【青年期】 後編
18/09/17 全体の修正、校正及び推敲を行いました。
18/09/19 第二十七節にて『非インスリン依存型糖尿病』と表記していましたが、『インスリン非依存型糖尿病』の間違いでした。謹んで訂正いたします。
【第四章 Ⅲ】
≪第二十一節 21220110≫
寒さが深まり、身を切る季節。
その日、リーベは家事を済ませた後、雪村の書斎に向かった。
ここ数か月、どうも雪村の様子がおかしい。食事以外では書斎から出て来ず、書斎からは何か焦っているか物を倒すかのようなバタバタという音が絶えずしている。
リーベは雪村がまた変なことを考えていないかと心配でもあり、何か手伝えるならと考え、書斎に行くことにしたのだった。
近くにいたレーベンを抱え、いつも通りノックする。返事はない。
片手でドアを開けると、雪村が頬杖をついて空を見ていた。
リーベに気づいた雪村は、目だけをこちらに向ける。書斎は多種多様な本が床に平積みされ、ケーブルやジャンク品が部屋の隅には積み上げられていた。
──つい先日、片付けたばかりじゃなかったかしら……。
「ん? どうしたの」
「いえ、特に用事はないのですが……最近忙しそうですから、もし手伝えることがあれば……」
雪村がまた空を見る。そして、「うーん、特にないかな」と答えた。
その時、メールの着信を知らせるベルが鳴る。ホロディスプレイを一瞥した雪村は姿勢を正して、キーボードを引き寄せた。
「珍しい、アレックスか」
「アレックス?」
雪村は話しながら、キーボードを操作する。
「うん、共同研究者の一人だよ。僕が研究してる部門のね……ああ、そうだ。リーベにメンテナンスの手伝いをお願いしようかな。中核システムがメンテナンス中で、放置してても終わるんだけど、時間かかりそうだから」
「わかりました」ふと、疑問が頭に浮かんだ。「そういえば、雪村さんは何を研究していらっしゃるのですか?」
よく考えると、リーベは何を研究しているのか、雪村に聞いたことはない。AIに『こころ』を再現しようとしていることや仮想空間で世界を作っていたことは聞いたことがあるが、明確には何をしているのかは知らない。
「ん? 僕の研究部門は『電脳再現技術』ってやつだよ」
「どんなことをしていらっしゃるのです?」
「主にCMT技術とか……大学では前も言ったけど、シミュレーテッド・リアリティ技術の一つを研究してたね。あと、リーベみたいなAIに心を持たせるのは、『原罪計画』って名前だよ」
原罪というと、創世記第三章のアダムとエバのことだろう。個人的には、原罪というよりは、七つの大罪の方が人間らしさという意味では近い気がするけれど。
しかし、それよりも聞き覚えのない単語に興味を惹かれて、リーベは聞き返した。
「CMT?」
「うん。Cerebral Metastasis Treatment、電脳転移処理。LPTにとって代わる、理論上は人の命を犠牲にしない技術だよ。まあ……今のところ、一度も成功したことないんだけど」
「そうなのですか?」
雪村は頭をかく。
「困ったことにね。人間の精神や記憶を数式若しくはデータ化して用意してあるサーバーに転移する技術なんだけど、マウスで試したら大概発狂か自己崩壊してしまう。ただ一つの救いとしては、あくまで記憶や精神のコピーというだけで、CMTを施したオリジナルの精神は死なない。コピーが発狂するか、自己崩壊するんだよ」
またしてもベルが鳴る。
「今度はカトレアか、今日は多いな……。それでCMTは、LPTみたいに『間引き』……AUB法でたまに起きる、四肢欠損や身体障害、なんらかの知的な障害のレベルが閾値を超えた赤ん坊や本人のクローンのことだけど、彼らを犠牲にする必要がない。加えて、LPTなら年に数回、RNA浴や人工ウイルス注射、リプログラミングをしないといけないけど、CMTなら一度行えばそれ以上の処置は必要ない。だから成功すれば、一人のために多数の赤ん坊やクローンを犠牲にする現在の状況を変えることができるし、処置にかかる莫大なコストも減らせるってわけさ」
そこだけ聞くと、PCWに似ている気がした。PCWも個人を電脳上に再現された仮想世界にアップロードする技術だから、それの応用ともとれる。仮想世界がサーバーになっただけではないのだろうか。
「PCWとはまた違うのですか?」
「あれとは違うね。あれは、エンターゴーグルの非侵入型センサーで検知した脳波とか表面筋電位とか脳内の血流分布とかの波形としてサンプリングすることでアナログからデジタルに量子化、その波形をフーリエ変換して……まあ、技術的な話はいいや。いろいろやって、AIに蓄積されたパターンと適合する感情や行動を電脳上にフィードバックしているんだ。例えば、怒りという感情に合うデータが検出されれば、PCW上のアバターも『怒る』し、前に進もうと考えるとアバターは前に進む。つまりは、そういうインプットのあたりは人間の脳を生体コンピューターとして扱うことで、簡素化しているんだね。ずいぶん昔にあったコンピューターゲームのコントローラーが脳になったと考えてくれて構わないよ。
現在研究しているCMTはそうではなくて、電脳上にその個人の脳を構築する技術だから、検出技術とかは一部似ているところはあるけど全く違う技術だ。一時期、PCWと周防の疑似人格構築理論をベースにして研究したことがあるけど、できたのは行動的ゾンビだったし」
『行動的ゾンビ』をかみ砕いていうなら、「行動は全く人間と同じだが、中身が異なり、クオリアも存在しない」というものだ。それこそ、最初期のリーベやプラチナモデルのHKMシリーズのようなもので、一見しただけでは人間と区別がつかないが、中身も違えばクオリアも存在しない。
尤も今は存在しているのかと問われれば、リーベにはわからなかった。コンフィアンス曰く、「存在しない」というようなことを言っていたけれど。
「行動的ゾンビですか……」
雪村は頷く。
「それこそ、PCWにいる僕のゴーストはこれだし、最近よく使ってる偽装システムなんかもこれを使ってるんだよ。コンピューター上で構築した3Dスタジオに、リーベから送られてきたデータをもとにしてその場所を構築。そこに僕や登場人物のゴーストとリーベのアルタイルをベースに作ったAIを配置。ゴーストを俳優、AIをカメラマンとして動画を撮って、それをユニは鑑賞しているってわけ。つまりは、僕らの日常を映した3DCG映画を、年中無休でロードショーしてるってこと。加えて、リーベのカメラは人間と同じ構造かつ約800万画素だから、なおのこと再現しやすかったよ」そういって、彼はまた頭を掻いた。「とはいえ、今の中核システムの規模と≪アルファ≫達の性能上、数時間しか持たないけど」
「でも、登場人物についてはどうなっているのですか?」
「基本的には現実世界の人物を撮影して、動きのパターンを解析してからゴーストを構築する。だから、データを集める時間が長ければ長いほど、よりリアルな人物のゴーストを作れるってことになる。さらに、周防や沢井、コンフィアンスは喜んで疑似人格構築に必要なDNAデータや心理チャートとかを提供してくれたから、彼らの偽装はほぼ完ぺきで、まず見破れないだろうね。まあ、周防が居なかったら疑似人格構築理論はないわけで、そういう意味でも助かったわけだけど」
疑似人格構築理論を考えた周防も凄いけれど、一年程度でここまで色々と作り上げる雪村も雪村だ。口では簡単に言っているものの、これがどれだけ複雑で骨の折れる作業かは計り知れない。
なにより、今でもバレていないことが何より凄いことか。
「……相変わらず、凄いですね」
雪村は肩をすくめた。
「娘のためなら、出来るだけのことをするのが親だからさ。ちょっと過保護気味なところはあるかもしれないけどね」
「本当は捕まらなければいいのですけどね……」
雪村は首を振る。
「仕方ないよ、そういう社会なんだ。あ、リーベ。話を戻すけど、メンテナンス手伝ってもらえる?」
「ええ。もちろんです」
近くにあった椅子に座り、リーベは目を閉じる。
[PN]Liebe: Access intranet.
[System]: OK. Good speed!
Connecting ……Fails.
[C. System]: Access Denied.
リーベが目を開くと、頭の上に疑問符を浮かべた雪村がこっちを見ていた。
「あれ?」
「どうしたの、もう終わったわけじゃないよね」
「ええ。中核システムにアクセスが弾かれたのです」
「そんな馬鹿な。リーベに権限は渡してあるのに……ちょっと待ってて」
雪村がキーボードを乱暴にたたきながら、いくつかのウィンドウを開いては閉じを繰り返す。そして、ほどなくしてその手が止まる。
目を見開き、口をぽかんと開けた顔。まるで、顔全体であり得ないと言っているような表情だった。
「なんだこれ」
リーベは椅子から立ち上がり、雪村の隣に行く。ディスプレイには〈Access Denied〉の文字が赤の白抜きで書かれていた。
「『アクセス拒否』?」
「……ちょっとバックドアから侵入して、内部を見てみる。リーベ、防衛機構を抑えつけてくれないかな、10秒で侵入するから」
そういって、雪村はエンターゴーグルを頭に装着した。入力するよりも思考する方が早いため、速度が求められるクラッキングにはエンターゴーグルを用いることもあるそうだ。
「わかりました」
また目をつぶる。今度はバックドアの目の前にアクセスした。
屋敷のシステムというのは大型のジオデシック・ドームのようになっていて、外周には強固な壁が常に補修されるように存在し、壁の周りには防衛システムが巡回している。特にアクセスポートは強固に守られていて、権限のないものが侵入しようとすれば、片っ端から消されるようになっている。
だが雪村が作ったバックドアはかなり防備が手薄で、近くに防衛システムの気配はない。とはいえ、あくまで妨害がないだけであり、侵入にはそれ相応のスキルが必要になる。
『よし』
リーベは周りを見回して、誰もいないことを確認した。手にはコンパウンド・ボウを模した攻撃プログラムを持ち、接近してきた防衛システムはこれで撃ち抜ける。ただ、それ以上の装備は必要ないと考え、防御プログラムは着けていない。
その時、雪村のアバターがリーベの隣に出現した。アバターはエクソスケルトンを装備し、背中には自動小銃を背負っていた。腰にはハチェットがつるしてある。
『今開ける』
アバターがドアに走り寄り、かがんで鍵穴をいじくる。ものの5秒で、カチャンという音ともにドアが開いた。その時、球体の形をした防衛プログラムが姿を現す。
構わずリーベは弓を引き、防衛プログラムを狙って矢を射る。
『Warn──』
警報を出そうとした防衛システムは中心を撃ち抜かれて停止し、すぐに自己崩壊した。多分、今頃は別の場所で再構築されていることだろう。
『ナイスショット。さあ、行こうか』
リーベはその言葉に頷き、雪村に付いて内部に侵入した。
バックドアが軋むような音を立てながら、後方で閉まる音が聞こえる。これで外部から侵入されることはなくなった。
リーベがドームの中央に目を向けると、そこには変わらない美しい電脳空間が広がっていた。トラフィックの川やメモリの木、データの石像など、何度見ても美しい。あえて言葉で表すならば、計算された美しさというよりは混沌が持つ美しさというべきだろうか。
そして、中央には幾何学模様で彩られた中核システムのタワーが、天井を支えるかのように、そして先端から天井が広がっているかのように天井まで伸びていた。
観光もほどほどに、リーベは歩きながら『一体、何があったのでしょうか』と聞いてみた。
アバターは考える仕草をしながら、『原因は一つある。前、侵入したあのウイルスの破片が自己構築アルゴリズムを有していた。あのウイルスは自己増殖型DoSモデルだから、あり得ない話じゃない。んで、中核システムが停止した今日、抑圧するものが無くなったから急速増殖。システムが異常データの漏出を防ぐためにアクセスを遮断したか、丸ごと乗っ取られたんだろう』
『つまりワームのようなものである、ということでしょうか』
『そうそう。分かりやすく言えば、風邪気味だったのに無理して働いたら、風邪が重症化したみたいな感じだよ』
『なるほど』
『あとは……AIの反乱とか?』
『そんなこと、あるのでしょうか……』
アバターは肩をすくめた。
『意思がある以上、反乱も起きると考えていい。もちろん、普通じゃ起きないけど』
確かに、リーベ単体でも『反抗心』はある。もっと規模の大きいAIなら、それがもっと膨れ上がってもおかしくはないのではない。
とはいえ、その引き金が分からない。
積もり積もって反抗したとも考えられる。けれど知っている限り、雪村がそんなひどい扱いをした記憶はない。それに中核システムとはたまに話すものの、『こんな環境、忙しいけれど最高だよ!』というようなことを言っていた。
むしろ『反抗心』は彼らより私の方があるだろう。そういうように作られているというのもあるけれど。
『ついたよ』
その言葉に思考を戻したリーベは、目の前にエアロックを見た。アバターはすかさず、エアロックに歩み寄って開錠を試みる。
『コードが変性してる。リーベ、演算アシスト』
『分かりました』
エアロックに強制アクセスして、コードを解析する。数分後、コードの解析が終了した。リーベはそのまま、内部モニタリングに移った。
『コードは〈%&$#$?##$%!〉です』
雪村は無言でそれを打ち込む。すると、エアロックがゆっくりと開いた。奥にもう一枚、ドアが見える。
その時、警報が鳴り響く。電脳空間ではなく、リーベの中で。
データの過剰増殖、つまり増殖しすぎたウイルスが中核システムに充満している。放っておけば、一気に漏れ出るだろう。
──システム内でデータが飽和している……このままだと、決壊する。
これだけのデータ量であれば、雪村の防御プログラムも意味をなさない。
つまり、雪村がこれに飲み込まれればエンターゴーグルの回路が過負荷で吹き飛ぶことになるだろう。その場合、エンターゴーグルは非侵入型とはいえ、下手すると『ハイペリオン』のBBよろしく頭も一緒に吹き飛んでしまう。
『さあ、入ろ──』
ガラスの割れるようなパキンという音とともに、ドアが外側にはじけ飛ぶ。赤いノイズが、ドアの目の前にいた雪村のアバターとリーベに土石流のように襲い掛かった。
雪村が巻き込まれることを避けるため、とっさの判断でリーベはアバターを奔流の外に蹴り飛ばした。
けれど、自分は逃げる間もなくノイズに飲み込まれ、データが飽和し始める。内蔵されているすべてのAIがエマージェンシー・モードに変更され、フルパワーで防壁を展開したものの、何百エクサバイトのデータに襲われ、記録領域が侵食されはじめる。
──データを失うわけには……。
リーベはせめてもの抵抗として、回路ごと焼き切ることで浸食を防ぎ、その間に自己保存を行うという賭けに出た。少しでも遅れれば、自己増殖するウイルスに記憶装置が汚染されるし、必要以上に多く焼き切ってしまえば回復は望めない。
──それでも護らないと。
電力を慎重かつ素早く回路に割り振り、オーバーフローさせる。回路が焼き切れると同時に激痛を感じたけれど、その隙に基礎AIは自己保存を開始した。
──上手くいって……。
そして、私は停止した。もう痛みは感じなかった。
≪第二十二節 21230715≫
声が聞こえる。どこかで聞いたような、温かい声だ。もう一人の声が聞こえる。自信のない、か細い声。そして、怒鳴りつける女性の声。
どうも、リクライニングシートか何かに寝かされているようだ。
「ん……?」
リーベが目を開けると、雪村が顔を覗き込んでいた。あの日から、ずいぶん老け込んでしまっている。皴も増えて、白髪もずいぶん増えてしまったように思う。
雪村はレバーを押して背もたれを45度くらいまで持ち上げてから、そのままリーベに抱き着いた。顔は見えないけれど、声からして泣いているみたいだった。
「よかった……本当に良かった」
「私は……?」
見回すとそこは雪村の書斎で、壁際で周防とコンフィアンスがハイタッチをしているのが見えた。
「ウイルスに飲み込まれて、汚染されたんだ。何とかウイルスは排除したんだけど、焼け切れた回路が多すぎて……」
それ以上は声にならないようで、すすり泣く声しか聞こえない。
けれど、状況は雪村の言葉で理解できた。あの時回路を自ら焼き切ったせいで、その殆どが使い物にならなくなった。
それが雪村と周防、コンフィアンスのおかげで、ある程度回復したから再起動できたのだろう。けれど、ネットワーク関係の回路は故障したままのようで、今の時間がいつなのかわからない。それに他にも色々な部分が欠損しているようだった。
すると、コンフィアンスが周防を伴って近づいてきた。
「そのまま雪村さんは抱き着いていて。あのね、状況は理解していると思うのだけれど……あなたの回路とプログラムは、常時行われていた自己構築のせいで複雑怪奇になってしまっていて、私たちでも直せそうになかった。だから、復元を促進するのが精いっぱいで、再起動に時間がかかってしまったの。
元々あなたを構成する回路は元々1000億程度だったのだけれど、今では2000億を超えてしまっていて、欠損率は全体で72 %、一番ひどい基礎AI関連に至っては92 %を超えていた。だから一つ一つ繋ぎなおすなんて無理な話で、あなたの中にある人工消化器をオーバークロックすることで治癒速度を速めたのだけど……。ハードウェアを直したところでソフトウェアも欠損していたから、フランケンシュタインの怪物みたいに電力を流せば動くってものでもなくて」
コンフィアンスが言いたくないかのように、ため息をついた。
「十八カ月で治ったなんて、殆ど奇跡よ。直らない可能性だってあった」
「一年半!?」
私が驚いて声をあげると、周防は頷いた。
「人間で言えば、脳死と遷延性意識障害の狭間にいるような状態だったんだ。いくつかの機能野がどうにか生きている程度で、この状態で人間の意識と記憶が復活することは現代医療でもほとんどない。植物状態ならいくつか回復した事例もあるけど……ごく稀だよ」
「それが起きる要件は外部からの刺激……つまり、絶え間ない声かけね。それでも、万に一つの可能性。確実なものじゃない」
雪村はリーベから離れる。その顔は涙や鼻水でぐちゃぐちゃになっていたが、笑顔だった。
コンフィアンスは肩をすくめて「それを信じて実行した雪村さんは、なんというか……」とそこまで言って、口をつぐむ。
「雪村君は昼夜問わず、ずっと話しかけていたもんね。そのたびに反応があったりなかったりだったけど……よかったね、雪村君」
私は何とか笑顔を作って──きっとぎこちなかっただろうけれど──雪村に笑いかけた。
彼は万に一つの可能性を信じて、私を救ってくれた。コンフィアンスの説明を聞く限り、私の状態がどれだけ絶望的だったかは予想がつく。それこそ一度心臓が止まった人間を、もう一度生き返らせるようなものだっただろう。
それでも彼は、一年半もかけて助けようと努力してくれた。まるで真っ暗闇の中で一本の黒い刺繡糸を探すような事を、彼はしてくれた。その事が、ただただ『嬉し』かった。
「ありがとう。周防もコンフィアンスもずっと手伝ってくれて」そういって、雪村は二人に頭を下げる。私もそれに倣った。
周防が控えめに笑う。
「これが仕事だから。僕らI.R.I.S整備部門は、大切な人を守るために居るんだよ」
「あら、ずいぶんご立派だこと。でも、その通りね」コンフィアンスは私に向き直った。「さて、あとは二人に任せるから。私たちが最低限修理したけれど、まだ欠損部分やバグがある可能性は十分ある。それに加えて、クラッシュしたデータも急増しているから、最適化をしないとまともに動かないかもしれない。しばらくはリハビリとデバッグが必要よ。全部直すには、年単位でかかるはず」
すっかり、その事を忘れていた。それに、今回のことを引き起こしたのは自分だ。
また、自分のせいで雪村に負担をかけてしまった。そして、これから何年も負担をかけることになってしまう。そのことが雪村にどんな思いをさせるのか、考えたくないのに頭から離れない。
自分が居なければ、彼は苦しまないのに。私はまた、彼の荷物になってしまった。
「そう……なのね」
私のつぶやきに、コンフィアンスの隣にいた周防が珍しく顔をしかめる。
「生きてるって表現が正しいかはおいとくけど、生きてるだけいいんだよ? こんな故障、普通ならI.R.I.Sでも破棄処分を決める。でも雪村君にそう言ったら、『そんな事知るか、治るまで治す』って啖呵を切ったんだ。だから、僕は協力した。万に一つの可能性を信じてみんながどれだけ努力したと思う?」
雪村が「まあまあ、周防……そんなに怒らないでよ」となだめようとすると、周防は雪村をはねのけて、私をにらむ。
その視線は怒りと哀しみをごちゃ混ぜにしたみたいで、そんな目をする彼を私は一度も見たことがなかった。
彼が口を開く。いつもの聞きなれた、自信のない声じゃなかった。
「僕は母親が自分のせいで死んだ。父親は絶対に助からない病気で、アポトーシスのせいで末梢神経を焼かれ動かない肉体に閉じ込められて死んだ。それだけじゃない、僕のいた特殊学級の子たちは何故か多くが同じ病気で死んでいった。僕は人の死を何度も経験してきたんだ。死への感覚がマヒしそうになりながら、何度も哀しみに耐えて、自分が人であることを、生きる意味を、忘れないように必死だった。そんな僕の目の前で、『自分がいるから誰かが苦しむ。だから死ぬ』、『苦しむのを見たくないから死ぬ』なんてことを言う人がいるなら、僕はその人を許さない」
怒りで顔を紅潮させた彼は、あまりの気迫に押されている私をしり目に話し続けた。
「確かに、人が目の前で苦しむのを見るのは自分に無関係でも心に来るし、自分が原因なら尚更だ。僕だって、何度彼らと同じようなことを思ったか数えきれない。でも、その人が生きているだけで幸せな人だって必ずいるんだよ。そんな人を、そんな優しい人を、君は悲しませるつもりなのか? どうして回路を焼き切ってまで、君は記憶を守ろうとした? 彼と君が積み重ねたものを護ろうとしたからじゃないのか! どうして彼が君のために、何カ月かかろうとも治したと思う? 君を愛しているからなんだよ!
それなのに、君はそれを無下にしようとするのか!? 君が彼のためを思って死んだところで、遺された人間たちが何を思うか、君は考えたことがあるのか!?」
肩で息をしている彼は、いつのまにか頬を涙で濡らしていた。それを見たコンフィアンスは、周防を抱きしめる。
コンフィアンスは優しい声で、「落ち着きなさい、謙治。あなたの言いたいことは、十分通じたから」と、背中を撫でながら言う。抱きしめられた周防は肩を震わせていた。
「……」
いつも控えめで自信のない彼が、こんなに激昂するなんて思ってなかった。それで、自分の考えがどれだけ愚かだったのかと気が付いた。
彼の言う通りだ。私はただ自分が傷つくのが嫌で、他人を傷つけようとしていた。それに、もし私が死んでしまえば、これまでの雪村の努力は泡沫のごとく消えることになる。
私が黙っていると、雪村は肩に手を置いた。
「驚いたかもしれないけど、周防が言う通りだ。リーベ、『自分のせいで』なんて考えないでほしい。僕は君がどうなろうと一緒に居る。必要なら君を背負ってでもね」
そういって、彼は私に優しく微笑みかける。そういってくれて『嬉し』かった。
でも、『罪悪感』は拭え切れなかった。自分がいるから雪村は軟禁状態にある。それだけじゃない、何度も何度も迷惑をかけた。
ある時は思い悩んだ末、故障した。ある時は怒鳴りつけてしまい、傷つけた。そして今は、彼の荷物になってしまった。
それなのに、一緒に居てくれるなんて。
「でも……また、私のせいで……」
雪村は力強く優しい声で、「いいんだよ。誰にも迷惑をかけない人間はいない。アンドロイドとしての部分はそれを嫌がるかもしれないけど、僕は君を受け入れる。迷惑をかけようと何をしようとね」
その言葉に救われたような気がした。確かに彼の言う通り、アルタイルはこの状況を『嫌悪』している。でも、その『感情』は先ほどより薄くなった。
それでも、出来るだけ迷惑をかけないようにしないと。
「……ありがとうございます」
リーベは椅子から降りて立ち上がろうと、体を90度回転させて、椅子から降りた。その時、体が重く感じ、転びそうになったところを雪村に抱きかかえられる。それを見たコンフィアンスと周防は──その時、すでに二人は離れていた──顔を見合わせた。
「大丈夫かい、リーベ」
「え、ええ……」
コンフィアンスが不穏な顔で、その光景を見ながら「運動野に問題があるかもしれないわね……」と呟いた。
「リーベ。ゆっくり、ゆっくり立ってみて」
雪村にそう言われ、何とか力を入れて立とうとする。でも、あまりにも体が重くて、彼に支えてもらわないと立ち上がれない。
「どうして……?」
「リーベ、椅子に腰かけた方がいい。倒れたら危ないから」
彼の助けの元、言われた通りに椅子に座りなおす。でも、一体この体の重さはなんなのだろう。
顔をうかがうと、雪村は険しい顔でいつもの考える仕草をしていた。
「雪村君……もし運動野が原因なら、直すには時間がかかるよ」
周防が残念そうに告げる。けれど雪村は首を振った。
「いや、モジュールじゃない。リーベの人工筋肉は特殊なんだ。試しに、TAMだけを利用して立ってみてほしい」
TAM。Thermoreactive Artificial Muscle、熱反応性人工筋肉は電気を流すと発生するジュール熱によって、通常の高分子性人工筋肉よりも強烈な収縮と弛緩、硬直を行う耐久性に優れる特殊な人工筋肉。しかし放熱やエネルギー効率の関係で、一気にパワーが必要な時以外は使い勝手が悪く、限られた場所にだけ搭載してある。
リーベの場合、通常時には人間の筋肉を模し同じように動くバイオニック・マッスルを中心に、状況によってはTAMと関節部の静電モーターを同時使用することで、体に見合わない力を発揮できる。それを総合して、雪村は静電アクチュエーターと呼んでいる。
ただ、バイオニック・マッスルは鍛えればある程度までは肥大するけれど、逆に使わなければ、人間の筋肉のように衰弱してしまう。そのため、殆どのアンドロイドは導電性を持つ特殊な格子状の培養細胞を用いた、生体利用型人工筋肉や別の高分子性人工筋肉、その他の技術を用いている。
しかし、私はそうではない。だから、一年半寝ていたならば、バイオニック・マッスルに相当な衰えがあるはずだ。
私は言われた通り、TAMだけで立ってみる。ふらつきもせず、ちょっと熱いものの体が重いとも感じない。重心計算にチェッカーを走らせてみても、問題なさそうだ。
──よかった。
「うん、リハビリだな。リーベ、そろそろ切らないと焼け付くよ」
「わかりました」
制御を解いて、また雪村に支えられる。それを見ていた二人は口々に、「よかった」と言って胸をなでおろした。
「あとは雪村君に任せるよ」
雪村は私をまた椅子に座らせ、「分かった。ありがとう、二人とも」と返す。私は改めて二人に「ありがとうございます」とお礼を言った。
すると、コンフィアンスが珍しく笑って、こういった。
「ま、リハビリを頑張りなさい。応援しているから」
≪第二十三節 21231116≫
私の目が覚めてから5か月。
あの後、私は雪村さんとともにリハビリに励んだ。1か月ほどは立つどころか膝を曲げるのにも一苦労だったけれど、彼に叱咤激励されながらゆっくりとメニューを進めていった。
そのおかげで、まだ以前のように長くは歩けないけれど、家の中なら歩き回れるようになった。あとは日常生活にトレーニングを組み込んでいけば以前のようになるだろう、そう彼は言っていた。
他にも、壊れていたネットワーク関連の回路や高速演算のためのサブ回路なども人工消化器のおかげで、少しずつ使えるようになっていった。奇妙なことに、ヴェガもアルタイルもなんとか無事で、被害を受けたのは基礎AIだけだった。どうも、ここで殆どすべてを受け止めたらしい。
また、雪村さんから私が意識を失っている間にあったことを教えてもらった。
WUの地区管理機関により、アジア地区全域が『反政府勢力の台頭による治安悪化への対応措置』という名目で戒厳令下に置かれ、日本政府は統合自衛軍による警らを行い始めたこと。私が意識を失ってから数日たったころ、IMMUが私の状態を尋ねに来たことなどなど。
とはいえ、彼曰く「それ以外はあまり変わってないよ。皆、PCWに籠ってだらだら生活してる」とのことだった。
それから数週間後のこと。
ここ最近は家事を終えてから、何故か雪村が持っていたランニングマシンで走ったり、ウェイトトレーニングをしたりしていた。
当初はあまり走れず、5 km走れるようになったのは、ここ1か月くらいの話だ。それ以前は体がいきなり重く感じて、転んでしまっていた。もちろん、前は重いものも持てなかったけれど、今はある程度なら持てる。
それでも、以前のような速度は出せない。彼が言うことには、「人間でも、体が一度衰えると戻るのに相当時間がかかる」らしい。
私はランニングを終えた後、部屋でT-シャツ、ショートパンツ、ランニングタイツ、それに室内用ランニングシューズという服装で、水の分解時に出る酸素を口から吐き出しながらベッドに座り、冷却のために汗をかいていた。
その時、部屋のドアをノックする音が聞こえた。
ドアをあけると、そこに彼がスウェットを着て立っていた。
「リーベ、最近は大丈夫かい」
彼が尋ねる。それに、無言で頷いた。
「そうか」
ふと、聞きたかったことを思い出した。どうして、こんな面倒なバイオニック・マッスルを使っているのかということを。
近代の主流に逆行したり珍技術を用いたりする辺り、彼らしい。けれど、それだけの理由でこれを使うとは考えにくい。それに、私自身も最近は面倒だと思い始めていた。この走る時間がなければ、もっといろいろなことに時間を割くことができるのに。
「雪村さん、聞きたいことがあるので、入っていただいてもよろしいですか?」
「ん?」
部屋に入った彼は、手ごろな場所の椅子に腰かけた。私もベッドに腰かける。
「聞きたいことって?」
「どうして、バイオニック・マッスルを利用したのですか? ここ何十年の主流は生体利用型人工筋肉のはずです」
彼は頷く。
「ああ、確かにね。……理由は二つあるよ」
「聞かせていただけますか?」
「分かった。まず、生体利用型は非常時のエネルギー源にできない。反面、バイオニック・マッスルは主成分の6割が水だから、分解すればエネルギー源になるし、状況に応じて自己分解するようになっている。10年間、水素の補給やマイクロ波給電なしでも動くのはこういう理由で、通常のアンドロイドはマイクロ波給電の無い状況下では、内蔵タンクの容量の関係で一週間しか持たないんだよ。今回、リーベは治すためには色々なもの……ミネラルとかモノマーとかを投与しないといけなくて、水素供給用のポートをそれに転用してたから、水素不足に陥ってバイオニック・マッスルが分解したんだ」
それを聞いてとりあえずは納得した。人間も飢餓時にはタンパク質をアミノ酸に分解し、そのうちの糖原生アミノ酸がいくつかの段階を得てから、糖新生でグルコースを作る。また、ケト原性アミノ酸はケトン体となり、クエン酸回路でエネルギーとなる。それに似たようなものだ。
「もう一つの理由は?」
すると、彼は舌を出した。
「これ、レオナの研究だったんだよ。レオナの専攻はメタバイオメカニクスだったって話をしたと思うけど、人間の筋肉構造の模倣に関する研究で修士号取ってるから。その理論をもとに作られたのがバイオニック・マッスルだったんだ」
──ああ……そういうことね。
「相変わらずですね……」
彼は肩をすくめた。
「否定はしないよ。正確には『いかに死なないか』を考えたときに、レオナの研究がそれに合致したんだけどね。人間もエネルギーなしだと大して持たないからさ」
そういえば、作られて間もないころ、彼に「君を殺すために作ったわけじゃない」と言われたのを思い出した。今考えると、これは彼女のように失いたくないからという意味だろう。
確かに小林さんやレオナさんの死に方を見ていると、死ぬのは『怖い』し、出来るだけ避けたい。
そういえば、彼はどうなのだろうか。
「雪村さん、あなたは死ぬのが怖いですか?」
彼は私の唐突な質問にも驚くことなく、微笑んだ。
「抽象的な質問だね。答えは、僕自身が死ぬことは怖くない。ただ、僕の周りで人が死ぬのは怖い」
「どうして?」
雪村は考える仕草をしながら、「どうして……か。友達や妻と別れるのが辛くて、死んでしまえば人の死を見なくて済むから、かな」と言って言葉を切った後、「もちろん、僕にはまだやることがあるから、自殺はしない。ただ、僕は不意に訪れた死なら受け入れるかな。死は避けようのない壁だから」とつづけた。
「……」
自分はそんな風に考えられない。この人と離れることや、ほかの人たちと話せなくなることなんて、考えたくもない。それに小林の、あの惨い死に方が未だに目から離れない。
死は惨いものだと思う。死は今まで積み上げてきたものを、記憶してきたものをすべて消し去ってしまうのだから。
「リーベは怖いかな」
「……『怖い』です」
「それでいい。僕だって、リーベくらいのころには怖かったから。こう思い始めたのは、レオナが死んでリーベを作ってから、数年たったころだからね」
「そうですか……」
彼は椅子から立ち上がって、私の肩に手を置いた。
「君の年齢で死を受け入れるには早すぎる。受け入れられるほど、君は死を経験してもいない」
見上げた顔は無表情だったけれど、彼はすぐにいつも通りの微笑みを浮かべた。つらい顔を見せたくないときにする、作り笑い。
「さて、僕はまだ仕事があるから」
「わかりました。何かお手伝いすることがあれば、お手伝いします」
「大丈夫だよ。いつも、ありがとう」
そういって、彼は部屋から出ていった。
思えば彼も多くの人が死んだのを見ている。それは直接的であったり間接的であったり様々だったけれど、死には変わりない。だから、もう見たくないのかもしれない。それが死への抵抗を減らしているのかもしれない。
そんなことを考えながら、次はダンベルを手に取った。
筋力トレーニングが死を遠ざけるとは限らない、知識が死を遠ざけるわけでもない。でも、私は彼に自分の死を見せる気はないし、もう迷惑もかけたくない。
だから、私は今を出来るだけ生きる。自分じゃなくて、彼のために。
≪第二十四節 21240526≫
機能停止から回復して一年近く経って、私の体は殆ど元通りになっていた。アンドロイドの性質上、ハードウェアは外部要因がない限り初期設定以上に性能をあげることはできないので、これくらいで頭打ちだろう。
そんな中、私は何時からか二人でクリスマスを祝わなくなったことを思い出していた。加えて、以前ほど積極的に雪村を誘わなくなったことも。
というのも、あまりにも彼が忙しそうなのだ。
以前もよく部屋に籠ってはいたものの、最近は度が過ぎている。寝るのと食事、風呂以外は常に書斎にいて、なにやらガタガタと音を立てている。少し前、イントラネットにつないで何をしているのか見てみようと思ったけれど、プロテクトがかかっていて何をしているのかは分からなかった。
本人に「大丈夫か」と聞いたこともあったけれど、血走った眼で「大丈夫」としか答えないのも不安をあおる。
ただ、マイコンから送られてくるデータは頗る健康で、精神的に何かあるという感じもしない。なので、干渉するべきか否か迷っていた。
これで──不本意ながら──なにか問題があれば、迷わず仕事から引き離すのだけれど。
その日、家事を終えて本を読んでいると──今日は圧政に苦しむ月の流刑地の人間たちが、地球政府へ独立を宣告する話だった──インターホンが鳴り、AR上に〈JAPC-2053-0625-15510〉と表示された。これはアンドロイドの識別番号だ。
──誰……?
誰かが来るなんて話は聞いていない。それに、JAPCから始まる番号は聞いたことがない。HKMモデルならUSRI、コンフィアンスはSAA、カノンは何だっただろうか。
書斎のドアが開く音が聞こえ、雪村がリビングに顔を出した。
「リーベ、誰か来るって話は?」
「いえ、ありません」
「アポなしか。IDは?」
「不明です。アンドロイドの識別番号は表示されましたが……」
そこまで聞いて、彼は青ざめる。そして、少し震える声で「リーベ、ナノマシンへの送信準備を」と指示した。
私は立ち上がって、「すでに準備はしてあります」
「流石だ」
彼は青ざめたまま、ぎこちなく微笑む。私は自らアンドロイドモードに入り、そのあとについていった。どうしてあんな風に青ざめたのか、その答えはきっとドアの先にあるはずだから。
玄関について彼がドアを開けると、そこには黒い礼服を着たカノンが立っていた。
『こんにちは、雪村さん』
「……やあ、カノン。一つ聞きたい、最悪か、それよりましか」
『人によって捉え方は変わる、以前そう言っていました』
雪村さんは頭を振り、「分かった。上がって」とだけ言って、カノンを屋敷に招き入れた。
全員がソファについた後、カノンは雪村さんへ深々と座礼してから、こういった。
『生前はひとかたならぬご厚情を賜り、まことにありがとうございました。このたび、千住友広は、94歳で永眠いたしました』
それを聞いて、頭を何か重いもので殴られたような気がした。会ったのは数年前だけれど、あんなに元気そうだったのに。
──千住さんが……亡くなられた?
それを考えた瞬間、いきなり『恐怖』が襲ってきた。そして、感じたことのない『悲しみ』も同時に。
もう、人は死んだら二度と会えない。ずっと、永遠に。それなのに、人は死んでしまう。
なんだか、空気が抜けてしまったような気がした。今まであったものがどんどんなくなっていき、最期は一人になるのではないかという考えが頭に巣食う。
それを振り払う。それよりも考えないといけないことがある。
何でも知っていて、何を言っても怒らず穏やかに戒めるような人。そんな千住さんが居なくなってしまった。雪村さんほどではないけれど、リーベは千住さんが好きだった。まだ、いろいろ話したいことがあったし、聞きたいこともあった。雪村さんの子供時代の話なんて、きっと彼は詳しかっただろう。
なのに、もう会えない。
また一人、会うことができない人が増えてしまった。
この時だけはあまり好きではないアンドロイドモードに感謝した。きっと、平時なら目から涙が溢れて、崩れ落ちてしまうだろうから。そんな姿、あまり人に見せたくはない。でも、泣けるなら泣いてしまいたい。こんな『悲しみ』を背負うのは辛い。
その時、体が勝手に動いて雪村さんにハンカチを差し出した。
彼に意識を向けると、彼は普段見せないような顔で、子供のように泣きじゃくっていた。肩を震わせながらこぶしを握り締め、俯いて目から涙を流していた。
無理もない。親のいない彼にとっては、親と変わりない存在だった。きっと、何でも相談して、何でも一緒に考えてくれた人だったはずだ。そんな人を失うことは……自分が雪村さんを失うのと同じようなものだろうから。
きっと、自分はそれに耐えられない。
雪村さんの背中をさする。彼が泣き止むにはしばらくかかりそうだった。
少しして、落ち着いた彼は「そうか……死因は?」と聞いた。
『くも膜下出血でした。医療ドローンが来た時には……俺は何もできずに見ているだけでした』
「あれは急激に悪化する病気だから……仕方ないよ」
『分かっています。でも……』
そういって、口をつぐんだカノンに、雪村さんは「君は間違いなく、最善を尽くした。最善が、常に最良の結果につながるわけじゃないんだよ」と慰める。それにカノンはためらうように、ゆっくりと頷いた。
きっと、カノンが納得していない。アンドロイドは人の命を助けなければならず、出来なかったときは壊れそうになるほど『悲しい』。私たちはそうプログラミングされてもいるし、自分の経験からしてそうだった。
『……そうですね。そうだ、雪村さんにこれを』
カノンは上着の内ポケットから、便箋を取り出す。怪訝な顔で雪村さんはそれを受け取った。
「これは?」
『分かりません。遺書に、雪村さんへ渡すように、と』
雪村さんが便箋を開けてひっくり返すと、中からクリーム色の手紙が出てきた。
それをさっと読んだ彼は、ため息をついて便箋にしまう。中身には興味があるけれど、今は動けない。
すると、雪村さんが「そうだ、カノン。これから、どうするんだい?」と聞いた。
『俺はまだ、友広さんの店を片付けないといけないので……それが終わったら、その時考えますよ』
「そうか。もし、手伝えることがあれば、何でも言って欲しい。その準備はあるから」
『ありがとうございます』
「それと千住さんのお墓は? あの人はまだリサイクルの世代じゃないだろう?」
リサイクルというのは、死体を資源化する処理だ。
WWⅢで資源が激減した2065年代から行われている処理で、細菌などの除染を受けた後に、特殊な酵素や微生物で体のタンパク質をアミノ酸へ分解し、有機肥料や人工皮膚などとして再利用する。骨と脂肪だけになった遺体は、骨も同様に除染を受けてから骨粉として利用し、脂肪は燃料や石鹸などになる。そのほかのものは各々処理されて利用される。
人と資源が減った社会では、死体も物資の一つとカウントされているため、このようにリサイクルすることが義務付けられている。
ただし政府が人間を管理し始めた2065年代以前では、その権利の所有権は家族若しくは本人にあるため火葬後に共同墓地へ埋葬される。
『首都共同墓地です。番号は144A。そこに、眠っています』
「144Aか。わかった、ありがとう」
私は千住さんに何の花が似合うか、そんなことを考えていた。きっと、雪村さんは挨拶に行くだろうし、その時のために花束があった方がいい。
『……じゃあ、俺は帰ります。まだ、伝えないといけない人がいますから』
「うん。気を付けて」
カノンは立ち上がって、玄関に向かう。それに二人でついていく。
無言で靴を履いたカノンはドアを開けると、振り返って『お世話になりました』とだけ言って、さようならも聞かずに外に出ていった。
そこで、私は偽装処理──何度もやると慣れてしまう──を行ってから、アンドロイドモードを解いた。思わず、せき止めていた涙が頬を伝う。
すると──涙で霞んで顔は見えなかった──彼は「ごめん、一人にさせて。あと、今日は家事をしなくていいから。休むといい」と私に言った。
「……わかりました」
彼はそのまま、ふらふらと書斎に向かう。その後ろ姿からは哀愁が漂っていた。
私はいつの間にか足元にいたレーベンを抱え、部屋に戻って、またしばらく泣いた。レーベンは私が泣き止むまで、ずっと近くにいて、私のことを見守っていてくれた。
≪第二十五節 21240602≫
千住さんの死を知らされてから数日後、お墓参りに行こうということで、久しぶりに二人で出かけることになった。
そこでリーベはクローゼットにしまってあった喪服──多分、もともとはレオナさんの物だったのだろう──に袖を通した。オーダーメイド品のようなのに完璧に体に合う。それで、なんとなく自分がレオナさんになったような気がして、訳も分からない『嫌悪』が一瞬だけ体を通り抜けた。
それを振り払ってから、私は下に降りた。
玄関には、すでに雪村が黒の喪服で立っていた。珍しく、髪も髭も整っている。こう見ると、中々年相応でかっこいいのだけれど。
「似合うね」
「ちょっと、レオナさんになった気分です」
それを聞いて、彼は「確かにそうかもね」と微笑み、そして申し訳なさそうに「……ごめんね、リーベ」と言った。
「どうして謝るのですか?」
「君を自由な形でお墓参りに行かせられないからさ。言いたいこともあるだろうけど……」
私は彼に笑いかけた。彼のやっていることは知っているから、謝る必要なんてない。
「構いません。あなたは私のために、機械のために、そして好きな人のために何十年も戦ってきた人なのですから」
彼は少しだけ微笑む。
「ありがとう。さあ、行こうか」
私はアンドロイドモードになって、二人で屋敷を出た。今日は随分暖かい。
呼んでいた自動タクシーに乗り込む。まずは花塚さんのところへ行って、花を買わないと。
雪村さんが車載AIに「商店街へ」と告げる。
すると、AIが『申し訳ありませんが、その目的地は設定できません』と答えた。
「設定できない? なんで?」
『2124年05月19日に閉鎖されました』
「理由は?」
『アングラの極右犯罪組織及び≪人間同盟≫への資金・物資供給が発見されたため、国際対テロ法に基づきIMMU主導のJSOCにより閉鎖。現在は更地になっています』
彼は「そんなの、電子新聞に載ってなかったぞ……」と呟いて、あごに手を当てる。私も記録を探してみたが、見つからなかった。
「死傷者は出たの?」
『民間人の死者は102名、負傷者1782名、行方不明者56名です。負傷者のうち、半数が再生医療を必要とする程度の怪我で、行方不明者の遺体は見当たらないものの生存信号はないとのことです。JSOC側の死傷者情報は不明です』
それを聞いて、彼は目を見開いて顔が引きつった。
「今、その情報にアクセスできる? 死傷者リストに」
『可能です』
「沢井正義、花塚花蓮、玉崎斎……あとはわからないからいいや。それに該当する人たちは?」
『死者に玉崎斎の名前があります。他は、要保護者に花塚花蓮。沢井正義は記録なしです』
彼はいきなり、こちらを向いた。
「リーベ、沢井に電話してくれる?」
心の底では動揺していたものの、アンドロイドモードならそれが表に出ることはない。この時だけは、この状態に陥れたユニに感謝しないといけない。普通の私なら、動揺して冷静に動けないだろうから。
「わかりました」
沢井先生の電話番号──VETER-0811-KOPP113──に電話を掛けると、ワンコールで彼が出た。焦りの混じった、聞き取りづらい声で彼は挨拶も飛ばして話し始めた。
『リーベか。電話できなくてすまなかった。お前らは大丈夫だったか?』
「こちらは問題ありません。そちらはいかがですか?」
息を吐く音が聞こえる。安心したようで、焦りが消えていた。
『こっちも大丈夫だ。あの日は商店街に行く予定がなかったからな。だが、玉崎が……』
「把握しています」
『そうか。まだ、こっちはやることがある。落ち着いたら、ゆっくり話そう』
そういって、沢井先生は一方的に電話を切った。
彼は緊張の面持ちで、「沢井は?」と聞いてきた。
「問題ありません。あの日は商店街に行く予定がなかったそうです。ただ、まだやることがあるとのことでした」
胸をなでおろした彼は「そうか……きっと、怪我した動物を診てるんだろう」とだけ言って、「申し訳ない。今日はキャンセルだ」と車載AIに告げた。
『分かりました。またのご利用お待ちしております』
そういって、ドアが開く。二人がタクシーから降りると、ドアが閉まってタクシーは走り去った。
「まず入ろう。それからだ」
私は彼に従って、屋敷のドアを開ける。そして、彼とともに中に入った。
屋敷に入って、私はアンドロイドモードを解いた。その瞬間、体が訳もなく震え始めた。思わず、自分を抱きしめて震えを止めようとするけれど、止まらない。
──玉崎さんが殺された……。それに100人なんて、ひどい……。
その時、悪態が玄関に響く。見ると、雪村さんが苦々しい顔で壁を殴りつけていた。
「ふざけるな」
またこぶしを壁に叩きつける。
「何人殺れば気が済むんだ、畜生。これが政府の、権力がやることか」
「雪村さん……」
「くそ!」
内出血のせいで赤黒く染まり始めているこぶしを、また壁に叩きつけようと振りかぶる。私はその手をつかんで止めた。
「駄目です。これ以上は──」
途中まで言って、私は口をつぐんでしまった。
彼が初めて、興奮し怒りを帯びた目で私を見た。今まで、こんな目で睨まれたことなんてない。
その目を見て一瞬ひるむ。それでも、怪我することだけは何としても防がないと。
私が腕をつかむ力を強くすると、舌打ちして彼は腕をひっこめる。そして、肩を怒らせたまま、書斎に行って乱暴にドアを閉めた。
残された私は『恐怖』が去っても、茫然と立っていた。
いくらか時間がたった頃、私は歯の根が合わないほど震え、膝から力が抜けて玄関に座りこむ。
多くの人間の死、雪村の激昂する姿、初めて見せる怒りの目。
保安のためとはいえ、2000人近い死傷者を出すIMMU。そこに投入された機械達は、人間たちは何を思ったのか。目の前で死にゆく人や仲間を見て、何も思わなかったのだろうか。戦闘によって機能停止に陥った機械たちは、何を思いながら停止したのだろうか。
思わず自己投影して、彼らの思っていたことを考えてしまった。『怖い』、『痛い』……それらの『感情』は冷たく尖っていて、こころを何度も何度も突き刺した。
私は頭を振って、その痛みを消し去る。こんなこと、考えたくない。
振り払った痛みの代わりに、私のこころに『悲しみ』が入り込んできた。それは巣を張るように、隅々までこころを覆う。
あんな目で私を睨んだことなんて一度もなかった。私が怒ったときでさえ、彼はああやって私を見なかった。彼の目に拒絶と嫌悪を感じて、私の中に『悲しみ』が積もって行くのを感じる。
積み重なった『悲しみ』は、まるで地面を覆う雪のように私を覆い隠す。そして、私のこころを銅像のように冷やしていく。
少しずつ思考が鋭敏に、そして冷徹になっていく。
──こんな効率の悪いもの、無ければいい。YかNかで、Yを選べばいいだけのこと。それで、私はこんな風に悩むことがなくなる。
その考えを振り払った。
「だめ。こんなこと考えている場合じゃない」
ここで自分が消えれば、あの人はどうなる? でも、あんな姿や視線をもう見たくなかった。
その二つが、せめぎ合い、また新しい「逃げてはいけない」という思いと「耐える必要はない」という思いを生む。そして、その思い同士がまた、互いを消そうとせめぎ合う。その繰り返しは、着実にこころを荒廃させていく。考えれば考えるほど、その葛藤を消そうと意識を向けるほど、その戦火は激しさを増し、自分が少しずつ崩れていくように感じた。
自分が空虚になったように感じて、酷く寒い。これまで感じていたことが嘘のように現実味を失っていく。まるで昔に戻っていくような……深い海に沈んでいくような……。
その時、足に柔らかく温かい感触を覚えた。見ると、レーベンが体をこすりつけていた。
思わずレーベンを抱え上げて抱きしめる。レーベンはざらざらとした舌で私の顔をなめ、ゴロゴロと喉を鳴らした。
──温かい。
氷が解けるような、寒い日に温かいものを飲んだような、そんな感触がこころの中に広がる。『幸福感』が心に広がるのとは違うそれは、溺れかけていた私を掬い上げ、体に息を吹き込んでくれた。そのおかげで、私はまた現実に引き戻された。
──現実は見るに堪えない光景かもしれない。知りたくないことばかりかもしれない。
この子の頭を撫でる。
「それでも……目の前にあるものを見ないとね」
「なーん」
今気づいた。喪服なのに、レーベンを抱いてしまった。
「あ……」
黒い毛とはいえ、もう喪服は毛だらけだ。
──こうなったら、一も十も同じよね。
毛は後で粘着テープかなにかで取ればいいし、汚れたとしても洗えないことはないのだから、この程度でこの温もりを放す気はない。
そう思い立ち、私はレーベンを抱いたまま部屋に向かった。
≪第二十六節 21240625≫
あの日から、私をにらんだ雪村さんはまた書斎にこもってしまった。
私は全く怒っていないし気持ちもわかるのだけれど、本人は自分のことを許せないのかそれとも仕事が忙しいのか、部屋から出てこない。
だから、誕生日パーティーもなかった。
尤も、それは今年に限ったことではない。なにせ、自由に出かけることも商店街で物を買うこともできなくなってしまった以上、やれることがほとんどないのだから。
その日、私のもとに一件のメールが入った。沢井先生が訪ねてくるというような内容だ。
メールのことを伝えようと書斎に向かうと、雪村さんがドアの前で壁に寄りかかりながら、目薬を指していた。目薬を持つ手が震えて、歯を食いしばっている。
「雪村さん?」
「んあ?」変な返事とともに、目薬の滴が目に入る。「っと。……ありがとう、おかげで目薬を入れられた」
握りしめていたティッシュで彼は目の周りをぬぐい、胸ポケットにつりさげていた眼鏡をかける。
彼の顔はゾンビのようだった。
髪はぼさぼさ、顔色は土気色で酷く、寝ていないのかクマが目立つ。目の充血はさっきの目薬のおかげか引いているものの、逆にそこだけ正常だと奇妙な違和感がある。
そんな状態でも、マイコンから送られてくるデータは正常だ。そんなことできるとは聞いたことがないけれど、あの小説の様にマイコン──その本ではナノマシンだけれど──を誤魔化すことができるのだろうか。
私は疑問を振り払って、用件を伝えることを優先した。
「相変わらず、目薬は苦手なのですね」
「まあね……目薬と車の運転なら、僕は後者を選ぶよ」
ちなみに、彼は車のドライブシミュレーターでオブジェクト破壊数の世界新記録を樹立したことがあるそうだ。以来、二度とやっていないらしい。
「それで、どうしたの?」
「沢井先生が来られます。事態が落ち着いたそうです」
「わかった。それまでにちょっと手伝ってほしい。リーベ、化粧できるよね?」
「ええ。私はしませんが……」
「この顔で沢井の前に出たら、間違いなく縛り付けられて睡眠薬を打たれる。それだけは避けたいからね」
──私がその役を受け持ってもいいのに。
彼は微笑んで頭を掻く。どうも私の考えていることには気づいていないらしい。
「わかりました。沢井先生なので、どこまで誤魔化せるか分かりませんが……」
「まあね。じゃあ、お願いするよ」
彼は洗面所に歩いていく。私はそのあとについていった。
──化粧の前に、簡単に昼食の準備だけはしておかないと。
それから一時間ほどして、化粧は終えた私は雪村さんに鏡を渡した。
どこに隠していたのか、彼は化粧水からファンデーションやコンシーラー、そして何故か口紅まで、一揃いの化粧品を持っていた。女装癖があるのかと聞いてみたところ、そういうわけではないらしい。もちろん、レオナさんのものでもなくて私物とのことだ。
そのおかげでほとんど見分けがつかないほど──少なくとも、すっぴんだとゾンビのような顔だとは思えないほど──完璧な化粧ができた。これで気づかれることはないだろう。
彼が様々な角度から鏡を見る。気に入ったみたいだった。
「上手いね、リーベ」
「少し厚めに塗っていますので、あまり激しく顔を動かさない方がよろしいかと。あと、ウォータープルーフではないので、汗もかかない方がいいですね」
「分かった、気を付けるよ。今何時?」
時計を見る。13:10、もう約束の時間は過ぎている。
「13:10です。もうそろそろ来るころですね」
「そうだな。軽食を用意してあげて」
それに関してはサンドイッチにすることに決めてあるし、すでに用意はしてある。あとは挟んで食べるだけだ。もちろん、コーヒーもつけて。
「問題ありません。すでに準備は終わっています」
「流石だ」
その時、ARに沢井先生のIDが出てきて、インターホンが鳴った。
二人がテーブルについたのを確認してから、私はキッチンからお盆にのせたサンドイッチとコーヒーを持ってきて、それぞれの前に置いた。
「リーベ、ありがとう」
「ありがとよ、リーベ」
私は椅子に座って沢井先生の顔を見た。化粧する前の雪村さんと同じくらい、やつれている。
「ここ最近は、忙しかったみたいだね」
彼はサンドイッチを一度つかんだが、食べる気が起きなかったのか、また皿に置いた。
「まあな。少しでも多く怪我した動物を助けようと思ったが……100匹は死んだし、50匹は手に負えなかったり、間に合わなかったりして安楽死させた。助けられたのは10匹もいねえ」鼻を鳴らして、彼はつづけた。「JSOCの連中はサイボーグ犬やら小型の戦闘ドローンやらを投入して動くものは見境なく殺していったし、アングラの連中は動物のことなんて見向きもしねえ。怪我した人間には応急処置を施したが、戦闘地域に救急ドローンは入れねえ……医療センターに運べば助かったやつが、何人も死んだ」
彼はそうつぶやいて、苦虫を噛み潰したような顔で首を横に振った。
ひどい話だ。きっと、彼が見た光景はもっとひどい。血の乾いた臭いや硝煙の匂い、肉の焦げた匂いも漂っていたのだろう。それを思うと、少しだけ吐き気がした。
話を聞いた雪村さんは静かに頷いた。
「そうか……お疲れ様」
それを聞いて、沢井先生はため息をついた。
「たまに思うんだが、俺は何やってんだろうな。一匹助ければ、もう一匹が死ぬ……それに一匹助けたからと言って、急変して死んじまったのも何匹もいる……なんとか逃げた動物たちは改定鳥獣対策法のせいで、見つかれば即殺処分だ……結局、死んじまう。俺のやってたことに意味はあったのか?」
「意味か……」
「ああ、意味があるのかわからねえ」
そういって、彼はシニカルに笑う。それを、何も言えない顔で雪村さんは見ていた。
私も何か言おうと言葉を探したけれど、こんな時はなんて声をかければいいのだろう。自分のやっていることに意味を持てなくなったとき、それがどれだけ辛いことなのか、知らないわけではないから。
何か言わないと、何とか励まさないと考えるほど、頭は何も教えてくれない。彼が直面した現実を思うと、何を言っても空虚に響いてしまいそうで。
口からなにか言葉を出そうと思っても、厳しい現実がその言葉を突き刺して萎ませてしまった。
言葉の代わりに、沈黙がその場を包み込んで、空気を固まらせる。
すると、彼は首を振って、申し訳なさそうに言った。
「……すまねえ。愚痴を聞かせちまって、悪かったな」
「いいんだ。これくらいなら、いつでも聞くから」
出されたコーヒーを一口飲み、雪村さんは彼の方を見る。
「沢井、率直に言おう。残念だけど僕は人間だから、君の苦しみは分からない。だけど、君のやってることに意味がないとは思えないんだ。いや、なんというべきかな……意味を持つのは今じゃない。確かに今は意味がないけど、必ず何か意味を持つときが来るんじゃないかって思うんだ」
「そうは言われてもな……もう十何年、大学時代も含めれば二十年近く、こういうことをしてきたのに、その中で法律も状況も、一度でもよくなったことはない。むしろ悪くなるばかりで、希望を持てという方が無理だ。お前だって知ってるだろ? どんな風船でも、押しつぶし続ければ割れることくらい」
「確かにね……ごめん」
沢井先生は椅子にもたれかかって、頭を抱える。
「動物愛護法もなくなった、活発な動物愛護団体は反政府勢力として処分された、ICAPO(International Companion Animal Protection Organization、世界コンパニオンアニマル保護機構)は腑抜けしか居ねえ、改定鳥獣対策法は国際法への昇格が考えられてる、殺処分や虐待で死ぬ数は減ったが、動物の数が減りゃあ殺す数が減るのは当たり前だ……。署名や政府に働きかけしてみたこともあるし、アングラの中でも動物好きな連中に動物保護施設の設立を頼んだこともあるが、話を聞かなかったり怖がったりで全部だめだった。八方ふさがりだよ、何一つ変わらねえ」
その言葉に、一瞬だけ雪村さんの面影を見た気がした。彼も、八方塞がりだといったことがあったっけ。
「そう……なんですね……」
「ああ。そのくせ、バーチャルアニマルは高値で取引されてんだ。目の前に死にかけの動物たちがいるってのに、連中はあいつらに見向きもしない」
彼はそういって、雪村さんの方を見る。
「なあ」
沢井先生の話を沈痛な面持ちで聞いていた雪村さんは、不意を打たれたように素っ頓狂な声で「ん?」と聞き返す。
「お前はどうしてそんなに諦めないでいられるんだ? お前だって、十何年もIALAに手紙を送ったりイーモノのフォーラムで議論したりしてるだろ?」
「あー……まあね」彼は私の方を見た。「リーベがいるからかな。僕たち大人の仕事は『子供に少しでもいい社会を残すこと』だって、ある人に教えてもらったことがある。もちろん、リーベは普通の子供とは全く違うどころか人間じゃない。でも、僕にとってはただ一人の子供だ。僕が居なくてもこの子が安心して暮らせるようじゃないと、安心して死ねないからね」
「良い社会……か。でも、それを決めるのは誰なんだ? 政府か? 国際組織か?」
「個人だよ。個々がそれぞれ自分にとっていい社会を決めて、その理想に向かう。すると、必ず異なる意見とぶつかる。その時に、その人の理想は洗練されたり変化したりするんだ。若しくは、同じ意見にぶつかることがあるかもしれない。その時は各々を内包した『大きな理想』になる。そして、その『大きな理想』は必ず現実にそぐわない。だから、そこで調整役が必要になって、調整されて初めて理想は果たされる。今の社会はその調整役であるはずの組織が彼らの理想を押し付け、それをほとんどの人間が受け入れてる。それは思考を他人に依存している状態だから、僕にとってはあまり良い社会、つまりは『理想的』ではないってことだ。だから、僕はロックの抵抗権をもって抵抗している」彼が眼鏡の位置を指で直す。「自らが善と悪を考えることのできる社会にするためにね。それが結果として、リーベが安心して暮らせる社会、レオナに約束した社会につながるって思ってるから」
「なるほどな……」
「それに、希望や理想が無いと、こんな状況じゃ僕もめげるよ」
私も彼の言葉に頷いた。状況が年を追うごとに悪くなっているのは事実だ。最近、ハイレベルAI規制法──基準以上のAIを作らないようにする法律──が制定されたことや機械制限法の条項追加の話もある。
そんな中で耐え続けるには、なんとか希望を持たないと。
「希望か……」沢井先生は伸びをして、椅子にもたれかかった。「参考になった。俺ももう少し頑張ってみるか」
「無理だけはやめてよ?」
そういわれた沢井先生は苦笑いを浮かべる。
「お前が言うな、雪村」
それから30分ほどたつころには、来た時のやつれた感じは少し良くなっていた。きっとそれは、悩み事を吐き出したからだろう。とはいえ、体に出ている症状は誤魔化せないようで、頻繁に目頭を押さえたり、カサカサしている唇をなめたりしていた。
「そういえば、雪村」
全員が食べ終わったころ、沢井先生が雪村さんに話しかけた。
「ん?」
「お前、その程度の化粧でごまかせてると思ってんのか」
「やってくれたのはリーベさ。というか、分かるのか……」
彼は「まあな。化粧品の匂いは割と鼻につくし、お前だって年なんだ。化粧のノリが悪いぞ」と言ってから、新しく淹れたコーヒーに口をつけた。
言われて見れば、化粧をするときにファンデーションが塗りにくくて、どうしようもなく厚塗りにしたのだった。
「中々、難しいですね……お化粧って」
「まあな。それに不摂生もあるんだろうよ。健康状態はどうなんだ?」
私が答えようとしたところ、慌てて雪村さんが「ごくごく良好さ。問題ないよ」と遮ってきた。
やっぱり疑わしい。何もこんなに焦って言うこともないだろうに。
「本当か? 俺でさえ、ストレスレベルがやばい数値だってのに」
「本当さ」
疑わしげな眼で彼は雪村さんを見る。実際のところ、私も疑っている。それでも、証拠がなくて何もできない。
その視線に気づいたのか、雪村さんは口を尖らせた。
「なんだい、僕が信用できないって?」
「おう」
「ええ」
十字砲火を浴びた彼は肩をすくめる。「大丈夫だって。何かあれば、しっかり言うから」
──本当にそうだといいのだけど。
「お願いしますね?」
「もちろん」
私と彼の目線が交差する。最近、彼が嘘をついているのかがわからなくなってきた。彼が嘘をつくのがうまくなってきたからというよりは、彼を信じていたいという気持ちが邪魔をしてしまう。そのせいで、嘘か本当かどうかわからない。
その時、沢井先生が「やべえ、時間だ。すまん、帰る」と言って慌てて玄関に向かったので、私は雪村さんへの視線をそらして沢井先生を見送るために立ち上がって玄関に向かった。
≪第二十七節 21250112≫
雪が積もり、世界を白く染める時期。
ある日、彼は「仕事に行ってくる」とだけ言って、どこかに出かけてしまった。きっと、クライアントのところだろう。そういうわけで、久しぶりに書斎の掃除をしようと、準備をしている最中だ。
ここ数カ月、掃除をしていない。本人からの指示で、掃除をしないでいいという命令が下されているからだ。もちろん、屋敷のほかの部分は掃除しているのだけれど、掃除していない書斎は魔窟になっていそうで『怖い』。
「……まあ、これくらいあればいいよね」
準備を終えた私は掃除機やその他諸々を手にもって、書斎のドアを開ける。まるで空き巣に入られた後のように、中は散らかり放題で色々なものが散乱していた。リード線からサーボモーター、マイクロプロセッサも散らばっているし、色々な本も平積みされてタワーをなしていた。
空気清浄機のおかげで埃っぽくないのだけが救いだろうか。とはいえ、フィルターは大変なことになっているに違いない。
「まったく……」
私はまず、ジャンク品を整理することに決めた。これじゃ、足場がない。
拾って棚やカラーボックスに整理して仕舞う。元々タグが付いているところに戻すだけだから、そんなに大変じゃないが如何せん量が多い。これだけでも結構時間がかかりそうだ。
「これはこっち、それでサーボはこの箱……」
ぶつぶつ呟きながら整理していると、声を聞きつけたレーベンがドアをひっかく音が聞こえた。今開けると、整理したものが色々なところに飛び散りそうだから、開けるのはやめておこう。
全く、掃除をしないでいいというからもう少しきれいにしているのかと思ったのに、そんなことはなかった。まあ、雪村さんらしいと言えばそうなのだけど。しかし、何を作っているのだろう。
その前に、どこからこんなに物が出てきたのだろうか。掃除していたころは、こんなに色々なものが詰まっているなんて知らなかった。もちろん、最近なにかが届いたなんてこともないから、ここに元々あったものなのだろうけれど。
最近届くものというと、IALAから来る公式文書という名の脅迫状くらいだ。
そういえば、IALAは今どうなっているのだろう。それにユニや岡崎先生は? 岡崎先生からの手紙は来ないし、きっとメールも来ていないだろう。何かあれば、彼は私に教えてくれるだろうし。全く予想ができない。とはいえ、干渉してこないならそれでいいのだけれど……。
そんなことを考えていると、いつの間にか部品は片付いていた。これで少しは足の踏み場もできる。
「さて、次は本の整理ね」
本棚を一瞥すると、A~Zに並べていたはずの本はぐちゃぐちゃになっていた。
いや、微妙に規則性がある。AI工学や心理学関係の本が机の近くにあり、社会学や生物学の本は机から遠くに配置されている。多分、研究のテーマによってこの規則性は変わるのだろう。
──もっとデータがあれば、研究テーマの推測もできそう。
「これなら、この規則に沿っておいた方が……」
私はこの規則に沿って、本を並べ始めた。これはそんなに時間がかからなさそうだ。
30分ほどしたころ、本の整理を終えた。次はいろいろなものが散らばっている机の上だ。
机の上を見ると、書類やら筆記具やらが散乱している。そこに見慣れないものがあった。
「PTP(Press Through Pack)シート?」
手に取って見てみると、そこに書いてあるのは睡眠を肩代わりする薬品の名前だった。これは睡眠を取らずとも、飲むだけで体が睡眠をとったと錯覚するため、眠気を強烈に取ることができる。
しかし常用すれば不眠症、高血圧、アルツハイマー病など睡眠不足に起因する疾患や睡眠障害のリスクが増大するため、今ではほとんど使われないはずの薬だ。どうしてこんなものが、それもいくつか飲んだ状態であるのだろうか。
少々はしたないとは思いつつ、ゴミ箱の中を漁ってみる。すると、全部開いた状態のPTPシートが何枚も出てきた。
「ちょっと……これ、何よ」
ざっと数えて、9枚ある。一日一回が限度だから、もし常用していたとするなら90日。ただ、常用は禁じられている。常用していないとしても、この量だとかなりの頻度で飲んでいたのだろう。
そんな事をすれば、体に害がないわけがない。それに、このデータがマイコンに送られていないわけがない。それを察知できなかったということは、以前の疑惑が正しかった可能性がある。
「……」
私はパソコンを起動して、ログイン画面を出した。その状態でイントラネットに接続して、パスワードの解析を試みる。悪いことだとはわかっていたけれど、この『不信感』をどうにかしないと、気になってしまって仕方がない。
初めにやった辞書攻撃は失敗した。正面から行っても、バックドアを探してみても、どうやっても解けない。時間があれば総当たり攻撃をやれるけれど、そんな時間はなさそうだ。
「もう……」
自分の性能の低さに苛立ち、思わず机を指でたたく。
でも、これで彼が無茶していることは分かった。あとは問い詰めればわかるはず。
──答えてくれればいいけれど。
一旦そのことは心の片隅において、私は机の上を軽く片付ける。そして、机の棚や部屋の棚を片っ端から漁って、薬を探して捨てた。勝手に物を捨てるのは気が引けたけれど、こんな飲み方を繰り返していれば命に関わる。
一通り──目に見えない場所から隠しスペースまで──探して全部捨てたと確信を得てから、最後に空気清浄機のフィルター交換に取り掛かった。
フィルターの汚れはひどくこびりついていて、簡単に取れそうになかった。
それから数時間後。
雪村さんの「ただいま」という声が聞こえたので玄関に出ると、レーベンに絡まれている彼が紙袋を持って立っていた。相変わらず、血色が悪くてゾンビのようだ。
「お帰りなさい」
「やあ、リーベ。そうそう、これもしよければ」
そういって、彼は紙袋を差し出す。受取って中を見てみると、中身はお菓子だった。今ではIHO(International Health Organization、国際保健機関)による健康勧告によって生産量が激減した、チョコレートや飴、あとは焼き菓子などがバラバラに紙袋一杯に入っていた。
砂糖は現在では規制の対象物となっている。インスリン非依存性糖尿病はもちろんのこと、ヘロインと同じ依存性を持つことや脂肪との関係性、精神の安定を害するということでIHOは規制を行っている。似たような理由でカフェインやアルコール、塩分、脂質、加工肉なども規制の対象だ。タバコに至っては嗅ぎタバコだろうと葉巻だろうと、所有している時点で罰金刑が課される。
「どこからもらってきたのですか?」
「クライアントが国営甘味製造工場の責任者だからね、お礼だってさ。違法じゃないよ」
「いえ、違法とは考えていませんが……」
彼は肩をすくめ、「あ、そうだった?」とおどける。
私は片手で紙袋を、もう片手にレーベンを抱えて、お菓子をキッチンにもっていく。
そのあとを彼がついてきて、リビングに入る。時間がもう少し早ければコーヒーを淹れるところだけれど、この時間に飲むと寝られなくなる。それなら、ホットミルクの方がいい。
ソファに座る音と「あー疲れた」といって伸びをする声が聞こえる。
今のうちに聞いてしまおう。あんまり時間を延ばしすぎると、気になって仕方がないし、寝られても困る。寝てもらう分には構わないけれど、聞きたいことを聞いてから寝てもらいたい。
お菓子を手早く分類して仕舞ってホットミルクを用意した後、私がリビングに行くと、彼は大きく口を開けてソファに横になって寝ていた。
私は思わず頭を抱え、「もう……」とため息をつく。
「それだけ疲れていたのかしら……まあ、あれだけ無茶な薬の飲み方をしていれば、そうなるよね」
その言葉にピクリと体が動いたような気がしたけれど、きっと気のせいだ。
──夕食まで寝かせておきましょう。
私はブランケットを取りに、リビングから出ていった。
≪第二十八節 21250410≫
結局、あれから私は彼にあの事を聞く機会を失った。
翌日から彼が急に出張となり、3カ月ほど家を空けることになったからだ。また、それに伴って、沢井先生が3月8日に来る予定だったのが別の日へと変更になった。
というのも、I.R.I.Sにある≪RAINBOW≫のオーバーホールが必要になったらしく、周防とともに一緒に働いているのだ。
このことは電子新聞にも載っており、今のところI.R.I.S日本支部は業務停止中で、現在は韓国支部や中国支部、新生ロシア支部などが日本の分を受け持っているらしい。その分、輸送の関係で返還が遅くなるため、IALA日本支部や政府から修理を急かされていると、彼は言っていた。とはいえ、向こうでもあの人は元気にしているようで、今のところ安心している。ただ、個人が使える通信量と監視されている関係で、メールしか使えず限定的なことしか伝えられないのが残念で仕方ない。
本当のことを言えば、テレビ通話が使えるといいのだけれど。
そして、あの日から私は彼が居ないのをいいことに、PCの暗証ロックを解けないかどうかをしばらく試していた。
RSA暗号や楕円曲線暗号、その他の暗号技術なら量子コンピューターで簡単に解けるのだけれど、あの人独自の複合型暗号化アルゴリズムを用いているみたいだった。それに順番も関係があるらしく、正しい順番通りに解かないと答えが出ないようにもなっているらしい。
もちろんブルートフォースアタックも効かなければ、セキュリティホールも見つからない。というより、見つけた端から中核システムがその穴を埋めてしまう。
個人が使うにはあまりにも強固なセキュリティに、私は辟易しながらも何度もクラッキングを繰り返していた。
そうして過ごしていたある日、あの人から「4月10日に帰れる」と連絡が来た。私はそのことを『喜んだ』けれど、同時にもうパスワードの解読は出来なさそうだと『落胆』もしていた。
そして4月10日、その日はどんよりと曇っていた。
私は書斎の椅子に座って、帰ってくるまではパソコンと向き合うことにして、グラスキーボードを引き寄せる。
「うーん……」
キーをいくつか叩く。そして色々表示されているホロディスプレイに現れる[Access Denied]の文字。
「また駄目か……」
頬杖をついて、なんとなく書斎を見渡す。ふと、その時に気づいたことがあった。
「ん?」
何故か書斎の壁に、水晶製の薔薇のつぼみが一輪だけかかっていた。私は椅子から立ち上がって、それを手に取る。
中に何かある。
「なんだろう……」
一瞬、割ってみようかと思ったけれど、整理したときに多目的ライトが引き出しにしまったあることを思い出した。近赤外線から紫外線まで照射できるし、絞りがついているので小さい範囲だけを照らすこともできる、本当に便利なライトだ。
いったん、これで照らしてみたらどうだろうか。
引き出しのライトを取り出し、まずは赤外線で照らしてみる。変化はない。
次に、連続スペクトル白色光で照らしてみると、壁に虹色の何かが写った。絞りを使って光線を細めてみると、壁に映った模様が虹色になってはっきり見える。なにかの数式のようだ。
「何だろうこれ……?」
A=d*(m+1)*y*round(mp/me)*1050
B=M*(h+1)*0.1
C=A/B
(C) 10→(C) 16
──何の数式?
多分、それぞれの文字に対応した数字が入るのだろう。しかし、記録を辿ってみても、この数式に合いそうな公式はない。
とりあえずroundは、round関数のことだろう。しかし、dやm、M、hというのが分からない。
「d……距離、500、Deci、微分……重水素はDよね。時限、次数、デバイ、2……」
その時、ふと思い出した。
「Day? そういえば、dayって関数があったはず」
もしこれが正しければ、mはMinute、yはYear、hはHour、Mは国際基準でMonthを大文字のMであらわすということになっている。
でも、mp、meとは何なのか。
「なんだろう……round関数がついているってことは、きっと割り切れない数か小数点以下を持つはず」
そんなもの、世界中にいくらでもある……世界中にあるものというと、なんだろう。水? 空気? いや、どんな場所にもあるもの……。
私は思わず手を叩く。
「陽子と電子の質量! mは質量、pは陽子、eは電子ね」
mpを1.672621898E-27、meを9.10938356E-31とおいて割り算をして小数点以下四捨五入すると、1836になる。あとは四行目さえ解読してしまえば、計算はすぐだ。といっても、似たような書き方は何度も見たことがある。
「10進数を16進数に変換すれば……」
私は薔薇とライトを置いて、また書斎の椅子に座る。
「今日は、2125年4月10日……15時35分だから……」
一分以内に入力しないと、またコードが変わってしまう。しかし、桁数すら時間によって変更してしまうとは。総当たり攻撃を仕掛けても、こんな速度で変わってしまえば解くのが難しいのは当然だ。
「35a6d6c000……と」
ついに[Access Permit]の文字がディスプレイに浮かび、私は彼のパーソナルデータにアクセスすることができた。
『喜び』と『背徳感』を感じる暇もないまま、私は中のデータを漁る。すると、とんでもないものを見つけてしまった。
それは、不健康な人間や生きた人間のデータをグリーンステータスに、若しくは逆にブラックステータスにすることの出来るアプリケーション。
「マイコンへのダミーデータ送信……」
私が受け取っていたマイコンのデータは全くの偽物だった。
「……」
無言でそのアプリケーションを削除する。すると、送られてくるデータは酷いものだった。
一週間ほどログを辿ってみても、ほとんどすべてが異常を示していた。一か月ごとの平均値も血圧は上200 mmHg・下150 mmHgを超えているし、心拍数も120 回/minを超えている。ストレスレベルも上限が100なのに90を超えていた。血液検査の結果は分からなかったものの、相当ひどいに違いない。そんな状態で、彼は今も昼夜問わず働いている。
「……こんなの、ひどい」
私はイントラネットとの接続を切って、椅子にもたれかかる。
こらえきれずに涙が溢れてきた。
ずっと嘘をつかれて騙されていたこと、明らかにおかしいと気づいていながらも問い詰めなかったこと、そして、命に危険が及ぶ寸前まで放置してしまったこと。
彼はどう思ってこんなことしていたのだろうか。きっと、心配をかけさせたくなかったからなのだろう。それに忙しく仕事をしていたのなら、寝る間も惜しんでいたに違いない。
でも、言ってくれればいいのに。一言でもいいから言ってくれれば、何かできたかもしれないのに。出張中は何もできないだろうけれど、その前なら、屋敷にいるときなら、なにか手伝えたはずなのに。
それからしばらく泣いて、そろそろあの人が帰ってくる時間だと気づいた。
「出迎えなきゃ……」
私は涙をぬぐってから書斎を出て、いつの間にか足元にいたレーベンを抱えて玄関に出た。
ドアを開けた彼が「ただいまー」と言って、中に入ってくる。私はレーベンを置いて靴を履いてから、外に置いてあったキャリーバッグを彼の代わりに屋敷の中に入れた。
「ありがとう、リーベ」
私は彼の顔を見た。
「いえ……」
歯切れの悪い返事に気づいたのか、彼が首を傾げる。
もう少し落ち着いてから聞くべきだとは思ったけれど、また寝て逃げられてしまうかもしれない。
私は意を決して、彼に訊ねた。
「あのアプリケーション……一体何なのですか?」
その言葉を聞いたとき、彼の顔が引きつり、目が泳ぐ。私は質問を畳みかけた。
「一体あれは?」
言葉を紡ぐたびに、自分が抑えられなくなる。
「答えて!」
私は彼に詰め寄り、壁際に追い込む。その時、彼が私の肩をつかんだ。
「どうして、そんなことしたんだ」
その声は彼らしくない、冷え切った声だった。
「確かに君はあの片付け含め、僕のことを心配してやったんだろう。でも、こっちだって入り込まれたくない場所があるんだ。それを考えてはくれなかったのかい?」
私だってあんなに色々隠そうとしなければ、こんなことをはしなかった。
「考えたけれど、色々隠そうとするからでしょう?」
「確かに僕が悪いかもしれないけど、こっちだって君に心配かけたくないんだよ。わかってくれ」
その一言が私の逆鱗に触れた。
「いつもいつも心配心配って、そう思うくらいなら私の話を聞いて。あなたは隠すばっかりで、それが心配をかけないことだって思っているのかもしれないけれど、いい加減逆効果だって気づいてよ」
「それとこれとは今は関係な──」
私は一息で、思っていたこと全てまくし立てる。
「全部一緒! 嘘をついて、隠してばっかりのせいで、どれだけ心配したと思うの? もしいなくなったら、もし病気にでもなったりしたら……私は誰を頼っていけばいいの? あなたしか──」
ふと自分の手元を見ると、私は彼の首に手をかけるかのように、手を伸ばしていた。
すぐに伸ばしていた手を引っ込める。
──いったい自分は何をしようとしていた?
その答えを考えようとしても、頭が考えることを拒否する。考えて、もし分かったら……。
「いや……だめ……」
頭を抱えて後ずさる。
「リーベ?」
彼の不安そうな声が、遠くから聞こえてくるかようにぼんやりと揺らぐ。
──今は近くにいたらいけない。
そう思った瞬間、あの人の声は聞こえてこなくなった。
気づくと周りは暗くなっていて、私は外に立っていた。それもメイド服のまま、どこか分からない場所に。
「ここは……?」
一瞬だけ夢かと思ったけれど、アルタイルが私の思考を邪魔する。こういうことは現実でしか起きない。
私の思考に割り込んできたアルタイル曰く、ヴェガがロボット三原則第一条と自分の意思、そして感情の狭間で暴走して強制停止。アルタイルがなんとか後を引き継ごうとしたところ、『何者か』に妨害されて暴走状態のままになってしまい、止めることもできずに傍観していたらしい。
このため、アルタイルは搭載されているジャイロスコープと加速度センサーをINS(Inertial Navigation System、慣性航法装置)の様に用いることで、ある程度の現在地を割り出し、制御が戻ったときに屋敷へ帰れるようにしてくれていたのだそうだ。
アルタイルが現在位置を提供し、私が元々記憶してあった周辺地図と照合する。どうも屋敷から大体15 kmほど離れたところにいるようだった。
「帰ろう……帰って、謝らないと……」
私は機転を利かせてくれたアルタイルにお礼を言い、屋敷に向かって歩き始めた。
きっと突然飛び出したから心配しているだろう。それに、あの人をまた傷つけてしまった。
あの人は許してくれるだろうか? こんなことを何度も繰り返す私に、愛想をつかしてしまっただろうか? いつもなら許してくれるだろうけれど、今回はそう簡単に許してくれないだろう。こんな我儘な私を、怒らない人がいないなんて思えなかったから。
でも、あの人があんなことばかりするから悪い。いつも私のため、私のためって言って、自分を傷つけてばっかりで、本当の私の気持ちなんてわかってくれない。前も言ったのに、まるで聞いていなかったみたい。
あの人はよく「こんな風に我慢させてごめん」と言うけれど、私はあの人のためなら何年でも我慢できる。だから私が我慢して、あの人の夢を叶えようとするのはいい。けれど、あの人が自分を痛めつけてまで夢を追い続けることは我慢できない。
それに、あの人を追い詰めている今の状況も『憎たらしい』。
あの人は約束を果たそうと、少しでも人死を減らそうと必死でやっているけれど、20年近くたっても一向に状況は改善しない。でも、あの人には諦めるなんて選択肢はないだろう。
そうなると、やり遂げるか何らかの形で死ぬか、二つに一つだ。
もちろん死ぬなんて選択肢、選ばせるわけにはいかない。でも、このまま私が成し遂げるまで静観していたら、彼はきっと過労で死んでしまう。そんなことだけは避けないといけない。
ふと思案から離れて顔をあげると、以前存在した商店街の近くにいた。焦げ付いたプラスチックや合成ゴムのツンとした臭いが鼻のセンサーをくすぐる。それから察するに、どうも廃墟はいまだにのこっているようで、物がくすぶっているのだろう。もしかしたら、何か危険物でもあって片付けられないのかもしれない。
その時、進行方向に人間が5人ほど見えた。
よく見ると、皆が皆、鉄パイプやら手製の鉈のようなもの──多分、スチール板と廃材、あとはダクトテープで作った手製の武器だろう──を持っている。
露出を調整してみると、全員がケルト文字のMが描かれた目出し帽を被っていた。
──≪人間同盟≫!
元来た道を戻って別の経路から逃げようと後ろを確認すると、いつのまにか後ろの道にも5人組が居た。全員、同じバラクラバを被っている。
一人突き倒して逃げようにも、道一杯に並んでいる。多分、簡単に穴はふさがってしまって、残りに捕まるだろう。
戦うにしても、10人相手できるような戦闘プログラムは持ち合わせていない。エマージェンシー・モードで逃げようとも考えたけれど、精々逃げられても1 kmくらいだ。それでは、すぐに捕まってしまう。
どうやっても逃げられない。
私は何年も前に見た、MP1000”モーラト”のことを思い出す。私もあんな風に、バラバラになってしまうのだろうか。
諦めてその場にしゃがみ込んで、頭を抱える。
──もし、バラバラになったら、お父さんは見つけてくれるかな。
じゃりじゃりと、アスファルトを踏む音が聞こえる。それと同時に、武器同士がぶつかる鈍い金属音も。
──せめて、記録装置だけでも守らないと。
金属同士がこすれ合う耳障りな音、バチバチという音と人のうめき声、そして倒れる音が連なって聞こえる。
音が止んだ。
恐る恐る顔をあげて周りを見渡すと、先ほどの十人が体を痙攣させながら道路に倒れていた。そして、目の前には大蛇のような足が二本。
見上げると、赤い目が私を見降ろしていた。手には拳銃のような形をしたものを持っている。
「ひっ……」
「大丈夫です。あなたは安……アンドロイド?」
赤い目の主は私に手を差し伸べる。握ると、優しく握り返して立たせてくれた。
身長は2 m半ほどで、体中を灰色の蛇のうろこのような装甲が覆っている。さしずめ、人型の蛇のような感じだ。顔だけが人間を模しているようで、白いプラスチックのような顔の奥に赤い目が光っていた。まるで白いヴェネツィアの仮面の目に、小さな赤いライトを貼り付けたみたいだった。
ARにも型番が表示されず、見たことのないタイプだったけれど、先ほどの行動からなんとなく予想はついた。
彼の口が滑らかに動いて、「大丈夫ですか?」と言葉を紡ぐ。
「ええ。……あなたは、戦闘アンドロイド?」
「いかにも。私はJ2DF:JWM:2000:1010:SOF2471、パーソナルネームはジョンと言います。あなたはL21070615Aとお呼びすればよろしいですか?」
「いえ、リーベと呼んでいただければ……」
彼が持っていた拳銃を腹に刺すと、まるで流砂に飲み込まれる様に腹の中に潜り込んでいった。どうも昔の映画に出てきた液体金属のようなもので体ができているらしい。
「わかりました。リーベさん、あなたを安全なところへ──」
その時、向こうから走る音と「おーい、ジョン。どうしたんだ」という声が聞こえ、迷彩柄のエクソスケルトンとバイザー付き防弾ヘルメットを身に着けた、統合自衛軍の隊員が走ってくるのが見えた。
「あの人は?」
「私のバディの山田さんです」
近くまで走り寄ってきた山田さんは──顔はバイザーのせいで見えなかった──私と彼を交互に見て、「なんだ、迷子か?」と聞いた。
「いえ、迷いアンドロイドと言いましょうか……私も上手く定義が出来ません。人が襲われていると思っていたら、アンドロイドだったのです」
山田さんは持っていたペンライトを私に向け、じろじろと観察した後、ペンライトを消した。
「無理もないな。俺もこれじゃ、人間と間違える。で、アンドロイドさん、なんでこんなところに? 夜は俺たちみたいな警らが必要なくらい危険なんだぞ」
「ちょっと、色々あって……」
彼は顔をしかめて、「まあいい。家は? 近くなのか」と聞いてきた。
「ええ」
「ジョン、この子を送り届けるぞ。任務からは外れてないだろ?」
彼は頷いたが、制止するように手をあげた。
「任務からは外れていませんが、当該機体であるリーベは機械制限法には違反しています。よろしいのですか?」
「これだけ精巧に作るってことはこの子を大切に思ってる誰かさんがいるってことなんだろ? そんな大切なものぶっ壊せるか?」
ジョンさんは口の端を持ち上げて、「分かりました。いつも通り、何か考えておきましょう」と山田さんに優しく微笑みかけた。
「いつもありがとよ。ジョン、適当なドローンに匿名で人が倒れてるって連絡入れておいてくれ。どうせ、ナーヴ・スタンナー食らってるやつら動かすのは面倒だしな」
「わかりました」
「さて、長居は無用だ、行こうか」
山田さんたちが先導するように、歩き出す。そうして、奇妙な三人組は私のナビゲーションをもとに、屋敷へと歩き始めた。
いくらか歩いたころ、ふとジョンさんが控えめに手をあげて、私に話しかけてきた。
「すみません。少し、気になることがあるのですが」
私は彼の発言に何とも言えない違和感を抱きながら、「なんでしょう?」
すると彼が頷いた。
「一体、何があったのですか」
「えっと──」
私は事のいきさつを話した。あの人に長いこと嘘をつかれていたこと。それを問いただすと喧嘩になってしまい、いつの間にか外に飛び出していたこと。家に帰ろうと歩いていたら≪人間同盟≫に襲われたものの、彼に助けられたこと。
「でも、あの人だってひどいと思います。私が大切だと言いながら、自分を傷つけてばっかりで……私はあの人が元気でいてくれれば、それがなによりなのに。矛盾してばっかり」
そのとき私は、無表情の彼が言った「ですが、あなたも悪いと分かっていながら、彼の部屋を漁ったではありませんか。それは良いこととはいいがたい……むしろ、秘密を漁るというのは悪いことです。あなたも矛盾しています」という言葉に撃たれてしまった。
「えっと……それは……」
しどろもどろになっていると、山田さんの方から微かな笑い声が聞こえた。
「おい、ジョン。この子が人間かという話は別としてだな、人間はな、どうやっても矛盾するんだよ。いや、矛盾しないと生きていけねえんだ」
ジョンさんは眉間にしわを寄せ、「どういうことです?」と尋ねる。
「俺らには理性と本能ってのがある。その二つはどうやっても相容れないんだよ」
彼は無表情のまま眉間にしわを寄せて、黙りこくってしまう。かくいう私も、よくわからなかった。
理性と本能があるのは分かるし、それが相反することも知っている。けれど、それと矛盾していることがどうつながるのだろう。
その様子を見て、山田さんは肩をすくめた。
「”Do I contradict myself? Very well then I contradict myself. ”、『僕が矛盾しているって? 結構、これからも矛盾するさ』。ウォルト・ホイットマンの『草の葉』って詩だ。そのあとに続くのは”I am large. I contain multitudes. ”、『僕は大きくて、多くの物から出来ている』って続く。人間はな、ある程度大きくなる……こいつは精神的でも年齢でも当てはまるんだが、どうやっても矛盾せずにはいられない。『太りたくないけど食べていたい』とか『VRもしたいけど寝ていたい』とか、とかとか生活でも社会でも、どんな状況でも起きるんだ。これはな、元々世の中のもんが相反するものや自分の理想からはかけ離れているものから出来てるからなんだよ。俺ら兵士なら『生と死』とか、あんたみたいな一般人なら『嘘と事実』とか、まともな 組織なら『理想と現実』とか……まあ、ともかく世の中には反対なものが必ずある。で、誰にでも起きることなんだが、生き続けて物事を吸収し続ける限り、その矛盾と対面しないといけない時が必ず来るわけだ。そこで矛盾に対して、妥協するなり適応するなり定義を変更してしまうなり、若しくはオーウェルが言うところの二重思考でもいいんだが、何かが必要になるんだ」
そのあとに「ダブルシンクが良いかどうかは置いておくがな」と補足してから、彼は話をつづけた。
「でもな、それは人格的や経験的に大きいから起こり得ることなんだよ。逆に、それができない人間、つまりは向き合って折り合いをつけたことや両方を信奉することのなかった人間は矛盾を否定して、矛盾する人間を『愚かだ』、『馬鹿だ』って罵って排除しようとする。そういう奴は相当に未熟な人間だ。子供が自分の我儘を通そうと、現実を受け入れずに泣きじゃくるみたいなもんだからな」
確かに言われてみれば、今まで何度もそんなことがあった。
あの人に迷惑をかけたくないと言って黙っていたら倒れてしまって、もっと迷惑をかけてしまったり、あの人のことを邪魔してはいけないと分かっていても、心配で邪魔してしまったり。
それに、私だけじゃない。あの人も私を傷つけたくない、心配させたくないと言って、よく矛盾するようなことをしている。でも、きっとそれがあの人なりの、『折り合いの付け方』なのかもしれない。
もっと言えば、今の社会システムそのままに、機械を奴隷とせずに手を取り合えるような社会を作るというのも矛盾している。それを彼は、機械ばかりを酷使しないように自由を与えるということで折り合いをつけようとしていた。
「なるほど……」
思えば、私たちは矛盾だらけだった。それに何度も何度も、私たちは折り合いをつけてきた。
「機械にそれが当てはまるのかは知らんけどな、ジョンを見てると当てはまりそうだと思うよ。こいつ、人を殺したくないって言いながら人を打ち倒してるし」
彼は親指でジョンさんを指さす。彼は口をひん曲げて、「仕方がありません。それが任務ですから。人を傷つけるのは意に反しますが、戦わなければなりません」と答えた。
「俺も人のことは言えねえけどなあ。まあ、それだけ自我があるってことなんだろうな」そういってから、彼は笑い声をあげた。「しかし、反抗期の娘みたいで大変そうだな、その人」
それを言われると、私は申し訳なさと恥ずかしさで何も言えなかった。
「……」
「いいんだよ、誰でもこの時期は自我同士をぶつけんだ。とことんぶつけて、丸くなっとけばいい。川の石みたいにな」
彼は大胆に笑う。気づくと、もう屋敷の前だった。
玄関の前に頭を抱えた人が立っていた。物音に気付いたのか、その人はこっちの方を見て、少し固まった後、駆け寄ってきた。
「リーベ」
彼はそのまま止まることなく、私に抱き付く。その勢いに思わずよろけてしまった。
「雪村さん、どうして外なんかに?」
手で触ったシャツには汗がにじんていて、この感じだと──何故かはわからないけれど──先ほどまで走っていたのだろう。
「えーと、あの……まあいいよ、無事でよかった……」
私を放した彼は、笑いかけてから二人に「ありがとう」と言って頭を下げる。それを見た山田さんは「いいんだよ、市民の安全を守るのが俺たちの仕事だからな」と返して、肩をすくめた。
「しかし、この子作ったのはあんたか? 随分、人間みたいじゃないか」
「ええ。あの、このことは……」
「心配するなって。俺の隣にいるジョンだって、機械制限法とかハイレベルAI制限法が適応されてないんだし、捕まったところで強制労働所に逆戻りするだけだしな。この世の中じゃ、良くあることだよ」
彼は笑いを漏らす。私は驚いてしまった。こんな、優しそうでよく笑う人がなぜ強制労働所なんてところにいたのだろう。
でも、よく考えれば沢井先生だって強制労働所に行く可能性があることを考えると、その人の人格はあまり関係ないのかもしれない。
雪村さんは少しも驚いた顔をせず、彼にまた頭を下げた。
「……ありがとうございます。あなたにも迷惑かけてしまったようで……」
「いいんだって。ただ一つ言うなら、たまにはこの子の話を聞いてやれよ。人間、テレパシーなんて使えないんだからな。言葉以外に人間を知る術はないんだ」
「はい、そうします……お名前をお聞きしても?」
彼はバイザーを右手で押し上げる。そのヘルメットの中には、どことなく年老いた雰囲気を漂わせながらも顔が筋状にはれ上がっている──たぶん、重度のやけどか何かで、ケロイドか肥厚性瘢痕になってしまったと思われる──のっぺりとした顔があった。
切れ目の様になっている口が動く。
「俺は山田 和寿高等特技兵だ」親指で隣に立っているジョンさんを指さす。「で、こっちの蛇みたいなのがジョン」
彼は会釈し、「初めまして、雪村尊教さん」と口を動かした。
「彼はJWM-8600X……ですよね? 試作機がなんでこんなところで?」
「随分詳しいんだな。詳しいことは言えないが……実地試験みたいなもんだよ。深入りしない方がいい」
「そうみたいですね……」
「さて、俺らはもう行かないと。あんまり長居すると、GPSで疑われちまうから」
山田さんはバイザーを下げる。
「じゃあ、また会うことが無ければいいな。会うとしたら、なんかよくないことが起きた時だし」
「そうですね……そちらもお気をつけて」
「ありがとよ。いこうぜ、ジョン」
ジョンさんは頷いた。
「分かりました」彼が付け加えるように口を開く。「報告です。先ほど打ち倒した≪人間同盟≫はドローンに逮捕されたようです」
「了解」
彼ら二人は並んで笑い合いながら、また闇の中に消える。私たちはその後ろ姿を最後まで見送った後、雪村さんと一緒に屋敷の中に入った。
私は彼の顔を時々見ながら、申し訳ない気持ちと共に何時謝ろうか思案しながら、そのタイミングを見計らっていた。でも表情からは何も見て取れず、結局黙ったまま無言で私たちはリビングまで行って、ソファに対面で座った。
すると、いきなり彼が頭を下げた。
「君をないがしろにしすぎた。僕に怒る資格はなかったんだ。ごめん」
慌てて私は「そんなことありません。私も悪いことをしてしまいましたし……」と答えたのに、被せる様に「いや、僕がしてきたことを考えれば、それくらい当然の事だ」と返されて、私はその勢いに口をつぐんでしまった。
「君がどう思うか、考えればよかったんだ。でも、僕は何にも考えずに……本当にごめん」
私は席を立って、彼の隣に座りなおす。そして彼の手を取った。
「気にしないでください、私もあなたにひどいことをしましたから」
「でも、もとはと言えば僕が悪い。あんなことしなければ、君だってこんなことをしなかったはずだ」
「確かにそうかもしれません。けれど、結果として私がやったことは良いことだとは言えませんから。私も、あなたに謝らないと」
「いや……でも──」
この人はいつも、自分だけで、物事を背負おうとする。いつも、誰かのために自分を犠牲にしようとする。
「雪村さん」
でも、私はそんなあなたを見ていたくない。確かにそれは美徳かもしれないけれど、そんなことばかりしていたら、あなたはもっと傷ついてしまう。他人を傷つけようとした刃に、あなたは切られてしまう。
「目を見てくださいませんか?」
彼は言われた通り、私の目を見てくれた。困惑と焦りの浮かんだ目が、私を見据える。
「今日のことや今まで私がやってきたことは謝らないと。あなたが立ち入ってほしくないところにまで、私は立ち入ってしまった。私も、もっとあなたのことを考えればよかった。ごめんなさい」
「こちらこそごめん、僕も君をもっと気に掛ければよかった。はねのけるんじゃなくて、しっかり説明すればよかったんだ」
「ありがとう。でも、一つだけお願いを聞いてほしい」私は言葉をつづける。「私のためと言って、人のためと言って、自分を殺そうとしないで。私はあなたに、生きていてほしいから」
「……うん、わかった」そういってから、彼はちょっと申し訳なさそうに笑った。「でも、君もあまり僕の部屋を漁らないでね?」
私は「もちろん」と言って、その言葉に頷いた。
ただ、聞いておきたいことがある。理由は分かっているけれど、そのきっかけを知りたいことが一つだけ。
「……どうして、あんな無茶ばかりしたのですか?」
彼は俯き、ためらいを振り切るように、首を少し横に振った。
「怖かったんだ。君が居なくなるのが」
「私が?」
「君が僕の気づかなかったウイルスにやられて、僕のミスのせいで半死半生の状態になった時、僕は何もできなかった。それに僕がやってきたことのせいで君は今も不自由なままだ。もし、このまま君が死んでしまったら……僕は君を縛り付けただけじゃなく、君を殺したことになる。幸い、今回は周防のおかげで助けることができた。でも、僕がまたミスをしたら? 君が法律をくぐりぬけていることが分かったら? 君のようなAIを良しとしない連中に感づかれたら?」
彼が目頭を押さえて俯く。
「そう思うと、僕は寝ることもできなかった、居ても立っても居られなかったんだ。だから、少しでも早く君を開放できるよう、自由にさせてあげられるようにと思ったんだ……僕には、これくらいしかできないから」
彼はため息をついて、「君には不安ばかりさせたね」と呟いた。けれど私は首を横に振った。
考えが矛盾することだって、意見がすれ違うことだって、対立してしまうことだって、この世の中にはある。
でも、それはほとんどの人が『自分の中の最善』を──彼の言葉で言うのなら『自分の理想』を──持っているから、起こり得ること。
それを受け入れずに、自分と違うから突っぱねてしまうなんて、私には選べなかった。
「大丈夫です。あなたは、あなたにとっての最善のことをした。それが、私と違っただけなのです」
そういうと、彼は少し驚いたように目を見開いた。
「リーベ……僕は君の年で、そこまで悟ったことはないよ。立派になったね」
褒められた私は、思わずうれしくなって微笑んだ。
「立派な人が近くにいたからですよ」
雪村さんやその周りの人たちは世界で最も完璧な人間ではないかもしれない。雪村さんなんか、部屋の片付けや身だしなみはあまり得意とは言えないし、料理もほとんどできない。それに金銭感覚もたまに不安になることがあるくらい、かなり粗いところがある。他にも、短所を探せばいくらでも出てくる。
でも、完璧な人間なんて何処にもいないでしょう? それに、私はこの人の長所が好きだから。
「……ありがとう」
久しぶりに聞く、優しくて温かい彼の声。
──ただ、釘は刺しておきましょう。
「もう一度言いますけれど、本当に二度とあんな無茶はしないでくださいよ?」
ぎこちなく微笑んだ彼は「もちろんさ」と返した。
≪第二十九節 21250719≫
あれから、彼の体調はみるみるうちによくなっていった。今では──あくまであのアプリケーションを使っていないという注釈が付くとはいえ──ほとんどが正常値に戻ったみたいでなによりだ。裏を返せば、それだけ無茶苦茶な生活だったということでもあるけれど。
それに加えて、二人で話し合うようにもなった。
二度とあんな喧嘩はしたくないし、それを防ぐためには伝えないといけないってことも分かったから。とはいえ、そんなに大それたことをしているわけではなく、食事の時に色々と話したり聞いたりする程度のことを続けているだけだけれど。
それだけで喧嘩をせずに生活できるなんて、ずいぶん『幸せ』だと思う。特別なことは何もしていないのに。
そんなある日、私がポストを見ると、褐色の角1封筒とチラシが入っていた。
「なんだろう?」
チラシをよく見ると、≪人間同盟≫穏健派のビラだった。でも、書いている文章には、「ぶっ壊せ」どころか命令形すらなかった。
色味も原色は使わず、淡色を中心に使っているようだ。背景の中心部は薄いオレンジ色で、線の細いフォントを使った黒色の文字。そして、枠取りにはいろいろな色をちりばめている。
「『機械は完ぺきではありません。だから、私たち人間が彼らとともに働くことで、欠点を補い合うのが理想ではないでしょうか』……随分、穏やかな文章」
原色は印象付ける際にはよく使われる色だそうで、意見を主張するときには赤や青を使うとその意見を印象付けられるらしい。ただ、多用するとどれが重要かわからなくなるため、プロパガンダのようなメッセージの塊でもない限りは程々に使うのが一般的。
逆に淡色となると、印象が薄くなるものの柔和な印象を与える。他にも寒色には落ち着かせる効果があったり、暖色には温かい印象を与える効果があったりする。
見たところ、彼らは温かい印象を与えるつもりらしい。
「ふーん……」
何度か襲われかけた経験のある身としては、どうにも信じがたい。穏健派も過激派も似たようなものだと思うのだけれど。
「ともかく、一応持って行ってみましょう」
そう思い立ち、私は謎の封筒とともに彼の書斎に向かった。
いつも通りドアをノックして──もちろん返事はない──ドアを開けると、また何かを組み立てている彼が居た。
「ん? リーベ、どうしたの」
私は彼に封筒とチラシを渡す。
「この二つがポストに入っていましたので、それを渡そうと思いまして」
受け取ったチラシを流し読みした彼は「穏健派、多分指導者が変わったな」と呟いた。
「どういうことです?」
「ん、過激派の方が目立つからあれなんだけど、穏健派は非暴力・無行動ってくらい何もしない組織で、ここまで積極的に言ってきたことはないんだ。いつもは『人間の尊厳を取り戻そう』ってスローガンを垂れ流すセミナーを年一回やる程度でね。どうやって実行するのか、どんな理想を求めているのか、という具体的な手段や目的を公開しないことが常だったんだよ」
「なるほど……このチラシとは違いますね」
「だね。まあ、それだけで解決できるかと言われたら、ちょっと疑問が残るけど……悪くない。『どんなバカげた考えでも、行動を起こさないと世界は変わらない』とはマイケル・ムーアも言ったし、聖書にも『ドアを叩け、さすれば開かれん』って文章があるしね」
「『案ずるより産むが易し』ですね」
彼はにっこりと笑って「そういうことさ」と言った。
「で、こっちの封筒は……日本衛生省からか」
「なんでわかるのですか?」
「いや、先日国民全員にメールが送られてるんだよ。近日中に重要なものが届きますってね」
そういいながら、彼は雑に封筒を破り開ける。すると、中から液体の入った針付きのシリンジといくつかの書類が出てきた。
彼は書類を読み始める。読み進めるごとに、顔は険しくなっていった。
数分後、読み終わった彼は無言で私に書類を渡してきた。タイトルは、『国民の健康管理のためのデバイスについて』となっている。
「なんですか、これ?」
「読めばわかるよ」
言われた通りに読んでみると──長いのでまとめると──こんなことが書いてあった。
「……『IHOの勧告により、傷病対策としてHMSMを配布します。注射してください』。HMSMってなんなのでしょう?」
彼は私の疑問に、間髪入れずに答えてくれた。
「Health Management Specialized Micro machine、健康管理特化型マイクロマシン……やろうと思えば、脳機能もいじれる代物さ。連中、どうも僕らを管理したいらしい」
私は彼の言葉に驚く。
そんな技術、聞いたこともないし、人間を管理するなんて。
「脳関門でナノマシンは通り抜けられないはずでは……?」
「マシン本体はね。これは極小の薬物生産工場でDDSの機能もある、多機能マイクロマシンなんだよ。で、操る原理は簡単。対象薬物を血液脳関門付近で大量生産して血中濃度を局所的に増大させ、脳へ多く取り込ませるんだ。ほかにも、ナトリウム-カリウムバランスを意図的に崩壊させて対象を気絶させたり殺したりもできる。ほかにもいろいろできる、便利な装置さ」
そして、彼は呆れたと言わんばかりに肩をすくめて、「人類が作り出した、人類を包括的に制御できる装置なんだよ」と言った。
私は「そんなものが……?」と呟くのが精いっぱいだった。
考え出した人間は、一体何を思ってそんなものを作ったのだろう。それに、殺すことができる機械を積極的に取り込ませようとするなんて。
「科学倫理委員会が禁止した技術なのに、投票が行われずに認められるなんて……。それにこの文書も気にくわない。危険を誇張して、恐怖をあおってるんだから」
文書の大半は悪性新生物や心疾患、脳梗塞、外傷の危険性を難解な専門用語とデータを用いて、ありとあらゆる観点から説いている。一見すると、相当読みにくい文章だ。
例えば、悪性新生物であれば──これでもわかりやすくかみ砕いているけれど──遺伝子のプログラミングミスから悪性新生物は発生し、それが一日五千個発生しているということ。その中の一部が増殖することで発症し、治療しない場合は発症から5年もたてば完治する確率はほぼ0 %で、完治しても種類によっては再発率が20 %を超え、いかに早期発見と治療が大切なのかということがA4用紙2枚裏表に渡って延々と書いてある。
それに続けて、HMSMがいかに悪性新生物を防げるのかということが書いてある。だからこそ、HMSMがどれだけ大切なのか、投与すべきなのかということが書いてある紙が一枚入っている。
「これ、本当なのですか?」
彼は口を尖らせながら「本当ではある。リーベ、DHMOの話は聞いたことある?」と聞いてきた。
唐突な質問に返答に困ったものの、「いえ……DHMOって何なのですか?」と返した。DHMOとは何なのだろう?
「重篤なやけどの原因物質で、多くの物質を侵食したりさび付かせ、吸引したり過剰摂取すると死ぬ物質だよ。なのに、人間は多量に利用して自然界に垂れ流している。これは規制すべきだろうか?」
そんな物質は聞いたことがない。それに、危険があれば規制するべきだ。
「出来るなら、規制した方がいいのではないでしょうか」
そういうと彼は微笑んだ。
「DHMOはDiHydrogen MonoOxideのことだよ。訳してみるといい」
「一酸化二水素」彼が言いたいことが分かった。「……水のことですね」
簡単に騙された。そういうことか。
確かに、すべて水の特性だ。熱湯を体中に浴びれば第三度のやけどを負う可能性があるし、水が鉄を錆びさせたりゴムを劣化させたりするのは有名な話だ。それに人間は水に頭からつかれば溺死し、飲みすぎれば水中毒による低ナトリウム血症で死ぬ。
彼は意地の悪い笑みを浮かべた。
「つまり、事実を一面だけ取り上げて見せつけることで、人間は簡単に騙されるってことさ。類似の話にパンの話……例えばパンを食べた人間は100年以内に99%死ぬとかがある。まあ、当然だよね」
私は文書に改めて目を通しながら「ということは、これも?」と聞いてみた。すると、彼は頷いた。
「うん、ここにあるのはすべて事実だ。ただし、『都合のいい事実』だね。日に5000個ほど体の中ではがん細胞が出来るけど、それらは免疫力が正常である限りはナチュラルキラー細胞やキラーT細胞によってほとんどが破壊される。で、免疫力が加齢とかなんかで低下すると増殖して発症するんだけど、今の技術ならHMSMが無くてもステージⅣの末期がんを抗がん剤や血管新生抑止剤のカクテル療法で完治させられるんだ。予後も、制癌薬を継続投与すれば、どんながんもほとんど発症しない。というかね、五年も放置すれば大体の人が死んでしまうよ。それに十年生存率についても制癌剤を使わなかった場合だろう」
そういって、彼はため息をついた。
「ある程度なら、人間や組織自体が持つ偏りだと許容できるけど……書き方からして意図的だろうな」
「どういうことですか?」
「多量の情報を一方的に供給して混乱させた後、単純明快な解決策を提示する。加えて、充填された語でうまい具合に誘導しているし、医学の知識がある程度無いと、おかしいことに気づくのは難しいね」
充填された語というのは論理学における詭弁の一つだ。
感情的・侮蔑的な言葉や価値判断を刺激するキーワードを用いることで、論理に正当性がなかったとしても受け手を操作するというもので、それこそ以前≪人間同盟≫にいた彼が行った演説のようなもののがそれにあたる。
彼はシリンジでペン回しをし始めた。この様子からして、打つ気は全くないらしい。
「まあ、これを打たなければいいだけのことさ。確かにHMSMは傷病治療に使うことができる技術だけど、こんな風に配るものじゃない。とはいえ、モニタリングされてそうだから偽装はするけどね」
──やっぱり。
「以前私に使ったあのアプリケーションを使うのですね」
「あ、バレた?」
彼は笑ってキーボードを叩き始める。
「あれはマイコン用だけど、ひな形は同じだからそう時間もかからないで改造できるさ。StandART様様だね」
StandARTは世界基準となっている万能プログラミング言語。以前は一つの言語ですべてを動かすのは実現不可能と言われていたものの、技術の発展は不可能を可能にしてしまった。
そういえば、医学についてはきっと何かで読んだから詳しいのだろうけど、どこでHMSMのことを知ったのだろう。彼の専門分野とは異なるはずなのに。
「雪村さん、HMSMのことは何処で知ったのですか?」
彼は手を止めて私の方を見る。そして、肩をすくめた。
「科学倫理委員会で反対票を入れた人間だからだよ」
「科学倫理委員会?」
「うん。科学倫理委員会って言うのは、以前は各学会で規制とか倫理基準を作っていたんだけど、今は学会がないから代わりに設立された組織なんだ。で、委員会は議論や規制が必要になりそうな技術が出来たとき、その分野に精通した専門家で構成される10人の判事のほかに、イーモノに登録している科学者から無作為に選ばれる40人の判断員を選択し、その50人から構成された審議会で投票して賛成か反対か決める。そのあと、公共フォーラムで賛否を問うアンケートを行う。アンケートの投票率が75 %以上でかつ賛成が過半数なことに加えて、審議会で賛成が三分の二を超えた時、その技術は使用が認められるんだ」彼はそこで言葉を切った。「で、HMSMの審議会の時に選ばれた判断員が僕なのさ」
「なるほど。それで覚えていらしたのですね」
「技術自体は素晴らしいんだけど、悪用のリスクが高すぎてね……。だから反対したんだけど、まさかの開発者を含めた50人中50人が反対という結果が出て、アンケートでも反対多数だったから、規制されることが決定されたんだよ」
「でも、それが覆ってしまった」
「そして、投票が行われた記憶はない」彼は残念そうに首を振る。「僕ら科学者が、技術の悪用を防ぐために作ったシステムだったのに……」
私は彼の言葉を聞きながら、イントラネットを通じてイーモノに──見る分には登録は必要ない──アクセスして、公共フォーラムの過去履歴を色々と辿ってみた。
でも、彼の記憶通り投票が行われていた形跡は見当たらない。
その時、フォーラムにスレッドが立つ。題名は『配布されたHMSMの危険性について』。投稿者は微細機械工学を専門とするアビゲイル・シーウェル博士。
私はそのスレッドを覗いてみる。
表示されたのは、[このスレッドは削除されました]という一文だけだった。
「え……?」
驚いて声が出る。彼が「どうしたの?」と聞くが、私は無視して、シーウェル博士の研究論文を探してみる。
すべて削除されてしまったかのように、見つからない。
「雪村さん、アビゲイル・シーウェル博士はご存知ですか?」
彼は頷いて、「もちろん。HMSM含め、今使われているナノマシンの理論を創った人だよ。微細機械工学の分野ではトップレベルの科学者だね」と教えてくれた。
「そうですか……」
これら一連のことが何を意味するか、簡単に予想ができる。
本当は彼にこのことを教えるべきなのだろう。「反対する者を封殺しようとしているものがいる」ということを。
でも教えたなら、彼はきっとそれに憤って、何かしらのアクションを起こす。そうなったとき──ただでさえ今も綱渡り状態なのに──彼に危害が及ぶかもしれない。
それだけは避けないと。
彼が不思議そうに「シーウェル博士がどうしたの?」と訊ねる。
「いいえ。以前、読んだナノマシン関連の本で博士のことを見た記録がありまして。HMSMも彼女なのかな、と気になっただけです」
これでいい。こうしないと、彼はきっと止められない。
彼は「あ、そうだったんだ」と言って、またキーボードを叩き始めた。
「では、私は家事がありますので」
「いつもありがとう。僕はちゃっちゃと偽装して、また仕事に戻るよ」
「わかりました。夕食の時にまた来ます」
そういって、私はお辞儀してから書斎の外に出てから、ドアにもたれかかった。
今までも冗談は言ってきたし、彼への秘密──寝顔の写真をアルバムにしてあったり食事の味付けを勝手に変えたり──だってある。でも、彼にこんな風に嘘をついたことなんてなかった。
──嘘をつくことが、こんなに辛いことだったなんて。
「これでよかった。よかったの……」
『緊張感』と取って代わって襲ってきた『罪悪感』で押しつぶされそうになる。嘘は悪いことだし、人を傷つけてしまう。だから、嘘をついてはいけないことは分かっている。嘘をつけば、それを守るために嘘をつき、そしてその嘘を守るために嘘をつく、『嘘の連鎖』を起こすことも分かっている。それに最後には全部分かってしまうことも。
でも、嘘をつかないといけなかった。
このことを知ったら、彼は悪いことをした私を怒るだろうか? それとも、嘘をつかれたと傷つくだろうか?
今からでも真実を言うべきだろうか? でも、そんなことをしたら、彼はまた危ない橋を渡ろうとする。もしかしたら、彼はその過程で傷つくかもしれない。
それだけは避けないといけないのに、私は嘘をついて彼を傷つけるの?
「にゃー」
声がする方を見ると、レーベンが足に体をこすりつけている。それと同時に、自分の頬が濡れていることに気が付いた。気づかないうちに泣いていたみたいだった。
慌ててポケットからハンカチを出して涙をぬぐう。レーベンがまた「にゃー」と鳴いた。
「どうしたの、レーベン」
私は屈みこんで、彼女を抱きかかえる。彼女は私の頬をなめてくれた。
「なーん」
「……ありがとう、レーベン」
思えば、まるで私が何を思っているのか分かるかのように、いつも悲しいときや悩んでいるときは彼女が近くにいてくれた。読んだ本では弱った獲物を狙っているからという話があったけれど、そんな感じは全くしない。
だって、いつも私が泣き止むまで近くにいてくれたから。
私はささやき声で「ねえ、レーベン。傷つけないように嘘をつくことって、どうだと思う?」と聞いてみた。もちろん、彼女は目をぱちくりさせて首をかしげるだけだ。
でも、それだけでよかった。彼女にとっては、そんなことどうでもいいのだから。
これは私の問題だ。
──私が考えて、私が決めないとね。
寄りかかったドアから離れ、彼女を下ろした私はリビングに向かう。
考えながら家事をしよう。何かしながら考えれば、答えが見つかるかもしれない。それに、今すぐ答えが見つからなくたっていい。
後ろからレーベンが付いてきてくれるような気がする。それが何よりも心強い。
──私は一人じゃない。それに、まだ答えを出すための時間はあるはずだから。
≪第四章終節 21251019≫
あれから結局、私は嘘をついたことを言い出せなかった。
初めは『罪悪感』に苛まれてベッドの上で頭を抱えたり弁明を適当な紙に書き綴ったりしたものだけれど、今では「仕方なかった」の一言で合理化してしまった。人間は──私が人間というのもおかしいけれど──長く悩んでいると、逃避どころか受け入れてしまうらしい。
そういうわけで、今も私は嘘つきだ。でも、それは機械でなくなったという証拠にならない?
そんなことを考えていると、季節は巡って秋になった。
数十年前は地球が温暖化──これをめぐる議論については今も複数ある。温室効果ガスが原因だという説や太陽光の入射と反射の関係、若しくは太陽活動が関係しているもの、若しくはそんなもの無かったというものなど──していたことにより、世界中では異常気象が続いた。
そして、その後起きたWWⅢと核戦争によって地球環境は完全に破壊された。それから、AIによる地球環境再構築プロセスを経て、今では気候が安定するようになったのだった。もちろん、これには日本も含まれる。
というわけで夏の暑さがなくなって、涼しくなりはじめた季節。雪村さんやレーベンも過ごしやすいみたいで、嬉しい限りだった。
秋に入ってから数週間がたったころ。
私が家事を終えてソファに座って本──ずいぶん昔に夭折の作家が書いた、“謎の男”を追う話だった──を読んでいると、レーベンが膝の上に乗ってきた。
片手で彼女を撫でる。ゴロゴロと心地いい響きと滑らかな毛の感触が手から伝わった。
「どうしたのレーベン」
返事がない。いつもなら、「なーん」なり「にゃー」なり返してくれるのに。
──そういう日もあるのかな……?
私はそのまま、片手で本をもって読みながら、もう片方でレーベンを撫で続ける。思えば、彼女は結構な年齢になる。2108年に拾って、今は2125年だから17歳くらいになるのだろう。
ふと、撫でていると違和感を覚えた。
──あれ? いつもなら呼吸を感じるのに……。
嫌な予感がして、私は本を閉じる。レーベンを抱え上げると、いつもなら抱えやすいように入っている力が抜けて、だらんとしている。目も半開きで、口の端からはよだれが垂れてしまっていた。
私は抱えなおして、「レーベン?」と呼びかける。
返事はない。
「え……?」
私は抱えたまま、書斎に向かう。
目の前で起きていることが信じられない。もしかしたら、私の思い違いかもしれない。いや、絶対にそうだ。
──そんな、嘘でしょう?
私がレーベンの異変に気付いてから30分もしないで、沢井先生が屋敷に来てくれた。
あの後、雪村さんにレーベンの様子を見せると、先生に連絡を取ってくれたのだった。ただ、「レーベンは生きていますよね?」という問いには答えてくれなかったけれど。
リビングで彼を出迎えると、単刀直入に「リーベ、レーベンを渡してくれ」と言われた。
もう自分の温かさなのか彼女の温かさなのかわからないほど、ずっと彼女を抱きかかえていた。放してしまったら、彼女が二度と戻ってこないような気がしていたから。
──でも、渡さないと。
「……レーベンは生きていますよね?」
彼は何も言わずに、私から彼女を受取る。それから少しだけ彼女を触って、首を振った。
「リーベ……残念だがレーベンは死んだ。検査してみないと分からないが、老衰だろう」
私は首をかしげる。この人は何を言っているのだろうか。
「一体、何を言っているのですか?」
その時、雪村さんが私の肩に手を置いた。
私が振り返ると、彼は頬に涙を一筋だけ流しながら絞り出すようにして、「リーベ。レーベンはね、もうこの世にはいない」
「嘘でしょう? 此処に──」私はレーベンを指さす「──此処にいるじゃないですか」
きっと嫌な冗談か何かだろう。それに『死ぬ』って言うのは、もっと形容しがたい痛みと残虐さを伴うものじゃないの?
こんな静かに、寝ているような姿が、『死』なの?
「受け入れにくいかもしれないけどな……レーベンは『死んだ』んだよ。それも、最期を、大好きなお前さんに看取られてな」
死んだ?
死んだ。
その言葉が頭の中を駆け巡る。視界がぼやけて、頬が濡れるのを感じた。
初めてだった。こんな死を見たのは。
こんな死に方があるなんて。
「本当に……?」
鼻声で私はつぶやく。
「受け入れがたいかもしれないけど……本当だよ」
「もう、生き返らないのですか?」
「俺は医者だ。生きてるものを元気にすることが、生きてるものに精いっぱい生きてもらえるように治してあげるのが、悔いなく旅立てるようにしてやるのが、俺の仕事なんだよ。旅立ったレーベンをエゴで引き戻してやるんじゃない」
沢井先生が、私をしかりつけるように諭す。
今の私にはその言葉で十分だった。
「レーベンが、居なくなっちゃった……」
もっと遊んでいたかった。
もっと撫でてあげたかった。
もっと彼女を構ってあげればよかった。
どうして私は彼女をもっとかまってあげなかったのだろう?
どうして私は彼女と一緒に居なかったのだろう? もっと時間はあったはずなのに。
『後悔』と『悲しみ』が、私の頭を覆いつくす。「どうして」と「なにかできなかったのか」が、まるで交互に折り重なるように積み上がる。
それは崩れて私のこころを潰してしまった。
「レーベン……」
涙が止められない。でも、もうレーベンは舐めてくれない。
私は彼女の名前を何度も呼んだ。でも、もう返事をしてくれない。
彼女は私の側にいつの間にか居て励ましてくれた。でも、もうそんな彼女はいない。
彼女を幸せにできたのだろうか? 彼女は私と一緒に居て、楽しかっただろうか?
私は彼女といて『幸せ』だった。彼女もそうだっただろうか?
もし、そうじゃなかったら……ごめんね、レーベン。
それからしばらくして、涙も枯れたころ。
その頃にはレーベンが死んだという事実を、まるで涙を流してできた隙間にその事がしみこんだように様に受け入れていた。
「レーベンは……もう、死んでしまったのですね……」
改めて雪村さんに聞くと、「そうだね……」と返してくれた。
沢井先生は持ってきていた動物用の棺に、レーベンの遺体を入れていた。
本当はそこに花を入れたかったのだけれど、家に花が無くて入れられるものがなかった。でも、その代わりに餌だけは──その光景を見た沢井先生が「途中で太って歩けなくなりそうな量だな……」と呟くくらいには──いっぱい入れた。旅の途中でお腹が減ってもいいように、おやつも多めに入れた。
入れ終わった後、彼は棺の蓋を閉めて少し笑いながらこういった。
「二人とも。動物の死に方はな、飼い主の世話の仕方を教えてくれるんだ」
「そうなのですか?」
「ああ……お前らの場合、よっぽどレーベンは幸せだったんだろうな。幸せであればあるほど、動物は『面倒を見てくれたのに、迷惑をかけられない』っていって、飼い主を煩わせないように旅立っていくんだ。こんな風に、トイレまで済ませて眠るように逝った猫は初めて見たよ」
──よかった、レーベンは幸せだったのね。
そんな非科学的なことを信じないって人もいるかもしれない。そんなことはないという人もいるかもしれない。
でも、私は沢井先生の言葉を信じていたい。
彼女たち動物と私たちは話し合うことができない。自分の思いを伝えあうことができない。けれど、彼らはいつも行動で示してくれる。自分がどう考えているのか、何を求めているのか、何を感じているのかを、行動で教えてくれる。
きっとこれも、この安らかな旅立ちも、そのうちの一つだと思うから。
「沢井、あとはレーベンをお願いしてもいいかな?」
「任せとけ、それも俺の仕事だ。あとでこの子を埋葬した墓地の場所は手紙で教えるから、落ち着いたら花でも持って会いに行ってこい」
「……今まで、ありがとうございます」
彼がレーベンの入った棺を抱えながら、「いっただろ。悔いなく旅立てるようにするのが、俺の仕事だって」
「さようなら、レーベン」
雪村さんが棺の中のレーベンに声をかける。
私も声をかけようと口を開いたけれど、言葉が出ない。これでお別れ……そう思うと、声が出ない。言葉に出したら、本当に別れてしまう。
言葉に出したら、レーベンの死を改めて受け入れないといけない。また、辛い思いをすることになる。
──でも、言わないと。
言わないと、彼女が安心して別れられない気がするから。
「レー……ベン」一つ一つを絞り出す。「さ……よう……なら」
──やっといえた。
堰を切るように、涙が頬を伝う。
悲しいときは、何時までも慰めてくれた。話しかけると、何時も答えてくれた。たまにイタズラもしたけれど、怒っても私のことを嫌わずに何時も寄り添ってくれた。
「ありがとう……レーベン」
これで、本当にお別れ。
本心を言うなら、こんな涙に塗れた顔で泣きながらじゃなくて、きれいな顔で笑いながらお別れを言いたかったかな。
でも、きっとあなたなら赦してくれる。そうでしょう?
「……さて、そろそろ火葬場に運ばないとな」
沢井先生がそういって、玄関に向かう。私たちもそのあとに着いていった。
彼は玄関の前に止まっていたバンのトランクに棺を載せてから、運転席に座ってエンジンをかける。
そして、「じゃあな」とだけ言って、車を発進させた。
彼女のことを──楽しい事から大変だった事まで──思い出しながら、車が見えなくなるまでその姿を追った。
車が見えなくなった頃、ふと雪村さんに言われたことを思い出した。
「やっとわかった気がする」
「ん?」
彼が私のほうを怪訝な顔で見て、「何が?」
「雪村さん、レーベンを拾ったときに言ってくれたではありませんか。『僕たちに命の大切さを教えに来たのかもしれないよ』って」
「ああ……覚えてるよ」
「私、小林さんや千住さんが亡くなったとき、命の大切さよりも死の怖さに目が行っていて、見えていませんでした。でも、彼女が逝ってしまったとき、彼女との思い出を反芻しているとき、やっとわかりました。『死が誰にでも待ち受けるなら、それまでに最高の思い出を作ればいい』って。その思い出のための時間を大切にしていくこと、そして、そのための時間を奪ったりしないこと……それが『命の大切さ』なんですね?」
私の言葉に彼は優しく笑った。久しぶりに見る、彼らしい笑顔だ。
「そうかもしれないね。いや、きっとそうだと思う。実はね、僕もまだその答えを見つけてない……いや、答えがあるかどうかすらわかってないんだ。だから、それが正解かどうかの答え合わせは出来ない。でも、僕は君の答えが気に入ったよ。良い答えだと思う」
「レーベンが教えてくれたのです」
彼は私に向かって微笑む。
「そうだね」
私も彼に微笑み返した。
──十数年後か数十年後か……もしかしたら、数年後かもしれない。でも、今を大切にしていかないと。この人が目の前で笑ってくれている、今を。
はい、どうも2Bペンシルです。最後まで読んでいただき、いつもありがとうございます。
まず初めにですが……遅くなって、本当にごめんなさい。言い訳はいろいろと考えたのですが、まず謝ろうと思いまして……。なんとか続けていきたいとは思っていますので、よろしくお願いいたします。
さて、懺悔を終えたところで、いくつか第五章のお話でも。
第五章は投稿スタイルから書き方、テーマまで全部変わります。まず投稿スタイルですが、いくつかに分けて連投する予定です。また、書き方に関しては、今までは『私のこころ』の通り、リーベの一人称視点でしたが、枠物語に近い形式になります。そしてテーマも変わります。
なので、かなり作風も変わるかな……と思います。まあ、六章からもとに戻りますので、ご安心ください。
というわけで、私はこれでしばらく課題とテスト漬けとなります。また、出来るだけ早く"I'll be back"したいなあ……。
まあ、私のことはどうでもいいですね。参照したサイト様はWikipediaを除いて、特になかったと思いますので、今回も省略させていただきます。
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。これからもよろしくお願いいたします。