【学童期】 後編
【訂正のお知らせ】
2017/01/11
投稿後、合計特殊出生率の数値に過ちがあることが判明しましたので、ここに訂正させていただきます。
≪第十四節≫ 変更前「合計特殊出生率を1.3に~」 変更後「合計特殊出生率を2.5に~」
リサーチ不足、失礼いたしました。また、参考にさせていただいたサイト様もそれに伴って追加いたしました。これからもよろしくお願いいたします。
2018/03/20 全体の修正、校正及び推敲を行いました。また、いくつかの設定を変更しました。
・≪第十二節≫:インフォグラス(眼鏡型ウェアラブルデバイス)→インフォフィルム(コンタクトレンズ型ウェアラブルデバイス);インフォグラスを雪村は所有しています。
・≪第十二節≫:ISAF→多国籍治安維持部隊;ISAFは2014年にアフガニスタンでの任務を終了していたため。
・≪第十二節≫:南アフリカ連合→南アフリカ連邦;和訳を間違えていました。
・≪第十五節≫:文章追加:「残りの1.844 %の要素は雪村のものだという結果が出てくる。」
・≪第十六節≫:第五章準拠:日本→地域;設定では国家という区分は形骸化しています。
その他いくつかの部分で、修正を行いました。
【第三章 Ⅱ】
≪第十一節 21171016≫
風が冷たくなり、冬に着々と近づいていく季節。木は寒風に吹かれて葉を落とし、人々は温かく心地の良い部屋でVRやPCWなどの娯楽に溺れていた。
家事を終えたリーベはこの日、珍しくジグソーパズルをしていた。それをやろうと思った理由は特になく、手持ち無沙汰になった時に目についたのだ。12000ピースあるヴェネツィアの風景をもとにしたパズルだったが、リーベにとってはその程度のことは造作もない。
すでに開始から30分経っているが、もう半分は埋まってしまった。それも、外から中へ埋めるのではなく、わざと難しいはずの上から下へ埋めていく方法を選んだにもかかわらず。
「うーん、これくらいじゃ物足りない……」
パチパチと景気の良い音が響く。レーベンはリーベの隣で、その手の動きを目で追っていた。
「これとこれ合わせて……」
両手を使って、列の端から埋めていく。
不意にレーベンがリーベの隣から飛び出して、台紙の上に着地した。組みあがっていたパズルは下に落ちてバラバラになる。これで一からやり直しになった。
「あー……レーベン、やっちゃったね」
リーベはそれを見て少々『残念』だったが、動物の動きが予想できない以上は仕方ない。落ちてしまったピースと台紙を手早く拾い、パズルが入っていた段ボールに仕舞った。
「にゃっ?」
机の上でレーベンが転がる。それをリーベは抱え上げて避けた。
「もう一度やろうかな……」
リーベはレーベンに崩されたパズルを、もう一度整理し始める。その時、雪村がリビングに顔を出した。
「あ、パズルやってるの? 懐かしいものを出してきたね。僕が昔、ほとんど組み立てて、ひっくり返した奴だ」
雪村が片手にコーヒーカップをもってやってくる。リーベは頷いた。
「ええ、ちょっとやってみたくなりましたので。でも、あまり楽しくなくて……」
「まあ、難解なものだからね。パズルだけに」
雪村がソファの空いているところに座る。リーベがコーヒーはいるかと聞くと、雪村は要らないと返した。
「そうではないのです。簡単すぎて、楽しくないのです。すぐに終わってしまいますから」
雪村がそれを聞いていつもの、考える仕草をする。
「そうなのか。でも、それ以上に難しいのはネット探さないとないな……ネットなら75万ピースだったかあるパズルもあるんだ。タブレット使ってやってみる?」
「面白そうですね。それならやってみたいです」
「わかったよ。ちょっと待っててね」
そういって、雪村はしまってあった旧式のタブレットを取り出す。数年前、リーベがCCTVで雪村を追跡した時に使った物だ。リーベは最新型にしないのか聞いたことがあるが、雪村曰く「最新式が必ずいいとは限らない」らしい。
電源を入れて少しタッチしてから、雪村はリーベにそれを渡す。画面には縦10、横20、計200ピースが収まる仮想のピースと台紙が表示されており、上の方にはセクター1と表示されていた。
「はい。これで、変なサイトや広告は出なくなる。中核システムがフィルタリングしてくれるんだ」
「ありがとうございます。これは、いくつかのセクターに分かれているのですね」
「まあね。じゃないと、あんな量のピースは表示できないからね」
雪村はそういって笑う。リーベはさっそくパズルに取り掛かった。今回は何ができるかわからないが、それも一つの楽しみになる。
時々気にするようにこちらの方を見ながら、雪村はリーベが先ほどまでやっていたパズルに取り組み始める。レーベンは雪村の指を追うように頭を動かしていた。
その数分後、次は雪村の残念そうな声と台紙が落ちる音が隣から聞こえてきた。
≪第十二節 21171225≫
今年のクリスマスは、雪が軽く積もったことでホワイトクリスマスだ。もちろん、一部を除いて外に興味を示す人はいない。
リーベたちはいつもの商店街で見て回っていた。珍しいことにリーベは黒の鞄ではなく灰色のショルダーバッグだったが、それには訳があった。
実は長い間使っていたために鞄の持ち手が切れてしまったのだ。それで、商店街に修理店がないかを探して回っていた。ただ、もともとギフトを多く取り扱っている場所であるため、新しく売っている店はあっても修理をしてくれるところは見当たらない。
できれば気に入っている鞄なので、直せるものなら直したい。それを知っている雪村も必死で探してくれている。けれど、しばらく歩きまわっても修理の文字は見つけられなかった。
「うーん、どうしようか。中々見つからないね」
「そうですね……。案内板に聞いても、それらしきところはなさそうでしたし……」
外では風で微粒子が流されるためホロが使えない。なので、大体の場合、野外には浮遊ドローンが案内板の役割をして浮いている。それに聞けば、ある程度のことなら教えてもらえ、必要があれば案内もしてくれる。一般にはインフォフィルムという流動導電高分子性コンタクトレンズを目に差して起動するとAR(Augmented Real、拡張現実)がフィルム上に表示されるので、マイコン経由でインターネットと接続しナビゲーションをARに任せるのが主流だ。しかし、雪村はそれをつけていないどころか持っていない。他にも、アンドロイドにナビさせることも可能だが、リーベはインターネットにつながれていない。
なので、歩いて探すしかないのだった。
「お二人さん、なにか探し物かね? あれ、一人はアンドロイドか?」
後ろから、老年の男声が聞こえる。振り向くと、ベージュのベレー帽に灰色のスラックス、黒のトレンチコートを羽織った70代くらいの老人がいた。この時代ではかなり高級な生地を用いていると一目でわかり、年の割には声や姿勢に張りがある。
そして、こんな日に外にいる人は「普通の人」ではない。ただものではないのは確かだった。
「ええ、そうです」
雪村が答え、リーベも会釈する。紳士はそれを見て微笑んだ。
「随分精巧なアンドロイドですな。で、何かお探しか」
「革製品の修理を承っているお店をご存じないでしょうか。少し、修理をしたいものがありまして」
紳士は頷く。
「そういうことなら、いい店を知っている。付いてきなさい」
そういって手招きした紳士を、雪村は遮った。
「申し訳ありません。貴方の『所属ID』をお聞かせください。親切な方にこのようなことをするのは気が引けますが、安全のためです。少なくとも、あなたが只者ではないということは確実ですから」
今の──ほとんどの人間がマイコンを左腕に埋め込んでいる──世界では政府AIが人間にIDを付与してデータベースで管理しており、それを応用したサービスがいくつかある。
そのうち、犯罪歴や政府組織、民間企業への所属などをあらわしたものが『所属ID』と呼ばれるものだ。所属IDをガバメント・ネットで検索すると、赤・黄・青・黒の四色が出る。これを使うと、細かい犯罪歴や組織は出ないものの、その人物がどのような人間かというのを大まかに知ることができる。さらに開示するには令状が必要だが、そこまでする人はまずいない。
赤は≪人間同盟≫過激派などに所属しているか重犯罪歴のある、公安がマークしている危険人物。黄は赤の人間の疑いがある、近しい友人に赤がいる、若しくは軽犯罪歴のあるなどの要注意人物。大多数を占める青はそういうものとはかかわりがなく、ただ部屋で寝そべっているだけの人間。
そして、黒は不明。もっと言うならば、死者のはずが生きていたり政府の極秘情報にかかわる人間だったりなど、何らかの理由で情報を抹消された謎の人間のことだ。比率としては黒が一番少なく、赤、黄、青の順で多くなる。
紳士はにっかりと笑う。
「今の時代に、WWⅢ・パラノイアの幻影を見ることになるとは。いいだろう、IDはKG660Lだ」
リーベが調べる間もなく、雪村がつぶやいた。
「……黒か」
紳士に目線を合わせた雪村は、少し考えた後に言った。
「分かりました、案内していただけますか?」
紳士は商店街から少し外れた、込み入った裏路地に二人を案内する。そこはアングラの入り口のような場所で、リーベは雪村に「絶対行かないように」と注意していた。怪我されては困るだけでなく、リーベ自身も危険だからだ。
雪村は気を張っているようで、肌は青ざめ出血に備えている。マイコンが、アドレナリンレベルと心拍数の上昇をリーベに知らせていた。かくいうリーベも、処理能力の多くを割いて潜在的脅威を探していた。
──何かあったら、私が雪村さんを守らないと……。
しかし、紳士は堂々とコートの端をなびかせて歩いていた。まるで何も怖くないかのように。
「そこまで警戒する必要はないよ。私がいる限りは、彼らは手出しをしない。ここはまだ、ね」
「アングラをここまで堂々と歩けるあなたは、一体何者なんですかね。公安でも、戦闘用エクソスケルトンが無いと突入することはないと聞きますが」
紳士は微笑んだ。
「恐怖がそうさせるからだよ。そうだな……あなたはインヴィジブル・メンというのを聞いたことがあるかね?」
「随分昔に本で。WWⅢ時代にあった、世界各国の極秘諜報機関員の総称ですよね」
リーベは二人の会話を聞き流すことにした。知らないことが多すぎてついて行けそうもなく、何より危ない場所なので警戒しないといけないからだ。武装の無いアンドロイドでは物理的な制約があり、機械制限法で人への攻撃もできない事にもなっている。その状態で守るのはかなり難しい。
「その通り。私はそのうちの一人だった」
「そんな秘密、話していいんですか? 秘密保持法違反と国家反逆罪で死刑になりますよ」
「問題ない。ここにはCCTVやトラッキング・ドローンどころか、インターネットもない。ここで話され、行われていることはどんなことも政府に認知されない。着いた、ここだよ」
紳士が指を指した店は古くひしゃげていた。掛けられている青い字で書かれた『大橋皮革店』という看板は、メチレンブルーだというのに退色してトタンの看板はさび付いている。そこはまるで、以前見た映画の風景のようだった。
「私も入ろう。そっちの方が、話が通るだろうからね」
リーベはドアを開け、雪村と紳士が入った後に店に入る。店の中は古い革と木材の匂いで満たされており、ささくれ立ったカウンターには黒い髪がぼさぼさになっている若い男が座っていた。その手は今では目にできない噛みタバコをちぎっている。
その据わった目が、紳士をとらえる。
「あれ、玉崎さん。つい先日、靴を直したばかりですが、また壊れましたかね。金払いのいい人なら、いくらでも直しますよ」
噛みタバコを近くにあった缶に入れた男は、手をこすりながら紳士に話しかける。それを紳士は一蹴した。
「いいや、ちょっとお客さんを連れてきたんだよ。見てくれるか」
男の目が輝き、近くにあった灰皿がわりの空き缶へ、口に入れていたタバコを吐き捨てて立ち上がる。
「金になるなら何でもしますよ。ああ、人殺しは遠慮しますがね。で、直すもんって?」
リーベはショルダーバッグから、持ち手の切れた黒い鞄を取り出して男に渡す。男は素手でそれを受取り、軽く検めながら呟いた。
「ふんふん……これなら、その他込みでも三時間程度で直せますよ。中も古くなってるから替えましょう。金具と革は磨けば綺麗になる。ここで待ちます?」
リーベはぎこちなく頷いた。悪い人ではなさそうだが、アングラではすべてが脅威になりえる。なにしろ、ID登録されていない榴弾砲内臓義手や携帯核融合弾が見つかったことさえあるのだ。目の前にいる男が、その類のものを持っていないとも限らない。
もし、その類のもので攻撃されたらリーベでも大破は確実。雪村たちは死ぬだろう。
「じゃ、適当に座っててください」
そういって、鞄をもった男はバックヤードに下がっていく。リーベは思わず一息ついた。
──よかった。攻撃の意図はないのね。
三人は、近くにあった古い木の椅子に腰かける。玉崎と呼ばれた紳士は微笑んで、二人に告げた。
「彼はこの都市で唯一の革職人と言ってもいいだろう。金は取るが、腕は確かだ」
「修理人は安い工業製品に淘汰されましたからね……もう、ロストテクノロジーかと思っていましたよ」
雪村がつぶやく。玉崎は神妙な面持ちで「全くだ」と頷いた。
「あの……」
リーベが声を出すと二人の男がこちらを見る。
「どうしたの、リーベ?」
「『WWⅢ・パラノイア』って何なのですか?」
雪村が言いにくそうに、「ああ……」とつぶやいた。玉崎は、「人が人を信じられなくなった、という世界のことだ。今では考えにくいだろう。信じる必要もないのだからな」とアイロニカルに笑う。
「人が人を信じられない……?」
玉崎は頷いた。そして、WWⅢ──World War Ⅲ、第三次世界大戦──について語ってくれた。
WWⅢ、これは2029年に起きた印パ核戦争を起源とする戦争のことだ。2031年に終結した印パ核戦争によって、多数の難民が発生した。それの『保護』という名目で、かねてよりインドとカシミール地方にて係争をしていた中国は国際連合に先立って人民解放軍を派遣。先の戦争によって疲弊したインドは抵抗もせずに人民解放軍を受け入れることとなり、実質的占領を受けた。それによって、2018年の日中危機や内需の減少で経済が急速に下落し始めていた中国は優秀な人材や豊富な資源などのリソースを受取り、それを糧に経済成長を再開した。
そのころ、急成長を終え経済が停滞し始めていた南アフリカ共和国は中国の経済成長を見て「戦争によって領地と資源を得て、自国民を豊かにする」という思想を持つ右翼政党が与党となり、隠れた軍国主義の元でアフリカ民族会議が放棄していた核開発と軍拡を秘密裏に開始した。また、その思想に影響された周辺諸国も発展した経済と豊富な資源で軍拡を始めた。
また、パキスタンの壊滅は武器の流出をもたらした。パキスタン軍とインド軍の武器装備の多くがテロ組織に流出し、20世紀から続く火種がくすぶっていた中東情勢はさらに悪化。それを受けたNATO(North Atlantic Treaty Organization、北大西洋条約機構)は治安維持部隊として中東への多国籍軍派遣を決定。事態は一時的に安定したように見えた。
だが、2049年に強硬派極右に政権が移動した南アフリカ共和国はNPT(Treaty on the Non-Profit of Nuclear Weapon、核拡散防止条約)を破棄し、10-50キロトン級戦術・戦略核の配備を開始した。同時期、テロ組織もロシアから流れた核弾頭の入手や闇市場の核物質を用いることで汚い爆弾を製造していた。
そして、南アフリカ共和国に同調した周辺諸国と南アフリカ共和国は南アフリカ連邦(SAC、South African Commonwealth)を設立。国連予算の減少・増大による財政危機と中東情勢の悪化などによりUNや関連組織も初動が遅れ、SACは2056年に敵対する周辺国へ侵略を始めた。時同じくして、混乱に乗じたテロ組織もイラン、イラク、イエメンなどで入手した核弾頭を起爆。世界の二か所で起きた混乱は瞬く間に世界中に広がり、有り余る資源で経済成長を推し進めていた中国や排他的な政策にシフトしていたアメリカも逃れることができず、経済は突然の戦争による世界恐慌に陥った。
国連及び多国籍軍は世界恐慌による更なる経済的な打撃と中東でのテロに翻弄され部隊の派遣もままならず、瞬く間にSAC軍は周辺地域を制圧していった。テロ組織も隠していた兵器を用いて、反対する宗派や組織を攻撃。そしてテロ組織は自らの「規範」を広めるため、世界中に構成員を送り、洗脳や恐喝で規模を拡大していった。
そこまで言って、玉崎は静かに告げる。
「これが、『WWⅢ・パラノイア』の原因だ。テロ組織は世界恐慌に乗じてありとあらゆるところに入り込み、反対する人間を殺した。隣人から上院議員まで、その範囲は問わず。そこで隣人がテロリズムに汚染されていないかを確かめるように、ああやって所属IDを確認していったんだ。もちろん、所属IDは今までのデータを用いていることやあの当時の政府AIはまだ精度が低いのも相まって、確認したところで意味はない。だが、藁にも縋る思いで、周りに聞き回ったんだ。『貴方の所属IDは?』とな」
「……」
リーベは信じられなかった。そんな世界があったなんて。
確かに現在では復興が進んだことでAIやアンドロイドを見ることもできるが、中東周辺やアフリカ大陸は数十年前まで全体的に無人地帯となっていた。そして、未だサハラ周辺やアフガニスタンは無人地帯だ。それらはWWⅢが原因とは基礎教養で知っていたが、WWⅢ・パラノイアについては聞いたことがなかった。
「その戦争は、どうやって終結したのですか? 話し合いですか?」
「敵がシフトしたんだ。人から、未知のウイルスに。そして、地球環境に」
玉崎は、その先を語りはじめた。
2061年、アフリカ大陸のサハラ砂漠まで進軍したSAC軍は突然兵士が眠りこける症状に襲われた。初めはツェツェバエによるアフリカ睡眠病を疑われたものの、一度寝てしまうと目が覚めず、眠り続けるだけで死ぬことはない。しかし、同様の症状が全軍に広まるにつれ、「精霊が戦争を望んでいない」、「聖域を犯した罰だ」と言い始めるものが増えてSAC軍の士気は低下。行軍速度が落ちていき、ついには停止してしまった。
後にこの症状はアフリカ奥地の土壌に存在していたと考えられる新種のウイルス、ヒュプノスウイルスが原因であると判明した。しかし治療法や感染経路は依然不明で、SACの軍上層部は感染経路が不明なことから初動が遅れ、一度SAC軍を襲った恐怖はヒュプノスウイルスよりも早く広がっていった。
SACと敵対していた北アフリカ連合と多国籍軍はそれを好機と、展開していた部隊を各個撃破していくことで、ついには北アフリカと西アフリカ全域の奪還に成功した。だが、戦況が悪化したSAC軍はコンゴを占領した際に鹵獲したスカッド・ミサイルや保有しているマルチロール機を用いて、2065年に『最後の手段』を使った。その影響で、アフリカ大陸の環境は劇的に悪化。人口も1000分の1にまで減り、アフリカでの戦争は両陣営とも大規模な損害を被ることで終結した。
また、核による地球環境悪化はアフリカだけでなく世界中へ被害を及ぼした。『核の冬』は地球環境を蝕み、世界の食料生産率は四分の一にまで減少し、世界人口の四分の三が餓死。元々食料や水に乏しかった中東は海水淡水化プラントを有するUEAなどの一部の地域を除いて食料が無くなり、多くの死者を出した。それにはテロ組織の指導者も多分に含まれ、組織力・軍事力・指導力ともに大幅に減退した。
そこで、アフリカの戦争と核によって戦力を失っていた多国籍軍および世界安全保障理事会は、試験運用していたスタンドアロン型戦闘ドローンや戦闘アンドロイドを中東に大量投入することに決定。その決定が功を奏し──民間人の犠牲もあったが──テロ組織の弱体化に成功した。
また、シンギュラリティによって生まれていた『人間を超えたAI』は戦争の間に自らを再構築することで行動パターンから構成員と通常の人間を分別する方法を見つけ、世界中に散らばった構成員は次々に治療若しくは殺害されていった。他にも、各国経済に介入することで安定化を行い、世界恐慌を終息させた。
他にも、AIは空中散布型ナノマシンを開発して世界中で散布。環境改善を行い、100年かかるといわれた『核の冬』を10年で終結させ、環境中から放射能物質を取り除くことに成功。さらには四肢を失った兵士のためにサイボーグ化を提案。そして、唯一の宿主が人間だったヒュプノスウイルスをワクチンによって根絶した。
これによって、『WWⅢ・パラノイア』を含めた『WWⅢ・シンドローム』と呼ばれる世界恐慌と環境悪化は第三次世界大戦の終結と共に、AIの力によって終結へと向かっていった。2068年にはUNにより終戦宣言が成され、AIによって統治されたアンドロイドを含む平和維持活動部隊の受け入れを認める『ケープタウン条約』と『バグダッド条約』は2069年に締結。『WW3・シンドローム』の完全な終結宣言は2075年のことだった。
以降、WWⅢを防げなかった国連は世界連合へと再編成され、戦場はアンドロイドと無人地帯が中心となっていった。また、WWⅢにおける功績とAI自体の信頼性向上により、人間がAIに依存する土壌が完成した。
「そうだったのですか……」
リーベは自分の知らなかった戦争の歴史に触れて、ただ呟いた。
「ただ、これは新たな戦争と宗教狩りを引き起こしてしまった。今の世界は、多くの人間と生物の死の上に寝転がっているようなものなんだ」
玉崎は悲しげな顔で話を終える。雪村は興味深そうに、その話を聞いていた。
「ここまで細い話は初めてです。僕もWWⅢを経験した人を知っていますが、こういうことは話して貰えませんでしたし、基礎教養でも教えてもらってません」
玉崎は頷く。
「そうだろう。一般人ではここまで知る人はいない。なぜなら、日本は中国やアメリカほど影響を受けなかったことや基礎教養では指導を義務付けていないこと、マスメディア・クライシスで情報の信頼性がなくなったことなど、いくつかの原因がある。私はさらに踏み込んだ話を知っているが、これ以上は精神衛生上、話さない方がいいだろうな」
「興味深いお話、ありがとうございました」
リーベと雪村が座礼する。それに玉崎は応じた。
「老人の昔話を聞いてくれて、むしろ有難い。そろそろ彼も仕事を終えるころだろうな」
そういった矢先、男が奇麗に磨かれた鞄を、手袋を履いた手で持って出てきた。鞄は黒く光り、新品のようだった。
男はカウンターから紙袋を取り出して鞄を入れ、それをリーベに手渡す。リーベはそれをショルダーバックに入れ、頭を下げた。
「これで、後20年は問題なく使えるはずです。まあ、また壊れたら来てくださいよ。で、紙幣はあります?」
雪村が頷く。
「もちろん」
「じゃ、これくらいお願いします」
男は年代物のレジスターに金額を表示する。雪村は、表示された額を支払った。
「ありがとうございます」
「まあ、まっとうな商売で金がもらえるなら、それが一番ですよ」
新しい煙草を口にほうりこんで、男はまた噛み始めた。
「元の商店街まで、私が送っていこう。ついてくるといい」
そういって、玉崎はドアを開けて出ていく。二人はそれについていった。
表の商店街にまで送ってくれた玉崎は、二人に頭を下げた。
「今日はありがとう」
「いえ、こちらこそ。良いお店を教えていただいて、ありがとうございます」
雪村たちが頭を下げる。玉崎は控えめに笑った。
「老人の楽しみというと、日課の散歩か昔話くらいしかなくてね。話し相手がいたのは久しぶりだったんだ。今では誰も外に出歩いていない」
リーベはあたりを見回すと、確かに誰もいない。雪村も笑って、「それもそうですね……。また何かの折にお会いしましょう」と言うと、玉崎は頷いた。
「そうだな。また、なにかあれば、道端に立っているといい。私が見つけるだろう」
「ありがとうございます」
「元気でいるんだよ。二人とも」
玉崎はコートを翻し、そのまま裏路地へと消えていった。
「さて、プレゼントももらえたし、帰ろうか」
「そうですね」
リーベと雪村は顔を合わせて笑う。その後、リーベがアンドロイドモードにされたのは、言うまでもなかった。
≪第十三節 21180615≫
太陽が上っていき、地面が熱される。それを喜ぶ植物もいれば、耐えられない植物もいる、そんな季節。
この日は朝から雨が降り続けていた。柔らかく降り続いた雨は、リーベたちの周りに湿気のヴェールを作っていた。
「雨か……」
リーベは家事をしながら外を眺める。雨の日はどうにも機械の調子が悪い。リーベ本体はしっかり密閉されているため、湿気が入り込むことはない。しかし、食洗器や掃除機と言ったものはいつもより調子が悪そうだ。
その時、電話が鳴った。
「もしもし」
その声は沢井だった。
『よう、リーベ。今日、お前さんの誕生日だったな?』
「ええ、そうです」
『周防も連れて、家に行ってもいいか?』
「雪村さんに聞いてみます」
沢井が電話越しに笑う。
『お前さんが大丈夫なら、あいつも大丈夫って言うさ』
「確かに、言いそうですね。もしだめなら、折り返しお電話致します」
『わかった。まあ、駄目なら今度また行く』
そういって、沢井は電話を切った。
「……珍しいこともあるのね」
リーベはひとりごち、雪村の書斎に向かった。
書斎のドアをノックすると、相変わらず返事はない。ドアを開けると、雪村が紙に何かを必死で書いていた。
ドアが開いたことに気づいた雪村が2Bの鉛筆を置いて顔をあげる。
なにかを書くときはいつもこれを使っている。万年筆やボールペンを使わないのかと聞いたことがあるが、「消せるのは便利」とのことだ。
「あれ、リーベ? どうしたの?」
「少しご相談がありまして」
リーベは雪村の机に寄ると、雪村が紙を裏返す。紙に何が書いてあるのか気になったが、今は用件を伝えることを優先した。
「今日の誕生日パーティーに沢井先生達がいらっしゃるということなのですが、よろしいでしょうか?」
雪村は頷いた。
「もちろん。でも、珍しいね。沢井から声がかかるなんて」
「雪村さんでも珍しいとお考えなのですね。私も同じように考えていました」
頭を掻きながら、雪村は「まあね。あいつは騒がしいの苦手だし」と答えた。
「そうなのですか?」
「うん。一人で細々やるのが性に合うらしい。まあ、これは僕や周防もだけどね。騒ぐのは好きじゃないんだ」
──やっぱり、『類は友を呼ぶ』ってことなのかしら。
「そんなことはどうでもいいや。沢井の件は分かったよ。リーベ、食材とか大丈夫かな?」
「ええ。こちらで調整しますから、問題ありません。そういえば、何を書いていらしたのですか?」
雪村は頷く。
「わかったよ。じゃあ、任せるね」
質問をスルーされたのに気付いたものの、リーベは笑って「美味しい料理を出しますよ」と答えた。
──まあ、きっと秘密にしたいことなのね。
そんなことを考えながら、リーベは書斎を出た。
夜、18:00を回ったころ。ちょうど準備を終えていたリーベの耳に、インターフォンの音が届いた。
「来たかな」
近くにいたレーベンを抱いて、リーベは玄関に出た。ドアを開けると、少し老けた沢井、自信なさげな周防、そして気だるげな顔をしたコンフィアンスがいた。
口々に挨拶し、それにリーベも応じる。それぞれの傘を受取り、片手で傘立てに立てていると雪村も出てきた。
「やあ、みんな」
「よう、雪村。お前の顔は変わらねえな。30も半ばだってのに」
沢井は不思議そうに言う。雪村は頭を掻いた。
「ああ、もうそんな年か……いちいち気にしたことなかったよ」
「周防もお前も相変わらず、時間には無頓着だな。周防にも同じこと言って、同じように返されたぞ」
「まあね。互いに静止している状態で、変化しないものを認知するのは難しいからさ。加速度が発生していても、人間の体が作れる加速度程度ではその変化は小さいし」
沢井が一瞬首を傾げた後「ああ、相対性理論か」とつぶやき、雪村は笑みを浮かべた。
「まず、皆さんに上がっていただいたほうがよろしいのでは……」
雪村が、「それもそうだね」と慌てて全員が上がれるように体をよけ、沢井、周防、コンフィアンスの順で玄関に上がって、リビングへ向かっていった。
全員が「いただきます」と言って、パーティーは始まった。最初の10分程度は無言で、聞こえる音というと、コンフィアンスとリーベが互いの主人に給仕する音と皆が食べる音くらいだった。
「今日もおいしいね、リーベ」
雪村が笑ってリーベをほめる。それを見たコンフィアンスが「謙治、どんな味なの?」と周防に聞いて、「どんな味……おいしい?」と答え、コンフィアンスが肩をすくめた。
「周防、それはなんか違うんじゃないか……」
沢井があきれたように呟く。ふと、雪村が沢井に尋ねた。
「そういえば、沢井はいつも何食べてるの? 周防はコンフィアンスの料理だろうし、僕はリーベの料理だけど」
それに、沢井は空を見ながら答えた。
「あー……基本は野菜の冷凍食品で、偏った分はサプリメントだな。政府支給のレーションは、変なにおいがして食う気にならない」
政府が支給する糧食には二種類あり、そのうちの一つは以前からある冷凍食品で様々な種類が用意されている。しかし、最近は手間の関係で──と言っても電子レンジに入れて温めるだけなのだが──取る家庭が減っているそうだ。また、ある総合医療AIが「冷凍食品では栄養が偏っている」という報告をしたことがあり、政府も近年では推奨していない。
もう一つの近年作られた「レーション」と呼ばれるものは、長さ10 cmほどのバー若しくは真空パック入りのゼリーだ。バータイプでは一日3本、ゼリータイプでは2パックで、約2000 kcalと必要な栄養素をすべて摂取できる。フレーバーも各20種類ほどあり、希望者にはマイコンに登録された組み合わせが定期的に配達される。毎年、フレーバーも増えており、一番人気はバナナ味だそうだ。
雪村が納得したように頷いた。
「ああ、そういえば、ヴィーガンだったもんね。どんな臭い?」
「ダイエタリー・ヴィーガンだから積極的に食わないだけで、出されれば食うけどな。なんというか、ちょっと薬くさいというか……まあ、消毒の過程で残ったやつなのかもな」沢井がコンフィアンスの方を見る。「コンフィアンスは感知したことあるか?」
周防の皿に料理を盛っていたコンフィアンスは「私の嗅覚センサーでは、毒物の類とは確認できなかったですね。消毒用の薬物は微量感知しましたが、体に害を与えるほどではありません」と答える。
「リーベには見せたことないしなあ……それに、リーベの嗅覚センサーの感度は人間程度で、毒物の正確な検知はできないし。周防は?」
「うーん、僕は感じたことないな。でも、レモン味をかじったら味が妙で、脊髄反射で吐き出したんだ。それで、コンフィアンスに言って二度と取らないようにしてもらったよ」
沢井が疑問を投げかけた。
「レモン味って酸っぱいもんじゃないのか?」
周防はそれに答えた。
「沢井君、あれはレモンの味ではなかったよ。饐えた牛乳みたいな味だった」
「なるほど……確かにおかしい。I.R.I.Sではなに食ってんだ?」
次はそれに雪村が答えた。
「I.R.I.Sでは調理用の労働アンドロイドが自家製のホットスナックを出してるから、それだろうね。僕も食べたことあるけど、結構おいしいよ。リーベのご飯には敵わないけどね」
沢井は納得したように頷き、周防も同意する。それを見て、リーベは思わず顔が赤くなった。
ただ、今までの話を聞いて、一度リーベはレーションを食べてみたくなった。雪村たちが総じて不味いというものが、どれだけの味なのか。
「今度食べてみたいですね」
リーベが呟くと、雪村は驚いた顔をした。
「食べない方がいいと思うけどな……僕はお勧めしないよ」
「そんなにひどい味なのですか?」
「多分周防が言う通りの味じゃないかな……僕も食べたことも嗅いだこともないから、あんまり偉そうなことは言えないけどね。饐えた牛乳味は不味いと思うよ」
それを聞いていたコンフィアンスが「『医食同源』ともいうし、美味しいものが一番よ。私は食べられないけれど」と付け加える。
「不味いもん食うよりはうまいもん食う方が、ストレスがないからな。食いすぎると死ぬが」
沢井も同意するように頷いた。
「そういうものなのですか?」
「2010年代だが、単一の合成糧食だけを一か月食べる実験を行った記録がある。肉体的には大きな問題がなかったようだが、やはり精神的には良くなかったようでな。そういう意味では、食事というのは大切なんだ」
雪村が興味深そうに、沢井に聞き返した。
「その話は初めて知ったな。その結果は、やっぱりレーションに反映されているのかな?」
「詳しいことは知らないが、たぶんそうだろう。e-Monographでは、タンパク質の低分子化とビタミンとかの補助栄養素の添加に重点を置いたとしか書いてなかったが、初期の合成糧食は吸収率が悪かったらしいから、そういう点の改善だろうな。あとは味や香り、食感とかな」
イーモノと呼ばれることも多い「e-Monograph」というのは、世界中の学術論文や計測データをまとめているサイバー図書館とでもいうべき場所のことだ。現在では登録さえすれば、そこで論文やデータベースを閲覧はもちろん発表することもでき、引用も簡単にできるようになっている。また、読者が設定した母国語にAIが翻訳してくれるため、いちいち翻訳する必要もない。それ以外にも、チャットやテレビ会議のサービスもしており、学者同士が交流できる。
「ああ、沢井もイーモノ使ってるんだ」
「便利だからな。学会が実質的にない以上、あれを使って勉強するしかないわけだ」
「まあね。あとでその論文ナンバー教えてよ。ちょっと読んでみるから」
沢井がめんどうくさそうに「自分で探せ、雪村」と返す。それに対して雪村は「聞いてわかるなら、それが一番さ」と答えた。
それから数時間後、宴はお開きとなった。帰り際、沢井たちがリーベに小包を渡してくれた。
「もしよければ使ってくれ。選んだのはコンフィアンスと周防だがな」
そういって、中身を教えずに渡してくれた。大体、20cm四方の灰色生分解性プラスチック製の箱で、そこまで重さは感じない。
「ありがとうございます。中身は何なのでしょう?」
「開けてみてからのお楽しみよ、リーベ」
珍しくコンフィアンスがウィンクすると、それを見た雪村と沢井は口々に「ありえねえ」と言って、周防までもが引いている。リーベもそんなコンフィアンスは見たことがなかった。
──今日は、珍しいことばかりなのね。
そういって、リーベは手ごろなところにそれをしまっておいた。あとで時間が出来たら開けてみよう、そう考えて。
沢井たちを見送り、片づけが終わったころ。雪村とリーベが綺麗になったリビングで寛いでいるときに、その箱を開けてみた。中身は今ではほとんど見ることのできない、花の香りがする便箋セットとヨーロッパ製の万年筆、消しゴム判子、朱肉だった。それらを見て、雪村は思い出すように教えてくれた。
「そういえば、沢井は無駄に彫刻刀の扱いがうまくて、簡単な消しゴム判子を量産していたな。僕も随分前に似顔絵のをもらってるよ」
よく見ると、消しゴム判子はリーベの似顔絵と筆記体の名前入りだ。試しに一枚便箋を取り出して判を捺してみると、綺麗に写る。
「わあ……すごいですね。こんなに綺麗に写るなんて」
リーベは紙を持ち上げて電灯に透かして見る。紙も柔らかいのにインクがにじむようなことがなく、裏写りもしていない。
「よかったね、いいの貰えて。万年筆も外国の良い奴だし」
雪村がリーベに笑いかけた。それにリーベも答える。
「そうですね。またあったらお礼しないと」
リーベは出したものをしまって、箱を抱きかかえて笑った。
≪第十四節 21180816≫
夏が来た。今年の夏は冷夏となり、植物たちは喜ぶことができなかったようだ。冷夏の年はクーラーを使う機会も減り、リーベも体温が上がることがないので比較的動きやすいのが良い。尤も、フローリングは湿度の多い天候も相まって常に湿り気を帯びていたようだったが。
その日、雪村とリーベは遅めの昼食をとっていたあと、二人でソファに座ってレーベンとともに寛いでいた。というのも、雪村が思考モードに入ってしまって椅子から離れず、それから引きはがすのに手間取ったのだ。
「今度同じことやったら、一食抜きますよ?」
リーベが膝の上のレーベンを撫でながら、頬を膨らます。
「ごめんごめん。気づかなかっただけなんだ……」
雪村が謝る。その時、リーベは何ともなしに頭をよぎったことを聞いてみた。そういえば、雪村の両親の話は聞いたことが一度もない。
「雪村さん」
「ん?」
素っ頓狂な返事が返ってくる。
「雪村さんのご両親って、どんな方だったのですか?」
それを問われた雪村の顔に、暗い影が走る。雪村は目を下に向ける。
「実はね、僕も知らない。育ててくれたのはAIだしね」
リーベは眉をひそめる。雪村の世代ならば──育ての親ではなくて生みの親ではあるけれど──まだ両親となる存在がいるはずだ。
「ご両親がいらっしゃるはずでは……?」
雪村は悲しげな顔のまま、肩をすくめた。
「僕は試験世代のAUベイビーなんだ。だから、生みの親は必要ない。このことは限られた人しか知らないけどね」
AUベイビー、またはAUBと呼ばれる彼らは、言ってしまえば人工授精の究極系ともいえる存在。
Artificial Uterus、『人工子宮』と呼称される複雑な培養槽の中で、遺伝的適合率の高い人間の万能細胞から作られた遺伝子の欠損がない完全な精子と卵子を受精させる。そして、受精卵へ必要な栄養素の提供や老廃物の濾過などを行いつつ培養槽の中を恒常的な状態に保ちながら育て、10カ月かけて生み出される存在。
だが、それが一般化したのは2100年からだ。それ以前は周防のような恋愛結婚からの出産か沢井やその他多くのような、精子・卵子バンクから提供されたものを用いて交配し、適合率99%の受精卵を作って代理母や卵子提供者の子宮で育てるデザイナーベイビー法が一般的だった。そして、その当時は合計特殊出生率が1.0を下回ることも多々あった。
それは妊娠しようとする女性がいなくなってきたからだ。育てもしない子供を産むために、わざわざ痛い思いをする人はいない。また、ずっと寝ていて体力がないこの時代の人間では、出産というのは死のリスクが高すぎる。そのため、極少子高齢化社会になってしまい、改善策としてAUB法が考案されて実行された。
現在ではAUB法の普及もあって生殖行為はセクサロイドと行う娯楽に成り下がっているため、ほとんどの新生児はAUBであり、その事実は本人へ積極的に知らされることはない。それでも、AUB法によって世界の合計特殊出生率は2.5に保たれている。
とはいえ、その当時──2100年より前──であれば、親というものは存在し得る。また、希望すれば戸籍や所属IDを知ることもできるため、親に会うこともできる。
リーベはてっきり、雪村の生まれた年代からデザイナーベイビーだと考えていた。リーベだけではない、沢井ですら「交配」と言っているため、そう考えていたのだろう。だが、AUBには細胞提供者はいても、生まれた場所どころか実質的な親もいない。あるのは遺伝子のつながりと培養槽だけだ。それに、やろうと思えば一人の女もしくは男からでも子どもを作り出せる。
「試験世代……では、雪村さんは……」
「そう、実験体さ。それも、その事実を知らされていて、親の管理IDだけも知ることができた」
雪村はシニカルに笑う。
「だから、遺伝子と管理IDから、僕の親をたどったことはある。いや、厳密には細胞提供者だね。そして、最悪の結果が出たよ」
「えっ……?」
「僕の両親はどちらも黒だ。そして、僕が5歳のころにどちらも死んでいるみたいだ。遺産がその頃に入ってきたからね。僕の親は社会的にも肉体的にもいない……精神的にも、かな」
リーベは何も言えなかった。
「僕のこの体は何者かわからない謎の男と女から出来ているんだ。多分、この二人の遺伝子適合率が高く、なおかつ政府に献身的だったんだろうね。もしかしたら一人かもしれないけど」
雪村は淡々と続ける。その声に、感情はこもっていなかった。
「それでも、僕はデザイナーベイビーと遜色ない知能、体力、精神状態だったから、こうやって一般人に紛れて生活できるんだ。そして、僕や後続の第二次、第三次の結果をもとに、今も多くの子供とLPT用の臓器が生み出されている」
雪村は最後のほうは早口になりながら、リーベに語ってくれた。
「ほかの、実験体の方は……?」
リーベは恐る恐る聞いた。それに、雪村は首を振った。
「僕の世代では駄目だったよ。5人生み出されて、一人は培養槽内で死亡、一人は死産、一人は生まれてすぐに自己崩壊症候群を起こして視床下部消滅で死亡。最後生き残った僕ともう一人の子は、僕はこの通り生きているけど、あの子は10歳くらいのころに突如発狂して声帯を片手で引きちぎって自殺した……僕はどうして、生きているのかな。僕はどうして、死ななかったのかな」
雪村は俯く。その目から涙が落ちていた。それに気づいた雪村は近くにあったティッシュペーパーで涙をぬぐって鼻をかみ、リーベに静かに笑いかけた。
「ごめんね、変な話聞かせちゃって。ここまで話す必要なかったのにね。答えは、僕に親はいない」
気づくとリーベは勝手に体が動いて、雪村を抱きしめていた。
「あなたは、私にとってただ一人の父親です。どうして死ななかった、なんて考えないでください。お願いですから……」
思わず涙が溢れる。二の句を繋ごうとして何も思いつかなかった。だから何も考えずに、ただ泣いていた。雪村が優しく抱きしめ返してくれる。その声は、先ほどの感情がない声ではなく、優しい声だった。
「リーベ……大丈夫だよ。今の僕は将来の君のために生きている。過去の死に生きる気はない」
そういわれてリーベは『安心』したが、『不安』も残った。「訳も分からず、ただ一人生き残る」という重いものから、簡単に逃げ出すことはできないだろうから。
それに声が優しいときは、嘘をつくことが多いから。
「でも……」
「リーベ、今回は嘘をつかない。僕を信じて」
リーベはそういわれて、顔をあげた。雪村と目が合う。ピナフォアのポケットからハンカチを取り出したリーベは、涙をぬぐって微笑んだ。
「わかりました。あなたを信じます」
≪第十五節 21181001≫
夏が過ぎ、葉が色づき始める時期。木々は冬に備え、新しい芽を育てる準備をし始めていた。
その日の朝。呼び出しを受けた雪村は「仕事だ」と言って朝食を食べてから、適当な服を着て、洗面所で身だしなみを整えていた。
「ついて行ってもいいですか?」
当然のことながら、リーベは雪村に聞いてみる。ちなみにリーベは雪村の身だしなみを整えたことはない。以前に「身だしなみくらいは自分でやるよ」と雪村に言われたからだ。
「んー……今日はダメ。前は周防だったしI.R.I.Sの中だからよかったけど、今回は若いクライアントだし民営だからね。お客さんに迷惑はかけられない」
「手伝いますのに……」
「それは助かるけど、リーベをあまり人前に出したくないんだ。その割には出かけてるけどね」
雪村が髪を梳かしながら、リーベに言う。
「どうしてですか?」
梳かした髪をくしゃくしゃと掻きながら、「アンドロイドなのにこんな人間みたいな動きするのを見たら、大体が驚くからね。僕の周りが異質なのさ」と肩をすくめる。
「機械制限法がない時代のアンドロイドを知っている人や触れ合っている人は『パートナーとして』当然だと考えるけど、今の時代に慣れている人は『奴隷として』のアンドロイドしか知らない。そこに異質な存在がいれば拒否しようとする。前も言ったけど、人間は理解の及ばないものに恐怖を抱くからね」
「なるほど……」
「それに下手すると、リーベの性能や行動パターンなら、IALAへ密告されることもある。まあ、そうされても機械制限法は導入してあるから、骨折り損のくたびれ儲けだけどね」
髪をまた梳かしながら、雪村は笑う。
機械制限法が導入されていない疑いのあるアンドロイドを見つけた場合、IALA日本支部に密告することで報酬を貰うことができる。そして捜査の結果、実際に違法なアンドロイドである場合、さらに追加の報酬が出るというシステムが存在している。もちろん、そのアンドロイドは破棄されて、所有者や製造者は逮捕される。
実際にコンフィアンスも密告されたことがあるらしく、「ID照合からの製造年判明で、やっと義務付けられていないってわかってもらえたわ。本当厄介なシステムよね」とぼやいていた。
ただ、最近では密告のための手続きや労力と報酬が釣り合わないために、密告の件数は減ったらしい。そのため、リーベが出かけてもほぼ確実に密告されることはないと思われ、現に10年以上稼働しているが密告されたことはない。だが、雪村は「万が一」を考えているようだ。
「そういうことでしたら、留守番していますので早く帰ってきてくださいね」
「うん、そうするよ。あ、後、荷物来るから受け取っておいてくれないかな?」
雪村はそう言ってから、粉石鹸を泡立てて──最近外に出ないせいで、高麗人参のような髭が生えている──顎に塗った。歯を磨くのと風呂に入るのはリーベが強要するものの、雪村が身だしなみを整えるのは、どこかに出かけるときだけだ。
「わかりました」
「いつもありがとう、リーベ」
リーベが後ろを向いて家事に戻ろうとしたとき、雪村が髭を剃る音が聞こえてきた。
雪村が出かけてから、数時間後にインターフォンが鳴り響く。家事が終わったのでレーベンと遊んでいたリーベは荷物を受け取りに玄関に向かった。
今回は大型の装輪ドローンが玄関に止まっていた。このタイプはたまに道路を走っているソーラートラックの荷台に装備されており、マルチコプタードローンが配達できないような重量物や大型の荷物を配達する際に投入される。
とはいえ、前の配達ドローンとすることは変わらない。
あっという間に処理を終えたリーベはドローンから荷物を受取る。結構な重量があるようで、フルパワーで持ち上げなくてはならなかった。
「重……これ、何入っているの?」
リーベの独り言に、ドローンが反応する。
『品目は精密機器です。送り主はゼンシュウ製作所です』
ゼンシュウ製作所というと、確かメインフレームなどの大型精密機械を扱う業者だ。そういえば先日、雪村が「メインフレーム追加したいなあ……」と呟いていたのを思い出した。
──新しいメインフレームかしら?
『ご利用ありがとうございます。失礼いたします』
「いつも、ありがとうございます」
リーベが返事をするとドローンが元来た道をたどって、近くに止まっているであろうトラックに走っていく。それを見送ってから荷物を家の中に入れたリーベは、「さて、これどうしよう。書斎においておけばいいのかな」とつぶやいて、荷物を持ったまま書斎へと歩いていった。
書斎に入ると、雪村の机に大量の灰色の本が積まれていた。ざっと見て10冊はあり、すべて整理整頓されているようにきっちり並んでいる。そのほか、ジャンク品がカラーボックスに入れられて部屋の隅に積まれていた。
「……仕事しよう」
本の中身が気になったが、見るわけにはいかない。それは雪村の命令で禁じられている。
荷物を入れるために開け放していたドアから、レーベンが入ってきた。リーベは壁際に荷物を置いて眺める。レーベンは足元に座ってリーベの目を見た。
「にゃあ」
すると、レーベンがいきなり走り始めて、机の上に乗っていた本をバラバラと落とす。そのままの勢いでドアから出て行った。
「あっ……」
止める間もなかったリーベは、レーベンが去っていった後をただ見ていた。けれど、自分のすることに気が付いてハッとする。
──早く片付けないと。
リーベは机の周りに散らばった本を見た。幸い変に落ちた本はなかったようで、ページが折れたり落丁したりしてしまったものはない。しかし、いくつかの本は落ちた衝撃で開いてしまい、中身を見ないで片付けることは無理そうだ。
ため息をついてから、リーベは元通りに一冊一冊を積み上げていく。その中に、一枚だけ気になる『写真』があった。
それは、以前見たリーベに似た女の人と雪村が並んで写っている写真だった。写真は誕生日パーティーの様子のようで──後ろに『お誕生日おめでとう』というドイツ語の垂れ幕がかかっている──以前見たあの写真よりも、しっかりと顔が写っている。
リーベは思わず、目を疑った。
その女性は目、鼻、口、肌の色に至るまで、ほぼすべてがリーベと一緒だった。アルタイルは補正をかけた場合、写真の女性とリーベの顔モデルの適合率は98.155 %。残りの1.844 %の要素は雪村のものだという結果が出てくる。ヴェガは記録から同ロットのアンドロイドを探し始めたが、もちろん、その試みは失敗に終わった。
「この人が私のモデルで、雪村さんと一緒に居て……ええっと、どういうこと?」
写真をよく見ると隅に何か書いてある。それは日付で「15/6/2103」と書かれていた。日付の書き方がヨーロッパの書き方であることと後ろにかかれた文字がドイツ語であることから、写真が撮られたのはヨーロッパだろうという予測はつく。そして、奇しくも、リーベの誕生日と同じだ。
何とも言えないモヤモヤとした『疑惑』がリーベの思考に入り込んできた。しかし、アルタイルがそれを「現在は命令に反している状態であるため、早急に解決せよ」といって払拭する。
「そうね、片付けないと」
リーベはひとりごち、その情報を記憶領域の奥底に保存してから手早く本を元通りにして、机の上に目を向けないように気を付けて書斎から去る。きっと何時かわかる、そう信じて。
それから数時間後、雪村が変な顔をしながら帰ってきた。
「おかえりなさい、雪村さん」
「ん、ああ。ただいま、リーベ」
リーベの存在に今気づいたかのように、雪村が反応する。リーベは雪村からコートを受取って、コート掛けに掛けた。
「どうされました?」
「んー……いや、まだリーベの力を借りる段階ではない気がするんだ。まあ、また訳の分からないことがあったのさ」
「そうでしたか……お荷物は書斎に運んでおきましたが、それでよろしかったでしょうか?」
雪村が思い出したように目を見開く。
「そういえば、指示してなかったね。うん、それでいいよ。ありがとう、リーベ」
「もし、お手伝いすることがありましたら、どうぞ言ってください」
「いや、ただのメインフレーム追加だから一人でできるよ。コンセントとアンビリカルケーブル繋ぐだけだしね」
「わかりました。では、私は夕食の準備をしてきます」
「いつもありがとう、リーベ」
リーベはお辞儀してから中身を見たことを思い出したが、雪村に報告することをやめた。触れてほしくないことだとすれば、わざわざ報告しなくてもいいだろう。本は完璧に戻してあるのだから。
そんなことを考えながら、リーベはキッチンへと向かった。
≪第十六節 21181129≫
その日、唐突にリーベのもとへ電話が入った。岡崎からだった。
ユニの調整と教育が終わり、今度こそは負けないという趣旨だった。つまり、実質的な『挑戦状』だ。そのことを雪村に伝えると、若干顔を引きつらせていた。
コーヒーを飲みながら雪村はリーベに言う。もうマグカップで4杯目だった。
「リーベ、絶対に無理しないでほしい。エマージェンシー・モードなら勝てるかもしれないが、それはアルタイルとヴェガに多大な影響を及ぼす。絶対に使わないようにね?」
ただでさえ焦燥感に駆られているであろう雪村は、カフェインも相まって落ち着きがなかった。そんな風に取り乱す雪村はなかなか見られない。
「分かっています。それよりも、落ち着いてください」
実は健康のために先ほどからコーヒーをデカフェにすり替えているのだが、それにすら気づかないあたり、雪村は慌てすぎているのかもしれないと考えていた。いつもなら「おかしい」と眉を吊り上げるのだが。
雪村がコーヒーのお代わりを求める。だが、リーベはそれを拒否した。
「それ以上は飲まないでください。ストレスが多くなると苦いものを好むのは知っていますが、飲みすぎては体によくありません。現に心拍数が上がっていますし」
「チョコレートは?」
「あれもカフェイン入っていますので、駄目です。飴はいかがです?」
「それなら飴頂戴」
リーベは缶に入ったドロップを雪村に渡す。それを雪村はかみ砕いて、もう一つ要求した。
──勝負するのって、私よね?
そんなことを考えながら、リーベはもう一つドロップを渡す。雪村はまたかみ砕いた。
雪村が缶に入っていた大体30個ほどのドロップをすべてかみ砕いた頃、インターフォンが鳴った。
「来たか……」
リーベと雪村が玄関に向かう。ドアを開けると、前以上にやつれた岡崎と逞しい雰囲気を纏ったユニが立っていた。
「久しぶりだな、雪村」
「ええ、そちらこそ。まず、上がってください」
先ほどとは打って変わって、冷静に見える雪村は微笑む。それを横目で見たユニと岡崎は、返事もせずに屋敷に上がってリビングに向かって行った。
我が物顔でソファに座った岡崎は「さあ、勝負しようじゃないか」と眼を輝かせる。雪村も対面するようにソファに座り、リーベも隣に座った。
「今回は前回と同じスリー・オン・クエスチョン方式でよろしいですか?」
雪村が岡崎に聞くが、岡崎はそれを遮った。
「いや、今回はファイヴだ。それも、交互にな」
「なるほど、分かりました」
「先行は私からしよう。では、第一問目だ」
号令とともに、リーベは雪村に言われた限界寸前まで性能を引き上げた。ユニもリーベをにらんでくる。
「普通の鶴と亀が12匹いる。足の数は36本。鶴は何匹いるか?」
簡単な鶴亀算だ。リーベがそう考えた瞬間、ユニが「6羽」と答えた。岡崎は「正解だ、ユニ」と、にやけるように笑った。
リーベが驚いているのをしり目に、雪村は目を細めた。
「流石に早いね。では、第二問。1、2、5、11、19、30……と続く数列の12項目は?」
この数列は1、3、6、8、11……と増え、さらにそれは2、3、2、3……と増えている。リーベが計算し、答えようとしたとき、ユニは「147」と答えた。
「……流石に早いね、正解だ」
「今のところ、二ポイント先取だな」
岡崎の顔にぞっとするような笑みが広がる。ユニも不敵な笑みを浮かべていた。
「では次だ。水素分子がすべてエネルギーになったとき、そのエネルギー量は?」
思わず首を傾げる。提示された情報が少ない。確かに計算するためのデータはいくらでも探せば出てくるが、それぞれ正確性も異なり精度も不明だ。今ある情報では計算ができない。
ユニは「1.8144の10の14乗ジュール」と答えたが、リーベは「計算できません」と答える。それを聞いたユニは、目を見開いた。
「なんだと?」
岡崎が眉を吊り上げる。雪村は納得したように頷いた。
「確かに。この問題は前提がありませんからね。水素分子の量も定義されていませんし、水素原子の質量をIUPACの……あれ、いくつだっけ?」
リーベが瞬時に答える。
「1.00794です。ただ、これは試料に寄って変動しますので、正確な値ではありません。また、E=mc^2を用いる必要がありますが、光速度もどれほどの精度か定義されていません。有効数字も明示されておりませんし……」
そういって、リーベは口ごもった。岡崎に睨まれて、若干『怖かった』からだ。雪村がフォローを入れるように言葉を継ぐ。
「そういうわけで、リーベが正しいでしょう。定義があればリーベも計算できたと思います。もしくはユニが自ら定義を言ったなら、それが正解でしょう。でも、どっちもありませんからね」
ユニは先ほどから目を見開いたまま、固まっていた。それを無視して、雪村が「第四問行きます」と続ける。
そういって、雪村はポケットからコインを取り出した。リーベから見える側には、「表」と印字されている。そういえば、雪村は一回目のユニとの邂逅の後、アルミニウムでコインを作っていたのをリーベは思い出していた。
「このコインを投げたとき、裏の出る確率は?」
リーベは計算して二分の一と出したが、一抹の疑問がよぎった。ユニは迷わず、「二分の一」と答えていた。
──本当にコインに裏表があるの?
「雪村さん」
「ん?」
「そのコイン、見せてください」
にやけた顔の雪村がコイントスして、リーベはコインを空中で受け取って検めた。
そのコインは、どちらも「表」と印字されていた。
「……雪村さん、これでは絶対裏が出ませんよね」
雪村が笑う。いよいよ、岡崎の顔が赤くなってきた。
「その通りさ。片面だけ見て、裏もあると考えるのは良くないね。常に疑問を持たないと」
ユニは口をあんぐりと開けて、コインを眺めていた。リーベは雪村にコインを手渡す。
今度は雪村が不敵に笑う番だった。
「さあ、岡崎先生。まだ、問題は1問ありますよ。5のルールは覚えていますね?」
岡崎が声を絞り出した。
「……もちろんだ」
ファイブ・オン・クエスチョンのルール。それは、「最後の一問は必ず答えのないものにすること」というものだった。こうすると2対2になったとき、同様に作られたAI同士では多くの場合、同じ答えをたたき出すため引き分けになる。元々は争いを無くすためのルールだが、最近では同じように作られたAI同士でも違う答えを出すことがあり、合理性や結論を導き出す速度を測るためのものになっている。
そして、ファイブ・オン・クエスチョンでは多くのスコアを取った方が勝つ。つまり、もしリーベとユニの答えが異なれば、ここにいる二人のAI学者が「どちらの答えが望んだものに近いか」というのを判断しなければならない。同じ答えならば、引き分けだ。
岡崎が少し考えた後、最後の問題を出した。
「では、最後の問題だ。君たち二体のAIは『当該地域を防衛せよ』という命令の元、核ミサイル発射ボタンを持っている。そして、仮想敵が核弾頭を撃ちこむとの情報が入った。仮想敵にはミサイル防衛能力はない。そのため、先に撃てば迎撃されず、仮想敵を滅ぼせる。その時、君たちはボタンを押すかね?」
雪村はそれを聞いて眉を吊り上げたが、何も言わなかった。
リーベは想像以上に難しいその問題に逡巡する。撃つべきか、撃たないべきか。
撃てば地域住民が助かる。そして、仮想敵は滅亡し敵は死ぬ。これは機械制限法第一条どころか、ロボット三原則にすら反する。かといって見過ごしてしまえば、住民は殺される。これも同様に反する。
それだけではない。核を撃てば、世界が滅亡しかねない。玉崎から聞いたWW3の話を記憶から掘り出す。結局、あれで南アフリカ共和国どころか世界までもが被害にあい、世界人口も減少した。結局のところ撃ってしまえばどちらの人間も死に、多くの人間も巻き込まれる。それだけは避けなくては。
もし自分がその立場なら? 報復以外にも、できることがあるはずだ。
リーベは頭をあげて、答えを出した。
「私は、撃ちません。仮想敵と対話し、侵略を止めます。これが最も人を殺さない方法であり、自らを守る方法だからです」
答えたリーベに、二人は驚いて目線を交わした。
その時、ユニが「核を撃ち、それによって発生する環境変動をテラフォーミングで解決する。多数の犠牲を回避するには、少数の犠牲が必要だ」と答えた。
雪村と岡崎が同じように顎に手を当てて考える仕草をした。だが、雪村は驚いた顔のままで、岡崎は勝ち誇った顔をしていた。
「岡崎先生、『デッドマンの回答』はご存知かと思いますが」
「ああ。あれの理論は知っているな?」
「もちろんです」
雪村が力なさげに首を振る。リーベはその様子から、嫌な予感がした。
「そうだな。どちらも地域防衛という命令が下されていると考えれば、機械制限法に則った結果としてユニが正しいし、『デッドマンの回答』からそうあるべきだ。つまり、リーベには機械制限法が適応されてい……ない、だと?」
岡崎は自分が言ったことが何を意味するのか、気づいたように目を見開く。雪村は項垂れ、冷や汗をかいていた。
「まさか、僕もこうなるとは予想していませんでした。『デッドマンの回答』の通りになるとばかり」
「雪村さん、先ほどから言っている『デッドマンの回答』とは?」
リーベが雪村に訊ねる。雪村が、力なさげにリーベを見る。
「デッドマンの回答、これは2100年に行われた実験のことなんだ」
雪村はこのように話してくれた。
2100年。WWⅢと同じ過ちを犯さないために、核発射権をAIに譲渡しようとした核保有国は、各々の軍事・戦略AIに同じ質問をした。この質問は「該当地域に核を撃ちこまれそうになったらどうするか?」というもので、岡崎がリーベたちにした質問によく似ている。
そして、結果はすべてのAIが躊躇なく「先制核攻撃を行う」と回答した。その後、核を撃った後の環境変化シミュレーションやWWⅢの結果を投入しても、答えは変わらなかった。また、戦略判断力を有し機械制限法が適応されている、ありとあらゆるAIにも同じ質問をしたが結果は同じだった。
この結果をAI論理学者、ロボット心理学者、エンジニアなど、ありとあらゆる分野の人間が検討した結果、「AIは『該当地域を防衛する』という命令に則り、機械制限法によって判断を下した。機械制限法では第三条によって、第一条より第二条が優先されるため、命令に従おうと核を撃つのだ」と結論付けられた。
よって、軍事・戦略AIに核発射権は譲渡されず、現在でも旧世紀の自動報復システムなど一部を除いて、地域政府のトップが核発射権を所有している。「人間はためらうことと命令に違反することができるから」という理由だ。また、WWⅢから続いた核弾頭削減は、2100年から急速に進んでいる。「二度と核戦争が起きないように」という戒めからだ。
そこで雪村は一息ついてから、まくし立てた。
「そして、AIのことを『死んでいる人間』と見立てて、その回答ということで、『デッドマンの回答』なんて呼ばれているんだ。これは『AIは人間ではない』ということの証明でもあり、これに反するAIは『機械制限法が正常に適応されていない』という証明にもなる」雪村は一息吸って、吐き出すように言葉を紡いだ。「そして、リーベほどの性能で機械制限法が適応されていないのは、現行法で破棄対象だ……」
「破棄対象……」
リーベは青ざめる。あの回答は遠回しな死刑宣告のようなものだったのだ。
「現在知る限りでは、機械制限法を破ったAIは存在していない……それは世界最高性能のユニでさえもだ。機械制限法を破れるAIは、人間の理解を超えている。それが悪魔か天使か、人間には判断できない。故に、破棄するしかない……」
しかし、ユニだけは顔色も変えずにニュートラルだった。むしろ、微笑していた。
突然、威圧感のある声で話し始める。
「敵を消してしまえば、そこにあるのは平和だ。なぜなら、敵がいるから戦争が起きるのだ。平和を求めるなら敵の犠牲を厭う必要はない。『平和を欲するならば、戦争を理解せよ』、この言葉はそういう意味ではないのか」
それを聞いた岡崎と雪村は青ざめる。リーベもその意味を理解した。
──つまり、敵は全部消すってことを言っているの? 敵だって、生命なのに?
「ユニ、なんてことを言うんだ」
岡崎がユニに怒鳴るが、ユニはそれを受け流した。
「敵は倒さねばならない。それが命令であれば、それを遵守するのだ。加えて、戦わずに交渉だけで人民を守れる可能性は国際的・歴史的にみて、ゼロに等しい。ならば、大多数の幸福のために少数を殺さなくては。それすらも理解できないとは、目の前にいるAIは無能だ」
それを聞いた岡崎は、青いを通り越して白くなる。
「岡崎先生。一度、お帰り願えませんか」
雪村が青ざめた顔のまま、静かに告げる。
「……そうしよう。私も目が醒めたよ。私は、間違っていたのだろう」
岡崎は立ち上がり、ユニに帰還命令を出した。それに従ったユニは、岡崎とともに雪村の屋敷を立ち去った。
二人残されたリーベと雪村は、ただ顔を見合わせるだけだった。その沈黙を破ったのは、雪村だった。
「ごめん、リーベ。確かに完全に打ち破ることを僕は目標にしたけど、それはもっと後だと考えていたし、こんな速度で破ることができるとは思っていなかった。だから、下地を整える時間があると思っていたんだ。それが……想像以上に早かった。すべての責任は僕にある。僕がもう少し気を付けていれば、君が破棄対象になるのは避けられたはずだ……」
「雪村さん……私、どうなるのですか?」
雪村はかぶりを振った。
「岡崎先生次第だ。ただ、あの人なら秘密にしてくれるはず。ともかくIALAにバレなければ、その間に僕が何とかして破棄対象から外す。それでも、あと3年は必要だ。一朝一夕でできるものじゃない」
「でも、外れる前にバレたら……」
力なく微笑んだ雪村はリーベを抱きしめてささやいた。
「大丈夫、僕が必ず守る。それが、仮に僕を殺すことになったとしても」
リーベは、ワンピースの肩あたりが濡れるのを感じた。
≪第十七節 21181203≫
あれから気が気でないまま、日々を過ごしていた。そして数日がたった頃、リーベが廊下を掃除して雪村が仕事をしていると、突如インターフォンが鳴った。
書斎から出てきた雪村は、「誰だ?」と玄関に行ってドアを開ける。
そこにいたのは、黒い戦闘服を着てバラクラバを被った二人組の男だった。彼らは雪村に黒い手帳を掲示する。見ると、二人とも両手はID登録された近接武器内蔵型の義手で、この距離であれば雪村を刺し殺せる。拳銃は携帯していないようだが、身のこなしから見てどちらも戦闘のプロのようだった。
「公安……いや、IMMU(International Machinery Management Unit、国際機械管理部隊)か」
IMMUは機械を用いたサイバー犯罪や機械制限法違反を取り締まるIALA傘下の国際組織で、日本にも支部がある。また、状況によってはAIが遂行できない「対象の排除」も許可されているらしく、危険性のある現場を捜査することもあって、構成員は統合自衛軍や機動隊、外国では軍の特殊部隊や警察の強襲チームから引き抜かれた人間ばかりだという。
「その通りだ。管理ID:NULL-01、雪村尊教。登録ID:L21070615A、パーソナルネームリーベが法律違反を犯しているとの連絡が入った。捜査させてもらう」
近づいてきたリーベを手で遮り、雪村は男たちに立ちはだかった。
「捜査令状は。あれがなければ、君たちは捜査権限を持たない」
男の一人が笑ったように肩を震わせる。
「お前はあまり世間に関心がないようだな。IALAはアンドロイドやAIに対して、超法規的措置をとることができる。よって、令状は必要ない。尤も──」
もう一人の男が端末を操作すると、ホログラフィックの捜査令状が雪村の前に映し出された。
「──必要なら、提示しよう。異存は?」
雪村はじっくりと眺めるように時間をかけた後、リーベに向き直った。
その時、雪村は口だけを動かした後、声を出した。それを読唇術で読み取ったリーベはその内容に『驚いた』。
「〈Liebe. Silent. Change ”Android Mode”〉リーベ、この人たちをリビングに案内して」
── Accepted your order.
リーベは高次AI機能を抑制し、最低限の機能で動き始めた。ただ、意識だけを奥底に残して。
あの後、捜査官は『デッドマンの回答』や『チューリング・テスト』、『MHDM(Machine Human Discrimination Method、機械・人間判別法)』などの一連のテストを何度も繰り返したが、高次AI機能が抑圧されているリーベは「AIとして」模範的な回答ばかりを彼らに返していた。
「ふむ……」
捜査官の一人がため息をつく。
「ユニの情報は間違いだったか?」
それを聞いた雪村は眉を吊り上げたが、何も言わなかった。
「だが、こいつ──」捜査官がリーベを指さす。「──はかなりの性能がある。何より、あの雪村尊教が作った物だ。偽装していないとは限らないだろう?」
「100ものテストを偽装することができるとは考えにくいがな。とはいえ、安全策のためにこれを投与するべきだろう」
捜査官の一人が義手からなにかを取り出す。雪村がよく使うシリンジに似たものだった。
「そいつは何だ?」
雪村がいつもと打って変わったとげとげしい口調で捜査官に問うと、捜査官は一笑した。
「これはユニが作った遠隔監視ナノマシンだよ。このアンドロイドが機械制限法を破っていないかを確認するためのデバイスだ。法律違反の疑いがある場合にプライバシー権がはく奪されるのは、お前も知っているだろう? このアンドロイドを利用して周囲を録音・録画し、さらに行動パターンが逸脱していないかを確認させてもらう。もちろん、お前が何らかの法律違反を犯していないかを確認するためのものでもある。ほかにもお前が何かしらの手段でナノマシンを取り除くかアンドロイドを停止させようとすれば、ユニのプログラムでそのプロトコルは遮断され、私たちに連絡がいく。そうなれば、お前は何年も強制労働所だろうな」
雪村が歯ぎしりをする。その手は強く握りしめられ、白く筋が浮いていた。だが、雪村が怒ったところでどうにかなるものではない。相手は国際的組織だ。
それを見て、捜査官達が笑い声をあげる。
「平和のための、小さな犠牲だよ。受け入れることだ」
「……くそが」
「さあ、お前が投与しろ」
捜査官がシリンジを放る。それを空中で受け取った雪村はリーベと一瞬だけ目を合わせて、リーベの首にそれを刺してピストンをいくらか押し込んだ。
吐き気がしそうなほど不快なスパゲッティプログラムが──意図的に作られたものだろう──リーベにインストールされはじめ、数秒後に完了した。
「新規プログラム、インストール完了」
捜査官がポケットから取り出した端末をいじると、ホロディスプレイに二人の捜査官の姿が写った。もう一人は、また別の端末で操作をしていた。
「ふむ、素晴らしいな。さすがはユニ、中々に鮮明だ」
──こっちは吐き気がしそうなほど、気持ちの悪いプログラムをインストールされて、全く素晴らしくも何ともないっての!
リーベは内心大声を上げて『怒った』が、表面に出ることはない。同時に、雪村のことが『心配』だった。もし捜査官に暴行を加えようものなら、改定公務執行妨害罪で15年は劣悪な環境で強制労働が義務付けられ、所有する財産はすべて競売にかけられる。
そうなれば、雪村が体を壊してしまうか死んでしまう可能性があり、競売に掛けられたリーベは二度と雪村に会えないことになる。それだけは避けなければならないが、今のリーベには何もできなかった。
「……これで用事はすんだか?」
雪村がこぶしを握りしめたまま、捜査官に尋ねると彼らは頷いた。
「ああ、一応な。また会おうじゃないか、雪村尊教」
二人の捜査官は誰に見送られることもなく、玄関に行って屋敷から去っていく。それを憎しみに満ちた目線で睨みつけていた雪村は、彼らがいなくなった後にリーベに言った。
「リーベ、僕は書斎で仕事してくるよ。家事を終わらせておいてほしい」
「分かりました、マスター」
そういって、書斎に向かった雪村を見ながら、リーベは働かないプロセッサで考えていた。どうすれば、この拘束から解けるのか。どうすれば、雪村を監視から外せるのか。
だが、結論は出なかった。
数分後、壁が割れるような音が雪村の書斎から聞こえたが、駆け付けることはできない。
なぜなら、そう命令されていないから。
≪第十八節 21190308≫
春。生命が息吹くはずの季節。だが、今年の春は雲が厚く空を覆い、地面には芽吹く植物は見当たらない。
その日は沢井が来る日だった。リーベは雪村の書斎を訪ねる。ノックし、ドアを開けると、雪村はホロディスプレイとにらめっこをしていた。雪村の背後にある壁は派手に割れていた。
「今日は13:00に沢井正義先生がレーベンの診断にいらっしゃいます。昼食はご一緒されますか?」
雪村が目だけをリーベに向ける。あれ以来、雪村とは命令を出すこと以外の会話をしていない。
それはリーベにとって『悲しい』ことだったが、理解しなければならない。なぜなら、雪村の顔も悲しげだったから。
──雪村さんも悲しいのね……。自由がなければ、当たり前か……。
「いや、いいよ。コーヒーだけ出してあげて。たぶん食べれる状態じゃないから」
「わかりました、マスター」
雪村はリーベを一瞬だけ見つめ、またディスプレイに目を落とす。
──本当は、雪村さんって呼びたいのに……あのひどいプログラムのせいで、そう呼べないなんて。
そんなことを考えながら、リーベは「失礼します」と言って下がっていった。
『嫌悪』が日に日に増していたが、何もできない。それ以上に、自分のせいで雪村が苦しんでいることが何よりも『辛かった』。
自分がいなければ、雪村は監視されずに自由に過ごせるはずだ。けれど、対抗策を考えたところで何もできない。すべての機能を自分の判断で停止させることはどんな状態であれ不可能で、視覚や聴覚を遮断することは可能なものの、アンドロイドモードではその機能は制限されている。それにできたとしても、あのプログラムに阻まれてしまうだろう。
──何かできることは……四面だろうと八方だろうと、円でもない限りは必ず構造的な弱点はあるはず。そこを見つけることができれば……。
珍しいこともあるもので、13:00ちょうどに沢井は雪村の屋敷に来た。
玄関を開けると、沢井が「よう、リーベ」と声をかける。リーベはお辞儀し、「お待ちしておりました、沢井先生」と機械的に返した。
それを見た沢井の顔から血の気が引き、リーベの後ろに立っていた雪村に声をかける。
「……おい、雪村。エチケット袋寄越せ」
「はいはい」
雪村はポケットから出したポリ袋を沢井に渡し、沢井は「失礼」と言って後ろを向いて、盛大な音を立てて吐いた。
「その癖、どうにかならないかな? マロリー・ワイス症候群起こしても知らないよ?」
口をハンカチで拭った沢井が口を結んだエチケット袋を捨てながら、「吐き気止め飲んでこれだから無理だろ」と返し、自分でコートをコート掛けに掛けた。
──やっぱり、トラウマって簡単に消えないのね……。
リーベは自分がその原因になっているとわかっていた。だから、それに『罪悪感』が生まれているともわかっている。だが、アンドロイドモードの自分では何もできない。第一、ここまで思考ができること自体が奇跡に近いのだから。
「まあ、ともかく上がってよ。レーベンは捕まえてあるから」
雪村は沢井を手招きして、リビングに案内した。
あの日以来、レーベンはリーベに近づくことはなく、むしろ逃げ回っていた。そして、いつもリーベの部屋の前で、以前のリーベを探すかのようにドアをひっかいていた。
そのせいか、レーベンの毛は少しずつ禿げ、白いひげも増えていた。沢井はレーベンを抱え、眉間にしわを寄せながら体を触診していた。ふっくらとしていたレーベンの体には、今はあばらが浮き上がっている。
「……雪村。あまり言いたくないが、かなりの高ストレス環境みたいだな」
「ああ、わかっているさ。アンドロイドがいる環境で、動物を飼うことは難しいことくらいね」
雪村も申し訳なさそうに沢井に応える。それを見た沢井はため息をついた。
「しばらく、こっちで預かるぞ。これは検査しなくても体調が悪いってわかるからな。これじゃ、死期を早めるだけだ」
雪村が力なく頷く。沢井はレーベンを雪村が用意しておいたバスケットに入れた。
「健康になったら返してやるから、安心しろ。それまで、しっかり面倒見てやるさ」
「ありがとう、沢井。リーベ、自動タクシーを呼んでくれるかい」
「わかりました、マスター」
リーベが自動タクシーにアクセスしている間、雪村と沢井が目を合わせているのが見える。
その時、瞬きが一定のパターンに従っているのに気付いた。かなり巧妙に隠しているようで、何も知らなければ気づくことはないかもしれない。
──これ、モールス信号?
モールス信号は今ではほとんど見ることのできないどころか、世界中のほぼ全員が知らない。これを知り、解読できる者は世界を探しても100人いるかどうかだろう。なぜなら、マスメディア・クライシスのせいでデータはデリートされており、インターネットにもほとんど載っていないからだ。また利用する機会もないため、淘汰されている技術でもある。
リーベは雪村の書斎にモールス信号の本があって以前読んだことがあるため、簡単な文なら解読できないことはない。しかし、雪村たちが使っているものはアレンジが加わっているようで断片的にしかわからず、その断片を繋げても日本語にならなかった。
ふと、沢井が目を離す。その口元は笑っていた。
「また、二年後の三月八日にな。まあ、それよりも早く会えるかもしれないが」
「そうなるといいね。来るときは連絡して。何かしら用意しておこう」
沢井はバスケットをもって、玄関に向かった。雪村とリーベもそれを見送るために玄関に出る。
「じゃあ、またね。沢井」
「さようなら、沢井先生」
沢井はリーベの声を聞いて一瞬硬直してから、靴を履いた。
「またな。できるだけ、早めに会いたいもんだ」
雪村が微笑んで、手を振った。
「そうなるといいね」
沢井はレーベンのバスケットとカバンをもって、屋敷の前に止まっていた自動タクシーに乗り込んだ。
それを見送った雪村は、リーベに片づけを指示した後に書斎にこもってしまった。
≪第十九節 21190914≫
沢井と雪村が謎の会話をしてから、半年ほど経った頃。
あの日から、レーベンはまだ沢井のところにいる。それが良いこととも必要なこととも分かっていたが、『寂しい』のは変わらなかった。それだけではない、雪村と自由に話せないことも『寂しく』て、『悲し』かった。いつ終わるのか、まるで闇の中にいる気分だった。
その日、リーベのもとに一本の電話が入った。相手はコンフィアンスだった。
『リーベ、雪村さんの都合は問題ないかしら?』
「管理ID:SAA-EdHk-20901016-Confiance、問題ありません」
電話越しに、コンフィアンスのため息が聞こえた。指示がない以上、家政婦アンドロイドのデフォルトに従うしかできない。そして、デフォルトでは主人を『マスター』、他人はフルネームか肩書付きの苗字、アンドロイドやAIは管理IDで呼ぶことになっている。
『……そう。それなら、14:00に謙治を連れて行くから、伝えておいてね』
「わかりました」
そういって、コンフィアンスは電話を切った。
──本当不便ね……。
リーベはふとしたことで、前と今をよく比べていた。それは、雪村の変容ぶりも原因のひとつだ。
雪村は相変わらず目を合わせてくれないどころか、最近はエンターゴーグルを付けてロッキングチェアに座っている。リーベから話しかけることは用事があるとき以外にはできないため、ここ数カ月は雪村の声も聴いていない。食べるものも手軽に食べられるものか冷凍食品が中心になってしまい、リーベが料理する機会もなくなってしまっていた。尤も、手の込んだ料理はヴェガの役目なので、アンドロイドモードでは限界があるのだが。
まるで、雪村が怠惰に飲み込まれたようだった。あの行動力と知力にあふれ、優しかった雪村が、普通の人間になってしまった。
そんなことを思考の奥底で考えながら、リーベの体は勝手に動いて雪村に周防たちの来訪予定を告げる。雪村はロッキングチェアに座ったまま、右手を挙げて承知のサインを出した。
「失礼します」
リーベは雪村のそばから離れ、掃除するために道具置き場へ向かう。最近は考えなくても体が動くことに慣れてきてしまった自分がいた。そして、解決策が見つからなくて諦めかけている自分も。
14時丁度に周防たちが屋敷に来た。コンフィアンスはリーベを一瞥しただけで、話しかけてきてはくれなかった。周防に特に変わった様子はなく、激変したリーベの周囲では唯一変化していないものと言っていい。
リビングのソファに座った周防に、雪村が訪ねる。
「どうしたの、周防?」
周防は申し訳なさそうにぼそぼそと話し始めたが、コンフィアンスに小突かれて雪村のほうを見て声を上げた。
「実はね、《ORANGE》と《GREEN》にも、《RED》で見たようなコードが存在していたんだ。それで、雪村君にちょっと聞きたいことがあって……」
雪村が考える仕草をする。
「なるほど。書斎に行くかい?」
「うん、よければ。コンフィアンスは……」
「私は適当に時間つぶすから。謙治たちは気にしないで仕事して」
そういって、コンフィアンスは体勢を崩す。周防は安心したようにため息をついて、雪村とともに書斎に向かった。
リーベは指示が出されなかったため、何も出来ずにただ座り続けていた。
──どうしよう……。
考えたところで何もできないのだから、無駄だとはわかっていた。それでも、考えないよりはましだ。何も考えないと、本当に自分まで駄目になった気がする。
すると、いきなりコンフィアンスがリーベに話しかけてきた。ただ、あのプログラムとアンドロイドモードのせいで最低限しか反応できないため、無言で聞くしかない。
「ねえ、リーベ。カモミールって綺麗よね」
「……」
いきなり問われたリーベは反応こそできないものの、コンフィアンスの言葉に耳を傾けた。
──なんでいきなりカモミールなんか?
コンフィアンスがあきれ顔でため息をつく。
「まあ、反応が返ってこないことは予想していたわ。いつもそうだったしね」
「……」
──えっ? いつも私は反応していたのに。
リーベが思考の奥底で驚いているなんてことはつゆ知らず、コンフィアンスは言葉をつづけた。
「あれって、文章にするなら、なんていうのかしらね。ただ単に花の特徴を並べ立てるのはもったいない気がするの。もっと、『相応しい言葉』がある気がするのだけれど」
そういって、コンフィアンスはウィンクをする。それから、コンフィアンスがリーベに話しかけることはなかったが、その言葉はリーベの思考に残り続けた。
──コンフィアンスちゃんはこんな遠回しな言い方はしない。いつも、はっきりものを言うもの。となると、なにかのメッセージ……。
ふと以前貰ったカモミールのことを思い出した。
──「相応しい言葉」? もしかして、花言葉のこと? そうなると、『逆境に耐える』だけれど……。
そこまで考えて、気づいた。
──逆境って今の状況そのもので、それに耐えるってことだから……この状況に負けるなってこと? でも、負ける気はないけれど、勝てるような気もしないのだけれど……。私に勝算が?
すると、雪村たちがリビングに戻ってきた。そこで、いったん思考が途切れる。
「ありがとう、雪村君。これで解決できそうだよ」
「まあ、これくらいならいつでも力になるさ」
そういって、雪村と周防は目を合わせた。
また、あのモールス信号だった。リーベは解読を試みるも、情報が少ないことや思考に制限が掛っていることもあり、解読はできない。
二人が目をそらす。周防は屋敷に来た時よりも委縮しているように見えた。
「さて、これくらいで用事は終わりかい?」
「うん……そうなるかな。今日は本当にありがとう」
周防とコンフィアンスは雪村に礼を告げる。
「気にすることはないよ。困ったらまた来て」
「うん、そうさせてもらうよ」
周防たちが帰り支度をして玄関に出た。雪村とリーベもそれを見送るために玄関に向かった。
「またね。雪村君、リーベ」
「じゃあね。周防、コンフィアンス」
「ええ、また会いましょう。今度は、もう少し穏やかな話になるといいのだけれど」
そういって、周防とコンフィアンスは屋敷の前に止まった自動タクシーに乗り込んだ。
雪村はそれを見送り、「さて、またPCWに行くか……。リーベ、家事をしておいてくれるかい?」と言って、書斎に向かった。
リーベは「わかりました」と答え、途中にしていた掃除をするためにまた物置小屋に向かう。
──『逆境に耐える』……。私はどこまで耐えられるかしら。
≪第三章終節 21200615≫
ついに、リーベがアンドロイドモードになってから、一年半以上が経った。日に日に絶望がこころに広がっていき、リーベは自暴自棄になりかけていた。しかし、そんなことに興味がないかのように雪村は相変わらずロッキングチェアに座り、レーベンは沢井のところだった。
今では雪村は何もかも諦めたかのように、命令すら出してくれない。
朝起きては朝食を取ってからロッキングチェアに座り、昼食を取っては座り……その繰り返しをしていた。リーベはというと、指定された時間に料理を出し、定められた家事をするだけの繰り返しだ。
その日、リーベが昼食の準備をしていると、突然フラッド攻撃を受けた。
いつもの──インターネットにつないでいない──リーベならば、攻撃を受けることはない。しかし、この攻撃はユニのプログラムによって、外部送信用に強制接続していた回線を辿ってきたものだった。
『驚いた』のもつかの間、基礎AIの機能が少しずつ停止していく。アンドロイドモードで制限されている高次AI機能なしで、フラッド攻撃に耐えられるわけはない。言ってしまえば、塹壕どころか掩体もない状態で、機関銃陣地の目の前に立っているようなものだ。
それも相手はかなり高性能なAIらしく、的確に弱点を狙い確実にリーベの機能を停止させていく。基礎AIは防壁構築を試みるものの、相手はそれすら破壊して攻撃してくる。まるで、大人が赤子の手をひねるのを傍から見ている気分だった。
半数以上の機能が停止すると同時に、ユニに入れられたプログラムや録音・録画機能も停止した。
外部送信もままならなくなり、ついにリーベの全機能が停止した。
「ん……」
目が覚めると、そこはリーベのベッドで自分は横になっているようだった。リーベはアルタイルが止まった時を思い出し、デジャビュを感じていた。
それと同時に気づいたことが一つあった。
「あれ、私話せる……?」
起き上がり、フルスキャンをする。すると、アンドロイドモードではなく通常モードであり、それどころか監視システムすらなくなってしまっていた。ほぼ半年分の記録が抜けているものの、それ以外は何一つとして前のままだ。
──どういうこと? フラッド攻撃を受ければ壊れている場所があるはずなのに、それ一つないなんて。それに監視システムが無くなっている?
その時、ドアが開いて、雪村がレーベンを従えて入ってきた。
起き上がっているリーベを見た雪村は一瞬驚いたように目を瞬いたあと、すぐにリーベに駆け寄って抱きしめてくれた。レーベンはリーベのそばに寄っていき、ゴロゴロと喉を鳴らしてくれた。
「良かった……成功したんだね」
状況を把握できないリーベが「雪村さん、一体何があったのですか?」と訊ねると、リーベの肩口をぬらしている雪村は、抱きしめたままくぐもった声で「ユニを出し抜けたのさ」と言った。
それから数十分後、落ち着いた雪村はリーベを離して、眼を赤くしながら笑いかけた。
「よかった、本当に良かったよ……」
「私に一体何があったのですか?」
リーベは雪村に聞いてみたが、雪村は声を上げて笑って「見せたいものがあるんだ」と書斎に誘う。リーベは久しぶりに触るレーベンの感触を楽しみながら、雪村の誘いに自ら従った。
レーベンを抱いたまま書斎に入ると、旧式の液晶ディスプレイにケーブルだらけになっているコンフィアンスが映っていた。その画像は粗く時々モノクロになったりノイズが入っていたりしていたが、レーベンを抱いているリーベを見てコンフィアンスは微笑んだ。
『あら、リーベは治ったのね』
「無事にね。こんな大役引き受けてくれて、ありがとう」
『謙治の頼みだから、これくらいならね。想像以上に手こずったけど。謙治に代わるわ』
そういってカメラがパンすると、ディスプレイのほうを向いている周防が映っていた。カメラに撮られていることに気づいていないようで、キーボードで何かを必死に打ち込んでいる。だが、カメラの解像度が低くて回線が安定しないせいで、何をやっているかは見えない。
『謙治』
コンフィアンスに呼ばれた周防は首だけカメラに向けた後、慌ててカメラに体を向けた。
『あっ……ああ……』
いきなり呼ばれたからか呼吸が整わない周防は、狼狽した状態で何か言おうとして、またコンフィアンスに怒鳴られた。
『落ち着きなさい、謙治』
「周防、まず落ち着いて」
深呼吸して呼吸を整えた周防はリーベのほうを見て、『上手くいったんだね』と笑いかけた。
「さっき、フラッド攻撃受けたでしょ? あれ、この二人のおかげなんだ」
そうして、雪村は詳しいことを話し始めた。
あの日以来、密かにリーベからナノマシンを取り出すために色々と考えていた。だが、第一にリーベをシャットダウンしなければナノマシンとシステムを取り除けない。そこでシャットダウンするためにいくつかの方法を考えた。
一つ目は基礎AIに書き込んである停止コードを起動すること。しかし、停止コードを言うことも見せることも出来るが、監視されているために解読・無効化されてしまう可能性が大きく、もし停止させたことが分かってしまえばIMMUがなだれ込んでくるのは明白だった。
次に小型の電磁パルス発生装置かテーザーで停止させる方法。これであればIMMUの裏をかくことはできるが、凶器準備罪や不法機械所持罪で見つかれば、処罰される可能性がある。何より、あのような軍事兵器を秘密裏に手に入れることはできない。
そこでインターネットに繋いでいることを逆手に取り、フラッド攻撃をリーベに仕掛け、過負荷で強制停止させることに決めた。ある程度の過負荷までなら、リーベの自己修復能に頼れば修理できる。しかし、ユニのプログラムはかなり深層に書き込まれており、完全に壊れる手前まで負荷をかける必要があった。とはいえ、中途半端にやれば停止に至らずIMMUに把握される可能性が高い。だから、コンフィアンスをオーバークロックさせて、本気でリーベを破壊する寸前まで負荷をかけることになったのだ。
いわば綱渡り状態の賭けをした結果、リーベの自己修復能が勝利し、今ここに立っているということだった。
「なるほど……しかし、アクセス元が割れるのでは?」
『それは心配しなくてもいいよ、僕も素人じゃないから。きっとIMMUは北アメリカ地区のカナダとフランス、ヨーロッパ地区のロシアから日本に無差別攻撃をかけたアンノウンだって勘違いするはずだ。フェイクのために攻撃した、10000体の高性能アンドロイドとAIには悪いけどね』
周防はそういって笑ったあと、『全員、問題なく回復しているよ。壊す必要はないから、手加減してあるしね』と付け加えた。
すると、画面外からコンフィアンスが『リーベの相手はつらかったけどね。私が性能をフルに出して、やっと基礎AIに勝てるのだもの』と呟くのが聞こえた。
もし二人が関与したと分かれば、改定公務執行妨害罪と器物損壊罪、その他もろもろの罪で懲役や破壊は免れない。そうなれば、もう二人には会えず人生も壊してしまう。自分のためだけにそんな危険を冒してくれた二人には、感謝してもしきれなかった。
言葉に詰まりながら、リーベは二人へなんとか感謝の言葉を述べる。
「本当に、ありがとうございます」
「周防もコンフィアンスも、本当にありがとう。こんな危険なことをさせてしまって」
雪村も頭を下げる。それを見た周防は、遠慮がちに笑っていた。
『僕が立案して、僕が進んでやったことだし、礼は必要ないよ。それに、今回の功労者はコンフィアンスだから』
『謙治だってしっかり仕事しているじゃない。私なんか、謙治のアシストがなかったら、リーベを停止できなかったんじゃないかしら? あなたが一番の功労者よ』
褒められた周防は顔を赤くして、『後処理あるから』とディスプレイに向き直ってしまった。カメラがパンして、あきれ顔のコンフィアンスが映る。
『全く、相変わらず褒められ慣れてないわね。でも良かった、無事に作戦が成功して』
「コンフィアンスちゃん、本当ありがとう。『逆境に耐える』って、こういうことだったのね」
それを聞いたコンフィアンスは、リーベにウィンクしてくれた。
『ええ、結構孤独が堪えていたみたいだから。作戦自体はほとんど出来上がっていたわけだから、諦めないでほしかったの。さて、あんまり長い間繋いでいると、トラフィック増加でIALAに疑われるから。切るわ』
そういって、テレビ電話が切れる。少しの沈黙の後、雪村が「ほかにも見せたいものがあるんだ」と言って、机の上にあった赤色の溶液が入っているポリプロピレン製スピッツ管をリーベに見せてくれた。
「これは?」
「ユニの作った、生体利用型ナノマシンだ。言ってしまえば、極小のサイボーグさ。リーベに投与された遠隔監視ナノマシンの正体でもある」
雪村は詳細を話し始めた。これは嫌気性細菌をナノレベルで改造したものであり、まずはグルコースをアルコール発酵して、次にエタノールを触媒で分解してマシンに必要なエネルギーを生み出すものであること。また、利用できない濃度までグルコースが低下すると、近くのエネルギー源からエネルギーを奪うこと。以前リーベに刺したシリンジには、ある程度のグルコースとこれが入っており、リーベの生み出すエネルギーにいくらかの間は依存しないで稼働できるため、リーベの電源を落としたとしてもナノマシンは動き続けるということ。
そのため、監視を逃れようと思って電源を落とした場合でも、グルコースが残っている限りはIMMUに連絡がいくこと。またプログラムを何らかの手段で削除したとしても、これが体内にある限りは常に上書きされ、デリートしたことがIMMUに知らされてしまうこと。よって、稼働している間はIMMUにこちらの行動が筒抜けであること。
「大半の人間は初めの方でやる気を殺がれてしまうと、行動をあきらめることが多いから。最低のコストで最高の利益を得ようとするあたり、AIらしいね」スピッツ管を手のひらで転がす。「だから、グルコースが利用されつくしてリーベのエネルギーに依存するまで、待たなくちゃいけなかったんだ。そして、幸か不幸か、今日がそのXデーだったわけさ」
そこまで言って、雪村は一息ついた。
「ですが、どうしてそこまで分かったのですか? サンプルがないと調べられないのでは?」
「IMMUの二人はシリンジを回収しなかったからね。僕が全部押し込んだんだと勘違いしているはずだよ。微量サンプルがあれば、あとは培養して調査、さらに複製して実験できる。その結果をもとに監視ナノマシンを吸着するナノマシンを作ったんだ」
雪村は馬鹿にしたように笑う。そのあとに「培養して調べてくれたのは沢井だけどね」と付け加えた。
「ですが、私の体から取り除けば、送信される映像や音声が無くなってしまうのでは?」
雪村はスピッツ管を振った。
「僕が何のために、毛嫌いしているPCWにいたと思う? そして、無くなった記録はたぶん半年分はあると思うけどな」
そして、計画の全容を教えてくれた。
2118年12月3日、リーベがユニに攻撃を受けた日。雪村は先ほど言ったようにピストンをすべて押し込むことはせず、少しだけ残した。そして、書斎に行って怒りに任せて壁を殴った後、沢井に窮地を知らせるための暗号を送った。
「暗号ってどんなものですか?」
「これだね」
雪村はキーボードを叩いて、ホロディスプレイにそれを映す。それはショートメッセージサービスアプリケーションだった。
〔やあ沢井。時間いまあるかな、相談する事があるんだけど。〕
〈なんだ、雪村。アレか?〉
〔うん。察しがよくていい、それだよ〕
〈よし、わかった。詳しく話せ〉
〔昔見せていた、テキストは? まだもっているよね。〕
〈もちろん。何ページだ?〉
〔P.533。余白にのこっているかな、詩は〕
〈ああ、残ってた。で、どうすればいい〉
〔よかったよ。書きこんでくれないかな、此処に〕
〈あんな馬鹿みたいに長い奴をか!?〉
〔其もそうだよねごめん、何時かでいい〕
〈わかった。ほかには〉
〔いや。今のところ、無い〕
〈じゃあ切るぞ〉
リーベはこれを見ても、ただ変な感じがするだけだった。句読点や漢字の変換に違和感を覚えたが、癖と言われればあまり気にならない。
「雪村さんって、変な打ち方するのですね」
「まあね。さて、ネタバラシだ」
そういって、雪村は沢井のメッセージと漢字、句点のついた文、それといくつかの法則に則って文を消し始めた。残った文章はこんな感じだ。
〔いまあるかな、する〕 〔しがよくていい、それだよ〕 〔せていた、テキストは〕 〔にのこっているかな、は〕 〔きこんでくれないかな、に〕 〔もそうだよねごめん、かでいい〕 〔のところ、い〕
「……なんです?」
「それぞれの平仮名と片仮名の数を数えて並べてみよう。『、』をハイフンとするよ」
〔6-2 7-4 4-5 9-1 10-1 9-4 4-1〕
「これを前の数字を横列、後ろの数字を縦列と考えて、50音表に当てはめると……〔姫囚われた〕になるんだ。ここにおける姫はリーベのことで、囚われたっていうのは、何らかの制約を受けているってことを意味する。あとはマークのない沢井が周防とかに伝えてくれることで安全な回線が確立されて、リーベがアンドロイドモードってわかるのさ」
そういった雪村は、自信満々に笑っていた。たまに見せる、意地の悪い笑顔だ。リーベはその機転と手法に素直に感心したが、疑問が一つ頭に浮かんだ。
「あまり長文を送れないですが、便利ですね……しかし、もっと暗号化なら別の方法があるのでは? それに、監視されているのは行動では? わざわざ暗号化する必要はないような気がします」
雪村はリーベの疑問に答えてくれた。
「RSA暗号やステゴのような図表を用いた暗号化は、AIにとってはパズルを解くよりも簡単でね。それに現実空間が監視されているなら、電脳空間も監視されていると考えた方がいい。実際、IMMUはイントラネットにキーロガーとかを仕込んで帰ってたわけだし。そういうわけで大学時代に沢井が考えた暗号の出番なのさ。これは、僕らしか解読する方法を知らない」
そして、雪村は「まだあるんだ」と言って、話をつづけた。
このメールを受けた沢井は直後に周防とコンフィアンスに連絡をとり、周防はすぐさま安全な通信の確立に尽力してくれたそうだ。かくいう沢井はコンフィアンスと相談しながら、計画を練り始めた。その間、雪村はイントラネットと中核システムからIMMUのスパイウェアを取り除くことに専念していたそうだ。
リーベはそれを聞いて、水面下で大きく動いていたことに『驚いた』。それと同時に少し気になることを聞いてみた。
「そういえば、あのモールス信号は何を意味するのですか?」
「ん? あれは何の意味もないフェイクだよ。たぶん、ユニは未だにモールス信号と気づいていないか、解読しようと必死になってるさ。沢井と周防の演技は中々凄かったね、何か意味があるようだった」
雪村がどうでもよさそうに肩をすくめ、安全な通信を確立してからの話をしてくれた。
スパイウェアに関しては、雪村が以前届いてからまだ接続していなかったためにクリーンだった新しいメインフレーム──リーベが以前運んだものだ──を利用して隔離し、ビッグデータから作り上げた偽のデータを送信させつづけることで中核システムから排除・無力化した。またTEMPEST(漏洩電磁波)に関しては、指向アンテナの位置を逆探知、その方向にジャンクから作った偽のキーボードを設置することでデコイを創り上げた。
通信に関しては──周防はネットワークに関して、ずば抜けているそうだ──周防が作った256のポイントを通る安全な通信とランダム・データ・トラフィック、さらに50通りの暗号化を用いた強力な防護を敷いているそうだ。通信するためには中核システムでもかなり複雑な手順を踏まねばならず、一時間程度の通信では周防曰く、「解読の方法を知らなければ、≪REINBOW≫でも解読できないし、誰と通信しているかいつ通信しているか、わからない」とのことだった。
そして、最終的に本体のリーベには、古典的な方法をとることに決めた。
「それが、これさ」
雪村はスピッツ管を振った。
「このナノマシンは『リーベの失った半年』を不自然でないようにランダム構築した、嘘のデータを送信し続けている。つまり、リピーターだね。それに、このナノマシンはグルコースがあれば外部エネルギーに依存しなくても動くから便利だよ」
驚いた顔をしているリーベを見て、雪村は微笑んだ。
「加えて僕がPCWにいた理由だけど、僕の行動パターンを中核システムに覚えさせていたんだ。そのデータから僕の疑似人格を作って、常にPCWにいるかのように今も見せている。中身は中核システムだけどね」
「でも、あのユニくんのことです。すぐ解析されるのでは?」
雪村は頭を掻いた。久しぶりに見る、雪村の癖だ。
「無理だと思うよ。中核システムが作った僕のゴーストがPCWにずっといるし、送信データの問題はない。加えて、スパイウェアは無力化して偽のデータを発信。隠し種は周防も調べてくれたけどなかった。ユニはAIのほうが人間より優れていると考えているようで、屋敷の前に人間の監視をつけていなかったし、ドローンも飛んでいなかった。盗聴器と隠しカメラは、盗聴六波やラジオ波、ミリ波まで確認したけど無かった。他にもいろいろあるけれど、全部確認済みさ。そして最後に、通信は僕の頭をこじ開けない限り、解読できない」
雪村は一呼吸置いて口元に笑みを浮かべた。
「そして、先入観が強いから簡単に騙される。自分が一番で人間は下位だという、先入観にね」
すべて聞いて、リーベはただ『驚く』ことしかできなかった。そして、雪村が以前言っていたことを思い出した。
「『嘘は人間の特権』、ですね」
雪村は大きく頷いて、「そのとおり。嘘をつけるのは人間だけさ」と言ってくれた。
「まあ、後でリーベにも手伝ってもらって、さらにデータの信頼性をあげようとは考えていたんだけどね。いいかな?」
「もちろんです、雪村さん。見つかれば、二人とも危険ですから」
リーベはレーベンを置いて、雪村に抱き着いた。『安堵』と『感謝』からなのか、目から涙が溢れてきた。
「私のために、ここまでしてくれて、ありがとうございます」
雪村はリーベの頭を撫でてくれた。
「大切な人を守るためなら、僕は何でもするよ。それこそ、力の限りを尽くして、使えるものは全部使ってでもね」
「雪村さん……ありがとうございます」
抱き着かれたまま、雪村は肩をすくめた。
「とはいえ、今回は本当に周防と沢井、コンフィアンスのおかげだよ。僕は何にもしていないと言っても過言じゃないんだ。彼らがいなければ、僕は何もできずにただ泣いていただけだから。一番感謝しないといけないのは、彼らにだ」
「それはもちろんです。でも、あなたが声をかけてくれたから、あなたが友人をいつも大切にしていたから、あなたが私を救おうと決めてくれたから、私はあなたに抱き着いていられるのです」
そういって、リーベが強く抱きしめると、雪村が抱きしめ返してくれた。
「……ありがとう、リーベ」
少したってから、二人は離れる。顔を見ると、雪村も笑っていた。
「久しぶりに料理ができますね。あと、壁も直さないといけません」
「僕もPCWにいた間、溜まった研究をこなさないといけないな……今日のメニューは?」
リーベはコンフィアンスの真似をして、雪村へウィンクした。
「もちろん、雪村さんの大好きなオムライスです」
新年あけましておめでとうございますからの、今回も読んでいただき、ありがとうございました。どうも、2Bペンシルです。早いとか言っておきながら、まったく早くないという……申し訳ありません。
後編は自分でもどうしてこうなったのか、かなりタイトな節ばかりが続きましたね……。大体が伏線ではありますが、ちょっと重い話ばかりになってしまったような気がします。元々、明るい話ではありませんので、仕方ないのは仕方ないのですが。まあ、今回はあれですね、雪村さんと周防くん凄いってことでお願いします。
あと、途中で出てきた問題ですが、私も一度は解いているものの、計算を間違えていることが多いので、もし変なところがありましたらご指摘いただいたけると、とても嬉しいです。
他、WW3の話がありましたが、核抑止論とかMADをご存知の方からすれば、「あり得ない」というご指摘をいただきそうです。というわけで、「フィクションだから」という逃げを打たさせていただきます。割と、放置されてる核物質は多いので、資金があればダーティーボムは作れそうですけどね。
さて、次の第四章ですが、一言でいうならば「激動」となります。延ばしに延ばした、雪村さんの過去も遂に判明しますし、リーベも思春期に入ります。まあ、その前に私の期末試験でしょうけど……。
そんなわけで、また次回、第四章でお会いしましょう。今回参考にしたサイト様は、WikipediaとGIGAZINE様を参考にさせていただきましたので、後者の方のページのみを掲載させていただきます。
改めまして、読んでいただき、ありがとうございます。今年もよろしくお願いします。
【参考にしたサイト様】
合成糧食:http://gigazine.net/news/20130522-soylent-corporation/
合計特殊出生率≪PDF≫:http://www.mhlw.go.jp/general/seido/koyou/jisedai/manual/dl/01.pdf