秋川千鶴の場合13
再び夜を越えた。意識があったかどうかさえ定かでない。そんな時間を越えて朝がやってきた。雀の声は聞こえない。代わりに大きな雨音が聞こえた。昨日は夕日が綺麗だったのにどうやら今日は朝から雨らしい。空は厚く黒い雲に覆われていた。
最悪な気分だ。駅の階段も電車内も雨でぐしょぐしょだと思うと気持ちが萎える。想像上の雨の駅は私を落ち込ませるには十分な見た目をしているのだ。あの雨の日のドブ臭さ。新宿の街を包み込むのじっとりとした空気。
そんな陰鬱な気分のまま私は朝のルーティンを始めた。歯磨き、洗顔、給湯。その全てに水が関わっている。口に広がるミントの香りも洗顔フォームの爽やかな香りも全て水で広がっていく。水は全ての触媒だ。そんな古代の哲学者みたいな感想を持った。ソクラテスもプラトンもこんな雨の日に哲学的発見をしたのかも知れない。
朝食を済ませてから身支度を調えた。化粧もいつも通りした。ここまでは毎朝のルーティンと同じ。
傘とパンプスに防水スプレーを振りかける。意味があるかは分からない。要は気休めだ。占いと一緒。どれほど効果があるかはさっぱりだけれどやらないよりはマシ。そんな感じだ。まぁ、科学的に開発されただけ防水スプレーのほうが優秀だろう。占いは心理学や脳科学、あとは精神医療的ではあるけれど結局は眉唾だ。精神的弱者を食い物にする商売。それよりはシンプルに雨に濡れにくくなるほうが何倍も有益だと思う。
玄関でパンプスに足をねじ込みながらため息が零れた。
雨の新宿駅。それは私が嫌いな場所ベストスリーに入る。中高年男性の汗のような匂いが充満し、息を吸うだけで気分が悪くなる。そんな場所だ。
改札前のキヨスクの店頭に並ぶ新聞達は雨を避けるようにビニールのカバーで覆われていた。外界と遮断するようなカバー。ちょっと新聞が羨ましくなる。
私も新聞と同じようにビニールに覆われたい。そうすればあの最悪な匂いも届かないのに。そんな馬鹿みたいな考えが浮かんだ。それぐらいには最悪な空気なのだ。雨に乗って不浄なものが駅全体に充満している。そんな悍ましい光景が脳裏に浮かぶ。
新宿駅西口を出ると大粒の雨が地面に降り注いでいた。雲は日の光を完全に遮るほど厚い。雲と地上の間には雨の線が無数に広がっている。点となって雲から零れ落ちた雨粒は線のように降り注いでアスファルトに落ちる。それから無数の雨粒は集まって面を形成していく。
点、線、面。それらはやがて立方体のように質量を持つだろう。雲だった水のかたまりはやがて川になり、海にたどり着いて空に帰るのだ。そして最初に戻る。繰り返し。山手線のような円環。
それから私は駅前のコンビニで栄養ドリンクを買った。今日はおそらく最悪な一日になる。私の直感はそう囁いていた――。




