秋川千鶴の場合39
数日後。私は例の会議室で笹原常務を待っていた。部屋の端っこにびっしり並べられた机と椅子。それらはまるで出番を終えた大部屋俳優のようにぽつりと佇んでいる。そこに温度はない。あるのは生でも死でもない。冷たい無機質さだけだ。
「ごめん。お待たせ!」
一〇分くらい待っただろうか。笹原常務が会議室にやってきた。彼女は見慣れた笑顔を私に向ける。
「お忙しいところすいません」
「いいのよ! それより珍しいわね。あなたが相談だなんて」
「ええ……。ちょっと」
思わず言い淀む。こうやって笹原常務と向き合うのは何年ぶりだろう。
「これを」
そう言って私はポケットから白封筒を取り出した。
「これは……。何かの冗談よね?」
当然の反応だろう。封筒に書かれた『退職願』という文字。そしてこのタイミング。全てが悪い冗談のようなシチュエーションだ。
「すいません。いきなりで」
私の口からは歯切れの悪い言葉しか出ない。仕方ないのだ。何を言ったって言い訳がましくなる。それなら「嫌になったから辞める」と言った方が余程潔いだろう。
「ふぅむ……。ねぇ、秋川さん。ちょっとそこに座って」
笹原常務は自分自身を落ち着かせるように言うと私に座るように促した。そして「ちょっと待ってて」と言って会議室から出て行った。
笹原常務が出て行ったあとの会議室は無人の歯医者のように薄気味悪かった。歯を削るドリルと薬品の嫌な匂い。それだけしかない空間のように居心地が悪い。窓の向こう側に見える景色さえ霞んで見える。
私はだだっ広い会議室でただただ座り痩けていた。そしてふと例のラッコのことを思い出した。井の頭公園近くの貯水池。そこに居たあのラッコのことだ。確か名前は潮田楽尾……。そんなファンタジーな出来事が脳裏に浮かぶ。
その出来事はまるで夢のようだった。もしかしたら夢だったのかも知れない。そう思うくらいには非現実的な出会いだったと思う。まぁ……。私の名刺フォルダーに彼の名刺が入っているのでどうやら現実の話ではあるらしいけれど。
「水原雪乃、中央線快速、井の頭第三貯水池、ラッコ、白鯨、光の人間、善悪の知識の木の実」
私は誰も居ない会議室でそんな何の関連性もない言葉を口にした。それは記憶の整理だったり、気持ちの整理に近い感覚だ。言葉にしなければますます混乱する。だからあえて口に出す。要は小学生が算数のテストで九九を諳んじるアレだと思う。
再び窓に目を遣ると雨粒が滴っていた。雨。そして東の空が一瞬光る。
果たしてあのラッコはこの雨の中どうしているだろう? そんなことを思った。まぁ、彼はラッコなので多分大丈夫だとは思うけれど。




