食欲の秋……?
ついこの間までそこにあった熱気を攫っていくような、夜風が吹いている。月がいつもより明るく、くっきりと映っているように見えるのは、ひんやりと澄み切った空気のせいだろうか。
10月。古くから人々は、月を眺めて歌を詠んだり、お団子を食べたりして、この季節の長い夜を楽しんできた。それは今も変わらず、美味しい料理を肴に一杯、といきそうなところなのだが―。
「お客さん、来ないですねー……。」
健がシェイカーを振る音だけが響く店内に、仁の独り言が虚しく漂う。今日の仁は、実習中のスーツや、スーパーで会った時のジャージではなく、紺のジャケットと水色のシャツに焦茶色のネクタイ、ベージュのチノパンに黒いローファーという出で立ちだ。仁曰く、「バーの似合うおしゃれな大人の格好」らしい。健とゆかからみれば、「学生が精一杯背伸びした格好」にしか見えないが、他にお客さんも来ないし、仁があまりになりきっているので、そっとしている。
「食欲の秋って言うし、少しぐらい賑わってくれても良いんだけどね。はい、どうぞ。」
「ありがとうございます。そうですよね。ここ、お酒も料理も美味しいのに。どうして人気が出ないんでしょう。」
ゆかから差し出された料理を、仁が口に運ぶ。赤身の鮮やかな鴨肉のローストに、こんがりと焼き色のついた茄子と茸が添えられ、一筆書きのような美しい曲線で、赤ワインのソースが描かれている。それらを噛み締めるようにじっくりと味わって飲み込むと、「うん、美味しい。」と改めて呟いた。
「うーん。バーに来る目的が、食事だけではないからでしょうか。」
「バーに来る目的?」
「はい。食事を楽しむことも、目的のひとつにはなるのでしょうが、やはり人と語らいに来ることが大きな目的になるのではないかと思います。」
「たしかに、お客さん同士やバーテンダーとの交流の場としての一面もあるわね。私の父さんも、おしゃべりをしにきているような感じだったわ。」
「それ分かります!僕も、初めて来たときから何故かお悩み相談しちゃって、その上、解決までしてもらって。ここにいると、普段人に話せないようなことも話せちゃいそうな気がします。」
「それだけ仁君にとって落ち着ける場所になっているのなら、嬉しいですね。」
健がシェイカーを開け、そっとカクテルをグラスに注ぐ。深い橙色の板の上に、優しい月明かりのようなカクテルが差し出された。
「贅沢を言えば、仁君のお友達にとっても、そのような場所になればよいのですが。」
「それも考えたんですけど、みんなには内緒の隠れ家にしたいんです。ここが大学生で賑わったら、せっかくの落ち着いた雰囲気が、居酒屋みたいになっちゃいますよ。」
そう言って仁はグラスを傾ける。甘さのない柑橘の爽やかな香りと、スッキリとしたアルコールの苦みが広がる。
「とはいえ、お世話になりましたし、僕も力になりたいとは思ってます。そうだ、お店のサイトとかあったら、レビュー書きますよ。」
仁がそう言ってポケットからスマホを取り出し、顔を上げる。すると目の前には、ポカンと間抜けに口を半開きにして固まった2人組がいた。
「えーっと……、ゆか、うちって店のホームページあったっけ?」
「あー……、えと、見たことない、ね。」
「え?あ、じゃあインスタとかSNSで」
「やってないですねぇ……。元々、父の仲間内の人たちに支えられてやってきたものですから……。」
「えぇー……。」
そんなの人来なくて当たり前じゃないですか!という言葉が喉まで出かかったが、何とか心の中でツッコむことで踏みとどまった。思えば、マスターは落ち着いているように見えて、どこか抜けてるところがある。ゆかさんは頼りになるけれど、料理とマスターのことしか頭にないようなところがある。唖然とされて恥ずかしくなったのか、そそくさと皿を片付けたり、グラスを拭いたりしている目の前の2人に代わって、僕が何とかしなくては、と仁は静かに心に決めた。
「あの、僕で良かったら教えましょうか。インスタでお店のアカウント作るくらいなら、簡単にできますし。」
「え、いいんですか?ありがとうございます。助かります。」
早速、健と仁がスマホをつき合わせ、その間からゆかが覗き込み、3人でインスタグラムのアカウントを開設する。そして、
「できた!こんなに簡単なんですね。」
「おめでとうございます!じゃあ早速、記念すべき最初の投稿をしましょう。」
「何にしようかな、やっぱり映えそうなお酒と料理?」
「待って健、店の外観を投稿して、それをプロフィール画像にするというのも」
「なら、どの角度で撮ると画になるか試してみましょうよ。」
とっぷりと夜も更けた暗がりの中。あーでもない、こーでもないと言いながら写真を撮り始める3人。その頭上では、かすみがかった月が、ぼんやりとした明かりを散らして浮かんでいた。




