教鞭とカウボーイ
「へ?どういうことですか?」
暖かな明かりが、3人を柔らかく照らす。深い飴色の店内は、土曜日だというのに、やっぱり仁の他に客がいない。それ故、間の抜けた仁の声がコーン、と店内に反響する。
「だから、竹井さんが筆箱を消毒してたのは、潔癖症だからです。」
「いや、だから、どうしてそう言い切れるんですか?」
あまりにあっさりと健が言い切るものだから、仁はさっきから鳩が豆鉄砲を食らった顔のままでいる。
「学校で竹井さんの支援をしていたのは、仁君だけなんですよね?」
「ええ、そうです。酒井先生にお願いされたので。」
「竹井さんは、休み時間は何をして過ごしていますか?」
「えーと、一緒に外では遊んでいないです……あっ、そういえば授業の前に戻ると、絵を描いていることが多いです。」
「ということは、竹井さんの持ち物に日常的に触れていたのは、仁君だけということになりますね。」
「そうですね……。けどそれだけじゃ、消毒するのは、僕のことが嫌いだからか、潔癖症なのか、どっちか分からないです。」
「そうです。だからこの間、彼女に会って直接確かめることにしたのです。」
「そう、そうですよね。そこで何が分かったんですか?」
仁が期待と不安の入り混じった様子で、健に向かって前のめりになる。そっと肘に触れたグラスの水が揺れる。3人の間の空気が、静かな緊張を帯びる。
「まず、1つ目。スーパーで会ったとき、竹井さんは店を出る前に、お手洗いに寄っていました。」
「え?それはただ、トイレに行きたかっただけじゃない?」
ゆかが、なぜそれが理由になるのか、と不思議そうに問いかける。それに健は頷くように笑いかけ、言葉を継ぎ足していく。
「そうだね、それだけじゃ理由にならない。だから、仮説を立てたんです。あの時、竹井さんは用を足しに行ったんじゃない。手を洗いに行ったんじゃないか、と。」
ふむ、とゆかが頷く。その様子に促され、健がさらに言葉を紡いでいく。
「その後、ゆかと一緒に竹井さんの家に先回りして、連絡袋を渡しました。あの時、竹井さんは、最初私から連絡袋を受け取ることを拒みました。」
「そういえば、そうだったね。……あっ、それって、さっきせっかく手を洗ったのに、ってこと?」
「そう。けれども、母親に促されて、竹井さんは、渋々連絡袋を受け取りました。袋の端を、つまむようにして。―その手は、2年生とは思えないほど、ひび割れてがさついた手でした。」
「あぁっ!」
仁が突然大きな声を上げる。その声に弾かれた健とゆかの肩が、小さく跳ねた。
「言われてみれば、竹井さんはガサガサの手をしていました。けれど、それがまさか潔癖症によるものだなんて。」
目を丸くして驚く仁に、健はそっと笑いかける。
「そうです。だから、仁君は嫌われたわけではなかったんです。先生に向いてないわけでは、なかったんです。」
「そう、なんですかね。そうだったとしても……。」
驚きに大きく見開かれていた仁の目が、みるみるうちに伏し目がちになる。
「今までの実習で、色々考えてたんです。これまでのことと、これからのこと。元々、大学も後期試験で運良くギリギリで受かって。周りに置いていかれないように、頑張ってやってきたんです。大学の勉強はそれで何とかなってるんですけど、実習は実力の差を見せつけられました。みんな、子どもたちの意見への切り返しが上手で、落ち着いていて。こないだも、同じチームの仲間が代表授業をしたんですけど、すごく面白くて、子どもたちも、観に来た先生も楽しそうで……。けれども、僕が上手く授業ができたのって、初めの1回くらいで、後はもうテンパっちゃってボロボロ……。僕には先生としてやっていけるセンスがないなって、その時思っちゃったんです。」
「確かに、今の仁君が教壇に立っていたとして、私が子どもや同僚の立場だったら、向いてないなって思うでしょうね。」
「ちょっと健。そんな言い方はないでしょ。」
今までどんな愚痴も穏やかに聞いてくれていた健からの厳しい言葉に、仁は一瞬目を丸くする。そして力なく、歪めた口の端から、ため息のように湿った笑いが滑り落ちた。
「でもいいんですよ、それで。今センスがなくったっていいんです。センスって、経験で買えますから。」
さっき胸の一番柔らかいところを鋭く刺してきた言葉とは一転して、温かな滴のような言葉が降ってくる。その優しさに縋りたくって、ゆるゆると顔を上げる。
「センスを、経験で買うって……?」
「僕の思うセンスのいい人って、色んな経験をしている人なんです。そして、その経験の引き出しを、自由に開け閉めできる人。それは意識して心に留めているのか、もっと直感的に記憶に残っているのかは分からないけど。」
「新しい経験をして、その時に感じた気持ちとかを、引き出しとして持っておくってことですか?」
「んー、それもいいけど、仁君の経験から作られた、仁君にしかない引き出しが、きっとあるのではないですか?」
「僕にしかない、引き出し……。」
「そう。きっとそれが、仁君の先生としてのセンスであり、強みです。」
実習で褒められたことを思い返してみる。今まで褒められたことや、一生懸命に取り組んだことも思い返す。振り返れば、思ったよりも早く、それは見つかった。
「僕の強みは……子どもの心に寄り添うことです。子どもの力になりたくて、その子のことを少しでも理解しようと、一生懸命になれることです。」
仁の瞳に、内から明かりが灯るように光が宿っていく。その瞳を見て、健が温かく微笑む。
「そうですね。それが仁君の強みだと、私も思います。」
「それって、先生として大切な強みだよ、絶対に。それに、実力の差なんて、努力の差に比べればちっぽけなものだし。やっぱり、仁君は先生に向いていると思う。」
温かな言葉に、胸の奥がじんわりとぬくまっていくのを感じる。今まで噛み殺してきた不安や劣等感が、温もりに包まれて氷解していくのが分かった。
「ありがとうっ、ございますっ……。」
溶け出した感情が一気に湧き上がって溢れ出し、止められなくなる。仁は子どもの頃のように声を上げて泣いた。
ひとしきり泣いても、なお潤み続ける視界に、カウンターの奥から一杯のグラスが差し出される。
「これは……?」
「カウボーイ、というカクテルです。仁君は、カクテル言葉って、知っていますか?」
首を振る。花言葉のようなものだろうか。
「カクテルには、それぞれに意味を持たせる言葉があるんです。そして、カウボーイのカクテル言葉は『今宵もあなたを思う』。恋愛に使われるロマンチックなカクテル言葉ですが、子どものことを一生懸命に考えられる、仁君にぴったりなカクテルだと思います。」
グラスを受け取り、ゆっくりと傾ける。ウイスキーのほろ苦さの後に、優しいミルクの甘みが広がった。胸の奥にしまい込んでいた小さな決意が、輝きを増して言葉になる。
「マスター。ゆかさん。」
仁が涙を拭い、2人に向き合う。視界はもう、くっきりと開けている。
「僕、もう一度、目指してみます。小さい頃からの夢だった、先生を、もう一度。」
「そうですか!私も、それがいいと思います。」
そう言って健は、もう2人分のカクテルを作る。2つ並べたグラスにカクテルを注ぎ、1つをゆかに差し出し、自身も右手で掲げた。それを見て、2人もグラスを持ち上げて3人の中心へ向かい合う。
「では、仁君の再出発に向けて、乾杯しましょう。」
キン、と夏の夜空に煌めく星のような、グラスの音が響き渡る。まだ真っ白な仁が、このカウボーイのように、苦みを経て、より深い優しさをもつ人になれますように。そう祈りを込めて、健はそっとグラスを傾けた。




