大切なもの
「なるほどねえ。」
前のめりの姿勢から椅子の背もたれに深く腰掛け、仁君が大きく息をつく。教師の卵らしいだけあって、上手に相槌を打ちながら聴いてくれたおかげで、じっくり話すことができた。
「河井さんの言うことも、もっともよねえ。真正面から現実を叩きつけられて、ショックだったわけだ。」
「うっ……そうです。」
分かっていたことだけど、改めて他人の口から聞くとつらいものがある。
「あたしなりに、クライアントのことは調査して、考えて作っているつもりなんです。でもなかなか受け入れられなくって……。今、どんなデザインを描けばいいのか、何も見えないんです。」
仁君とゆかさんがうーん、と唸ったっきり黙り込んでしまう。当然だ。デザインなんて2人からしたら全く違う畑の話だし、悩みへの助言なんてそう簡単にできっこないもの。いいんだ、話せただけで随分すっきりした。そう思って話を変えようとすると、
「奈央さん、ティツィアーノって知っていますか?」
高井さんから、変な質問をされた。
「ティツィ?……いえ、知らないですけど……外国のお菓子ですか?」
「違う違う。ティツィアーノ・ヴェチェッリオ。ヴェネツィア派でとても有名な画家ですよ。その独特な色彩感覚で描かれた絵は後世の様々な画家に影響を与えただけではなく、日本の作家、高村光太郎の『智恵子抄』にも、高貴な女性のイメージとして取り上げられているんです。」
「は、はぁ、そうなんですね……。」
急な早口でびっくりした。隣で仁君とゆかさんがひそひそと話している。(マスター急にどうしちゃったんですか?)(分かんないけど、急にスイッチが入っちゃったみたい。)なんて声が聞こえてくる。
「それで、そんな凄い画家さんが、あたしの悩みとどう関係があるんですか?」
「おっと、そうだったね。」
コホン、とひとつ咳払い。そうして、どっかいっちゃってた眼差しを、あたしに向け直す。
「奈央さん。ティツィアーノが評価されたのは、豊かな色彩だけではないんです。彼の凄いところは、多くのモデルの特徴を掴み、その表情を鮮やかに描いたことなんです。」
「表情を……?」
「『表情を描く』ということは、『感情を写し取る』ことだと私は思います。奈央さんは、自分のデザインを受け取った人の、どんな感情を想像してデザインを組み立ててきましたか?」
「それは……。」
考えたこともなかった。あたしはただ、自分のデザインを認めてほしくて。誰か1人にでもいいから、褒めてもらいたくて。がむしゃらな頑張りが、早く報われてほしくって。そんなんだから、相手の喜ぶ顔が二の次になっちゃってたんだ。
胸の奥がキュッとなる。デザインの仕事への向き合い方だけではなくて、人としての接し方が悪かったから。仕事で一人前になる以前に、人として未熟だった。なんで気づかなかったんだろう。
「奈央さん。」
高井さんに名前を呼ばれる。昨日失礼なことをして、叱られてもおかしくないのに、その声は柔らかく温かだった。
「今、自分の行いを振り返ってだめな人間だと思っていませんか?」
「……はい。人として未熟で、失礼だと思ってます。」
「うん。でも、あなたは昨日初対面の私たちとすぐに打ち解けていましたね。それは、私たちがあなたという人間を好きになったからです。今はだめだと思っているかもしれないけど、実はそれを補う素敵な一面があるはずです。」
「素敵な、一面……。」
「そうそう。」
隣の仁君が相槌を打つ。
「人の心は多面体だから。色んな一面があって、その全部が奈央ちゃんなんだしさ。僕はここにいるときの奈央ちゃんしか知らないけど、なんかこう、ほっとけない感じがするんだよねー。」
「一生懸命だし、いい子なんだなってのが伝わってくるわよね。」
「なによ、それ……。」
とてもざっくりとした感想。いい加減だけれど、悪い気は全然しなくって、胸の奥がくすぐったくてじんわりする感じがした。
「ありがとうございます。話してみて、少し光が見えた気がしました。素敵な一面は、今は思い浮かばないけれど……これから、探していこうと思います。」
「それならさ。」
仁君がパァッと明るい顔で身を乗り出す。
「またここに来て、一緒にお話ししようよ。よく言うじゃん、『人は鏡』って。誰かと向き合うことは、自分と向き合うことにつながるし、ね?」
そう言って高井さんの方に顔を向けると、
「そしたら、新しい常連も増えますもんね!」
にやり、と口の端を上げた悪い顔をして言った。
「ナイスです。仁君。」
と親指を立てる高井さんと仁君の頭を、ゆかさんがメニュー表でぺしっと軽くはたく。その姿を見て、ぷふっと思わず吹き出した。その瞬間、胸の奥で張り詰めていた何かがふっと緩んだ気がした。こんなに自然に笑みがこぼれたのは、いつぶりだろう。柔らかくてあったかい笑いが、あたしたちだけの空間を優しく包み込んだ。




