ドタバタバー
「……お疲れ様でした。」
打ち合わせと、明日の準備をして学校を出る。夏の熱気を吸い取るような、青から黒のグラデーションの下、ルンルンだったはずの足取りは重く、引き摺るように足を動かす。
昼頃までは初授業が上手くいった祝杯でも挙げようか、なんて思っていたが、とてもそんな気にはなれない。家で夕飯を作る元気もなく、いっそこのまま不貞寝してやろうかという気になるが、憎らしくも一丁前にお腹は鳴る。仕方ない、そこら辺のお店でテキトーに食べて帰ろう。
行き慣れた牛丼屋や、中華料理屋の看板が目に入ってくる。さあ、この胸のモヤモヤをどこで暴食して発散してやろうかと、目につく店のメニューを片っ端から想像して咀嚼する。しかし、ネギ盛りの牛丼も、ラーメンと半チャーのセットも、どれも気分じゃない。かといって直帰してはいろんな意味で腹の虫が治まらない。少し遠回りをして、大通り沿いから離れた住宅街に入ってみる。すると、建物と建物の間、奥まったところにオレンジ色の明かりがぼんやりと灯っているのが見えた。
近付いてみると、建物の概観が薄明かりに照らされて明らかになる。アンティークな風合いのレンガの外壁が施された四角い建物の2階には、丸い窓が横に2つ並んでいて、てっぺんには三角屋根がちょこんと乗っている。窓を目に、扉を口に見立てると、何とも間抜けな顔のようになっていて、まるでちっちゃい頃に積み木で作った家みたいだ。妙に親近感が湧くその建物の看板を探すと、さっきのオレンジ色の照明に字が書いてあるのが見えた。
『Bar at Takai』
うっ、バーなのか。バーってあれでしょ、お洒落でお酒にこだわりのある、かっこいい大人が集まる場所でしょ。バーテンダーさんが、カウンターの奥でシャカシャカしてるやつでしょ。やたら長ーいカウンターで黄昏れてたら、不意に向こうからグラスに入ったウイスキーがサーッて届けられて、バーテンダーがあちらのお客様からです、って示した先を見たらダンディなおじさんがこっちを見てグラスをスッ、と軽く上げて微笑むところでしょ。え、それは、ちょっと体験してみたい。
そうだ、今僕にある行き場のない感情をぶつけるのは、暴食ではなく暴飲の方だったんだ!お酒あんまり飲めないけど!粋なダンディにも会ってみたいし!
そんなノリと勢いに身を任せ、僕は初めてバーの扉を開いた。
「すみませーん……。」
中に入ると、ひんやりと心地よい涼しさに肌を撫でられる。積み木の家のようなレンガ造りの外観とは違い、木造の店内は深い飴色に染まっている。壁際に3卓並べられたテーブルの傍には、座面を赤い布張りにした上品な木製椅子。それと同じ椅子を一列に並べた艶のあるカウンターの奥では、様々な色や形のボトルがズラリと棚に飾られていて、見ているだけで面白い。アンティークランプのほのかな明かりに照らされた店内は、秘密の話をしたくなるような不思議さと、心をほぐして包み込むような温かみを感じる。まさに『大人の隠れ家』という言葉がぴったりの空間だ。けれども、どの席にも人の姿は見当たらず、なんならカウンターの奥にも誰もいなかった。
え、留守?不用心過ぎん?普通に入っただけなのに、隠れ家というより空き家に入った泥棒みたいな気持ちになってそわそわしていると、奥の方から何やら声が聞こえてきた。
「健、また新しいリキュール買ったでしょ!」
「それは!えーと、そう、新しいカクテルを開発したくて」
「その言い訳は聞き飽きた!今月やばいって言ってるじゃない!」
「落ち着いて、ゆか。大丈夫、これを元につくるカクテルは、きっとそのやばい現状を打開する秘密兵器に」
「な、る、かーーー!」
ドタバタ、と犬が追いかけっこしているような激しい物音がしたかと思うと、カウンターの奥から必死な顔の若い男性と、般若のような気迫を纏った若い女性が飛び出してきた。
そして、2人ともその顔のまま僕と目が合った。
時が、止まった。
やがて2人は、スイッチを押したように、パッと姿勢を正し、爽やかな笑顔に表情を切り替えた。
「「いらっしゃいませ。」」
「騙されないっすよ。」
「……いつから来てました?」
「新しいリキュールが、みたいなとこから。」
女性が傍らの男性をギッと睨む。男性はそれをまあまあ、と窘めつつこちらに向き直る。
「恥ずかしいところを見られてしまいましたね。私はここのマスターの高井健。そして彼女は従業員の梶浦ゆかです。」
「こんばんは。すみません、見苦しいところを。」
「いえいえ、こちらもタイミングが悪かったみたいで。」
改めて、2人を見る。レトロなバーの雰囲気から、てっきり立派な口ひげを蓄えた渋いマスターが営んでいるのかと思い込んでいた。しかし目の前にいるのは、すらりと長身の優しげな男性と、一つ結びのキリッとした女性。どちらかと言えば、バーよりも、お洒落なカフェをしていそうな雰囲気だ。
「あの、ここはお2人でやられてるんですか?」
「そうですよ。私の父から受け継いで、彼女に手伝ってもらいながら営んでいます。」
話を聞けば、このバーは高井さんの父が開いたものらしい。けれども、その父は定年でスパッとマスターを引退し、夫婦で世界旅行に行ってしまったそうだ。なんだその人生。ちょっと羨ましいぞ。
「それにしても、お2人だけでお店をやられているなんて凄いですね。」
「いやあ、そんなことないですよ。」
高井さんは恥ずかしそうに苦笑して、僕の肩越しに店内を見渡す。
「見ての通り、閑古鳥が鳴いていまして。」
「私が子どもの頃は、近所のおじさんたちがよく集まってたんだけどね。」
梶浦さんが、そう言って短くため息をつく。そこで僕の頭に、1つの疑問が浮かんだ。
「梶浦さんは、どうして先代の頃を知ってるんですか?まさかっ、未成年の頃からここで飲酒を」
「そんなわけないでしょ!私の父親が常連だったから、よく連れて来られてただけよ!」
鋭いツッコミと眼光が向けられる。で、ですよねー、あはは、と冷や汗交じりに答えつつ、頭の中にはまた新たな疑問が生まれた。
「でも、その時来てくれてたおじさんたちはどうしちゃったんですか?」
「えっと、それは……。」
高井さんは、言いづらそうに口をもにょもにょ動かす。せっかくの長身が丸まって縮こまっていく。
「最近はもう、来なくなってしまいましたね。」
「えっ、それはどうして?」
「おじさんたち、私の父も含め、みんな先代とおしゃべりしに来てたからねー。」
「あー……。」
先代が引退した後も、しばらくは来てくれていたそうだが、高井さんがジェネレーションギャップを埋められず、徐々に客足が減ってしまったそうだ。そんな薄情な、と思うが、話の合わない人の店に義理で通うには、バーはコスパが悪すぎるらしい。ドキッ、として財布を確認してみる。幸い、持ち合わせはありそうだ。あぶなー。
「常連さんが離れてしまうと、大変ですね。少し奥まったところにあるし、新しい人はなかなか見つけられないかも。」
「そう、だから」
高井さんが俄に僕の目線に合わせて見つめてきた。店の雰囲気によく似た、温かみのある茶色がかった瞳がキラキラしている。
「私たちと同年代の、君みたいなお客さんがとても貴重なんです。もしよかったら、うちの常連になりませんか?」
「お酒を出してもないのに、答えられるわけないでしょ。」
梶浦さんが高井さんの肩をペンッと叩く。すると高井さんはハッと我に返り、
「すみません。せっかく来てくださったのに、お酒も出さず。どちらにいたしましょうか。」
と言って、メニューを開いて見せてくれた。黒い背景に色とりどりのカクテルが並び、簡単な説明が添えられている。
「えっと、実は、バーに来るのが初めてで。お酒も、あまりたくさんは飲めないんですけど……。」
「普段は、どんなお酒を飲まれます?」
「ビール、とか。でもそんなにおいしいと思って飲んでいる訳ではなくて。飲み会だから、とりあえずビールって感じで。度数が低くて、ジュースみたいなのの方が、飲みやすくていいと思うんですけど……。」
ふむ、と高井さんが考え込む。あれ、困らせてる?あっ、お酒を出すお店で、ジュースみたいなのがいいって言うの、もしかして失礼だった?うう、やっぱり、お酒好きじゃないのにバーに来てはいけなかったんだ。
「すみません、あまりお酒飲めないのに……。」
「え?ああ、いや。」
高井さんが慌てたように手を振る。
「お酒が苦手だったり、あまり飲めない人こそ、お気に入りの一杯を見つけるのが大事なんです。それでどんなお酒がお口に合うか、考えていました。」
そう言って、高井さんはメニューの右下にある黄金色のグラスを、きれいに指を揃えた手で指し示す。
「こちらの『ミスティアジンジャー』は、いかがでしょうか。」