一
*
*
*
蓮水鏡
*
*
*
――水鏡とは
良い表現をしたものだ
私の姿も心も
思いのままに映る
そうだろう?
だから 早く
私の運命をかき回す
あの人を 早く
見せるが良い――
評議廷および儀式廷である雯月殿(『雲月殿』と呼ばれることもある。『雯』は模様のある雲、の意味)を抜け、そこからまた奥へ進むと、城壁と門が2つあり、ここから後宮(王族の私的な居住区)であることが示されている。門をくぐれば現王族の実質的住まいである華陽宮がすぐ見えてくる。背後には代代の王の妻たちが過ごした宮もあるが、最近、そこは現王に妻がいないことと、その王の妙な希望により、何故かマンション化していた。因みに、そこに住んでいるのは現段階で紫瑛のみである。そのうち、丞相とその母親も住むことになる。
今、華陽宮は王である游と養女である夢しか住んでいなかった。一応プライベート空間にしておこう、ということで扉横に腰の高さほどに設置された小さい鐘があり、用のある者は鳴らしてくれ、という添え書きの木製看板も置かれていた。
その宮殿の廊下を、重ねた重たい衣装をまるで意に介さず、速足で歩く男がいた。脇に、金、銀、宝玉や何故かそれらで飾られた立派な牛の角が左右に付いた冕(冠)を抱えていた。
いつにもなく、真剣な面持ちで美しく整った顔をした若い青年は、人が立ち寄った形跡がほとんどない、奥の部屋へ足を運んだ。
建付けの悪くなった木製の扉の前で一息深いため息をもらしたあと、青年はいつものように柔らかく微笑んで扉を押して入った。
「失礼いたします、父上、母上」
扉を静かに閉めたあと、誰もいない暗くほこりっぽい部屋の中で游はニコリと微笑みながらつぶやいた。
そうして、派手で大きな冕(冠)を棚の箱に戻したり、自身の着ているきらびやかな衣装を脱いだり、しまったりしながら話を続けた。
「本日は父上の冕をお借りして申し訳ありません。…朕の物は使えなくなってしまいましたので。
あぁ、あと、冕服もお借りいたしました。
…朕はまだ、このような相応しい衣装を作っておりませぬゆえ…
冕は使いの者に取りに来させましたでしょう? 冕服は朕が悪戯心で驚かそうと思い立ち、自身で取りに参りましたが…
……
…それから、母上の香水もお借りしました。
どうも、畑の土の香りが抜けず、困っておりましたので。
…ふふふ……
朕の養女は朕の香りが消えたと、少し嘆いておりました。
父上に聞いた母上と同じですね、土の香りを好んでおります。…良い義娘を持ちました」
游の実母は初めての子である游を産むと同時に亡くなっている。
実父である先代西境王は生涯妻を1人しか娶らないと決めていたので、游は必然、次期王として育てられた。
その実父も、游がまだ幼少の頃、嵐の日に橋が流され困っている国民を助けるために川辺の民と橋を直している最中、濁流に誤って飲み込まれ、亡くなっている。遺体は上がらなかった。なので一部の民からは河川の神となられた、と神格化されている。
「………ふゥ……」
游は式典用の衣装を片付け終わると、床へ正座した。そして長い息をフゥーッと吐くと、目の前にある様々な箱や道具などを見ながら話を続けた。
「本日、朕の国にもやっと丞相を迎えました。
…朕は幼き頃に王になりました。それよりずっと、覚悟をしておりました。
…この国は、朕で終わりだろうと。
それゆえ、礼にならった冠も衣装も作らず、父上の代で世話になった重臣たちにも農耕に専念せよと命じました。朕はきっと早いうちに他国の者の手により落命するので臣下への処罰が及ぶのを避けようと考えたのです。
…いや、元々、彼らは農耕に専念しておりましたが…はは……
……
それが…義娘を天より頂きましてより…
…変化しております。
まず、もう臣下は作るまいと誓っておりましたのに、東境国で会った期限間近の墨童に憐れみと…可能性を感じてしまい、あろうことか朕の太保として従事を願い、その場で東境王から譲り受けてしまいました。
本当は朕の太師(王の師匠。王に意見でき、指導もできる立場)となれ、と申したのですが、本人が『師の器ではない』とキツと言うので、太『保』に…
……」
『墨童』とは、墨を磨るためだけに存在する少年で、身分の高い者や財産家がその権勢を示すために雇った使用人である。墨は柔らかく磨ることで書く際にも、また書いた跡にも美しく滑らかな感触を味わえる。手の力加減によって墨の柔らかさが決まるのだが、墨を最上の状態に磨り上げるには齢13歳の男児の力加減が最適だと言われている。そこで、力のある者は13の年の少年を1年だけ雇い、14歳になれば解雇し、また新しい13になる少年を雇っていた。もっと言えば、雇うのではなく、買っていた。そして、調度品と同じように、見られても飾っても触っても周囲に羨望の眼差しを受けるような、見目麗しい男児が好まれた(この墨童の隷属化は桃源郷に限ったことであり、現実ではそうではない)。
紫瑛は東境国で王付きの墨童にするために人買いから売られて東境王宮へ入った。しかし、普通の少年たちとは違い、彼は14歳になって後ろ盾を全て失う前に教養や知識を身に着け、どうにかのたれ死ぬのを回避しようとした。時間を見つけては他の使用人に字を習い、本を読み、礼儀作法を教わった。14になる直前には、紫瑛は詩歌をたしなむようにまでなっていた。それを知った游はここで終わらせる者ではない、と、東境王に彼を譲ってくれるよう頼みこんだ。東境王は期限間近の品であるからと未練なく、逆に悪いことをしてしまっているかのように何度も真意を確かめてから、彼を譲った。
「そして、本日。
このような寂れ行く朕の国に、仕官したいとやって来た者がおりました。
…本日、吉日。あの者はこれまでにない丞相となり、我が国を盛り立ててくれましょう。
…
……
………父上、天は、朕に、何かを成させようとしているのでしょうか。
…………朕は…まだ……王たりえてよろしいのでしょうか…
……
……父上……
……
……もう、目を閉じても、ご尊顔が霞んでしまっています…どのようなお顔だったか……
……
…なにゆえ、橋を直しに行かれたのですか……
…
……
………
…………
……………っくは――――――ッッ!!!!!
そりゃ俺でも直したわ!
あっれはヤッバかった!
…
……
………ハーァ…
……ダメだ、ガラに合わない……」
そう、だるそうに言葉を吐くと、游は立ち上がった。
そしてゆっくりと入って来た扉に近付き、戸を開いた。
出て行こうとした瞬間、思い出したかのように振り返って、静かな部屋へ微笑みながら声を入れた。
「なぁ、父ちゃん、あんたどんだけデカかったんだよ。
2メートルある俺が父ちゃんの冕服、必要以上に引きずったんだぞ?
ベルトの穴は同じなのにさぁ。
……
…今後また使うときに困るから、冕服、新しく仕立てることにしたよ。
じゃ!」
バタン…
あとには、静まり返った古い部屋と、かつての王の品品がほこりをかぶっているばかり。




