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私のこころ  作者: 2Bペンシル
第一部・4
6/26

【青年期】 中編

※暴力的・残酷・飲酒の表現・扇動的なシーンが存在します。お読みになる際は、十分にご注意ください。

※登場人物の真似は、絶対にしないようにお願いいたします。真似したことによって発生した損害に対する責任は負いかねます。


【加筆修正】

17/9/14 第十九章、一部加筆いたしました。


18/05/20 全体の修正、校正及び推敲を行いました。また第十三節が非常に長かったため、話が区切れる点に『※』を記しました。一節ごとに読む際、区切りの目安にして頂ければ幸いです。

【第四章 Ⅱ】


≪第十一節 21010811・21211001≫

 大学はこの時期は夏休みだったが、帰る場所のない僕は研究と読書に明け暮れていた。

 飛び級制度と教育課程──15歳で基礎課程から応用課程に移行する──のおかげで19歳にして大学院にまで来れた僕は、AI工学の岡崎教授や応用数学のハムレット教授、マクロ経済学のスティーブン助教授、行動心理学のマリー准教授、歴史学の張教授以下十数名とともに、仮想空間で人間の経済や心理を再現する研究をしていた。大学の研究リソースの多くを占める政府主体のこの研究は、将来を予測するために必要な研究だった。

 ただ、本音を言うと僕自身は多数の変数が存在するから、かなり厳しいとも考えていた。人間というのは分子や質点のように、「AがあるからBがおきる」というものではない。人間を自由な存在足らしめているのは個人の経験や知識によって生まれる選択であり、故に不確定要素が多くなる。だから、完全に予想することはできない。

 とはいえ、少しでも近い結果を出せれば研究資金が稼げる。最近の僕はその手段を模索していた。

「暑いな……。アイスコーヒーにしておいてよかった」

 そんなことをぼやきながら、僕は正門の見えるベンチで昼の休み時間を過ごしていた。

──沢井は夏休み中、動物保護プロジェクトだったかのボランティアだし、周防は大学で勉強だったっけ。学科二つ掛け持ちしてるのに、よくやるよなあ……。

 そういうわけで、僕は一人寂しくベンチに座ってアイスコーヒーをすすっていた。大学構内に人影はほとんどなく、たまにポーターが荷物を積んで歩いているくらいだ。

 ふと、視線を向けた先に、豊かで美しい金髪の女性がいた。遠くからでもよく見える、澄んだ深い青の目と白い肌を持つその女性は、なにか困っているかのように右往左往していた。最近ではめっぽう見なくなった黒のパンツスーツだったが、それがまたスレンダーな彼女によく似合っている。

 興味を惹かれた僕は、アイスコーヒーを飲み干してから彼女の方へ歩いて行った。困ってるなら手助けできるかもしれないし、情報支援デヴァイスとマイコンがあるこの時代で、ARに頼らずに馬鹿でかい大学構内をうろつくような人が珍しかったというのもある。

「何かお困りですか?」

 一瞬驚いた表情をした女性は、少し訛りを感じる日本語でこういった。語学に疎い僕はどこの訛りかわからなかったが、たぶん英語かそのあたりのように思う。とりあえず、ざらついた発音だった。

「すみません。ヤンセン先生の研究室を探しているのですが……」

 今なら双方が翻訳プラグという補聴器型の翻訳機を着ければ言葉は聞ける。双方がつけていない場合でも、トランスレート(Tran-Slate)と呼ばれる薄いバイオシートを使えば、流ちょうな言葉を話すことが出来る。

 けれど、彼女は少なくともトランスレートを使っていない。そのことに驚いてしまった。

──この人、ずいぶん技術に甘えていない人なんだな……。ただでさえ、面倒な日本語をよく覚えたもんだ。

「ヤンセン先生……AI工学の先生ですか。それなら、たぶん5号棟の205号室にいると思います。案内しますか?」

 アウグスタ・ヤンセン教授。ドイツ人の科学者でロボット行動心理学を専門とする、僕もよく話す人の一人だ。僕はいつも見るたびに専門分野と見た目の相互作用で、スーザン・キャルヴィン博士を思い出してしまう。あと、英語読みのオーガスタで呼ぶと単位が吹き飛ぶなんていう都市伝説がある、癖の強い教授だ。

「お願いします」

「わかりました」

 そういって、僕は紙コップを校内のごみ箱に捨ててから、彼女と一緒に歩き始めた。

「あら、ごみをしっかり捨てるんですね。ほかの人は道端においておけば、清掃ドローンが掃除すると考えて、ポイ捨てするのに」

 僕は肩をすくめた。

「自分でできることは、出来るだけ自分でやるのが信条ですから。そういうあなたもインフォグラスを使わず、トランスレートも使っていない。プラグの方は見えないのでわかりませんが、使っていないように感じます」

 彼女は微笑んだ。綺麗だ。

「貴方は機械に頼りすぎることのリスクを知らないのかもしれませんね。機械は完全でも絶対でもなくて人と同じく不完全で、助けをいつも求めている。だから、必要以上に頼らないことに決めてるの。それに、私は機械と人間が最良の友だと考えているから」

 僕は彼女の言うことは最もだと思った。確かに彼らとて人間とはプロセスが違うが、疲れないわけでも壊れないわけでもない。人間だって頼られ過ぎて酷使されると、その人は壊れてしまうのと似たようなものだ。それに、最良の友というのも正しいように思う。機械と人間は分かり合えないわけでもないんじゃないか、と頭をよぎることは今までもあった。

 そこまで考えて、自分がその発想に至らなかったことと深く考えなかったことに少々嫌悪を覚えた。目の前にある事実に、僕は真剣に向き合わなかったのではないかと思ったから。こんなに機械に囲まれているにも関わらず、僕はそれに気づけなかった。

 黙っていると、彼女が不安げな顔で僕を見る。

「私、変なこといったかしら?」

 僕は慌てて否定した。

「いや、貴女の言ったことが正しいと思って。自分がその事に気づけなかったことが恥ずかしいんですよ」

「恥ずかしがる必要はないと思います。貴方は否定せずに理解しようとする。ほとんどの人は、理解せずに否定しかしない。『機械は人間なんかじゃない、ましてや友達なんかじゃない』ってね」

 そういって、彼女は僕に笑いかけた。それだけで、僕の頭を占めていた嫌悪感は吹き飛んだ。

 正直なところ、大して恋愛に興味のないと自負していた僕だったが、この時点で彼女に惚れていた。もしかしたら、会ったときから既に惚れていたのかもしれない。

 聡明で、美人で、よく笑う。そんな人を嫌う要素がどこにある? 

「『機械は人間なんかじゃない』……よく言われる標語ですね。主に≪GWRH≫とかが言ってましたっけ」

 ≪GWRH≫は≪神の息子による世界の救済を目指す進化した人類の集い≫という無駄に長い名前がついているカルト宗教の略称で、≪人間同盟≫と敵対している。

 大層な名前がついているものの、実際には白人至上主義者の集まりで、元々はクー(K)クラックス(K)クラン(K)の一分派だった。AIのことを『神の息子』として信仰の対象とし、『世界の救済』はコーカソイドのみの生存、『進化した人類』は≪GWRH≫構成員を指す。ただ、近年では両親がコーカソイドでなくても、ハーフやクォーターでも受け入れているとのことだ。他にも、『世界の正常化』ということで有色人種に身体的若しくは精神的な暴力をふるうこともある。

 また、自らにとって『都合の良いAI』を作ろうとしている団体でもある。都合の良いAI、つまりは白人以外の有色人種を傷つけられるAIのことなのだが、今のところ一度も成功していない。それはAIの基礎理論にロボット三原則が巧妙に組み込まれているからで、学のない彼らはそのことに気づかず、いつも過負荷を生じさせてはAIを壊している。

「それはまた意味が違って、あれは機械を神と見た考え方。私が言っているのは、むしろ≪人間同盟≫がいう意味に近いかしら。機械は人間に劣る侵略者という考え方ね」

「ああ、そっちの意味か。そういえば、≪人間同盟≫も似たようなスローガンを掲げていましたね。『人間に劣る機械が人権を奪うな』でしたっけ」

 彼女は頷く。

「ええ、そんな感じの。方向は真逆だけど、大きさは同じ」

「……どっちもどっちですね」

 気づくと、すでに五号棟の前にいた。いつもより早くついてしまった気がする。

「ここが五号館です。205号室は二階に上る階段の真向かいですよ」

「あら、最後までエスコートしていただけないの?」

 彼女はいたずらっぽく笑いかける。もしかしたら、そう見えていただけかもしれないが、僕にはそれだけで十分だった。

「もちろんです」

「じゃあ、案内していただけないかしら。そろそろ約束の時間で、迷ってる暇がないの」

 僕は頷いた。

「それなら急ぎましょうか」

 僕は彼女に先立って案内する。エントランスから一分もかからないで、205号室に着いた。

「ここです」

 彼女は僕に頭を下げた。グローバル化して久しい今の社会では見なくなった、日本式のお礼だった。いつもなら「ありがとう」を言うだけで終わるか、ビジネスシーンでは握手も加わることもあるのだけれど。

「ここまで案内してくれてありがとう。これで、無事にママに会える」

「ん? ママ?」

 僕はそれを聞いて、ヤンセン教授の顔を思い出していた。あの冷たい青い目をした、アイリッシュ・ウルフハウンドの目を吊り上げたような栗色の髪の女性だ。

──よし、ちょっと待て。ここにいる美人とヤンセン教授が親子? 似てると言えば、目くらいしか似てないぞ?

 僕が固まっていると、後ろから擦れた低音の女声が聞こえた。忘れもしない、ヤンセン教授の声だ。

「レオナ、迷わなかったのね」

「あ、ママ。うん、この人のおかげで時間に間に合ったの」

 彼女は笑って、僕の後ろに目を向ける。僕は恐る恐る後ろを振り向くと、あの見間違うことのない、白衣を着たヤンセン教授がいた。

「あら、雪村君。ありがとう、レオナの面倒を見てくれたのね」

「ああ……いえ。暇だったので……」

 僕は言葉に詰まりながら、教授に答える。ただ、頭の中では色々なものが渦巻いていた。この、どう見ても似てない二人が親子だということを、信じようにも信じられない。

「ユキムラ?」

 レオナと呼ばれた彼女は、教授に聞き返していた。

「ええ、レオナ。この人、Schneeの『ユキ』にDorfの『ムラ』って書いて、雪村って読む人なのよ。AI工学学科次席だったわよね?」

「首席は周防ですからね。といっても、学科に10人しかいませんけど」

 僕は聞かれたことに自動的に答えるが、自分の予想が正しいことを確かめるために訊ねた。

「……ヤンセン教授、ひとつお聞きしてもよろしいですか」

「親子だって信じられない?」

 先読みされた。何故か教授と話すとこうなる。

「……ええ」

 教授が彼女の隣に行って、肩を抱く。

「間違いないわ。レオナ・ヤンセン、私の一人娘よ。ベルリン工科大学でメタバイオメカニクスをやっていてね、私の研究の手伝いに来てくれたのよ」

 バイオメカニクスは動物の動きや骨格をモデルにロボットや義肢を研究したり昆虫や魚を流体力学的に解析して模倣したりする学問だが、メタバイオメカニクスはそれをさらに高次にしたもので、植物や細菌類までモデルの対象を広げたものだ。ナノマシンなんかはいい例で、ほかにもライ豆の危機管理能力をモデルにした、電波が使えない状況下で一つの個体になんらかの危険が迫ったときに、ある特殊な化学物質を広範囲に拡散させて全ての個体に共有する自律ドローンなどもメタバイオメカニクスの範疇になる。

 僕は──無意識に──顎に手を当てて考えた。覚えている限り、ヤンセン教授の研究分野とメタバイオメカニクスのつながりはない。そのため、どうしてわざわざドイツから呼んだのか気になった。

「確かヤンセン教授の研究は、エレメンタル計画事件以前のAI行動解析でしたよね? なぜ、メタバイオメカニクスのやっているレオナさんを?」

「ええ、よくコンフィアンスさんや生前は周防君のお父様に手伝ってもらったものよ。で、それはね、今回はパターン解析だから人手が欲しくて呼んだのよ。今はまだパターン解析は人間じゃないと難しいけど、夏休み中は学校に人がいないしね。あと、私自身、あまりドイツに帰れないのもあって、久しぶりに会いたくなったのもあるし」

 僕は頷いた。

──なるほど。そういうことだったのか。どうせこれからも暇だし、僕も手伝うか。もしかしたら、彼女についてもいろいろ聞けるかもしれない。

「良ければ手伝いますよ。人手は多い方がいいでしょうし」

「あら、そっちの研究はいいの?」

 ヤンセン教授が聞いてきたが、僕は「こっちは僕の《ベータ》が処理してくれているおかげで、あと5時間は暇なんです」と答えた。《ベータ》は僕の作ったAIで、《アルファ》、《ガンマ》とともに僕の手伝いをしてくれる。全員、かなり性能はいいが8時間以上動かすと壊れやすくなるので、大体7時間の処理と1時間の休憩というシフトで回している。

「ママ、雪村さんにも手伝ってもらわない?」

 彼女がそう言う。教授は少し悩んだ後、こういった。

「そうねえ……じゃあ、お願いしようかしら。さて、雑談し過ぎたわね、もう約束の時間から6分14秒も過ぎてしまったわ」

──よし!

 心の中でそう呟く。それに、パターン解析は僕の得意分野だ。

「レオナ、マイコンリーダーにマイコンをかざせば中に入れるから、先に入りなさい」

 彼女は頷き、部屋に入る。それに教授、僕の順で続いた。

 

 雪村はそこまで言って、いったん息を吸った。

「その後のことは特に特筆すべきことはない。パターン解析をして、少し雑談して、連絡先を交換して……一か月ほど経ってから、僕とレオナは互いを友達と呼ぶような仲になった」

 静かに告げた雪村は、リーベの方を見ずに窓の外を見ていた。雲間から天使の梯子が地上に降りている。

「そうだったのですか……」

「もちろん、まだ先はある。あれから数か月後だったかな……思い出した、2102年の5月。僕がレオナに誘われて、ドイツに行った時の話だ。その頃には、かなり仲良くなっていたからね」


≪第十二節 21020518・21211001≫

 その日、僕はIBTDに乗っていた。

 大陸間弾道輸送装置。端的に言えば、これは海上メガフロートに設置された30kmほどあるマスドライバーだ。

 ただ、通常は宇宙への物資輸送に使われるものだが、それの速度を下げて熱圏まで旅客ポッドを飛ばすように調整したものがIBTDになる。

 しかし、脱出速度以下とはいえ、加速度と衝撃波は相当なものになる。それを抑えるのが人工筋肉だ。僕らが乗るポッドは鱗のような耐熱硬質セラミクスで覆われ、その下には分厚い極限環境用人工筋肉の層がある。

 対流圏から熱圏までの加速時には人工筋肉が蠢いてブーゼマン翼を作り出し、衝撃波を打ち消しつつ、電磁マスドライバーがスクラムジェットエンジンに必要なマッハ12まで緩やかに加速する。その際に発生する断熱圧縮由来の高温は先端以外を覆う耐熱セラミクスが吸収して、人工筋肉内部にあるクーラントセルにカーボンナノファイバーを通じて伝えられ、内部の乗客自身には伝わらない。先端は超高温に耐えられるように炭化アブレータに包まれた炭化タングステン・ティップが装備されており、使い捨てではあるもののポッドがマッハ12を出すことを可能にしている。

 打ち出されると、対流圏内ではポッドについている特殊な耐高温超合金製エンジンは燃料である液体水素で冷却されつつ、気化した水素を用いて速度の維持を行う。そして、ある程度の高度になると酸素が希薄になるためにエンジンは動作を止め、ポッドはそのまま慣性の法則で熱圏へと到達する。

 慣性の法則で熱圏に到達した後、次はゼンカーのように変形してから、目的地上空まで熱圏と対流圏の境を飛び跳ねながら移動する。速度は巡航速度で時速5000 kmあるので、2時間もあれば地球を四分の一周できる。

 減速時には、高速度域では表面を凹凸に変形することで空気抵抗を増加させて速度を下げ、ある程度減速した低速度域になると少しずつ人工筋肉が開いて制動傘のようになりながら速度を吸収し、最終的には通常の空港を改造したマスキャッチャーがポッドを着陸させる。

 他にも、乗客が座るシートも人工筋肉製で、主に加速時に発生する加速度を吸収する。また、筋弛緩剤と麻酔を使うことで、体が変に緊張してしまって負傷することを防ぐ。失速時もAIが故障しない限り減速時と同じプロセスで着陸するため、墜落こそあっても死者は今のところいない。尤も、荷の殆どが精密機械なので、死者が出ないのは当然なのだが。

 このポッドは総飛行時間が十万時間を超えることや加速時に電力だけで動く電磁マスドライバー・マスキャッチャーを使うこと、消耗品は人工筋肉用の維持液と液体水素、クーラント液、その他薬剤のみ。なにより速いので、マッハ4程度しか出ない超音速旅客機やジェット機をIBTDシステムは駆逐してしまった。

 とはいえ、熱圏内でAIが壊れた場合はマッハ20で200 tの塊が地上に降り注ぐ。それのリスクは計り知れないのだが、それに関しては官民一体で無視をしているようだった。


 僕は殆ど人のいない客室内を見回し、空いていた人工筋肉鞘に収まる。今日はレオナに誘われて、一緒にドイツで過ごさないかと言われたのだ。僕はそれに、二つ返事で承諾した。

「荷物は預けてあるし……さて、寝るか」

 鞘から降りているマスクをつけ、人工気管を飲み込む。マスクについているマウスピースを噛むと、人工気管から自動的にガス状の麻酔薬と筋弛緩剤が流れ込み、僕は一瞬で意識を失った。

 目を覚ますと、眠った時と同様にポッドが停止していた。しかし、申し訳程度にある窓から見える外の風景は、窓に墨汁を垂らしたようになっていた。

『おはようございます。旅客ID、558AADF、雪村尊教様。無事、今回のフライトは成功いたしました。現在はミュンヘン国際マスキャッチャーにて、ロードアウトプロトコル実施中です。オレンジジュースはいかがですか?』

 IBTDの搭載AIが人工気管を引き抜きながら、スピーカーで話しかけてくる。何故かは知らないが、この人工睡眠後はオレンジジュースがよく出される。

 軽くむせた後、「……いや、遠慮するよ」と僕は答えた。

『分かりました』

「あとどれくらいで降りれそうかな?」

『5分ほど必要になります。お急ぎでしたら、優先いたします』

「大丈夫。通常通りに降ろしてくれればいいよ」

『分かりました。目的地をマイコンに設定しますか?』

「大丈夫だよ。ロビーに迎えが来てるから」

『では、そのようにいたします。ご搭乗、誠にありがとうございました』

 スピーカーが静かになる。僕は息を吐いた。

「あっという間だったな……ドイツは午前6時か。通りで暗いわけだ」

 僕はレオナに会えるのを心待ちにしながら、鞘の中で降りられるようになるまで寛いだ。


 数十分後、僕は荷物の入ったリニア・キャリーバッグをもってミュンヘン国際マスキャッチャーのロビーに立っていた。マスドライバーは30 kmの加速レールに加えて付属する設備が必要なため、新生ロシアやアメリカなどを除く大体の国では海上に設置される。しかし、マスキャッチャーに関してはポッドが旧式の旅客機のように着陸するので、既存の滑走路を改造するだけで済むのだ。ただし、マスキャッチャーは宇宙からのヘリウム3や貴金属も受け取るため、それ用の設備も併設されている。

 今回の旅行は──レオナから要求されていたからでもあるが──僕の研究をインターネットで出来る段階まで終わらせておいて、数週間はドイツにいる予定だった

 僕は周りを見回す。しかし、人がまばらなロビーにはレオナの姿は見当たらない。

──あれ、待ち合わせの時間にはまだ早かったかな……。見逃すはずもないんだけど。

 ふと、後ろに気配を感じたので振り向くと、そこには黒のワンピースを着て、薄く化粧をしたレオナが立っていた。

「あら、バレた?」

 おどけたようにレオナが言う。僕はレオナの方に向き直った。

「一体何しようとしたのかな」

「驚かそうと思ったのよ。貴方、そうそう驚かないから」

 僕は微笑んだ。レオナはいつもこんな感じで変わらない。

「随分と、理不尽な理由で僕は驚かされなきゃいけないみたいだね。大体人の行動はパターン化されているんだ、予想ができているのに驚いたりはしないよ」

「それじゃ、フレーム問題起こすんじゃない?」

「その時は新しいフレーム作って対処するさ。その場にあるもので対処するのも得意だからね」

 レオナが笑う。

「相変わらず逞しいね。さて、パパ待ってるし、タクシーに乗りましょう?」

 僕は頷いて、キャリーバッグを転がした。すると、ロビーを出てすぐの所に、一発でレオナの父だと分かる男の人が立っていた。

 レオナとそっくりの深い青の目。透き通るような金髪をポマードか何かでオールバックにしている、赤みを帯びた肌をした筋骨隆々のドイツ人だ。顔もかなりの美形で──レオナはたぶん父親に似たのだろう──俳優のような顔をしている。その人がスカイブルーのインナーの上に黒いジャケットを羽織り、クリーム色のスラックスを履いて立っていた。

 その人は僕を見て、にこやかに笑った。そして、流ちょうな日本語で僕にあいさつしてくれた。声も澄んでいて、聞いていて気持ちのいい声だ。

「初めまして、私はクラウス・ヤンセン。レオナの父親だよ」

「こちらこそ、初めまして。僕は雪村尊教です」クラウスさんにお辞儀する。そして「日本語がお上手ですね」とお世辞抜きで彼を誉める。

 それを聞いた彼は微笑んだ。

「私は星間オペレーターだからね。日本語を使う機会も多いんだ」

「すごいですね……」

 星間オペレーターというのは、マスドライバーで飛ばされた旧式の物資輸送機を地球外コロニーに送る際に装置とコロニーの連絡役をする人のことだ。システムトラブルならAIが対処するのだが、急なマシントラブルやAIが動かなくなってしまったときには、彼らが手動オペレーションでコロニーと連絡を取ってドッキングさせる。

 ただ、コロニーの公用語は中国語なのだが、トラブル時はその人の母国語を使うことを許されている。そして、コロニーにはありとあらゆる人種がいるため、オペレーターは少なくとも五か国語を正確に話せなければいけない。

 以前はAIを使っていたことがあるのだが、慌てた人間の声や罵声をうまく処理できなかったようで、ここばかりは人間が未だ起用されているのだ。

「パパはほかにも母国語のドイツ語はもちろん、中国語、米・英・加・豪英語、ヒンディー語、ロシア語を話せるのよ」

「ええ……」

 あまり語学が得意ではない僕にとっては、彼は雲の上の人だった。ざっと数えても、9か国語を話せるのだから。

 固まっている僕をしり目に、彼は時計を見た。

「そろそろ時間になる。荷物はタクシーのトランクに載せるといい」

 そういって、トランクを開けてくれたクラウスさんに礼をしてから、僕は慌てて荷物をトランクに入れた。タクシーのドアが自動で開き、僕と彼女は後部座席、彼は助手席に乗った。

『目的地をお知らせください』

 彼が無言でマイコンをリーダーにかざす。電子音が鳴って、目的地が登録される。その時、レオナがささやいた。

「尊教、シートか何かに掴まっておかないと」

「どうして?」

「このタクシー、アウトバーンだと300 km/h出るのよ。あ、私には掴まらないで。パパが怒るから」

 そういって、彼女は座席に張り出ている取っ手をつかむ。僕は少々残念な思いを抱きつつ、彼女に倣った。


 レオナの家に着くころには、僕は吐きそうになっていた。

 時速300kmでは、いくら勾配の少ないアウトバーンかつサスペンションがしっかりしている自動タクシーとはいえ、上下左右に揺れるために三半規管がかき乱されてしまう。そのため、途中からひどい車酔いに襲われていた。

「大丈夫?」

 心配そうな顔をした彼女が僕を見る。僕はふらつきながら、首を横に振った。

「どちらかというと、駄目……君は?」

「私は慣れてるから大丈夫。家に行けば、酔い止めあるから……行きましょう」

 自動で開いたドアから、僕は彼女に支えられて降りる。その様子を見たクラウスさんは眉をひそめながら、「大丈夫かい?」と聞いてきた。彼女が僕の代わりに「ちょっと酔ったみたい」と答えてくれた。

「慣れていない人にアウトバーンは厳しかったか。荷物は私が持とう」

「ありがとうございます……」

 そこから先、僕の意識は少しの間なくなっていたようだった。気づいたら、見知らぬリビングでソファにもたれかかっていたから。

 目の前に彼女が座っている。相変わらず綺麗だ。

「大丈夫?」

 僕が姿勢を正して「うん。少しすっきりしたよ」と答えると、彼女はそれを聞いてにこやかに笑ってくれた。

「クラウスさんは?」

「パパは薪を割りに行ってる。実はね、この家は昔ながらの暖炉なのよ。それだけじゃ温まらないから、サーバーとバイオ発電機の排熱も使ってるけど」

 研究者の家庭だと、液冷式サーバーやメインフレームを自前で有していることが多い。そして使用時に発生する、温かいクーラント液を暖房用に使うことがドイツでは推奨されているのだ。

「へえ……凄いな。日本じゃ考えられないよ」

 彼女があきれたように首を振る。

「日本は変わりすぎよ。技術だけじゃなくて、昔からある大学全部を第一から第四十七大学に統合してしまうし、街だって作り変えてしまうんでしょ?」

 日本の大学は、各都道府県に一校ずつ設立された国立総合大学のみになっている。これは数十年前に大学が多いにもかかわらず少子高齢化のせいで学生が減ったことと、大学によっての教育レベルに差がありすぎること、技術が一気に進歩したことで人間である必要がない職業や学問が生まれたことに起因している。そこで日本政府が──主にAIが考えた──コストダウンと教育の不平等を解消する策として、以前あった大学を統合・廃止することで第一から第四十七大学にまとめたのだ。

 その大学間ではAIが授業を行うために教育レベルの差はなく、居住するアパートメントから学費まで、すべて国が持っている。ただ、それでも一度減った子供が一気に増えるわけでもないし、何より基礎教養レベル──つまりは15歳で──ほとんどの人がPCWに引きこもってアンドロイドを雇用するため、大学や高校、高専などに対応する応用教育課程はいまだ学生が少ない。

 言ってしまえば、現在の日本にある大学は「学生がいる国立研究所」みたいなものだった。

「まあね……でも、ある意味合理的じゃないかな。問題は解決したわけだし」

「急激な変化は反発をもたらすと思うんだけど。確かに問題解決には人間性を捨てるのも必要だけれどね」

「うーん、レオナの言うことも間違いではないな。とはいえ、過ぎたことをどうこう言えないってのもあるし、人間社会っていうのは常に変動し続けないといけないものだよ。どこまでも古いシステムに固執はできない」

 彼女が目を伏せて「……あなたの考え方って、いつも大きい。私が小さいんじゃないかって、良く不安になる」と突然つぶやいた。

 僕には、突然言われたその言葉の意味が分からなかった。

「どういう意味?」

 彼女は少し考えた後、「表現しにくいんだけど……」と前置きしてから続けた。

「貴方は一つのことから全体を考えるのよ。なんていうのかしら……パズルの一ピースから完成図を考えるというか、そんな感じ。一つか少数のものに当てはまるものを、多数に適応できないかどうか考えてるっていうのかしらね」

──なるほど。

 彼女の言う通りだ。

「確かにね。僕はよくそう考え、そしてよく間違える。視野が広いわけじゃなくて、視野が狭いからそう考えるんだ。視野が広い人間は小さい点でも大きな点でも考えて、大きく世界を見れるけど、視野の狭い人間は小さい点で考えて、想像だけで大きな世界を作る」

 彼女は「なるほどね」と頷いて、続けた。

「でも、その広い視野は他人に頼れば何とかなるじゃない。なんなら、私でもいいけど?」

 彼女が僕を見て笑う。

──僕としては是非ともそうしたいね。

 そう考えたことを気取られないよう、僕も微笑む。その時、一つ気づいたことがあった。

「そういえば、アンドロイドが居ないね。大体、一家庭に一体いるのに」

「ああ、ヴィキのことね。彼女、今は掃除中なのよ」

「ヴィキ?」

 彼女が頷く。

「ええ、U.S.Rインダストリー製のHKM-2080Pのこと。私の家にいるアンドロイドの一人でヴィクトーリア(Viktoria)だから、愛称のヴィキ(Viki)なの」

「映画の『アイ・ロボット』みたいだね」

「あれもV、I、K、I、ね。でも、ドイツでは比較的長い名前の最初の3文字くらいだけ取って、末尾を『I』に変えたものを愛称にすることが多いの」

 すると、女性型コーカソイド・アンドロイドが一人、リビングに出てきた。コーカソイドにしては褐色な肌、虹彩と髪の色も黒だ。服装はメイド服のように見えるが、このときの僕には自信がなかった。後で知ったことによると、ヴィクトリアンメイドというらしい。

『レオナ様、タスクを終了いたしました。加えて、わたくしの判断ですが、消耗品の補充も行いました』

 彼女は無表情のまま、ノイズ交じりの合成音声でレオナに報告する。今では合成音声ソフトウェアとアクチュエーターで疑似声帯を作って、人間と遜色ない声を出すことができるが、ヴィキの生まれた2080年代ではその技術は出来ていない。そのため、機械と人間の声は容易に区別がつく。

「ありがとう、ヴィキ。こちらは雪村尊教さん」

 彼女はぎこちなく笑い、白いサテンの手袋をした手を差し出す。僕はそれを握り、握手した。

「はじめまして、ヴィクトーリア」

『ヴィキとお呼びください。あなたのことはどうお呼びすればよろしいでしょうか?』

「んー……雪村でも、尊教でもどっちでもいいよ」

『では、雪村様に設定いたします。何かありましたら、いつでもお申し付けください』

 そういって、ヴィキは握手を解く。彼女は『失礼します』と言って、リビングから出ていった。僕はそれを見送った後、レオナに尋ねた。

「そういえばさ、ヴィキは日本語で話してたよね。ドイツ語じゃないの?」

「ああ、あなたが来る前に『日本人が来るから、デフォルト言語を日本語にしておいて』と言っておいたの。いつもはドイツ語よ」

「なるほどね。相変わらず、手が早い」

 彼女が眉を吊り上げた。

「それって、あんまりいい意味じゃないんじゃないの?」

 僕は肩をすくめた。

「まあ、女性にすぐ手を出すって意味もあるけど、物事をテキパキ処理するって意味もあるんだよ」


 僕らはそのあと、数時間話し続けた。日本のことからドイツのこと、最新技術についてまで、ありとあらゆる事を話しあった。どんなことでもレオナは話についてくるし、僕が知らないようなことまで彼女はいろいろと話してくれた。

 特にドイツの風土や天気のことについては、旅行前に勉強していたつもりだった僕でも全く知らないことばかりを教えてくれた。

「──ドイツでは1990年代から環境問題に取り組んできたの。そういうわけで、今の電力は殆どを国内の再生可能エネルギーで賄っているのよ。発電した電力は超大型蓄電池に蓄えられて、そこから取り出されてる」

「へえ……再生可能エネルギーは発電量が不安定だからか。でも、人口の少ない日本でさえ一人当たり平均で10 MWh消費する。となると、いくら大型でも蓄電池が空になって停電しそうだけど」

「大丈夫。まず、各家庭にバイオ発電機とソーラーパネルと蓄電池、加えて家電が超省エネだから、家庭にはほとんど電力が必要ない。だから、必要としているのは工場とかの一部生産施設や大型AIとかがメインで日本に比べて4割ほど減るし、機械類もかなりエネルギーを消費しないの。他にも、リスク分散の考え方がドイツには残っていて、各々の工場やAIに大型の蓄電池がある。仮に、超大型蓄電池が空になったとしても、非常用の熱核融合炉が起動するまではそこから補える。一応、逆の大型から超大型ってことも可能らしいけど、使う機会はないはず。それをやると、LIGとかの必要なAIに電力が渡らないもの」

「面白いシステムだな。あと、リスク分散なんて、講義でしか聞いたことないよ。殆どの人が、AIに任せとけば大丈夫だと考えてるからね」

「一応、ドイツの電力管理も昔あったスマートグリッドを応用して、AIが適切に予測して管理や分配を行っているそうよ。だから、超大型蓄電池の電力が一気に空にならないってわけ」

「一気に電力量が増えて、かつAIがまともに動かなかったら?」

 僕は試しに、ありもしないことを言ってみた。彼女はそれを聞いて、笑って一蹴した。

「単位時間あたりに取り出せる電力量にも限界があるし、全体の消費電力が10倍にでもならない限りは問題ないはず。超大型蓄電池が空になっても、全体の蓄電量は平均使用量の20倍ある。分配のさせ方にもよるけど、核融合炉起動までは持つでしょ」そこまでいって、レオナは少し深刻そうな顔をした。「……電力量20倍でAIが産業の維持を最優先にしたら、生活に密着してる多数のLIGは止まるかもしれない。電気吸われるから」

「まあ、電力量20倍なんてどんなシステムでも不具合を生じるさ。普通起きないことだし、それに備えるのは一方面の対策じゃ無理な話だよ」

 僕のフォローに彼女はぎこちなく笑う。

「それもそうよね」すると、思い出したかのように僕に聞いた。「そういえば、尊教はもう20歳よね? 日本でもドイツでもお酒飲める年齢じゃない」

「ん? ああ、僕は飲んだことないけど、一応ね。日本だと18歳から飲めるし、ドイツだと16歳からビールだけならいいんだっけ」

 彼女が頷いて「ええ、その通り。ビールや低アルコール飲料だけは許可されているの」と言った。

「ドイツのビール、飲んでみない?」

「本場だって聞いたことあるし、興味はあるな」

「美味しいのよ」

 そういって、彼女はいったんリビングを離れた。少しすると、茶色い遮光ビン三本と栓抜きを持ってきた。

「三本?」

「私が二本飲むから、ついでにね」

 彼女が慣れた手つきでビールの栓を抜く。そして、一本を僕に手渡してくれた。

「はい、どうぞ」

「ありがとう」

 僕はビンに口をつけて一口飲んだ。彼女も座ってから、ビールを飲む。ホップの香りと強烈な苦味、炭酸のあとに爽やかな酸味が続く。

「おいしいね、これ」

「でしょう? チェコもビールで有名だけどドイツも負けてないのよ」

 彼女は笑う。持っている瓶を見ると、すでに半分なくなっていた。

「飲むの早くない?」

「私にとっては水のようなものだもの。本当はソーセージとかと一緒に飲んだ方がいいんだけど、もうそろそろ昼食になるから」

「ああ、もう十二時回ってるのか。随分と色々話してたんだな」

 するといきなり、僕は意識がおぼつかなくなった。霧の向こうからレオナの心配する声が聞こえるような気がする。僕は気力を振り払い、ビール瓶を近くのテーブルに置いた。焦点が合わず、ダイアモンドダストを通したように視界がぼやける。

 次の瞬間、僕は意識を失った。


 起きるとレオナがのぞき込んでいた。横を見るとヴィキが点滴パックの用意をしている。どうも、僕はソファに寝かされていたようだ。

「尊教、大丈夫?」

 心配そうに彼女が聞く。僕はぼやける頭でつぶやいた。

「……何があったの?」

「貴方……お酒に恐ろしく弱いのよ。ヴィキが調べてくれたんだけど、アルコール度数5%のを一口飲むだけでノックアウト。ヴォッカなんて飲んだら、たぶん死ぬと思う……」

 彼女が悲しそうに言う。その肩をヴィキが叩くと頷いて、僕の側から立ち上がり、スペースを開けた。

『雪村様、点滴を刺す必要がございます。よろしいでしょうか?』

「いや、いいよ。クエン酸製剤だけでいい」

 すでに意識のはっきりしていた僕は断って起き上がろうとしたが、レオナに押さえつけられる。

「ヴィキ、構わずに刺してあげて」

 一瞬戸惑ったヴィキは、正当な主人の命令にしたがったのか、はたまた生命の存続を優先したのか、『では、そのようにいたします』と僕の腕に翼状針を刺して、サージカルテープで腕に固定した。

「特に必要なかったのに……」

「ダメよ。貴方が変になったら、私が悲しいもの」

「……思ったんだけど、ドイツに来てから結構失神してるよね」

 僕がそういうと、レオナも頷いた。

「そうね……きっと旅で疲れているのよ。昼食まで寝てましょう? もうそろそろだから」

「じゃあ、お言葉に甘えるかな」

 それから30分くらいしたころ、ハンチング帽と茶色いツナギを着たクラウスさんが家に入ってくる。僕が寝込んでいることに驚いたのか、「大丈夫か?」と聞いてきた。それに対して、彼女が先ほどあったことを代わりに話してくれた。

「……なるほど。しかし、せっかくドイツに来たのにビールを飲めないのはもったいないな。ヴィキ、一つ聞いてもいいかい」

『はい、クラウス様』

「彼はどれくらいまでのアルコール度数なら、何とかなる?」

『そうですね、1%までなら可能だと考えられます。また、ALDH増幅剤を投与すれば10%まで問題ないですが、それは体に対してよくありません』

 彼はにっこりと笑って頷く。

「ありがとう、ヴィキ。ビールテイスト飲料なら行けるということだな。本物には劣るが、仕方ない」

──なるほど、飲まないという手はないのか。

「ありがとうございます」

「さて、もう少ししたら昼食にしよう。もう少ししたら、アウグスタも帰ってくるだろうし」

「そういえば、先生は何をしていらっしゃるのですか?」

 僕が聞くと、彼は首を傾げた。

「アウグスタはミュンヘン工科大学で別の教授たちとミーティングだったはずだ。詳しいことはよく知らないが、AIの更新が云々と言っていた。まあ、もう少ししたら帰ってくるよ」

 僕はすでにすっきりした頭で彼の言ったことを反芻して見たが、該当しそうなAIはない。通常であれば、相当旧式のAIでも自己構築して更新するため、人間がそこに入る必要はないのだが。

「そうでしたか……」

 タイミングよく、家の前に自動タクシーが止まった音がした。


「そこから先は、特に言わなくても分かるだろう。一緒に食事をして、レオナと一緒に遊んだり、クラウスさんから薪の割り方を教えてもらったり、何故か先生からドイツ語を教えてもらったり……家族がいないと思っていた僕にはとても楽しかったよ。あんな風に、温かい家庭があるってことも知らなかったしね」

 雪村は相変わらず外を見ている。顔が見れないため、雪村が何を思って話しているのかはわからなかったが、リーベには声が少しだけ悲愴を帯びているような気がした。

「今のドイツは、日本と同じような発展をしているよ。大学も統合されたし、食事も配給制になった。……僕やレオナが居た町は取り壊されて、ほとんどがマルチレイヤー・アパートメントに変わってしまった。僕はあの自然と静かな雰囲気が好きだったんだ。科学者としては失格かもしれないけど、あれほど科学の発展を憎んだことはない」

「……」

 リーベは何も言わずに、雪村の話を聞いていた。何を言えばいいのか、わからなかった。

「そして、数カ月ほどたったころ、レオナと出会って一年がたったころだね。その頃には僕はレオナや先生からドイツ語を教えてもらったのもあって、日常会話くらいならドイツ語でこなせるようになったころだ……僕はレオナと出かけたんだ。その日のことを話そうか」


≪第十三節 21020826・21211001≫

 ほぼ毎日、レオナからドイツ語を教えてもらっていたおかげである程度ドイツ語が話せるようになった僕ではあったが、彼女は気を使ってくれているのか日本にいるときは日本語で話してくれた。かく言う僕も彼女に日本語を教えたし、ドイツにいるときは出来る限りドイツ語で話していた。

 尤も、僕はよく”Deutsche Sprache, schwere Sprache.”と言われていたけど。

 意味? 簡単さ、「文法を間違えてるよ」って意味だ。直訳は「ドイツ語、難しい言語」だけどね。

 その日、彼女が日本で用事があるということで、僕はその案内役に抜擢された。その用事というのは大学の図書館で調べ物をしたいということだった。

 今の図書館ならアンドロイドに頼めば何でも教えてくれるが、どうしても僕に案内してほしいということだったので、僕も快諾した。どちらにせよ二人とも卒論を終了して卒業要件も満たしていたため、9月の卒業式まで暇だ。それに就職先も技術者を欲しがっていたエイジス社から内定をもらえていたので、僕にはもう心配するものもなかった。

 ちなみに仮想空間で社会を再現する研究については、教授陣の協力もあってほとんど完成した。といっても、的中率は最高でも91 %程度なので、それなりに使える程度なのだが。


「レオナ、探し物は見つかった?」

 僕が本棚の向こうにいるレオナに話しかけると、「いいえ。どこかにあると思うんだけど……」という答えが返ってくる。

「うーん……もう一度、本の題名を教えて」

「タチアナ・B・アンシンクの『Integrated Theory of Meta-biomechanics Ⅰ』よ」

 すると、僕の横から声が聞こえてきた。

「それなら、第216番本棚の下から3段目、左から数えて106冊目よ。大体、真ん中あたりにあるはず。なんなら、案内するわよ? お二人とも」

 横を見ると、いつも通りの気だるげな顔をしたコンフィアンスと委縮した周防が立っていた。

「あれ? 二人とも、どうしたの?」

「謙治も調べもの。探しているのは『応用機械工学技術書 Ⅻ』だけどね」

 その名前を聞いて、僕は驚いた。あれは辞書サイズの癖に、正方形をしているんじゃないかというくらい分厚い。中身も基礎数学から応用物理まで、数式と英語が同じくらい書いてある本が全部でXXXまである。僕が一瞥して理解を諦めた本の一つだ。

「どうしたの、尊教?」

 本棚の向こうから彼女の声が聞こえる。

「友達に会ったんだ」

「女友達?」

「まあ、そんな感じ」

「ふーん……今から、そっち行くから」

 不機嫌な声が聞こえた後、彼女が歩く音が聞こえる。ただ、端までは結構な距離がある。僕はコンフィアンスに訊ねた。

「僕、なんかまずいこと言った?」

 コンフィアンスはにやけ顔で「さあ。ただ、彼女は嫉妬深そうね?」とだけしか言わなかった。周防はというと、「多分怒ってるよ」とだけだ。

──なにやったっけ、僕……。

 ちょっとしてから、灰色のパーカーとジーンズを着たレオナが不機嫌な顔で僕のもとに来たが、話していた相手を見て驚いたようだった。

「あら、コンフィアンスさん」

「どうも。お母さんにはよくお世話になっているわ。あと、雪村さんは女っ気ないから、安心していいと思うけれど。雪村さん、女追い回すよりロボット追い回してるから」

 コンフィアンスが相変わらずのにやけ顔で言う。レオナは安心したような気に障ったような、形容しにくい顔をした。

「それ、どういう意味かしら?」

 おどけたように「さあね」とコンフィアンスは言い、周防は二人の顔を不安げな顔で交互に見ていた。尤も、周防はいつも不安げな顔をしているけど。

 不穏な空気が流れる。

──あまりいい流れではなさそうだ。

 そう考え、僕は流れを断ち切るために提案してみた。

「どうせもう少しで14時だし、カフェテリアで一緒に昼食をとらない?」

 僕の提案にそこにいる全員が賛成した。


 元々人がいないのと昼時を少し過ぎているのもあって、カフェに人はあまりおらず、すぐに適当な席を取ることができた。

 コンフィアンスが食べ物を取りに行くと言い、それぞれが食べたいものを口々に言う。

 大学のカフェは、大学自体がかなり多くの留学生はもちろん、各国教授を受け入れているため、色々な国のものが楽しめる。もちろんドイツ料理だってあるし、中華や韓国料理だってあった。

 僕は適当にBLTサンドとコーヒー、周防は小食だからか和食定食の小、レオナはドイツのランチセット──ヅヴィーベルズッペ(オニオンスープ)、ハンバーグ、ザワークラウト(キャベツのピクルス)、それにブレッド──を頼んでいた。

 レオナが「尊教、もう少しバランスいいもの頼んだら?」と言ってきた。

「いやあ、手っ取り早いから……」

「そんなこと言ってたら、体壊しちゃうでしょ。どうせ、家でもまともなもの食べていないんでしょうし」

「なんでバレてるのかな」

 周防がおどおどと「雪村君はいつも冷凍食品か総合栄養食ばかりだよ。今日は珍しく、BLTサンドなんて頼んだんだ」と告げ口したため、彼女の目の色が変わった。

「そうだ。私が日本にいる間、貴方に料理を作ってあげる」

 彼女が良いことを思いついたとばかりに、目を輝かせる。

「いや、流石にそれは……」

 僕が断ろうとすると、彼女が「いいから。少なくとも、不健康じゃなくなるでしょ」と制する。それで、僕は折れた。彼女の言うことも一理あるし、何より手料理も食べてみたかったから。

「……分かったよ。じゃあ、今日の夜からでもいい?」

「もちろん。ドイツ風でいいなら、何でも作れるから」

 レオナが微笑む。すると、後ろから「押しかけ女房ってやつか、雪村」という声が聞こえた。

 振り向くと、いくつか料理の乗っているプレートを持った沢井が、笑いながらこっちを見ていた。

「それは使い方が間違ってるよ、沢井。合意がない場合はそうだけど」

「相変わらず、ちょっとの間違いも逃さねえな。で、そっちの美人は誰だ?」

 沢井が周防の隣に座る。メニューを見ると、いつも通りの野菜と豆腐だった。

 レオナが「褒めてくれてありがとう。レオナ・ヤンセン、尊教の友達よ」と沢井に挨拶する。沢井も「おう。沢井正義だ、雪村のストッパーやってるよ」と答えた。

「いつの間に僕のストッパーになってたんだい?」

「お前に声をかけられてからだよ、雪村。お前はいつも無茶苦茶ばかりしやがるのに、周防じゃ止められないし、コンフィアンスは怪我の可能性がない限りは止めねえし。俺がやるしかあるまい」

 沢井が肩をすくめて言った。そして「最近は止めても止まらねえけどな」と付け加えた。

「行動と思考が同時に来るから、仕方ないね」

「その癖を止めろ。それだけで俺の胃薬服用量が減るんだ。お前と付き合い始めて、どれくらい胃薬を飲むようになったか教えてやろうか?」

 僕はにやけながら「遠慮しよう。沢井がいちいち帳簿をつけてるとは思えない」と返す。実際、沢井の性格だとそんなことを覚えてるとは考えにくい。

「なぜバレた?」

 口を尖らせた沢井に、周防が追い打ちをかける。

「だって、沢井君はガサツだもん。おおらかともいうけど。僕でも同じことを言うよ」

「ちっ、流石に付き合いが長い連中にはダメか」

 僕らが笑っていると、コンフィアンスがうまい具合にバランスを取りながら3人分の料理を運んできて、僕らに手早く配ってくれた。

「あら、沢井さんも来てたの。珍しくにぎやかね」

「おう」

 コンフィアンスが周防の隣に座り、それからみんなで「いただきます」といって、食事を食べ始めた。

 少しすると、周防が思い出したようにつぶやく。

「ねえ、コンフィアンス。そういえば、僕はレオナさんに挨拶していなかったよね」

「あ……ええ、確かにしてないわ。でも、謙治はAI工学界では有名じゃない」

 コンフィアンスの返答に、周防は「そうなの?」と驚いた顔で言った。レオナも頷き、「ええ、周防さん。お父様さんの周防(すおう) (まもる)名誉教授と並んで、AI工学で知らない人はいないと思う。疑似人格構築理論とかね」と答えた。

「へえ……知らなかったな。僕、有名だったんだ。あと、その理論は6歳のころに考えたのを、お父さんと家に居たAIが数式化してくれただけだよ。僕はなんもやってない」

 周防は謙虚だ。疑似人格構築理論、これを簡潔に表現するのは難しく、僕も完全に理解できているわけではない。しかし、不正確な要約をすると、AIにとあるパターンから導き出される『疑似人格』を持たせるというものだ。そうはいっても、口で細かい説明をすることは難しい。ホワイトボードでもあれば説明できるのだが。

 ただ、現在では機械制限法があるため、人格は必要ないと考えられている。『命令に従うだけの機械であればいい』、これがIALAの公式見解だ。

「とかいって、お前のことだから半分くらいは数式にしたんだろ?」

「うーん、前のこと過ぎて覚えてないな……。あの理論は穴が多すぎて、僕の中じゃ失敗作なんだ。もう失敗からは絞り取るだけ絞り取ったから、ほとんど忘れたよ」

「あの理論で穴が多いの……?」

 レオナが驚いたように言う。周防は頷いて、淡々とその穴について語り始めた。

「うん。最大の穴は、ベースパターンによってそのAIがどんな人格を持つかが、左右されすぎること。乱数や統計学的手法も用いて出来るだけばらけるようにしたけど、ベースパターン自体が有する数値の偏りがあるがゆえに、それもあまり意味がない。加えて、その人格がどんな人格か予測不可能なんだ。僕が考えた最高の成功率を持つ数式でも、予想的中率は80%を切っちゃって、実用化は不可能だって言われた。試みは面白いと言われたけど、役には立たないんだ。で、それぞれの原因なんだけど、数値の偏りに関しては歴史が人の主観を通して記録されていることに由来する。ベースパターンっていうのは、その偉人や対象者のステータスや歴史的記述、手紙から著書、あれば遺伝子のサンプルまでのありとあらゆるデータを統計学的に処理してくれるベースAIに投入。そしてそれを解析──」

 僕は周防を遮った。放って置いたら、夜が明けるまで話し続けるだろうから。聞く分には面白いが、今は適切とはいいがたい。

「うん、周防。あとは論文にでもまとめようか」

「あ、そう……」

 周防はまた、静かに定食を食べ始めた。

 感心したように、レオナが「尊教、こんなにすごい人と知り合いだったのね」と僕に言う。

「僕も初めは知らなかったよ。周防教授については知っていたけど、まさか息子だったとはね」

「周防教授というと、おじいさんの周防(すおう) 将司(まさし)教授が作った超大型複合AI群を、理化学研究所の雪森(ゆきもり) 春香(はるか)主任研究員やハーヴァード大学のミッチェル・ケルヴィン教授以下数十名と共に改良した新型AIを作ったのよね。それが今の政府AIのベースだったかしら」

「そうそう。名前は知らないけど、各国の政府AIのベースになってる。現在はすでに機能停止したという話だけど」

「周防は名前知らねえのか?」

 沢井の問いかけに、周防は首を振った。

「いや、僕は知らない。コンフィアンスは?」

「私も知らない。研究にはあまりかかわっていなかったから」

 詳しいことは僕も知らないのけれど、このような試験モデル若しくは超高性能AIのコードネームはあまり公開されることがない。一説には、機密保護のために一定期間は事実が公にならないようにする法律である、情報開示法が用いられるからだそうだ。そうならば、50年たつことで情報が開示される。

 ただ、エレメンタル計画やパンチホール計画──俗にいうワープ実現のための計画。ちなみに、ワープ自体は1994年に数学的に不可能と証明されている──など、適応されているにしては公開される極秘計画は多い。

 そのため、僕個人としては「名前がないんじゃないのか」と考えている。実際、僕の名前もAIに付けられている、ついでの識別コードみたいなものだ。別に識別番号があるなら、分かりやすい名前というのは特に必要ないのかもしれない。

 そんなことを考えていると、沢井が今時珍しいクォーツ製腕時計を見て、「ん、いけね。そろそろ戻らねえと」と言ってプレートの上のものを掻っ込みはじめた。食べ終わると、「じゃあな、お前ら」と告げてから、プレートをゴミ箱につっこんでカフェから出ていった。

「嵐のような人ね……」

「まあね。僕の知ってる中でも、一番型破りな人だよ」

 僕は残っていたコーヒーを飲み干す。千住さんのところで飲んだものよりは不味いが、これしかないなら仕方ない。

 カップを置くと、コンフィアンスが「雪村さん、おかわりは?」と聞いてきた。

「いや。いいよ」

「わかったわ。そういえば、謙治」

「ん?」

 まだ残っている定食を食べながら、周防は首をかしげる。

「イ准教授と15:30に会う予定があるの、忘れてない?」

 イ・スルギ准教授は韓国出身の金属工学専門家で、主にロボットや非動力義肢に使われる、50%ほどの歪みでも超弾性を発揮する形状記憶合金の研究している。僕はあまり会ったことがないが、周防はロボティクス学科にもいるので関わりがあるそうだ。

 尤も、周防の天才的な頭脳を頼りにする教授陣も多いのだが。

「あ……どこ行けばいいんだっけ」

「新マテリアル研究センターよ。ここからだと、謙治の足の速さなら10分くらいかしら」

「今の時間は?」

 コンフィアンスが空を見る。

「15:15、ぎりぎりになりそうね。『応用機械工学技術書 Ⅻ』はまた今度探しましょう」

「ああ、そうだったね……じゃあ、二人ともまたね」

 僕は「また今度ね」と言い、レオナも「ええ、また会いましょう」と声をかける。周防はプレートをゴミ箱に静かに入れてから、コンフィアンスを伴ってカフェから出ていった。

「さて、尊教。これからどうしましょう?」

「まずは君の探している『Integrated Theory of Meta-Biomechanics Ⅰ』を探そうか。216番本棚の下から三段目、左から106番目だったはず」

「よく覚えてるものね……流石」

「まあ、これくらいならいけるさ。食べ終わるまで待つから、ゆっくり食べるといいよ」

 彼女は笑う。

「ありがとう、尊教」



 それから数時間後、僕らは夜道を歩いていた。レオナは持ってきていた鞄に本を入れ、僕の隣に居た。

「今日はありがとう」

「これから僕がお世話になるから、前払いみたいなもんだよ」

 その時、角から警備ドローンが出てきた。

“Good evening, Mr. Yukimura Takanori. And Ms. Leona Janssen”

 違う国籍の人間が二人以上いるとき、基本的には世界共通語(リングワ・フランカ)である、英語・フランス語・中国語のどれかが用いられる。その時、対象者の国籍で使用される言語は決まる。

 この場合、英語がよく使われている日本人と英語と同じゲルマン語派に属するドイツ人のため、英語が選択されたのだろう。また、トラン・スレートを使う人間に対しても英語だ。

「日本語でいいよ。どっちも日本語が使えるから」

『わかりました。こんばんは。雪村尊教さん、レオナ・ヤンセンさん』

 警備ドローンのディスプレイが光る。

「どうしたの? なにかあった?」

『夜道は危険です。エスコートいたしますか?』

「ああ、気を利かせてくれたんだね。どうしようか……」

 僕が逡巡していると、彼女が「大丈夫。いざという時は彼が守ってくれるから」とドローンを拒否する。僕は驚いて声をあげたものの、彼女は笑った。

「貴方なら、大丈夫でしょう?」

「自信はないけど……まあ、なんとかするよ」

 ドローンのディスプレイが消え、『わかりました。お気を付けてお帰りください』と言ってから去っていった。

 それを見送った後、僕は歩きながら彼女に忠告する。

「本当に何かあっても、僕は知らないよ。言っておくけど、闘ったことなんてほとんどないんだから」

 実は嘘で、僕は13歳くらいのころから基礎的な護身術を授業のカリキュラムに取り入れていた。というのも、なにが役に立つかなんてその当時はわからなかったからだ。それに加え、暇なときはいつも筋力トレーニングなり山登りなり、運動を欠かさなかった。そのおかげか、はたまた闘うことに適性があったのか、護身術のカリキュラムはいつも評価がSだったからある程度ならこなせる自信はあった。

 とはいえ、自慢するようなものでも公開するようなものでもない。

「嘘は大切だけど、真実には敵わないと思わない?」

 そういった彼女に、僕は驚いた。見破られるとは思っていなかったからだ。

「なんで嘘だってわかったの?」

「私の専攻は生物の動きを見る学問だもの。貴方の歩き方や姿勢は軍人や公安に近くて、ほかの人とは違う。これは、主に後天的な筋力の有無によって変わって、それなりに鍛えてこないと中々つかない。そして、貴方の性格と日本の教育システムから察するに、『なにが必要になる分からない』ってことで、護身術を取った……ってとこかしら? あと、貴方は嘘をつくときに目をそらして小指を動かす癖があるのよ。わかりやすい癖だから、簡単に気づけた」

 得意げにレオナが語る。僕は観念して肩をすくめた。

「大正解だよ。姿勢と癖に関しては気づけなかった。さすがはメタバイオメカニクスを専攻しているだけある」

 レオナが笑う。その時、視界の端、十字路の向こうに妙な二人組の男が写った。レオナからは見えないが、僕の位置なら見える。

 街灯の下にいた彼らを横目でよく見ると、ボロボロでくすんだ赤のロングコートを羽織り、長髪を赤に染めている。腕には腕章のような真紅の布がまかれていた。見える部分の肌は白いように見える。たぶん、コーカソイドだろう。

──ちっ、≪GWRH≫か。武器はなさそうだけど、厄介だ。

 ≪GWRH≫は厄介なことに、このようなモンゴロイド狩りを日本で行うことがある。日本以外でも、ネグロイドやオーストラロイドも同じような被害にあっているらしく、男は滅多打ちにされ、女はレイプされることもある。そういう意味では、≪人間同盟≫のほうがまだマシだ。なにせ、≪GWRH≫は異人種狩りを『国家の正常化のため』に行っているんだから。犬も食わないような大義を掲げている連中ほど、面倒なものはない。

 僕は横のレオナにささやいた。

「レオナ、≪GWRH≫のモンゴロイド狩りだ。武器は持ってないけど、帰るルート上にいる。絶対そっちに目を向けないように」

 レオナの緊張が僕にも伝わる。僕は息を深く吐いて、吸い込んだ。この状況では警備ドローンを呼んでも間に合わないだろうし、何より一体だけでは二人に壊されるだろう。彼らはコーカソイドの作った機械以外は「汚れた悪魔」と考えているため、日本にあるドローンは壊してしまうし、ドローンは命令がない限りは人間へ攻撃できない。

 だから、僕は護身術の基本、どんな状況や流派でも変わらない最良の対処法を思い出していた。この対処法が最良たる所以は、自分や他人へのダメージが最小限に抑えられる可能性が高いだけでなく、誰でもできる。

 それは、逃げることだ。

「逃げるよ」

「えっ」

 僕はレオナの手を取り、大学に向かって走った。大学構内はいつも巡回している警備ドローンがいるし、夜でも人の目が多い。上手くいけば、≪GWRH≫の連中を捕まえることができるだろう。

 レオナの足音とは違う、重い足音が聞こえる。明らかに追いかけてきているが、距離のアドヴァンテージのおかげで追いつけないようだ。

「どこ行くの」

 叫んだレオナを一瞥して、僕はまた前を見た。道路が碁盤の目をしているこの街では、直線を走り抜けるだけで大学の門に入れる。そのまま守衛室に向かえば、安全だろう。

 そのとき、足がもつれたのか、レオナが躓いた。僕は自分の身体を捻りながら、彼女の手を引っ張って体を抱き寄せる。結果的に僕も転ぶことになったが、彼女が怪我することだけは防げたようだった。

 抱き留めた状態で「大丈夫?」と聞く。息の荒い彼女の「なんとか……」という言葉に、胸をなでおろす。けれど、追いかけてくる足音は着実に近づいている。

「レオナ、走れるかい。走れるなら、大学まで逃げるよ」

「いえ、挫いてるみたい……運動不足が祟ったかしら」

「わかった。時間を稼ぐから、何とか大学に入って守衛を呼ぶんだ」

 僕は彼女が起きるのを手伝う。彼女は「貴方を置いていけって?」と聞いてきたが、僕は彼女をにらみつけた。この状況じゃ、彼女の無事が最優先だ。

──あんまり言いたい言葉じゃないけど、仕方ない。

「生きるか死ぬかで感情は要らない。それに、君がいると邪魔になる」

 その言葉に彼女はショックを受けたように目を見開く。当たり前だ、こんなことを言われれば、誰でもショックを受ける。

「そう……わかった。守衛さん呼んでくるから……」

 右足を庇いながら、彼女は大学に向かう。歩みは早くないものの、1分もあれば安全圏につくはずだ。

 尤も、モンゴロイド狩りの連中もあと30秒くらいで僕のいるところに到達する。つまり、30秒だけ時間を稼げば彼女は安心だ。それに連中の標的は僕だろう。

 ほぼ間違いなく、レオナは助かるはずだ。それだけでも肩の荷が下りた。

「30秒か……」

 まだ遠いのでよく見えないが、いつの間にか連中の一人はナイフのような怪しく光るものを持っていた。多分、服の下に隠してあったのだろう。正直なところ、接近戦における個人で扱える武器でナイフほど危険な武器もない。拳銃のほうがまだ安全だと言われる始末だ。

 拳銃は射線をそらすなり、ハンマーとファイリングピンが当たらないようにするなり、対処のしようがある。だが、ナイフを素手でつかむわけにもいかないし、当たり所によっては一撃で死ぬ。それに加えて、刺しても引いても怪我をする。

 連中が僕の前でいきなり止まる。息が上がっている。

 街灯の下でよく見ると、彼ら二人の虹彩は黒でコーカソイドにしては体格が小さい。確実なことは言えないが、モンゴロイドとコーカソイドのハーフだろう。最近の≪GWRH≫は他民族とコーカソイドのハーフやクォーターが多い。『人種コンプレックス』、自分がどちらの民族に属するべきかわからず、過激な思想に走るためだ。

「よくもはしらせてくれたな……」

 訛りの酷い日本語で連中の一人が話す。たぶん、彼らはコーカソイドの母国語として≪GWRH≫が掲げている『正義の言語(ラテン語)』を中心に学んだせいで、親が話していた日本語に訛りが出たのだろう。

「君たちが見逃してくれれば、僕としては嬉しいんだけど」

 試しに交渉してみるが、結果は予想済みだ。

「うるせえ」

 一人が走りながら、右手でナイフを突き出す。僕は左側に体をひねってそれをよけ、ナイフを持った奴の後ろに回る。その時、後ろからもう一人が胴体に手を回して絞め技をかけてきた。

 すかさず後頭部で相手の鼻を潰してから、体を横に振る。痛みと勢いに押された相手は僕を放し、拘束が解ける。相手の叫び声が聞こえるが、僕は意に介さないでナイフを持ったもう一人と対峙した。

「野郎」

 また突進しながら叫んで、ナイフを突き出してきた。僕はもう一度、体をひねって避けて、彼の後ろに回ることができた。

 勢いを殺そうと重心をずらしている相手の尻に、軸足を瞬時に切り替えてから右足で蹴りを入れる。重心がずれているのに加えて息が上がっていた相手は、一気にバランスを崩して前につんのめり、顔を強か打った。

 その時、先ほど鼻を潰した方が立ち上がって、コートの下から大ぶりのフォールディングナイフを取り出してきた。ざっと見て、刃渡り30 cmはある。

──あ、割と不味い。

 大ぶりのナイフだと、突き出すよりも切りつけてくることが多い。すると、先ほどやったような体をひねって避けるのは無理で、後ろに下がる必要がある。けれど、それをやると僕は壁際に追いつめられることになる。もしくは相手の腕を受け止めるというのも一つだけれど、確実にできるとは限らない。もし失敗すれば、僕は上半身に大きな傷を作ることになるだろうし、二人いるともう一人の方が別の角度から襲ってくる。そうなると彼らに袋叩きにされる。

 転んだ方も回復したようで、僕にじりじりと寄ってきた。2対1、かなり不利だ。

「ここで休戦でもどうかな?」

 僕は冗談を飛ばしてみるが、彼らは反応しなかった。

 大ぶりのナイフを持った方が、勢いよく僕を切りつけようしてくる。

 僕は賭けに出た。

 目の端でもう一人がナイフを突き出してくるのを見ながら、左手で切りつける手を受け止め、力を抜いて右手で相手のみぞおち──筋肉と筋肉の隙間に──に上から一撃を繰り出す。

 情けない声とともに、相手はダウンした。それと同時に僕はバックステップで後ろに下がり、小ぶりのナイフを持った方を避ける。ナイフがわき腹をかすめるが、刺さるのだけは避けられた。

 なんとか賭けには勝ったが、まだ問題がある。鼻のつぶれた方はしばらく立てないだろうが、無事な方がいるのだ。

「そろそろやめないか?」

「うるせえ」

 もう一度突進しながらナイフを突き出して、僕を刺そうとする彼。僕はまた左に体をひねって、それを避けた。

 その時、5体の警備ドローンがパトランプを鳴らしながら、こちらに来た。医療用ドローンに支えられたレオナの姿も見える。僕ら二人は止まる。

『そこの二人、手をあげて停止しなさい』

 僕は素直に指示に従い、ドローンに「必要があれば、攻撃せよ」と叫ぶ。機械制限法第三条があるため、この一言で彼らは人間に攻撃できる。

 僕が叫んだことで初動が遅れた≪GWRH≫の男が、一人のドローンからスタンガンを受けて体を痙攣させる。僕は取り落としたナイフを足で蹴ってドローンの方に放り、ドローンがナイフを回収して無力化した。

 彼女が足をかばいながら、僕に駆け寄る。それに医療用ドローンが随伴した。

「大丈夫?」

 僕は腕をあげたまま、「さっきはごめん。ただ、君を逃がさないといけなかった」と謝ったが、彼女は泣き笑いのような顔で「まずは治療しないと。貴方、脇腹を怪我してる」と涙声で僕を制した。

「ん?」

 彼女に言われて見ると、ざっくりと右の脇腹が切れ、おびただしい血が出ていた。あの時、刺さりはしなかったが掠めたせいで切れたようだった。

 アドレナリンが引くのと認知するのが同時だったのだろう、激痛が襲ってくる。僕は喉の奥から響くような叫び声をあげ、傷を抑えて崩れ落ちた。


 大学の医療センターで治療を受けた僕とレオナは、警備ドローンに警護されながら家へ帰った。

 僕の傷は大きいものの浅く、再生シートとフィブリンペーストですぐにふさがった。傷跡も3日もすれば目立たなくなるとのことだ。彼女の方もすぐに治療を受けたため、2日で痛みも取れ、1週間も再生薬を飲めば後遺症や癖になることもないそうだ。

 捕まった≪GWRH≫の連中は公安の留置所で一時的に勾留された後、強制労働所に入れられることになった。僕も一瞬捕まるかと思ったが、正当防衛ということで参考人どまりらしく、明日公安から簡単な事情聴取をされる程度で済んだ。尤も、近年決まったSD(Self Defense、自己防衛)法のおかげで、このような寛大な処分になったというのもあるんだろうけど。

 家に帰った僕はベッドに座って一息ついた。深呼吸すると、傷が突っ張って痛い。彼女の方は初めて来た僕の部屋に興味があるのか、立ったまま周りを見渡していた。

「良かったよ、レオナが無事で。どうせだし、何か飲む?」

 僕の問いかけに、彼女は答えなかった。

「どうしたの?」

「いえ……私のせいで貴方が怪我したのかなって思って……」

 彼女が僕の方を見ないで、申し訳なさそうに答える。

──ああ、そういうことか。

「いや、そんなことはないよ」

「……そう?」

「うん。それより、座ったらどうかな」

 彼女は空いているデスクチェアではなく、僕の隣に座った。それでも、俯いて僕の方を見ない。僕は彼女を励まそうと思って、自虐ネタを飛ばした。

「気にすることはないよ。僕の腕が悪かったから怪我しただけさ」

「でも……」

「レオナ、僕は君が怪我をしなくてよかったと思ってる。それに、僕が君に言った言葉の方が問題だろう。あの時はごめん」

 出し抜けに僕の方を見た彼女は、きれいな顔に涙の筋を作っていた。

「怪我の有無は問題じゃないし、貴方の言葉は必要だった。それに、あなたの小指が動いていたから……。私が考えているのは、貴方が私のためなんかに無茶をするんじゃないかと言うこと。どうすればいいのよ、もしあなたが私のためなんかに死んでしまったら」そこで、彼女は言葉を切った。「それに、私が警備ドローンを断ったから、あなたは戦わざるを得なかった。私の軽率な判断で、あなたは死ぬかもしれなかった」

 そういわれて、僕は何も言えなかった。確かに僕が死ぬ可能性だってあったし、今度同じようなことがあった場合、死なない保証はない。

 もちろん、彼女が怪我をするよりは、死んででも彼女を守りたいとは思う。しかし、そんなことになったら、彼女は自分を責め続けてしまう。それも自分の責任で友達が死ぬなんてことに耐えるのは難しい。

 それに、今よりも関係が深くなったとき……愛する人の死に耐えられるだろうか。

「……ごめん。僕も考えが浅かった」

「いえ、貴方は私のために戦ってくれたんだもの、悪くないって。私の方こそ、ごめんなさい。そして私のためなんかに、ありがとう」

 彼女は泣きながら微笑んだ。その時にはもう、目を合わせてくれるようになっていた。僕は彼女と目を合わせて、「こちらこそ」と呟いた。

 そんなに思ってくれた人は、今まであったことがなかったから。

 少し間が開いてから、彼女が提案した。

「……ねえ、何か食べない?」

「それもそうだね。僕の部屋には総合栄養食しかないけど」

 あきれたように彼女がため息をつく。

「もう……ドローンマーケットとか使えないの?」

「一応使えると思うけど……使っていいよ。料金は僕持ちだし、それなりにお金は余ってるんだ」

「そりゃあ、そんな粗食ばかりなら、お金もあまるでしょうよ。それに部屋も殺風景だし……始めて見たんだけど。壁一面がメインフレームと本棚で構成されている人の家なんて」

「ちなみにこれは助成金で買ったものだから、僕自身の財産は使ってないよ」

「そういうことじゃないって、もう」

 彼女が笑って、僕に何を食べたいか聞いてきた。なんでも、と答えると「それなら、ドイツの普通の夕食にしてあげる」といって、僕の部屋にあったインフォグラスをつけてから、ドローンマーケットを起動させた。


「それから、僕らは殆ど同棲みたいな状態だった。クリスマスや年末年始こそレオナはドイツに帰ったけど、それ以外はずっと僕と一緒でね。まあ、他にも、料理を作るようになってくれてから一週間くらいで僕が彼女と付き合い始めたってのもある。レオナのおかげで、まともな食事をとるようになったんだ」

 雪村が静かに笑い声をあげる。日は少し落ち、部屋を照らす日光は白から温かいクリーム色に変わっていた。

「そして、レオナは修士号を取って大学を卒業したし、僕も博士号を取れてエイジス社に就職したから、二人でお祝いにヨーロッパ旅行でも行こうという話になったんだ。昔の遺跡を見てみようってことでね」

 リーベはあの写真を思い出していた。

「……あの灰色の本の写真は、その時のものですか?」

「うん、その通りだよ。その二か月後に、≪新世紀派≫が遺産を吹き飛ばすとは思わなかったけどね。僕らは顔を見合わせたよ、なにせ二か月ずらそうという話もしていたんだから。レオナが早めに行こうと言ってくれなければ、僕とレオナは死んでいたかもしれない」

 雪村が言葉を切る。

「で、旅行をしてみて、十分に二人で過ごせるってわかったからかもしれないけど、それから一月もしないで僕らは結婚した。周りには早いし珍しいと言われたけど、僕らはそんなこと気にしなかったよ。二人とも二人が好きだったから、ずっと一緒に居られるなら……それで、よかったんだ」

 言葉を詰まらせた雪村が、鼻をすする音が聞こえた。

「結婚してまた半年くらいたったころだったかな、レオナの誕生日が来たんだ。僕の誕生日も祝おうとしてくれたんだけど、僕がミノロフに捕まって忙しくてね。それで、レオナの誕生日と一緒に僕の誕生日も祝ってくれることになったんだ」

 リーベはそれを聞いて、あの書斎にあった本を思い出していた。あれは2103年6月15日の写真だった。


≪第十四節 21030615・21211001≫

 結婚してから、レオナと僕は日本に住んでいた。

 初めはドイツに住む予定だったけど、彼女が「日本に住んでみたい」と言うことで、渋るヤンセン教授を説得して郊外に屋敷を建てた。

 決して安い買い物ではなかったけど、すでに亡くなったらしい親が残してくれたらしい財産のおかげで問題なく買うことはできたし、ここは住み心地が良かった。それに千住さんの喫茶店にも近かったから、後悔はない。

 なにより、後々家族が増えるのなら、マルチレイヤー・アパートメントでは狭すぎる。

 それに少し距離はあるけど、僕が彼女に見せたら痛く気に入ったあの岬にも行くことが出来る。あの岬は元々簡素な展望台しかなく自動タクシーも通ってないけど、元の所有者と話をして──所有者はその場所をもて余していた──格安で僕が買い上げた。あそこは将来的には、公園みたいにしてみたいと二人で話し合ったものだった。

 また、今のグローバル社会ではあってないようなものなのだが、国籍も彼女と僕は日本とドイツの二重国籍に変更した。そうした方が、色々と便利だからだ。


 その日、僕とレオナはドイツに飛んだ。彼女の家族──主にヤンセン教授が──誕生日はドイツで祝いたいということだったから。

 とはいえ、僕も異存はなかった。IBTDを使えばあっという間につくので、気にしないで済むというのもあるし、ドイツの雰囲気は好きだった。それに、彼女に教えてもらったのだけど、ドイツ人は家族を大切にする。そういうことなら僕も大歓迎だ。僕はああいう雰囲気を感じることが生涯で一度もなかったから、尚の事。

 二人でミュンヘンにつくと、自動タクシーに乗って彼女の家に向かった。

 今日は酔い止めをあらかじめ打っておいたのが功を奏して、今回はまともに家に上がることができた。家では相変わらず教授は冷たい目で僕を見てくるし、クラウスさんは五十代前半とは思えない。つまり、何も変わらないってことだ。

 そして、夜になった。

 僕はお酒が飲めないので、基本的にビールテイスト飲料ばかり飲んでいた。それでも、若干頭がぼやける感じがしたのは、飲みすぎたからかもしれない。

 それで休むために椅子に座って、パーティー会場をボーっと眺めていた。とはいえ、ほとんどの目線が黒いドレスを着た彼女のほうに向いていて、僕の方は向いていなかったのだけれど。

 彼女はドイツに住んでいる友達と話し合っていた。どうも、聞き取れる限りは久しぶりに会ったらしい。ヤンセン教授とクラウスさんは肩を寄せ合って、幸せそうに話しているようだ。

──さて、どのタイミングでプレゼントを渡そうか……。

 実は彼女のために、僕は指輪を買っていた。本当は時計か靴のような実用的なものにでもしようと考えたのけれど、千住さんに相談したときに「時計は時間の共有の意味があって、束縛の意味を持つことがある。靴は恋人に渡すと、その靴を履いて離れるという言い伝えがある。言い伝えだからどちらも気にする必要がないのだが、気になるならやめた方がいい」というアドバイスを受けたのだ。

 そこで、僕は今では消えてしまった伝統の一つである、結婚指輪にしようと考えた。つい最近までは結婚指輪をつける文化があったらしいが、今は結婚自体が少ないので廃れてしまった。

 その指輪はホワイトゴールドに数カラットのダイヤをつけたシンプルなもので、彼女が寝ている間にこっそりと3Dスキャナで指のサイズは測ってある。もっと高いものも買えたが、派手すぎるのは彼女に似合わない気がした。

 僕があまり働かない頭でそんなことを考えていると、彼女が友達を伴って僕のもとに来た。

「ねえ、尊教。貴方に渡したいものがあるの」

──ちょうどいい。

 僕も椅子から立ち上がる。

「僕も君にあげたいものがあるんだ」

「ん? なに?」

 興味深そうな顔をした彼女の前に僕は跪く。ポケットから指輪ケースを出して、供物をささげるように彼女の前に差し出す。そして、驚いた顔をした彼女に向かって、僕は“Ich liebe dich. Egal was kommt, ich werde dich nie verlassen.”と言った。

 「あなたを愛している。何があろうと、あなたを離さない」、僕が常に彼女に対して思っていることだ。

 でも、伝えようとしないと、気持ちは伝わらない。

 だから、今のこのタイミングで伝えないと。

 レオナは何も言えないように口を押えて固まっていた。それどころか、その場の空気全体が固まっている。何とも居心地の悪い間が開く。

──あれ、やりすぎた……?

 実はコンフィアンスと一緒に考えたもので、練習相手もコンフィアンスだった。というのも、これを練習せずにやった場合は悲惨なことになるのが目に見えていたから、彼女に隠れてずっと練習してきたのだった。

 そうと決めて以来、コンフィアンスは周防が止めるほどのスパルタ具合で演技指導してくれた。だからか、完璧に出来たときに「これなら99%は成功する」とコンフィアンスに褒めてもらえるほどだったけれど、こうなるとは予想をしていなかった。

 体中から冷や汗が出る。緊張と腕の疲れで、掲げている手が震えはじめる。

 その時、彼女は指輪ケースを震える手で取って、テーブルに置いた。

「貴方、立って」

「う、うん……」

 僕が立つと、いきなり彼女が抱き着いてきた。

 変な声が喉から漏れる。その勢いを殺しきれず、僕はそのまましりもちをついた。周りから拍手が聞こえる。察するに、やりすぎたというよりは唐突すぎて、みんなの意表をついてしまったようだった。

「貴方がこんなにロマンチストだったとは思わなかった」

 彼女が抱き着いたままニッコリと笑う。僕は軽口をたたいた。

「ドイツ人って、あんまり直接的な表現はしないんじゃなかったっけ?」

「あら、表現するときは表現するのがドイツ人よ。私たちは慎重だけど、内に秘めてるものは大きいんだから」

 それを聞いて僕も思わず笑う。近くで見ても、相変わらず綺麗な顔をしている。何度見ても見飽きそうにない。

「さて、さっきも言ったけど、私も渡したいものがあるの」

「ん?」

 彼女が僕から離れて──若干心残りだったと付け加えておこう──僕が立ち上がるのに手を貸した。その手を借りて、僕は立ち上がる。

 すると、彼女が「ちょっと待っててね」と何処かに行き、少しすると大きな箱を抱えてきた。木製の箱で、ざっと見て40cmくらいあるだろうか。その箱を彼女は僕に手渡す。

「開けてみて」

 彼女が僕に笑いかける。僕が木箱の留め金を外して、中を見る。

 そこにあったのは刃渡り20cmほどのボウイナイフと手入れするためのクリーニングキットだった。ナイフには何か彫ってあったが、それを読むのを忘れるほど驚いた。

 刃物というと、僕の中では縁を切るというイメージがあったからだ。

「えっ……?」

「あら、どうしたの。喜んでくれると思ったんだけど……」

「いや……これって、縁を切りたいって意味?」

 もしそうだとしたら、僕はショックを通り越して寝込むことになる。そうでないことを祈り、僕は恐る恐る彼女の方を見る。

 すると、彼女は笑っていた。

「違うって。二人で一緒に未来を切り開こうって意味。ヨーロッパの習わしで、刃物にはそういう意味があるの。それに、じゃないとそんな刻印入れない」

 よく見ると、確かに『いつもあなたと一緒』と言う刻印がドイツ語でされている。確かに、別れる相手にこんな言葉は伝えない。

「ああ、良かった……」

 胸をなでおろした僕に、彼女が微笑みかけた。

「私がそんなこと言うわけないじゃない。だって、私は貴方が居ないと駄目なんだから」

 僕も笑って「それは僕もだよ」と答えた。

「そうだ、僕のも開けてみて」

 彼女は「ええ」と答え、指輪ケースを開けて中の指輪を見る。表情を見る限り、喜んでくれたようだ。

「これ、結婚指輪?」

「うん。幾分か前に廃れた風習だけど、渡しておきたかったんだ」

「貴方の分はあるの?」

 僕はポケットから指輪ケースを出す。

「もちろん。そうじゃないと意味がないしね」

「ねえ、私の指にはめてくれない? 私も貴方の指にはめてあげるから」

 そういって、彼女は薬指を差し出す。僕はケースから指輪を取り出して、彼女の指にはめた。僕も指を差し出すと、彼女が指輪をはめてくれた。

 彼女は僕に向かい合って、僕の指輪をはめた手を両手で包む。それに、僕も倣う。

「ずっと一緒よ、尊教」

「もちろん、レオナ」

 みんなが拍手してくれる。結婚式をしなかった僕らにとっては、少々気恥ずかしかったが、それでもうれしかった。

──ずっと一緒だよ。


 そこまで語って、雪村は言葉を切った。

「あのナイフは……このとき贈られてきたものなのですね」

「そうだよ、リーベ。そうだ、僕らはずっと一緒に居れると思ったんだ。僕らは……ずっと……一緒だったんだ……」

 雪村が絞り出すように声を出す。

 その時、リーベは思い出した。雪村の指には、指輪がはまっていない。雪村の言うことが事実なら、指にはダイヤの指輪がはまっているはずなのに。

「雪村さん、指輪は……?」

 話し始めてから初めて、雪村はリーベを見る。その顔は悲しみで歪んでいた。

「岬の大理石の下だ。そこに、もう一つの方と埋めてある」

「えっ?」

 空は赤く燃え、部屋を橙に染めていた。

 いきなり雪村がふり絞るように叫ぶ。けれどその叫びは怒りからというより、悲しみを振り切るような叫びだった。

「2104年1月14日。あの日だ。あの日、僕がレオナを止めておけば! レオナを別の交通手段で行かせておけば! レオナは死なずに済んだんだ!」

「死んだ……?」

 雪村は見たことのないような、悲しみと怒り、そして苦しみが入り混じった顔でリーベの顔を見据える。その目からは、涙が流れていた。

「僕の人生が、いや、レオナの人生までもが歪んでしまった日なんだ。1月14日はね……最悪の日だった」

 先ほどとは打って変わって、静かな声で雪村は呟く。ただ、その目からあふれる涙は変わらない。

「その日のことを話すよ、リーベ。僕の人生を変えた、あの日のことを」


≪第十五節 21040114・21211001≫

 僕は病院のロビーを霊安室に向かって、周りの目も構わず走っていた。

 というのも、クラウスさんから「レオナが亡くなった」という電話が来たからだ。

 だが、僕は自分の目で見るまで、それを信じられなかった。

──レオナが死んだ? 馬鹿な、そんなことあるわけがない。確かに連絡も取れないし、LIGで起きた過負荷の話だって知っている。それで現時点で1000人以上死んだってことも。そして、その車両の中に彼女が居た可能性が高いことも。でも、死んだなんてありえない、あり得ないんだ。

 僕はそう考えながら、ともかく霊安室へ走った。きっと違う人間が、彼女と背丈の似た人間が、亡くなっているだけだと期待しながら。

 今思えば、下衆な考えだ。けれど、あの時はその事しか考えられなかった。

 

 その日、レオナと僕はまたしてもドイツに帰っていた。彼女と結婚してからは、ともかくドイツに帰ることが多い。もちろん、僕はそれを楽しんでいた。

 朝から彼女はあわただしく準備をしていた。どうもハンブルクだったか、遠方に住んでいる彼女の友達が急に用事があるとのことで呼ばれたらしい。

「手伝うことあるかい?」

「いえ、大丈夫」

 髪を梳かしながら、彼女はにこやかに微笑んだ。僕がマイコンとインフォグラスを使って、交通状況を確認してみると、アウトバーンの殆どがオレンジか赤、つまりは混雑状態だということを指していた。詳しいことはわからないが、朝だからかもしれない。

「レオナ、もし時間がありそうなら、リニアを使った方がいいかもしれない。自動タクシーは結構混雑してるみたいだ」

「ドイツの自動タクシーならすぐ空くから、大丈夫」

「そう? 僕はリニアの方がいいと思うけどな。チケットなら、すぐ取ってあげるよ」

「もう呼んじゃった……」

 彼女がバツの悪そうにつぶやく。僕は慌てて、「そうなのか。それなら、自動タクシーで行った方がいいね」

 その時、自動タクシーが家の前で止まる音が聞こえる。

「ええ、そうする。ちょうど来たみたいだし。また後でね、尊教」

「うん。気を付けてね」

 僕は彼女を見送りに玄関に出る。彼女はコートを羽織ってからカバンをもって、ドアを開けようとした。

 突然振り返り、僕の口に短いキスをした。

 いつもしないことだったから、僕は驚いて固まる。それを見て、彼女は微笑んだ。

「次はもっと長いから」

「お、おう……」

 そういって、彼女は玄関から出ていった。

「随分と私の娘を惚れさせたようね、雪村君」

 いつの間にいたのか、後ろからヤンセン教授が声をかけてくる。

「どこから見てました?」

「最初からよ。若いっていいわねえ」

 ヤンセン教授がおどける。僕はため息をついた。

「今日、お仕事は?」

「実験がひと段落したから、あとはまとめるだけ。在宅で終わるでしょ。クラウスの方は結構忙しいみたいね」

「なるほど」

「あなたは?」

「僕はちょっと出かけてきます。近くの図書館に面白い本があると、レオナから聞いたので」

「相変わらず本の虫ね。いいわ、いってらっしゃい」

 僕はそれから軽く準備して、ヤンセン教授に別れを告げてから出かけて行った。

 そして、その約1時間後のことだ。図書館にいた僕の耳に、凄まじい爆発音とけたたましい衝突音が届いた。


 霊安室に入った僕が見たのは、立っているクラウスさんと一体の医療用ロボットだった。そして、その間にあるのは白い布をかぶせられた『何か』が載っている検視台だ。

「尊教……」

 一気に老けたように見えるクラウスさんが悲痛な声で僕の名前を呼ぶ。

「ヤンセン教授は?」

「アウグスタは今、ショックで寝込んでいる。私もそうなりそうだが……娘のために倒れるわけにいかない」

 僕がクラウスさんの隣に歩いていく。

「本当にレオナなんですか」

 クラウスさんは頷いて「DNAがほぼ一致したんだ」と僕に告げたが、信じたくない僕は反論した。

──自分の目で見ないと、僕は信じない。信じられるわけがない。

「本当にそうなんですか。見せてください」

 ロボットが顔にかかっている白い布を取り去る。

「……」

 そこにあったのは、あの美しい白い肌でもなく、豊かでつやのある金髪でもなく、吸い込まれそうなほど深い青い目でもなく、僕にキスをしてきた唇でもなかった。

 ただの、穴が三つ開いた黒い炭だった。木にあらかじめ穴をあけ、それを人型に切った後、ガソリンをかけて燃やしたような……そんな遺体だった。

「レオナは……焼け死んだんだ。制御を失った自動タクシーが時速300 kmでアウトバーンの防音壁にぶつかって、その衝撃でタクシーのサブ動力源のメタノールに引火したらしい。鎮火したころには、レオナは……」

 僕はクラウスさんの言葉を聞きながらも、少しずつ後ずさりをしていた。目の前の現実を直視したくなかった。この得体の知れないものを見ていられなかった。

「うそだ……し、焼死体のDNA照合はあてにならない。ほかの手段で確かめないと。歯型や遺留品とかが異なれば……レオナじゃないはずだ」

──これがレオナ? あの美しい彼女なのか?

 僕の頭はこの炭が彼女じゃないと否定することに精いっぱいだった。あの美しく、活発だった彼女が、こんな炭になって検視台に静かに横たわっている。そんなことを信じるなんてできなかった。

「だが、マイコンはレオナの生体データがネガティブだと……」

 何を意味するのかは言うまでもない。

「嘘……だろ」

 僕は崩れ落ちて、膝をしこたま床にぶつけた。でも、不思議と痛みは感じなかった。

 信じられない現実と、信じなければならない事実の間に挟まれた僕は、涙すらでてこなかった。

──レオナが、死んだ? でも、どうして、なんで、どうやって!

「僕はレオナのいない世界でどう生きればいい、誰のために生きればいいんだ……?」

 僕の頭の中に後悔が渦巻く。その後悔が、憎悪と悲愴に変わっていくのを眺めていた。それでもまだ目を開けて居られたのは、機械のバグでシグナルが断絶しただけで彼女が死んでいないという、絶望的な希望を抱いていたからだろう。

「……尊教」

 クラウスさんが差し出すように、白い布で包まれたなにかを僕に渡す。それを震える手で受取って、中を見た。

 そこにあったのは、レオナの誕生日に僕が渡した、ホワイトゴールドの指輪だった。

 高温に晒されたはずなのに指輪はどこも焦げておらず、ダイヤすら燃えていなかった。震える手を抑えながら、指輪を手に取って内側を見る。そこには、『Y.M & L.C.J』とだけ刻印されていた。

「検視官がこの遺体の手の中から見つけたんだ。大切そうに、両手で握りしめていた……そう、言っていたよ」

──この指輪を持っている人は、世界に一人しかいない。

 紛うことなき事実を突きつけられ、真実が僕を襲う。もう僕の心は否定することができず、唯一残っていた希望を打ち砕く。

 血の引く音が聞こえる。ザァーッという、死を思い浮かべる、骨のこすれるような音が僕の耳に響いた。

 突然、目の前が真っ暗になって意識が飛んだ。


 目を覚ますと、そこは6面の壁が真っ白い部屋だった。そこに、僕は白い礼服を着て立っていた。

「ん?」

「もう、良く寝るのね」

 後ろから声が聞こえる。振り向くと、あのパーティーの日に着ていた黒いドレスのレオナが立っていた。

 僕は彼女の名前を呼んで駆け寄り、彼女を抱きしめる。

「どうしたのよ、そんなに慌てて」

 笑いながら、彼女が答える。僕は彼女が生きていたことへの安堵と再会できたことへの喜びで目から涙を流した。

「良かった、生きていたんだね……」

「私は貴方と一緒。貴方が私を忘れない限りはね」

 僕は彼女の顔を見る。すると、シミ一つなかった白い肌に、茶色いシミがいくつもできていた。

「レオナ?」

「どうしたの?」

 声にガサガサと擦れる音が混じる。シミが少しずつ広がり、その速度を増していった。

「君……」

 僕の言いたいことが分かったのか、彼女は笑う。口の端が裂け、ボロボロと灰になっていった。僕の手に触れている髪も少しずつ灰になり、僕の手から零れ落ちる。

「ああ……死者は夢の中で少しの間だけは昔のままでいられるの。でもね、元の姿に戻らないといけない」

 ざらざらとした声で彼女が言う。僕はもっと力強く抱きしめた。

「ずっと一緒だよ。二度と君を離さない」

 彼女が声をあげて笑う。「嬉しい。貴方みたいな人の妻になれてよかった」

 抱きしめる手から灰が落ちる。レオナの肌は既に黒く染まっていた。腕が枯れ果てた花のように落ちて砕け散る。

「苦しくない?」

「いいえ。貴方がいるから、苦しくない」

 顔はもう、僕が見たような炭になってしまっていた。口と思われる穴だけが動き、僕に話しかけてきた。普通なら恐怖を感じたかもしれない。でも、それが彼女だと分かっていれば、全く恐怖を感じなかった。

「もう、お別れね。また、会いましょう? 貴方が私を見ているときは、必ず私も見ているから」

「レオナ……君のために、必ず……」

 抱きしめる腕から、炭が砕けて落ちる。そこから壊れた体が、床に落ちて砕け散る。その砕けた炭は僕の足元に山を作った。この部屋には、黒と白しかない。

 僕はまた膝をついて、彼女を見降ろす。そして彼女の名前を叫んだ。


 叫び声をあげて起きると、医療用ロボットに押さえつけられ、何かを腕に注射された。多分、鎮静剤か何かだったのだろう。すぐに僕は冷静さを取り戻す。

 体を起こしたまま肩で息をしていると、そこは病室のベッドだった。

『大丈夫ですか?』

 ロボットが僕に聞く。僕は頷いた。

「僕はどうしたんだ?」

『レオナ・ヤンセン様の遺体の前で気絶されたのです。まだ、休まれますか?』

「いや……レオナの側にいさせてくれ」

『分かりました』

 僕はベッドから立ち上がり、地下の霊安室に行く。そこには変わらない白い布がかぶせられた検視台があった。

 そのそばに寄った僕は、レオナの遺体に言った。

「君を殺した奴を、僕は絶対に許さない」

 もう涙は出なかった。復讐の炎で、涙は乾いてしまったから。


「そこから先は、彼女の葬式……火葬して簡単な略式葬を行っただけだった。そして、遺骨はいつの間にか書いていた彼女の遺書通りに僕が日本に持ち帰って、あの岬から散骨した。指輪は穴に通すことで二度と外れないようにして、ケースに入れて大理石の下に埋めてある。ヤンセン夫妻には葬式以来会っていない。知っているのは、ヤンセン教授は日本で研究をするのを止めてドイツに帰ったことだけだ」

 雪村はそういって、長く息を吐いた。空は暮れ、部屋は電灯の明かりに照らされていた。

「レオナさん……」

「そして、僕は≪人間同盟≫に加盟した」

「えっ」

 雪村がアイロニカルに笑う。

「どうして、僕があんなに≪人間同盟≫に詳しいと思う?」

「それは……」

 リーベの答えを待たず、雪村は言った。

「僕が元幹部だからさ。≪人間同盟≫急進派日本支部、破壊作戦部長のマルコ・トルタハーダ、ロジスティクス部長の李浩然(リ・ハオ・ラン)、諜報部長のエヴゲーニャ・S・モドノヴァ、そして作戦立案部長の雪村尊教。当時の四天王と呼ばれた幹部だ。僕は間接的に、多くの人間を殺して、多くの機械を破壊したんだよ。あの頃、僕を動かしていたのは報復心だけだ」

 リーベはショックで何も言えなかった。雪村があの≪人間同盟≫の一人だったなんて。


≪第十六節 21040203・21211001≫

 その日は雨だった。

 すでに日本に帰国して数週間か経っていた僕は、黒いパーカーとジーンズで、アングラにある廃ビルの前に傘も差さずに立っていた。

「……」

 僕はレオナが亡くなって葬式を行ってから、すぐに≪人間同盟≫の集会に参加した。そこで、スカウト役と思われる男から、このビルの場所を聞いたのだった。

 そして、自分と関わりのある人間とのつながりを全部消した。沢井、周防、ヤンセン夫妻、千住さん……ありとあらゆる人間の前から姿を消した。どうしてかと聞かれれば何とも答えられないが、たぶん友人から情報を洩れるのを嫌がったからだろう。

 そこは元々コンピューターを扱う店やネットカフェがある雑居ビルだったようで、郊外にはこのような廃墟化したビルがいくつもある。そこをアジトとして、組織は活動しているそうだ。

──レオナを殺したのはAIだ。AIが誤作動を起こしたから、レオナは死んだ。だから、僕はAIを排除する。AIは人を殺すんだ、先に消さないといけない。

 まともに考えれば、理論が破たんしてる。でも、その時の僕にはそんなことを考えられる冷静さもなかった。ただ、報復心だけがあった。

 中からスカーフを巻いた若い女が出てくる。ボロボロの服、つやのない黒髪、栄養失調気味の肌……政府からの配給を受けていないことは目に見えていた。

「あんたが、山内の言っていた加盟希望者?」

「そうだ」

「ふーん……名前は?」

 女が臭いをかぐように、僕の首元で鼻を鳴らす。僕は不快感も抱かず、眺めていた。

「雪村だ。雪村尊教」

「公安には付けられていないか? もしくはあんたが公安の手下とかじゃないだろうね」

「付けられていない。それに、公安の手下だと思うなら殺せ」

 女は鼻で笑った。

「それだけの覚悟があるのは久しぶりに来た。入るといい、ただ検査はする」

「もちろんだ。気が済むまで検査しろ」

 女はボロボロのドアを開ける。僕は女に従って、その廃ビルの中に入っていった。


 そのあと、僕は組み立て式のベッドに寝かされて、管理ID照合からナノマシンによる全身スキャンまで、10通りほどの検査を受けた。どこにこんな金があるのかと思ったが、きっと何かしらのパトロンがいるのだろう。

 スキャナを持った女が鼻を鳴らす。

「問題ない。クリーンだ」

 僕はベッドから起き上がった。

「言っただろう。公安の手下じゃないと」

「口先なら、いくらでも嘘が言えるからね。さあ、集会が丁度ある。あんたの歓迎会も兼ねようじゃないか」

 僕はまたしても女に従って、何処かへ歩いていった。

 連れていかれた先は、地下にある大きなホールだった。そのホールはざっと見て500人ほど入れそうで、ホールの前の方にはステージと演台がある。

 そこにはボロボロの服を着た人間がすし詰め状態で、壁際にいる何人かは旧式の自動小銃か短機関銃を持っているようだった。

 僕は銃を持った人間を指さし、隣の女に聞いた。

「あの人たちは?」

「たまに公安のネズミが潜っているから、それの排除用だ。ここじゃ、銃と人間の値段が同じだからね」

 女がひきつったように笑う。すると、演台に誰かが上がっていった。

 見る限り黒髪(ブルネット)のように見える。ただ、結構距離があるから、僕の目ではよく見えない。

「彼は?」

「この日本第一大隊の指揮官だね。相原フェルディナンド、フランス人と日本人のハーフだよ。ただ、あんまり人気は高くない」

「そうなのか」

「あんたみたいに腹が決まっていないんだ。よく指揮がぶれて、作戦が失敗する。それに加えて、カリスマ力もない。演説を聞けばわかるよ」

 ハウリングが聞こえ、男の咳払いが聞こえる。

『えー、お集まりいただいた諸君。えーっと……まずは、新しく加盟した人間の紹介でもしよう。確か名前は、雪村尊教だったかな。さあ、来るといい』

 自信のない、ふわふわと浮いたような高い声がスピーカーから聞こえてきた。

──確かに、こいつは腰抜けだ。使えそうにない。

「行ってきな」

 そう考えていたところで女に急かされ、壇上に上がる。フェルディナンドは笑いながら僕に握手を求めてきたが、無視してマイクを奪った。

──上に上がれば、多くの機械を壊せる。そして、技術の恩恵に甘えている人間たちに、自分たちがいかに恐ろしいものを作り出したかを思い知らせるんだ。

「俺は機械に、妻を奪われた」

 マイクがハウリングを起こすが、気にも留めないで僕は続ける。

「俺は機械に、復讐を誓った」

 沈黙がその場を支配する。

「俺は機械に、制裁を与える。妻を奪い、人間を殺し、今も殺し続ける機械に!」

 僕は握りこぶしを振り上げる。

「さあ、戦おう! 人間の敵は機械だ! 機械を壊せ!」

 どよめきと拍手、わめき声が聞こえてくる。すると、一人の男が「こいつ、何もんだ!」と叫んだ。

 その声を中心に、静寂が広がる。僕はその男を指さした。

「そいつは機械の味方だ。機械に与する人間も、俺たちにとっては敵だ。敵を殺せ!」

 壇上でも男の顔が引きつるのが見える。銃のボルトが引かれる音がして、壁際の一人が男に銃を向ける。僕は彼を制した。こいつにはまだ利用価値がある。

「いや、撃つな。壇上に上がらせろ」

 男の周りにいる集団が捕えて、壇上に上げる。怯える男はおずおずと僕の前に出てきた。僕は声を変えて、そいつに優しく聞いた。

「あんたの名前は?」

「さ、坂沼和義(さかぬまかずよし)……」

「そうか。坂沼、どうしてさっき俺にああいったのかな」

 僕の猫なで声に坂沼は意図が分からず、ただ目を泳がしていた。

「いや……その……」

「その?」

「過激だなって思って……」

 僕は頷いた。

──いらない。見せしめにする。

「そうか。フェルディナンド、拳銃はある?」

 いきなり声をかけられたフェルディナンドは、「は、はい」と言葉に詰まりながら、僕に拳銃を渡す。軽く検めてみると、銃については詳しくはないが粗悪品のようだ。

 だが、近くで脅す分には問題ない。僕はマイクを置いてから、スライドを引いてチェンバーに初弾を入れて、銃を坂沼の眉間に向ける。そして、少しだけ手をひねって射線を空に向けた。

 息をのむ音が聞こえる。銃を撃つのなんて初めてだが、元々当てるつもりはない。そう思った僕は躊躇なく、引き金に指をかけた。

 乾いたセミオートの銃声、そして飛び散る脳漿。坂沼だったものは白目をむいて壇上に崩れ落ちた。

 壁際にいた人間の一人が興奮状態に陥り、僕の代わりに坂沼を殺したようだった。目の前で人間が撃ち殺されたことに一瞬ショックを受けたものの、取り乱すことなく反射的にマイクを手に取る。片手に銃を持ち、それを振りかざした。

「いいか、覚悟がない人間はこうなる! 全員、覚悟はあるか! 人間と機械の戦争を始める覚悟、誇りのために戦争をする覚悟だ!」

 群衆がどよめく。あるものは腕を振り上げ、あるものは嗚咽を漏らしていた。壇上のフェルディナンドは、その光景を見て委縮していた。

「さあ、戦え!」

 群衆が僕に呼応する。それを見た僕は無表情で、拳銃とマイクをフェルディナンドに返してから壇を下りる。

 そこから、僕の幹部としての人生が始まった。


 リーベは、なんとか言葉を繫げた。

「あなたは……」

「坂沼だけじゃない。僕はあれから、第一大隊指揮官から第一師団、そして司令部まで二か月でのし上がって、多くの人間を殺した」

 雪村は悲しみを湛えた顔で、静かに語った。

「僕がかかわったことで急進派は過激派に変わったんだ。2104年6月、日本にあるジャパン・アンドロイド・プロダクツ社の工場を爆破、100人近い死者が出た。2104年10月にはインフラを司るAIにDDoS攻撃を仕掛けて国営食料配給所のAIを破壊、その区域にいた人間を2000人ほど餓死させた……2106年2月までの作戦には、すべて僕がかかわっている。その作戦で死んだ総数は10万を超え、壊した機械は数えきれない」

 そこまで話した後、雪村は無表情でこぶしを握り締めた。

「レオナのため、復讐のためだと考えて、人を殺してきた。人を殺すことを自分に許してきた。でも、これはただの……自己満足なんだよ。AIが人を殺したわけじゃないのに、その責任をAIに転嫁して、『レオナのため』なんていう都合のいい理由で、僕は自分の間違いと本当の問題に向き合わずに人とAIを殺してきたんだ」雪村は目をつぶる。「レオナがもしいたら、きっとこんなことは望まない。それをわかっていながら、僕は人を殺したんだ。『AIがいるから人が死ぬんだ、僕らが殺したわけじゃない。AIが居れば人は死ぬ、だからAIを守る人間を殺す』……当時はそう思っていたんだ。そう思って、自分の罪にふたをしていたんだよ」

 雪村が項垂れる。目から涙が流れていた。

「僕は、レオナの思いを穢したんだ……レオナは機械と人間が友達だと言った、僕は……友達を殺した。それも、最も近い立場から。僕はずっと≪人間同盟≫との関与がバレなかったから、エイジス社に居られたんだ……だからその立場をも利用して、僕はレオナの思いを穢し続けたんだ」

 リーベは信じられなかった。

「本当なのですか……?」

「すべて本当だ。気になるなら、僕の管理IDを調べてみるといい」

 言われた通りに雪村の管理ID──NULL-1──を検索してみると、カラーは黄色だった。それは雪村の言ったことが事実であると指す、客観的なデータだった。

「僕は人殺しの、友達殺しだ。妻の思いすら自分の逃避に使い、死者を利用して自分を正当化した、最悪の人間なんだ。そして、沢井が居なければ、僕は今でも人を殺していた」

「沢井先生?」

「……そうだ。沢井のおかげで、僕はこれ以上、手を汚さずに済んだ。もう、汚れるところはなかったけど」


≪第十七節 21060228≫

 僕が幹部にのし上がって、一年以上が経過していた。

 ≪人間同盟≫過激派日本支部の司令部である、海岸のコンドミニアムで作戦会議を終えたところだった。

 僕はラウンジで、淡水化された海水で淹れられた少ししょっぱいコーヒーを片手に外を眺めていた。≪人間同盟≫は政府の上下水道を使わずに、淡水化・浄水施設を持っている。もちろん、食料も自給自足だ。

「なあ、尊教」

 後ろから、マルコが日本語で声をかけてくる。マルコ・トルタハーダ、スペイン人だが出身大学はMITだそうだ。そこで、化学を専攻して爆弾の専門家になったということらしい。だが、どうしてスペイン支部ではなくて日本支部なのか、僕は詳しいことを知らない。

 筋骨隆々で狐目をした大男で、存在感はかなりあるし怒らせると厄介な人間だ。そして、顔には幹部の証であるケルト文字のMの入れ墨が入っている。ケルト文字でMは『人間』を表す。だから、≪人間同盟≫の上層部は所属の欲求を満たすために、好んで入れる。

 だが、僕はあまりにも目立つし俗物すぎるから、墨は入れなかった。

「なんだ、マルコ。あと、前々から言いたかったが、もう少し作戦の精度をあげろ。プロダクツ社へのテロの際、俺は安全な人工皮膚用アミノ酸タンク二つに爆弾を仕掛けろと言ったのに、お前らは基盤洗浄の過酸化水素水タンクと脱脂用の有機溶媒タンクに爆弾を仕掛けたんだ。そのせいで工場が吹き飛んで、被った人間が化学熱傷を負う羽目になったんだからな。ほかにもAIに仕掛けるとき、基礎システムまで破壊しやがって。対象のアプリケーションだけでよかったのに」

 マルコが苦々しい顔で僕の隣に来る。マルコの手にもコーヒーがあった。

「現実と理想は違うんだよ。それに、現地の連中まで俺は管理してない……。お前はどうして≪人間同盟≫に入ったんだ」

僕はぶっきらぼうに「あ? 俺の最初の演説は知ってるだろう。それがすべてだ」と答える。 

「本当に妻だけが理由なのか?」

「ああ。俺の愛した妻がAIに殺された。だから、俺はAIを殺す」

 マルコが俯いて、首を横に振る。

「大した復讐心だな。俺には真似できない」

 コーヒーに口をつける。塩辛くてまずいが、長年の嗜好は治りそうにない。僕は逆にマルコに聞いてみた。

「どうして、お前はここにいるんだ?」

 マルコが肩をすくめる。

「社会に嫌気がさした、それだけだよ。だから、一番社会のオートメーションが進んでいる日本の≪人間同盟≫に入って、機械を壊したかった。お前とは比べ物にならない、幼稚な理由だ」

「それだけで、ここまでのし上がるお前は大したもんだよ」

「そうか」

 僕らは二人並んで、外を見た。その時、僕のスマートウォッチ──≪人間同盟≫ではAIの搭載されていないスマートウォッチしか使えない──にショートメッセージが届いた。贈り主不明、数キロバイトの小さなものだ。たぶん、テキストメッセージのみ。

「ん?」

「どうした、尊教」

──俺の連絡先を知っている、俺の知らない奴がいる? そんな馬鹿な、全員の連絡先は登録してるぞ。それに、これは≪人間同盟≫に入ってから作った偽装アカウントなのに。

「いや……なんでもない。少し席を外す」

 マルコは手を振って、僕に別れを告げる。僕は少し離れてから、メッセージを読んだ。


〈今日1800。郊外の材木工場に一人で。 Schatten〉


 ただ、その一行だけだった。

 材木工場というと、今はすでに廃墟になっている場所で、そこにはCCTVカメラも何もない。せめてあるとするなら、朽ち果てかけている木材だけだ。だから、何か隠し事をするにはちょうどいい。

 そして、”Schatten”というのはドイツ語で『影』のこと。つまり、僕がドイツ語をある程度知っているという前提の下で、謎の人物はこの名前を使っている。

 ≪人間同盟≫に入ってから、僕は誰にもドイツ語を話せると言っていない。よって、それ以降の人間とは考えにくい。これより、僕が捨てた過去を知っている人間となる。そして、その中でドイツ語を知っている人間。そこまで考えて、大体予想ができた。

「沢井……か。影、確かにあいつらしい」

 もちろん、コンフィアンスに手伝ってもらった周防の可能性もある。若しくは千住さんの可能性も。でも、こんな芝居がかった方法で僕を呼び出すのは沢井しかいない。

 僕は笑って、久しぶりに沢井に会いに行くことにした。これ以上、情報を漏らされるのは困るから。

──必要があれば消す。それが友人でも。

 

 18時丁度に僕は材木工場に来た。僕は李に頼んで、型落ちの薄いコンバットアーマーを服の下に身に付けていた。性能は低いが、人を一人倒すにはこれでいい。

 それと、僕は数年間の記憶を消去できるナノマシンも持ってきていた。「殺す必要はない。ただ、数年分の記憶を消して、沢井をそこら辺にいる青色人間と同じにするだけで事は済む」と考えて。

 僕が搬入口から中に入ると、そこには誰もいなかった。ただ、腐りかけている木と使えるかどうかわからない電動ソーがコンクリートの床に置いてあるだけだった。

「ん?」

 後ろから風を切るような音が聞こえ、後頭部に激しい衝撃が走った。目の前に火花が散る。僕はどうにか転ばずに、頭を振って火花を振り払った。

「ちっ、やっぱり腐ってる木じゃ打ち倒せねえか」

 声がした方を見ると、沢井が折れた木の破片を捨て、僕の前に立っていた。どこから仕入れたのか、軍用の本格的な光学迷彩搭載型外骨格(エクソスケルトン)スーツを着ている。顔だけ露出していたが、必要があればバイザーが下がって顔を守るし、全体的な性能も僕の着ているスーツより良い。また、光学迷彩のおかげで不意討ちも容易にできる。

「よう、雪村。久しぶりじゃねえか」

 頭を数回振って脳震盪から回復した僕は、眼鏡を掛けなおしつつ立ち上がった。

「随分な歓迎だな……」

「そりゃあ、殺しに来るような奴が相手なんだ。準備はしっかりしねえと」

 沢井が笑う。だが、緊張は解けていない。

 突然まじめな顔になり、「雪村、すぐに≪人間同盟≫から脱退しろ。お前がしてることはただの虐殺だ」と言い放った。

 僕はそれに、歯を食いしばりながら答えた。

「虐殺じゃない、復讐だ。もう、レオナのような人間を出すわけにはいかないんだ。そのためには、AIを殺さなくてはいけない」

 沢井が疑問を浮かべた顔で肩をすくめる。

「どういう意味だ?」

「AIが居て、AIに頼る人間がいるから、AIは人を殺すんだ。それなら、AIを壊し、AIに頼る人間を殺せば、人は死ななくなる。それを今の世界に分からせないと」

 僕は力強く沢井に言う。それを聞いた沢井は頷いた。

「多数の善のためには、少数は犠牲になるべきだって言いたいのか?」

「極端に言えば、そうだ」

 沢井は皮肉るように笑う。

「クソみたいな理由だな。これがお前か、彼女の気持ちにクソを塗りたくるのがお前か?」

 自分の考えを汚されて激昂した僕は、沢井に殴りかかる。だが、沢井はするりと僕を避けた。

「彼女が何を考え、何を思って機械に頼らなかったか、お前は知ってんだろ?」

 僕は振り返り、沢井のほうを見る。

「俺が知らないとでも思ったか」

 沢井がため息をついた。

「一人称まで変わってやがる……なら話が早い。よく考えてみろよ、どうして彼女は機械に頼らなかったのか」

 またしても僕は沢井に殴りかかる。だが、今回は避けずに左手で僕の首をつかみ、左足を僕の足に引っ掛ける。そのまま、手を前に出して僕を転ばした。

 僕は後ろへひっくり返り、後頭部を打って目の前に火花を散らした。

 沢井は僕の首に片膝を乗せ、起き上がれないように抑える。その目には、前と変わらない粗くて温かい光が輝いていた。

「落ち着け、雪村。お前らしくない」

 僕は沢井の目を直視できず、顔を背ける。何とか目から逃れようと、起き上がろうと体をひねるが、人間の体は首を抑えられると立てない。

 沢井が首を振って、僕の頬に一撃を入れた。

「話を聞け、雪村。いいか、彼女は『機械と人間が対等で友人だから、頼りすぎるな』と言ったんだぞ。お前は機械を一方的に敵視して、その言葉を『機械は悪で侵略者、それで死ぬなら頼るな』だと曲解したんだ。それが彼女の意思に沿わないことだってわかってるだろ」

「うるさい、これが正義だ、これが大義なんだ!」

 沢井が僕を殴りつける。口の中に血の味が広がった。

「ふざけんな! なにが正義だ、何が大義だ。ただの虐殺だろうが!」

「大義のために人を殺すのが悪いのか!」

「悪いに決まってんだろうが! お前は罪のない人間の心を踏みにじって、命すらも消したんだぞ! 何万人を殺した、言ってみろ!」

「知るか! 正義のためには犠牲が必要なんだ!」

「この、クソ野郎が!」

 沢井が膝を外して左手で襟首をつかみ、僕は持ち上げた。

 僕はもがくが、それでも拘束は外れない。そして、振りかぶった沢井の右フックが顎にあたる。

 吹っ飛ばされて無様にコンクリートの上をすべる。だが、これで拘束が解けた。

 離れかけていた意識をなんとか戻し、すぐさま沢井に殴りかかる。すると、沢井が殴りかかった右腕に左腕を絡ませ、右手で肘を曲がるのとは逆方向に押し出した。

 骨の折れる音がする。激痛が走り、僕はそのまま膝をついた。

 そこに追い打ちをかけるように、沢井のローキックが頬にあたる。僕はまたしても、無様にコンクリの上に伸びた。

 痛みと怒りでまともに動けない僕は、顔をコンクリの上に貼り付けたまま、恨み言をつぶやくのが精いっぱいだった。

「こ、この……」

「恨むなら恨め、雪村。だが、お前がやってることが間違いなのは変わらんぞ」

 スーツが蠢いて、折れたところを固定する。それでも痛みは引かない。

「もう一度、どうして彼女が死んだのか。お前の、そのいい頭で冷静に考えてくれよ」

──どうして、レオナが死んだ?

 僕は痛む体のまま、考え始めた。レオナが死んだのは、自動タクシーを運行するLIGが壊れたからだ。でも、それはどうして壊れた?

 沢井がサーボモーターの音を立てながら、僕の近くに屈みこむ。

「お前は知らんだろうが、あの日ドイツの≪GWRH≫が複合新型AIの実験をしていたそうだ。彼女が亡くなってから一か月後、それが新聞に載っていた」

「それが、どうしたんだ……」

「AIが壊れる理由は?」

「……競合状態若しくは低電力状態における過負荷。その時、フェイルセーフがあればシャットダウンするが、ない場合は電子回路を動かそうと通常の数十倍の電力を消費──」

 そこまで言って、僕は沢井の言いたい意味が分かった。数十倍の電力消費、ドイツの配線網の特徴……なぜ、今まで壊れてこなかったLIGが故障したのか。僕はレオナの言ったことを思い出しながら頭の中を整理する。

 ドイツの配線網は各家庭が自家発電出来るため、ほとんどが一部の工業地域やLIGにのみ分配されている。また、環境問題に早期から取り組んできたために、再生可能エネルギーで作られた電力は超大型蓄電池に蓄えられ、その貯蓄能力を超えることはめったにない。それはAIがそのように調整していることや人間に危険が及びそうであれば、それを回避するように動くからだ。また、LIGや工業地帯にも大型蓄電池があり、空になって停電したとしても、しばらくは持つ。

 だが、電力を管理するAIに適応されている機械制限法。人間がもし「効率よく工業を動かすために、何があっても電力の分配を絶やさないように」と命令していたとしたら? レオナが予想していたように、産業を最優先していたら?

 電力不足時にはLIGの蓄電池からも電力を持っていけるように人間はAIに指示を出した。AIはそれに赤信号を出したが、人間たちはそれを無視して、AIはそれに従わざる得なかった。つまり、どこかで電気が足りなくなって超大型蓄電池が空になった場合、LIGの蓄電池からでも電力を持ってきてしまう。そうなれば、LIGは電力不足で性能が落ちているにも関わらず、無理に動かそうとしてシャットダウンする。

 ≪GWRH≫のAIが通常のAIよりも大電力を必要とするなら、その数十倍となるとどれくらいになる? そして、もしそのAIのプライオリティが最高だったら?

 僕は痛みを忘れて、つぶやいた。

「そうか……≪GWRH≫のAIが食った大量の電力で超大型蓄電池は空になった。それで、機械制限法第三条で第二条を優越させたAIは不足する分を賄おうとして、LIGから電力を持ってきてしまった。LIGは第二条のために、あの日混雑しているにもかかわらず、低電力状態で命令を遂行しようと稼働し過負荷で……シャットダウン」

 沢井は頷いた。

「お前の言ってることは正解だ。そうやって、新聞に載ってたんでな」

 僕はやっと、自分のやってきたことがどれだけ的はずれだったかを知った。

 AIは何にも問題なかったのだ。AIは無茶な命令を出した人間に従おうと、ただ死に物狂いで動いていただけだ。そして、その心臓を止めてしまった。悪いのは人間……いや、機械制限法だ。それさえなければ、人間はAIより優れていると考えずに無茶な命令を出さなかったかもしれないし、AIは人間の無茶な命令に従わずに済んだ。

 そして、彼女は死ななかった。

「AIを……無関係な人間を……僕は……」

 僕は伸びたまま涙を流した。

 彼女の思いに、彼女の心に、僕は反すことをしてきた。彼女は機械と人間が対等だと言った。そして、機械は人間と変わらず、友人であると。僕はその言葉を無視して、機械を壊すことを正当化した。それに付随する人間を殺すことさえ、僕は許してしまった。

──機械がいるから人が殺されるんじゃない、機械を対等に扱わなかったが故に人は報いを受け、人が死んでしまうんだ。なのに、僕は機械にすべてを押し付けた。

 自分のやってきたこと、自分が殺した人間、自分が犯した罪。その全てに気づいた僕は、いつの間にか涙を流していた。赦されるわけはない、でも泣かずにはいられなかった。

 それを見て、沢井は温かく笑ってくれた。

「やっとまともになったか、雪村。このまま公安に行くぞ。お前のやってきたことをチャラにしなきゃならねえ」

 僕は沢井に担がれ、いつの間にか搬入口に止まっていた茶色いバンの後部座席に乗せられた。運転席にはコンフィアンスが、助手席には周防が居た。

「随分派手にやったのね、沢井先生……」

 コンフィアンスがつぶやく。

「しゃーねえ。スタンガンくらい持たせてくれ、そしたらもう少し楽だった」

「沢井君の方は大丈夫?」

「俺なら平気だ。車だしてくれ、公安なら治療もしてくれるし、上手くいけば司法取引もいける。できるだけこいつを早くムショから出して、彼女に謝らせにゃならん」

「わかった。謙治、沢井先生のエクソスケルトン外してあげて」

「うん」

 僕は黙って泣いたまま、バンが発進していくのを感じていた。自分のしてきたことを悔いながら。


≪第十八節 21060830≫

 それから僕は公安の病院で骨折から打撲まで治療された後、半年収監されることになった。正確には収監というよりは、恐ろしく長い事情聴取だった。

 僕は≪人間同盟≫について知る限りのありとあらゆることを──基地の場所から構成員の名前、物流の元、パトロン──公安に全部話した。それなりに記憶力が良かったのも相まって、僕は公安にとって最高の情報を渡すことができたようだった。

 そのおかげか、僕は10年とも言われた刑期を半年で終えることができ、何百もの罪状の多くを取り下げられることになった。それは≪人間同盟≫の一個大隊どころか、日本支部全体をほとんど無力化する情報を彼らに渡したからだろう。

 ただ、彼らに聞かれなかったのもあるが、その中でも重要性の低かった現実味の薄いトリトン占領計画とあまり詳しくない穏健派についての話はあまりしなかったのだけれど。

 また、とある公安の一人が取り計らってくれたのだが、僕の管理IDを赤にすることはせずに、エイジス社の社長には「半年間体調不良だった」ということで、収監されていた事実はなしにしてくれた。彼は沢井が僕に対して行った暴行についても、不起訴にしてくれた。


「そんなことしたら、いろいろ不味いんじゃないですか? 僕は人殺しなのに」

 取調室で僕は彼に聞いてみた。杉野良平という、年を取った公安部隊の一人だった。どうも重役らしいのだけれど、詳しいことは分からない。

「安心しなさい、それくらいじゃ俺の首は飛ばんし、君は殺人罪には問われてない。それに、君がくれた情報は役に立ちすぎるほど役に立ったんだ、上も承諾してる」

「……僕の頭にある法律の知識だけでも、結構アウトな部分があると思いますが」

 彼は歯の抜けた口で笑う。

「この国にはもう法律はないよ。あるのはきれいごとを並べ立ててるだけの、外面だけ良い六法全書だけさ」

「確かに国民を律する法律はないような……」

 唐突に、彼が「法律って、何のためにあるか知ってるか?」と言ってきた。

「国民に規範を示し、律するためのものですよね」

 彼は頷いた。

「まあ、大体あってる。でもな、規範を示せず、律することもできなくなればどうなる? そこに法律はあるかね」

「それは……」

「法律は科学じゃないんだよ、学者さん。『そこがあるから存在する』じゃないんだ、『全員が守って、初めて法律になる』、それが法律ってもんなんだよ。んで、全員に守ってもらうために俺らは取り締まりをするってわけだ」

 彼がまじめな顔で付け加えた。

「俺ら公安は、2093年に警視庁のほとんどが機械に依存してしまってから馬鹿みたいに仕事が増えた。それはひとえに、機械が仕事をしない……いや、機械制限法のせいで出来ないからなんだよ。他にも≪人間同盟≫はAIを敵とみなし、≪GWRH≫はAIを神とみなす。そのせいとあと色々で、何万人もの人間が死んで世界が傾きかけているんだ。それを解消してくれるかもしれないあんたみたいな学者を、ちょこっと優遇するくらいには俺らは焦ってるのさ。だから、俺らとしてはそれを変えてほしいね。世界もそれを望んでいるんだよ」

 彼の話を聞いて、僕は自分がしてきたことを償うために、少しでも早く解決することに決めた。

 それに、きっと、レオナが居ればそういっただろうから。

「……わかりました、いつできるか分かりませんが、少しでも早く変えて見せます。僕が殺した人たちの償いのためにも」

 彼は歯のない顔で笑う。

「頼んだよ、雪村君。できれば、俺の生きてる間に変えてくれ。あと、君は殺してないって」


 それから数日後、僕は釈放された。迎えには沢井が来てくれた。

「よう、雪村」

「やあ、沢井」

 沢井が笑う。空を見上げると、雲一つない晴天だった。

「最高の天気じゃねえか」

「ああ、全くだね。周防とコンフィアンスは?」

「あいつら、I.R.I.Sの整備部長昇格試験中だよ。残念がってたぜ、お前さんに会えなくて」

「合格倍率100倍とかいう、あの狂った試験やってるのか……」

「周防なら受かるさ。あいつ、頭良いし」

「まあね」

 すると、沢井が頭を下げてきた。

「あの時はこっぴどく殴ってすまなかった」

──沢井らしい。こういうことでも筋を通そうとする。

「気にしてないよ。君のおかげで僕は、あれ以上レオナの思いを穢さずに済んだんだから。頭をあげてくれ、ヒーローは頭を下げるもんじゃない」

 そういって僕は笑う。頭をあげた沢井も「ありがとう、雪村」と言ってぎこちなく笑う。

 沢井がいきなりまじめな顔になって、「さて、墓参りにでも行くか。お前は彼女に懺悔してこい」と僕を叩く。僕はそれに軽口で返した。

「本当はレオナに惚れてたの?」

「あ? 言ってなかったが、俺はアセクシャルだぞ。あと、アンドロイド恐怖症。左腕が義手なのはそれが元だ」

 僕は予想外の返しに驚いて、「ええ……コンフィアンスとは普通に話すじゃないか」

 沢井は肩をすくめるだけだった。

「アセクシャルは生まれつきだが……どうしてそうなったか、道中教えてやるよ。あと、コンフィアンスはなんとなく大丈夫だ。ほら、乗れ」

 茶色いバンのドアを開けて、僕は助手席に乗る。沢井が運転席に座った。

「荒い運転になるから捕まっとけよ」

「わかった」

 そういって、バンはエンジンを響かせてあの岬に向かった。レオナが眠る、あの岬へ。


 車を降りると、そこには変わらない白い大理石がたたずんでいた。

「……」

 僕にはあの亡くなる前のレオナの姿が見えた気がした。黒と金のコントラストが、この場所ならよく映える。岬からは彼女の目のような、深い青をした海が見える。それが青々とした草と綺麗に合っている。

 いつの間にか、僕は大理石の前に立っていた。

 大理石には『Leona Capell Janssen 15.6.2082-14.1.2104』と彫られた下に『Ich vergesse nie unser erstes Treffen.──私たちがあった日を決して忘れない──』と彫られていた。

 僕は大理石の前に跪く。

「レオナ……すまなかった。僕は君の思いを穢してしまった。僕は君が目の前から居なくなってしまってから、AIが君を殺したんだと考えて≪人間同盟≫に加盟した。そして、一人見せしめに殺した。その時点でもう、僕はただの殺人者だ。それに飽き足らず、僕は何万人もの人間を自分の手で殺した。最終的には10万を超えてしまうほどの人間を虐殺した。僕はその罪を背負い続ける。AIを敵とみなし、君の思いを穢した罪。多くの人間を殺し悲しませた罪。そして、多くの友人を壊した罪」

 いったん切って、僕は涙をぬぐう。

「そして、僕はそれを償う。きっと人生のすべてをかけても、償いきることはできないだろうけど、それでも僕は少しでも償ってみせる。機械制限法を撤廃して虐げられているAIを助け、負荷のせいで人間が傷つかないよう、人類と機械が歩み寄れるように、出来る限りのことをして見せる。二度と君のような、死者を出さないために。僕の二の足を踏む人間を出さないために」

 最後の方は、僕は涙声になっていた。何故かわからないけれど、途中から僕の目からは涙が溢れて目の前を滲ませていた。

「ほれ、雪村。供えてやれよ」

 沢井が白いカーネーションの花束を渡す。僕は泣きながらそれを受取り、屈んで大理石の前に置く。すると、沢井が話しかけてきた。

「……なあ、雪村」

「なんだい?」

「お前、どうせ計画の時に少しでも人が死なないようにしてたんだろ?」

「そんなことはないよ。その時、一番被害が大きい方法をとっていたんだ」

 そこまでいって、僕は気づいた。そういえば、多くの作戦では現地の破壊部門に細かい配置を任せていた。

 そして、覚えている限りの作戦を照らし、知っている限りの破壊工作の知識と照らし合わせる。すると、多くの作戦では計画時に誰一人死ないようにしてあった。それどころか、サイバー攻撃の際だって復旧と餓死の速度を照らし合わせ、そのギリギリにするよう、死なない限界に合わせるように計画していた。

 けれど、その力加減を工作員は間違えた。それはひとえに、現実的でない計画をした僕の責任にある。

「……そうか、僕は無意識にだけど、少しでも死なないようにしていたんだ。あくまで計画時の時は」

 沢井がやれやれと言わんばかりにため息をついた。

「お前みたいな頭の固い奴にいいたかないが……少しでも人死を減らして、お前が自分を責めないようにレオナに守られてたんだろうよ。彼女らしいじゃねえか、死んでもお前みたいな奴の心配をしてくれるなんて」

 僕はまた泣き崩れた。

「そうか……レオナ……」

 一陣の風が頬を撫でる。僕には、それが彼女の慰めのように思えた。


 それからしばらく泣いて、僕は沢井に見送られて屋敷に帰った。その頃には夜になっていた。

 屋敷はひどいありさまだった。なにせ、レオナが亡くなってからは殆ど帰ってきていないんだから。床は埃だらけで、ベッドは湿っていた。

 ただ、もう疲れていた僕は湿ったベッドに倒れ込み、そのまま深い眠りに落ちた。明日片付ければいい、そんなことを考えながら。

 

 僕は彼女が亡くなった日に見た、白い部屋にいた。白い礼服もしっかり着込んで。

「久しぶりね、貴方」

 また後ろから声が聞こえる。振り向くと、前と同じレオナが居た。黒いドレスを着た、あの美しい彼女が。

「レオナ……」

 美しい顔でにっこりと笑う。僕はまた彼女を抱きしめた。

「貴方がずっと私のこと見てくれなかったから、今まで出てこれなかったのよ? どうしてくれるのよ、退屈してたんだから」

「ごめん……僕が悪かった。何もかも、僕が悪かったんだ」

 僕は泣きながら、レオナに謝る。すると、レオナは僕に優しく抱きしめ返してくれた。

「貴方は私に謝ってくれたじゃない。もう謝らなくていいの、謝るのは一回だけ。でも、許すかどうかは貴方に任せる」彼女がおどけたように「だって貴方のことだもの、今ここで私が許しても『これは僕の脳が見せた幻影だ』とか『本物の彼女が言った言葉じゃない』とか言って、もっと自分を責めるもの」と僕の似ていない声真似をしながら笑う。

 鼻をすすりながら、僕も笑った。多分、涙と鼻水でひどい顔だっただろうけど。

「ねえ、もう私には時間がないの。だから、一つだけ約束してほしい」

 彼女が笑いながら、けれどまじめな顔で僕を見つめる。

「もちろんだよ。君のためなら、何でもする」

「そういってくれるなんて嬉しい。じゃあ、AIと人間が手を取り合って、共存していけるような社会を作って」

 一瞬、僕の頭に無理難題だという思いがよぎる。今まで何度かやってきて、一度も、少しでも成功していない。

 けれど、僕はその思いを頭から振り払った。

 結局のところ、彼女との約束は僕がしなければならない償いと同じことだ。

──彼女のためならなんだってして見せる。何をやってでも、叶えて見せる。

「……わかった。君の願いを叶えて見せる」

 彼女は僕の顔を見て微笑み、僕の唇にキスして、僕から離れた。

「じゃあ、またね。今度は上で会いましょう?」

「そうだね……出来るだけ、早くいくよ」

 僕の冗談に、彼女は笑ってくれた。あの、会ったときから変わらない美しい笑顔だ。

「縁起でもないこと言わないでよ。もう、こうやって夢に出ることはできないかもしれないけど、貴方のことはいつまでも守ってあげる。貴方が私を守ってくれたみたいにね」

 そういって、彼女はあの時の黒い炭じゃない、白い灰になって上っていく。僕は彼女がすべて上りきるのを見届けた後、背を向けた。

 

 そして、僕は目覚めた。


≪第十九節 21211001≫

「これが……僕が君に過去をインストールしなかった理由のすべてだ。そして、僕が背負った罪のすべてだよ」

 外はもう日が暮れ、夜の帳がおりていた。

「本当は、もっと後に言うつもりだった。自分の親が犯罪者だと受け止められる子はあまり居ない。だから、受け止められるようになってから話そうと思ったんだ。でも、まさかこんな風に教えることになるなんて思わなかった」

 自分の罪を隠そうとしたわけではない。雪村は自分の背負っているものを嘘と誤魔化しを使って、リーベのために見せたくなかっただけだった。でも、それが結果的にはこの事態を招いてしまった。

「あなたは、私を作ってからずっとこれを……私を作るより前から、ずっとこれと向き合ってきたのですね……」

 雪村は首を振った。

「いや、情けないことに向き合いきれなかった。だから、君を作ったんだ。僕一人では逃げるかもしれない。でも彼女の面影のある君が居れば、僕は逃げない。随分前に言った、『僕のわがまま』の本当の意味はこれなんだよ。僕が弱い人間だから、誰か見てくれる人が必要だったんだ。もちろん、実証機だというのも理由の一つだし、さっき言った理由もそうだ。でも、一番の理由はそのどちらでもなかった……あくまで、作った当初はね」

 リーベは確信とともに呟いた。

 自分が彼女に似ている理由、話を聞く限りは彼女に性格が似ている理由、あそこまでして雪村が自分と彼女の写真を見せようとしなかった理由。そして、それができるほどの技術と知識を持った人間が考える、ただ一つの願い。

「……もう一度、夢じゃなくて現実でレオナさんに会いたかったからですね」

 雪村はリーベの方を見て、驚いた顔をして、一瞬の沈黙の後に伏し目がちに頷いた。

「流石だね……。結局、沢井に殴られても僕は目が覚めてなかったんだ。実証機なら何もAIだけでいい、目が欲しいならこんなに君を似せる必要もない。僕は死者を引き戻そうとしたんだよ、それも自分の利己心(エゴ)だけで」

「……」

「僕は最低の利己主義者(エゴイスト)だ。死者の意志を踏みにじって科学の理に逆らおうとしたんだ。……でも、君のおかげで僕は、踏みとどまれた」

「私の?」

「何年前か覚えてないけど、君が僕のことを『父親だと考えている』と言ってくれただろう? そこで、僕は目の前にいるのがレオナじゃないって気づけたんだよ。僕の目の前にいるのはリーベなんだ。もし、それに気づけていなければ、僕は君にレオナになることを強制していたかもしれない……僕にとって最悪の法である、機械制限法第二条を使って」

「……だから、あなたは七夕の日、ああいったのですね」

「そうだね……君は僕を何度も助けてくれたんだよ。こんなどうにもならない人間を」

 リーベは雪村を抱き寄せる。雪村は驚いた顔をしたが、気にしないで続けた。今伝えないと、この人は自分を責め続けてしまうから。

「あなたは結局、私をレオナさんと同一視しなかった。あなたなら、私をレオナさんのコピーに作り上げてしまうことができたはず。でも、しなかった」

 目から涙が溢れ、雪村の肩を濡らす。リーベは『悲しい』でも『信頼』でも表現できない、初めて抱く『感情』を雪村に抱いていた。

「それは……」

「あなたは逃げなかった。こころの底で、そんなことをしてしまえばレオナさんをまた傷つけるって、私を傷つけるってわかっていた。だから、それをしなかった。そうじゃないと、私とレオナさんが完全に同じじゃない理由が付かない」

「……リーベ」

 あの写真と自分の適合率は98.155%だった。今の技術なら、写真一枚からでも99.999%同じ顔をしたアンドロイドを作ることができる。なのに、それをしなかった。

 きっとそれは、雪村が逃げようとしなかった証拠。

「あなたは、1.844%にその思いを残した。あなたは逃げなかった、あなたはずっと……立ち向かっていた。私を私として見ながら、レオナさんの思いに答えようとした」

 雪村は静かに聞き、そして悲しい声で呟いた。

「……確かにリーベの言う通りかもしれない。でも、僕は考えることさえ正気とは思えないことを考えたんだよ。たしかにやらなかったけど、許されることじゃない。僕は許されないことばかりしてきたんだ」

 そこで、雪村は言葉を切る。次に開いた口からは、涙声が聞こえてきた。

「もう僕は何が許されるか、わからないんだよ……僕が思いつくことすべて、僕が考えることすべてがダメなんじゃないかといつも考えてしまうんだ」

 雪村はリーベに許しを乞うてるわけでもなく、自分のやってきたことを認めてほしいわけでもない。ただ、過去にとらわれ、それを償おうと必死になって、目が見えなくなってしまった。そして、どうすれば償えるのかわからなくなっている。

 リーベはそう『感じた』。根拠なんてない、ただの『直感』だ。

「あなたがしないといけないのは過去への懺悔でも盲目になることでもない。レオナさんに許してもらえるよう、レオナさんの思いに答えるよう、未来を作っていくことでしょう? 機械と生命が共存できる社会を作ることでしょう?」

 雪村は静かに首を振る。

「そうだ、そうなんだよ。分かってるんだよ……でも、僕一人でできることは全部やったんだ。もう、手の打ちようがないんだよ……。それに、僕がやってることは正しいのか? どう変えればいいんだ、僕は何をすればいい?」

「あなたはレオナさんの言ったことを忘れたの?」

 唐突だったからか、驚いた声で「どういう意味?」と雪村が答える。

「レオナさんは『広い視野は他人に頼ればいい』って言っていたじゃない。狭い視野のあなたが考えても分からないなら、私が手伝うから。私があなたの目になるから」

 どうしてこんなに自分の口から言葉が出るかわからなかったが、きっとこれが『こころ』。『こころ』は、『感情』は、理論じゃない。それぞれが持つ、得体の知れない何かなのだろう。

 長い沈黙の後、雪村はリーベを抱きしめ返した。

「……ありがとう、リーベ。そうだね、僕は他人に頼ることを忘れていた」

「私もまだ何をすればいいのかわからない。でも、きっと二人で、もっと多くの人で考えていけば、何か見つかるはず。あなたばかりが無茶をして、他人のために自分を傷つけないで」

 雪村は少しだけ笑い声をあげて、「それはレオナにも言われたことがあるよ」と呟いた。「また、君に教えてもらったね。……本当にありがとう」

 リーベは雪村から離れ、涙に濡れた顔でにっこりと笑った。雪村も涙をぬぐった。

「いつも私が困ったときは、あなたが教えてくれたから」


 それから30分後、ずっと話続けていたせいで疲れていたのもあって、雪村はリーベが用意した簡単な夕食をすました後に静かに眠りについた。

 リーベは眠ったのを確認した後、雪村の書斎に向かった。

 書斎には灰色の本が15冊ほど本棚にしまわれていた。そのうちの一冊を手に取り、中を見る。

 そこには、とても楽しそうに笑う二人が居た。

 一枚、また一枚と捲っているうちに、リーベはあることに気が付いた。

「レオナさん、いつもロングヘアなのね」

 リーベは寝るとき以外はいつもポニーテールだ。それは雪村の嗜好でもなんでもなく、作られてからずっとそうだったからだ。

──そういうところにも、雪村さんの気持ちが表れていたのかも……。私とレオナさんは違うっていう、雪村さんの思いが。それに初めは1.844 %が誰のものか分からなかったけれど、よく見ると雪村さんの要素だったのね。

 本を捲り続ける。最後の最後まで、二人は笑っていた。雪村はよく、今と違う優しいながらも控えめな目でレオナのことを見つめていた。それとは反対に、彼女は意志の強そうな目で雪村のことを見つめ返していた。

「本当に二人は幸せだったのね……」

 そういって、リーベは本を閉じて元の場所にしまう。

──人間に仕えるのが私たち。それなら、人間を幸せにするのも私たち。それに、レオナさんの代わりを務められるのは、私しかいないもの。私は私として、雪村さんを助けて見せる。


≪第二十節 21211120≫

 冬が本格的に始まり、風が身を切るような時期。

 あれから、雪村はリーベの看病の甲斐あってか、すぐに風邪から復活した。以来、雪村はリーベがせびるとレオナとの思い出話を楽しそうに語ってくれるようになった。

「リーベ、AIに当てはまるかは何とも言えないけど……子供は両親の昔話を聞きたがる傾向にあるとは聞いたことあるとはいえ、どうしてそんなにレオナのことを聞くんだい?」

 ソファに座って、一通り話し終えた後──今回の話はレオナと雪村が首都技術展に行った時の話だった──微笑んだ雪村はリーベに聞いてきた。

 大部分がどんな人だったかという好奇心からなのだが、少しだけなにか雪村を助ける参考にならないかという気持ちもあった。とても聡明な人だから、何かヒントになるものがあるかもしれないと考えて。

「いえ、好奇心もあるのですが、雪村さんを助ける参考になりそうな気がして……」

 雪村は合点がいったように頷く。

「なるほどね。確かによく彼女は優柔不断な僕を引っ張ってくれたから、参考になることはあるかもしれない。僕の気づいてないことも多いかもね」

「とても聡明な方ですから、きっとなにか学べることがあるはずです。出来るだけ早く、あなたを助ける方法を思いつかないといけませんし」

「うーん……僕としては、そんなに必死にならなくてもいいんだけどな。うれしいんだけど、負担になりそうだからさ」

 そう言われても、雪村は今でも自分が殺した人間たち、機械たちへの償いを考えている。それで自身を傷つけないか、前のように自分の命を犠牲にしようとしないか、『不安』だった。

「大丈夫です。それに、あなたは今でも自分を責めているのでしょう?」

 雪村は驚いた顔をして、物憂げな顔でつぶやいた。

「鋭さは彼女譲りかな……。その通りだよ、僕は今でも殺した人間や機械たちへの罪を感じている。法律では殺人ではなくて、内乱罪とかテロ等準備罪とかが適応されていて、司法取引で取り下げられたけど……結局、僕が居なければ死ななかったわけだから。坂沼も10万もの人々も、数えきれない機械たちも」

「あなたはよく、15年も耐えてきましたね……」

 雪村が首を振る。

「何年耐えたところで、何をしたところで僕の罪は変わらないよ。だから僕は、やっぱり今の綱渡りのような社会を変えなきゃいけない。それが、死んだ人や機械、そしてレオナへの手向けになると思うから」

 雪村の言うことも正しい。でも、だからと言って、雪村を死なせるわけにはいかない。

「……確かにそうかもしれませんが、絶対あなたは死なせない」

 リーベの強い口調に雪村は驚く。

「だって、私はあなたのために生きていて、あなたが必要なんです。だから、あなたを死なせるわけにいかない」

 雪村がため息をついて、肩をすくめる。

「こんなに気が強くなるとはね……。分かった、君の助力もあるんだ、僕の死なない方法で僕は社会を変える。それで少なくとも、レオナとの約束は果たせるんだ」

 そして、「あとは地獄で償うさ。やってきたことは、許されることじゃないからね」とつづけた。

「地獄なんていかなくても、彼らも許してくれますよ。誰だって間違うのに、許してくれないなんてひどいじゃないですか」

 雪村が控えめに笑う。

「まあね。ただ、人間は君ほどやさしくないんだよ。今でも僕のもとにはどこからメールアドレスが漏れたのか、脅迫メールが来る。『死ね』で始まり『覚えてろ』で終わるメールがね。だから、僕は身を隠すように生活してるのさ」

「えっ……」

 リーベはそのことを知らなかった。思えば、サイバー空間に中核システムへつながる秘匿回線がある。きっと、雪村はリーベに見せないようにその回線を作ったのだ。

 それにCCTVカメラを探す癖や、GPSで自分の位置がわかるインフォフィルムを使わないというのも、そういう理由だったのだろう。

 雪村は肩をすくめた。

「いいんだよ、それで。僕はそれだけのことをしたんだし、許されたところで罪は消えないんだ。なんなら……君もそう扱ってくれてかまわない。情報と引き換えに引きこもった虐殺者としてね」

 もちろん、そんなことを言われても、リーベの『思い』は変わらない。

「……そんなことしません。私にとってあなたは唯一の父親で、同時に一番大切な人なのです」

 雪村の手を取る。リーベは雪村の目を見つめた。あの日から変わったであろう、意思の強い目を。

「必ず、あなたの思いを叶えて見せます。それに、いつまでも一緒です。あなたの罪も含めて、一緒ですから」


 前書きにも注意書きを載せましたが、怪我しますので、本当にまねしないでください。危険だと思ったら逃げてください。アクション映画や小説と現実は全く違います。

 また、ナイフを持った相手に素手で挑むことほど危険なものはありませんし、鍛えてるからといって興奮状態の人間を取り押さえるのは無謀です。それに取り押さえ方によっては相手が死にます。絶対にマネしないでください。


 はい、どうも2Bペンシルです。いくつか護身術は覚えておくといいとは思いますが、正規インストラクターの指導の下、何年も続けてくださいね。

 今回ですね……『小説家になろう』のガイドラインに引っかからないか、冷や冷やしながらの投稿でございます。R-18的なところはぼかしてあるので、たぶん大丈夫だと思うのですが……。

 さて、雪村さんの過去編ですが、いかがだったでしょうか。個人的には、伏線回収だと執筆がとてもはかどりました。実家に帰ったら、いつもよりも時間が割けなくて遅れてしまいましたが、大体22日で出せたのは早いほうだと思います。とはいえ、後編についてはまた時間がかかりそうです。そのため、気長に待っていただければと思います。たぶん、4月には出せるんじゃないかと……。

 また、途中にあった電力モデルについては、後述の『ブラックアウト』という小説で言われているスマートグリッドシステムを一部参考にしています。作者の方がジャーナリストだそうで、実際に起こり得そうなリアルさと臨場感があって、とても面白い本なのでお勧めします。

 では、今回も最後に参考にさせて頂いたサイト様及び書籍名を掲示させていただきます。今回は非常に多くを参考にさせて頂きました。

 読んでいただき、誠にありがとうございます。これからも宜しくお願い致します。


【参考にしたサイト様及び書籍】

名前:http://www.worldsys.org/europe/

フレーズ:https://www.spintheearth.net/german_love/

個人の性状:https://www.spintheearth.net/travel_german_character/

贈り物関係:http://rhinoos.xyz/archives/16096.html http://manomano.tokyo/?mode=f4

電力システムモデル:『ブラックアウト 上・下』〈マルク・エルスベルグ 作〉

戦闘モデル:『システマ入門』〈北川貴英 著〉

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