不倫など
不倫など、上手くいかないとわかっていた。
花枝は笹本と食事に行く約束をした。
笹本を好きだからというわけではなかった。
先週花見に出かけたのがやけに楽しくて、盛り上がった勢いで、「好き」と返してしまった。そういうバカなことをするのが花枝の趣味だ。
満開の桜を目の前にして、笹本が「好きだ」と言ったとき、花枝は頭の中で笹本と一緒にいることのメリットを数えた。
優しい。奢ってくれる。おいしいものが食べられる。体の相性が良い。急な呼び出しにも応じてくれる。頭が良い。話が上手い。
花枝は、「好き」と返した。
そうやって、不倫が始まった。
笹本と連絡がつかなくなったのは、花枝のせいだった。
花枝は、笹本からのメッセージや着信を全て拒否し、これから自分がどう振る舞うべきか考えた。笹本という男をあえて遮断することで自分の気持ちが本当かどうかを確かめたかった。
とはいえ、笹本からの連絡を一切拒否したのはたったの一日半だけだった。一日かけて花枝は彼とうまくやっていける気がした。彼を好きになることができる気がした。
実際のところ、笹本という存在はそれほど暖かくはなく、優しくもない。彼は花枝の寂しさを知ることも、埋めることもできない。会っている時はそれなりに楽しいが、それ以外では彼からの愛情を感じることができなかった。
会わなければ、彼はきっと花枝を忘れていく。
寂しさに耐えかねて、つい花枝は笹本に連絡を取った。
耐えられたのはたったの一日足らずだった。
しかし、すでに笹本は花枝から去っていた。
花枝がいくら連絡しても笹本は応答せず沈黙するばかりである。たったの一日足らず、という時間は偉大だった。
花枝はおかしかった。兎に角おかしい。
三年間あんなに愛してると言っていた男が、たった二十四時間ちょっとで去る。馬鹿げている。
花枝は、ただの馬鹿だった。何を信じ、期待していたのだろうか。不倫相手の花枝が笹本の本当の愛情を手にしているはずがないのは当然だったというのに。
何人もいる愛人のひとりが、図々しくも笹本を試したりした。花枝は三年間付き合い続けてきた笹本を、一日にして失った。まるで死んでしまったみたいにあっけなかった。
花枝はひとり勝手に心の中で笹本の葬式を挙げた。
花枝は笹本の奥さんと同じく黒留袖を着て、彼女の隣に座る。さながら本物の妻にでもなったかのようだ。彼女が涙を流しながら笹本の死を悼む言葉を読む。悲しみのあまり声が震えて出せなくなる。花枝は立ち上がり、彼女の肩を抱き、それから代わりに弔辞を読み始める。
私の知る彼はとても優しく、愛すべき人でした。こんなに早く逝ってしまうなんて寂しいけれど、穏やかに苦しまずに行きましたからきっと天国でも幸せにやっていると思います。
花枝の瞳も潤んでくる。涙が溢れる。白いハンカチで涙を拭うと小さなダイヤがキラリと光る。笹本が花枝に贈ったものだ。
花枝はふと彼女の手を見る。マニキュアもなく化粧気はないが家事を真面目にやって優しい母親にでもなろうとしていたようなふっくらした綺麗な手だ。
左手の薬指に花枝のとは比べものにならない大粒のダイヤが光を放っていた。
花枝は心の中で自分のことをせせら笑った。堪えきれずに花枝の口元は少し歪んだ。でも仕方がない。それほどに花枝が馬鹿だったのだから。
そんな想像をして、花枝は首を横に振った。おかしいのは笹本ではなくて花枝の方だ。花枝は笹本が好きではなかったはずなのに、去ったと分かったとたん、急に恋しくなった。花枝は、「好き」の正体がますます分からなくなった。
最近の花枝は、夕方に起きて朝方に寝ている。夜中に帰る日ばかりが続きいつの間にかそんな生活になっていた。遊びまわって朝帰りをする毎日だが、いくら遊びまわっても心にぽっかりと空いた穴からは風がビュービュー吹き抜ける。その穴は笹本である。
花枝は心底あの男に気に入られたかった。