一
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蓮水鏡
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――水よ、私の、心を鎮めてほしい
そうして私の心を映して
私の 願う 見たい時を
私の瞳に贈ってみたら いかがかな
そうすれば お前が恋しがる
私の瞳が お前をひと時見つめてくれるぞ――
母親に髪を結ってもらい、冠を付け、紫瑛が浴場の入り口の戸の前に、籠に入れて置いていた美しい絹の服を着て、信念の強い男は王への謁見の場まで急いでいた。
白 能、字は士伯。『{能士』(才能のある人、という意味)から字を取った。『伯』は長男を意味する。よくある字付けの形だ。
能は紫瑛から部屋に案内された後、これから1時辰(約2時間)ほど後に謁見の場となる廷の前で待つよう、案内中に言われていた。もちろん、廷の前を通ってきたので場所も分かっている。
その案内中、紫瑛は王 角という人物にも、長旅で疲れているだろうから、同じく1時辰ほど休んでからこの場所に来てほしい、と言っていた。そうして2名同時に謁見場に通し、遊説を聞く、と。
それを聞いて、能は「この子どもは何も分かっていないのか、それとも、嵌める気なのか」と疑った。何せこの年齢で太宰・太保となったのだ。切れ者であるに違いなかった。しかし、能は彼の真面目そうな態度に不安を持った。これは、本気ではないか――と。
それで、彼はまだ1時辰も経っていない――1時間程しか経っていないだろう――時に、先に紫瑛に会うことが出来れば真相を聞けると思い、急いで客人宮の廊下を歩いていた。
客人宮の台所まで来た時。
彼は1番会いたくない人物の背中を見てしまった。
台所の隣にある、薪の倉庫に続く壁際に、その人物はいた。
足音が聞こえていたのか、能が台所の入り口を横切れるほど近付いたころには、男は能の方を笑顔で見つめていた。
――しまった――そう思ったが、この窮地を凌いでこそ、ここの国で国務に関する職を得られると、自身の恐怖をどうにか抑え込んで、平静を装った。
「…お食事をお探しですか、王さん」
「『言長』とお呼びください」
角は揖礼し、能は頭を軽く下げただけだった。
「えぇと、貴公は…」
「白 能と申します。士伯とお呼びください」
「…そうですか、どうぞ宜しくお願い致します。お互い、天職を願うお仲間同士。助け合いましょう」
「…………い、…………」
能は緊張のため乾く喉から、何とか最低限の言葉を捻り出した。
「今なら、帰れますぞ、言長殿。」
「え。………士伯殿は私が貴公に敗北するから、立ち去れと、こう、おっしゃるのですか? それとも、ライバルを消そうとなさっておられるのですか? …いやはや、正正堂堂と言論で勝負をいたしましょうよ。ハッハッ…」
「もう1度、お伝えします。この国がいかにお人好しの国であっても。国王を暗殺したとなれば、無事に帰されまい。自分の命が大事、と、命令に背いてここで静かに余生を過ごすか、他国へ亡命するか選ばれよ。私も黙っていよう」
「…………ふぅ、むぅぅ………」
角は自身の顎に手をやり、どこ吹く風と、能の真上の天井を見た。
しかし能はそのような角の眼の動きに惑わされることなく、角の所作を見逃さぬよう、視界には角を必ず入れていた。
しばらく角の次の動きを探ろうと見つめていたが、角が視線を下し、包丁置き場を視界に入れていると知ると、能は下がるのではなく、台所の入り口から速足に包丁置き場まで移動し、角の視界と包丁置き場の前に自身の体を挟み、包丁の置き場所を隠した。
勇敢だったといえる。この、彼の対処は。
目の前の危険から逃げるのではなく、防ごうとした。
「………うーん……」
視線は下したものの、まだ顎に手を置いたままでいる角は、薪置き場入り口付近まで少し移動した。
2人の距離は十数歩。
「…………何故私を刺客だと?」
「北境は一般人の自由な入・出国を禁じている。許可はまず通らない。なぜなら北境はそれで生き抜いてきたからだ。
他国に自国の情報…土地の起伏や状態、建築物の構造などを知らせなかったために、ゲリラ戦で完璧な防衛戦をしてきた。
金山の他、鉱山や油田など、4つの国の鉱物資源が全て北境に集まったかのように、他国にはほぼない鉱物や燃料を大量に持っている。にも関わらず、それらを他国との貿易に使用することを禁じた。結果、それら資源全てが自国の物となり、反面、他国では鉱物資源が不足することになった。そうすることによって他国の兵器開発を遅らせ、自国に不利な兵器が世に生み出されないように画策できた。
国を守るため、情報も、資源も外に出させない。そのために徹底的に国交を遮断した。
だから、北境から人は出られない。国では出られないように国境付近で昼夜を問わず歩哨(見張り)を立てている。
一般人で出国し他国へ行ける者がいるならば、国を通さない鉱物資源の闇取引商人か、私のように死ぬ気で亡命して来た者か、……誰かに命を受けて来た刺客か。
…最近、闇取引の商人はほぼ死滅した。現北境王が駆逐に乗り出したからな。
だから、貴殿は…」
「………ハァッハッハ! いえいえ、何をおっしゃっておられるのか! 私も亡命してきたのですよ。お分かりになるでしょう。食い扶持を見つけようと必死なのです」
「もういい、嘘は! 分かるだろう、ここは西境だ! 満ち足りた国だ! そのような国を、混乱と悲しみに満ち溢れさせてはならない!」
危険な人物を目の当たりにしても、彼は謁見前の王を守ろうとした。まだ会ったこともない人物だが、国民にとって失ってはならぬただ1人の人物であると感じていた。
この国に入って、感動した。幼い者も、年をめした者も笑顔で歩いている。困れば誰もが手をさしのべる。
そのような、平和で穏やかで誰もが親切な国を作り、治めてきた人物が殺されることによって、不幸になる1国、全国民をあわれんだ。自身を使って防ごうとした。
「違う、と言っているでしょう…」
「…三流が………」
「………ん?」
「着物がほとんど汚れていない。舗装された道を来たか、馬を使ったか。
どちらにしろ、お前は北境で依頼を受けた暗殺者だ」
「………」
「舗装された道を通るには国境警備隊の前で出国審査を受け、許可が出た者だけた。それなら、お前は国の密命を受けた者だ。
それに、馬で越えようとしても、普通の人間ではあの山を越えられない。険しすぎる。馬術・体術に長けた者でないと無理だ。兵士の可能性がある。兵士がどうして1名のみで身分を偽ってここに立っている? それは暗殺しか考えられない。
私が体で証明出来る! あれ程汚れたのだ! 嬌太宰も見ている! さぁ、考えを改めろ!」
「…………泥のない道を選んで来たんですよ………」
「お前……そうか。お前は北境で反乱を企てて山に根城を持っている輩だな。新しい国を作ろうと。西境国王の座を狙ったか。
山の麓はどうか知らんが、昨晩は山頂の天気が荒れて、視界が悪かったから私は国境を越えられた。朝には落ち着いていたが。泥のない山道など…」
彼が「ない」を言い終わる前に、勝負はついた。
ドガッ
ドンッ!
ドガッッ
まず1本の斧が能の右肩を後ろの棚に突き刺した。それからすぐ2本目が飛んできて、能の左肩を、また棚に突き刺した。まるで羽をたたんだカゲロウのように、能は棚に張り付けられた。
一瞬のことだった。
眼で動きがとらえられない程の速さで、角は薪倉庫に入り、中にあった斧を2つ、続けて能に投げたのだった。
首を垂れて張り付いたままになっている能には目もくれず。サッと台所を出た角は着物のスソに付いている木くずを手ではらった。
「……何が『三流』だ。お前は喋りすぎだ。揖礼を返さないお前の方が『三流』だよ」
吐き捨てるように言い放ち、角は謁見場へと向かった。
予定の時刻より早目だった。しかし能の状態に気付かれたくなかった。そこで事を早めなくてはならなくなった。




