耳に残る。
あっけないほど簡単に、カエデは出て行った。
それなのに……部屋には重たい沈黙だけが残った。
誰も、何も言えなかった。
さっきまでの言い合いが嘘みたいに、言葉が出ない。
その時、静かに──けれど確かな決意を孕んだ声が落ちた。
「……エンリさん。カエデが……言い過ぎました。ごめんなさい」
ノアだった。
静かに、けれど深く頭を下げている。
その仕草には、どこか悔しさすら滲んでいた。
「……いいえ。私のほうこそ……言い過ぎました」
エンリもまた、俯いたまま小さく答える。
普段はお互いの個性を尊重している彼女たちが、ここまで感情的にぶつかり合うのは初めてだった。
「……カエデの怒る気持ちも、分かるんだ。きっと、誰が見ても、あの母親は許せない存在だって思う。でも……」
言葉を探すように、俺は視線を落とす。
「それでも、ユカリちゃんの気持ちを……完全に無視して、力で引き離すっていうのも……なんか違う気がしてさ……」
どちらも間違っていない。
どちらも、正しいとは言い切れない。
だけど、どちらも──ユカリちゃんの幸せを願ってた。それだけは確かだった。
「……きっと」
ふいに、ノアがぽつりと呟いた。
「カエデさんは……ユカリちゃんに、自分を重ねて見ているんだと思います」
「……自分を?」
俺が問い返すと、ノアは少しだけ目を伏せた。
そして、小さく笑う。……寂しそうに。
「それは……私が──」
──ノアとカエデの、あの出会いの日のことです。
ノアの口から語られたのは、
かつて彼女が“救われた”日と、
そしてカエデが“誰かを救おうとした”始まりだった。
──────
私は、かつて──
裕福な家庭に生まれました。
大きな屋敷と、何人もの使用人。
お行儀よく、お勉強も音楽もこなして……
世間的には、誰もが羨む“お嬢様”。
でも、私にとっての幸福は……そんな肩書ではありませんでした。
──お父様が、忙しい仕事の合間に見せてくれる笑顔。
──お母様が、毎晩寝る前に歌ってくれる子守唄。
ただ、それだけで、胸がいっぱいだったんです。
「ノア、お利口ね」
「大好きだよ、ノア」
その言葉を、毎日もらえることが、
当たり前になっていたあの頃。
……でも、本当は、そんな日々こそが奇跡だったのだと、
私は、後になって知るのです。
──あの日までは。
あれは、クリスマスの夜でした。
ツリーに明かりを灯して、家族で囲むテーブルには、
お母様の焼いたクッキーと、七面鳥と、紅茶。
プレゼントを開けて、笑い声が響いて──
私が「パパ見て!」って、新しい人形を見せた、その時でした。
……玄関が、破壊された音がしました。
ガシャン、と。
まるで世界が割れたような、そんな音。
何人もの──
本当に、何人いたのかすら分からない……
武装した男たちが、屋敷に踏み込んできたのです。
その瞬間、時間の流れが歪んだように感じました。
声が割れる。
空気が重くなる。
心臓の鼓動だけがやたらと大きくて、うるさくて。
誰かが怒鳴る声。
誰かが泣き叫ぶ声。
何かが壊れる音。
金属がぶつかる音。
そして、鉄と血の匂い。
──私は、必死に走って、台所の奥の戸棚に身を押し込みました。
泣きそうなのを必死に堪えて、
息を殺して、音を聞かないふりをして。
「お願い……止まって……止まって……!」
……何度も、心の中でそう叫びました。
けれど地獄は、終わらなかった。
どれだけ時間が経ったのか、わかりません。
私は、ただ震えて、怖くて……
“助けて”という言葉すら、声に出せなかった。
──やがて、静かになりました。
聞こえていた悲鳴も、足音も、何もかもが消えて。
私は、ようやく……戸棚の扉をそっと押し開けました。
そこにあったのは──
朝の光。
そして、その光の中で、
血に染まったまま、静かに横たわる両親の姿でした。
声は出ませんでした。
涙も、出ませんでした。
その瞬間、私の心は……たぶん、一度死んだのだと思います。
それからの私は──
親戚に“保護”され、たらい回しにされました。
誰もが言葉では「心配してるよ」と言いながら、
誰一人として、私の目を見てはくれませんでした。
“相続”という名のもとに、
両親が遺した資産は手続きされ──
私自身は、使い終わった紙くずのように、施設に送られました。
……あの日から、私はずっとひとりでした。
誰かに頼るのが怖くて。
優しさにすら、疑いしか抱けなくなって。
どんなに賢くふるまっても、
どれだけ強がっても……
心の奥は、ずっと空っぽだったんです。
──そんな私の前に、ある日。
唐突に現れて、いきなり距離感ゼロで踏み込んできた子がいました。
とんでもなく明るくて、
とんでもなく自由で、
とんでもなく真っ直ぐな──
……今となっては、ちょっと迷惑なぐらいに、お節介な人。
──彼女の名前は、カエデと言います。
(スッと目を閉じるノア)
……あの子との出会いがなければ、
今の私は、ここにいなかった。
だから──
カエデが、どうしてそこまで怒ったのか。
私には、痛いほど……わかるんです。
──────