ビーズの指輪と転校生
いきなり、モテない男子の行進が止まった。
「――これ、知ってる?」
と、下校のために下駄箱に行くと、知らない女生徒が声をかけてきた。
女生徒は指にはめたビーズの指輪を得意そうに僕に見せる。白のビーズで小さな花を作って、その花が連なっている指輪。
※
もしかして、僕ってモテない――?
そういう漠々たる闇に気づいたのは、中学に入学してから三か月目のことだ。日付を計算してみたら、入学から九十二日目のこと。僕は女の子から、まったく話しかけられていなかった。
前から回ってきたプリント用紙を、前の席の女の子が振り返って、「はい」と僕に渡すことくらいは当然ある。でも、お喋りの相手には決してならない。
「やばい。わたし、テストの勉強ぜんぜんしてないよ」
と、クラスメートの女子に話しかけられて、ドキドキして返事を返したら、隣の男子に話しかけていた。そういうことばかり。そんな僕が、ついに下駄箱の前で女の子に話しかけられた。
どういう奇跡か転校生の女の子。
「こんにちは」
と、にこにこ下駄箱の前に立って笑っていた。まつ毛をいそがしく動かして、大きな瞳で僕を見つめる。見たことがない子で、胸のネームプレートに、笹井第二中、赤いラインがプレートの真ん中にあって、その下に井澤と名前が書いてある。赤いラインは僕と同じ二年生を示している。
「あなたに話しかけてるのよ。行かないで!」
背中を向けて靴を取ろうとした僕に彼女が言った。どうせまた、別の誰かに話しかけたのだと思ったのだ。知らない人だし、うっかり言葉を返すと前みたいに恥をかいてしまう。
「これ、知ってる?」
と、僕にビーズの指輪を見せる。なにを突然言い出すのかと思って首を傾げていると、お相撲さんがツッパリをするみたいに、広げた手を僕の目の前にぐいぐい突き出す。
「知らないけど、君は?」
「私、B組に来た転校生の」
「迷ったの? トイレはそっち。ほら、あそこに書いてあるでしょ?」
職員室は向こう。B組の場所を忘れたのならあっち。僕は指を差してその子に教えた。
「ここに来てもう一週間だから、そんなの知ってる。個人的に、あなたに言いたいことがあるのよ」
「僕に?」
僕の一人ぼっちの行進が止まった瞬間。
何日目だっけ? 二年生になってから四十五日目? ということは、えーと、中学に入学してから四百十日目。ついに僕は女の子に『お喋り』をふられた。
僕に一目惚れした? キモいと思った? 鼓動がまだ鎮まらない。僕は次の彼女の言葉を待っている。続きはしらない。それって今だから。
「私ね、ずっとずっと、ずっとずーーっと、隼人くんのことが好きだったの」
「なるほど」
罰ゲームである。
B組の誰のたくらみか、僕を知ってる生徒の悪巧みだろう。そいつに名前を聞いたのだ。告白して、僕の反応を見て笑う。ヘタをすれば動画を撮られてる。
僕は左右を見渡した。
あいつか? 向こうのやつか? 下校や部活に急ぐ生徒たち。その誰とも目が合わない。
「ねえ隼人くん、嫌な気持ち? それとも嬉しい?」
しつこい子で、僕にまとわりつくように下校の道を一緒に歩き出した。まるで重大事件を取材する新聞記者のように、僕に今の心境を聞き続ける。何か僕が言ったら、メモでも取りそうな勢い。僕は無視して下校の道を急いだ。
「ねえ、聞こえない?」
「……嬉しくはないよ」
僕は正直に答えた。
あたりまえだ。可愛い子だけに切ない。
この子は、早くB組に馴染もうと必死なのだ。目がクリッと大きくて、ショートカットの活発そうな子で、なんとなく正義感が溢れる少女に見える。こういう、人が傷付くことを前提とした遊びに組する子には見えないけど、友達とかグループとか、そういうのを選んでいる余裕がないまま、このくだらない遊びの一員になってしまった。賭けに負けたのか何なのか知らないけど、罰ゲームで僕に『告白』したのだ。もちろん、僕を好きというのは嘘。転校一週間目の、隣のクラスの女の子が、僕を好きになるはずがない。
「僕が何を言えば正解なの? どう言ったらみんなに認めて貰える? それを言ってあげるから、聞いたら帰りなよ。帰り道、こっちじゃないでしょ?」
「あ――!!」
その子は、立ち止まって呆気に取られた顔をした。さも当惑したような、下がった眉のあたりの表情が、とても可愛い。
「や、優しい! さすが私の隼人くん!」
うんうん頷いて、大きな瞳をさらに大きくして僕を見つめる。
「僕のことなんて知らないでしょ? 一度も話したことなんてないんだし」
「それがいっぱいあるのよ。まだ思い出さない? 私、子葉だよ。井澤子葉」
「しらない」
その子は、僕のその言葉を聞いて、お芝居のように両方の手の平を広げて、口を大きく開けて「こりゃたまげた」みたいなオーバーな表情を作った。それを見て、僕はおもわず笑いそうになったけど、彼女は無理をしている。新しい学校に早くなじみたい。友達を早く作りたい。そういう緊張でおどけ方までオーバーになっている。
「井澤……さん」
僕はネームプレートを読んで言った。
「今、どこを歩いてるか分かる? 気を付けて帰ってね。B組の人に、僕が何を言ったか勝手に言ってもいいよ。じゃあ、さよなら」
「がーん。ま、まだ私を思い出さないの!?」
頭のてっぺんに抜けるような、甲高い素っ頓狂な声をその子が上げたけど、僕は背中を向けてその場をあとにした。少し歩いて振り返ると、小さくなったその子がしゃがんで顔を両手で覆って動かない。道の端っこに佇んでいるけど、車も通る道だから、ちょっと危ない。
「大丈夫?」
僕はその子のところに戻った。膝を曲げてその子の顔を覗き込む。
「え……? や、やさしい。戻ってきてくれたのね」
嘘泣きではなかったようで、頬を濡らしている。もともと下がった眉だけど、さらに下げた眉で僕を見つめる。なんとなく、その大きな瞳と下がった眉に記憶があるような気がした。
記憶を探る僕に気付いたのか、
「どう?」
と、彼女が僕の顔を覗き込んできた。そんな彼女を目でおさえて、僕はさらに考え込む。
「うーん、さっぱりわからない。君ってだれ?」
「まえに、隼人くんの家の近くに住んでいたのよ。ビーズの指輪を交換したよね? 私、まだ持っていたの。さっきも見せたけど、ほら」
「あっ!」
指輪を改めて見て、幼い頃の思い出が鮮やかによみがえった。当時の映像が頭に浮かんで、今の映像とパチッと音を出して合わさった。実際、僕は手を叩いた。
子葉だ――。
名前もハッキリ思い出した。大きな綺麗な瞳が特徴の子で、眉の下がった顔は昔のまんま。
「ほら、このビーズの指輪、隼人くんが小学校一年生のときに作ったんだよ。私が作ったやつは持ってる? 一緒に作って交換したよね?」
「う、うん……」
子葉の指にそれはある。三連と二連のビーズが連なっている指輪で、三連の真ん中にピンクのビーズがあって、あとは全部が白のビーズ。ピンクのビーズを六つの白い球が囲んで花の形になって、その花が連なって輪になっている。同じ物を僕の部屋で一緒に作って、それを交換した。まさか、今でも子葉がそれを持っていたなんて……。僕にそれを見せようと、家から持ってきて下駄箱で僕がくるのを待っていたのだ。
「ごめんね。あの指輪、壊れちゃったんだよ」
僕は子葉に謝った。
子葉が引っ越して、僕は悲しくて指輪を毎日付けていた。でも、テグスが切れて玉が弾けて飛んでしまった。必死に拾ったのだけど、全部の玉が見つからない。僕はそのビーズの玉を見つけようと、何日も泣きながらその場所で玉を探し続けた。でも、どうしても全部が見つからなくて、切れたテグスと見つけた玉を紙に包んで、今は机の引き出しの奥に保管してある。
「あれ? 子葉はもっとずっと背が高かったような」
目の前の彼女は身長百五十センチくらいで、それほど高くない。というか低い。昔は僕より背が高くてパワーもあったから、取っ組み合いのけんかで僕はいつも泣かされていた。
「うん。隼人くんは背が伸びたよね。百七十センチ以上あるよね」
子葉は自分の頭のてっぺんに手を水平にして上げて、その手を斜めに上げて僕のおでこにチョップした。
「いや、子葉は僕の肩くらいの背だよ。ズルしないで」
「えへへ」
胸の奥に甘酸っぱいものを感じた。大きな目を糸のように細くして子葉が笑う。その可愛い笑顔を見て、僕は嬉しいというか幸せを感じた。運命って逆転があるのだ。神様は基本、意地悪なんだけど、意地悪の次にはちゃんと奇跡を用意してくれている。僕も神様の意志がわかってそれを待っていた。運命を恨み始めていたのに、都合よくそう思った。
「じゃあね、隼人くん。私、今日は帰るね。今の家は向こうだから」
それで、僕も手を振って子葉とバイバイした。
ああ、これは明日から楽しくなりそうだ。
子葉は僕のことを、
「ずっと好きだった」
と、たしかに言っていた。下駄箱でそう言って、誰かに聞かれた心配もあるけど、噂になっても青春って、人の目の風の中を、肩で切って背筋を伸ばして歩くような、そういう無理も気持ちがいい。僕にもついに春風が吹いた。逆転どころか、これから大攻勢が始まる。指輪を子葉は左手の薬指にしていた。それってもしかして、もしかしてそういうこと……。
思わずにやけて帰宅の道。
「え――? あれ?」
でも、あのことを思い出して目の前が真っ暗になった。気を失いそうになって、僕はふらふらして歩道にひざまずく。子葉って、引っ越したんだっけ? それは違うぞ……。小学一年生のときに、交通事故で死んでしまったのでは……?
都合よく記憶が入れ替わって、『引っ越し』と僕の中でなったけど、そうではない。事故に遭った子葉のことが悲しくて、僕は子葉のことを忘れようとしていた。子葉の家族は、ドライブ中の事故で一家全員が亡くなった。その後、家を管理する人が居なくなって、子葉の家は今、廃墟のようになっている。
「やっぱり……」
そこに寄ってみると、子葉の家は廃墟のままだった。人の手の入らなくなった庭はジャングルのように草木が生い茂り、痛んだ家の壁にツタが絡みついている。僕の家のすぐ近くだけど、子葉のことを思い出すのが辛くて、僕はこの道を避けて通るようになって、彼女は最初から存在しなかったと、そう思い込むことで悲しみを和らげていた。
そうだ、あのビーズの指輪が切れてしまったのはこの家の前だ。僕は、おもわずそのへんの地面を探した。
白く光る物がアスファルトのヒビの中にあって、手を伸ばしてそれを摘まんだ。
「うわっ! 鳥の糞か!?」
慌てて手を払う。今更、ビーズが見つかるわけがない。
その夜から、僕は気分が悪くなって寝込んだ。熱も出た。
恐くなって、夜中も電気を点けて休んだ。
閉じたカーテンの暗い窓の向こうから、今にも子葉がノックして現れそうだ。あの子葉は幽霊……。一週間前に転校してきた? 嘘だ。それなら、一度くらい見かけたことがあったはずだ。
小さい頃、僕たちは毎日のように一緒に遊んでいた。
いつも僕と子葉と二人だけ。
僕たちは、お互いが一人っ子だったから、いつも一緒に居て兄弟のようだった。あのくらいの歳の子だと、恋愛感情とかはよく分からないから、誰が好きか聞かれたら、僕の名前を出してくれたとしても自然だ。彼女は小学一年生のときに死んで、ずっと当時の心を持ったまま彷徨って、ついに僕を発見した。発見されたくなかったけど、彼女が可哀想ではある。彼女のために僕は何ができるだろうか?
三日ほど学校を休んだ。
そして学校に行ってB組を覗いても、やっぱり子葉は居ない。念のため、「井澤子葉という生徒はB組にいますか?」と職員室で、B組の担任の国語の栗田先生に聞いたら、先生は僕をちらりと見て、
「知らんなあ」
と言った。
なんだか忙しそうだ。他の生徒と何か真剣な顔で話しをしている。先生の机にB組の名簿があって、目を走らせて確認したけど子葉の名前はない。
「忙しいところすみません。他のクラスにも井澤子葉は居ないんですか?」
「うーん、知らんなあ」
それが先生の口癖で、知らんなあ、と何度も言う。やっぱり、子葉は幽霊なんだ。僕にしか見えない。
「やあ、こんにちは!」
帰宅のために下駄箱に行くと、僕を待っていたのか子葉が現れた。思わずゾッとした。地縛霊とかいうの? なぜか彼女は下駄箱に縛り付いてしまって、僕をここで何日も待ち続けていた……。
「こんにちは」
僕は平静を装って返事を返した。
にこにこ子葉は笑って、幽霊の悲壮感がまったくない。足はあるのかとスカートの下を見たら、「なによ?」と、子葉は恥ずかしそうにスカートを押さえた。改めて子葉の顔を見ると、はにかんだ笑顔を僕に返してくる。
背は意外と伸びなかったけど、昔の子葉のまんまだ。おっちょこちょいで明るくて、いつも爽やかで楽し気で、「どうしたの?」と言っているような、好奇心満載という感じの、クリッと大きな瞳で僕を見つめる。
「隼人くん、また一緒に帰ろうよ。隼人くんを待っていたの」
「う……うん」
子葉は、自分が死んだことに気付いていない。翳のない笑顔で僕を見つめてくる。薄々、おかしいとはきっと思っていて、でも、そう思いながら周りと共に成長して、中学二年生になってもふらふら彷徨って、僕の前に現れた。
「子葉……、君の家はどこ? お父さんとお母さんは?」
帰宅の道を、一緒に肩を並べて歩く。彼女の一家は、小学校一年生のときに交通事故で同時に亡くなった。
「うん。仕事で忙しいけど二人とも元気だよ。転勤ばかりだから、また私、しばらくしたら転校しちゃうかもだけど」
子葉はそう思い込んでいるようだ。そうやって、都合よく記憶を自分で作って生きてきた。そういうの、はっきり言ってよくわかる。僕も、自分がモテないことを認めるのが嫌で、中学が始まってから、まだ日がないから女の子が慣れてなくて相手をしてくれないんだって、自分を慰めていた。日にちを毎日、数えながら……。
子葉は自分が死んだなんてちっとも思っていない。どうするべきか? 「君は死んだんだよ」って教えたら成仏できるんだろうか? それとも、意外と明るくやっているようだから、彼女はこのまま幽霊のまま成長して、おばあちゃんまでこの世を彷徨っている方が幸せなんだろうか? 毎日は怖いけど、子葉が寂しくないように、たまにだったら話し相手になってあげてもいい。
「子葉の家ってこっちじゃないよね?」
いつまでも下校の道をついてくる子葉に僕は言った。
「こっちだよ。もうちょっと一緒に歩けるよ」
前と言っていることが違う。やっぱり、自分の都合がいいように記憶を書き換えている。
「――じゃあ、今度の日曜日ね!」
そして、家まで付いてこられないように、関係ない道に誘導してずいぶん一緒に歩いて、明るく子葉は手を振って帰っていった。何を言っていいのかわからないまま、彼女のペースで会話をして、彼女と日曜日にデートの約束をしてしまった。一度だけじゃない。これから僕らは、毎週日曜日にデートをする。
人生初めてのデート。
幽霊だけど、僕は正直嬉しかった。僕を好きと言ってくれる子が、この世に存在したのだ。この世の人ではないけど。
「子葉、大切な話があるんだけど」
デートの当日、噴水公園のベンチで僕は彼女に言った。お昼近くの待ち合わせで、日差しが眩しく輝いている。ベンチの上の木漏れ日がキラキラ綺麗で、五月の風が頬を撫でる。子葉の服装は、ピンクのセーターにミニのスカートをはいて、健康そうな素肌と両足がちゃんと見えている。幽霊なんて信じられない。
「この前の返事のこと?」
子葉は可愛く小首をひねった。
「返事って?」
「私と付き合ってくれるの?」
「そんなこと言われたっけ……」
たしかに、「ずっと好きだった」と、初めて会った下駄箱の前で言われた。あれは告白だったのか……。
「それはまあ、追いておいて」
僕は両手で荷物を持つ仕種をして、それを横に置いた。子葉は僕のエア荷物を楽しそうに身体ごと首を振って大きな瞳で追う。
人懐っこい感じで嬉しそうに微笑み、僕に肩を当てるようにして隣に座っている。
僕の少しの動作にも、子葉は鏡のように機敏に反応して、くるくる表情を変化させる。僕は切なくなった。それは、今までとてつもなく寂しかったから、そうなってしまったの? なにかを共有できる人が必要だったの?
そして僕は、子葉にハッキリと教えてあげた。君は、家族と共に七年前に亡くなっている。行くべき場所にちゃんと行くこと。生きていたい気持ちはわかるけど、こんな成長はよくない。君は小学一年生で亡くなって、たった一人で幽霊となって投げ出されて、意味のわからないまま、「私は転校した」「みんなと一緒に成長している」。そう思って中学二年生の今まで、想像の成長を周りとしてきた。
「そんなのうそ」
僕の必死の説明を聞いて、首をぶんぶん横に振って子葉は否定した。
「嘘じゃない。子葉って小学一年生のときに交通事故に遭ったんだよ。覚えてない? 小学一年生のときに、お父さんの運転する車が、カーブを曲がり切れなかった緑色の対向車と正面衝突した。大事故だったんだよ」
「それは知ってる。それでお父さんとお母さんは死んじゃったんだもん。でも、私は体がバラバラになったけど助かった」
「迷わず成仏してください」
僕は、おもわず両手を合わせて拝んだ。やっぱり都合のいいように話がすり替わる。前は「お父さんとお母さんは元気だよ」と言っていたのに、事故で亡くなったことを知っている。
「じゃあもう、いいわ!」
子葉は逆ギレしたように言って立ち上がった。
「私が死んでるとしようよ。だからなに? ずっとずっと、ずーーーっと――」
子葉は上半身をひねって、演歌歌手が力を入れるように片手を握って、
「私は隼人くんのことが好きだったの! 私が嫌ならハッキリ言えばいいじゃない。幽霊とかそんなの関係ない。あなたは私と付き合うの? 付き合わないの?」
「それは……」
こんなに可愛い女の子が、僕の目をまっすぐに見つめてそう言ってくれる。もしも運命があるのなら? 僕の運命の人が子葉ならば?
「私、返事を聞くまで付きまとうからね」
す……っと、子葉の身体が消えた。ハッキリ見た。後ろの噴水が子葉の影になって見えなかったのに、今は噴水が見える。噴水が吹き出す時間となって、霧となって水が拡散して、そして鮮やかな虹が大空に現れた。ああ、何かの間違いや悪戯ではない。子葉は本当に幽霊だったのだ。
「子葉……」
僕は家に帰って昔のアルバムを見た。
子葉のことを思い出すのが辛くて、ずっと開かずのアルバムになっていた。
写真の向こうで、子葉は僕と手をつないで目を細めて明るく笑っている。小学一年生のとき、僕の家の前で撮った写真。この写真を撮ったとき、まさか自分がこのすぐあとに死んでしまうなんて気づかなかっただろう。
机の奥にあったはずの、壊れたビーズの指輪がどうしても見つからない。大切に仕舞ってあったはずなのに……。
「うん。幽霊でもいい」
僕は決心した。運命に逆らってはだめ。不安と興奮に安らぎを与えてくれるのは、あの子の笑顔しか、もう考えられない。
「――ああ、朝日ってこんなに綺麗だったんだ」
決心したその日の朝は、心に流れる濁った血を、新品に取り換えたようにさわやかだった。子葉は居る。死んだ子葉が存在できる世界があるということだ。
あの世という世界。
それがあるなら僕だって暮らせるはずだ。
子葉は、亡くなった小学一年生のときから地上を彷徨って、そして僕を発見した。あの、僕を見つけた日の嬉しそうな顔……。僕が子葉を守ってあげなくて誰が守る。
僕は、「いってきます」と家で言って、いつもの登校の姿で、学校ではなく子葉の家に向かった。彼女が望むのなら、僕が一緒にその世界に行ってあげる。
「子葉、居るの?」
荒れっぱなしの、塀の向こうの草深い庭に向かって声をかけた。草の向こうの暗い玄関を恐る恐る覗く。
「ねえ子葉、聞いてる? 僕も君がずっと好きだった。あのビーズの指輪、壊れたやつを机の中に入れていたけど、どうしても見つからない。よかったら、僕に別の指輪をくれない? どういうやつでもいいから」
結婚指輪? 婚約指輪?
よくわからないけど、そういう約束の指輪のつもり。自分から「くれ」と言うものじゃないかもしれないけど。
「このへんなんだけどなあ……」
僕は、また子葉の家の前でビーズの玉を探した。何年も前の物が見つかるわけがない。けれど、たったの一粒でもいいからそれを見つけたい。子葉が生きていた証。
でも、それは見つからない。
当たり前だ。
この七年間に雨が数えきれないくらい降った。道路が冠水することもあったかもしれない。ビーズなんか、そういうときにみんな流されてどこかへ行ってしまった。流された先の、海の底とか、そういうところのどこかにはあるんだろうけど、もう探しようがない。子葉が生きていた証は、どこかにあるのに僕の力では探せない。
「なくしたの?」
子葉が僕の後ろに立っていた。
「おはよう!」
って、子葉は冗談っぽく僕に抱き付いてきた。
「お、おはよう」
柔らかくて温かい……。ちゃんと子葉には質感がある。これで幽霊なんて……。でも、見えるんだから質感くらい作れても不自然ではないような気がした。幽霊って、人間が思うような単純な存在ではない。夢の中だって、質感とか匂いとか感じることができるんだし。
「子葉、ごめんね。子葉から貰ったビーズの指輪は、子葉が亡くなってからいつも指にはめていた。でもテグスが切れて、道のあっちこっちに散らばって」
「それで、なくなったのね」
僕は必死に首を横に振った。
「ううん。ちゃんと玉を拾って集めたよ。集めたけど、どうしても数が足りない。ちょうど、このへんだった」
「隼人くん?」
涙が止まらない。
あのとき、僕は本当にしっかり探したんだろうか? 拾った玉は三分の二くらいしかなかった。必死に探したら、きっともっと見つかったはずだ。
「ごめんね、ごめんね――」
道に四つん這いになってあっちこっちを探した。今頃探しても見つかるはずがない。でも……。
「大丈夫。本当に大切なものはなくならないから。ポケットに入ってるんじゃない?」
「え――?」
もしかして……と思って、僕は学生服のポケットに手を入れた。すると、それはあった。ビーズの指輪……。さっき、子葉が抱き付いてきた時に、僕のポケットに入れたのだ。
僕らが作ったビーズの指輪とそっくりだ。中心がピンクで、白い花の模様のビーズの指輪。
「作ってくれたの?」
「隼人くん、大切だからずっとポケットに入れていたんでしょ? それでいいじゃない」
「……ありがとう」
「小学一年生の時に交通事故で亡くったのは、隼人くん、あなたよ。後ろの廃墟になったその家は、隼人くんの家。私が転校したのは小学二年生のときで、隼人くんは、そのときはすでに亡くなっていた」
「うん……。本当は知っていた」
真実を受け入れなかったのは僕のほうだ。
記憶を書き換えていたのは僕のほう。
この、目の前の家は子葉の家ではなく僕の家。僕は、自分に都合よく記憶を書き換え続けていた。
自分が死んだことに気付いていながら、そんなことはない。僕は存在してるじゃないかって、幽霊になっても周りと共に成長してきた。あの、お父さんが運転していた車の事故のとき、対向車のトラックの緑色を、だから僕は覚えていた。僕が今まで住んでいたのは子葉の元の家。「事故に遭ったのは子葉」「あの廃墟は子葉の家」。そう思い込むことで、僕は居場所を作っていた。
中学生になって、誰からも話しかけられないのは当然だ。僕はこの世に存在しないのだから。学校に行って、誰かの席に座って、それで生きているような錯覚を味わってきた。栗田先生の返事だって、他の人に言った言葉を、都合よく聞き間違えた。
「もしかして、子葉も死んじゃったの?」
「私は病気だけどね。二か月くらい前よ」
「残念だね……」
「もういいの。隼人くんがふらふらしてるから、私が道案内に来たのよ。天使のお手伝い」
「天使の? 急に不安になってきた……」
「だいじょうぶ?」
うつむく僕の顔を子葉が覗き込む。
「ずっと僕を好きだったっていうのは? ビーズの指輪をずっと持っていたのは嘘? 日曜日に、毎週デートをしようねっていうのは?」
「不安ってそのこと?」
子葉は眉をさらに下げて笑った。目が糸のように細い。
「それは、この先のお楽しみということで」
「う、うん」
すべてが運命ならば仕方ない。僕はそれを受け入れよう。
さっ――と、雲の合間から眩しい光が現れた。
僕たちをスポットライトのように照らす。キラキラと、黄金に輝く雪のようなものが空から舞い降りてきて、よく見たら、その光るものは鳥の羽だった。まばゆい光に僕らは包まれる。
子葉が僕の手を握り、眉の下がった笑顔で頷いて、僕も笑顔で頷いた。僕は子葉に手を引かれて、天空に昇っていった。
〈了〉