桜の神隠し
製作中の平安ファンタジー定番、陰陽師物の番外編にあたります。
気分転換に書いたこちらが先に出来上がったので、ついでに乗せました。
人間関係や背景設定などわかりづらく申し訳ありません。
登場人物
・安倍明羅…晴哉の異母兄。スペックだけは高い陰陽師。陰陽寮所属。当人には伝わらないがブラコン
・安倍晴哉…生真面目で融通の利かない優等生。陰陽寮所属。まごうかたなきブラコン
・有典…陰陽寮所属。明羅の友人
「逢魔が時に桜の下に入ると、連れて行かれてしまうよ」
謳った兄を思い出す。
眩暈がするような桜吹雪のなかで、晴哉は優しく抱きしめられた。
花も盛りの如月の末は、どこの貴族の屋敷でも花見の宴が催された。
一際賑やかだったのはやはり左大臣邸の宴で、篝火が一晩中絶えず空を照らした。
そうして迎えた翌朝は当然睡魔が襲う。ほどほどの位階の貴族であれば、物忌みと称して褥に入るところだが、陰陽寮の仕事は待ってくれない。
とはいえ、陰陽頭でさえも生あくびを噛み殺しているようでは、どことなく空気も緩みがちだった。
年末から新年にかけての慌ただしい政や祭事も落ち着き、彼らにとってはようやく一息つける時期なのだ。
もちろん例外もいる。
背筋を伸ばし忙しく筆を動かす晴哉は、室内の惨状を見てため息をついた。
「遊び過ぎですよ」
文机に頭を乗せていた有典は口をとがらせて言い返した。
「お前こそ、なんでそんなに元気なんだよ」
「仕事中ですから」
有典が知る限り、晴哉も昨夜の花見の宴に出席していたはずだ。左大臣が信頼を寄せる陰陽師として近くの階まで呼ばれていた。
少なくとも数度は杯を空けていたはずなのに、酔いが残っている気配もない。
「晴哉は気張りすぎだよ」
風に乗って桜が入り込んだ。
「兄上!」
書面が見えないように袖で晴哉の前を覆った明羅は、晴哉の指から筆を抜き取って筆置きに戻した。
「こんなに花が咲いているんだもの。少しくらい眺めたっていいじゃない」
「そう言って、梅の時期にももみじの時期にも筆を取り上げるんですから」
陰陽寮にも数種類の木が植えられている。桜も薬として植えられているが、やはりこの時期は花が美しい。
致し方なく、晴哉も柱の間から見える桜に目をやる。
確かに音もなくそよ風に乗っていく桜の風情はいかにものどかで、上流階級の貴族たちがこぞって歌に詠みたがるのもうなずける。
その桜の散り際に既視感を覚えて、晴哉は首をかしげた。
「どうかした?」
いつの間にか懐から干し杏を出してつまんでいた明羅に訊かれて、首を横に振った。
「いいえ、なにか、桜に覚えがあったような気がしたのですが……思い出せませんでした」
悪い思い出ではなかったように感じたが、じっくり考えている時間はなかった。
「兄上、この後私はある寺へ呼ばれているのですが、よろしければご一緒にいかがですか」
「晴哉が、ってことは安倍家への依頼でしょ? 僕が行ったらまずいんじゃないの」
「まさか。当代一の陰陽師が来て嫌がる人はいませんよ」
それに、と晴哉は笑った。
「菓子などもたくさん用意してくださるそうで」
「よし行こう」
寺での用事はすぐに終わった。
ここも今は桜が主役とばかりに花を咲かせている。
その中でも一際大きな一本は、両側に広く枝を張り、枝の先まで淡い色の花でいっぱいだった。
夕日に花弁を照らされたその大樹に、晴哉は足を止めた。
「ここだ……」
「晴哉?」
「私は、随分幼い頃にここに来たことがありますよ」
連れてこられたのだったか、この桜の下で待っていた晴哉に、誰かが――
「誰かが、いたような」
桜の下に歩み寄ろうとした晴哉を、明羅が止めた。
「いけない」
晴哉の手首をしっかりと握って、明羅は人差し指を口元にあてた。
「逢魔が時に桜の下に入ると、連れて行かれてしまうよ」
「それは、なにかのまじないですか?」
明羅も自分で言った言葉を反芻しながら桜を見上げた。
桜の名所と評判の場所でも、そんな言葉がよぎったことは無かった。
この巨木だけが、どうしてか明羅にそう思わせた。
幹の太さだけでも相当の年数を経た木だ。晴哉は感嘆を込めて見上げた。まだ咲き始めたばかりらしく、花はさほど散っていない。あと十日ほどは見頃が続くだろう。
そのわずかの日数が、明羅にはこの上なく恐ろしいものに思えた。
数日と経たず、晴哉は一人でその寺を訪っていた。
本当は明羅を誘うつもりだったが、住職からの文を受け取ってすぐに明羅を探したものの、彼は入れ違いに左京での依頼に出てしまっていた。
少し残念に思いながら住職の用を済ませ、とりとめない話をしながら、目は境内の桜に行く。
「見事なものでしょう」
「ええ、本当に。どのくらい長く生きている木ですか?」
「聞いたところによると、数百年とか、千と申す者もおりますな」
「それはすごい」
今の都が作られておよそ二百年、もしかしたら、それより前からここに生きているかもしれないと思うと、不思議なものを感じる。
帰りしなにまた桜を見上げて、いつのものともしれない記憶を探る。
安倍邸が焼けてから後のことだ。理由は定かではないが、叔父に連れられてここを訪れて、お前は待っていろと桜の下に立たされていた。
あの時も花盛りで、花を透かして差し込む陽が気持ちよかった。
記憶に誘われるまま、気が付けば足は桜の下に動いていた。
風が吹く度、簾のように枝全体から花弁が降りしきる。
寺も遠くの山も舞い散る花に霞んで、このまま花に包み込まれてしまうようだった。
日の光に淡く輝く花弁が雪にも似て、花吹雪という言葉をしみじみと思う。触れても溶けない、冷たくない雪。
喧騒も届かない静寂に思わず晴哉は目を細めた。
「気に入りましたか?」
「!」
気配もなく、突然横から問われて晴哉は一歩飛び退った。
誰も歩み寄ってくる様子はなかったのに、木の真下に人が忽然と現れていた。
足元を隠す裾の長い衣に柄の入った帯を締めて、透けるほど薄い上着を纏うその人の、瞳は桜と同じ薄紅。
とっさに懐の式札を探った晴哉に、その人は穏やかに笑いかけた。
「大きくなりましたね、晴哉」
人ではない。しかし、害意も感じない。長く垂らした薄桜の髪と薄紅の目は、記憶の片隅に引っ掛かった。
「あの日はただ待っていた幼子が、今は一人で訪うほど、立派になったのですね」
おつかいですか、と訊ねた人がいた。叔父の用が済むのを待っているのだと答えると、それまでお話をしましょうと、晴哉を膝に乗せてくれた人がいた。
「あの時の……!」
「覚えていてくれましたか」
嬉しそうに微笑んだその人は、音もなく晴哉に歩み寄ると、両手を広げた。
「待っていたのですよ、あなたのことを」
世界が赤味を帯びつつあった。陽が西に傾いてきたのだ。
胸の奥によぎった不安に突き動かされて、大きく張った枝の下から出ようとした晴哉を、
後ろから白い袖が抱きとめる。
「たった十余年、こんなにも長かった」
足が動かない。
『逢魔が時に桜の下に入ると、連れて行かれてしまうよ』
謳った兄を思い出す。
眩暈がするほどの桜吹雪の中で、晴哉は自分を抱いた腕に力がこもるのを感じた。
作法や行儀というものを全てかなぐり捨てたけたたましい足音が渡殿を走り抜ける。
「明羅! どうしたんだよ!」
孫廂から飛び降りた背中に慌てて有典が叫ぶと、明羅は一瞬だけ振り返って答えた。
「晴哉の気配が消えた!」
それ以上話している暇はないということなのだろう。
つむじ風と共に、明羅は白虎の背に乗って高く宙を駆け上がって行った。
陰陽寮で、明羅はめったに式神を使わない。本心はどうあれ、必要以上に力を誇示するつもりがないことは有典も知っているが、その明羅がよりにもよって四神を召喚して飛び出して行ったとなると、普通であれば国家転覆の危機かと身構えるところではある。
普通であれば。
多分言った通りなのだろう。あの明羅のことだから、晴哉にこっそり式でもつけて、いつでも晴哉の位置が分かっていたとしても、有典は驚かない。
晴哉が――安倍の当主が消えたとなれば、それはそれで一大事だが、明羅が飛んで行った以上長くはかかるまい。
以前の騒動を思い出して、有典は決めた。
「よし、退出ろう」
明羅が激怒することがあっても、都に巣食う雑鬼が消滅するだけである。
気がつくと、晴哉は美しい庭の中にいた。
後ろにはあの桜の木が咲き誇っている。正面には破風も見事な屋敷が建っていた。先ほどまでは夕方だったはずだが、空は澄み渡って、ひとすじふたすじ白い雲がたなびいている。桜の他にも、黄色や淡い紫の花が庭を彩り、木々の葉は瑞々しい緑、耳をすませば小鳥の鳴き声もしている。
広大な池にはどこからか水の流れ込む涼やかなせせらぎが聞こえてくる。
その水も深く透き透って、清らかだった。
「いかがですか」
呆然と景色に見入っていた晴哉から腕をはなして、男は建物を示した。
「人の屋敷に似せてみましたが、あなたの好みに合うでしょうか」
寝殿の正面、装飾も美しい欄干の階から男は上がり、晴哉にも上がるよう促した。
晴哉の常識では、自分はこの階を上がれる身分ではない。
せめて車寄せでもあればと視線を泳がせた晴哉に、男は手を差し伸べた。
「ここには人の世の決まりごとは及びません。あなただけがわたくしの客ですよ」
晴哉は意を決して沓を脱いだ。
触れた欄干は、確かに木の触感だった。
招き入れられた室内は、晴哉の知る屋敷とはずいぶん様子が違った。
まず部屋の中が明るい。昼間でも奥ほど薄暗くなってしまうはずが、すみずみまで同じように明るい。
しかも御簾や襖の類がない。
かろうじて几帳は置いてあるが、それも妙に現実味がない。塗込めもなく、渡殿で繋がった対の屋から向こうの景色までが見通せてしまうのだ。
「野分などは起きませんよ」
他人事ながら心配してしまった心の内を見透かしたように男は言って、向かい合って敷かれた畳に座った。かすかに衣擦れが聞こえる程度の、静かな動作だった。
「ここはわたくしの世界ですから」
「……あなた様は、あの桜に宿る、神でいらっしゃいますか?」
畳には座らず、下座の床に端坐して両手をついた晴哉には確信があった。
晴哉はこういう世界を知っている。
はじめから神域である高天原に住まう神々とは違って、地上にいる神は自分の神域を作り出す。規模も景色も様々だ。前に入った神域も、神の性質を反映した世界だった。そしてここは、まさに男が語った通り、男の―桜の神の神域なのだろう。
「この地に芽吹き八百年、山のものたちはそのように呼んでくれますね」
「知らぬこととはいえ、無礼を致しました」
「いいえ、わたくしはむしろ、そのほうが嬉しいのですよ」
男は晴哉の両手を優しく取った。
「あの日、幼かったあなたは、わたくしを怖がることなく、一生懸命話をしてくれました。わたくしの姿が見えるものはわたくしから遠ざかり、見えないものには、いくら呼びかけても気づくことなく、所詮は名ばかりの神であるわたくしは、ずっとひとりでした」
いつのまにか、晴哉は畳の上に座っていた。
「あなたの話を聞かせて下さいませんか? あなたはあれから、一度もここを訪うことはありませんでした。ですがわたくしは、遠くから、時折見えるあなたを見ていたのですよ」
「話、といっても、私には話せるようなことはなにも……」
「なんでも。そう、あなたのこれまでのこと、陰陽寮でのこと」
「……私のこと……」
迷いつつ、とりとめのない話をぽつぽつと話し始めた。
安倍邸襲撃事件以降の、叔父の暗躍、母の策謀、気付かずに、ただ陰陽寮で一心不乱に仕事をこなしていたこと、そして、兄に出会えたこと。
「兄君に?」
「ええ。つい二年ほど前のことです。兄上は、最初は昌隆殿の遠縁として陰陽寮に現れました。私はなにも知らずに、兄と同じ名を名乗るその人が気に食わなかった」
淡々とした味気ない日々が、それを境に一変する。
賑やかな毎日を話すうちに、晴哉の口元も少しずつ緩んでいた。
毎日が新鮮な驚きに満ちていることが断片的な話からでも伝わった。
時々むちゃくちゃな兄への愚痴と、憧れ。
年相応に笑う晴哉に、桜神は少しばかり、表情を変えない程度に妬心を覚えた。
「兄君を敬愛しているのですね」
晴哉は思いがけないことを言われて、目を丸くした。
「遠くに見えるあなたは、いつも何かを我慢しているようでした。何度も、あなたのもとへ行きたいと思い、叶わず……。その間にあなたは、そんなに豊かな顔をするようになったのですね」
途端に口元を袖で覆った晴哉の耳がほんのり赤くなっている。
「今、あなたをそのように笑わせるのが、わたくしであったなら」
彼の言葉を図りかねて目をそらした晴哉に、彼はまた微笑んだ。
「あなたにばかり話をさせてしまいましたね。どうぞ、喉がかわいたでしょう」
勧める椀には並々と水が満たされている。
「人の世では、こういう時には酒を勧めるのでしたね。酒も整えることはできますが、あなたは、あまりお好きではないでしょう?」
「何故、それを」
「わたくしに許されたのは、ここからあなたを見つめていることだけでした。見ていることは、許されました。ずっと、いつかこのようにあなたを招くこともあればと。ええ、先日の人の子の宴でもそうです」
酒が苦手なのは本当だった。
勧められて乾す程度のことはするが、あの苦味には慣れない。だから宴の席も、あまり好きではなかった。
「どうして断らないのです? 楽しそうには見えませんでした」
吐息混じりに晴哉は答えを濁した。
「……それは、私には、とても……難しい問いです」
「人の世の柵ですか?」
晴哉にとってはとてもそれだけでは言い切れなかった。
生い立ち、家柄、一族、晴哉を取り巻くものについて考えだしたら、いつも頭より先に胸が苦しくなる。
こうありたいと思う姿になれていないのも、晴哉にとっては気鬱のひとつだった。
固くなってしまった晴哉の横顔は、桜神の表情も暗くさせた。
「辛いのですか」
「え?」
「あなたにとって、人の世にいることは辛いことですか?」
袖飾りの鈴が音を立てて、桜神の冷たい手が晴哉の頬に触れる。見上げた間近に彼の薄桜の瞳があった。
揺れた薄物からは春の匂いがする。春の野を過ぎたそよ風のような香りは、落ち込んだ晴哉の気持ちを安らげた。
ここは、とても優しい場所だった。
白虎の背に乗り、寺の門前に降り立った明羅は、門をくぐると迷わずあの桜へ向かった。
すでに陽は沈みきって、西側にわずか夕焼けの名残があるばかりだ。
桜の幹に手のひらを重ねると、そこに流れているものが感じ取れた。
目を閉じ、意識を桜に集中させて、明羅は心の内で強く晴哉を呼んだ。
微睡に落ちかけていた晴哉は、不意に引き戻されて目をあけた。
「どうかしましたか?」
「兄上の声が」
懐に何か熱を持ったものがあった。懐紙の間に挟まっていたのは、まさに明羅の札だった。まだ呼ばれている感覚があって、晴哉は辺りを見渡した。
「兄上」
そうするのが当然と言わんばかりに、迷いもせずに立ち上がって庭へ降りようとする。
「晴哉」
先ほどよりも少し強く、彼は晴哉の手を引いた。
「このまま、わたくしと共に過ごしませんか」
薄々察していた。この神が晴哉に望むことを。
「私は……」
明羅の式は熱を帯びたまま、晴哉を呼んでいる。
「あなたを、わたくしの伴侶として迎えたいのです」
明羅の閉じた目に、見知らぬ屋敷が映った。見たこともない薄桜の髪の男と向かい合う晴哉。
この男が明羅に神域の様子を意図的に見せていることも理解した。
反応がなければ無理矢理こじ開けてでも神域に乗り込むつもりでいたが、向こうが譲歩したのだ。明羅も、少し様子を見ることにした。
「晴哉。わたくしなら、あなたに望まないことをさせはしない。あなたを苦しめるもの全て遠ざけましょう。あなただけを愛し、慈しみ、あなたに尽くすとお約束します。あなたは、もう辛い思いをすることはないのです」
楽しいことと辛いこととを秤にかけた時、その秤がどちらに傾くか、晴哉は判断できない。
大変なことも辛いことも山ほどあるはずなのに、楽しいことは一つ一つが思い出の中で七宝のごとくきらめいて、暗い記憶をかき消していく。
全てを投げ出して神のもとへ嫁いだら、おそらく彼の言うとおり晴哉は今後何一つ不自由せず、安穏とした日々を過ごせるだろう。
晴哉は、その手を取れない。
急な話だから、まだやり残したことがあるから、言い訳はいくらでも思い浮かぶ。
「あなたを困らせたいわけでは、なかったのに」
晴哉よりも桜神のほうが悲しそうに言う。
この美しい人を悲しませていることが申し訳なくて、急いで何か弁解しようと思うものの、結局晴哉は、膝の上で握った拳を見下ろすことしか出来なかった。
恐ろしく魅力的な話だった。晴哉の全てを懐に入れてしまう神にだけ許された傲慢。
きっと晴哉を大事にするといった言葉も、まんざら嘘ではない。
この世界の何もかもが晴哉に優しい。
今日まで思い出しもしなかったのに、晴哉はこの相手に懐かしさを感じていた。
その理由に思い至った時、彼は勢いよく顔を上げた。
「私のために、姿を選んでくださいましたか?」
桜神は微笑むだけで肯定した。具体的にどこというのでもなく、佇まいや醸し出す雰囲気は幼い記憶にある父に、声は、ふとした瞬間に兄と重なる。
「申しましたでしょう。あなたの望むようにと」
晴哉が無意識のうちに望んだ形なのだと桜神は答えた。
「それではやはり私は、帰らなければ」
そうして晴哉は晴れ晴れと笑った。
「私の望みは、あちらでなければ叶わないようです」
再び庭に降りた晴哉の後ろから、桜神も階を下る。
境になる桜の木の前に立った晴哉を呼び止めた桜神は、名残を惜しむ手つきで晴哉に触れた。
「もっと早くにあなたと再会していたら、ここに留まることもありえましたか?」
もう選択は済んでしまった。変わることのない分かれ道の、見えない道を振り返る。
「もし――もしも、兄上が戻っていなければ、答えは違っていたのかもしれません」
晴哉も泣きたいような気分だった。一生のうちでこれだけ無条件に愛してもらえるのは後にも先にも、きっとこれきりだろうから。
「わかりました」
やんわりと抱きしめたのは、晴哉が拒絶しないと解っているからだ。
拒絶しなかったのは、必ず放してくれるだろうと解っているからだ。
「わたくしは、これからもずっとここにおります。あなたの往く先に、あなたが、深い悲しみの中で、己の命を絶つことを考えるのであれば、ここへ来て下さい。ずっと、待っておりますから」
そんな日の来ないことを望みます、と桜神は言った。
「どうぞ、桜に触れて下さい。あの境内へ戻れます」
「ありがとうございました。あなた様が私をこのように思って下さったことは、本当にうれしく思います。頂いた気持ちに応えることが出来ず、申し訳ありません」
「そんなあなただから、わたくしは焦がれたのかもしれません」
そんなつぶやきを背中に桜に手を添えて、瞬きをした次には、辺りは真っ暗になっていた。
外はすでに真夜中だった。
目を眇めているうちに、星明りにぼんやりと寺の影だけが見えた。
白い塊と思ったものが人だと判ったのは数泊後で、さらにそれが兄だと理解するまでに時間を要した。
ようやく晴哉の視線が自分に定まったことを認めて、正面に立っていた彼は、長く息を吐き出した。
一歩二歩と歩み寄って、そのまま晴哉の肩に額を当てた。
「おかえり」
表情は見せないが、心から戻ったことを喜んでくれている声だった。
「……あの」
口を開こうとした晴哉を制して、明羅はもう一度深く息を吸った。
「もう戻らないかと思った」
「そんな」
「晴哉が望むなら、僕に止める権利なんて、ないのにね」
この兄がこれほど弱気な言葉を口にするのは初めてで、晴哉は恐る恐るその背中に腕をまわしてみた。
狩衣がとても冷たい。
「とにかくまずは屋敷へ戻りましょう。とても冷えていますよ」
「そうだね」
言葉少なに桜の下を出て寺の門から出る直前、二人はどちらからともなく桜を振り返った。
明かりのない夜にはっきりと見えるはずのないその木が、二人の目にははっきりと映っていた。
「……兄上」
「うん」
「ただいま戻りました」
「おかえり」
明羅は、肌に刺々しい気配を感じていた。
明羅は気配だけで応える。この子は渡さないと。この子の望みを叶えられるのは、こちら側にいる自分だと。
晴哉が心から向こうに留まることを願ったら戻れなかったことも、明羅があの場にいなければ、桜神がどうしていたのかも、晴哉は知らなくていいことだった。
「屋敷に戻ったら、生姜湯でも淹れよう。蜜を入れて」
「はい、兄上」
それから数十年の後、ある日突然、その境内の桜は忽然と姿を消した。
その日、都では高名な陰陽師が息を引き取ったが、ふたつのことを繋げて考える者は、誰一人居なかったという。




