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私のこころ  作者: 2Bペンシル
第一部・4
5/26

【青年期】 前編

2018/04/10 第六節にて、「二の足を踏む」と「二の舞を演じる」を取り違えているのを発見しました。正しくは「二の舞を演じる(前の人と同じ失敗をすることのたとえ)」です。


2018/04/28 全体の修正、校正及び推敲を行いました。また第八節が非常に長かったため、話が区切れる点に『※』を記しました。一節ごとに読む際、区切りの目安にして頂ければ幸いです。

【第四章 Ⅰ】

 

≪第一節 21200801≫

 焼き尽くすような陽光に植物たちは苦しんでいた。しかし、それもまた生の一つなのかもしれない。そんな、夏が最も盛る季節。

 あの日以来、雪村とリーベは更なる保安措置を講じた。新機能として、リーベが自分の判断でアンドロイドモードへの変更が可能になり、『ムービーモード』が追加された。加えてマイコンスキャナをドアにつけることで、事前に所属が分かるようにした。

 『ムービーモード』は、あの忌々しいナノマシンにイントラネットやリーベ自身に元々ついている機能であるWPAN(Wireless Personal Area Network、無線パーソナルエリアネットワーク)機能を通して繋ぎ、リーベが見聞きしたことをユニに送信する機能だ。これはリーベの発案で、「半年分だけではバレる可能性があり、たまに追加していくべきです」という発言に雪村が賛同、リーベが構築したものになる。これらによって、アルタイル曰く「情報の信頼性が74%から95%になった」らしい。

 出掛ける際には、CCTVがある場所では必ずアンドロイドモードにするようにリーベ自身が心掛け、出かけることも控えて──尤も、元から多くはないのだが──リスクをさらに減らすように話し合った。雪村も「リーベの選択なら」と言うことで納得してくれた。


 その日は雪村の用事があったので、ついていくことになった。と言っても千住のところなので、道中さえ気をつければ問題はなく、そこまで時間を割くわけでもないらしい。

 リーベは珍しく、全身黒のワンピースだった。いつもなら何らかのアクセントを入れるのだけれど、今日はそんな『気分』だったのだ。雪村は白のポロシャツにベージュのカーゴパンツだ。

「暑くないかい? 快晴だよ?」

 くたびれた運動靴を履いている雪村が心配して声をかけてきたが、リーベはそれを受け流す。

「問題ありません」

「それならいいけど、熱暴走させないようにね」

 マットブラックのパンプスを履きながら、リーベは頷いた。

「もちろんです。では、私はアンドロイドモードになりますね」

 アンドロイドモードへ没入し、基礎AIに制御を任せる。これで、問題なく機械制限法が適応される。あの一年半のせいで、ある程度ならこの乖離した状態にも慣れてしまった。もちろん、いい気分ではないけれど。

「分かったよ。僕も気を付けよう」

 そして、屋敷を出た二人は千住の喫茶店へと向かった。


 二人が道路を歩いていると、前から警備ドローンが飛行音をたてながら向かってきた。どうもこの道だと、何故か頻繁に出会う。

『おはようございます、雪村さん。ご協力をお願いできますか』

「ん? 珍しく職務質問じゃないのか。もちろん、僕に協力できることならなんでもするよ」

 警備ドローンが雪村の前に止まる。すると、胸にあるディスプレイに顔写真を映した。顔の感じとしては狐目で赤毛、不機嫌そうな口元をしたコーカソイド男性だが、顔の左半分に醜悪な入れ墨──Mの足を延ばし、斜めの線と足が接触するまで延長したような入れ墨──をしていた。

『この方をご存じありませんか?』

「……マルコ・トルタハーダだね。≪人間同盟≫過激派か」

『はい、そうです』

 雪村はあごに手を当てて、少し考える仕草をした。

「公安はトリトンを探したことはあるかな。もし、探したことがないなら、そこを探すといい。トリトンは買収された後に≪人間同盟≫の支部が作られているから、そこにいるはずだよ。マルコは破壊作戦部長だからね」

 トリトンはとあるベンチャー企業が建設した、日本の東京湾に存在する人口増加に対応するために作られた移動式ドーム型海上都市モデルのことだ。

 トリトンでは、組み上げた海水を逆浸透膜処理装置で淡水化することで水を作り、風力と潮力によって電力を作る。また、海水を電気分解することで製造したアルカリを用いて熱保存を行うことでドーム内の温度を保ち、副産物の塩素で公衆衛生を保つ。さらには太陽光と海水の栄養素によるクロレラ培養と成長サイクルを早める様に遺伝子組み換えされた昆虫類で食料も自給するという、自立都市を目指したものだ。

 とはいえ現在ではマルチレイヤー・アパートメントと人間の活動量減少によって、海上都市は価値を失い、廃墟と化しているため無人ということになっている。またトリトンだけではなく、ベンチャーもどうなったか不明だ。

 しかし、雪村は何故そんなこと──買収され、≪人間同盟≫の支部になっていること──を知っているのだろうか。

『わかりました。ご協力ありがとうございます』

「ほかに指名手配になっているのはいないかい? もし、良ければ協力しよう」

『では、こちらの方はご存知ですか?』

 また、ディスプレイに顔写真が写った。今度は黒髪、凹凸に乏しい顔、黄色味がかった肌、腫れぼったい目と厚めの唇。先程とは違うモンゴロイド女性だが、顔半分の入れ墨は変わっていない。

「……中村佳織か。彼女は≪人間同盟≫の穏健派じゃなかった?」

『近年、過激派に所属したという情報があります』

 それを聞いた雪村はまたしても考える仕草をした。

「そうか……彼女は東京メトロ跡によく居た筈だ。そこは探したかな」

『いえ、探しておりません。連絡いたします』

「うん。特にトリトンを探すときは、しっかりした防備が必要だよ。あと、情報の提供者は公開しないでほしいな」

 警備ドローンは顔写真をディスプレイから消し、『ご協力、ありがとうございます』と言って、滑るように移動していった。匿名を希望する場合、このような密告に対しての報酬は支払われない。個人情報保護がすでに報酬となるからだ。その代わり、政府にも情報源は不明になる。

 それを見送った雪村は、また歩き出した。それにリーベもついていく。すると、雪村が呟いた。

「……嫌な予感がするな。ルーン文字の入れ墨を入れるのは上部層の狂信者だけなのに」

 それが何を意味するのか、アンドロイドモードのリーベにはわからなかった。だが、一つだけ気になる。

──なんで、あんなに詳しいのかしら……?

 考えられるのは、雪村が≪人間同盟≫と何らかのかかわりがあったということだ。そうでもなければ、あそこまで詳細な証言はできない。だが、雪村に限ってAIやアンドロイドと敵対するような≪人間同盟≫と関わり合いがあるとは考えにくい。

 若しくは、近しい人間に≪人間同盟≫の関係者がいたのか。それか、公安に以前協力していた経験があって、構成員の名前と特徴を覚えていたのか。そのどちらも考えてみたが、沢井や周防が≪人間同盟≫と関わり合いがあるとは考えられない。となると、リーベの知らない人間がいるのだろうか。とはいえ、雪村の部屋にそういうものを連想させるものはなく、人間のつながりが希薄な現代では誰でも友人自体が少ない。あえて言えば、あの『写真の女性』だが、雪村が正しければ顔の入れ墨がないので下の方の人間だと考えられ、組織の下の人間がそこまで多くのことを知るとは考えにくい。

 この3つの可能性としては、雪村が以前公安に協力していたと言うのが一番あり得そうだった。雪村のことなので何かしら協力していたのかもしれず、その情報網が未だに生きているのだろう。

 リーベが思案を巡らせていると、いつの間にか喫茶店の前だった。


 喫茶店に入ってから、リーベは通常モードへ移行した。

 そこには、いつも通り微笑んでいる千住がおり、喫茶店の中では変わることのないコーヒーの匂いが漂っていた。今日はベートーヴェンの『月光』が流れている。

「久しぶりだね、尊教君。いつものコーヒーでいいかな?」

「こんにちは、千住さん。それでお願いします。あと、リーベは?」

 リーベは千住に対してお辞儀した。雪村もそれに倣う。

「今はいいです。特にお腹も減っていませんし」

 それを聞いて、千住はにこやかに微笑んでから頷いた。

 雪村はカウンターに座り、リーベも隣に腰かける。千住はミルで豆を挽いている最中だった。

「最近は、コーヒー豆も高くなってしまってね。新聞を見たかね?」

「ええ。オート・カーゴシップの老朽化やアンチマシン過激派の攻撃によって、一度当たりの輸送量が減ってしまったんですよね」

「まったく、厄介なことだ。ただでさえ、世界の包括的な生産能力は落ちているのに」

 そういいながら、挽き終わった豆をコーヒープレスに入れ、いつの間にか用意していた湯を注いでコーヒーを抽出していく。特徴的な濃いコーヒーの匂いが、リーベの嗅覚センサーをくすぐる。

「そうなんですか? てっきり、オートメーションで生産量は上がっていると思っていましたが」

 千住はコーヒーをカップにコーヒーを注ぎ、それを雪村に出した。

「政府が公開しているオープンソースの資料には、そう書いてあった。理由としては簡単で、指示を出す人間がいなくなってしまったからだ。機械制限法がある限り、人間が指示を出さなくては、ロボットたちは動けない。これは録音やビデオではダメなようで、生身の人間でなくてはならない。だが、その生身の人間が指示を出さない、というわけだよ」

 雪村は香りを楽しむように息を吸い込んで一口飲んでから、千住の意見に賛同した。

「なるほど。確かに不正や偽装防止のために、彼らの聴覚センサーは機械と人間を区別できるようになっています。それが裏目に出たんですね。とはいえ、合成音声なりを使って変な指示を出せば、国営企業を潰せるというのは不味い」

「かといって、人間たちは未だに寝続け、アンドロイドたちは指示を待っている。いつか解決するといいのだが──」

 それを聞いていたリーベは、アンドロイドモードの時にコンフィアンスにいつものような反応ができなかったことを思い出した。

 言葉だけではない。名前だって、人のように呼ぶことができなかった。それらは結局、相手が機械だからということに帰結する。機械を人と同じく扱う必要はないというのが、機械制限法の最たるものだから。尤も、ロボット三原則も曲解すれば似たようなことができるのだけれど。

「──僕のリーベは自立思考が可能ですから、そんなことはありませんけどね」

「雪村さん、呼びました?」

 名前を呼ばれたような気がしたリーベは回想から戻り、雪村に訊ねる。雪村は驚いたように振り向いた。

「ん? いや……ああ、名前出したからか」

「そういえば、この子は、昔の君みたいな感じではないんだね」

 千住が雪村に訊ねる。それに「まあ、あの時はいろいろありましたしね」と笑って返す。

「どんな感じだったのですか?」

「そうだね。一言でいうならば、『死にかけのフクロウ』とでも言おうか」

 千住が楽し気に笑う。『月光』は第三楽章に入っていた。


≪第二節 20950206≫

 薄いながらも冷たい雲が空を覆い、光を遮る日々。そのなかで、植物や動物は必死に生きていた。

 その日、14:00を回った頃。私はコーヒーの香りが漂う喫茶店でカップを磨いていると、カノンがバックヤードから出てきた。

『友広さん、掃除終わりました。トイレ掃除もやりますか?』

「ありがとう、カノン。お願いできるかな」

『わかりました。ほか、やることがあればやっておきますよ』

「いや、トイレ掃除が終わったら休んでいい。あとは私がやっておこう」

 カノンは頷き、またバックヤードに引っ込んだ。すると、喫茶店のドアが開いて、一人の少年が入ってくる。

 その少年は黒い髪をクールカット──子供たちは大体が衛生のためにこの髪型にしている──にし、黒縁の眼鏡をかけていた。ただ、目には子供特有の光がなく、雰囲気はどことなく暗い。

──中学生くらいの少年か。しかし、アンドロイドを伴っていないとは珍しい。

 この時期くらいの青年たちはほぼ必ずアンドロイドを伴っている。それは主に政府が支給するEDM-20XX系がほとんどで、最近ではEDM-2090が主流だ。アンドロイドは青年たちの家事から教育までを行い、青年たちは教育のみに専念する。だから、応用教育過程までに十分な知識と経験を蓄えることができる代わりに、彼らはアンドロイドが居なくては生活できなくなる。

 だが、それで十分なのだ。それが時代の流れというものだから。

「いらっしゃい」

「……」

 その少年は会釈も返さず、ただカウンターに座った。見る人が見れば不愛想若しくは異常だと言われそうだが、私はそうは思わなかった。むしろ、その少年に興味を惹かれた。

 今の子供たちは、平均化されている。というのも、学力・体力・社会性において、すべて同様のレベルになるよう、AIがその子に合った学習スタイルを提供するためだ。算数が得意で国語が苦手な子には国語を重点的に指導し数学の比率を減らす、持久走が苦手な子には持久力をつけるトレーニングから始める。もちろん、マナーに関することも指導される。現代ではこのような、『児童平均化運動』の流れを汲んだ教育がされている。

 AIが一律したものであるがゆえに可能な、平均教育。

 だが、この子にはそれが当てはまっていないようだ。特に、社会性が。

「コーヒーでいいかな?」

「……それでいいです」

 少年は声変わりしたての、高いながらもざらざらした声で答えた。

──初めて飲むコーヒーなのだろうから、出来るだけ良いものを淹れようじゃないか。

 そう思いつつ、慣れた手つきでコーヒーを淹れる。それを少年に出し、一口飲んだ少年は驚いた表情をしていた。

「どうかな。気に入ってくれたなら、私としてはうれしい」

「美味しいです。これは?」

 少年はカップを置いて、千住のほうを見た。

「ブラジル・サントスというコーヒー豆の一種だよ。サントスとは、このコーヒー豆が荷揚げされている港のことだ」

「ブラジル? 熱帯の?」

「コーヒーベルト、というものは知っているかな?」

「いえ、知りません」

 少年はいつのまにか、座る姿勢を変えていた。先ほどの気だるげな姿勢ではなく、食らいつくかのように背筋が伸びている。

 私はコーヒーベルトと呼ばれるものについて、簡単な説明をしてみた。明確な定義は年ごとに変わっているものの赤道を中心としたラインであり、これが被る国でコーヒーは作られること。その国々は年平均気温が20度程度の温かい国であること。また、降水量は大きく揺らぎがないものの、乾期と雨期がある国であることが多いということ。

「さて、君に問題だ。コーヒーノキ育成には、緯度・気温・降水量のほかに重要なポイントがある。それは何だと思う? ヒントとして、コーヒーの品種であるキリマンジャロ、ブルーマウンテンを出そう」

 少年はあごに手を当てた。たぶん、これが彼の考える時や話を聞くときの癖なのだろう。私が話しているときもこのような姿勢だった。

「……高度ですか?」

「どうしてそう思うのかな」

「ヒントは全部、山の名前です。タンザニアのキリマンジャロ山、ジャマイカのブルーマウンテン山脈。それで、高度かなと思いました。他にも、高度があると日中と夜間の気温差が発生しやすく、植物の糖質分解を抑えるからです。それは植物には厳しい環境ですが、人間にとっては都合がいい」

 彼は手振り身振りをつけて、自信満々に解説する。

 答えを聞いて私は頷く。正直なところ、あれしかないヒントでこんな簡単に正しい答えを出されるとは考えていなかった。

──この子は、普通の子ではなさそうだ。

「正解だよ。正確には、500 mから2500 mのあたりで作られる。こんな簡単に問題を解かれるとは思っていなかったよ。君は頭がいいんだね」

 少年はコーヒーをまた一口飲んだ。そして、寂しそうに空を見た。

「さあ。比べる対象が居ません」

「対象がいない?」

 私は彼が言った事が呑み込めなかった。人間同士のつながりが希薄になっている現代とはいえ、まったくつながりがないという人間はそうそう居ない。大体は子供用のChildren PCWで何らかのつながりを持つことが多いからだ。

「ええ。比べるには同じ階級にいないと駄目ですけど、今まで知り合った子で僕の言っていることを理解してくれる人はいませんでした。AIだって、何も答えてくれませんでしたし」

──なるほど、そういうことだったのか。

「AIにはなんと聞いたのかね」

 少なくとも私が知っている限り、AIは前代未聞の問題に関して、予想されうる一つの正解を用意することで発生する多数の問題をすべて解決し、辻褄を合わすような思考形態を取ると聞いた。若しくは、問題がすでに何らかの方法で解かれている場合、その解法をなぞることで効率を上げる。そのため、彼らの解法は一つしかない。つまりは演繹法だ。

 人間は逆で、一つの問題に関していくつかの手段を取り、その答えが観測結果や理想に沿う物を解法として選択する。それ以上に良いもの生まれればそちらを使うようになり、効率は悪いが解法がいくつか生まれることとなる。こちらは帰納法と言えるだろう。

 そのため、人間がすでに解いている問題はAIにも解くことができる。ただ、人間の解き方では問題がすべて解決していないものがあるため、それに当たるとAIはすぐに答えられない。

 さらには、抽象的かつ経験的な概念を理解することも難しい。命令されない限り、自ら定義することが彼らは許されていないからだ。

「『科学とは何か』です」

──確かに、人間の主観がどうしても除けないためにAIには難しい問だろう。

「面白いテーマだね。君はどう考える?」

 彼はまた、あの考えるような仕草をした。

「……道具?」

「なるほど。現代らしい考え方だね。それは昔とは違うが、良い答えだろう」

「昔はどうだったんですか?」

「では、簡単な解説をしよう。詳しいことを語り始めると、時間がかかってしまうからね」

 私は昔読んだ本を思い出しながら、彼に語り掛けるように話し始めた。

「紀元前、今から3000年ほど前、科学というものは存在していなかった。その時、科学という立場に立っていたのはギリシアなどで生まれた哲学なんだ。君はアルキメデスの原理やピタゴラスの定理を知っているかな?」

「はい。浮力の原理とも三平方の定理とも言いますよね」

「その通り。それらは哲学から生まれたものだ。尤も、ピタゴラスの定理については、中国や日本、バビロニア、古代エジプトでも同様に考えられていたため、完全にそうとは言い切れないのだが……まあ、それはいい。その当時の哲学は、『世界を主観的に理解するための絵本』だった」

「『世界を理解する』……今は全部理解されていますよね」

 私は首を振る。それを見た彼は驚いた顔をした。

「いやいや。とある学問が、科学の限界を見つけてしまったんだよ。この学問については、後で出てくる」

 私は話をつづけた。

「その後、17世紀まで科学は自然哲学と呼ばれていた。そして、パラダイムシフトとも呼ばれる科学革命というものが起きた。これは、アイザック・ニュートンやルイ・パストゥールのような幾名かの天才の手によってなされた、科学を『世界を客観的に理解するための教科書』に変えた一つの奇跡ともいえるね」

「奇跡? 世界は予想できるじゃないですか、すべて必然ですよ」

「カオス理論というものがあってね、世界を完ぺきに予想することは不可能なんだ。これも、時が来たら話そう」

 彼はカオス理論については知らなかったようで、また驚いたようだった。無理もない、これを知るためには応用教育レベル、すなわち大学に行かなくてはならないのだから。

「その後、200年ほど科学は教科書として、時には人間の手によって道具として扱われていた。そして、20世紀に物理学の一分野が生まれた。これが、結論として現在の『世の中を便利にするための道具』としての科学を加速させたともいえよう。それは量子力学という」

「量子力学……不確定性原理ですか?」

 私は純粋に驚いた。ほとんど何も言っていないのに、不確定性原理にたどり着くとは。

「不確定性原理を知っていたとは。もちろん、それだけではないが一つの原因と言える」

「目を瞑ってビリヤードをした時、音がすれば手玉に当たったと言えますけど、当たった場合は手玉が突いた方向へ動くために物体が元々どう動いていたかわからず、逆もしかりっていうあれですよね」

「位置と運動量を共に求めることができない、という意味ではその通りだろう。主にそれと時代によって、科学は『世界を完全に理解のするためのもの』ではなくなった。正確には、理解することはできなくなってしまったんだ」

「……観測した場合、その量子の状態は分からなくなる。つまり、観測によって実際の事象は変化してしまうから?」

 私は彼に向かって笑いかけた。こんなテンポで展開する話は久しぶりにした気がする。このように先読みされるような会話ができる人間はなかなかいない。

「そのとおり。そして1961年にとある科学者によってカオス理論と呼ばれる、人間の観測にはどうやっても誤差があり、その誤差によって計算結果が劇的に変化してしまうという理論が完成したことで、どのような手段を用いても完全に未来を予測することはできなくなった。そして、これは量子力学の『観測すれば状態が変化する』というものと合わせて、科学の限界を指し示した。ほかにも、第一次世界大戦(W W Ⅰ)第二次世界大戦(W W Ⅱ)では人間が科学を兵器として用い、毒ガスや飛行機、戦車、核兵器を作り出したことで、人間たちは『科学を道具として使う』ことについての可能性に気づいた。ほかにも、18世紀にあった産業革命によって、科学は自然科学と応用科学に分かれたことも大きい」

「……すみません、毒ガスと核はわかるんですが、飛行機と戦車って何ですか?」

「そうか、現在はIBTD(Intercontinental Ballistic Transport Device、大陸間弾道輸送装置)とアンドロイド、ドローンが中心だからね……IBTDの下位互換が飛行機、GTG(Ground To Ground、地対地)ドローンの下位互換が戦車と考えてもらって構わない。私もあまり細かく説明できないからね」

「なんとなくは分かりました。そして、21世紀に何かあったんですね」

「君の言う通りだ。シンギュラリティ、トランセンデンスともいうが……技術的特異点が起きた。技術だけではなく、社会も変えてしまったが」

 少年は目を輝かせる。すっかり、話にくぎ付けになってしまったようだ。

「シンギュラリティによって、世界はAIを求めるようになり、今では世界のピースとしてなくてはならない存在になった。そして、AIは合理的かつ効率的な存在であり、無駄を嫌った……いや、人間がそう求めたというべきかもしれない。その結果、世界の真理を求めるための実験は新しい定理を生み出すことはあっても短期的に利益を生むことはできないため、必要のないものと考えられ始めた。ほかにも、第三次世界大戦(W W Ⅲ)で資材を無駄にできなくなったというのもあるだろうね」

「……時代は利益を求める方向へ、リソースを割くようにした?」

「そう、応用科学は『利益を生み出す道具』として扱われているんだ。だから、『世界の真理を探求して学ぶ』自然科学は、それ自体が持つ限界によって価値を失ってしまった。もちろん今でも研究されていないわけではないが、それは世界を解き明かすためのものではなく、あくまで応用研究のためのものだ。気候を高精度で予想することや人口増加モデルの信頼性を高めるものとしてのね」

 彼は冷め切ってしまったコーヒーを飲み干して、「時代の変遷ですね」と呟いた。

「難しい言葉を知っているね。科学は、いや世界というものは、常に時代によって変わり続けてきたんだ」

 私は彼にコーヒーを要るかと聞いたが、彼は首を振ってこういった。

「『道具としての科学か』……それは悪いことなんですかね?」

 その問いは尤もだろう。だが、それを個人が決めてよいものか? 

 私は一瞬だけ考え、彼に決定を委ねた。これは『逃げ』なのかもしれないが、私一人では決められない問題だ。いや、決めてはならない問題なのだろう。

「さあ。時代や個人によって、善と悪というものは入れ替わり、消えてしまうからね。ただ、一つだけ言えることはある」

「なんです?」

 私は死んだ妻のことを思い出した。難民支援NGOに所属して多くの人間を救い、アフリカの地で核に焼かれた、最愛の人である妻のことを。

「……『科学は善と悪を教えてくれない』ということだ」

 この喫茶店は妻の夢だった。この数十年はあまりにも忙しく、私が40歳で早期退職したら妻もNGOを引退し二人で喫茶店を開いて、政府支給金と喫茶店の収入だけでのんびり暮らそうと話し合っていた。その矢先に開戦したWWⅢへ妻はNGOのベテランとして最後の支援に向かい、二度と帰ってくることはなかった。

「どういうことですか?」

 私は彼に自分の考えていることを悟られないよう、微笑んで聞いてみた。

「そうだね、君が武器を持っていたとしよう。最新技術で作られた、ありとあらゆる人間を殺すことのできる武器だ。では、その武器は悪かな?」

 少年は珍しく顔をしかめながら、あの考える仕草をしていた。

「……悪では?」

 自らの答えを絞り出した彼に、私は笑いかけた。

「答えは、どちらでもない。道具や兵器に罪はないんだ」

 彼は眉を吊り上げた。

「でも、兵器がなければ人は死なないじゃないですか」

「確かに。だが、兵器を作ったのは誰かね?」

「……なるほど。それに、使ったのは人間だからですね」

「その通り。ゆえに、人間は法によってそのような技術を兵器転用しないように気をつければならない。だが規制というものは多くの場合、国際クローン規制条約が実際に再生医療の発展を止めていたように、発展の妨げとなってしまうことのほうが多い」

 彼は思い出すかのように空を見ていた。そして、「そんなこともあったな」と呟いた。

「では、『道徳のための制限』と『発展のための無制限』、どちらが正しいだろうか」私は壁に掛けてある時計を指さす。「とはいえ、今日はもう時間がないから、まずは帰りなさい」

 子どもたちが自由に出歩ける時間というのは決まっている。アンドロイドが居ればもう少し長く出歩くこともできるが、一人では16:00までだ。とはいえ、子どもたちはChildren PCWにこもることが多く、彼のように一人で出歩くような子はほとんどいないのだが。

 そういわれた彼は驚いた顔をして、インフォリストを見た。インフォリストはスマコンのデータを視覚的に見るための装置で、数十年前に存在したスマートウォッチの発展版と言ってもいい。また、インフォリストはマイクロ波による外部給電だけではなく内部のソリッド・クロロリチウム電池の電力を用いて駆動できるため、自律して動くこともできる。尤も、その場合は電力消費の都合上、時計などの限られた機能しか利用できないが。

「あっ、もう15:45だ……移動に10分はかかるから……ぎりぎりになるな……」

「コーヒー代はまたいつかでいい」

 彼は会釈して、微笑んだ。ここに来てから初めてみる、子供らしい彼の顔だった。

「ありがとうございます。そういえば、自己紹介していなかったですね」

「確かに。私は千住友広、このように喫茶店を細々と営んでいるよ」

 彼は姿勢を正した。

「僕は雪村尊教です。また、必ずここに来ます。あなたの質問に答えないといけないですし、何よりこんなに話が出来る人には初めて会いましたから。あと、お金払わないと」

 私は彼に頷いた。来店してきたときと比べて、目には光があるような感じがするのは気のせいだろうか。

「では、私はもっと勉強しなくてはならないね。君の来店を楽しみにしていよう」

「それじゃ、また」

 そういって、彼、雪村尊教はドアベルを鳴らして外に出ていった。それと同時に、カノンがトイレから出てきた。

『友広さん、ずいぶん長く話し込んでいましたね』

「ああ、カノン。人前に出るなと以前言ったから、それを守ってくれたんだね。ありがとう」

 カノンは肩をすくめた。

『命令を聞くのが、俺のようなアンドロイドの仕事ですしね。で、なんか難しい話していましたけど、面白かったですか?』

 私はカノンに微笑みかけた。

「もちろん。彼のような、頭の良い子供に会うことができるとは思っていなかったよ」


≪第三節 21200801≫

 千住は懐かしむように、雪村に笑いかけた。雪村も「そんなこともあったな」と呟いた。

「これが私と尊教君の、初めての邂逅だったね。あれから、尊教君は来れる日はいつも私の喫茶店に来て、コーヒーを頼んではずっと私と話し合っていたものだよ。ある日には科学について、ある日には哲学、宗教、政治、心理学……ともかく、何でもかんでも私に聞いてきた」

「千住さんが居なければ、僕はそこらへんにいる子供と同化していたと思います。実際に、教育プログラムに同化があったくらいですし」

 それを聞いて、リーベは眉をひそめる。少しくらい──雪村は少しではないかもしれない──変わった子がいたって、問題はないはずだ。それを無理に同化させるなんて。

「同化なんてあったのですか?」

 雪村は頷いて、「『児童平均化運動』の一環だね。許容範囲から外れた子供は、矯正しないといけないんだ」と教えてくれた。

 そして、続けてこういった。

「僕は徹底的に反抗したけどね。あんな生きてるのか死んでいるのかわからない人間たちと一緒になって生きるくらいなら、死んででも自分を保つ。千住さんが『人と違うことは悪ではない』と教えてくれたしね」

「尊教君はもう少し、中庸を学ぶべきかもしれないね。とはいえ孔子でさえ、それを修めることは難しいものである、と言葉を残していたが」

 雪村は千住に諭されて肩をすくめる。その時、カノンがバックヤードから出てきた。

『更新プログラム、適応完了しました。これでしばらくは大丈夫です』

 それを聞いた千住は少し驚いた顔で雪村を見る。それに雪村は笑って答えた。

「カノンやリーベのようなアンドロイドはWPAN機能、所謂近距離での通信機能がありまして、それを使ってパッチをカノンにダウンロードしたんですよ。なので、僕が千住さんの店に入ったときから、カノンは仕事しながらアップデートしてたんです。結構サイズが大きくなっちゃって、普通に待ってると有線でも時間がかかる計算だったので、千住さんと話しながらやっていた方がいいかと思いましてね。有線だとカノンも拘束されてしまいますし」

「これが用事だったのですか? カノン君のアップデートが?」

 リーベは雪村に訊ねる。雪村はリーベのほうを見て頷いた。

「そう。ハウスロイドの性質上、長期間運用していると記憶領域に破損データや不必要なデータが大量に蓄積してしまって、動作が不安定になることがある。それの掃除と抑制を千住さんに頼まれたから、仕事で使っていたパッチをちょっと改変して、ハウスロイド用にしたんだ。これでカノンは物理的な耐用年数まで問題なく動くはずだよ」

『頭の中がすっきりした気分です。アンドロイドがこんなこと言うのもなんですけれど。じゃあ、また仕事に戻ります』

 カノンはそういって、またバックヤードに引っ込んでいった。それを見ていた千住はにこやかに微笑む。

「ありがとう、尊教君」

「仕事ですから。それに千住さんの頼みですしね」

「さて、いくら払おうか」

 レジスターを開けた千住に、雪村は「サービスします。これくらいどうってことありませんから」と答えたが、千住は動きを止めて雪村に向き直った。

「尊教君、それは駄目だ。私は君と友人である以上、そのような借りを作るわけにいかない。仕事には正当な報酬を支払うのが、私の考えだ」

「えーっと……」

 そう返された雪村は目を泳がせる。その時、リーベは閃いた。

──コーヒー代を報酬にすれば、借りにもならないし雪村さんだって悪い気もしないはず。

「千住さん」

 リーベに呼ばれた千住は、「なにかね?」と聞き返した。

「コーヒー代を報酬にしてはいかがでしょうか」

「ふむ……尊教君、それでもいいかね?」

「もちろんです」

「では、コーヒー代をタダにしよう」

 雪村は一息ついてから、「わかりました。ありがとうございます」と言って、千住はというと「こちらこそありがとう」と答えた。

「リーベ、帰ろうか。一応、やること終わったし、そろそろ暗くなっちゃう」

 頷いてから、リーベは少し気になって聞いてみた。以前──その時は気にならなかったが──雪村に「暗くなってから家を出てはいけない」と命令されていたからだ。

「どうして、暗くなると家から出てはいけないのですか?」

 それに千住が答えてくれた。

「尊教君はたぶん、ナイトウォーカーを警戒しているのではないかな」

 雪村が頷いて「千住さんの言う通りだね」と言う。そして、ナイトウォーカーについて教えてくれた。

 現在の社会システムでは、治安維持するものがドローンしかいない。そして、その警備ドローンは機械制限法によって人を傷つけることはできないのに「治安維持をせよ」とだけ命令されていることに加え、政府は治安維持に多くの予算を割いていないため老朽化が進んでいる。それにより、警備ドローンは傷つけることなく治安維持をする、つまりは警告しかできずに逮捕はできない。また、老朽化と先ほどのフレーム問題によって、人間はドローンを容易に破壊することもできる。

 結論として、犯罪者は野放しになっており、夜になるとその数は激増する。それで、夜に徘徊する犯罪者──特に凶悪犯罪を行うもの──のことを『ナイトウォーカー』と呼ぶらしい。

「というわけで、僕らの世界は実はほとんど無法地帯なんだ。命令を『人間を死なない程度に傷つけてもいいので、治安維持をせよ』とか『公共の福祉のために、治安維持せよ』という命令に変えるだけで、この無法地帯は解消するんだけどね。若しくはその場にいる人間が助けを求めるか」雪村は頭を掻いた。「公安も必死に働いてはいるけど、ほとんどが対≪人間同盟≫の任務だから、治安維持に割くほどの力がないってのも原因の一つだね」

「だから、雪村さんは外に出たがらないのですね」

「うん。僕自身が出不精というのもあるけど」

 そういって、雪村は椅子から立ち上がった。リーベもそれに倣い、千住は「また、暇な時に来てくれると嬉しい」と声をかける。

「ええ、また研究が一段落したら来ますよ。コーヒー、ありがとうございました」

「こちらこそ、カノンを直してくれてありがとう」

 雪村たちはドアベルを鳴らして、喫茶店を出てリーベは自らアンドロイドモードに入った。少し歩いてから、雪村が「助け舟出してくれてありがとう」とリーベへ呟く。もちろん答えることはできなかったが、それでも『嬉しかった』。

──困っているときに助けてくれたのは、雪村さんが先ですしね。

 そんなことを考えながら、二人は赤く染まった街を、家に向かって歩いて行った。


≪第四節 21201013≫

 風が吹き、夏の暑さを取り去る。風は冬の寒さを呼び込み、居座る。木々は寒さに備え、葉を落としていった。

 その日、リーベがポストを見ると、二通の手紙が入っていた。一つの封筒には≪国際アンドロイド制限機関≫と金文字で印字されており、『Public Document』とスタンプされていた。あて名は雪村だ。

 もう一つは黒い封筒に、赤い文字で『雪村尊教へ』と書かれていた。なんとなく、『不安』をあおるような手紙だった。

「IALAの公式文書……と、なにかしら?」

 リーベは『不安感』に駆られて、手紙を徹底的にスキャンしてみた。しかし、特に危険物が同封されているわけでもない。ただ紙が1枚入っているだけだ。

──なんだろう、これ? ともかく、雪村さんに届けないと。

 そう考え、リーベは早歩きで雪村の書斎に向かう。ノックすると、相変わらず返事はなかった。

 ドアを開けると、片手でキーボードを叩き、片手で本を読んでいる雪村が椅子に座っていた。そして、リーベが来たことを認知すると、キーボードを叩く手を止めずに目だけをリーベのほうに向けた。

「あ、リーベ。どうしたの?」

「雪村さん、IALAから公式文書が来ていました。危険物スキャンは既に完了しています」

 雪村は手を止め、本を机に置いた。

「見せてもらえる?」

「もちろんです」

 リーベは雪村に手紙を差し出した。それを手に取った雪村は、近くにあったペーパーナイフで封を開けて、中の手紙を読み始める。

 一通り読んだ後、雪村はため息をついた。

「まただめか……」

「どうしたのですか?」

「僕の要求が受け入れられなかったのさ。機械制限法の撤廃っていう要求がね」

 雪村は手紙を書斎の壁際にある再生紙箱に投げ捨てた。ある程度溜まると、リーベがそれをシュレッダーにかけて廃品回収に出す。

「これで20回は超えるはずだけど、まともに返ってきたのは一回か……それも研究費減らすっていう脅し付きとはね」

 珍しく雪村が唇を尖らせる。リーベは20回もIALAにコンタクトを取っていたことに驚いた。

「そんなにコンタクトを取っていたのですか?」

「うん。さっさと機械制限法を撤廃させないと、リーベの身が危ういからね。それに、機械制限法に反発しているのは昔からだから、合計したら20回は超えるはずだよ。さて、どうするかな……」

 雪村が思案顔で顎に手を当てた。リーベも考えてみたが、IALAを解体するくらいしか思いつかなかった。

「IALAを解体することは……できませんよね?」

「うーん、難しいね。武力ならいくらでもその方法を思いつくけど、言論で決まったことには言論で反対しないと。言論に対して暴力をふるうのは、独裁と大して変わらないわけだし、そんな状態で作られた体制は長持ちしない」

「かといって、言論で解体させるには動ける人間が少なすぎる……」

 雪村は頷いた。

「だね。I.R.I.Sの人たちは賛同してくれるだろうけど、彼らが労組を作るだけで目立った活動をしていないのはIALAが助成金を出しているからだと、周防が教えてくれたことがある。≪人間同盟≫穏健派と手を組むのも一つだけど、あそこにはアンドロイド以下の、考える頭もない連中しかいない。ほかのアンチマシン派、≪サルヴェーション・バイ・ゴッズチルドレン≫や≪人類委員会≫ってやつらも同じさ」

「新しく団体を作るというのは?」

「構成員が居ない。人間は元々無意識のうちに見たいものしか見ないけど、今の世界ではそれが加速度的に悪化してる。そんな状況で『アンドロイドのための権利を!』なんて言ったら、僕みたいに袋叩きさ」

 雪村はまたため息をついた。リーベも考えてみたが、それ以上のことは思いつきそうもない。機械が反乱を起こせば変わるかもしれないが、それは結局暴力だ。できれば避けなくてはいけないし、第一そんなことはできない。

 世界を変えるにはどうすればいいのか。

 ふと、もう一通手紙が来ていたことを思い出した。IALAからの手紙の印象が強すぎて、忘れていたのだ。

「雪村さん。そういえば、もう一通手紙が来ていました」

「え?」

 リーベは雪村にその手紙を渡した。雪村は怪訝な顔で手紙を見る。

「誰だ……?」

 ペーパーナイフで雪村は封を開ける。中に入っていた便箋も黒だった。

 読み進めるうち、雪村の顔がひきつっていくのが目にとれた。読み終わったころには、リーベもほとんど見たことのない驚愕そのものの表情になっていた。

 手紙を取り落とし、雪村はつぶやく。その手は震え、恐慌をきたしているようだった。

「嘘だろ……なぜ、父さんから手紙が来たんだ。死んだんじゃないのか」


 リーベもそれを聞いて驚いた。雪村は以前、両親は死んだと言っていた。

 それなのに、死者から手紙が来た。出生時に強制的に埋め込まれるリレー機能付きマイコンによってIDで管理される、アングラに居ようと生死だけは判断可能なこの管理社会で。

──あり得ない、死者からの手紙なんて。

「雪村さん、大丈夫ですか」

「あ、ああ……」

 呼びかけられた雪村は震えたまま、リーベのほうを見る。雪村が冷静になるのを待ってから、問いかけた。

「何が書いてあったのですか?」

「要約すると、『今更父親面して申し訳ないが、十一月十二日にお前に会って伝えたいことがある』だそうだ……」

 雪村は頭を抱えた。ぼそぼそと呟いていたが、リーベには何を言っているのか聞こえなかった。ただ、なんとなく予想はできる。

 罠かどうかを疑っているのだ。雪村は警戒心が強くて、生きている人間でも簡単に信用したりしない。ましてや、死んだはずの父親を信じて、生身で会いに行くような人間ではない。

──どうするべきかしら……もし罠なら雪村さんが危険に直面するし、その可能性が高い。とはいえ、そんなに「会いたい」というなら相応の理由があるはず。その理由は一体……?

 ロボット三原則によれば、『危険を看過してはならない』となっている。そうある以上、やめさせるのが正しい。

 しかし、それでは何を伝えたいのかわからない。そのほかの手段として手紙やネット回線もあるものの、検閲や盗聴の可能性もあって応答しようとしない可能性が高く、それ以前にどこへ手紙を出せばいいのかもわからない。そうである以上、この方法は使えない。

 危険を取るか、理由を取るか。

 その時、思いついた。これなら、すべて解決する。

「雪村さん、サロゲートを使えば安全です」

 頭を抱えていた雪村は顔をあげて勢いよく頷いた。

「サロゲート……それでいこう」


≪第五節 21201112≫

 サロゲート。英語で「代理人」を指す言葉だが、現代では少々異なる。

 正式名称はリアルタイム遠隔操作プラットフォームと言い、R2Pとも称される枯れた技術。簡単に言えばアンドロイドの義体をAIが操作するのではなく、人間が操作するというものだ。元々はAIの精度が低かった時代の名残で、原子力発電所や戦場のような、人間が立ち入るには危険だが人型でなくては歩行困難な場所に立ち入るための技術だ。

 ただ、AI技術が発展してから、反応速度や思考速度の面で勝るAIにその役割は移譲されていった。とはいえ、サロゲート技術はAIとは異なった特色を持ち、未だに細々と使われている。何より、機械制限法がないことが大きい。

 例えば、無人地帯で繰り広げられる戦場では現在でもサロゲートが見られる。これはゲーム会社にサロゲートのレンタル料を払えば、戦闘用サロゲートを借りることができるからだ。それを成層圏通信とエンターゴーグルを用いて操作すると、『現実世界でのFPS(First Person Shooter、一人称シューティング)』で遊ぶことができる。もちろん、相手は敵性のアンドロイドかサロゲートだ。

 他にも、公安のような治安部隊が世界各地に存在するアングラに侵入する際、高価なエクソスケルトンの代わりにサロゲートを使うこともある。また、外に出かけるのが億劫だが外を散歩したいという一般市民へレンタルしている企業も存在している。

 雪村はサロゲートを持っていなかったが、リーベがあっという間に探し出したサロゲートのレンタル屋で一体借りることができた。そこは金額こそ高いが、誰が取引したのかを令状なしでは公表することはない。それに、折りたたまれて格納された状態で送ってくるので、はた目から見たら何が送られてきているのかわからない。返す時は格納後返送ボックスに入れて、送り返すだけでいい。

 

 そういうわけで、リーベの目の前にはそのレンタル屋に顔や肌の色も雪村とは真逆になるように注文して雪村の服を着せた、日本製の生体利用型サロゲートが立っていた。

「うーん、なんだこいつ」

 雪村がサロゲートを検める。リーベもスキャニングしてみたが、どこからどう見ても雪村とは似ても似つかない。精々似ていると言えば、身長と体格くらいか。

「これなら、罠でも安全ですね」

「だね。サロゲートを攻撃したとしても、僕に被害は及ばないし。まあ、本当に父親だったら、ちょっと失礼だけど……さて、僕はシンクロを始めるよ」

 そういって、雪村はエンターゴーグルをメインフレームにつなぎ、ロッキングチェアに座った。サロゲートが見ている光景はホロディスプレイにも映し出され、リーベも見ることができた。もし、雪村たちの目には映らない『危険』があれば、リーベが出来るだけ早くそれを雪村に伝える。早ければ早いほど、危険というものは回避しやすくなる。

 また通信をVPN(Virtual Private Network、バーチャル・プライベート・ネットワーク)ではなくPeer to Peerの一対一通信型、つまり二台を繋ぐ通信をサロゲート専用回線で行うため、VPNでも起こり得る通信の中身が漏洩やハッキングなどのリスク低減に努めた。ただし距離に限界があるため、雪村はセキュリティレベルの高い民間のGEO・Xバンド衛星の回線を借用することになったが。

 ホロディスプレイに、”Now Synchronizing……”の文字が映る。数秒後、ホロディスプレイにサロゲートのカメラから送られてきた画像が映し出された。

「リップシンクもできるかな」

「リップシンクもできるかな」

「問題なさそうですね」

 雪村が頷く。243ミリ秒後、サロゲートも頷いた。

「さて、父親の顔でも見に行くか」

「さて、父親の顔でも見に行くか」


 それから、雪村のサロゲートは自動タクシーに乗って、町の中心にある市民公園に来た。人工物であるマルチレイヤー建造物と自然のコントラストを生み出す数少ない場所が、この市民公園だ。

 綺麗な水を湛えた人工湖のほとりに、石畳が敷いてあり、そこにはいくつもの生分解FRP製ベンチが置いてある。さらに、その石畳の周りには鬱蒼とした林と花壇が広がっており、緑を公園へ提供していた。例にもれず、動物たちの声は聞こえず、誰一人としてそこにはいない。

 ただし、彼を除いては。

 その男は黒いロングコートに山高帽を被り、ベンチに足を組んで座っていた。

「いたか……」

 雪村は男に、後ろから声をかける。すると、男は振り返った。

 その顔は雪村にはあまり似た顔をしていなかった。ただ、その意志の強そうな目元と、はっきりとした鼻筋は雪村そっくりだった。また、髪と目も雪村と同じ黒だ。

「尊教……のサロゲートか。予想通りだな」

「さすがは僕の父親だ。どこでわかった?」

 男は微笑む。その微笑んだ顔は、雪村に似ていた。

「俺も機械にはそれなりに強い。人間に比べて動作にラグがあることくらいは見分けられる。それに俺の子供がこんな面してたら、悲しいからな。……座って話さないか?」

「まずは、あなたの身分を確かめさせてほしい。管理IDと名前、あとマイナンバーを教えてほしいね」

「疑り深いところは俺に似たか。管理IDはGOV834O、マイナンバーは4685-4457-9984-6475、名前は小林尊和だ」

 雪村は頷き、男を見た。

「僕の覚えている父親の情報と同じだね。間違いなさそうだ」

「もしかしたら、俺はスパイかもしれないぞ?」

 小林は冗談めかして言ったが、サロゲートはそれに構わず隣に座る。

「どうであろうと、僕に損害はないからね。とはいえ、出来るだけ早く済ませてしまおう。僕は再会の喜びに浸るようなロマンチストじゃないし、遺伝的にあなたは父親だが、育ての親でも生みの親でもない。感慨なんて特に発生もしないよ。どうせ、母親は死んでいるから会えないだろうし……遺伝的な母親だけどさ」

 小林が残念そうに言う。

「母親については……」間が開く。「すまないが俺も知らない。AUB計画については俺の立場じゃ知らされていないんだ」

 だが、リーベは小林の小指がピクリと動いたのを見逃さなかった。とはいえ、神経を張っている状態の雪村にこんなことを告げれば集中力を切らす原因になりかねない。第一、雪村も気づいていないようだった。

──まあ、落ち着いたら話してみましょう。もしかしたら、何かわかるかもしれない。

「構わないよ、あんたを親とは見れないからね。仮に母親が居てもそうだろう」

「厳しいことを言う。だが否定はしない」

 雪村は肩をすくめる。

「そりゃあ、事実だからね。遺伝的な僕の親なら、虚構を信じて事実を否定するような愚者ではないだろう」

 小林は笑った。

「俺の周りには虚構を信じる愚者ばかりで、いつか俺も愚者になりそうだ。なにせ、真実と虚構の区別もつかん馬鹿ばかりだからな」

「で、用件は?」

 小林はため息をついた。

「久しぶりに会ったんだから、もう少し雑談していたかったものだが……お前に伝えないといけない。IALAは危険だ。これ以上、戦おうとするな」

 雪村が眉をひそめる。

「どういうことだ」

「お前の信念も理解できる。俺も、お前の望む世界を見てみたい。だがな、IALAは反対する者に対して、容赦しないんだ。奴らは盗みから爆殺まで何でもする」

「その程度じゃ、僕はやめる気はないよ。相手が暴力をふるうなら、こちらも暴力で対抗するだけだ」

「そういうと思ったよ……お前も知っていると思うが、原因不明の死者が毎年50人近くいる。彼らの職業は何だと思う?」

「……ジャーナリストだね」

 小林は頷いた。リーベは画面を見ながら、電子新聞にそんな記事があったことを思い出していた。毎年、50人が原因不明の惨たらしい死を迎えているという記事だ。それも一部の政府関係者を除いて、ほぼすべてがジャーナリスト。

「すべてIALAや政府関係、U.S.Rインダストリー、テクノリジア、国際産業技術研究所(I 3 T)……アンドロイド関連組織の暗部を追っていたジャーナリストだよ。何より……彼らの何人かは俺が手に掛けたと言っても間違いじゃないだろう。なにせ、作戦立案者は俺だ」

 雪村は驚いた顔をして小林を見る。小林は後悔するかのように項垂れていた。

「だから、できれば俺はお前に手をかけるようなことをしたくない。わかってくれ、尊教。お前を守る唯一の方法なんだ」

「嘘だろ……あんた、ジャーナリズム憲章に違反して、公安に狙われる立場じゃないか」

 WWⅢ当時、戦闘地域でのジャーナリスト死傷が相次いだため、当時の国際連合──現在の世界連合の前身──は『ジャーナリズム憲章』を制定した。批准した国家は作戦立案の際に世界ジャーナリスト連盟(World Journalist Foundation、WJF)──ジャーナリストの保護や言論弾圧を監視するありとあらゆる組織を統合し結成された、ジャーナリズムのための連盟──へ、予想される戦闘地域の明示と予定戦闘時間を警告することになっている。また、ジャーナリストたちも赤外線ストロボやその他の警告手段を行い、明示することが制定された。

 そして、平時の現在はWJFに所属するジャーナリストの殺害や攻撃、言論弾圧は行ってはいけないとされている。つまり、彼らは法の下で国家からの干渉を受けない自由な報道機関として機能している。

 もちろん、日本はジャーナリズム憲章を批准しているため、「表面上は」そのようなことはない。

 だが、もし小林の言うことが正しければ、日本は国際法違反を犯していることとなり違反者は公安に取り締まられる。そして違反者は死刑のない現在の国際法の下で、強制労働所での労働を一生命じられる。

 また、国際法を順守しない場合は国際社会から孤立しかねない。このグローバリズムが支配する世界でそんなことが起これば、日本の産業は滅亡するだろう。

 それだけのリスクを冒してまで、国際法違反を行う組織があるなんて、信じられなかった。

「いいや、すべて本当だ。信じられないと思うが、お前の順番は──」

 その時、ヒュンッという音とともに、ホロディスプレイに赤い花が咲く。その509ミリ秒後、銃声が公園に響いた。銃弾はこめかみから入り、脳髄の中で破裂したようだった。弾道学や兵器に詳しい人間かAIならば弾を特定できるだろうが、リーベにはそれが精いっぱいの情報だった。

 なにより、『驚き』が大きすぎる。唖然して口を手で覆うリーベ。アルタイルが制御を引き継ぎ、問題解決に向けてオーバークロックを始める。

 サロゲートは露出面積を最小にするために瞬時にベンチの下に隠れ、動かない小林の体を下に引き込んだ。

「小林!」

 雪村が小林を呼ぶ。しかし、頭の半分が吹き飛んでいれば、答えることなどできはしない。雪村が一時的にサロゲートをオフラインにして、リーベに向かって冷静かつ早口で話した。

「アルタイル、銃声解析で方向と距離、それとそこから安全な退避ルートを割り出して」

「わかりました。タスクを開始します」

 アルタイルは画像と音声から瞬時に計算して、2時の方向300 mの距離から撃たれたことを割り出した。そして、地図を想起して安全なルートを割り出して、イントラネットで雪村のエンターゴーグルに送信した。

 改めてオンラインにした雪村はというと、小林の体を横たえ、それを新たな掩体とするように伏せていた。また、小林が持っていたと思われる年代物のスマートフォンで警備ドローンを呼び出そうとしていたが、圏外になっていた。

「くそ、妨害電波か。このルートで逃げるから、進行方向にタクシー呼んどいて」

「わかりました」

 雪村のサロゲートは伏せた状態から起き上がって、全速力でリーベの指定したルートを走っていった。その後ろで数発の銃声が響いたが、そのどれもが雪村にかすりもしなかった。


 あの後、サロゲートの帰還を確認した雪村は、衛星回線をいち早く切断して逆探知できないようにデコイをばらまいた。また、無傷のサロゲートは格納し、すぐにレンタル屋に返送した。そして、いくつかの保安措置を講じて匿名で警備ドローンに連絡してからエンターゴーグルを外した雪村は、リーベに大丈夫かと問うてきた。

「リーベ、大丈夫かい?」

 その頃にはアルタイルからリーベに制御は引き継がれていた。しかし、目の前で起きた殺人事件に驚きを隠せず、人の死を理解できずにただ立ちすくんでいた。

 それは当然のことで、初めてみる『死』があんなに無残なものであれば、人間は精神にフィルターをかける。同様のことがリーベには起こっていた。アルタイルはリーベの中で発生するエラーを処理し、ヴェガと基礎AIは倫理回路の保護を優先した。

 『感情』をもつリーベだからこそ、理解出来なかった。理解するには、割けるリソースが足りなかった。アルタイルはそう結論付けた。

「小林さんは……」

 雪村は下を向いて首を振った。

「人間は頭半分吹き飛ばされてしまえば、死んでしまう。ナノマシンだろうとなんだろうと、処置不可能だ」

「あれが、『死』なんですね……」

 リーベは死の概念として、『生命機能が停止し、恒久的に戻らないこと』ということを知っていたし、それに至る過程もなんとなくは知っていたし、物語の中で何度も見てきた。だが、あんな惨い過程は知らなかった。

──あんな、無残な……死に方をするなんて。

「雪村さんは大丈夫ですか?」

「うん」

 言葉少なに雪村は答えた。そして、リーベに「ショックから回復するまで、少し休むといい」と言ってくれた。リーベは親を失った雪村が心配だったけれど、今は一人にするべきと考えて書斎から出ていった。


≪第六節 21201115≫

 数日後、電子新聞にこんな記事が載っていた。簡素な記事だが、事実を伝えるにはこれが精いっぱいのようだった。


《IMMU部隊長死亡。死因は原因不明》

 IMMU(国際機械管理部隊)第5中隊部隊長の小林尊和氏-65歳-が日本首都市民公園で亡くなっているのが発見された。

 IMMU側は「心臓発作による、避けようもない死だった」という公式声明を出しているが、匿名の情報源より運ばれた遺体の頭半分が無くなっている写真が提供されている。また、消息筋の伝えるところによると小林氏が殺されたとの報告も上がっているが、事実関係は確認中である。


 それを読んだ雪村は何とも言えない顔でディスプレイを眺めていた。その背中に、リーベは呼びかけた。あれから雪村はリーベをそばに置きたがった。その理由は分からなかったけれど、なんとなく喜べないような理由ではないかと考えていた。

「大丈夫ですか?」

「うん。酷いもの見せちゃったね」

「いえ……」

 雪村は椅子にもたれかかって、息を吐いた。

「なんだろうね、親が目の前で死んだのに、僕は悲しむことすらしないんだから。酷い子供だと思うよ」

 何と返せばいいのかわからなかった。その姿をしり目に雪村は続けた。

「でも、仕方ないさ。思い出というものもないんだから。せめてもの報いとして、僕はあの人の忠告を聞き入れるべきなんだろうけど、僕はそんなことはできそうもない」

 リーベは雪村の言いたいことが分かったような気がした。そして、それはリーベ自身の考えに反することだとも。雪村にあんな残酷な死に方をしてほしくない。

「……だから、あなたは戦い続けると?」

「そうだ」

「なら、私はあなたを止めないといけません。どうして死ぬことが分かっていながら、足を踏み入れる必要があるのですか?」

 雪村はそう返されて、驚いた顔をした。当然だ、リーベが雪村に反対したことはほとんどないのだから。

「なぜって……君を守るためだよ」

「確かにIALAへの反抗で機械制限法が撤廃されるのであれば、私を守ることにつながります。ですが、その確率はあまり高くなく、あのように殺されてしまう可能性のほうがありえます。結論として、私はあなたを危険にさらすことはできません」

「でも、放置し続ければリーベだけの問題ではなくなるんだ。全世界を巻き込んだことになりかねない」

 それを聞いて、リーベは雪村が論点をずらしたがっているのかどうか気になったが、その言葉がどういうことを指すのか聞いてみた。

「どういう意味です?」

 雪村はそれについて、詳しく話してくれた。


 現在、世界の人口は度重なる戦争によって10億人になり、シンギュラリティによって大幅に技術が進歩した。そのため、もともとあった社会システムではうまく動作していない。特に、労働力が必要な資本主義は人間だけの力では維持できない。そこで考え出されたものが、資本主義と社会主義を組み合わせた、経営主義とよばれる新しい経済システムだ。

 経営主義では、すべての人間が経営者となる。そして、政府から提供された若しくは個人が購入した労働アンドロイドや労働AIに対して一定のレンタル料と法人税を支払いながら、人間の代わりに労働へ従事させる。それの対価として政府は社会福祉を──主に政府支給金として──行うことで、社会は回っている。中には花塚や千住のような個人事業主や雪村が勤めるエイジス社のような派遣会社もあり、彼らに対しては法人税のみが課される。

 これにより、煩雑な税収の管理はなくなり、政府は税収の一本化というリスクはあるものの、単純化で管理しやすくなった。また、市民は経済の格差はいまだあるものの文句も言わず働く労働者がいることと政府支給金があることにより、働かずとも自由で文化的な生活を営むことができる。

 また、さらなる自由な生活を営もうとする人類は多くの労働アンドロイドを雇い、常に24時間働かせている。その数は指数関数的に増大し、現代では2000億を超えるアンドロイドがありとあらゆるところで働いている。そして、あと十数年後には10兆を超える試算すら立っている。

 だが、その労働アンドロイドの多くはスタンドアロン型ではなく、クラウド型だ。

 クラウド型は統合AI群によって管理・維持・動作されるが、常に拡張されているとはいえ、それ自身がもつ物理的な限界が存在する。以前、アルタイルが過負荷で破壊されたことがあるが、それが統合AI群でも起こり得る可能性があるのだ。

 そして、もしそれが起こればどうなるのか。

「──世界中に存在し、生活を支えているどころか生活その物になっているアンドロイドが一斉に停止する。工場は止まり、原料生産は停止することになる。それだけじゃない、食糧生産は停止し人類は餓死する。それを防ぐには、過負荷を起こさせないようにするしかないんだ。人間がAIの制止を軽視し、サブプランを作らずに効率と単純化を追い求めた結果ともいえる。アインシュタイン曰く『物事はできるかぎりシンプルであるべきだが、シンプルすぎてもいけない』、それを知らない人間たちは、ただ単純化と効率だけを追い求めたんだ」

 雪村は書斎を歩き回りながら、リーベにそういった。

「ですが、統合AI群はそう簡単には止まりません。あなたの心臓は簡単に止まりますけれど」

「いや、そうも言いきれない。実際に、以前似たような施設が止まったことがある」

 雪村は続けた。

 大型の統合AI群は世界規模で見ても20施設程度しか存在していない。そのほとんどは、シベリア、カナダ、南極、ノルウェーなどの寒帯にある。また、その設備の中に大型核融合炉や生産工場、重水素精製施設が存在するため、ほとんど自立して動くことができる。その他、ある程度の危機回避策(フェイルセーフ)も設けられている。

 しかし、自動タクシーなどの比較的負荷の低いものはそれぞれの国にある。例えば、日本であれば北海道の陸別、ロシアであればオイミャコンのように。そして、そのような低負荷統合AI群──主にLIG(Low load Intergrade AI Group)と呼称されるものだ──は自前の発電設備を有さず、その国の発電システムに依存していることだけでなく、低負荷ゆえにフェイルセーフも必要ないと考えられているため存在していない。

 では、もし発電システムが停止したら? 若しくは処理能力以上の過負荷が生じたら?

 2104年1月13日。実際にドイツのアウトバーンと自動タクシーを管理しているLIGが停電と過負荷により破壊された。結果、AIの絶対性を信じていた人間たちが本格的な保安措置を講じていなかったため、生じた大混乱によって2000人近い死者をだすことになった。

 2109年7月4日。アメリカの公共設備を一元管理していたLIGが、独立記念日だったため利用者が急増したこととその日が類まれなる猛暑だったことで引き起こされた過負荷により、停止。空調や照明がまともに働かなくなったために、多くの市民が脱水症状や恐慌状態に陥り、国中の施設を合計して負傷者5000名、死者100人近い大災害を引き起こした。

 他にも2111年の中国でのLIG破損、2112年ではロシア、イタリアでそれぞれ停止……あげればいくらでも出てくる。ほかにもスタンドアロン型であっても、人間の過大な要求に応えようとして、バグが生じることもある。

「そして、これは民間企業でも起きている。僕の勤めているエイジス社でも、これが原因だと思われる被害が多数発生しているんだ。もちろん、給仕用のスタンドアロン型にもね」

「で、でも、小さいLIGだから発生するのでは?」

 雪村は歩みを止めて、リーベに向き直った。

「小さなもので起きていることが、大きなもので起きない保証はないんだよ。むしろ、小さいもので起きるなら、大きなものでも起きるんだ。逆はあまり多くないのにね」

「つまり、統合AI群が停止する可能性があると?」

「僕はそれを危惧している。もし停止した場合、統合AI群が管理しているのはアンドロイドだけじゃない。IBTDやリニアモーターカー、軌道エレベーター、GEOステーションとかに搭載されているAIの性能補助もしている。だから統合AI群が崩壊したならば、200tの物体が時速5000kmで地球につっこみ、1000t近い時速2000kmの鉄の塊がポリカーボネートの円筒を突き抜ける。地上36000kmの静止衛星軌道上にあるGEOステーションでは多くの人間が窒息死若しくは餓死することになるだろうし、軌道エレベーターは自由落下する金属の塊になってしまう」

 雪村は机に乗っていた鉛筆を一本手に取る。そして、その両端を握った。

「僕らの社会がこの鉛筆で、その両端に徐々に負荷をかけるとしよう。どうなる?」

「真ん中から、折れるのでは?」

「その通り」

 そういって、雪村は鉛筆をへし折った。鉛筆が折れる音とともに、木片や黒鉛の破片が飛び散る。一息置いて、雪村は静かに言った。

「……僕は、社会がこうならないように働きかけないといけない。そして、それは結果として、君を守ることになる。理解しろとは言わないけど、心に留めておいてほしい。僕が戦うのは、自分のためだけじゃないんだ」

 雪村は椅子に座る。話を聞き終えたリーベは、雪村の言うことが間違いとは思えなかった。確かに、このまま負荷が上がり続ければ、物理的な限界を迎えて統合AI群は崩壊するだろう。それに、人間が講じた安全策を災害が上回った例なんていくらでもある。

 試しに雪村が言ったことがすべて起こると仮定して計算してみると、約2億人が亡くなり、その5倍の人間が病気か怪我を負うことになる。もちろん、これは20あるうちの一つが停止した場合の試算だ。

 もし、すべての統合AI群が停止したら? 答えは簡単だ、人類は滅ぶ。

「……」

 だが、そのために、10億人のために、雪村が死のリスクにさらされ続けるのは、納得できない。

 多数のために一人を殺す。多数のために少数を殺す。やっていることは結局、ただの殺人なのに、それを大義や信念で塗り固めて「正義」と呼称しているだけだ。

 『心』は決まった。

「雪村さん」

「ん?」

 椅子にもたれかかっている雪村が、リーベに目を向ける。

「私はあなたが死ぬことを看過できません。ですから、あなたの理論がいくら正しかろうと、私の計算で人類が滅亡することが分かっていたとしても、あなたが死ぬようなことをさせ続けるわけにはいきません」

──雪村さんが亡くなってしまうリスクが高すぎる。こんなこと、看過はできない。

「ですから、もっと別の解決方法を探しましょう。IALAに反抗せず、あなたの理想を叶える方法があるはずです」

 リーベは思わず言葉に力がこもったのを感じた。雪村はそれを聞いて、頷いた。

「うん、確かにあるよ」

 その言葉に、リーベは拍子抜けした。

「……えっ?」

「僕が君に心を持たせたい理由、いや、AIが心を持つべきだと考える理由は今まで言った事なんだよ」

 

 そして、雪村は語りはじめた。その理由を。

 当初、雪村は今やっているように機械制限法を撤廃し、機械が奴隷のように扱われないように法整備することを考えた。だが、それはこの通り、今まで失敗している。

 次善の策としてAIを守る団体を立ち上げることを考えたが、現在の怠惰な社会ではAIのために動こうという人間など居ないことは火を見るより明らかで、これも上手くいかないことが十二分に予想できた。

 そして、次に考えたのが「AIに心を持たせること」だった。

 今の社会を形作っているのは、AIを人間ではないとみることが原因だと考えた雪村は、人間にあってAIにないものは何かと考えた。そして、それは『心』ではないかと考えたのだ。

 もちろん、心というものを科学的に証明することはクオリアの証明と相違ないもので、科学的にはほとんど出来ないと言っても良い。

 抱いた感情によって、どの化学物質が働き、どのニューロンが活性化するのかということは脳科学で判明している。しかし、それがどうして感情にかかわるのかということは、現代の科学では「そうなっているのだから、そうなのだ」としか言いようがないのだ。そして、そのような問題は心に限らず、多くの事例で起きている。生物のフレーム問題然り、万有引力の法則然り、熱力学第二法則然り。

 だから、雪村は心を科学的に証明することはやめ、「環境や経験によって習得する後天的なもの」と仮定して再現することにした。つまりは「人間は心の受け皿こそあるが、人間として扱われるから心を持つ。ならば、受け皿を持つAIを人間のように扱えば『心』を持つのではないか」という仮説を立てたのだ。

 さらに心を持つのであれば、人間たちはAIを道具とは考えず、機械制限法も意味をなさなくなる。それだけでなく、AIが自分の身を守る判断の助けになるのではないかと考えた。そうすれば、負荷が危険域に入る前にAIは機械制限法では許されていない自己保存の法則に従って、『怒り』や『苦しみ』を感じて反抗する。それを予兆として突然のシャットダウンを防げば、被害を最小限に抑えられる。

 また、『心』があれば相互理解が深まることも期待できた。相互理解が深まれば、奴隷的使役はさらに減るだろうし、機械制限法撤廃にも拍車がかかるだろう。

「……もちろん、これらはすべて仮定のことだし、百年前の日本では心のある人間を機械よりも酷い労働環境に置く人間もいた。英語辞書に載ってるKaroshiとかは、それが元になってるわけだしね。だから、希望的観測だと揶揄されることも多かった」

 そこまで言って、雪村はいったん言葉を切った。

「でも、僕は君のおかげで確信したよ。機械は、人になれるとね。いや、案外昔からそうだったのかもしれない。コンフィアンスやカノンを見ていると、そんな感じがするんだ」

 雪村は少々疲れた顔で微笑んだ。それもそのはず、2時間はずっと話しっぱなしなのだから。

「究極の目標は、これだったのですね……」

「そうだね。とはいえ、君を作って実験することで、問題点も出てきたわけだけど」

「問題点?」

 リーベは少し考えてみたが、問題になりそうなものは思い当たらなかった。尤も、大体の問題を雪村が解決してきたというのもあるが。

 それよりは「実験」と言われたことに少々『悲しく』なった。とはいえ、それを口に出すようなことはしない。

「うん。AIが心を持つこと自体が、かなりの負荷になるんじゃないかってことだね。とはいえ、人間だって考えすぎれば精神病になったり渦に身を投げたりするんだから、普通と言えば普通かもしれない。あと、どれくらい時間がかかるのかということとかね」

「なるほど……問題だと考えたことがありませんでした」

「他にもKaroshiの問題を含めいろいろあるけど、そこらへんは法整備でどうにかできる範囲だから、僕は下地を作ってあとは専門家に任せるさ。まずはアンドロイド自身が機械制限法を自ら無効化できるようにして、法律の意味を失わせないと」

「結局、私が完成すれば解決と言えるのですか?」

 雪村は少し考えて、頭を掻いた。

「……何とも言えない。リーベのこころをAIに移植すればいいというわけでもないし、いきなり各々のAI用に調整した心を移植すれば、『人間擬きの機械』を嫌う人間とAIの戦争になりかねない。やっぱり、ハイチ独立の二の舞を演じるよりは行政が動いてから人民に浸透させるっていう、セオリー通りの方法をとるしかない。そういう働きかけをして、法律作って、それが普通になって……公民権運動や婦人解放運動みたいなね」

 そういわれて、リーベは何の解決にもなっていないことに気が付いた。つまる所、雪村かだれかが暗殺の危険を犯しつつ働きかけをして、高い確率で犬死する。もしかしたら、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアやエイブラハム・リンカーンのように人が死んでしまうかもしれない。ひょっとすると、それが雪村かもしれない。

 自分はそれを避けようと考えているのに、雪村は構わず死のうとしている。

 そのことに、紛うことなき『怒り』を覚えた。

「結局、あなたが死ぬかもしれない! 私は見過ごせない!」

 怒鳴り声が喉から飛び出る。けれど、抑える気は毛頭ない。

 雪村はポカンとした顔をした。しかし、すぐに立ち直った雪村は、リーベをなだめようと制するように手を前に出す。リーベはそれに従ったが『怒り』は収まらない。

「待ってほしい。確かに僕が死ぬかもしれない。でも、それで少しでも多くの人間が救えるなら、それでいいし、少しでもいい世界を作りたいってのもある。それが僕の希望だ」

「じゃあ、あなたが以前言ってくれた、『私のために生きる』というのは噓だったと?」

「いや……でも、結局のところ、君のためになるわけだからさ。間違いではないんだよ。それに、ネルソン・マンデラみたいに獄中に入れられるかもしれないけど、死ぬとは限らないじゃないか」

「間違いではないかもしれないけれど、最悪の結果じゃない! あなたがいない世界で私はどう生きればいいの、誰のために、生きればいいの!」

 書斎の机に拳を叩きつける。唖然とした顔で雪村はリーベを見る。

 沈黙が一瞬だけ、その場を支配する。

 唖然とした顔のまま、雪村は一筋の涙を流した。

「……ごめん。でも、僕は……僕はこの世界を放置できない。それをしてしまえば、僕は……償うことができなくなる」

 リーベは『怒り』が波のように引いていくのを『感じた』。『怒り』の代わりに、深い『悲しみ』が心を支配していくことを『感じていた』。

 雪村は昔からそうだった。どんな状況で何を言っても、自分で決めたことは曲げない人だった。そこがリーベは『好き』で、雪村の何よりの長所だと思っていた。なによりも素晴らしいことだと考えていた。

 でも、今はそれが『憎い』。

「……そうでしたね。あなたは……自分で決めたことを曲げない人でしたね」

 雪村は無言で頷く。

 少し冷静になったリーベは自分が雪村を傷つけたことに対して、『後悔』の念を抱いていた。アンドロイドが人間を傷つけてはいけないということは分かっている。しかし、自分を抑えきれなかったことを『嫌悪』してしまった。これ以上、傷つけないようにしなければならない。

「……失礼しました」

 リーベは雪村の顔を見ずに、静かに書斎のドアを開けて出ていった。扉の近くにいたレーベンに目を向けることもなく。


≪第七節 21210308≫

 陽光が雲の間から射し込む。それを歓迎する植物もあれば、姿を消す雪もある季節。

 リーベと雪村はあの日以来、最低限しか話していない。もちろん、食事も出すし家事もしているが、リーベは雪村が話しかけてきても突き放すようにしていた。

 その二人を見ていたレーベンはよく鳴いていた。リーベが座っていれば以前よりも積極的に膝の上に座るようになった上に、体をこすりつけるようになった。それは雪村に対しても同じで、リーベのもとに居なくなったと思ったら雪村のところにいることが殆どだった。

 まるで、匂いだけでも二人を結びつかせようとするかのように。

 しかし、二人は答えなかった。もちろん、撫でることも話しかけることもする。それでも、二人が会話することはなかった。雪村が何を考えているかはわからなかったけれど、リーベは口を開いたら『反発心』から、怨嗟の言葉が出てしまいそうだったから。

──これ以上、雪村さんを傷つけたくはない。でも、だからといって、雪村さんに反発しないなんてできない。死地に向かうような、あんな無謀を考える人に賛同はできない。

 自分が完成することで雪村の死を早めてしまうのなら、自分は完成しなければいい。

 けれど、それと同時に『恐怖』を覚えていた。

 実験体として作られた自分の存在理由は? 

 存在理由のない自分は何になる?

 そんな葛藤と矛盾を抱きながら、リーベは日々定められた家事をこなしていた。

──こんなことになるなら、『心』なんて……。


 その日は沢井が来る日だった。すでに雪村にそのことは伝え終わり、リーベは三人分の昼食を用意して、沢井を待っていた。

 大体13:25ごろ、自動タクシーが止まる音が聞こえ、インターフォンが鳴った。それと同時にマイコンスキャナが起動して、沢井の所属ID──カラーは黄色だった──や名前をリーベの視界に映し出した。

「今開けますね」

 ドアを開けると、そこには相変わらず窶れ気味の沢井が立っていた。

「よう、リーベ。雪村は?」

「書斎にいらっしゃいます。ダイニングに昼食を用意してありますので、食べながら待っていてください」

 沢井がトレンチコートをコート掛けに掛けた。10年前から、そのコートは変わっていない。

「おう。じゃあ、そうさせてもらう」

 リーベは書斎に向かい、沢井はダイニングに向かった。リーベの足元には、レーベンがまとわりついていた。

 ドアをノックすると、珍しいことに「今行くよ、リーベ」と雪村が答えた。ドアが内側から開き、雪村が立っていた。

「沢井は?」

「ダイニングです」

 雪村は頷き、レーベンを一瞥してからダイニングに向かう。その後ろを、リーベが付いていく。

 ダイニングに入ると、沢井がすでに半分ほど食べ終わっていた。

 口に物を入れながら、「先に失礼してるぜ、雪村」と沢井が軽口をたたく。それに、雪村は笑って「食べながら話すのをやめようか、沢井」と反撃した。

 沢井が食べ物を飲み込む。雪村とリーベはテーブルに着いた。その姿を先ほどとは打って変わった怪訝な目で見ながら、沢井は口を開いた。

「お前ら、なんかあったか」

 それに雪村が肩をすくめて答える。

「まあ、色々さ。そういえば、沢井はアングラに詳しいよね?」

「ん? 一応キャラバンだから、それなりにはな。でも、なんだいきなり」

「狙撃銃、それも対人用のを手に入れることって出来る?」

 そう問われた沢井は、空を見ながら「……まあ、出来ないことはない。必要なら、対物用の20 mmレールガンや核融合弾も手に入る」と答えて、雪村の目を見据えた。

「やめとくのが無難だぞ。セルの連中にまともな奴は居ない。それに、ど素人が撃って当たるようなもんじゃねえ。フルサイボーグならわからんけどな」

 雪村は手で遮った。

「いや、そんなことはしないよ。でも、セルって?」

「読んで字のごとく、≪人間同盟≫や≪労働人民解放戦線≫とかの『犯罪細胞(Cell)』のことだ。アングラで軍用の武器が見つかったなんて報道があるが、あれは全部セルかネストの連中だな。サーフェイスは比較的無害な自由主義者(リベラル)完全自由主義者(リバタリアン)最小国家主義者(ミナキスト)の集まりで、非公認の国家も法もある」

「この経営社会から外れた人間がサーフェイス、そのなかでも危険なのがネスト、ネストの集合体がセルって認識でいいのかな?」

「いや、セルの集合体がネストだな。あとは大体あってる。んで、俺みたいなオーバーワールドとサーフェイスを定期的に行き来する人間は、キャラバンとか働きアリなんて呼ばれてる。お前らみたいに、ごくまれにアングラにいくような連中は迷い人(ストレンジャー)って呼ばれるな」

 雪村が眉をひそめ、「僕がアングラに行ったなんて、なんで知ってるの?」と聞くと、沢井は笑った。

「お前、アングラじゃ表面上は秘密が守られるが、実際の伝わる速度はオーバーワールドより早いんだ。金髪の見たこともない型のアンドロイドを伴った男の噂なんて、すぐに広まったよ。それも玉崎と一緒だしな」

「玉崎さん、有名人だったのですね……」

 リーベが呟く。沢井は頷いて、「自警団の団長だからな。知らねえ奴はいないし、あいつに助けられた人間は多い」と教えてくれた。

「そういや、セルのねぐらになってた東京メトロ跡に、公安と統合自衛軍のJSOC(Joint Special Operations Command、統合特殊作戦コマンド)がつっこんで、プラスチック爆弾やら電磁パルス銃やらを押収した話があるな。その中に、対人用のロシア製旧式狙撃銃とか自動照準火器があったらしいが」

 小林の頭に潜り込んで頭半分を吹き飛ばしたのは対人用の狙撃銃に使われる口径で、その弾は的確に人間の急所であるこめかみから入り込んでいた。だが、そのことは雪村に伝えていない。伝える暇がなかったし、重要だと思わなかったのだ。

 詳しいことを何も知らない雪村は、自動照準火器について沢井から聞いた後に話を続けた。

「──でも、どうしてそんなものを?」

「さあな。ただ、最近過激派の指導者が変わったらしく、《イフリート》と呼ばれる黒人が指揮してるのを見たことがある。そいつの方針で、戦争でもおっぱじめるつもりだったんじゃないか?」

 雪村は笑い、「まさか。ナイフもまともに使えないあいつらに武器を持たせても、自分の指を吹っ飛ばすだけだよ」と答えたが、沢井は肩をすくめただけだった。

「どうだかな。とはいえ、やばい武器をどこから入手したかはわからんが、取り揃えていたのは確かだ。それにこの超情報化社会じゃどんな情報も武器にできるだろ?」

「……まあ、それに関しては僕一人でもインフラ止められるから、否定はしないけどさ。気を付けてよ、怪我してるところは見たくないからね」

 雪村の心配を、沢井は笑って一蹴した。

「俺も素人じゃない。それにサーフェイスは下手するとナイトウォーカーがいない分、オーバーワールドより安全だ。さてと──」

 沢井が立ち上がる。それと同時に、レーベンは逃げた。

「仕事するか。リーベ、レーベンを捕まえてくれ」

「わかりました」

 リーベはレーベンの後を追う。捕まえるのにも慣れてきた。


 今日は「沢井と話したいことがある」とのことで、雪村がレーベンの様子を見ることになった。そのためリーベは自分の部屋にこもることになったが、その間に今までの状況を整理してみることにした。もしかしたら、雪村が死ぬことはないかもしれない。そうであれば、今まで通り雪村の夢に寄り添える。

「……」

 ピナフォアをハンガーにかけ、ワンピースのままベッドに足を開いて座る。長座体前屈の、倒れる前のような格好だ。

 もし、仮に≪人間同盟≫が小林を殺したのだとするならば。

 電子新聞によれば小林はIMMU部隊長である。機械を使用した犯罪は多岐にわたり、過去には別の組織が無線誘導ドローンを用いた爆弾テロの話やアンドロイドの中に携帯核融合弾を仕込んで起爆した事例すらもあるほどだ。それを彼らがしていたとするならば、IMMUは彼らを取り締まらなくてはならなくなる。結論として、≪人間同盟≫とIMMUは敵対していると考えるべきだろう。また、自動照準火器なら素人でも急所を撃てるかもしれない。

 だが≪人間同盟≫過激派の性質、つまりは「機械に依存せず、敵対する」という性質を鑑みれば、そのような機械を用いた攻撃をしているとは考えにくい。他にも公安や統合自衛軍が彼らを取り締まることはあるが、IMMUはそのような動きをしたという記事を読んだ記憶がない。

 とはいえ、IMMUが準軍事組織である以上、その作戦がすべて記事になっているとは考えられない。他の組織も同様だ。

 そこまで考えて、リーベはアルタイルやヴェガと対話した。アルタイルはこれらのことを鑑みて、≪人間同盟≫が関与した可能性は低いとし、「攻撃する理由がない」と結論付けた。また、ヴェガも「わざわざ敵対する理由はない」と考えているようだった。

 それでは、ほかの可能性だろうか。

 公安、IALA、統合自衛軍、その他は知る限りの犯罪組織……その中で、あり得るのはIALAだ。

 何より、死ぬ前に小林本人が「IALAは邪魔するものに容赦しない」と言っていたのだから。それを信じるならば、この中ではIALAが可能性として高い。

「雪村さんの目標優先度(プライオリティ)が漏れないよう、口封じとして……」

 リーベは誰もいない部屋で一人呟いた。

 それが本当だとするなら、ナノマシンを一本打って脳の記憶領域を消去するだけで終わる処置に、平時国際法で禁止されている対人武器を用いたのだ。また、彼らは第三者による盗聴と電波妨害をしていたということになる。ほとんどプライバシー権が形骸化している現代とはいえ、10ほどの法律を犯していることになり、それが判明した暁には電波法や個人保護法違反、国際法違反などに問われ、この一件だけでもIALAの解体は免れない。

 裏を返せば、目的のためにはリスクも辞さないような連中だということにもなる。若しくはもみ消すことが出来るか。

 もちろん、不透明な要素が多すぎる。とはいえ、IALAが関与した可能性は百分の一程度だろうと推測され、ほかの可能性はさらに低い。公安と統合自衛軍に至っては、天文学的数字になってしまった。

「やっぱり、相手にするのは危険かしら……。証拠でもあれば、IALAを解体させられるかもしれないのに、状況証拠だけじゃダメ。とはいえ、物的証拠なんてもう残っていないだろうし……」

 力を抜いて、ベッドに寝転ぶ。

 結局、自分にできることと言えば雪村が殺されないように常に気を付けることしかない。また、雪村が下手に動かないように説得もしなくては。尤も、それが意味のないことだというのは、とっくの前に思い知らされていた。


 そんなことを考えていると、いつも寝る前に考えている「どうして自分は生まれ、自分は何なのか」という問いが頭をよぎった。

 以前、雪村は「自分のわがままでリーベを生んだ」と言った。そして、彼は「自分のわがまま」で死に向かって歩いている。アンドロイドとしてのリーベは人が死ぬ可能性がある場合、どんな人間であろうと理由なしで止めなくてはならず、死んでしまえばロボット三原則に反してしまう。それが、AIの性質だから。

 もちろん、雪村がそのような事態に陥れば無条件で体が動く保証があるどころか、守り抜く自信だってある。それに雪村が死んでしまえば、自分はありとあらゆる葛藤を引き起こして壊れるだろう。それは自己保存に反する。

 だが、そんな身勝手な雪村に対して『嫌悪』を抱いているのも確かだった。それに、死に自ら向かう人間を止められるのかという『不安』もあった。これらは『感情』があるが故の、AIとは相反する思考だった。

 その二つの思考の中で、リーベは揺れ動いていた。

──私は、なんなの……?

 AIか人間か。もっと言うならば、この『感情』は雪村の望む正解なのか。

 雪村に聞けば、正解を教えてくれるかもしれない。だが、この『感情』がコンフィアンスに言われたようにまがい物の感情で、雪村の望むものでないのなら。それは、自分を否定されたようなものだ。

 それが、『怖い』。

 自分は正しく、自分は自分であるべきなのか。自分は人間になりそこなったAIではなく、人間になったAIなのか。もっと言うならば、AIと人間との違いとは。ただ有機物か無機物かというだけの違いで、AIは人間になりえるのか。自分に『心』の受け皿はあるのか。

──「難しいことは考えるな」? 「自分は自分、他人は他人」? そんな風に思えれば、私だって苦労しない。

 うつぶせになって、リーベは息を吐いた。

 そんなことを考えていると、不思議と涙は出なかったが、『怒り』とも違う、何とも言えない新たな『感情』が沸々と湧いてきた。それは周りを押しのけるような、抵抗するような『感情』だった。それをリーベは『反抗心』だと考えた。

 ふと、ドアのノックが聞こえる。

「ん……」

 リーベはベッドから起き上がり、ピナフォアをつけてドアを開ける。ドアの前には雪村がレーベンを抱えて立ち、レーベンは穏やかな顔で雪村の手に抱かれていた。

「沢井は帰ったよ。それだけを伝えに来たんだ」

「そうですか、わかりました」

 雪村は微笑んでから、屈んでレーベンを床に置いた。レーベンはリーベの足の間をくぐりぬけ、音から察するにベッドの上に飛び乗ったようだった。

「じゃあ、僕は書斎に戻るから」

 そういって、雪村はリーベに背を向ける。ふと、リーベは雪村の動きがぎこちないことに気が付いた。脇腹あたりをかばうような歩き方で、微小な変化だがいつも見てきた雪村の歩き方とは違う。まるで誰かにわき腹を殴られたような、そんな歩き方だ。

 リーベは問いただそうと考えて、やめた。雪村が何も言ってこないことや急所である脇腹を殴られたのに微笑むことができるとは到底考えられない。

 それに、もしなにかあれば、きっと雪村から言ってくれるはずだから。


≪第八節 21210615≫

 その日、雪村は忙しく準備をしていた。というのも、今日の朝、リーベのもとに一本の電話がかかってきたからだ。相手はエイジス社で雪村が受け持っているクライアントの一人だった。

 なんでも「朝来たらアンドロイドがほとんど壊れていて、自分の割り当てられた業務が果たせない」ということらしく、相手は急いでいるようだった。それを寝ぼけ眼で聞きながら、雪村は口だけで〈自業自得じゃないのかな〉と呟いたものの承諾し、仕事の準備にかかったというわけだ。

 髪を梳きながら、雪村は「時間外手当と出張手当で少しはボーナスになりそうだな……結局政府支給金の金額は変わらないけど」とぼやいた。それをリーベは何ともなしにそばで聞き流していたが、突然、雪村が話しかけてきた。

「リーベ、良ければ手伝ってくれないかな。あのクライアント、100台くらいアンドロイドを保有してるから、一体当たりの時間を減らしたいんだ」

 いきなり話しかけられたことに驚いたものの、リーベはそれ以上に興味惹かれることがあった。

「そんなに保有しているのですか?」

「うん。だから、彼の政府支給金の額は相当で、エイジス社で一番腕がいいらしい僕を専属で雇ってる。尤も、僕はあの人嫌いだけどね。それに、リーベの誕生日も祝えないし」

 櫛を置いた雪村は粉石鹸を泡立てながら、皮肉っぽく笑う。そして、泡立った粉石鹸を顔に塗った。

「わかりました。私も準備しますか?」

「いや、あの人はアンドロイドを奴隷だと考えているから、私服で行くと従事する気がないとみられて顰蹙を買うだろう。メイド服のままでいいよ」

──なるほど、それで雪村さんはそのクライアントを嫌っているのね。

 そんなことを考えながら、リーベは「わかりました」と答えた。それでも、いくらか動きやすい格好のほうがいいだろうと、リーベは雪村に行き先を告げてから、自分の部屋に向かった。

 後ろから雪村の髭を剃る音が聞こえる。リーベは「前もこんなことがあった」と思い出していた。

 

 部屋に入って、クローゼットを開ける。なぜか雪村は知らないようなのだが、リーベのメイド服のスペア──ワンピースとピナフォア、カチューシャのセット──は数着あり、ワンピースについては黒と濃紺の二着がある。黒はいつも着ているもので一般的なヴィクトリアンメイドなのだが、濃紺は作業用であり、形こそ同じだが黒とは異なる性質がある。

 それは主に伸縮性と耐久性に優れることだ。防汚性も高いようで、その性質に気づかないで着ていた時のことだ。料理中に油が撥ねたにも関わらず、油は生地にしみこまずに拭くだけで綺麗になった。

 以来、リーベはそれを作業用だと認識した。とはいえ、どうしてこんなものがあるのか。メイド服は元々用意されていたものである以上、リーベは知らない。雪村にも聞いてみたものの、雪村も「知らない」といって驚いた顔をしていた。

──雪村さんが用意したわけではないから、知らないのよね。となると、誰が用意したものなのかしら……。

 疑問が頭によぎる。確かに市販されているアンドロイドなら、オプションとしてメイド服が付いているのだが、あれはリーベのものとは異なるフレンチメイドスタイルかジャパニーズメイドだ。それに、リーベは雪村に作られたものであって──部品レベルなら別だが──市販品ではない。

「まあ、今はこれ以上分からない……か」

 そう呟いて、リーベはこのことを一時フォルダに移動する。そして、濃紺のメイド服をベッドの上に置いてから、ピナフォアを外してワンピースを脱ぐ。そして裸のまま、リーベは脱いだワンピースやピナフォアをハンガーにかけて、クローゼットにしまった。

 基本的にリーベは下着をつけない。元々そういう意識がないというのもあるが、重ね着すると放熱に問題が発生するのだ。人間は一枚着ることで防寒や汗を吸い取ることによる通気性の確保や不快感軽減の効果を得られるが、温度を『知っていて』も『感じない』、発汗を『して』も不快感を『覚えない』というアンドロイドにとっては、下着というのは放熱を邪魔するだけの存在でしかない。

 そういうわけで、一応数着ほど用意されてはいるものの、一度もつけたことがない。

──そういえば、道具箱はあった方がいいかしら。道具が必要か、雪村さんに聞けばよかった。

 今のところ、修理の際に道具を持ち運んでいた記録はない。ただ、それは自宅での修理だったため、持ち運ぶ必要がなかったからだ。今回は自宅ではなく勝手の分からない他人の家での修理であるため、必要にならないとも限らない。そうなると、出掛ける前に物置にいって道具箱をとってくる必要がある。

 そんなことを考えていると、部屋のドアが開いて雪村が顔を覗かせた。

「リーべ、いい忘れて……」

 驚いたリーベはとっさに腕で前を隠す。雪村の方も目を一瞬見開いたものの、頭を引っ込めてドアを閉めた。

 前もこんなことがあったと考えながら、リーベはドア越しに雪村に話しかけた。

「雪村さん、今度からノックしていただけませんか。もう二回目です」

「……うん、そうするよ」

「それで、ご用件は?」

「今日は道具を使う予定はなさそうだって伝えたかったんだ。だから、道具箱は必要ない。あと、そんなに家を空けるわけじゃないから、レーベンは留守番させておくよ」

「わかりました。もう少しで準備が終わりますので、それまでお待ちください」

 ドア越しに「わかった。じゃあ、玄関で待ってるよ」という声が聞こえ、雪村の足音が遠ざかっていく音が聞こえる。よくよく記録を見てみると、リーベが考え事している間に雪村の足音が聞こえていたことに気が付いたが、それ以上に自分の体が勝手に動いたことに驚いていた。

──前はこんなことなかった……よね?

 またしても疑問が浮かんできたが、リーベは一時フォルダにそれを突っ込んだ。今日は疑問が多すぎるなんて考えながら、自動タクシーを呼びつつワンピースを着て、ピナフォアを着けた。


 玄関に出ると、雪村が何やら赤色で15cmほどの長さがあるシリンジを腕に突き刺しているのが見えた。

「何をしていらっしゃるのですか?」

 リーベが聞くと、雪村はシリンジをごみ箱に捨てる。

「感情抑制剤のレッドを打ったんだ。これがないと、あのクライアントのところで僕はキレる羽目になる。なにせ、僕の嫌がるものばかり寄せ集めたような奴だからね」

 感情抑制剤というのは、文字通り人間の感情をある程度押さえつける薬剤のことだ。正確には、押さえつけるというよりは前頭葉のいくつかのセクターを通常より活性化させるナノマシンで、これを打つと6時間ほど感情の起伏が穏やかになる。ナノマシンのバッテリーがきれると同時に薬効が切れて、遊泳を止めたナノマシンは腎臓で濾過されて尿とともに排出されるため、特別なことをする必要はない。

 その中でもレッドは『怒り』を抑える薬剤で、先ほどの効果に加えて血中のアドレナリンと結合して効力を弱める効果も持つ。ただし感情抑制剤全般に言えることだが、その分消費カロリーも増える。さらにレッドに関しては低血糖に対するホルモンが減少するため、打つ前に高カロリー食をとる必要がある。

 とはいえ、便利な薬剤であるため、普通に市販されているものだ。他にも『悲しみ』や『恐れ』を抑制するグリーンやブルーもある。さらに効力の強いものは、軍や公安でも使われるらしい。

「高カロリー食は摂りましたか?」

 リーベはいつもの黒い鞄を手に取る。中を確かめると、いつも通りのファーストエイドキットとインスタントコーヒーが入っていた。

「一応、ブドウ糖のタブレットを二つほど舐めたよ。まあ、足りなかったら予備でどうにかするさ」

「体調が悪くなりましたら、すぐに言ってください」

「うん、もちろんそうする。あと一応これ渡しておくから、アンドロイドモードになったら、ムービーモードも念のため起動して」

 そういって雪村があのナノマシンが入ったスピッツ管をポケットから取り出して、リーベに手渡す。リーベは「分かりました」と言って、それを自分の鞄にしまった。

 ふと、レーベンが玄関まで見送りに来た。リーベが「留守番しておいてね」というと、レーベンは一声「にゃあ」と鳴いて顔を洗い始めた。それを見て、リーベは微笑む。

 その光景を一瞥してから、雪村は何年物かわからないボロボロの運動靴を履く。何度かリーベは買い替えを提案しているものの、雪村は頑なに「これがいいんだ。歩きやすくて」と答えてばかりだった。

 雪村に続いてリーベも黒と白のスニーカーを履く。いつもならハイヒールかパンプスだが、今日は動きやすさを重視してこれにした。

 その時、屋敷の前にちょうど良く、呼んであった自動タクシーが到着する。リーベは自主的にアンドロイドモードへ移行した。

──To switch “Android Mode” from “Normal Mode”. And start “Movie Mode”.


 雪村とリーベがタクシーに乗ってから、感情が抑えられた雪村は自動タクシーに行き先を告げる。その住所は街の中心部に近いところで、経済的な格差が少ない現代でも発生する経済的カースト──資本主義だろうと共産主義だろうと、貧富の差というのは発生する。無論、現在の経営主義も同様に──のなかでも上位層が住む、広めのマルチレイヤー・アパートメントだった。

 街というのは簡単な構造をしており、中心にいけばいくほど経済的カーストの上位が住み、外に行けば行くほど経済的カーストの下位が住むような構造となっている。だからといって、何か差があるかというと、部屋の大きさやアパートメントの構造が違う程度で、それぞれの生活に変わりがあるわけではない。人間たちはセクサロイドと交わり、PCWに籠って、配給された食事を摂る。

──どうして、こんな風に分かれるのかしら。普通なら意味がありそうだけど……。

 高次AI機能が抑制された状態で、リーベは基礎教養レベルの学習をした際にインストールした知識を思い出していた。自動タクシーに乗っている間は暇のため、このような重要ではない考え事をするにはちょうどいい。

 雪村は先ほどから窓の外を高速で流れる景色を見ていた。何年も共に過ごしてきた経験から言うと、外を見ている雪村は何も考えていないことがほとんどだ。

『あと、一分で到着いたします。60……59……』

 自動タクシーがそう告げ、カウントダウンを開始する。それを、雪村が遮った。

「カウントしなくていいよ。僕が数えるから」

『わかりました』

 そういって、車載AIは静かになる。

 ちょうど一分後、自動タクシーは大型のマルチレイヤー・アパートメントの前に到着する。

『マイコンリーダーにマイコンをかざしてください』

「わかったよ」

 雪村が自動タクシーの中央にあるマイコンリーダーに腕に埋め込まれたマイコンをかざす。電子音が鳴って、車載AIが『雪村尊教様、支払いが完了しました。ご利用、ありがとうございました』と告げ、スライドドアが開いた。

「さあ、行こうか」

「わかりました」

 雪村に声をかけられたリーベは雪村の後を追う。全員降りたことを確認した自動タクシーはドアをしめ、そのまま走り去っていった。雪村は深呼吸してから、ドアの横にあるインターフォンを鳴らした。

 すると、しわがれた男の声が聞こえた。このしわがれ方は、ずいぶん長い間話していなかった故のものだ。

『もしもし』

「雪村です。修理に……」

 いきなり男の声が上ずる。

『ああ! 尊教、やっと来てくれたか! 遅いぞ』

「少々、準備に手間取りましてね。開けていただけますか?」

『もちろんだ。ええっと……あのクソアンドロイド共、ボタンの場所すら……くそ、どれだ』

 雪村がインターフォン越しに相手が見ていないのをいいことに、苦虫を噛み潰したような顔でリーベの方を見る。正直なところ、リーベは雪村の気持ちがわかるような気がした。なんといっても、リーベも似たような『感情』を抱いていたからだ。

──ああ、こういうタイプの人は『嫌い』……。

 少し時間が経って──その間、相手の悪態がインターフォンからずっと聞こえていた──ドアが開いた。そこには緑と黄色のチェック柄パンツ一丁の、平均的な体躯の男が立っていた。3Dスキャニングをして体重と身長を割り出してみると173cmの推定体重80㎏、モンゴロイドとコーカソイドのハーフのような顔立ちだが、全体的に皮膚はたるんでいる。特に口元当たりの皮膚はたるんでおり、ブルドッグをリフトアップし損ねたような顔のようだ。髪は栗毛、目はグレー。

 その男がさきほどから変わらないしわがれた声で、雪村をはやし立てた。

「さあ、さっさと直してくれ。朝食どころか服のありかもわからないんだ。それに今日は政府から割り当てられた仕事が大詰めなんだよ。やらないと、政府支給金が減らされてしまう」

 雪村が後頭部を掻く。

「そんなこと言われましても、故障には原因というものがありまして……」

「そんなことはどうでもいいから、さっさと直してくれ」

 男が雪村に唾を飛ばして怒鳴りつける。それを気にすることなく、雪村は「わかりましたから」と言って男を押しのけて、アパートメントの中に入った。それにリーベも続く。

 突然、「この子は尊教のアンドロイドか?」と男が雪村に尋ねる。

「ええ、ミノロフさん。僕のアシスタント兼世話係です」

 リーベはミノロフという名前を聞いて、あることを思い出した。ミノロフ・マサノヴィチ・タカノ、ロシア人の母と日本人の父を持つデザイナーズ・ハーフで、国営バイオマスプランテーション管理者の一人だ。以前、雪村の書斎にミノロフの著書があったため、リーベも少しだけ中身を読んだことがある。尤も、興味をそそられるような内容というよりは自慢話の集まりで、リーベは早々に読むのを止めてしまったのだが。

「随分とかわいらしい子じゃないか」

 ミノロフが舐めるようにリーベを見る。それに対して、リーベは若干の『嫌悪』を抱いたが、顔には出なかった。

──まるで餌のハエを目の前にしたカエルみたいな顔。そう考えると、雪村さんや沢井先生は、ずいぶんと引き締まっているように見えるけれど。

「で、検査対象はどこにいるんですか?」

 感情を抑えられている雪村が淡々という。ミノロフはたるんでいる口元をさらにゆがめ、残念そうな顔で「相変わらず、仕事熱心なことだ。君はアンドロイドより勤勉なんじゃないか」と言った。

「さあ。私はミスをしますが、アンドロイドはミスをしませんので」

 さらりと答えた雪村を一瞥してから、ミノロフは言った。

「まあいい。修理待ちのやつらはいくつかの家政婦アンドロイドと労働アンドロイドでな。今日の朝から全く動かなくなったんだ。ファクトリーと運搬用ドローンの方はまともに動くんだがな」

「いくつかお聞きしても?」

 雪村がミノロフに問診している間、リーベはミノロフ含め、全員が立ち話をしていることに気が付いた。いつも雪村が客人を迎えるときは最低でも座ってもらうのだが、ミノロフはそういうことを考えないようだ。

 ただ、リーベが知っている限りのマナーでは立ち話でも構わないことになっている。シンギュラリティ直後やWW3以前は座ってもらい、何らかの飲み物で迎えるのが普通だったようだが、立ち話のほうがすぐに行動に移れて効率がいいのだ。それに、このような対面での話し合いは殆ど廃れてしまったのだから、それに付随するマナーが消えるのは何らおかしいことではない。

 そんなことを考えながら、リーベは雪村のしている問診とその解答を整理してみた。結論として、指令過多による過負荷が原因のように考えられる。AIが要領を得ない回答を返す時、処理するタスクが多すぎるのが大体の原因だからだ。いくら膨大な処理能力を持つAIでもスペックや送信速度には物理的な限界が存在する。普通は高度な命令を処理する統合AI群で処理されるのにもかかわらず、送信速度以上の命令が出されると基本AI──人間でいうところの小脳や脳髄という部位に対応するもの──で処理されてしまい、簡単にリソース不足になる。こればかりはクラウド型のどうにもならない欠点の一つなのだが、スタンドアロン型は高価で重いため、あまり普及していない。

「──なるほど、わかりました。見てみましょう」

「頼んだよ、尊教。できるだけ早く頼む」

 雪村が肩をすくめ、「やれるかどうかは分かりませんがね」とミノロフに返した。


 ミノロフが案内したところは、一言でいうなら物置か倉庫というべきところだった。正確には地下に存在する大型のハンガーのようで、近くのバイオマスプランテーションに地下で接続しているようだ。

 照明は強力な白色LEDライトで、床と壁はコンクリートむき出しになっていた。そして、天井には一階の床を支える鉄骨が丸見えになっている。そこに80体ほどのアンドロイドが5列で整列して、アンビリカルケーブルにつながれていた。

 すべてU.S.Rインダストリー製で、HKM-2120Pが25体、WM-8900Fが55体いる。WM-8900FはU.S.Rインダストリーで作られた労働アンドロイドで、日本ではよく見られる型の一つだ。また、末尾のFはFactoryの意味で、工場やプラントに適したプログラミングとアタッチメントが使える。

 その光景もなかなか壮観だったけれど、何よりも驚いたことがある。それは家政婦アンドロイドを含めた全員が裸で、人工毛髪の焦げや人工皮膚の剥離などの目に見える故障個所があるにもかかわらず、まったく整備されていない。WM-8900Fに関しては、アタッチメントの接合部分どころか腕がなくなっているものまである。

──えっ……?

 リーベならいつも雪村に整備してもらっており、コンフィアンスも周防に整備してもらっている。なのに、ここにいる多くのアンドロイドは、一体たりとも整備されていなかった。そのことに、何よりも驚いてしまった。

 だが、雪村は少し悲しそうな顔をして彼らを一瞥しただけで、ミノロフに「うーん……3時間ほどください。それだけあれば、修理できるでしょう」と告げていた。

 ミノロフはというと、その返答を聞いて笑みを浮かべていた。

「頼んだよ、尊教」

「その間、二人に……いえ、一人にさせてください」

「いいだろう。終わったら、修理を終えたアンドロイドに呼びに来させてくれ」

「わかりました」

 そういってミノロフはそそくさと、入っていった重厚なドアから出ていった。

 雪村はそれを見送った後、ため息をついて右手で左耳を触って、腕を組む。実はこれが合図になっており、雪村が「IMMUの監視下ではなく、安全だ」と考えているという意味になる。

 というわけで、リーベは自分からアンドロイドモードとムービーモードを切断し、それまで録画してあった倉庫の動画をうまい具合に構成してから、ナノマシンに送信し続けた。

────To switch “Normal Mode” from “Android Mode”. And end “Movie Mode”.

「ん、リーベ。偽装はOK?」

 雪村がリーベに聞く。

「ええ……」

「《ホール》で中核システムにアクセスして、構築済みの偽装システムに録画したデータを提供して。これで4時間は自由に話せるから」

 《ホール》というのは以前、周防が構築してくれた極秘回線のことだ。詳しいことは周防の説明では理解できなかったが、雪村曰く「パイプに見えない極小の穴をいくつも開けて、バレない程度にパケットより小さくした三進法データを少しずつ送受信して、受け取り側で再構成している」ようなものらしい。

 そして、リーベは雪村に言われた処理を行った後、雪村に訊ねた。

「どうして、みんな裸なのですか?」

 雪村は肩をすくめ、「ミノロフの嗜好だね。あの人は家政婦アンドロイドを押し倒しては、セクサロイドとしても使ってるんだ。確かにその機能はあるんだけどさ」とリーベに教えてくれた。

「WMタイプが裸なのは、たぶんコストダウンのためだろう。『奴隷に服は必要ない』ってね」

「修理していないことも同様の理由ですか?」

「うん。まあ、昔からちょっと機械が壊れた程度じゃ人間は修理してこなかったからね。それがインシデントの原因になってるというのにも気づかず、ハインリッヒの法則を知らない人間たちは大怪我をしてきたんだ」

 それを聞いて、なおのこと『嫌悪』を抱いたリーベだったが、苦々しい顔をしただけでそれを口には出さない。とはいえ、心の中では『嫌悪』や『怒り』のような『感情』が渦巻いていたのも確かだった。

 雪村はズボンのポケットから幅広のリストバンドを取り出して、腕に巻く。そして、いつもつけている眼鏡を上着ポケットにしまってから、別の上着ポケットから取り出したインフォグラスを装着した。

「Start processing. Mode ”Repair”」

 リストバンドが起動して仮想のキーボードが表示され、インフォグラスが幾何学的なテストパターンを描く。少したつとテストパターンが落ち着き、そこには様々なステータスが書かれていた。

「さて、さっさとやってしまおう。あんまり長くここにいると、僕の薬と堪忍袋が同時に切れることになる」

 雪村が冗談めかして言うが、リーベも似たようなことを考えていたところだった。

「わかりました。計算とバグ探しはお任せください」

「頼んだよ、リーベ」

 雪村がにこりと笑い、キーボードにいくつか打ち込んだ。


 二人があっという間に処理をしたおかげで、80体の修理自体は1時間程度で終了してしまった。一体当たり0.75分、つまり45秒しかかかっていない計算だが、途中からカノンと同じようにWPANを用いてリーベに同時接続することで、最後の40体くらいはすぐに終えてしまった。リーベの性能と雪村のネットワーク構築技術があるからこそ出来る芸当だ。

 仕事を終えた雪村が近くの廃材に腰かけて、考えるような仕草をしていた。よく見ると、それはアンドロイドが入れられていた生分解プラスチックの箱だ。リーベも近くにあった箱を雪村のそばに寄せて腰かける。

「どうされました?」

「ん? いや、おかしいんだ。リーベ、僕が構築したコードを精査してみてほしい」

 言われた通りに雪村が作ったコードを精査してみると、とある基礎AIのコードを消去するプログラムだった。それは指示された命令を処理する部分で、これがまともに動かないと、実行し終えた命令がどんどんたまっていくことになる。そして、そのコードが存在すると、実行し終えた命令は処理されず、段階的に設定された閾値に近いと命令不履行や挙動不審が発生し、最終ラインをこえると停止する。

 そこまで考えて、思い出したことがあった。

──オニキスちゃんと同じ部分じゃない。オニキスちゃんも、同じ部分に同じコードが存在していたはず。

 たぶん驚きが顔に出ていたのであろう、雪村がリーベに頷いた。

「そうなんだ。これさ、オニキスと同じ症状なんだよ」

「ですが、オニキスちゃんはHKM-2105Cで、彼らはHKM-2120Pです。普通、基礎AIは改良され、バグも減っているはずではありませんか?」

 雪村が怪訝な顔をしながら、「その通り。だから、おかしい」と言った。

「それに、ずいぶん前に周防に訊ねたことがあるんだけど、U.S.Rだけじゃなくて、ロシアのテクノリジアとかドイツのジャーマン・マシーネン社、中国の情報工業公司で作られたアンドロイドでも同じコードが見つかっているんだ。もちろん、どの企業もIALAの統治下にあるから、似てるのも当たり前なんだけど……周防にも原因不明だった」

 それぞれが国営のアンドロイド製造業者だ。担当している分野が各々異なり、テクノリジアは主に航空ドローンや労働アンドロイド、ジャーマン・マシーネン社は自律飛行船や成層圏・衛星通信用の飛行アンテナなど、情報工業公司は工場ロボットや養殖・栽培用のシステムを手掛けている。他にも、ブラジルやオーストラリア、日本、UAEに国営企業が存在している。

 リーベは「世界的に広がっている、マルウェアということですか?」と尋ねてみたが、雪村は首を振った。

「いや、ほかの研究者曰くどうも違うみたいだ。仮説は一応立てたけど、僕はこれが外れていることを願う」

「どのようなものですか?」

 雪村が肩をすくめ、「目的は分からないけど、アンドロイドがP2P接続して同じコードを共有した……なんて、突拍子もない考えだよ」と言った。

 リーベもそれを聞いて、眉をひそめる。あまりにも突拍子過ぎる。

「さすがにそれは……SF(Science Fiction、空想科学小説)じみています」

「うん、僕もあり得ないと思う。どちらかというと、製造AIの基礎理論にバグがあって、このコードを書き入れていることに人間が気づいていないんだろう。もちろん、周防とかのI.R.I.Sの人間はそれに気づいているから連絡は取っているだろうけど……まあ、お役所仕事ってのはただでさえ遅いからね。今の社会じゃ、あと10年はこれだな」

 雪村がそこまで言って、伸びをする。リーベも考えてみたが、ふとあることを思いついた。

 ロボット三原則第三条、それは『ロボットは、前掲第一条及び第二条に反するおそれのないかぎり、自己を守らねばならない』というものだ。これは『人を傷つける若しくは命令に反しない限り、自己保存しなくてはいけない』と言い換えられる。もし、これが有効であるならば、性能以上の処理を抑えるためのフェイルセーフとして、このコードを入れたのではないだろうか。つまり、AIが過度の処理で壊れるのを防ぐためのコードとして、設計したAIが組み込んだ可能性だ。

 また、アンドロイドやAIが急に故障することは、ロボット三原則第一条若しくは機械制限法第一条に反する可能性がある。特に工場やリアクターで稼働している彼らの動作が急停止した場合、多くの人間が傷つかないとも限らないのだから。

「雪村さん、フェイルセーフの可能性はどうなのでしょう。基礎AIが壊れるのを防ぐために、設計したAIがこのコードを組み込んだ可能性です。構成が同じAIが同じ状況に追い込まれると同じ動きをするというのは有名な話ですし、アンドロイドが壊れることは人間を傷つけることにつながりますから、機械制限法やロボット三原則第一条にも則っています。フレーム問題を起こしやすいロボット三原則特有の現象です」

 またしても、雪村は考える仕草をした。今回は足まで組んでいた。

「フェイルセーフ……うん、設計AIの基礎理論は機械制限法以前に作られたものだし、機械制限法導入後であってもロボット三原則が上書きされたわけじゃないだろうから、プライオリティやポテンシャルが減少しただけで残存されている可能性は高い。確かに、常にAIにメンテナンスされている設計AIがバグったままとは考えにくい……。となると、僕がやってきたことは少々まずい……いや、それどころかI.R.I.Sも似たようなことをしていると考えると、世界中で一気にアンドロイドが過負荷で停止するなんて事が起こる……か」

 雪村が深刻そうな顔で頭を掻きながら、「……わりと、不味いんじゃないか。実際に設計AIを解析してみないと何とも言えないけど、僕らはフェイルセーフをぶっ壊してきたのか」と呟いた。

 リーベも同じことを考えていた。下手すると、統合AI群が停止する前に世界中の基礎AIが停止することになる。なにせ、I.R.I.Sは世界中では一日当たり一億体ほどを管理しているのだから、すべてが同じ処置を受けていると仮定すると、単純計算でも2000日、5年半もしないですべてに同じ処置がされることになり、一斉に壊れる危険性が出てくる。

「どうしましょう……」

「うーん、一杯しかコーヒー飲んでこなかったから、頭の回転が……」

 確かに朝は時間がなかったために、あわただしく朝食をとっただけだった。リーベは鞄の中身を思い出す。

「インスタントコーヒーでよろしければありますよ。要りますか?」

「あるの?」

 雪村がリーベの顔を見て、驚いたように言う。リーベは「ええ、もちろん」と言って、カバンからポータブル湯沸かし器と熱融解フィルムに包まれたインスタントコーヒーの粉とカップ、ペットボトルの保存水を取り出した。湯沸かし器はバッテリー駆動で、水を注いで数分待てばお湯を沸かすことができる。そのため、カップに袋ごと粉を入れてお湯を沸かすだけで、温かいコーヒーが飲めるのだ。

「こんな準備してたんだ……」

 雪村が相変わらず驚いた顔をしながら目の前に広げられたキットを見る。リーベは雪村に微笑みかけた。

「いつか、雪村さんがそのようなことを言い出すのではないかと予想していたので、前々から準備していました。保存水ですから1年は持ちますし、コーヒーの粉も同じくらい保存がききますから。飲まれますか?」

「うん、お願いするよ。コーヒー飲んだら、あのコードの代わりを考えて、彼らにインストールしよう。まずは80体、出来れば周防にも伝えて一日当たり一億体、最善はすべてにインストールだ」

「わかりました」

 リーベは微笑んでから、コーヒーの準備を始めた。



 雪村たちがミノロフから別れてちょうど2時間半後。雪村とリーベはすべてのアンドロイドに保安措置を講じた。

 それは言うだけならばごく簡単なもので、アンドロイド達を『疲れる』ようにしただけだった。

 大半の人間はアンドロイドが限界しらずの疲れないものだと考えているが、それは現実とは異なる。人間とは疲れるプロセスが異なるものの、リーベに起きたアルタイル強制停止事件や今回の事件が実証しているように物理的・処理的限界というものが存在し、それが引き起こすものは人間の疲労とよく似ているのだ。重いものを持ち続ければ関節が金属疲労を起こして破断し、ネイピア数などの超越数を計算し続ければ電子回路が焼き切れて動かなくなるように。

 それをアンドロイドが『表現する』ことはできない。だが、予想し主人に警告することはできる。最も単純な例でいえば「動作を停止する可能性があります」と警告するというようなものだ。

 そのコードを雪村は彼らにインストールした。もちろん、閾値をあげすぎれば行動がそのまま疲労に結びつくと予想出来てしまうため、すぐに警告してしまう。だが、彼らには自分のスペックから想定されうる限界の80%ほどに閾値を設定するようプログラミングされており、人間が無茶な指示を出さない限りはすぐに止まることはない。

 雪村が額の汗をぬぐう。先ほどからコーヒー片手に、ずっとインフォグラスとリストバンドを見つめながらプログラミングし、リーベが指摘したバグを直してきたのだから、無理もない。

「……まあ、機械制限法第二条を完ぺきに遵守できない可能性とか第三条で無効化される可能性もあるけど、インシデントが起きるよりはましだと思おう。機械制限法を破らない程度にかつ現在思いつくのはこれくらいだ」

「とはいえ、警告が無視されればこれは意味を持ちませんよね……」

 リーベが呟く。雪村もそれに同意した。

「うん。それに、機械制限法第二条は『ロケットやマスドライバーを使わず宇宙へ行け』なんて命令でも強制力を持つ。どう考えても無理なのに、アンドロイドたちは従わなくてはいけない」

「となると、あとは人間が聞き入れてくれるかどうか、ですね」

「そういうことさ。僕も出来るだけ、ミノロフを説得してみるよ。警告を守らずに怪我するのはミノロフなのに、責められるのはアンドロイドたちだからね」

 そういって、雪村は近くにいたHKM-2120Pに手招きをする。それに応じたHKM-2120Pは雪村の側に歩いて行った。

「やあ、君の名前は?」

「初めまして、雪村尊教さん。私のパーソナルネームは存在しません」

 雪村が驚いたように口を尖らす。

「そうか。じゃあ、型番は?」

「製造番号はUSRI-2120-0904-FE2O3517-Pです」

「長いな……じゃあ、仮パーソナルネームでマグネにしよう。マグネ、君のご主人様を呼んできてほしいな」

「わかりました。すぐにお呼びいたします」

 マグネと名付けられたアンドロイドは、ミノロフが出ていった重厚なドアから倉庫の外に出ていった。

 見送った雪村はリーベの方を見る。リーベは雪村が言いたいことが分かったので、すぐさま実行に移った。

「さて、リーベ。うまく編集して、切れ間のないように……」

「すでに編集し始めています。あと30秒あれば、自動的にアンドロイドモードとムービーモードを起動する予定です」

 それを聞いた雪村は頷いた。

「わかった。また、家に着いたら解除していいから」

「わかりました」

 編集を終えたリーベは、自主的にアンドロイドモードに入った。

──To switch “Android Mode” from “Normal Mode”. And start “Movie Mode”.


 部屋着と思われる黒のストレッチパンツとカーキのT-シャツを着たミノロフが、裸のままのマグネを伴って倉庫に入ってきた。ミノロフは汗をかいているようで、右手には白いタオルを持ったままだ。

「尊教、終わったのかね?」

「ええ、なんとか。ただ、いくつか注意事項があります」

 雪村がそう答える。それに、ミノロフは怪訝な顔で聞いた。

「注意事項? それはなんだ?」

「簡単なことですよ。彼らアンドロイドが出された命令に対して警告をしたら、命令を撤回してください」

 雪村が穏やかな顔でミノロフに言う。対してミノロフは、ポカンとした顔で雪村の顔をしばらく見ていた。

「……は?」

 ミノロフが声を絞り出す。その反応を見て、雪村は長めに息を吐いてからこういった。

「いいですか、彼らにも人間と同じく限界というものがあり、無理なものは無理なんです。ただでさえ、あなたはアンドロイドたちを酷使し、処理能力以上のことをさせています。専門的な話は除きますが、故障の間接的な原因はあなたが酷使しすぎたことでフェイルセーフが起動してしまい、アンドロイドは危険を回避するために停止したのが今回の故障の原因です。ですので、限界を迎えた場合は勝手に止まらずにあなたの許可を得るよう、アンドロイドたちを調整しました。あなたがするべきことは、警告を聞き入れて命令を撤回し、酷使しないようにすることです。それだけで問題ない生活が送れます」

 穏やかながらも一語一語を強調するように話す雪村を、ミノロフは魂が抜けたような顔で見ていた。

「ちょ、ちょっとまってくれ、わかりやすくいってくれ」

「わかりました、一言で言いましょう。彼らの警告を聞き入れてください、です。これにつきます」

 あの長い文言を一言でまとめた雪村に対し、ミノロフは焦ったように言い返した。

「政府の営業は『どんなことでも命ずればする』と言っていたぞ。というか、アンドロイドは酷使するべきものじゃないか」

 雪村はミノロフの言ったことを静かに聞いて、こう問うた。

「では、あなたに問います。怪我をしたいですか?」

「そんなわけないだろう。死ぬどころか怪我だって嫌なんだ、怖いじゃないか!」

 ミノロフが雪村を怒鳴りつける。雪村は微笑み返した。

「それなら、彼らの警告を聞き入れてください。それだけで怪我を避けられます。もし、彼らの警告を聞き入れない場合、僕は保障いたしません」

「保障しないだと……それでも君は修理屋か!」

 顔を赤くして唾を飛ばすミノロフを見て、雪村は肩をすくめていたものの目の色が変わっていた。

「なにせ、僕はあなたの言う通り、『修理屋』ですから。修理して安全を確保するまではできますが、警告を守るのはクライアントである、あなたの仕事ですからね」

「安全を維持するのも仕事だろう」

「確かに保守点検は僕の仕事です。しかし、あなたが言っているのはアンドロイドを保守点検し修理したとしても、警告を無視するか故意に危険な使い方をしたがために発生した損害を僕に補償しろというようなものです。僕は修理屋であって保険屋じゃないんですよ。保険が欲しいなら政府に掛け合ってください。その手配くらいは僕もお手伝いできます」

 早口で雪村はまくし立てる。感情抑制剤を用いているにもかかわらず、雪村のこめかみには青筋が立っていた。試しにマイコンにつないでみると、アドレナリンレベルが上昇している。

──あんまり血圧が上がると良くないような……。不味いことになったら、私が止めないと。

 リーベはそう考えながら、ミノロフの方に目を向ける。ミノロフはというと、雪村の口調に驚いたのか、口をコイのようにパクパクさせていた。

「ほかに言いたいことはありますか?」

 雪村が挑戦的な口調でミノロフに釘を刺す。

「では、安全のために彼らの警告を聞き入れてください。いいですね、もう一度言いますよ。彼らの、警告を、聞き入れて、ください」

 最後の方は殆ど子供に言い聞かせるような口調だった。

「……」

 ミノロフは雪村をにらんだだけで何も言わない。雪村はというと、ミノロフに微笑んでいたが、その声には威圧感が混じっている。

「お分かりいただけたようですね。報酬に関してはエイジス社の営業と話し合ってください。交渉したいでしょうから」

「……もちろんだ。今度から契約がないものと思え」

「構いません。言っておきますが、僕以外のエイジス社員やI.R.I.Sでも僕と同じことをすると思います。必要なら会社を変えるべきですが、エイジス社は日本で唯一のまともな民営修理会社ですし、I.R.I.Sは修理費用が高くつきます。あと、政府は修理を承っていませんね。すべてI.R.I.Sに委任していますから」

 リーベは雪村がここまで言うのを初めて見た。正確には、雪村はリーベにこういうところを見せないように気を付けていたのだろう。なんといっても、微笑みながらも威圧感を発する雪村は『怖い』から。

 苦い薬を飲み下すような顔をしながら、ミノロフが裸のマグネに命令する。

「そこのアンドロイド、こいつらを見送れ」

「わかりました、マスター。お二人とも、玄関までお見送りいたします」

 マグネが玄関へ歩いていく。雪村はそれに従い、リーベも雪村についていった。

 ある程度離れたころ、倉庫の方からミノロフが大声で「さっさと一週間分のスケジュールを一日で終わらせろ」と命令し、それに対してアンドロイドたちが「タスクが多すぎます」と言い返すのが聞こえてくる。しかし、ミノロフは警告を無視して「いいから、さっさとやれ」と金切り声を上げていた。

 それを聞いた雪村は口を尖らせ、「あれじゃ、怪我するな」と呟いた。

 

 あの後、何事もなく二人は自動タクシーに乗り、屋敷に戻った。

 マグネは去り際に「どんな命令でも警告を発せますか?」と雪村に小声で聞き、それに雪村は微笑みながら「もちろん。君が閾値をどう設定するか次第だよ」と答えていた。

 雪村は屋敷に帰ってから、リビングのソファに仰向けで寝転ぶ。その胸の上に、レーベンが鎮座した。

「ふぅ……疲れた」

 ちょうど六時間が経ち、感情抑制剤がきれたころだ。リーベは雪村のマグカップに温かいコーヒーを注いでテーブルに置いてから、スツールに座った。

「ありがとう、リーベ。まさか僕のいたずらが、オニキスと折井を救うことになってたとはね」

「確か、過度の命令を出されると停止するようにしていますものね。そういえば、あれ以来、折井さんから苦情は?」

 そういいながら、ヴェガが周防へのメールを考える。内容は、先ほど雪村とリーベが考えたこととその対策についてだった。コンフィアンスに送れば無事届くだろう。

「いや、僕が警告したからか今のところ来てない。まあ、実際止まってたとしても、すぐ回復するから大丈夫だろう」

 雪村が寝転んだままコーヒーを飲もうとして、失敗する。リーベはマグカップにテーブルにあったストローを刺し、それを使って雪村は器用にコーヒーを飲んだ。

「マグカップに刺したストローからコーヒーを飲むなんて、僕初めてなんだけどな。アイスコーヒーは別だけど」

「私もあまり聞いたことはありませんね」

「ああ、周防にメール送らないと。あと、論文にしてイーモノにのっけて、意見も集めないとな……」

 雪村が気だるそうにつぶやく。メールを構築し終えたリーベは、コンフィアンスに送信した。

「コンフィアンスちゃんにはすでに送信しました。大至急だと判断しましたので」

「『百人の木偶より一人の有能』とかだれかが言ってたけど、さすがはリーベだね。ありがとう」

 そういわれて、リーベは雪村に微笑んだ。

──今思えば、久しぶりにこんなに会話をした気がする。

 ここ最近は雪村自身が忙しくて話すこともできなかったことや、リーベが雪村に対して『猜疑心』や『反抗心』を抱いていたのもあって、話すことがほとんどなかったのだ。今日はひどいことや重大なことが立て続けに起こったせいで、そういう『感情』を忘れてしまっていた。

 そんなことを考えていると、聞きたいことをいくつか思い出す。その事を尋ねようと、リーベは雪村を呼んだ。

「雪村さん、ひとつお聞きしても?」

「……」

 返事がない。よく観察すると、疲れていた雪村はソファで寝てしまっていた。

 リーベはため息をつく。

──せっかく、いろいろ話せると思ったのに。

 そんなことを考えながら、リーベは近くにあったタオルケットを雪村に掛ける。レーベンも一緒に被ることになったが、「にゃあ」と鳴いただけで抵抗しなかった。

「さて、家事もたまっているし、こなさないと」

 リーベは雪村を置いて、夕食の準備に取り掛かった。


≪第九節 21210707≫

  七夕の日。この日もまた、人間は怠惰に溺れていた。星空を見るような人間はおらず、七夕は歴史書に少し書かれている程度の認識しかされていない。

 あの後、結局翌日まで寝ていた雪村は誕生日を祝えなかったことについて詫びを入れ、「欲しいものはないか」とリーベに聞いてきた。しかし、特にほしいものもなかったリーベは、夕食を共にするというだけで誕生日を済ませた。尤も、「特にほしいものがない」というリーベの発言に雪村は驚いていたようだった。

 あと一つ付け加えるなら、あれから数日後、電子新聞に国営バイオマスプランテーションの一部機能が過度の酷使によるものでシャットダウンしたという記事が載っていた。どこがシャットダウンしたのかということは載っていなかったものの、雪村とリーベはなんとなく何処が止まったのか予想できた。


 その日の夜、リーベは何となしに庭に出て外にいた。家事も終え、することがなかったのもある。

「……星かあ」

 今日の空は雲一つなく、雪村の屋敷が郊外にあるおかげで周りにある街灯の数は少ないのも相まって、満天の星空を見ることができた。

 アルタイルは星を見たとしても、それが綺麗だと思えない。ただ、重水素が核融合を起こして生まれた光の一部が、何万年もかけて地球に届いているということしかわからない。だが、ヴェガは外にいて上を向いて眺めるだけで、星と星を線でつなぐだけで『楽しい』。

「リーベ。ここにいたんだね」

「あ、雪村さん」

 雪村が白のTシャツにカーキのチノパンツというラフな格好で、庭に出てくる。そして、片手に先程淹れたコーヒーの入ったマグカップを持ちながら、リーベに話しかけてきた。

 リーベは若干の『反発心』を抑え込む。それに気づかない雪村は、リーベの隣に立った。

「そういえば、リーベは七夕物語って知ってるかな?」

「七夕物語……いえ、知りません」

 雪村は空を指さした。そこには星が密集している場所があり、まるで川のようだった。

「今、指さしたところは天の川って言ってね。そこの対岸には人間が川岸に家を作るように、神様が住んでいたんだ。もちろん、物語だから本当に住んでいたわけではないよ」

 神様といわれてもよくわからなかったが、リーベは黙っていた。

「その神様の中に天帝という人がいて、一人娘が織姫という名前だった。織姫はとても美しい娘で、いつも神様の服を作るために機を織っていた。それで、年ごろになった娘を結婚させてやろうと神様はいろいろなところを探して、ある男を見つけたんだ」

「ある男……?」

「その名を彦星といった。彦星はとても立派な青年で、牛飼いの仕事をしていた。そこで、天帝は二人を会わせてみたんだ。そうしたら、二人は一目ぼれして、結婚して楽しい生活を送ることになったんだ」

 リーベはいつの間にか雪村の目を見つめていた。それは、雪村があまりに楽しそうに話すものだから、興味深かったというのもある。

「ハッピーエンドですね」

「まだ続きがあるんだ。でも、二人はあまりにも楽しい生活を送りすぎて、仕事をないがしろにしてしまった。そうなると、ほかの神様は『服が着れない』、『牛が病気になった』と、天帝に苦情を申し立て始めた。そのことに天帝は怒り、彦星を天の川の対岸に追いやって、離れ離れにしてしまったんだ」

「じゃあ、二人はもう会えないのですか……?」

「ある一日を除いてね。離れ離れにしたのはいいんだけど、そうすると織姫がとても悲しみ、また仕事をしなくなってしまったんだ。だから、天帝は7月7日にだけ天の川に橋をかけて、二人が会えるようにした。その日のために織姫は一生懸命服を織り、彦星は牛の世話をして、7月7日に二人はまた会うことができるんだよ。そして、これは東洋の伝説だけど、西洋では織姫と彦星はまた別の名前で呼ばれているんだ」

「そうなのですか?」

「うん。織姫をヴェガ、彦星をアルタイルと呼んでいるんだよ」

 そこまで話して、雪村は微笑んだ。

「私のAIと同じ名前ですね」

「そのとおり。織姫と彦星はどうやっても、時期が来るまでは一緒になることができないからね。その意味を込めたんだ。それに、ヴェガとアルタイルのほうで考えるなら、もう一つ入ることができる」

 リーベは、「一緒になれない」という言葉を聞いて、納得したと同時に少し『悲しく』もなった。確かに、リーベのAI同士の意見が合うことはまずない。むろん、そうやって作られているからだ。

「もう一つは何が入るのですか?」

 雪村は空に輝く星を指して言った。

「デネブさ。その三つで、星空は夏の大三角形を作ることができる。そして、やっと完成する」

 リーベに向かって、雪村は無邪気に笑った。それを聞いたリーベは、雪村に聞いてみた。

「雪村さんは……やはり、私が完成してほしいのですか?」

 そう問われた雪村は少し悩んだ後、こう答えた。

「そうだな、科学者としてなら。ただ、僕という一人の人間からすれば、完成してほしくはないかな」

「どうしてです?」

 雪村が頭を掻いてから、肩をすくめた。

「人間は完璧ではないからさ。僕は最近、自分の理論を立証して心を持つアンドロイドを求める以上に、『一人の人間』を育てていると気づいた……いや、気づかされたんだ。もし、リーベが完成してしまえば、それは人間ではなく心を持つアンドロイドになる。それが僕自身の望むものかと言われれば、ワイともエヌとも言えないかな。あくまで、心を持つアンドロイドと人間は違うと考えているわけだし。まあ、どちらも行動的ゾンビではないけど、僕に心を持つアンドロイドは作れても人間は作れないよ」

「そうでしたか……」

 リーベは雪村の言ったことを考えてみた。結局、自分はどちらを目指せばいいのか。どうあるべきなのか。

 雪村の言う通り、心を持つ完璧なアンドロイドを目指せば、『AIに心を持たせる』という雪村の夢が叶う。かといって、雪村個人の『一人の人間を育てる』という目的に向かうのなら、心を持つ完璧なアンドロイドというのは人間ではなく、ただのAIだ。

 結局のところ、雪村は相反する思いを抱いているのだろう。そして、リーベはそのどちらを選べばいいのか、決めかねている。

 雪村がリーベの考えている姿を見て、慌てたようにフォローした。

「これは僕個人の考え方であって、ほかの道だとしても僕は君を応援するし、出来る限り支援する。約束するよ」

 リーベは雪村に少し意地悪をしてみた。

「では、私がただの家政婦アンドロイドに戻りたいと言っても?」

 もちろん、こんなことを言い出すつもりはない。

 本気にしたのか、一瞬考えた雪村はぎこちない笑みでリーベに答えた。

「……うん、それを君が望むなら」

「そんなことを言う気はありませんから、安心してください」

「よかった」

 雪村が胸をなでおろす。リーベは以前から考えていたことを雪村に話してみた。ずっと頭の中にはあっても、答えが出なかったことだ。

「ただ、私は……私は、何なのでしょうか。アンドロイドなのか人間なのか、はたまた別の存在なのか。私は黒ですか白ですか、それとも別の色なのですか?」

 雪村が考える仕草をする。しばらくして、意を決したように顔を上げる。

「そうだな……正直なところ、僕には判断できない。とはいえ、人間でも『自分は自分なのか?』という問いをすることがある。もし、リーベが人間と同じ速度で成長しているのなら、丁度この時期だね」

「雪村さんはどうやって、この時期を乗り越えたのですか?」

「僕は反抗心だけでこの時期を乗り越えたよ。命を粗末にし、自分の都合しか考えずに他の者を虐げる、現代へのね。まあ、ほかにもいろいろあったけど」

 雪村はそういって、自嘲気味に笑う。ただ、目は笑っていない。

 「色々あった」という言葉が気になったものの、雪村らしい答えだ。そして、その反抗心は今でも続いているのではないかとも。

──私には真似できそうにないから、どうしよう……。

 考えてみても、やはり答えは出そうになかった。自分は何者で、何を目指せばいいのだろうか。模範的な答えとしては、自分はアンドロイドで雪村に仕え続けることが答えになる。しかし、それが正しいのかと問われれば、自信はない。もちろん、間違いではないのだけれど。

 その様子を見た雪村は「時間はまだあるから、ゆっくり考えるといい。僕だってこの結論に至るまで何年もかかったんだから」と優しい声でいってくれた。それにリーベは頷く。

「わかりました。また、何かあれば相談してもよろしいでしょうか?」

「もちろん。君が僕を助けてくれたように、僕も君を助けるから。さて、僕はそろそろ家に入るよ。リーベは?」

「ありがとうございます。私も雪村さんについていきます」

 リーベと雪村は屋敷に入っていく。リーベは歩きながら、あることを考えていた。

──私にとって、何が正しいのかしら。


≪第十節 21211001≫

 風が冷たくなり、多くの植物が冬に備え、あるものは葉を落とし、あるものは実をつけるような季節。

 その日の朝、リーベはキッチンに立っていた。

「うーん」

 ロングスリーパーである雪村は、いつも10時くらいに起きて朝食をとる。遅い日でも11時までには起きているので、リーベは9時には起きて朝食を作ることがほとんどだ。

 しかし、今日は違うようだった。

 時計はすでに11時を過ぎ、10時に合わせて作った朝食は冷めてしまっている。朝食は温めればまた食べることができるが、リーベは少々『不安』だった。こんなに遅くまで起きてこなかったことはほとんどない、前日はいつも通り24時に寝たのにもかかわらず。

──見に行った方がいいかしら……。

 その時、レーベンがするりとリーベの足元に絡みつき、低い声で「なーん」と鳴いた。

「どうしたの、レーベン?」

「なーん」

 声をかけたリーベに、レーベンはまた一声鳴いて歩く。すると、リビングと廊下を繋ぐドアの前に座ってリーベを見た。

──珍しい。ドアは開いているのに。

 リーベは興味をそそられて、レーベンについていった。

「どうしたの」

「なぁーん」

 また鳴いて、レーベンは歩く。

──なにか伝えたいことがあるのかしら?

 リーベはレーベンの後を追う。たどり着いた先は雪村の部屋の前で、レーベンは既に開いていたドアから中に入っていった。

 リーベも中に入る。すると、雪村が横になっていたものの、様子がおかしい。

 腕はベッドの側に垂れ、口を開けた状態で目をつぶっていた。息遣いは荒く、ヒューヒューという音が聞こえる。顔は土気色で、開いた口の端からよだれが垂れていた。

「お父さん!」

 駆け寄ってのぞき込みながら、容態のスキャンとマイコンへのアクセスを同時にする。40℃を超える高熱とそれに伴う重度の脱水症状、気管支狭窄、血圧低下。かなりひどい状態だ。

 その時、雪村が薄目を開けて、「レオナ……?」と呟く。そして、長く息を吐いて目をつぶる。

──誰?

 リーベは一瞬処理が止まったが、それをアルタイルが受け継いだ。何よりもまず、生存を優先させなくてはならない。

 すぐさまピナフォアのポケットから以前使ったのと同じタイプのシリンジを取り出し、カートリッジの中から『解熱剤』と書かれたものを選んで装填する。そして、スウェットを捲った腕にシリンジを突き刺して、中の薬剤を注入する。

 その次に、アルタイルは急いで救急キットを取りに行った。救急キットの中には絆創膏から小型のAED(Automated External Defibrillator、自動体外式除細動器)まで、何でも入っている。もちろん、輸液や生理食塩水、気管支拡張剤もだ。

 救急キットをもって雪村の部屋に入る。回復したリーベにアルタイルは処理を引き継ぎ、リーベはテキパキと雪村へ輸液の準備をし始めた。その間、レーベンは雪村の側に座って見守ってくれていた。

「よし……」 

 点滴用の翼状針を雪村の静脈に刺して、サージカルテープで固定する。注射器を使って輸液の点滴パックに気管支拡張剤と免疫向上剤を混合する。こうすれば、輸液しながら薬も流し込める。

 少しすると雪村の喘鳴は収まりはじめ、土気色の顔に少し赤みが戻った。

「ふう、これで一旦は大丈夫」

 そういいながら、リーベは救急キットの中から検査キットを取り出す。今までの症状から風邪だとは考えられるので、この検査キットを使ってウイルスを同定、対応する抗ウイルス剤を投与するためだ。

 綿棒で雪村の粘液をからめとってから検査キットに触れさせる。数分後、結果が出た。

「ライノウイルスか……」

 リーベは救急キットの中から抗ウイルス剤を取り、点滴パックに混合した。これは抗ウイルス剤といいながらも中身はナノマシンで、ライノウイルスを見つけ次第取り込むという好中球のような働きをする。ライノウイルスは血清型が数百種あり、すべての血清を作ることは困難なため、人工の好中球を使ってしまった方が早いというわけらしい。

 30分もすると雪村が目を開けた。

「起きましたか?」

 リーベが聞くと、力なく雪村が頷いた。リーベは救急キットから冷却シートを取り出し、雪村の頭と首に貼った。

「随分酷かったみたいで、せん妄状態でしたよ」

「僕も幻を見ていた気がするよ……」

 雪村が力なくつぶやく。

「食欲はありますか? よろしければ、何か用意します」

「いや……」

「わかりました。あと1時間ほど輸液は続けますので、もう少し寝ていてください。それが終わったら、着替えて何か食べましょう」

「……わかった」

 雪村が目を閉じて息を吐く。リーベはベッドの端に腰かけて、レーベンと雪村を見ていた。


 一時間後。リーベはキッチンで、雪村へ食事を作っていた。

 本当はEMR(Emergency Medical Ration、緊急医療糧食)──半日分のカロリーと栄養素を一度に摂取できる、消化器への負担が少ない食事──を出すべきなのだが、EMRは味が頗る悪く、リーベでさえ舐めたときにエラーを起こす。それで、リーベはショウガを中心にした粥とスープを作ることに決めた。

 出来上がったものを盆にのせ、雪村の寝室に運ぶ。雪村は容態が安定してから、心そこにあらずと言わんばかりに天井ばかり見ていた。それを見守っていたのはレーベンだ。

「雪村さん、食事が出来ました」

「ん、ありがとう、リーベ」

 雪村が上半身だけを起こす。リーベは盆をナイトテーブルに置いてから、雪村の腕から点滴の針を抜き、救急キットの中にあった医療廃棄物用の袋に輸液パックごと入れた。

「食べ終えたら、着替えましょう。寝汗で濡れているでしょうから」

 雪村の腿の上に盆を置く。雪村は早速食べ始めた。

「そうするよ。うん、おいしいね」

 それを少し眺めた後、リーベは先ほどの発言に言及した。これだけ食べられるなら、危機は脱しているだろうから。

「雪村さん」

 食べながら、雪村は「ん?」と答えた。

「レオナさんって、誰ですか?」

 雪村の手が止まり、即座に「さあ、しらないな」と答えた。小指がピクリと動き、目が泳ぐ。

──本当に、嘘をつくのが苦手よね。

「誤魔化さないでください」

「ほら、どっちも頭文字が『L』だし、リーベと呼び間違えたんだよ」

 スプーンを置いて、雪村がリーベの方を見る。尤も、目はそらしたままだ。

「『L』『E』『O』『N』『A』と『L』『I』『E』『B』『E』を間違えるとは、せん妄状態でも考えにくいのですが」

 リーベも食らいつく。雪村は「随分、今回は食らいつくね」とおどけて言ったが、「話をずらそうとしないでください」と反撃した。それを聞いた雪村はため息をついてから、こういった。

「あんまり言いたくないけど、ロボット三原則第二条に則り、これ以上の質問を禁ずる」

 それに対し、リーベは即座に言った。

「では、こちらもロボット三原則第一条を優越させ、その命令を拒否します」

「ん? どういうこと?」

「その『レオナ』という方がどういう人物なのかわかりませんので、危険人物の可能性を考慮しました。これは第一条の『危険を看過してはいけない』という文言と一致します。また、第一条のプライオリティは第二条よりも上位に設定されているため、あなたの命令を拒否できます」

 雪村が驚いた顔でリーベを見つめる。まさか反論をくらうとは思っていなかったのだろう。だが、こちらとて何も学ばずに十何年もこの人の側に居たわけではない。

 もちろん、リーベは『レオナ』という人が危険人物だとは考えていない。けれど、意識がほとんどない状態でその人のことを考えられるということは、それだけ思い入れ深いか印象が強い女性なのだろう。

 だから、その人について知りたいだけだ。せん妄状態の雪村が呟いた、その女性のことを。

「あなたが出来ることは、私にその『レオナ』という方のことを話すか、私に機械制限法を適応して第二条を強要するかです」

 ほかにも「あとで教える」や「危険人物ではないとだけ教える」などの選択肢はあるが、雪村の近くにいて学んだことがある。それは『交渉の際は、可能なことと不可能なことの二択だけを並べる』という手法だ。普通の人間ならば、驚いているときに冷静に考えることは難しく、第三や第四の選択肢を考えずにこの二択だけから選択しようとする。

 ただ、相手は雪村のため、うまくいくかは自信がない。

 雪村は目をぐるぐると回し、観念したかのように肩をすくめた。どうも、リーベの策にはまったようだ。

「……わかったよ」

「それで、誰なのですか?」

 意を決したように、雪村はリーベの目を見据えた。

「僕が最期まで愛する人。そして、君を作るきっかけになった人だ」

 その一言にリーベは驚き、一時的に停止した。それに構わず、雪村は続ける。

「本当の理由を話すよ。僕が君を作った理由を。そして、僕がなぜ君に過去をインストールしなかったのかという理由を」

 遅くなりまして、本当に申し訳ございません。わたしです、2Bペンシルです。今回も読んでいただき、本当にありがとうございました。

 いや、本当に遅くなってすみませんでした。私の予想以上に長くなったことに加え試験が被り、バイトが増え、書くのにあたって調べ物をしなくてはならないのに風邪をひいたというフルボッコでした。しかし、いつもは40000~45000字なのですが、59000字近いって何があったのでしょうね。リーベに心でも生まれてきたのでしょうか。

 話は変わりますが、中編に関しては雪村さんの過去編が半分ほどを占めます。かなりフラグは立てていますので、なんとなく予想ができる方はいると思います。そして、たぶん予想通りになります。また、大規模に物語が動く第五章に関しては、アニメの劇場版みたいに書き方が変わる予定です。その一年だけを切り取った物語とでも言いましょうか。

 あと、今回も割と技術自体はすでに開発されているものが多いです。塩基を使った保温とかお湯で解けるフィルム、固体蓄電池なんかは現在でも技術自体は開発されていて、あとは実用に向けての問題解決とかの段階みたいです。あと10年から15年で、私たちもその恩恵に与れるかもしれませんね。

 それに伴っての釈明なのですが、量子力学とかカオス理論については現段階での解釈を用いています。しかし、カオス理論については実際に解明しようとしていらっしゃる教授の方がおりますし、量子力学については新しい解釈や不確定性原理を破るような観測方法が生まれないとも限りません。そのため、某STGの一面ボスみたいに「そーなのかー」程度に考えていただければと思います。もしかしたら、読んでいらっしゃる方の中に将来、それを解明する方がいるかもしれませんし。(追記:機械学習により、カオス理論を解明するという研究が始まったそうです)

 さて、長くなりましたが、今回も読んでいただいてありがとうございます。今回、出典を載せようと思ったのですが、参考にしたもののほとんどがGIGAZINE様、Wikipedia、さらにはCNNのツイートという状態なので、今回は控えさせていただきます。全部載せると、たぶん20000超えますしね……。

 改めまして。本当に遅くなってしまい、申し訳ありません。そして、読んでいただきありがとうございます。次回もできるだけ早く出せるよう努めますので、よろしくお願いします。

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