↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
26/74

菱沼浩之の場合15

 どれほどその海水プールで過ごしただろう? 窓から見える広葉樹の様子から季節を二つは飛び越えたようだ。ここに来た頃は茜色だった木はここ数日のうちに新芽を吹いた。おそらくは春。そんな季節だ。

 その頃の僕はすっかり牙を抜かれ(比喩的な意味だ)大人しくなっていた。相変わらずイカはシャリシャリしていたし、飼育員の女性は優しかった。猫かわいがり。そんな言葉がぴったりだと思う。ラッコを猫かわいがり。正直笑えない。

 こうしてこの檻のような箱庭で年老いて死んでいくのか。そんな予感が夜のたびに押し寄せてきた。波も立たないこんな狭いプールで一生を終えそうだ――。それはどう足掻いても絶望だった。あの大海原でシャチに追われていたときのほうが生きていた。本気でそう思う。

 こうして安全な場所にいるとつくづく思う。生きるためには常に命を落とす危険性が必要なのだ。安全な場所でぬくぬく命を保ってはいけない。それはゆっくりと自殺するのと同義だ。生物学的な『生』だけでは生きているとは言えない。『生』とはもっと生き物の本質的なものなのだ。それは『魂』だとか『自我』だとかそういった存在――。あるいは『神』のような存在かもしれない。そんな超常的な存在が徐々に失われる。それは非常に恐ろしいことだと僕は思う――。


 そんなある日。僕は狭いプールから連れ出され冷たい鉄製の檻に閉じ込められた。その檻は非常に黒く、まるであのヒレ三日月のシャチのようだった。まぁ、ヒレ三日月のシャチの方が温かみがあるとは思うけれど。

 檻に入れられると僕は大きなトラックに積み込まれた。トラックの横っ腹には大きな口をした鳥の絵が描かれていた。見たことのない鳥だ。ウミネコやカラスとも違う。

 それから僕はトラック荷台の閉じ込められる羽目になった。僕以外には大型の魚(おそらくサメの仲間だと思う)とメスのカワウソがいた。(当時の僕はその生き物がカワウソだとは知らなかったけれど)

「これからどこへ行くんだろう?」

 僕はなんとはなしにカワウソに話しかけた。

「あら? あなた知らないの? 今から本州の水族館に行くのよ」

「そうなのかい? 僕はてっきりシャチの餌にでもされるのかと思ったよ」

「シャチってあの大きなイルカみたいなやつ?」

「そうそう。奴らは僕の天敵なんだ」

「そうなのね……。でも大丈夫よ。今から行くのは大洗と江ノ島だからね。あ、私が江ノ島で君が大洗のはずよ」

 なんでこんなに詳しいのだろう? 僕は自然な疑問としてそう思った。

「ずいぶんと詳しいんだね」

「アハハ、まぁねぇ。私もあの水族館長かったからね。芸だって上手かったのよ?」

 そう言うと彼女は戯けたように胸を抱えてうずくまった。

「だ、大丈夫?」

「大丈夫! 死んだフリだから! ね? 上手いでしょ?」

 彼女はケタケタ笑いながら再び死んだフリをした。

「それって面白いのかい?」

「たぶんね。正直私にはわからないわ。でも人間はこういうの好きみたいよ? 可愛い毛むくじゃらは人間に可愛がられるのよ」

 あざとい。と僕は思った。なんてあざとさだ。どうやったら人間が自分に甘くするかよく理解している。

「そういえば自己紹介がまだだったね。私はチェリー。見ての通りカワウソよ。あなたは?」

「僕は……。名前なんてないよ。種類はラッコだね。人間たちはそう呼んでた」

「あらぁ。名前貰えなかったのね。可哀想に」

 何が可哀想なのか理解できない。名前があると何かいいことがあるのだろうか?

「まぁいいわ。名前がないなら『ラッコ』さんって呼ばせて貰うわね」

「それでいいよ。幸いここには僕以外ラッコも居ないしね」

 そんな話をしていると懐かしい匂いが鼻を突いた。海の匂いだ。あの人工的なプールとは違う。本当の海の匂い。

「あら? そろそろフェリーに乗るみたいね」

 チェリーはそう言うと檻の格子をがっしり掴んだ。

「あなたも掴んだほうがいいわよ。フェリーに乗り込むときはすごく揺れるんだから」

 フェリーってなんだ? 海の近くに来たのは確かだけれど……。

 まぁいい。とりあえず彼女の言葉に従おう。その方が賢明だと思う。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。