月光を背に
部屋に月明かりが差し込む。
なんとなしに手を窓に近づけた。漆黒の衣は月光を反射することなくただただ立体感だけが消えていく。
およそ自然物の持つ色ではない。
この世界のものとしてあり、それでも自然が作ったのとはまた違う、光を吸い込むこの衣。
いつだったか主さまが「神」という言葉を口にした。
神の名を冠するほどの力を持ちながら、それでも主さまはそこに祈った。
「神の名」と「神」は等号で結ばれない。
一体この世界で、その言葉は何を指すのだろう。
『この世の全てを神は司る。決して姿を見せず、神は代わりにこの世に4体の完璧なものを送り込んだ。それが霊獣であり、神の使いである霊獣は神木に宿っている』
少し前にブルーメに教えてもらった、人間の間での教義。
だが、主さまはそんなことは言っていなかった。断じて木に宿ってなどいないし、霊獣とは単に上位魂を持つ魔物型の生物。
僕から見ればそれは神と同義であっても、主さまにしてみれば決して自身は神の送り込んだ完璧な生物などではなかった。
では、この教義は間違いなのだろうか。
人間の手によって作り出された、政治のための歪んだ御伽話なのだろうか。
それとも、この世の真理をどこかで伝える、超自然からの伝言板のようなものなのだろうか。
僕は、この世界に来てから、地球ではありえないほど鍛えた。相応に強い自信はある。それでもまだ、上位魂には届かない。届く気もしない。
その上位者が、ただ祈る相手。
『神は、完璧なものを送り込んだ』
果たして、神の造ったものとはなんであろうか。それが完璧であるのかはともかくとして、それがこの世にどうあるのだろうか。
自然物は全てそうなのか? この月明かりは? その光を吸い取るこの服は?
___もしそうであるならば、僕は?
ギシっと誰かが寝返りを打った音がやけに大きく聞こえた。
上から聞こえたので、二段ベッドの上段に寝る隊員からの音のはず。
なぜ僕はこんなことを考えているのだろう。『英雄』に復讐を誓っておきながら、もう1年も経ってしまってた。
浪費した時間の長さに自嘲気味な笑みが溢れる。だが同時に、その一年を無駄だとも思えない自分に気がつく。
自分の気持ちが全く把握できない。僕の体内にあるすべての魔力を完全に掌握する方がよっぽど楽だ。
アドヴェント大草原までの輸送の中継地点の、とある街。そこにある小さな軍の施設に僕たちはいる。
日中の疲れからか、先輩方はとっくに夢のなか。今この時間に起きているのは、疲れを全く感じない体の僕だからこそ。
そんなことを思いながら、布団が綺麗なままの僕のベッドを眺める。
枕元に置かれた銀の腕輪。
月光に照らされたそれは、僕の地位を示す魔王軍の中での身分証だ。
「……」
しばらくして、魔力が揺れていることに気がつく。その、腕輪から微弱な魔力が発せられていた。
過酷な任務の前に簡単で楽な護衛部隊に研修という話はなんだったんだと思わざるをえない。
「緊急事態」
この微弱な魔力が示すのは、通信を相手がたが求めている、ということ。その相手とは、魔人の頂点たるお方。
つまり、魔王だ。
ゴクリと唾を飲んだ。まさか、今この合図が送られてくるとは思わなかった。
ひんやりとする腕輪に手をふれ、魔力を流す。それも単に流すわけではない。それだけでは専属の呼び出しになってしまう。
そっと周囲の隊員を起こさないように小さな声でキーワードを唱える。
「『銀は輝く』」
ほんのわずかな時間、腕輪が輝いた。
直後、ここにはいない魔王の声。
『……聞こえるか?』
落ち着いていて、どこか隔絶しているように感じる王の声。
音量は小さくとも、しっかりと耳に残るその声は銀色の腕輪から発せられていた。
「はい」
『そうか。……独立官に命を下す』
「……いきなりですね」
なんの前置きもなく本題を進めてきた。
今の「研修に参加している新人の僕」ではなく「危険すぎる任務を行う魔王直属の戦闘員の僕」に対する命令。
わかりきっていたとはいえ、本業のようだ。
『至急、アドヴェント大草原に向かえ。文字通り今すぐだ』
「……即刻ですか?」
『そうだ。このままではあの戦場の魔王軍が崩壊する』
「え?」
まさに、今から僕が向かおうとしていたところに行け、という命令。
しかもその理由は、「このままでは魔王軍が崩壊する」ということ。強敵が現れたとは隊員たちが噂していたが、それほどのものなのか?
今すぐ、この真夜中に向かわなければならないほど切迫しているのか?
『我らと敵対していた勢力が本格的に動き出した。詳しく説明する暇はない。私は私で対応に動く』
「……敵の強さは?」
『中位だ』
「っ! そう、ですか」
魂の核で言えば、同格。
戦闘能力で言えば、おそらく同格かそれ以上。
もし現場にいる魔王軍の中に中位魂の魔人がいなければ、魔王軍が崩壊するというのもかなり現実味を帯びてくる。
『詳しくは専属にきけ。今すぐ向え』
「……大草原の、位置は?」
僕は第一護衛部隊として向かっているが、正確な目的地の位置は知らない。
『月を背に飛べ。幸運を祈る』
そう言ったっきり、魔王からの連絡は途絶えた。
月の位置は移動する。なのにそれを目印にしろとは。
月が動く前に、移動しろ。それだけ急いでると言いたいのか。
「ふうっ」
部屋の窓を開ける。幸い起きている隊員はいない。気が付かれることはないだろう。
室内と僅かに違う温度の風が吹き込んできた。
窓の淵に腰掛け、少しの間月を眺める。
綺麗な光だ。これが戦場であろうと穏やかな大自然であろうと平等に注ぐのだから、皮肉なものである。
押さえつけていた魔力を、今度は逆に最大限利用し尽くす運用に変えた。他人が見れば、僕の空気は先ほどとは打って変わって、渦巻くようになっていることに驚くだろう。
感覚を研ぎ澄ませ爆発的なまでに魔力を練り上げた。
月光を背に、向かうとしよう。
「『亡霊は迅速に』」
窓にあった人影は、誰にも気が付かれないまま戦場へと消え去った。
ここから始まるのが『悪魔』の物語だということは、誰も、知らない。




