菱沼浩之の場合15
どれほどその海水プールで過ごしただろう? 窓から見える広葉樹の様子から季節を二つは飛び越えたようだ。ここに来た頃は茜色だった木はここ数日のうちに新芽を吹いた。おそらくは春。そんな季節だ。
その頃の僕はすっかり牙を抜かれ(比喩的な意味だ)大人しくなっていた。相変わらずイカはシャリシャリしていたし、飼育員の女性は優しかった。猫かわいがり。そんな言葉がぴったりだと思う。ラッコを猫かわいがり。正直笑えない。
こうしてこの檻のような箱庭で年老いて死んでいくのか。そんな予感が夜のたびに押し寄せてきた。波も立たないこんな狭いプールで一生を終えそうだ――。それはどう足掻いても絶望だった。あの大海原でシャチに追われていたときのほうが生きていた。本気でそう思う。
こうして安全な場所にいるとつくづく思う。生きるためには常に命を落とす危険性が必要なのだ。安全な場所でぬくぬく命を保ってはいけない。それはゆっくりと自殺するのと同義だ。生物学的な『生』だけでは生きているとは言えない。『生』とはもっと生き物の本質的なものなのだ。それは『魂』だとか『自我』だとかそういった存在――。あるいは『神』のような存在かもしれない。そんな超常的な存在が徐々に失われる。それは非常に恐ろしいことだと僕は思う――。
そんなある日。僕は狭いプールから連れ出され冷たい鉄製の檻に閉じ込められた。その檻は非常に黒く、まるであのヒレ三日月のシャチのようだった。まぁ、ヒレ三日月のシャチの方が温かみがあるとは思うけれど。
檻に入れられると僕は大きなトラックに積み込まれた。トラックの横っ腹には大きな口をした鳥の絵が描かれていた。見たことのない鳥だ。ウミネコやカラスとも違う。
それから僕はトラック荷台の閉じ込められる羽目になった。僕以外には大型の魚(おそらくサメの仲間だと思う)とメスのカワウソがいた。(当時の僕はその生き物がカワウソだとは知らなかったけれど)
「これからどこへ行くんだろう?」
僕はなんとはなしにカワウソに話しかけた。
「あら? あなた知らないの? 今から本州の水族館に行くのよ」
「そうなのかい? 僕はてっきりシャチの餌にでもされるのかと思ったよ」
「シャチってあの大きなイルカみたいなやつ?」
「そうそう。奴らは僕の天敵なんだ」
「そうなのね……。でも大丈夫よ。今から行くのは大洗と江ノ島だからね。あ、私が江ノ島で君が大洗のはずよ」
なんでこんなに詳しいのだろう? 僕は自然な疑問としてそう思った。
「ずいぶんと詳しいんだね」
「アハハ、まぁねぇ。私もあの水族館長かったからね。芸だって上手かったのよ?」
そう言うと彼女は戯けたように胸を抱えてうずくまった。
「だ、大丈夫?」
「大丈夫! 死んだフリだから! ね? 上手いでしょ?」
彼女はケタケタ笑いながら再び死んだフリをした。
「それって面白いのかい?」
「たぶんね。正直私にはわからないわ。でも人間はこういうの好きみたいよ? 可愛い毛むくじゃらは人間に可愛がられるのよ」
あざとい。と僕は思った。なんてあざとさだ。どうやったら人間が自分に甘くするかよく理解している。
「そういえば自己紹介がまだだったね。私はチェリー。見ての通りカワウソよ。あなたは?」
「僕は……。名前なんてないよ。種類はラッコだね。人間たちはそう呼んでた」
「あらぁ。名前貰えなかったのね。可哀想に」
何が可哀想なのか理解できない。名前があると何かいいことがあるのだろうか?
「まぁいいわ。名前がないなら『ラッコ』さんって呼ばせて貰うわね」
「それでいいよ。幸いここには僕以外ラッコも居ないしね」
そんな話をしていると懐かしい匂いが鼻を突いた。海の匂いだ。あの人工的なプールとは違う。本当の海の匂い。
「あら? そろそろフェリーに乗るみたいね」
チェリーはそう言うと檻の格子をがっしり掴んだ。
「あなたも掴んだほうがいいわよ。フェリーに乗り込むときはすごく揺れるんだから」
フェリーってなんだ? 海の近くに来たのは確かだけれど……。
まぁいい。とりあえず彼女の言葉に従おう。その方が賢明だと思う。




