28・毒と涙と記憶の欠片
毒蜘蛛の青年・ヒューゴはパニックに陥っていた。
痛い。苦しい。気持ち悪い。アビーが何か叫んでいる声が、聞こえる。
「あぐっ……!!が……ぎぃ……いっ……!」
苦痛の呻き声と共に、ゴボリと血の塊を吐く。己の命が身体の外に流れ出す感覚がわかった。
その上、ヒューゴを何よりも混乱させているのが、全く解毒が効かない事だった。
毒を無効にする体質の自分に効果のある毒をあの少女が所持していた事にも驚いたが、即座に体内で解毒薬を生成し始めた為、その時はまだ焦ってはいなかった。
だが、ありとあらゆる毒を想定して解毒薬を生成しても、一向に症状は緩和されない。
(何なんだこれは!麻痺毒でも神経毒でも出血毒でも効かない!クソッ!アビー!)
マズい。このままでは駄目かもしれない。薄れゆく意識を懸命に奮い立たせながら、ヒューゴは只管解毒薬を生成し続けた。
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「ゴード様!!」
真っ青になるティリンガストの前で、ゴードは壁に拳を叩きつけた。
「あれは、僕の世界の毒じゃない!何であんな物を彼女が!?」
ロキ。あの不和と混乱を好む男が、あの純粋な子に何かを吹き込み毒を渡したに違いない。
この世界に存在しない毒で、この世界の住人を傷付けた。世界の理に反した彼女は。
(私は、あんなに近くに居たのに……!)
ティリンガストは目が眩む程の怒りを、自分自身に覚えていた。
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「あ、兄貴……お嬢の使った、あの短剣……」
「お前の改造した短剣だな」
――闘技場はしんと静まり返り、苦しみにのたうつ青年ヒューゴの絶叫と、彼の名を呼ぶアビーの声が響き渡っていた。
「おい!」
先程離れていった筈のスサノオがジェイド達の元に戻って来た。その手は灰銀の髪の男・ロキの腕をしっかりと掴んでいる。
「痛いっすよ、もう」
「もう。じゃねぇよ。お前、あの小娘に何もしてねーっつったよな!?」
「してないっすよ」
ヘラヘラ笑うロキを睨み付けながら、じゃあアレはどう説明すんだよ、と毒に侵されている青年と立ち尽くす少女に向かって顎をしゃくる。
「別に?お嬢ちゃんが健気に”一人で戦う”って言うから。可哀想じゃないっすか。だからウチの子の毒を渡してあげただけっすよ」
「ヨルムンガンドの毒だったのかよ!」
「ねぇ、どういう事!?説明してよ!」
思わず額を押さえるスサノオの腕に、蒼白な顔のネリが縋り付いた。
「小娘の使った毒は、此方の世界には存在しない毒だ。有り得ない物を行使したら世界の理が歪む。理を穢した者は、罰を受けなければならない」
スサノオは憐れみを込めた眼差しでネリを見やり、慰める様にその肩に触れる。
「罰がどの程度のものなのかは分からない。只、一つ言えるのは、あの小娘は例えこの戦いに勝ったとしても、元の世界には絶対に戻れない。それどころか、命を保てるかすら分からない」
そんな、と呟きながら倒れそうになったネリをスサノオは支えてやり、慌てて手を伸ばして来たサフィールに引き渡す。
「俺は今、これと言った力は使えないが加護は与えられる。俺の加護を小娘に与えといてやるよ。それでもどこまで守ってやれるか分からないけどな」
********
芽亜は苦しむ青年を震えながら見つめていた。まさか、此処まで苦しむとは思っていなかった。このままでは彼は恐らく死んでしまう。
「もう良い!もう止めて!私が降参するから!ヒューゴを助けて!」
アビーの泣き叫ぶ声が響く。芽亜はゆるゆると顔を上げて彼女の方を見た。
「駄目だアビー!!」
口から大量の血を吐きながら、ヒューゴがそれを止める。
「オレは大丈夫だから!我慢してくれアビー!でないと……お前を抱き締められない……!」
仮面が娘の元に近寄り、何かを確認するかの様な仕草をした。アビーは暫く俯き、両手を震わせていたが、やがてゆっくりと首を横に振った。顔を上げ、真っすぐ青年だけを見つめる。
涙の筋を残したままの顔は、明確な決意に満ちていた。
◇
「すごいね、貴方のアビーさん。優しいだけじゃなくて、とっても強い人」
私とは、何もかも違う。力の抜けた芽亜の手から、短剣の柄が音を立てて落ちた。
「あ……当たり前だろ!お前みたいな……パートナーに捨てられる様な……性悪女と一緒にするな……っ!!」
性悪女かぁ。うん、そうかも。あの彼女なら、もしパートナーがいなくなってもあの時の私の様な事は絶対にしなかっただろう。潔く、現状を受け入れた上できっと前に進んで行った筈だ。
ううん、それ以前に、きっとパートナーに見限られたりはしなかった。私の様に。
ズルいな。貴方達は二人で居るのに。そんなに想い合っているのに。私には誰もいない。何も無い。
――何よ。だったらせめて、家に帰らせてくれたって良いじゃない……!
芽亜の瞳に、真珠の様な大粒の涙が盛り上がり、そして次々と零れ落ちていった。
◇
ヒューゴは血煙と共に荒い息を吐きながら、零れた涙を拭おうともしない少女を見つめる。
己の命にタイムリミットがあるのはどうやら変わらなそうだが、ただ一つ、気が狂いそうな激痛だけは和らげる事が出来た。解毒は諦め、ただ鎮痛だけを試みていたのが功を奏した様だった。
(何で、コイツが泣いてんだ)
思わず酷い物言いをしてしまったが、この少女の性質が悪くない事は何となくわかっていた。
死ぬ訳には勿論いかないがそれ以上に、今自分が死んでしまってはこの子にも良くない気がする。
とは言え、時間はそう残されていない。ヒューゴは賭けに出る事にした。
「……おい。早く降参しろよ」
毒に侵された身体を必死に引き摺り、芽亜に近付くと叫び過ぎて掠れた声で、脅しをかける。
そのまま前脚を大きく振りかざし、芽亜に向かって勢い良く振り下ろした。
勿論、本当に身体に当てるつもりは一切無い。ただ、毒の爪の恐怖に降参を申し出てくれれば、と願っただけだ。事実、ヒューゴは前脚を芽亜の身体から80センチ近く離していた。確実に少女に当たらない様に。
このまま少女が動かなければ。
◇
芽亜は振り上げられた蜘蛛の前脚を見た。鋭く尖った爪は毒々しい色をしている。ポケットに手を入れ、中を探る。其処には、もう片方のピアスが入っている。芽亜はソレを強く握り、そしてゆっくりと左側に身体を移動させた。
――振り下ろされる、毒の鉤爪の真下に。
◇
ヒューゴは目を疑った。威嚇のつもりで振り下ろした爪の方に、少女が身体を動かしたからだ。
「お前、何やってんだっ!?」
慌てて脚を止めようとしたが、毒で弱った身体に力が入らない。
「おい!馬鹿、避け……っ!!」
――遠心力で勢いを増す鉤爪は、その勢いのまま少女の左肩甲骨付近に深く突き刺さり、爪の切っ先が鎖骨下から突き出した。爪に貫かれ、血飛沫を上げた少女は崩れ落ちる寸前に、もう一つのピアスを青年に向かって投げつけた。青年の身体にピアスがぶつかり、割れ、中の金色の液体が体中を覆う。
「な、何だ、これ……」
あれだけ襲っていた苦痛が嘘の様に去り、むしろ身体中に力が漲って来るのが分かる。
少女に刃を当てられた、頬の小さな傷さえも跡形もなく消えていった。我に返った青年は、急いで少女の身体から爪を引き抜く。
少女は笑みを浮かべていた。先程までの何処か諦念に満ちたものでは無い、純粋なあどけない笑顔を。
◇
「嫌――――っっ!!」
ネリの悲鳴が響き渡る中、ジェイドはその場を動けないでいた。
メア。どうして。何でなんだ。名前を呼びたいのに声が出ない。駆け寄りたいのに足が動かない。
メア。やっと見つけたのに。元の世界に帰さなくて済むのに。お前は、また俺を置いて何処へ――
「ジェイド!」
バキリと頬を殴られ、我に返ったジェイドは仲間達がフィールドに向かって口々に叫んでいるのを見た。傍らには声を上げ、泣き崩れるネリ。途中から駆け付けた紅茶屋の店主夫妻が、それを支えている。
「レ、レン」
「通路に回っていたら間に合わないな。この防御結界を破ろう」
「無理ですよ!私達も試してみましたがビクともしません!ここは通路に回った方が」
テトラとカータレットが、結界に弾かれて傷めた手を押えながら、悔し気な顔をする。
「どいて」
レンが前に進み出ながら、右腕の袖を捲る。
「この結界は恐らく、どちらかの負けが確定するまでは解除出来ないんだ。でも”負け”を待っている時間は無い。ジェイド、僕がこじ開けるからネリさんを抱えて跳んで」
そう言うと同時に、レンは結界に向けて右腕を突っ込んだ。バチバチと激しい音が鳴り、体中に発動した防御魔法の電撃が襲い掛かる。
「レン!」
「もう、少し、だよ」
レンの、髪と同じ水色の瞳が金色に輝く。それと同時に、結界にピキピキと亀裂が入って行った。
その亀裂に残った左腕も差し込み、力ずくでこじ開けると、やっと人が一人通れる位の隙間が空いた。
「なぁ、レンって妖精族とのハーフなんだよな?」
「あ、あぁ。確か、親の片方が妖精族だって言ってた」
――『銀の鴉』の面々は、今更ながらある事に気が付いた。
「もう片方の親は?レンは一体、何とのハーフなんだ……?」
「開いたよ。ジェイド!」
レンの言葉を聞くと同時に、ジェイドはネリを抱きかかえ、こじ開けられた隙間に飛び込んだ。
********
「お前、一体何なんだよ!?」
ヒューゴは体内で必死に、少女に投与してやる解毒薬を生成していた。自身の爪に宿る、最強の毒は打ち込まれた周辺の組織を溶かし、細胞を破壊しながら全身を巡る出血毒。他に類を見ない強力な毒の為、解毒薬の生成に時間がかかる。
「クソッ!間に合わねぇ!」
瞳から次第に光を失って行く少女を前に、ヒューゴは二度目のパニックに陥っていた。
◇
――テーブルには4人分の夕飯。
――今日はお誕生日。ケーキは大好物のアップルパイ。私の?違う。私はチーズケーキが好きだもの。
――18歳の誕生日、おめでとう。
薄っすらと目を開ける。顔にポタポタと雫がかかる。誰か泣いてるの?
「メアちゃん!」
髪を撫でる、優しい手。私は知ってる。この手の持ち主を。あぁ、私にも居たんだ。私を大切に思ってくれる人が。こんな近くに。
「お……姉ちゃん……」
「芽亜!?」
「寧利……お姉ちゃん……」
弾かれた様に顔を上げた寧利は、なりふり構わず泣き叫んだ。
「ねぇ!お願い助けて!誰か、誰か私の妹を助けて!」
ヒューゴは芽亜に縋り付く寧利に苦し気な顔で詫びた。
「すまねぇ、アンタこの子の姉さんなんだよな?今、解毒薬生成してるんだけど、出血が酷くて間に合いそうにない……!」
「お姉ちゃん……」
「何!?芽亜、どうしたの?」
「芽亜ね……悪い事いっぱいしちゃったの……。だからこの血……使って……」
「え……?」
「お姉ちゃんには後悔して欲しくないんだ……私みたいに……」
芽亜は必死に手を伸ばし、寧利の胸元の小瓶を掴み、震える手で蓋を開けると、中に自身の血液を流し込んだ。
――寧利は思った。彼なら。私の彼なら、何とかしてくれるかもしれない。
(……ルーク。私はどうなっても良いから。妹を助けて)
「ジェイド!芽亜を捕まえてて!直ぐ戻るから!」
小瓶をしっかりと握り、何処かへと駆けて行く寧利と入れ替わる様に、ジェイドは芽亜の身体を抱きかかえる。
「メア、メア!」
「うぅ……ジェイド……?」
ジェイドは優しく芽亜を抱き締め、蒼白になったその頬を舐めた。
「あぁ。もう大丈夫だよ、メア」
俺が居るから。もう離さないから。絶対に独りぼっちにはしないから。
――お前がもしこのまま遠くに行くなら、その時は、俺も一緒に行くよ。
 




