嵐がやってきた
「これじゃあダメだわ。」
インスタグラムを開設し、やいのやいの言いながら店の外観と看板を撮って投稿した明くる日。カウンターには新規のお客様が座っていた。大変喜ばしいことである。そのお客様である女の子に、説教されていることを除けば。
「レトロでかわいらしい建物と、丁寧な言葉遣いの文章を見て、どんなに渋いおじさまがやってらっしゃるお店なのかと思ったら、若いバーテンとお客しかいないじゃない。すっかり騙されちゃったわ。」
「分かる。僕も最初おんなじこと思ったよ、うん。」
説教される側からさらっと寝返った仁の隣。女の子がオレンジ色と黄色のグラデーションの鮮やかなカクテルを、むくれた顔でストローを咥えてズズッと啜る。こらっ、女の子にお酒を提供したらいけないでしょっ!と思ったそこのあなた。安心してほしい。『女の子』と言ったが、彼女は立派な成人女性だ。ただ、栗色のポニーテールを不機嫌そうに揺らしながら、ほんのりピンク色に染まった頬をぷくりと膨らませているその容貌は、やはり『女の子』と形容するのがしっくりくるのだ。実際、隣の仁の口調も、まるで教え子を宥める先生のように柔らかい。
「奈央ちゃんも、お店の雰囲気にちょっと緊張して、ドキドキしながらあの扉を開けたんだね。僕も少し前に同じ思いをしたなあ。」
「奈央ちゃんゆーな。それに、素敵なお店だとは思ったけど、緊張はしてないわ。あたし、こう見えても立派なオトナの女性だから。」
「見た目、気にしてるんだ。大丈夫よ、可愛らしいから。」
「う、うるさいわね!ちょっとスタイルが良くてキレイだからって!」
だめだ、毒づくつもりなのに、素直な感想が漏れてしまって叱られた気がしない。すっかり母性とか嗜虐心を刺激されているゆかと仁を窘め、健が話を本筋に戻す。
「えっと、奈央さん。それで、このお店のダメなところですが。君のさっきの話だと、外観にそぐわず若いバーテンしかいないことが残念、と言うように聞こえたのですけれど。」
健の質問に他の2人がひとまず黙ると、奈央は浮きかけた腰を椅子に下ろして、仕切り直しをするように、コホンと咳払いをする。
「いいえ、違うの。若い方たちがこのお店をやっていることに問題はないわ。多分だけど、お家の仕事を継がれているのでしょう?それは素晴らしいことだわ。」
少女がカクテルを傍らに高飛車な態度で褒めちぎってくる。何ともあべこべな状況に、調子が狂いそうになるが、ここで崩れては堂々巡りだ。珍しく褒められて緩みかけた口元をあわてて結び、今度は健がンンッと咳払いをする。ふぅ、あぶなかった。
「ありがとうございます。では、何がダメなのでしょう?」
「さっきは話の途中だったの。あたしがダメだと思ったのは、インスタの発信からお店のニーズが分からないことよ。」
「お店のニーズ?」
「そう。今の時代、お客さんがお店を選ぶだけじゃないわ。お店が来てほしいお客さんを選ぶの。そのために、お店側がターゲットにする層を決めて発信するんだけど、あたしがここの投稿を見て感じたのは、中高年の人向けのお店ってこと。」
そう言って、奈央はバーのアカウントを開いてみせる。暗がりの中、灯りに照らされた温かい橙色の看板の写真。その下には、『美味しい料理とお酒を味わう心地よいひとときが、あなたの心をほぐします。』の文字。
「こんな落ち着いた投稿、よっぽど渋好みの人のアンテナにしか引っかからないわ。」
「んー、言われてみれば確かに……。」
仁が顎にグーを添えて唸る。この投稿文を考えたのは仁だ。「僕がこの店に感じた魅力をばっちり表しますよ。」と意気込んで打ち込んでくれたもので、健とゆかもその仕上がりに満足していた。けれども、こう改めて見ると確かに渋い。少なくとも、初めてバーに来るような若者にとっては、敷居が高く感じそうだ。
「なら、発信する内容が若者向けになるように工夫するといいのですね。」
その健の言葉を待ってましたと言わんばかりに、奈央のピンク色の顔がみるみる紅に染まる。
「それもいいけど、それだけじゃ足りないわ。若者を呼び込むには、若者が惹きつけられる見た目が大切よ。」
そう言って奈央は椅子から降り、鞄から1冊のスケッチブックを取り出す。そしてバラバラとページを捲ると、あるページで手を止め、ガバッと開いて見せた。そこには、正方形に縁取られた中に黒字の筆記体で斜めに書かれた店名と、右隅にはボトルとグラスのシルエットが配置されたスタイリッシュなデザインが描かれている。
「これ、看板……?」
スケッチブックをのぞき込んで呟いたゆかに、「そう!」と奈央が嬉しそうに答える。
「若者を呼び込むにあたって、この店のネックは年季の入った目立たない看板。そこで看板を思い切って若者向けに変えちゃうの。文字通り、お店の看板が若者向けになれば、お店の敷居が低くなるわ。」
早口で勢い込む奈央の隣、ゆかと仁が興味津々でスケッチブックを覗き込む。
「うーん、なるほど。確かにかっこいいね。写真映えしそうだし、流行りのインスタスポットとして話題になるかも。」
仁の頷きに「でしょでしょ!」と奈央がにこにこ顔で答える。その度、栗色のポニーテールが、嬉しそうにぴょこぴょこ跳ねる。
「どう?あたしにこのお店の看板のデザイン、任せてみない?」
そうして健に自らのデザインを売り込む奈央。ゆかと仁が見守る中、黙ってスケッチブックを見ていた健が口を開いた。
「いや、結構です。うちの店にその看板は似合わない。」
空気が、ピシリと固まる。
「あっ……」と小さな声を聞いた仁が振り向くと、スカートをギュッと握った奈央が、肩を震わせて俯いていた。その様子を見て、ゆかがカウンターの奥から駆け寄ろうとする。しかしそれに気づいたのか、奈央は微かに口を動かした後、スケッチブックと鞄を引っ掴み、乱暴に札をカウンターに叩きつけて出て行ってしまった。
仁が、困惑した視線をカウンターの奥に向ける。健は、出て行った奈央と入れ替わりに肌寒い風を呼び込む扉を、温かいけれども悲しげな表情で見つめていた。




