月下に散る
多少疲労感が和らいできた。
相変わらず膨大な力を持つ魂が僕に取り込まれた反動はあるものの、多少努力すれば無視できる程度だ。
ゆっくりと結界の端に歩み寄る。光を放ちながらユラユラと靡き、そして戦闘中一切の攻撃を通さなかった壁。
そっと触れると、まるで空間に吸い込まれそうな、変わった吸着感があった。
「……解除」
パキッと空が割れるような小さな音。
広大な草原を囲う『亡霊の舞踊場』は花弁のように散りながら砕けていった。
これまで明るかった空間に、一気に闇が差し込む。
これまで結界によって明るく保たれていた草原には、この時間にふさわしい夜空が広がった。
「月も傾いたな」
そこまで長時間だとは思っていなかったが、どうやらそれも僕の感覚違いであったらしい。
明らかに初めにアドヴェント大草原に到着した時よりも月が沈みそうになっていた。
人間軍側にばら撒いた『星夜奏』に目を向ける。すると少しおかしなことに気がついた。
大半の人間軍はこれによって殺されたようだが、最初に認識した数よりもここにある死体の数が少ない。
しばらく戦場であったところを眺めていると、『無血人形』が壊された跡を見つけた。
6体は単純に魔法の持続時間が切れたから崩壊したのだろう。だが、たった一体だけ、破壊された『無血人形』があった。
どうやら、少なくともこれを倒せるレベルの人間兵を逃してしまったらしい。
強引に全軍を退却させたのだから仕方がないが、少々面倒なことになったかもしれない。
「はぁっ……」
やはり疲れた。ここまで疲労困憊と呼べるレベルまで体を酷使したのは久しぶりかもしれない。
いや、正確には今回は僕自身の魂にかかった疲労だから、初めての体験とも言える。
おかげで、ほぼ無限に魔力を生み出せるはずの僕の体内魔力がほぼゼロになっている。こんなことはこの体になってから初めてだ。
普段は経験しない魂の疲労だけに、何が起こるのかわからないのが厄介だ。
まずは魔王に、中位魂保持者の討伐を終えたことを知らせよう。他は戻ってからで良い。
そう思って銀の腕輪に触れようとした時、
「!」
魔力が揺れたのに気がついた。
僕のものではない。どこか別の場所だ。どこかに人間兵の生き残りがいるわけではない。人間や魔人に準ずる生命体がこの周辺にいないことは確認済み。
だが普通、魔力が自然発生的に揺れることなどあり得ない。何か人工的、もしくは魔物などが関わっているはず。
これはある意味で緊急事態。
よく第六感を澄ませる。と、一つの発生源に気がついた。
それは、人から発生する魔力では当然なく、また魔物や動物からのものでもなかった。
赤い石。つい先程殺した『道化師』と呼ばれていた男の胸元にそれはあった。
まるで僕の持っている銀の腕輪のようだ。あの『道化師』は確か自分を賢者だとか言っていたし、人間側である程度の立場があるはず。
だとすると、僕の腕輪のようなものを渡されもおかしくない。
誰かが呼び出しをしているのか、もしくは転移の基準になるものか……
そこまで考えたところで、僕のあの石に関する思考は完全に遮断されることになった。
「……は?」
僕の肩あたりから、金属製の腕が生えていた。
それは黒と白の吐き気のする光を放っていて。
それはつい先程自分の手にあったもので。
それは僕が『道化師』を殺すために使ったもので。
要するに、魂を殺す最悪の毒を操る腕が、僕を貫いていたのだった。
「っ〜!」
両膝を完全に地面に着けて倒れ込む。ダラダラと滝のように血が流れ出るせいで、地面に血溜りができてしまった。
完全に吹き飛んだ左肩から腕までをなんとか抑え付け、名も知らぬ敵を睨みつける。
傍ら、限界を迎えつつある『天骸』を急かしに急かして体の修復を急ぐ。
取れるだけの距離はとった。
頼むからこちらに来てくれるな、そんな願いも虚しく、体を修復する間を少しも与えず敵はここに追いついてきた。
「……生きているとは」
こちらにきたそれは、ほんの少しだけ目を見開いた。
僕がほんの10秒も使えなかった魂毒をまるで通常攻撃のように扱う敵は、『道化師』と似たような言葉を宣ったのだ。
言葉の表面だけならば、同じもの。
だがその言葉の奥にある淡々とした殺意は、その言葉にのそこにある此方を探るような目は。
そしてその言葉の異常はまでの静けさは、決して比べ物にならない。
冷や汗は止まることを知らず、そしてその敵の目線が少しでも動くたびに僕の呼吸は揺れる。
「第五賢者を殺しただけのことはある。毒が回る前に自らの体を爆破したのか」
「……」
正解だ。魂毒は自分も使っている。だからこそその恐ろしさは理解しているし、対処法も考えた。
といってもこれは毒の治療法などの高等技術ではない。単に、毒がその効果を発揮する前に、周辺の体ごと毒を打たれた場所を切除する。それだけのこと。
ただ、こちらが生き残った方法もたった一瞬で看破してきた。おそらく次は通用しない。
わざわざ確認するまでもない。
格上。それも、絶望的なほど。
「!」
少し敵の目線がずれたかと思うと、次の瞬間、僕の真横で少し何かが光った。
最大限度まで加速した思考の中で、体内の『星夜奏』までも使い、強引に人体の構造としてあり得ぬ方へ体を曲げる。
特別根拠があったわけではない。だが、もう敵の影が見えた瞬間に動かなければ、それは自殺に等しい。そのことだけは嫌というほどわかっていた。
無理な動きをしたせいで左肩の修復されかけていた欠損の傷口が開く。
それでも痛みなど無視して地面に倒れ込むように転がり、その勢いのまま、敵の方向も見ず感覚で座標を確定させる。
「『永劫の鎖』!」
僕の目を貫こうとしていた敵の攻撃が一瞬止まった。
だが残念なことに僕が無傷とはいかない。
ただでさえ『亡霊ノ風』に属する魔法は魔力を消費する。それを、今の魔力が枯渇しそうな状態で使ったらどうなるか。
無理やり魔法を発生させた反動と、すでに疲労困憊状態の魂をさらに酷使したせいで酷い眩暈が僕を襲ってきた。歩くのすらおぼつかない。
それでも、もしこれを使っていなかったら僕はとうに死んでいただろう。
だからと言って状況は改善しないのだが。
本当にまずい。それでも、何がなんでもあがく。なんとかこの隙に。
この魔法如きで永遠に拘束できるとは思わない。
だがなんとか距離を取り、わずかな時間でも反撃できるはず。
そう思った瞬間、僕のわずかな希望は完全に打ち砕かれた。
膨大な魔力の流れ。敵から発生するそれは、僕の使える中で最強の拘束を力技で打ち砕いたのだった。
いや、もはや敵にとってみれば蚊を振り払うレベルにすぎないのかもしれない。
もう、向かってくる魔法を相殺する力さえ残っていなかった。
ああ、確かに予期していなかったわけではない。いつかはこうなるのではないかと心のどこかでは思っていた。
だが流石に早すぎないだろうか。
おそらく、敵陣営の中でも最高戦力に近い。
今目の前にいるのは、上位の者だ。『道化師』を殺したら最高戦力レベルが出てくるなんて誰が想定するだろうか。
心の中でへノーに謝る。昔、いつでも戻ってくると約束したけど。
その約束、守れないかもしれない。
「会いたかったな……」
僕の心臓に大きな魔法の楔が打ち込まれている。もはや修復など不可能なことを悟る。
もう体が麻痺して、痛みすらない。
最後の足掻きと力を振り絞って、静かにある仕掛けを発動させた。
不気味に光る金属の腕が、僕の頭を潰しに向かってくる。ような気がした。
最後に月を視界の端に収め、一つの命が草原が散った。




