湖は湖か?
「__持っていません」
この答えに満足したのだろうか。納得したのだろうか。
顔色も何もあったものではないが、少し殺気が和らいだ。おかげでようやくまともに息ができる。
しかし空気を味わっていられたのもほんのわずかな間だけ。
6枚ある翼のうちの一枚が、僅かに手前に揺らされる。同時に、少し周囲の空気にピリついたものが混ざった。
それだけ。
「……!」
目の前に目がある。つまり天使がある。
一気に距離を縮められた。もう手を伸ばせば触れられる距離。
全てが水のようなその瞳には何が映っているんだろうと思ったり。
つまり転移された。また。また転移の兆候を感知できなかった。
決して僕の感覚が鈍いからではない。
魔王はまだ目覚めてからあっていないからわからないが、少なくとも主さまの転移の兆候は掴めるようになった。
霊獣クラスの魔力の動きだってわかる。
この水の天使は、自然に流れるように転移をしているんだ。
空間がどうやったら静かになるかを知っている。どうやったら最も早く効率的に動けるかわかっている。
極限まで抵抗の少ない動きをされれば、探知できるものはない。僕は気付けない。
『__これで上位に至っていないのは珍しい』
目の前で口が動いているのに音が聞こえない。代わりに内容が強制的に脳に送られてくる。
深淵で無理やり意志をねじ込まれたのも、今思えば念話を極限まで拡張したものだったのかもしれない。
あんなもの二度と味わいたくないし、到底この世界に存在している僕らには無理な芸当だろうが。
しかしこの思考も現実逃避の一部なのだろうか?
『貴方はこの地にやって来た。我の子と共に』
そうでしょう?、と聞かれたので無言で頷く。
ふわっと翼が揺れたのが見えた。
僕も『蒼ノ癒炎』で翼を再現したことはあるが、ここまで美しくはできなかった。
おそらくこの翼の羽根一つ一つに、複雑な自律防御のようなものが編み込まれているのだろう。
どこをとっても素晴らしい、完成した見た目だ。
もしかすると自律攻撃系統もあるかもしれない。全く想像もできないような魔法があらかじめ仕込まれている可能性もある。
その羽根がいくつか分離して僕の周囲を舞っているというのは、なかなかに楽しいものだ。
『用件は何ですか? 我が子と共にこの地までやってきた理由を述べなさい』
今まで宙を漂っていただけの羽根が、その場で固定されて僕の方に向けられた。
脅し、というわけではないだろう。魂毒が混じっているとしたら別だがそんな気配もない。
せいぜい体に穴が空く程度の攻撃。
念の為周囲を警戒しつつ、今はそこまで余計なことを考えずに口を開いた。
「……僕がここに来たのは『亜権能』の効果を知りたいからです」
ごく僅かに、水の天使の目が動いた。
『貴方は亜権能の所持者ですね』
なるほどという割に全く納得した様子もなく、表情も声のテンポも変わらない。
どの程度正確なのかはわからないが、魂を見れば僕が亜権能を持っていることは元から分かりきっているのだろう。
少し目が動いたのと、分離した羽が動いていること。それ以外に、水の天使本体は何も動かない。
生物ならあって然るべき震えや瞬きすらない。見れば見るほど彫刻のようだ。
その裏でどれだけの魔法や『技能』が稼働しているのかと思うとゾッとする。だとしたら美しすぎる。
『なぜそれを我に聞こうとするのですか』
「……主さまに貴方なら知っていると」
ずっと思っていることだが、この天使の能力はいったいなんなんだろう。
全く感知できない転移はとりあえず単に極められた技術だとして。
木がいきなり魔物のように人を襲う。
森の一部が一瞬にして灰に置き換わる。
そしてへノー曰く『錬金術』。
住処だという湖の中央にあった、銀の樹。
そして今、何もないところにある空中の見えない足場。
全く共通点が見えてこない。どこまでがこの世界では自然なことで、どこからが異常なのかも僕はいまだに掴めていない。
能力がわからなければこの状況がどんなものなのかもわからない。
正直今僕は敵認定されているのかすらわからない。
『主……? ああ、金ののことを指すか』
金の、とはなんだろう。
主さまのことを指すとして、もしやそれは金霊獣という主さまの別の呼び名の省略形なのだろうか。
『貴方は金のの関係者ですか? 祝福の跡……いや取り込まれている?がありますね』
羽根が一瞬輝いたと思ったら自問自答して終わった。この霊獣は一体なんなんだ。
一眼見ただけで僕が主さまの祝福を取り込んだことまでわかるなんて。
『金のが人を育て始めたのですか? 意外ですね。我が子を預ける時も渋るほどのあれが』
ぶつぶつと淡々と独り言を述べた後、ようやく意識が僕の方に向けられたのがわかった。
そしてパシャっと水が地面にぶつかったような音がした。
僕に向けられたままだった羽根がなくなっている。
「!」
忘れた頃にやってくる殺気。今までの中で一番、嘘を許さないという雰囲気だった。
何せ、6枚の翼が渦巻くように向けられている。
先ほどよりもよっぽど僕と天使の距離が縮まり、ほんの少し動けばぶつかりそうなほど引き寄せられた。
『問いましょう』
まるで覗き込まれたように、目が合った。恐ろしく張り詰めた空気が一瞬この場を支配した。
『__答えよ。我が子に対する害意は?』
いったいどんなことを詰問されるのかと思い、そして一体どんな恐ろしい問いなのだろうと警戒していた。
だが、これを聞いた時の感想を正直に言おう。
__愚問だ。
「一切ありません」
これだけは断言できる。僕が自ら進んでへノーを傷つけることなどあり得ない。
故に愚かな質問だ。
『そうか』
目の前の天使が初めて目を閉じた。初めて見せた動きに、何があるのだろうかと一瞬警戒した。
異変が起こった。翼のうちの一枚が、氷が溶けるように崩れる。
先程まで圧倒的な存在感を放っていた天使がの翼れたことに目を見開く。そこから何が起きているのだと驚く暇はなかった。
瞬く間に天使の体は液状になり、重力に従って一直線に落下していく。
そしてほんの少しの違和感の後、僕は銀の樹の生える湖の前にいた。地上に立っている。
「……っ!」
また転移だ、と驚く間も無く。
ワンテンポ遅れて、空から大質量の水のような液体が降ってきた。一瞬押しつぶされると警戒するほどの量が。
視界全てを埋め尽くすような水流のが、爆発のような大きな音を立てて湖に降り注がれた。
「あ、アオイ!」
突然真横から声が響く。
先程まで誰もいなかったのに、気がつくとヘノーがいた。またこれも水の天使の魔法だろうか。
何をするにも突然すぎる。
だが肝心の水の天使はどこに行ったのだろう。どこを見てもその姿は見つからない。魔力の気配だけは漂っているのにその場所が正確に掴めない。
何か先ほどの答えに気に食わない点があったのか?
「アオイ何か探してる?」
「へノーの母さまらしき人に会ったんだけど、急に消えたからどこ行ったのかなって」
そう言うとなぜかへノーに首を傾げられた。
「どこってどういうこと? ほら、ここに母さまいるでしょ」
そう行ってへノーが指した方を見ると。
そこには、つい先ほど何かが大量に降って来たのにも関わらず波一つない、魔力を纏う湖があった。




