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南境国 の話(一)
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…あれは能が丞相の役に就いてすぐ…次の日か、その次の日くらいだったかな…
就任のお祝いの後、私は能に宮を案内したり、今のところの仕事や事件や、必要なことを報告したり…お祝いの帰りに宿舎へ寄って国王と姫の命を狙った重罪人がいるか確認したら、どうやらお祝いの間に山賊仲間の所へ逃げて行ってしまったようで、それの始末書、というのを初めて書かされたり…とにかく、私は精神的に疲れて、昼近くまで眠ってしまっていた。
慌てて起きて、身支度を整えて部屋を飛び出して、まずは…游さんを探したね。ハハ!
これはもう、日課だったから。目を通してほしい書類が、とにかくたくさんあったんだよ。今から思えば折角上司である丞相がいたのだから、そっちへ回したら良かったんだけどね。なかなかそこまで頭が回らなかった。
そうして、新しいブーツでパタパタと宮殿内を一周していると…
手すりに腰をかけて遠くを見ている能を見つけてね。そのままの速度で走り寄ったよ。
能は祝いの席の次の日の早朝から書類を読んだり、フラフラ出て行く王たる游さんへ宛てて、必要なことを順序立てて書いた長い置手紙を作ったりしてたからね。いつ寝ているのか分からない程、とても優秀だった。…それにもまして、游さんは全く寝ていないのではないか、と思う程、常に起きて歩いている姿しか見なかったけれども。
「おはようございます、能さん!」
「…あぁ……嬌太保(太保:王の補佐)……」
冠を付けて、きっちりとした涼しい色の上衣下裳(漢服の一種。着物に前掛け状の衣装を着けた、官僚の着る公式な礼儀正しい服装)姿だった。気に入ったのか、黒くて長い羽織りも着ていたね。
彼は良くこの黒い羽織りを着ていたから、『トレードマーク』、というのかね? 遠くからでも彼がいる、とよく分かったものだよ。
…私はいつも通り。深衣(上下に分かれていない着物。役人が役所で着る普段着。白と黒の物が多い)に、走りやすい黒のブーツ姿だったよ。……ん? ………いやぁ。何しろ、游さんを見つけるために年中走り回らなければならなくてね。一般的な役人のはくような靴じゃ、とてもじゃないが追いすがっていけない。…游さんに『まかれる』んだよ……
…まぁ、それはさておいて、だ。
私はその当時、『太宰』や『太保』なんていう役職名を付けて言われるのは誇らしくて好きだったがね。能には姓で呼ばれたくなかった。…一応、上司だし…それに、これから私が游さんを捕まえられなくて起きる仕事上の難問を押しつける相手になるのだからね。ちょっと敬っておこうと思って。フフ。いや、当時、本当に困っていたものだから。いや、いや…ハハ!
「…僕、能さんから見たら部下だもん。…名前だけでいいですよ…」
「……あ。そうか。…いや。慣れておらず、すまない」
「はい!」
「…では紫瑛。おはよう。昨日は色々と大変だったな」
そう言って、能は瞳を閉じ静かに私へ声を掛けた。その後目を開くと、少しだけ照れたように私へ微笑みかけた。なんだか嬉しくなった。上司、というより、兄が出来た感覚に襲われた。
「いえ! 能さん!」
「……ところで、私はこのまま『能さん』なのだろうか」
「えっ? だって『能ちゃん』よりいいと思いますけど…游さんは『ちゃん』付けで呼ぶよう言ってたし、お祝いの席で国のみんなもそう呼んでたけど…年上の方に『ちゃん』は失礼だと思って…えっと、何て呼びましょうか」
「…はー……いや、もう。確認しただけだ。慣れないとな。私の国では字で呼ぶのが普通だったから……」
「あー! なるほどねー! です!」
他愛ない話をしながらも、能は時々遠くを見ているような目をした。私は気になって聞いてみた。
「ねぇ、能さん。何か見えるんですか?」
「え」
「どこを見てるんですか?」
「え。あぁ、いや…音楽が……どこからだろうと。とても、切ない、郷愁を誘う、良い音だ……」
「あ、あぁ、あの、音、ですかぁ……」
私は言葉に詰まった。
この音楽を奏でている人物を、私は良ーく、知っていた。
天女を描いた絵画から出て来たように整って見目麗しく、芸術、特に音楽に関する技術も才能もある。馬術、武術も適度に得意で、学もあり、游さんと同じく、貧富の差による差別をせず誰とでも話すことが出来る。優しい口調と微笑みを持ち、実に礼儀正しく、気品も備わっている。老若男女問わずよく道で声をかけられる人物。しかし…
「あのぅ……会わない方が良いですよ……きっとゲンメツします……」
「ん? ………ハハ。まさか。このような美しい音色を奏でる人物にお会いして落胆することは有り得ない。私こそ、丞相という器には合わない人物だ。その意味で向こうが落胆することはあろうが…」
「いっ、いえっ……」
「……この宮の敷地内にいらっしゃるのか? 近くから聞こえる気がする。是非、お目にかかりたいものだ……」
「う………」
伏目がちにして切なげに呟く能の姿を見て、会わせてやりたいとは思った。しかし、しかし、だよ。私には、もう、偶然を願うくらいしか出来ないことだった。……まぁ、あとあと、この理由は分かってくるとは思うから、今は言わせないでくれ……
…と、私が、どうしたら1番良い結果まで辿り着けるか、困って困って、悩んで悩んで…うなっていた時。
「おぉーいぃ! 紫ーちゃん! 能さん! いるゥ? どこぉ? あぁー!?」
商店街で果物を売っている男性が大きな声で我々を呼びながら宮内をバタバタと走り回っている音が聞こえてきた。
「おじちゃぁーん! どうしたのぉぉー!?」
私は声のする方へ走って行きながら、男性に負けないくらいの大声を張り上げた。
声が届いたのか、すぐに男性は私たちの方へ走って来た。
「紫ーちゃん! 能さんも! もう、ねぇ…これは、大事件……ハァッ…ハァッ……うぇぇっ……」
息を切らしながら膝に手を付き話す男性…徐さんが普段とは違った顔色と態度でいるので、不安になった私は焦る気持ちを押さえて声をかけた。
「…どうしたのっ…?」
「うぇぇ……ゲホッ……ゲホッ……」
「紫瑛。水を持って来られますか?」
能は徐さんの吐き気を慣れない走りで苦しくなったのだと考えて私に水を用意させようとした。その時。
「い、いやぁ…違うんだよ、能さん…! 俺、水、飲めねェよ…こりゃあ、メシも食えねぇや……」
「……何か、凄惨な状況を見られたのですか…?」
「そ、そうなんだよ! ひ、ひ、人食いだ!」
「え」
「人食い虎! 出た! 山!」
私はやっとそこで、徐さんの嗚咽の意味が分かった。




