気の狂いそうな痛みの先に
とても、のんびりとした時間に思えたんだ。
狂ってしまいそうなほど。
結界最上部から、地に縛られた竜に向かって堕ちていくこの時間。
ほんの数秒すらかからない時間が、まるでいつまで経っても詰まって落ちていかない砂時計のようだった。
もちろん特別な思考加速を行っているわけでもないし、当然時間操作などという神の如き技は振るえない。
僕の本能がこの時間を引き延ばしていた。
いや、本能的に、のんびりした第三者視点に強制的に引き込まれているとでも言おうか。
コップが机から落ちていくのが、やけにのんびりに見えたことはないだろうか。
もしくは歩いていて転びそうになった時、自分の状況をどこか遠くから呑気に眺める自分がいないだろうか。
何かに対処でしなければいけないのにそれができない時。そんな時の、嫌に引き延ばされた濃密な時間。
今がまさにそれだ。
何が短時間なら大丈夫だ。どこが今なら大丈夫なんだ。冗談じゃない。
つい先ほど起動させた魂を殺す『技能』、『吸光ノ毒牙』。これは使用者自身に負担がかかるから長時間は使えないと主さまが言っていた。
つまり諸刃の剣のようなもの。そう、思っていたのに。実際はそれを遥かに通り越していた。
両手に激痛が走っている。ジュッと何かを焼き溶かすような感覚とともに、手から肩までが作り替えられていくのがわかった。
右手も、左手もまるで金属のような輝きを放ち始めた。
ただ輝くのではなく、白と黒を基調とした鈍く歪んだ光。それを見るだけで叫び出してしまいそうだ。
金属のような腕には、鋭く、触れたものを全て刈り取るような牙が付け加えられている。
たったひとつの『技能』を起動させてから、まだ1秒経っていない。それなのに、発狂しそうなほどの痛みが僕に殴りかかり、ほんの一瞬さえ永遠の苦しみに感じてしまう。
丁度金属のような体と、僕の元の体の境目から血が溢れ出す。有り得るものと、あり得ないものの境界が悲鳴をあげたのだ。
嗚咽を漏らそうにも、涙だけはは一滴も出ない。視界を歪ませる前に、それにつながる体の機能を切断したから。
なんとか今の自分が落下している状況を制御し、竜の位置に近づけようとする。それでも僕をかき乱すような痛みが襲い、感覚が乱され、まるで空中で止まっているような気さえする。
分かっている。これは、適応だと。
魂毒などというものは、決して生身で扱えるものではなかった。
魂を直接害するんだ。それを可能にする猛毒を操るためには、特殊な環境が必要になる。
今までの『封ジラレタ鏡』での肉体改造など比にならない。今起こっているのは、もっと別次元への、強引で歪な切り替えだ。
多少の痛みなら耐え切れる自信はあった。
だがこんなものは痛みではない。魂の悲鳴だ。
そうこうしていると、腕の内部に、何かの回路が強制的に創り上げられ、それが今開通したのがわかった。全てが爪の先につながっている。
これが、毒を通すための道だ。それがわからされた。実世界にあってはならない、異物というというのが嫌というほどわかったから。
まさかこんなものになるとは思わなかった。
それでも、いくら気が狂いそうになろうとも、決して敵から目は離さない。あれは、僕の仕留める獲物なのだから。そう決めたから。
竜の巨体を掻き切るまで、あと10m、9m、8m……
強引に体勢を整え、動かすだけでも吐き気のする毒牙を向ける。これは、いくら痛くともこれだけは。
4つの拘束に雁字搦めにされた敵はもはや抵抗する気がないのか、何も動かなかった。
接触まであと2mになろうかという、つまりもう一瞬で終わろうかという時に、ほんの少し竜の目が動いた。血走っていた。
それが何を見たのか、もしくは見たかったのか。それとも単に目を動かすという意味のない行為だったのか。
誰にもわからない。
『道化師』は僕が殺した。魂から、肉体まで、完全に。
2度と転生などできない。これによって、今目の前で戦っていた『道化師』という人格は消え去った。
ここにあるのは、中位魂の器だったもの。身体中に傷が入っているが直接の死因はそこにない。
眉間にある小さな穴。そこから注入された猛毒によって、場合によっては永遠の命を持っていたはずの『道化師』は死んだ。
竜としての体がふわふわと光り、分解されて空気中に溶けていく。どこかあっけない終わりだ。
遺ったのは、元の人間としての体。やはり何らかの手段で竜になっていただけのようだった。
「っ!」
ガクッと膝をつく。もう腕は元に戻っているが、それでも体が限界だったのだろう。そこに来て、新たな負担が加わった。
そう、身体中に何か新しいエネルギーが注入されていくのを感じた。
これが僕と同格だった相手の魂のエネルギー。殺したものに流れていくそれは、意思がまだほのかに宿っているようで。
それを僕は、僕自身の意思によって押しつぶし、完全に破壊する。
単なるエネルギーとして、それを自分の体に取り入れていくのだ。
それに伴い、恐ろしい勢いで僕自身の体が、魂から作り変えられていくように感じた。単なるステータスが変わったのとは比にならない震えが襲いかかる。
もし僕が普通の精神を持つ人間だったら、もう廃人になっていてもおかしくない。
だが、僕は少々バグっていると自分で思う。
今の痛みよりも、魂毒の使用による副作用よりも、何よりも、初の同格殺しということに震えている。
側から見れば、傷だらけで血を流しているだけに見えるだろう。そうではない。
僕は心から喜んでいるんだ。
僕は気がついた時には『屍ニ生キル』という特殊な『技能』を持っていた。
だからこそ、今までどこか不安だった。本当に自分が、それに見合う、中位魂としての実力を身につけているのかが。
だが、今、確かに僕は同格をこの手で仕留めた。たった一回だけど、証明した。自分の実力を、そして自分のここまでの歩みを。
たった1人、ここでは誰も祝ってはくれない。それでも僕は、亡霊の結界の中でゆっくりとこの興奮を噛み締めていた。




