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私のこころ  作者: 2Bペンシル
第一部・3
3/26

【学童期】 前編

2018/02/17 全体の修正、加筆、推敲及び校正を行いました。


2021/05/10 一部表記の誤りがあったため、修正しました。

【第三章 前】


≪第一節 21141225≫

 千住達と出会ってから半年が過ぎたころ。雪が地面を覆い、植物が身をひそめる時期。

 今年も世界は、政府から与えられたマルチレイヤー・アパートメントに引きこもってクリスマスを無視していた。世界人口10億人のうちの殆どが、家事や自分の世話を家政婦アンドロイドに任せ、セクサロイドと交わったり仮想世界に引きこもったりしている。

 今日は午後から、雪村の誘いでまた商店街に花を見に行く予定だ。なので、リーベはいつもよりクロック数を上げて、家事にいそしんでいた。

 『ジングルベル』を鼻歌で歌いながら午前の日課である洗濯をしていると、ふと視界が暗くなる。

 持っていた雪村の服をバラバラと取り落とす。腕が動かない。

「あ、あれ?」

 セルフスキャンや再起動をする間もなく、リーベのプログラムは次々と処理を停止し始めた。初めは腕、次は表情というように、動かないところが増えていく。リーベはそれに『恐怖』を抱いたが、それを表現する間もなく止まっていく。

──雪村さん……。

「リーベ──」

 誰かが呼んでいる。だが、答えることすらできない。

 リーベはすべての処理とコンポーネントが停止したのを感知した。


 目の前に自分のソースコードが流れる。STSやセルフスキャンが自動で行われ、自己修復能が働く。倒れた時に損傷した部分が修復され、破損したデータを取り除きはじめる。

「ん……?」

 無事に再起動を完了させて目を開けると、そこは自分の部屋だった。

 明るかったはずの外は暗くなっており、メイド服のままベッドの上に寝かされていた。上にはタオルケットがかけられており、おなかのところにレーベンが鎮座しているのが見える。

 ドアが開くとともに、電気がつけられた。目が勝手に露出を調整し、人工網膜への光を調整する。そこにはスウェット姿の雪村が立っていた。

「あ、リーベ。起きたか」

 リーベが起き上がろうとすると、雪村が「まだ起きない方がいい」といって、ベッドの端に座る。

 その言葉に甘えてリーベはまた横になったが、疑問に思ったことを尋ねてみた。

「私、どうしたのでしょうか……?」

「うん、僕の予想外のことが起きたんだ。端的に言えば、過労状態だね」

 雪村は座りながら、手振りで教えてくれた。『罪悪感』がリーベのプロセッサーに過度の負荷をかけ続けていたことで、負荷に耐えきれなかったプロセッサーが突然故障したこと。それによってアルタイルが生存戦略の一環で停止、機能の一部を受け持っていたアルタイルが停止したことでヴェガや基礎AIも停止。それによって、思考の制御はもちろん、すべての制御が停止したこと。理論上は人工消化器の修復能力のほうが上だったはずだが、それを超えてしまったこと。

 そこまで話して、雪村は困った顔をした。

「ただ、仮にアルタイルとヴェガが停止しても、基礎AIが停止しないように僕は設計していたはずなんだ。倒れるとボディへのダメージも生じかねないからね。でも、停止してしまって……想像以上にリーベのAI同士は密接につながっていたようなんだ」

「そうだったのですか……」

 雪村は頷く。

「それに加えて、アルタイルとヴェガは成長を続けた結果、自己構築能力がどんどん上がってしまったようでね。常に負荷がかかると、プロセッサーが耐えきれないみたいなんだ」

 リーベは驚いた。自分では、全くそんなことを認知したことがないからだ。それと同時に、壊れたのではないかと『恐く』なった。勝手に手が震え、目が泳ぐ。落ち着かないまま、リーベは雪村に恐る恐る尋ねた。

「じゃあ、私は壊れているのですか……?」

 雪村はかぶりを振る。

「いや。人工消化器のナノマシンがリーベの寝ている間にプロセッサーを修理したよ。とはいえ、このままだと物理的には何ら変わらないから、またいつ壊れるか僕にも予想ができない。今のリーベは、スペック以上のソフトウェアを無理やり動かしているのに近いからね。そんなこと続けたら破損が破損を呼んで、恒久的に壊れてしまう」

 壊れていないと聞いて『喜んだ』が、いつ壊れるかわからないのは『怖かった』。

 震えていると、唐突に雪村が口を開く。

「そういうことで、リーベに睡眠を与えようと思う」

 リーベは何のことか、さっぱりわからず首を傾げた。

「睡眠ですか?」

 普通、動かせないプログラムは動かさないのが得策のはずだ。てっきり、機能を制限するものかと思った。

「うん。僕の理論計算が正しい、まあ作業用のメインフレームと同じ値が出たから問題ないと思うけど……8時間ほど睡眠すれば損傷と修復の度合いが釣り合うんだ。睡眠っていっても、8時間高次AIの動作を停止するってことなんだけどね」

 それを聞いて納得した。壊れた端から直していけば、平衡状態を保てる。また、動作再開した時間から動作停止した時間を引くと、ちょうど8時間だった。

「なるほど……確かに、ちょうど8時間ですね」

「今はまだそのコードを導入していないから、今回はアルタイルが自動的に再起動しただけだけど、最悪レベルの損傷から回復したことを考えると問題ないみたいだね。あとは、リーベの許可がほしい。リーベにとっては自由な時間が8時間分無くなるわけだし」

 リーベは即答した。もう二度とあんなことは嫌だ。

「導入してください」

「わかったよ。そういうと思って、準備はしてある」

 雪村は人工消化器を導入した際に使ったようなシリンジを取り出し、リーベの腕に静かに刺して中身を注入した。新たなコードが自動的に精査された後に書き込まれ、基礎AIが睡眠を覚える。

「完了しました」

 雪村は優しく微笑む。しかし、すぐにまじめな顔に戻って「良かった。ただ、今回は僕の不手際だらけだ。申し訳ない」と頭を下げた。

 すぐにリーベは首を振る。予想できないことだったのだから、仕方ない。

「いえ、私も驚きましたから……あと、クリスマスの約束を破ってしまい、申し訳ありません」

 雪村はまた微笑んで「気にしなくていいよ」と言ったが、ふと思い出したようにリーベに尋ねる。

「そういえば、リーベ。止まる寸前にイントラネットに接続した? そのおかげで、僕はリーベを見つけられたんだけど……」

 リーベは倒れる寸前のことを思い出したが、そんなことをした記録(ログ)はない。

「いえ。ログには何も……」

 それを聞いた雪村は頬を掻く。

「そっか……じゃあ、誰が呼んだんだろう? 研究してたら、いきなり『雪村さん!』ってメッセージがでて、慌てて探しに行ったんだけどな」

 いくつか可能性を考えてみたが、思い当たる節はない。

「私にもわかりませんね……」

 雪村が怪訝な顔をする。しかし考えてもわからなかったようで、肩をすくめた。

「まあ、なんだか分からないけど、結果的にはクリスマスプレゼントは渡せたし、よかったかな。リーベはもう少し寝てるといい」

「ありがとうございます」

「どちらにせよ、レーベンがおなかの上にいたんじゃ起きられないしね。僕はまた書斎にいるよ。なんかあったら、イントラネットで呼んでくれればいい」

 レーベンが首を持ち上げて「にゃあ」と一言鳴き、雪村がベッドから立ち上がって部屋から出ていった。ドアが閉まると同時に雪村がなにかをつぶやく声が聞こえ、それが少しずつ離れていく。

 それを聞きつつ、リーベはレーベンを撫でながら問いかけた。

「朝まで寝る、レーベン?」

 レーベンは短く、「にゃっ」と鳴いた。


≪第二節 21150308≫

 冬が死に初め、春が生まれる境目のような時期。

 リーベが睡眠をし始めてから、数か月後。あれ以来、セルフスキャンは毎日寝る前と起きた後に欠かさず行っているのだが、やはり雪村の言う通り、睡眠することで物理的な不具合は大体解消していた。それどころか、経年劣化もいくらか食い止めることができているという副産物が生まれていた。

 今日は沢井がレーベンの健康診断に来る日だった。前回と変わらず13:00に来る予定なのだが、雪村曰く「沢井のことだから遅れるよ」とのことだ。また、今日は昼食はいらないと、沢井から事前に連絡が来ていた。

 雪村の予想通り、沢井は13:20に屋敷に来た。レーベンには珍しく、出迎えるようなことをせずにリビングから玄関を覗いているようだ。

「よう、二人とも」

「こんにちは、沢井先生」

「やあ、沢井。学生のころから遅刻癖は変わらないね」

 沢井がトレンチコートを脱ぐ。

「今回は許してくれ。義手がぶっ壊れて、調整に手間取ったんだ。お前が誕生日に贈ってくれた義肢調整キットが、こんなに早く役に立つことになるとは思わなかった」

 リーベがそれを聞いて驚いているのをしり目に、雪村は呆れたように首を振る。

「これだからロシア製は。どうせなら、もっといいの贈るよ。四井サイバネティクスから、最新式のが出てたと思うけどな」

 四井サイバネティクスというのは日本の義肢・人工臓器製作メーカーで、高価ながらも人間以上の能力を有する各種義肢や人工臓器を作っている。一時期、軍用義肢の部品を製造していたこともあるが、戦争が電脳世界や軍用アンドロイド主体になってからは製造していないそうだ。また、一部の人間は健常な四肢を四井製の義肢に挿げ替えることもある。そうすれば、さらにできることが増えるからだ。

 その申し出を、沢井は手を振って断った。

「俺は人間でいたいんだ」

 雪村は肩をすくめる。リーベは沢井からコートを受取り、コート掛けに掛けながら「沢井先生、サイボーグだったのですか?」と訊ねてみた。

 沢井は家に上がりながら「ああ。俺はクォーター・サイボーグだ」と言った。


 再生医療が一時的に頭打ちになった2060年代に入ってから、サイボーグ技術はAIの力を借りて、指数関数的に発展していった。その時フィードバックされた技術が、リーベにも使われている静電アクチュエーターや人工網膜などだ。ほかにもバイオニック・マッスルなど、200ほどの技術が流れ込んだ。基礎研究も含めれば、その数は計り知れない。

 そして、使用者が増えるにつれ、ある程度の区分わけがされるようになった。それがクォーター・サイボーグやハーフ・サイボーグ、スリークォーター・サイボーグ、フル・サイボーグだ。簡単な区分わけであり、「体のどれくらいがサイボーグ化されているのか」というもので、沢井のようなクォーター・サイボーグは体の25%ほどがサイボーグ化されている人間を指す。

 また、サイボーグ技術の発展によって、人間を超える性能を持つ義肢や人工臓器も数多く製造されていた。そのような高性能義肢などの犯罪に使われる可能性のあるものは、ID登録でアンドロイドや視覚センサーには見るだけで分かるようになっているが、普通の筋電義肢や脳波義肢であれば登録はされていない。そのため、リーベは沢井に言われるまで気づかなかったのだった。

 ただ、近年は先天的四肢欠損でもアンドロイドが世話をしてくれるため不自由はなく、後天的な身体欠損では再興した再生医療が提供する、RNA治療と生体マトリクス治療で臓器や四肢を生やすことができる。また、臓器に異常があってもナノマシンが治療してしまうため、人工臓器もほとんど使われない。

 だから、サイボーグ自体が珍しい。

 そのため、少々興味をそそられたリーベは、テーブルについた沢井にコーヒーを出しながら聞いてみた。

「どうして、沢井先生はサイボーグ化されているのでしょうか?」

 沢井はコーヒーを一口すすって言った。

「ん? 昔、左腕がごっそり持ってかれたんだ。それで、安い筋電義手にした」

 そういって、カップを置いた沢井は服をまくって左腕をリーベに見せる。精巧な義手ではあるが、表面は人工皮膚ではなくシリコーンゴム製で人工筋肉が脈動しているのが見える。それでも、よく見なければ義手であるとは気づかないだろう。

 雪村がそれを見て、懐かしそうに言う。

「初めて沢井に会った時には驚いたね。アンドロイドを連れてないし、9月なのにTシャツで左右の腕で肌の色や醸し出している雰囲気が全く違ったんだから。ほかの入学者は全員、雰囲気も同じで、スーツに家政婦アンドロイドって出で立ちだったのに」

「アンドロイドを連れてなかったのはお前もだろう、雪村。あと、お前の雰囲気も目立ってたぞ」

 雪村は「あはは」と笑って付け加える。「まあ、沢井よりもコンフィアンスに罵られてた周防に驚いたけどね」

「あの二人は昔から変わらないのですね」

 それを聞いて、沢井は笑って言った。

「あいつらが変わる確率と第四次世界大戦が始まる確率なら、後者の方がまだあり得るぞ。まあ、今のある意味平和な世界じゃそんなもの起きそうにないけどな」

 雪村はあごに手を当てながら、沢井の言ったことに反応した。

「確かにね。消極的平和ではあるけど、世界は平和になったわけだし。構造的暴力もAIと人間というほうにシフトしたとはいえ、人間対人間ではなくなって鳴りを潜めている。今もごくまれに発生する領土戦争だって、電脳空間や無人地帯でアンドロイドを使って行われる『戦争ごっこ』で片付いているわけだし」

 あきれたように、沢井は目をぐるぐる回す。

「相変わらず、お前は小難しいこと考えてんな……俺は冗談のつもりで言ったんだが」

 雪村は、不敵な笑みを浮かべた。

「僕の仕事は考えることだからね。分野は問わないのさ」

 沢井は肩をすくめ、「本当変わらねえ」とつぶやいてコーヒーを飲み干す。

「さて、やるか。リーベ、レーベンを捕まえてきてくれないか?」

「わかりました」


 レーベンはあっけなく捕まった、というよりはリーベ相手だったので警戒してなかったようだった。リーベは沢井に捕まえたレーベンを渡し、雪村はいつも通り書斎に向かっていった。健康診断を始める沢井に、リーベは前々から気になっていたことを聞いてみた。

「沢井先生はアンドロイドを雇ったりしないのでしょうか? 沢井先生なら、アンドロイドにも優しいですのに」

 それを聞いて沢井は一瞬動きが止まったが、プロフェッショナルらしい動きのまま仕事をつづけた。だが、次に口を開いたときの声は震えていた。

「……リーベ、左腕をもいだ相手と一緒に居たいと思うほど、俺はマゾヒストじゃねえぞ」

「えっ?」

 沢井はレーベンを診つつ、言葉を繋いだ。

「俺の左腕はな、子供のころにいた政府支給の子育てアンドロイドが暴走した結果だ。それさえなけりゃ、俺の左腕は今でもここにあっただろう」

 リーベは予想外の答えになにも答えられなかった。

「細かいことは省くが政府曰く、AIのバグだそうだ。それで製造物責任(PL)法に基づいてある程度の保証はもらったが、それ以来、俺はアンドロイドを伴ったことはない。勉強から生活まで全部自分でやってきた。それに再生治療も受ける気もない」

 沢井はため息をつき、早口でまくし立てる。

「もちろん、だからと言って≪人間同盟≫の下衆共と一緒にワーワーギャーギャー騒ぐ気はねえし、アンドロイドを奴隷視して見下すようなこともしない。あくまで、アンドロイドと常に一緒に居る気はないってだけさ。まだ怖いんだよ、アンドロイドが。暴走したときの動き、眼、言葉……未だに夢に見る。お前さんだって、殺されかけた相手と一緒に居たくはないだろう」

 リーベはその状況をシミュレートしてみて『恐怖』に慄いた。それで、沢井の苦労と努力を考えると謝らねばならないと考えた。

「申し訳ありません。そんなこととは知らずに……」

 沢井はレーベンの血液検査の結果を見ながら、自嘲的に笑う。

「気にしなくていい、今まで通り接してくれ。お前さんにまで距離取られちゃ、俺もやりにくいし、お前さんをそこまで怖がっちゃいねえからな」

 それを聞いて、リーベは少し『安心』したが、それでも触れてはいけないことに触れたようで、『罪悪感』があった。

「わかりました。ただ、もし何かございましたら、いつでも申してください」

 沢井はタブレットに軽くなにかを書き込み、「分かった」と言った。

「よし、生き物は老化する以上、ある程度の悪化は予想していたが想定内だ。餌をシニア用に替えれば、問題ないだろう」

「わかりました。そう雪村さんに伝えます」

 沢井はタブレットをしまい、レーベンを逃がしてリーベに向き直る。

「リーベ、人には触れてほしくない部分ってのがある。それに触れずに生きるってのは無理な話で、もし今回みたいに触れたらしっかり謝るんだぞ。ただでさえ、お前さんのご主人は触れてほしくないことだらけなんだからな」

「そこは抜かりありません」

 沢井は頷いて「あいつもさっさと割り切りゃいいものを……」とぼやき、口を尖らせつつ左手で頭をかいた。


 雪村は沢井を玄関まで見送るため、書斎から出てきた。それを見た沢井は簡単な診断結果を雪村に教え、リーベたちに別れの挨拶を告げる。

「いつもありがとう、沢井」

 沢井はコートを着ながら、「これくらいなら問題ない。むしろ、しっかり管理してるかがわかるからな」と雪村に返した。

 屋敷の前に自動タクシーが止まる。リーベが玄関のドアを開け、そこにいた全員が玄関ポーチに躍り出る。

 沢井がタクシーに乗り、あっという間に消えていった。

 それを見ながら、雪村が「今度の誕生日プレゼント、もっといい義肢調整キットにしてやろう……」とつぶやき、屋敷に入っていった。

 雪村の後に続いてリーベが屋敷に入ると、顔を洗っているレーベンが出迎える。

「よかったね、レーベン。健康だって」

 レーベンは顔を洗うのをやめ、「にゃあ」と一声鳴く。リーベは午後の家事をするためにリビングに向かい、そのあとをレーベンがついていった。


≪第三節 21150615≫

 春と夏が競い始め、徐々に夏が近づいている日々。日によっては気温が25℃を超え、レーベンと雪村はリビングで伸びていることが多かった。

 今日は珍しく雪村が黒い短パンにタンクトップといういでたちでリビングに寝転がり、ひっつくようにレーベンが雪村のそばで寝転んでいた。それを見てリーベは微笑み、そのまま家事をつづけていたが、唐突に雪村が話しかけてきた。

「そういえば、今日はリーベの誕生日だね。なんかほしいものある?」

 家事をつづけながら、リーベは答える。頭の上には白いカーネーションの髪飾りが揺れていた。

「……そうですね、元々機械制限法第二条で要求はできないようになっていますが、お花がまたほしいです」

 それを聞いて、雪村は少し驚いた顔をした。

「ああ、一応機械制限法はいまだ適応されているのか……花だね、わかったよ。いつも枯れた花を片付けるとき、リーベは悲しそうな顔しているけど、いいの?」

 そう問われたリーベは、『驚いた』。自分ではそうするよう命令していなかったからだ。

「『悲し』そうな顔していましたか?」

「うん。僕も何度も見たわけじゃないけど、少し悲しそうな顔をしてた気がしてね。気のせいかな?」

 リーベは少し考えてみたが、特に思い当たるものはない。

「少なくとも、こちらのログには何もありませんね」

「うーん、じゃあ光の加減かなんかだな。もう少しで家事終わりそう?」

「はい。あと10分ほどいただければ、終わります」

「じゃあ、終わるまでに着替えておくよ」

 そういった雪村は、起き上がって自分の部屋に向かう。起こされたレーベンは、雪村の後を追うように歩いて行った。

 15分ほどたったころ、リーベたちは玄関にいた。

 リーベは白のワンピースの上に黒のジャケットを羽織って、黒い鞄を持っていた。雪村のほうはカーキ色のチノパンツに白の七分袖シャツを着て、珍しいことにベージュ色のソフトハットをかぶっていた。

「珍しいですね、帽子をかぶっているなんて」

「今日暑いからね、熱中症対策さ。リーベも気を付けるんだよ」

「わかりました」

 雪村が古い運動靴を履き、リーベが黒のパンプスを履く。すると、レーベンが見送りに来た。

「にゃあ」

「レーベン、お留守番していてね?」

「なーご」

 レーベンが座って返事をする。ふと、雪村は思い出したようにこう言った。

「ああ、そうだ。Liebe. Change ”Android Mode”」

「Accepted your order」

 アンドロイドモードになったリーベはドアを開け、雪村とともに家を出た。


 自動タクシーに乗って、いつもの商店街に向かう。タクシーが止まり、料金を支払って二人は降りた。タクシーが走り去るのを確認して、雪村はリーベをノーマルモードに変更した。

「Liebe. Change ”Normal Mode”」

 リーベが伸びをする。

「んー……雪村さん、本当にこれは必要なのでしょうか?」

 雪村はそれを聞いて笑う。

「『備えあれば患いなし』さ」

「『過ぎたるは猶及ばざるが如し』とも言いますよ」

 瞬時に返された雪村は「あー……」と声を上げつつ、頬を人差し指で掻いた。

「うん、今度猫の写真集買ってあげるから許して」

「そういうことなら……」

 雪村が謝るように頭をほんの少しだけ下げる。

「ごめんね。じゃあ、お店に行こうか」

「わかりました」

 いつもの店に入ると、花塚が出迎えた。花塚はお辞儀をしてから、「いらっしゃいませ」と微笑む。リーベと雪村も花塚に頭を下げる。

「お久しぶりです、花塚さん」

「あら、リーベさん。それに雪村さんも。今回もお花かしら?」

「ええ」

 花塚の目線がリーベの頭に向かう。

「白いカーネーションが似合うわね、リーベさん」

「ありがとうございます」

 お礼を言ってから、リーベはふと目についた花弁の多い赤い花に興味を惹かれた。それに気づいた花塚はその花を一輪手に取る。

「これはデイジーね。ヒナギクとも言われているわ」

「綺麗な花ですね」

「ええ。今日入荷したばかりなのもあるけど……」

 リーベはなんとなくだが、その赤のデイジーが気に入った。

「雪村さん、よろしいでしょうか?」

 鉢植えのほうを見に行っていた雪村から、「リーベが気に入ったのにするといい」と声が聞こえてくる。

「じゃあ、これがいいです」

「ただ、デイジーは猫が食べたり触ったりすると、吐いたりかぶれたりするみたいだから、そういう時は花を捨てて、お医者さんのところに連れて行ってあげてね」

 それを聞いて、リーベは少し戸惑ったが、目を離さないようにすることに決めた。寝るときにはレーベンの届かない戸棚に入れてしまえば、触ったり食べたりする可能性はほとんどないはずだ。それに元々拾い食いをするような猫でもない。

「わかりました。そうならないように気を付けます」

「ええ、そうしてあげて」

 雪村がリーベの隣に来る。

「ん、デイジーだね。それだけでいいのかい?」

「はい。あまり買いすぎても、負担になるでしょうし……」

「まあ、リーベが好きなのを買えばいいわけだしね。これにします」

 雪村がくたびれた財布をズボンから取り出し、紙幣──正確にはセルロースではなく、ビスコースだ──を取り出す。

 現在では経済活動において現金というのはあまり使われず、トラッキングや安全保障の観点から政府支給金からの天引きがほとんどだ。しかし、銀行や政府へ要請すれば、資産から引き出した分の現金をもらうことができる。そして、店舗のほうが対応していれば、それで経済活動を行える。ただし、ほとんどの店舗ではマイコンリーダーで統一されているため、使える店舗というとこのような個人商店や昔からある店くらいだ。

 ただ、雪村はいつもマイコンリーダーを用いるので、リーベは『驚いた』。

「珍しいのですね、現金を使うなんて」

「ちょっと現金で取引することがあってね。それで、換金も面倒だから使っちゃおうと思って」

 記録をたどると、数日前に雪村のもとへ500gほどの現金書留が届いていたのを思い出した。送り主は日本の企業主になっており、雪村曰く「感謝状みたいなもの」らしい。

「ここのお店、現金つかえましたよね?」

 花塚がデイジーをラッピングしながら答える。

「ええ、もちろん」

 雪村が安堵したように、金額より多めの紙幣を払う。すでにラッピングを終えていた花塚は、それを見て指摘した。

「あら、少し多いわね」

「換金手数料といつもお世話になってるお礼みたいなものです。受け取っていただけませんか?」

 そういわれた花塚は少し考えるように腰に手を当てていたが、「多すぎるお金はいただけません」と突っぱね、多い分を雪村に返す。

 雪村は少し戸惑っていたようだが、納得したように頷く。

「律儀ですね」

「金勘定は厳密にやらないと、うまくつり合いが取れなくなりますからね。個人としては多く収入が入るのはうれしいですが、商売ではきっちりやらないと。はい、どうぞ」

 そういって、花塚はリーベにデイジーの花束を渡す。その花束は10輪ほどのデイジーをピンクとクリアのセロファンで覆い、赤色のリボンで下を留めていた。

「わあ、ありがとうございます」

 リーベはその花束を抱える。自然と笑みがこぼれた。

「よかったね、リーベ。花塚さんも、ありがとうございます」

 雪村とリーベが花塚に頭を下げると、花塚は笑った。

「また来年の誕生日に来てください」

「ええ、もちろんです」

 そういってから、二人は店を出た。


 その後、またリーベは強制的にアンドロイドモードにされて屋敷まで戻った。玄関でいつも通りのレーベンの出迎えを受けてから、リーベは着替えて夕食の準備を始めた。買ったデイジーはリビングでもキッチンからでも見える位置に飾ることに決めた。

 レーベンに夕食を与え、雪村と自分の夕食を作っていると、雪村がなにかを探しているようにキッチンに顔を出す。

「どうされました?」

「あ、リーベ。これを見てくれないかな?」

 そういって雪村は最新型のグラス・タブレットを差し出す。これは軽量な導電性超強化ガラスで流動性のあるナノマシンを挟んだもので、透明でかつ軽量でありながら、一般的なタブレットと同様に使うことができる。また、充電も専用のスタンドの上に置くだけで充電される。

 それを見ると、以前の『サラマンダー』のコードを解析したものだった。

「『敵対するアーサーへの報復』? 何なのでしょう?」

 雪村も頭をかいていた。

「いやあ、まったくわからないんだよ。というか、まさか日本語にして6文字しかないコードにこんなものが内包されてるなんて、僕も予想してなくてさ。ステガノグラフィーの一種なんだけど、その文字列の意味が分からない。何よりアーサーってのが、まったくわからない」

 リーベも記憶装置をあさってみたが、該当する記録はない。

「私も、記録には一つも該当しそうなものはありませんね……アーサーというと、『アーサー王伝説』ですが」

「『アーサー王伝説』か……円卓の騎士かな」

 雪村はなにか閃いたように頷いて、「うん、ありがとう。時間取らせて悪かったね」と呟く。

「いえ。ほかに協力できることがあれば、いつでもお申し付けください」

「分かった。ありがとう」

 そういって、雪村はぶつぶつとつぶやきながら書斎へ戻っていった。

「……アーサー?」

 リーベはもう一度、記憶装置の中をあさってみたが、やはり該当しそうな記録はない。精々、アーサー・C・クラークが引っかっただけだった。


 夕食の支度を終え、雪村を書斎から引っ張り出したリーベは雪村やレーベンとともに食事をとっていた。

 リーベは人間でいうところの嗜好というものがそこまでないため、好き嫌いというのはない──あえて言うならば、ほぼ水しかないキュウリが苦手だ──に等しい。なので、今日は雪村の好物であるオムライスになった。

 黙々と二人が料理を食べているとき、リーベはとあることを思い出した。

「雪村さん?」

 雪村が口に入れているものを飲み込んでから、「何?」と聞いた。

「デイジーの花言葉って何なのでしょう? 花塚さんに聞くのを忘れていたのですが……」

「あー……なんだろう。僕も分からないな……デイジー自体は『純白』とか『美人』とかだからリーベに似合うけど、赤色のデイジーはなんだろうな」

 ふいに褒められたリーベは『喜んだ』が、同時に分からないことが増えて『困惑』した。

「調べれば出てくるのでしょうか?」

 雪村がまた一口食べてから答える。

「まあ、今の時代は調べて出てこないことのほうが少ないからね。全世界の50%が情報化されている超高度情報社会だし……」

「U.S.Rやロシアのテクノロジアの統合AI群も、サイバースペースに存在するのですよね」

 当然、ハードウェアは寒帯にあるデータベースや量子コンピューター群で、それぞれがP2P(ピアトゥピア)による分散コンピューティングによって何千 EiBもの膨大な量の情報を処理している。さらにすべてが一斉に落ちるなんてことがない限りは、過負荷で一つのノードが脱落しても問題ない冗長性を持つ。

「そうだね。そのおかげで、1億とも10億とも言われる家政婦アンドロイド、その百倍と言われる労働アンドロイドや戦闘アンドロイドは直にAIにアクセスできて、個体にプロセッサーや記憶装置を大量に積む必要はない。HKM-2010なんか、記憶装置が最低限だから25 kgで済んでるらしいしね」

「そう考えると、私は重いですね……」

 雪村はそれを聞いて、申し訳なさそうに「70 kgが技術的な限界なんだ。量子記憶装置が重すぎる」とつぶやいた。

「ナノマシンにセパレートすることはできないのでしょうか?」

 少し考える様に空を見てから、雪村は首を振った。

「うーん、それは無理だな。ナノマシンの自由記憶容量は1体あたり1 kiBもない。リーベの記憶容量である10 PiBを賄うには10の13乗個必要で、一体が10 ngだから……10の5乗グラム、100 kg必要になるな」

「確かに非現実的ですね……現在の量子記憶装置が約20 kgですので」

 雪村は頷く。

「アイデア自体はいいと思うけど、ちょっとね。将来的にはもっと軽くなると思うよ。最近、それに関する基礎研究が始まったと聞いたし」

「開発された場合、やはりアップグレードするのですか?」

「リーベが望めば、かな。ハードの改修だから時間かかるけどね」

 雪村の夢である『人間と変わらないアンドロイド』に近づけるならば、良い考えかもしれない。

「考えてみていいでしょうか?」

「うん。まあ、きっとその研究が形になるのはあと20年後とかそのあたりさ」

「じゃあ、それまでお預けですね」

「そうなるね。ご馳走様、おいしかったよ」

 皿を見ると、いつの間にか雪村はオムライスを食べ終えていた。一方のリーベは、まだ半分以上残っている。

「えっ」

「話しながら食べてたからね。さて、僕はさっきのステゴをもうすこし解析してみるよ」

 そういわれてリーベは少し『さみしく』感じたが、雪村がそういうならば仕方ない。頬を膨らませて、雪村を見据える。

「……わかりました。何か、必要なものがあればいつでも言ってください」

「分かったよ。誕生日だから、本当はもっと一緒に居れればいいんだけどね。そろそろ解析が終わってるはずだから」

 そういって雪村は立ち上がり、書斎に向かっていく。

「もう」

 リーベは床に寝ているレーベンを一瞥してから、オムライスをかきこんだ。


≪第四節 21150803≫

 今年の夏は猛暑だ。気象を観測しているNOAA(National Oceanic and Atmospheric Administration、アメリカ海洋大気庁)曰く、ラニーニャ現象が起きているとのことだったが、それが統計的に猛暑と関係がないのは周知の事実だった。

 雪村たちもできる限り薄着で過ごすこととクーラーを強くすることで何とか乗り切ろうとして、実際に何とかなっていた。それでも、暑すぎて雪村の研究は進んでいないようだったが。

「暑いなあ……リーベは暑くないかい?」

 雪村がぼそりとつぶやく。いつもなら人の近くにいるレーベンも、最近は家具が日陰を作っているところに寝そべっていた。リーベは昼食のあとを片付けながら答える。

「私は暑いと感じませんので……確かに処理効率は少し落としていますが」

 リーベの体には何本ものカーボンナノチューブが人工皮膚の下に張り巡らされており、プロセッサーなどから発生した熱は人工皮膚を通して放熱している。そのおかげでリーベの中の電子部品は過熱しすぎるということはなく、人工皮膚は摂氏36度から37度に保たれている。そして、体温より外気温が高くても人工皮膚が内包している水分を汗のように出すことで、気化熱を使って体を冷ますことができる。

 雪村は疲れた顔で頷いた。

「また壊れないように気を付けてね」

「今のところ、問題ありません。このままの処理能力でも、十分対応できます」

「むしろ、僕のほうが問題ありそうだね……」

 そう呟いて、雪村はリーベが淹れたアイスコーヒーに口をつける。リーベがそのまま家事を続けていると、ふとテレビが目に入った。思えば、このテレビがついていたことがあっただろうか。

「そういえば、雪村さんはテレビを見られないのですね。せっかく32Kテレビがありますのに」

「んー、見る必要がなくなったからね。インターネットとエンターゴーグル、それとロッキングチェアがあれば、世界中のありとあらゆるものにアクセスできるし、僕は外の情報は電子新聞で十分だし。そんな感じで民営放送はなくなっちゃって、今放送してるのは国営放送のニュースだけじゃなかったかな」

 エンターゴーグルというのは、人間とコンピューターを接続するものだ。VRゴーグルのような外見をしており、マイコンと無線接続することでVRとは異なる、AIが管理するPCW(Pseudo Cyber World、疑似電脳世界)に人間を送り込める。そこはメタバースのような場所で、考えるだけで自分のやりたいことが何でもできるようになっており、大抵の人はその世界の虜になる。なんといっても、何をやっても怒られず何でも見ることができるのだから。

「ニュースですか……」

 リーベはいつも、雪村が買っている電子新聞を読んでいた。そのため、世界の動向はインターネットがなくても知っている。とはいえ、世界は相変わらず怠惰に満ちており、新聞は5面程度しかない。記者もいなければ事件もないため、こうならざるを得ないのだそうだ。

 それでも、リーベは興味を惹かれた。見たことがないものというのも、少し『面白そう』だった。

「見てみたいです」

「多分びっくりすると思うよ」

 そういって、雪村はテレビの電源を入れる。鮮明な画面に映ったのは日本製のニュースロイドだった。それが無機質な声と表情で淡々と原稿を読み上げ、電子ドラッグのように聞こえるBGM(Back Ground Music、背景音楽)が耳に届く。

『政府の発表によれば、国際的ハッカー集団アンノウンのメンバーが一名、逮捕されました。次のニュースです。政府の発表によれば、日本は素晴らしい経済成長をしたとのことです。次の──』

 そのBGMを聞いたリーベの頭の中でエラーが生じ始める。聴覚システムはシャットダウンされ、口を動かしているニュースロイドだけを見ていた。

 次の瞬間、気づくとリーベは家事を放り出して、テレビの電源を落としていた。

「びっくりした?」

 雪村が固まっているリーベを抱えて、ソファに座らせる。雪村が軽々とリーベを抱えたことに驚く暇もなく、リーベはエラーからの回復を急いだ。


 ある程度落ち着いたころを見計らったのか、雪村が口を開く。

「あれが国営放送さ。まあ、国営放送に限らず、インターネットコンテンツを含めたマスメディアは大体ああなってる。あんな感じで何らかの形で依存性を付けているんだ。国営放送は電子ドラッグ、インターネットコンテンツはもっとうまくやってて、過激な思想で味付けしてる」

 すでにエラーから回復したリーベは、それを聞いて『恐怖』した。

「どうしてあんなことをしないといけないのですか……?」

「一つの理由としては、コンテンツに依存性をつけることで、リピーターの数を増やして利益を出すため。もう一つの理由は、主観的意見を洗脳じみた方法で伝えるためだよ。後者は自己顕示欲を満たすためのものだね」

 雪村が感情もなく、さらさらと告げる。

「あんなものが、いっぱい……?」

「うん。国営放送はまだいい方で、もっとひどいものもある。政府も規制を考えたらしいんだけど法規制や警察が間に合わず、結局は国営放送の存続を選んで同じ穴の狢になったそうだよ。極右と極左だらけの世界で生き残るためには手段を選べなかったんだろう。誰が言ったか忘れたけど『懐疑的なもの売れない』わけだからね」

 それを聞いて、リーベは何も言えなかった。確かに合理的ではあるが、ヴェガも「あまりにも人間的な感情に欠如している」とリーベに賛同する。尤も、アルタイルは「効率的で素晴らしい」と返してきたが。

「だから、僕はリーベをインターネットにつなぎたくない。ちなみに、僕やリーベが読んでいる電子新聞は僕も支援しているNPO(Non-Profit Organization、非営利団体)がAIと協力して作ってるものだよ。彼らは事実確認を必ず取ってから記事にしてるし、客観的事実がほとんどを占めるはずさ。それでも、僕らが見ているものが必ずしも事実とは限らないし、すでに洗脳されてるかもしれないんだけどね。情報は媒体を通せば通すほど、不鮮明になるから」

 そういって、雪村は皮肉るように笑った。

「……雪村さん、いくつかお聞きしてもよろしいでしょうか?」

「ん? なんだい?」

「雪村さんは、あれを見ても平気なのですか?」

 雪村は頷く。

「うん。僕はああいう麻薬や電子ドラッグに強い体質みたいなんだ。とはいえ、見続けてれば駄目になっちゃうけどね」

「なるほど……では、どうして人はあんな方法で自己顕示欲を満たさなくてはならないのでしょうか?」

 その問いに、雪村は顔を陰らせた。まるで、「予想はしていたが、聞いてほしくなかった」かのように。

 そして、雪村は理由を語ってくれた。

 現在のAIと政府によって管理された世界は、人間の欲求がほとんど叶えられる世界であること。A・マズローの『欲求段階説』というものがあること。それによれば、現在の世界では3段階までは何もせずとも十分に満たされること。4段階目の承認の欲求には高次と低次があるが、その内の低次の欲求は他者からの尊敬や賛同、注目を求めるもの、つまり自己顕示欲であること。そして──これは雪村自身の意見だが──それに長く曝された人間は、それに限りない欲望を向けてしまい歯止めが利かなくなってしまうのではないか、ということ。

 また、雪村はこのようにも話してくれた。高次の欲求は『自尊心を満たす欲求』で、それは自分から動かないと得られない。そのため、今の怠惰しかない社会では、4段階目を全部満たしている人はそうそう多くないということ。だから、あのような『承認欲求や自己顕示欲の強い人間』だらけになってしまったのではないかということ。

「まあ、この『欲求段階説』は批判も多いし、あくまで参考にしかならないんだけどね。ほかにも、意図的に先導する≪人間同盟≫みたいな連中や、人を操ることに喜びを覚える反社会性人格障害(サイコパス)もいる」

「それで、倫理観を無視してしまう人が多くなるのですね……」

「うん。承認の欲求自体は誰にでもあるし、それ自体は悪いものじゃない。ただ、強すぎるのは問題なんだ。そして、客観的かつ多面的でない情報は武器にもなる。戦争だって、それで起こせる」

 リーベは考えた。この世界は一体、どうなってしまっているのか。分からないことが多すぎて予想はできそうになかったが、今知っていることを統合すれば、少なくとも楽園ではなさそうだった。もちろん、悪い部分だけを見れば、どんな楽園だって地獄になる。分かっているけれど、それを加味しても天国ではなさそうなのは確かだった。

「……わかりました。ありがとうございます」

 雪村がリーベの肩に手を置く。

「僕が千住さんから聞いた話だけど、何十年も前に世界は『自分の意見とは異なる意見を殺そうとする時代』だったことがあるらしい。それに比べれば、今の『有害なコンテンツだらけの時代』のほうがいいかもしれないね」

 リーベは首を傾げた。

「どうしてですか?」

「見なければいいからさ。勝手に飛んでくるミサイルよりは、踏まなきゃ爆発しない地雷のほうがまだましだからね」

「それも……そうなのでしょうか?」

 確かに雪村の言うことにも一理ある。しかし、本当は武器のない世界が一番ではないかと考えた。尤も、それを口に出す気はなかったが。

 それに気づいたのか、雪村はフォローするかのように微笑む。

「あくまで僕の意見だよ。これは多面的な見方ではないし、リーベ自身の意見も今ならあると思うから、それを大切にしてほしいな。大切なのは否定ではなくて批判、拒否ではなくて受容か敬遠だよ」

「私もそう考えます」

 雪村はそれを聞いて笑う。リーベはふと、家事を中途半端にしていたのを思い出した。

「あっ……そういえば、後片付けを放り出していました」

「手伝おうか?」

「いえ、問題ありません。すぐ終わりますので」

 そういって、リーベはキッチンへ戻った。そのころには、電子ドラッグで受けた損傷から完全に回復していた。ただ、あんなものが大量にある疑似電脳世界(PCW)については考えたくなかったが。


≪第五節 21151225≫

 今年の冬は夏と打って変わって厳寒だった。雪も多く、街に張り巡らされたロードヒーティングの処理能力が一部では超えてしまったところもあったそうだ。

 そんな中で、雪村は研究の遅れを取り戻すかのように書斎にこもっていた。食事に出てくることも少なく、リーベが片手でも食べられるサンドウィッチや特製カロリーバー──栄養は摂れるが、おいしくはない──をよく持っていくほどだった。

 そして、クリスマスも例外ではなく、雪村は外に出てこなかった。

「雪村さん、今日くらい休みませんか?」

 書斎にサンドウィッチを持ってきたリーベは、雪村にそう言ってみた。とはいえ、返事はいつも「今は難しいかな」なのだが。

 雪村が鍵打音はほとんどしないグラス・キーボードを叩きながら、「うーん……今は難しいかな」と呟く。その目線はリーベではなくディスプレイに向いていた。

 予想通りの答えが返ってきて『悲しかった』が、今日は少し粘るつもりだった。リーベはサンドウィッチとコーヒーの乗っている盆を机に置く。

「クリスマスですよ、クリスマス」

「うーん……今は難しいかな」

 リーベは拗ねて、雪村をつついた。いや、つついたつもりなのだが、手は雪村の体をすり抜けた。

「えっ?」

 試しに雪村の頬に向かって、軽く平手打ちをしてみた。もし、実体があれば、人間の骨格では少々笑えないことになる。少なくとも、むち打ちは確定だ。

 そして、その手はやはりすり抜けた。往復させてもすり抜けた。

「これ、ホログラム?」

 現代のホログラム技術はリップマンホログラムと光分解性のある微粒子を応用した空間投影技術で、物体に触ることはできないものの殆ど実体と変わらない映像を投影でき、AIを使えば多少の会話もできる。その技術はホロディスプレイなどにも利用されており、言い換えるならば空中にある疑似的なスクリーンに像を投影する技術だ。

「あ、リーベ。どうしたの?」

 後ろから、本物らしき雪村が声をかける。振り向くと、部屋の隅に本を持っている雪村がいた。机に座っている雪村を見ていたリーベは、扉側の隅にいた雪村に気づけなかったのだ。

「どうしてホログラムがここに?」

「僕がいないと心配するかと思って。それで、リーベも返答がないんじゃ味気ないと思ったから、ワンパターンだけど返答するようにしたんだ」

「夕食を置いておいてほしいと言っていただければ、そうしましたのに」

 雪村は本を戻して、頭を掻いた。

「あ、本当?」

 それを見て、本物の雪村だと確信を得た。それに『安堵』し、ついでに気になったことを聞いてみた。確か、ディスプレイは動作して作業もされていたはずだ。

「でも、どうやって二つのことを同時並行させていたのですか? 雪村さんは一人ですよね?」

 問われた雪村は、それに誇らしげに答えた。

「中核システムだね。あれは、3つのAIである《アルファ》、《ベータ》、《ガンマ》でできているんだけど、ルーチンワークだけはそれぞれを7時間処理の1時間休憩のシフトで動かして処理させてるんだ。その間に、僕は調べ物や睡眠ってわけさ」

 中核システムは非常に高い性能を持つ処理特化型エキスパートAIではあるが、会話などの日常生活は難しい。その代わりにエキスパートAIの類は安価で各家庭に設置できるほどにもかかわらず、原子核レベルのシミュレーションもできる性能を持つ。そのため、今では手を動かした化学合成や物理実験などはしないでも、結果を家で確かめることができるようになっている。

「確かに中核システムであれば、そのようなことができますね」

「うん。フル稼働させても、なかなか終わらないけどね」

「私も手伝いましょうか? ルーチンワーク以外もできますよ」

 リーベは純粋に──ほんの少しだけ、雪村と一緒に居るための口実ができるという気持ちもあるが──雪村のことを手伝おうと考え、そう提案してみた。だが、雪村はそれを拒否した。

「嬉しいんだけど、ちょっとリーベには難しいと思う」

「どうしてですか?」

 雪村は頭を掻きながら、「うーん、説明が難しいな……」とつぶやき、「まあ、ちょっと色々あるんだ」と言葉を繋いだ。

「来年の誕生日までには、必ず終わらせるから安心して。その時、埋め合わせするよ」

 リーベは頬を膨らませた。『疑念』が渦巻き始め、「色々な理由」というものも考えてみたが、雪村が言う以上は仕方ない。何より、機械制限法第二条をまだ完全に破れないから聞くほかない。

「絶対ですよ? 覚えておきますから」

「破ったらどうなるかな?」

「三食、雪村さんの嫌いなナス入りのご飯にします」

 そう告げると、雪村は口をあんぐりとあけて固まる。しばらくしてから、焦ったような口調で「分かった、絶対守ろう」と約束した。


≪第六節 21160615≫

 昨年とは違い、心地よい日が続く春。それを喜ぶかのように、植物はAIに見守られながら育っていった。

 雪村の研究も無事に終わったようで、リーベと雪村は午後から出かける予定だった。雪村曰く、「リーベに見せたいものがある」とのことだ。そのため、リーベは急いで家事をこなしていた。久しぶりに二人で出かけるので、それが何よりも楽しみだった。

 家事をしながら、リーベは雪村に話しかけた。

「雪村さん、レーベンはどうしましょうか? 長く家を空けるのであれば、沢井先生に連絡を取りますが……」

「にゃっ?」

 名前を呼ばれたレーベンが反応する。それを二人は流した。

「いや、せいぜい3時間程度だから、大丈夫だと思うよ。レーベンだし」

「分かりました。レーベン、お留守番頼んだよ」

 レーベンは、「にゃっ」と一言鳴いて、リーベの部屋に向かう。最近、レーベンはよくリーベのベッドの上で寝ていることが多い。

「あとどれくらいで終わりそうだい?」

「そうですね、何事もなければあと20分程度で終わります」

 雪村は頷き、「分かったよ。それまでに僕は用意しておこう」と言って洗面所に向かっていく。それを目で追いながら、リーベは残っている食器を手早く片付けていった。


 30分後、リーベと雪村は玄関にいた。

 雪村はシンプルに若竹色のポロシャツに灰色のスラックスといういでたちで、リーベは紺のジャケットの中にワイシャツを着て、黒のパンツをはいていた。

「おお……随分派手だね」

「久しぶりですから、おしゃれだってしますよ」

「まあ、僕も忙しくてかまってあげられなかったしね。さて、行こうか」

 雪村は相変わらずの古い運動靴を履き、リーベは黒のカバンを手にパンプスを履いてから外に出る。すると、屋敷の前に黒の4ドアセダンが止まっており、黒のTシャツとジーパンを着たカノンが出迎えた。

『こんにちは、雪村さん。あと、リーベ。その髪飾り、似合っているな』

「ありがとう、カノンくん。でも、どうしてここに?」

『あれ、雪村さんから聞いてないか。送り迎えの役を任されて来た』

 リーベが雪村を見ると、雪村は笑って「ちょっと車を使わないと行けない場所なんだ。僕、運転できないしね」と言った。

『そういうわけで、どうぞ』

 カノンはセダンの後部座席を開け、雪村、リーベの順に乗り込む。乗り込んだのを確認したカノンはドアを閉め、自らは運転席に座った。

「千住さんはいらっしゃらないのね」

『あの人は、お店を空けられないものでね。本当は連れていきたいのだけれど、年も年だから』

 カノンは慣れた手つきで、センターコンソールにある液晶パッドに暗証番号を打ち込んだ。モーターが始動し、低周波音が車内に響く。

「千住さん、87歳だもんね。一時間近く車に座ってるのは、さすがに厳しいか」

『ええ、元々デスクワーカーで腰壊していますし』

 サイドブレーキを下げ、シフトレバーをドライブに入れる。ステアリングを握ったカノンはアクセルを軽く踏み、車は緩やかに発進した。

 カノンが『到着予定時刻は45分後です。カノン交通をご利用いただきありがとうございまーす』とふざけてアナウンスを掛ける。それを聞いて、リーベたちは二人して一緒に噴き出した。


 50分後、停車した場所は低い岬だった。小さな小道と白い石碑があるだけの場所だが、下草もきれいに刈られている。なにより、晴天と相まって景色が奇麗だ。

『一時間ほどあれば十分ですか?』

「うん、それくらいあればいいよ。ありがとう、カノン」

 カノンは何も答えず、運転席から降りて、後部座席のドアを開けた。二人が降りると、海特有の生暖かく強い風が吹き付け、思わずリーベは目を細める。

「わあ……綺麗なところですね」

「さて、少し歩こうか」

「わかりました」

 二人は岬の先に向かう。岬から見える海はリーベの目のような深い青をしていた。

 そして先端には、先ほど車の中から見えた大理石でできた石碑があった。ただ、表面は風化しているため、可視光線では読めそうにない。

 リーベは雪村に訊ねてみた。

「この石碑は……?」

「うん……僕の大切な人のお墓みたいなものでね。骨は本人の希望で、海に散骨してある」

 雪村は海を眺めながら、悲愴に満ちた顔でリーベの方を見ずに教えてくれた。

「大切な人?」

 リーベが問うたあと、沈黙がその場を支配した。その場で聞こえる音と言えば、風が岩肌を殴りつける音だけだ。

 しばらくして、雪村が口を開いた。

「そう。もう、亡くなって12年経つ。ただ、今の僕を彼女が見たら、きっと叱られるだろうな。彼女は、僕が立ち止まったときには、怒鳴ってでも僕を引っ張ってくれたからね」

「そんな方がいらっしゃったのですね……」

 リーベは雪村が涙を流していることに気が付いた。雪村が泣くのを見たのは初めてだ。

 カバンからハンカチを取り出し、雪村に手渡す。それを見て、雪村は自分が泣いていることに気が付いたようで、「ありがとう」といって涙をぬぐった。

「お墓の前で泣くなんて、あの人に怒られちゃうな」

 そういって笑った雪村は、ズボンのポケットから紙に包まれた何かを取り出す。リーベは「あの人」について詳しく知りたかったが、それ以上に雪村が取り出したものが気になった。

「なんでしょう?」

「プレゼントさ。前、猫の写真集が欲しいって言ってたけど、本として渡すのはちょっと難しくてね。業者探して、マイクロチップにしてもらったんだ」

 リーベは雪村からマイクロチップを受取り、それをカバンにしまった。

「ありがとうございます、雪村さん」

「これでナス入りご飯は避けられるかな?」

 リーベは笑った。

「もちろんです。食べたいというならば、作りますが」

 雪村はこわばった顔で「いや、遠慮するよ」と返す。そして、困ったような顔をして謝った。

「変な話聞かせちゃってごめんね。本当は、ここの景色が奇麗だから見せたかったのと、マイクロチップを渡すために来たんだけど」

「いえ、今度教えていただければ、それで十分です。きっと、あの写真に写っていた女性のことでしょうし、整理がつくまで待つと約束しましたから」

 雪村は驚きと喜びが入り混じったような顔をして、少しの沈黙の後、雪村は呟く。

「ありがとう、リーベ。君の予想通りだよ」

 リーベは雪村を励ますように、手を握る。そして、笑いかけた。

「私は、雪村さんを一人にしませんから」


 数分後、二人は手を繋いでカノンのところに向かった。カノンは車のボンネットに寄りかかり、そこら辺の草を使って遊んでいた。

『あ、もういいですか?』

 作っていた草細工のバッタを放り捨てて、カノンは後部ドアに向かう。

「うん。用事は済んだよ」

『わかりました』

 カノンは車のドアを開けて、二人が乗り込むのを確認した後、ドアを閉めた。そして、運転席に座ってモーターを始動させた。

『帰りは……街を通るので所要時間は35分くらいですね。じゃあ、行きますよ』

「わかったよ」

 そういって車は静かに発進した。

 10分ほど進んだころ、車は街に入っていった。日本中の都市は『新都市計画』という計画の元、中心部は平安京のような碁盤の目状につくりかえられ、そのほぼすべてがマルチレイヤー・アパートメントか国営の生産施設になっていた。そのため、都市の収容能力は劇的に増加し、500平方キロメートル程度の地方都市でさえ100万人を収容できる。『新都市計画』からあぶれた郊外には、未だ雪村の屋敷のような一軒家や民営の商用施設があるが、中心部にはそう言う建物は完全になくなってしまった。

 そして、この傾向はグローバル化によって世界中に広まり、アメリカやヨーロッパでは同心円状のドーム都市などという亜種は存在するが、大体の都市はこのような形をとっている。また、一部の人間はGEO(Geostationary Earth Orbit、対地静止軌道)に軌道エレベーターを用いて作られたジオ・コロニーや火星や月にあるスペース・コロニーに住んでいる。

「相変わらず、街は積み木遊びで作られたみたいな形してるな……」

 雪村が窓の外を眺めながらつぶやく。実際、マルチレイヤー・アパートメントは積み木を積むように作られているため、ビスマス結晶のようにも見える。幾何学的で美しいが、少し『寂しさ』も覚えた。

「昔の街はどのようなかたちをしていたのでしょうね」

 リーベは雪村に聞いてみたが、雪村は「さあ?」と言って肩をすくめた。

『もっと昔はバラバラだった。規格とかも、こんな風には決まってなかった。だから、いろいろな形のビルがあったな。今ほど高くはなかったけれど、その分多様性があったよ』

 カノンは運転しながら、リーベの問いに答える。雪村が感心したように頷いた。

「ああ、カノンは知ってるのか」

『俺が起動されたのは2053年ですしね。もう少しで屋敷ですよ』

「わかったよ」

 そういって、雪村は窓の外を眺めるのをやめ、座席にもたれかかった。


 5分後、車は雪村の屋敷の前に到着した。

『着きましたよ』

「ありがとう、カノン」

『あのあたりまでは自動タクシーも運行してないですしね。仕事の一環ですよ』

 カノンが車から降りて後部ドアを開けると、リーベ、雪村の順に降りる。

「じゃあ、今度は千住さんのお店で会おうか」

『そうですね。では失礼します。じゃあな、リーベ』

「ええ、カノン君」

 カノンは一礼した後、車に乗り込んで喫茶店に向かって車を進めていく。それを見送ってから二人は屋敷に入った。

「さあ、パーティーの準備を任せてもいいかい?」

 リーベは「はい」と大きく頷いた。


≪第七節 21160928≫

 夏の暑さが引いていき、秋の涼しさが顔を出す日々が増えていく季節。街路樹は日に日に葉の色を濃くし、風の強い日には誰のものでもない赤や茶の絨毯をこしらえていた。

 そんなある日、雪村が珍しく書斎から自分で出てきた。いつもなら、食事の時間かリーベが引っ張り出さないと、なかなか出てこない。

「あら、どこかにお出かけですか?」

 雪村がチェスターコートをひっかけながら、リーベの問いに答えた。

「うん。I.R.I.Sに仕事でちょっとね」

「私も行っていいですか?」

 リーベが──思わず少し声のトーンが上がってしまう──雪村に聞く。雪村は少し悩んだあと、頷いた。

「いいよ。たぶん、コンフィアンスと話し続けることになるけど」

「構いません。私も急いで準備します」

 クロック数をあげ、リーベは5分で一時間分の家事と準備を終わらせる。最近、これができるようになって以来、嬉々としてやるようになったのだった。それを見た雪村は、微笑みながらもリーベのことを諫めた。

「やるのはいいけど、負荷はかけすぎないようにね」

「もちろんです」

 リーベは雪村の指摘に、笑顔で答えた。


 自動タクシーとリニアモーターカーを駆使し、リーベたちは1時間程度でI.R.I.S日本支部に着いた。

 I.R.I.S日本支部は五角形(ペンタゴン)をしている。一辺がそれぞれエントランス、運営部、整備部、修理部、営業部となっており、中央に実地試験用の中庭がある。それぞれは廊下のほかに、大型荷物用の真空チューブとポーターという四足歩行型運搬ロボットによってつながっていた。また、エントランスはリニアモーターカーの駅と直結しており、簡単に乗り降りできる。

 エントランスで周防とコンフィアンスが二人を待っていた。周防は相変わらず自信なさげで、コンフィアンスは腕を組んでいた。

「お久しぶりです、周防さん。コンフィアンスちゃんも、久しぶりね」

「やあ、周防。コンフィアンスも久しぶりだね」

「お久しぶりです、雪村さん。リーベも久しぶりね……ほら、謙治」

 コンフィアンスに怒鳴られた周防は体を先ほどより委縮させて目を泳がせる。それを見た雪村がコンフィアンスを制止した。

「うん、それくらいにしておいてあげて」

「雪村さんがそういうなら、そうします」

 それを見て、リーベはコンフィアンスに声をかける。

「相変わらず、コンフィアンスちゃんは周防さんに容赦がないのね。ロボット三原則第一条に引っかかりそうなのに」

「『ロボットは人間に危害を与えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない』だったかしら。大丈夫よ、これでも謙治は喜んでいるから」

「えっ……」

 若干引いたリーベを見て、コンフィアンスはあきれ顔で肩をすくめた。

「この子ね、俗にいうマゾヒストなのだけれど……重度なのよ。私と何十年も一緒に居たからかしらね」

「うん、二人とも。そろそろやめないと、周防が喜ぶよ」

 雪村が二人を制する。この面子になると、いつもこんな感じだ。

「で、なにがあったの?」

 雪村がもじもじしている周防に聞くと、周防は素面に戻って「移動しながら話すよ」と言って二人に来客者用パスを渡す。

 パスをポケットに入れた二人は、ゲートを通ってI.R.I.Sに入った。もし、パスがなければ、I.R.I.Sには入れず、警備ドローンが急行して侵入者として捕らえられることになる。ちなみに後でコンフィアンスが語ったところによると、職員でもパスを忘れて捕らえられる人がよくいるが、何故か周防の率が異常に高いのだそうだ。

 館内リニアカーに乗り込んだ一行は周防の勤める整備部へ向かった。走り始めてからすぐに、周防は雪村に話しかけた。

「雪村君、第271回路は分かる?」

「271は素数だね。うん、確かI.R.I.Sの保有するAI群≪REINBOW≫のうち、《RED》が保有する対人用回路だったっけ」

 周防は頷き、早口でまくし立てる。

「それが壊れた。正確には物理的破損を直しても、また再発する。そして、ソースコードには異常がない。現在は《ORANGE》が全部対応してるけど、早く復旧させないと熱暴走する。元々は二つで分業していたから」

 雪村が眉を(しか)める。

「馬鹿な。異常がないのに壊れるわけがない」

「今日の朝、同僚の鈴木が気づいたんだけど原因が僕にもわからない。それでエイジスに連絡して、雪村君を呼んだんだ。元々エラー処理は雪村君のほうが得意だし、I.R.I.Sの整備部門が束になってもその場しのぎが限界なんだ。そうなると、外部の手が必要になってしまう。僕らが見落としていることがたまにあるから」

 周防は人が変わったかのように、冷静な口調で雪村に告げる。それを聞いて、雪村は肩をすくめた。

「まあ、得意だけど……いくら仕事とはいえ、《RED》ほどの煩雑な物は僕でも手に負えないよ? あれはAIが作ったものだし」

「手伝ってくれるだけでいいし、必要なものは何でもそろえる。ともかく、原因を探してほしい」

 雪村は手を顎に当てて考えていたが、大きく頷いた。

「分かった、要は原因を見つければいいんだね?」

「そういってくれて助かるよ」

 周防は安堵するように息を吐く。

 リーベは話の内容は理解できたものの、高速で展開する二人の会話についていけそうもなかった。コンフィアンスに至っては、すれ違うポーターやアンドロイドを眺めていた。ふと、コンフィアンスが周防の肩を叩く。

「謙治、もう少しで271回路室だよ。降りる準備をした方がいい」

 周防はいつも通りの顔つきに戻り、コンフィアンスに礼を言う。雪村は首を傾げて「リーベたちは……I.R.I.Sって、なんか休憩できる場所あったっけ?」とコンフィアンスに訊ねていた。

「リーベは私が面倒を見るから大丈夫。雪村さんと謙治は仕事に取り組んでください」

「わかった。コンフィアンス、頼んだよ」

 リニアカーは「271回路室」とホロが浮いている部屋の前に止まり、雪村と周防はそこで降りる。

「じゃあ、リーベを頼んだよ。終わったらすぐ戻るから、リーベも待っててね」

 リーベは頷いて「わかりました」と答える。本当は別れたくはなかったが、無理を言って付いてきた手前、文句は言えない。それを見た雪村は周防とともに部屋に入っていった。

「雪村さんたちが死ぬわけじゃないのだから、そんなに見つめてなくても大丈夫よ。いざという時は保安要員が助けてくれるはずだから」

 コンフィアンスがリニアカーを再設定しながら、リーベに告げる。不意を突かれたリーベは「えっ?」と声を上げて、コンフィアンスのほうを見た。

「ずっと部屋のドアを見つめていたじゃない……気づかなかったの?」

「うん」

 再設定し終えたコンフィアンスは驚いたような顔でリーベを少しだけ見つめた。リニアカーが目的地に向かって動き出すと、コンフィアンスはすぐにあきれたような顔に戻って前を見据えた。

「全く、天才って何生み出すのか、わかったものじゃない」

「どういう意味?」

 リーベが怪訝な顔で尋ねる。それをコンフィアンスは受け流した。

「嫌でもわかるわよ、いつかね」


 リニアカーが向かったのは、I.R.I.Sのエントランスにあるカフェテリアだった。そこでは人間はもちろん、アンドロイドやポーターの憩いの場になっているそうで、500席あるところの7割はいつでも埋まっているのだそうだ。とはいえ、アンドロイドとポーターの目的は水素の補給か人間への給仕なのだが。

 コンフィアンスが手近な席を取る。そこにリーベたちは座った。リーベは興味深く周りを見回す。アンドロイドが人間に注文を取りに行き、人間はそれに対して礼儀正しく応じる。それは始めてみる光景だった。普通ならば、話すことなく脳波を読み取ったマイコンがAIにSHF(Super High Frequency、センチメートル波)で要求を伝えるだけで給仕されるからだ。

「いっぱいいるのね」

「まあね。人間がいる場所にはアンドロイドがいるものだし」

 二人の席のそばをHKM-2100が通り過ぎる。

「あのHKM-2100は注文を取るためにI.R.I.Sに人間と同じように雇われているの。元々は、壊れて破棄処分だったらしいのだけど、謙治以下整備部門が勝手に整備して、《GREEN》が雇っちゃった」

 それを聞いて、リーベは驚いた。そんな思い切ったことをするような人だとは考えられなかったからだ。どちらかというと、控えめな人だと考えていた。

「大胆なことするのね」

 コンフィアンスは気だるげな顔で答えた。

「謙治はやるときはやる人なの。やるまでに時間はかかるけど、いったん決めたら最後までやりきる。それが良いところでもあり悪いところ」

「そう考えると、雪村さんはいつもやっている人かしら」

「良くも悪くも正反対だから、そうね。大学のころ、雪村さんと意見が対立して良く喧嘩していたのを覚えている。もう少し平たい子にならなかったのかしらね?」

 それを聞いて、興味をそそられたリーベは、コンフィアンスに詳しいことを聞いてみた。

「どうして喧嘩したの?」

「雪村さんは『AIが人になれば、AIと人と対等になれる』って言っていたと思うけれど」

「ええ」

「謙治はね、『人が変わらなければ、AIと人は対等になれない』と言ったのよ。それで喧嘩して、沢井さんに『どっちがじゃない、どっちもだ』って言われて矛を収めていた。私もそばで見ていたから記録している」

 リーベは少し考えてみたが、雪村の主張は変わっていない気がした。

「……雪村さんは、あまり主張をかえていないような」

 コンフィアンスはため息をついた。

「……それは謙治もよ」

 一瞬の沈黙。それをあきれ顔で破ったのは、コンフィアンスだった。

「前言撤回。どっちも似た者同士だわ。私も間違えることがあるのね」

「ええ、細分化すれば似ているところのほうが多いかな。とくに、頑固なところ」

 肩をすくめたコンフィアンスは、「まあ、なんだかんだ上手くいっているから、それでいいのかしら」とつぶやいた。


 3時間後。コンフィアンスと他愛ない話をしていると、雪村と周防がリニアカーに乗ってカフェテリアにやってきた。二人は不思議そうな顔で、議論しながらリーベたちのいる席に座り、周囲を気にせずに話し続けた。リーベは会話を聞きながら、二人がまた難しそうな内容を話していることに気が付いた。

「周防、本当に変なところにつないだりはしなかったんだね? もしくはバックボーンとかに。そうでもしないと、最外縁部の271回路にあんなものがあるとは考えにくい。アンノウンならもっと中核の0番回路を狙って失敗するだろうし、これじゃ存在する位置が川べりに引っかかった流木だ。元々存在していたとは考えられないし……」

 雪村が念を押すように尋ねる。周防は、うんざりした顔で答えた。

「《RED》がするはずない。彼はかなり優秀なアンチウィルスシステムでもあるし、変なところにつなげば《GREEN》のほうにログが残る。バックボーンに繋いで変なのが入り込もうとしたって、《RED》の防衛モジュールが弾くんだ。AIがミスをしないのは雪村君だって知っているだろう」

 雪村は一瞬考えてから、反論する。

「それはそうだけど、人間が作ったものには必ずミスが存在する。《IRIS》の基礎設計を間違え、重大なバグがAIに修正されずに残った可能性だってあるじゃないか。確かに防衛モジュールにはそういうおかしいコードは見当たらなかったけど」

 周防は唾を飛ばしながら、雪村の意見をつぶした。

「それは雷に100回連続で当たるより低い確率なんだよ? 確かに微細なバグは存在しているし常に直しているけど、自ら底なし沼に足を踏み入れるようなことはしないし、僕らも大切な同僚にそんなことはさせない。何より、僕のお父さんがそんな大きなミスをするわけがない」

 雪村は顔を顰めながら頭を掻きむしる。周防もそういいながら、困惑した表情をしていた。

「はいはい、お二人さん。コーヒーでも飲んで落ち着きなさい」

 いつの間にかコンフィアンスが手にしていた紙コップのコーヒーを、二人は荒々しく受け取って同時に飲み干した。そして、二人とも電源が切れたようにテーブルに突っ伏す。

「雪村さん、何があったのですか?」

 雪村が突っ伏したまま、顔だけをリーベのほうを向ける。周防は議論に疲れたのか、姿勢をかえて椅子にもたれかかって伸びていた。

「そうだな……表現できない。あえて言うなら、僕たちの予想以上のことが起きたかな」

 リーベはそれを聞いて、『驚き』で眼を見開いた。この二人の予想を超えるなんて、そんなことがあるものだろうか。

「どういうことです?」

「僕が知りたいよ。あんなことあり得ない」

 雪村は胃のあたりをさすりながら、項垂れて「空腹でコーヒーを飲むんじゃなかった」とつぶやいた。


 雪村の体調がリーベの持っていた胃薬で回復し、周防がある程度立ち直ってから、リーベたちは帰るためにエントランスに向かった。

 駅でリニアモーターカーを待っている間、周防は頻りに予想以上に苦労させたことを謝っていた。

「本当ごめん。最近、こんなのばっかり持ち寄ってしまって……」

 謝り始めた周防を雪村が首を振って制す。

「まあ、仕事は終えられたから……。でも、あんなことができるAIというと、政府AIか軍用AIくらいしか思いつかないな。アルタイルでも、第一関門である《REINBOW》のファイアーウォールを破れないんだし……しかし、機械制限法第一条に反するから、政府AIがI.R.I.Sを攻撃するわけはない。第三条の可能性もあるけど、国際紛争は現在起きていないし」

 周防は頷いた。

「少なくとも、人間業ではないのは確かだね。僕もコンフィアンスと一緒にもう少し調べてみるよ。本当に、今日はありがとう」

 周防はまた頭を下げる。コンフィアンスは「リーベができないこと、私ができるのかしら……」と呟いて、呆けた顔をしていた。

 数分後、真空のポリカーボネート・チューブの中にリニアモーターカーが音もなく進入していく。ホームドアにモーターカーの入口が密着し、駅側が開いてから入口が開いた。

 雪村が周防たちに手を振って「じゃあ、二人ともまた会おう。今度は議論をしないで済むといいんだけど」と言う。リーベはお辞儀をしてから「また会いましょう、周防さん、コンフィアンスちゃん」と別れの言葉を述べた。

「本当にね。じゃあね、二人とも」

「リーベもまたね。雪村さんも、体にはお気をつけて」

 二人が電車に乗り込むと、ドアが静かに閉まり──モーターカーの車両には誰もいなかった──モーターカーは音もなく走り始めた。


≪第八節 21161225≫

 雪が積もり、地面が白く染まる季節。そして、猫が炬燵で丸くなる季節でもある。尤も、レーベンは炬燵より、リビングのソファに置いてある雪村用の毛布を好んでいたようだが。

 その日、リーベはいつの間にかお気に入りである猫柄のパジャマ姿のまま、花畑にいた。

「……花畑?」

 そこは見たことがなかったが、色とりどりの花が咲いていた。その中には本で見たことのあるバラやハルジオン、ポピーのほかに、見たことのない色をした花が沢山咲いていた。風は温かく穏やかで、日差しも強すぎるということがない。周りを漂う花の香りと相まって楽園のようで、実際にとてつもなく居心地のいい場所だった。

 ふと、リーベは寝転んでみることを思いついた。できるだけ花の少ないところを選んで体を横たえてみると、地面がほのかに暖かく、眠りを誘う。

──うーん、なんでこんなところにいるのだろう。まあ、いいや。

 リーベらしからぬ考えに至り、目をつぶる。その時、ふと風が変わったような気がした。

「なんだろう?」

 起き上がると、地平線上に何か黒いものが見えた。それがどんどん大きくなる。

 危険を察知したリーベは、エマージェンシー・モードに切り替えようとする。エマージェンシー・モードであれば、短時間ではあるが全機能をオーバークロックすることができ、車にも負けない速度と最新型戦術用AIを超える判断力を出せる。雪村が「いざという時に」とつけてくれた機能だ。

 だが、うまくいかない。まるで元からそんな機能がないかのように。

「な、なんで……?」

 そんな問答を繰り返しているうちに、その黒い物は着々と迫ってきた。不快な臭いが周りに漂い始める。まるで、腐った肉とすりおろして数カ月放置した玉ねぎを混ぜたような、えづくような臭いだった。それは花畑を食い荒らし、楽園を壊しながらリーベに近づいてきていた。

 吐き気をこらえながら、リーベはいま出せる限界速度──だいたい短距離走者程度の速さ──で走った。だが、その黒い物は小さくなることがなく、大きくなるばかりだった。黒い者がさらに近づくと、土を食らうジャリジャリとした音と花を食いちぎる音が周りに轟き、聴覚システムが過負荷でシャットダウンする。

 音の聞こえない振動だけを感じる状況で、リーベの頭はショートしそうだった。『恐怖』と『生存本能』が体を支配しようと争いはじめ、ありとあらゆるシステムに少しずつ、着実にダメージを与え始めていた。そして、『恐怖』が体を支配し、意識以外のすべての機能が止まる。

 その瞬間、リーベはその黒い者に、頭から食べられた。


 跳ね起きると、そこは自分の部屋だった。自分が出したであろう声が部屋の中を反響し、耳に届く。日が射しており、夜が明けていることを示していた。

 十数秒後、ドアの向こう側から走る音が聞こえてくる。

「リーベ、開けるよ」

 雪村が叫ぶと同時に、鍵はかけていないはずのドアが木の軋む音と共に蹴り開けられた。そこには、いつも寝るときに着ているスウェット姿の雪村が、どこから持ってきたのか分からないボウイナイフを逆刃に構えて、鬼気迫った表情で立っていた。

「……あれ? 誰もいない?」

 雪村が表情を変え、呆けたように部屋を見回す。その姿を見て、リーベは『安心感』から目に涙を浮かべた。

「雪村さん……」

「どうしたの、リーベ」

 雪村がナイフをポケットに入っていた鞘にしまってから、近くにあったナイトテーブルにそっと置いてリーベに近づく。雪村が近づいてくると体が勝手に動いて、雪村に抱き着いた。その眼からは涙が溢れ、雪村のスウェットを濃い灰色に染める。迷惑だろうとは考えたけれど、涙も抱き着くことも止められなかった。

「え? 本当に何があったの?」

 雪村は幾重もの不意討ちに珍しく狼狽していたが、リーベは構わず泣き続けた。


「ふーん……」

 数十分後、雪村は体の半分を濃い灰色に染めたまま、ベッドの縁に座って足を組んで怪訝な表情をしていた。リーベも雪村の隣に座っていたが、その太ももの上にはいつの間にか現れたレーベンが鎮座していた。

「間違いなく、夢なんだね? 記録の残滓とかではなく?」

「あり得ません。いまだに覚えていますが、あんな花や臭いは見たことも嗅いだこともありません。夢で出てきた金色の花は見たことありませんし、あんな場所も知りませんし、何よりあの臭いは一度たりとも嗅ぎたくありません」

「うーん……」

 雪村が頭を掻く。

「リーベ、僕がAI学者としての立場から出した結論を聞いてほしい」

「もちろんです」

「あり得ない。機械は、夢を見ない。これはシンギュラリティ以来、何億回と試されていることだけど、一度たりとも成功していない。いや、原理上どうやったって成功するはずないんだ。機械はシャットダウンかスリープモードにしてしまえば、殆ど活性領域が無くなるんだから」

「それは知っています。しかし、現に──」

 反論しようとしたリーベを、雪村は遮った。

「ただ、一つだけ成功しえるものがある。これは、僕がリーベに『睡眠』を与えたときに、何らかのミスを犯した可能性だ。そのせいで、アルタイルかヴェガか、もしくは両方に活性領域が残ってしまい、それが『夢』として出てきた可能性だね。普通なら考えられないけど、基礎AIの部分かもしれない。あそこはスリープモードでも活性領域が多いから」

「ですが、導入時に精査してありますし、それはほとんどあり得ないはずです」

「その通りだ。数学的にはあり得ても、現実的にあり得ない。だが、起きてしまった……」

 雪村が一頻頭を掻きむしった後、万歳のように手を上に挙げて、おどけたように舌を出した。

「うん、お手上げ。全く分からないよ」

 リーベも何ともなしに真似をしてみた。

「私も分かりません」

 はた目から見たならば、まるで新興宗教のような、かなり異様な光景だろうとリーベは考えたが、気にしないことにした。なにより、ちょっとだけ『楽しい』。ただ、レーベンの軽蔑するような表情には少し戸惑ってしまったが。

 雪村が体勢を戻し、リーベもそれに倣ってニュートラルに戻る。

「しかし、夢ということにするけど、かなり人間的だね」

「そうなのですか?」

「うん。ちょっと、一つ一つの意味は覚えてないけど……夢は一種のシンボルでね、記憶や感情をそのまま出すことはなくて、何らかの形で歪曲されて出てくるんだ。例えば、銃は……あー、今のなしで」

 雪村が焦って取り消す。リーベは逆に興味をそそられた。

「何のシンボルなのですか?」

「気にしなくていいよ。別の例をあげよう、花は愛情や幸福のシンボルなんだ」

 そういわれるとなおのこと気になるが、「後で調べればいい」と自分を納得させた。

「なるほど」

「まあ、そんな感じでね。まさかアンドロイドが、それも初めて成功例が、ここまで人間的な夢だとはね。もちろん、人に近く作ったから当たり前ではあるんだけど……悪夢を見たリーベには失礼だけど、嬉しいね」

 そういって雪村は微笑む。リーベもそれを見て、『嬉しく』なった。

「さて、もう朝だけど……まだ寝るかい?」

「いえ、もう8時間は寝ましたから。コーヒーは要りますか?」

 雪村が頷いて立ち上がる。リーベはレーベンをベッドに寝かせてから、立ち上がった。ふとドアのほうを見ると、ドアノブが当たったと思われる壁は穴が開いていた。勢いよく開いたせいで、ドアが壁にぶつかってしまったのだろう。

「あー……」

 それに気が付いた雪村が目を泳がす。リーベは即座に修理屋に連絡を取った。


 それから数時間後、雪村たちはいつもの商店街を訪ねていた。

 あれから修理に来た労働アンドロイドがあっという間に修理を終えてしまったため、リーベたちの予定が狂うことはなく、そういうことでいつもの花屋に来たのだった。

「あら、いらっしゃい」

 にこにこと笑って花塚が出迎える。ここは、相変わらずいい香りが漂っている。

「今日は何をお求めかしら?」

 リーベは周りを見渡す。ふと、枝のついた、花弁が五つある薄いピンク色の花が目についた。それを指さして、リーベは花塚に訊ねる。

「これは何ですか?」

「キョウチクトウよ。毒があるから、動物のいる家には置けないわ。人でも中毒を起こすくらいだし……花言葉は何だったかしら」

 花塚が首を傾げ、考えるように目を泳がす。すると、雪村がつぶやいた。

「『危険』、『注意』、『用心』ですね」

「ああ、それね。どうして覚えていらしたの?」

 雪村は肩をすくめ、「この木が好きな変わり者がいたんです」と答えた。

 その会話を小耳にはさみながら、リーベはまた目線を動かした。すると、夢で見た花畑に咲いていた、白い花を見つけた。

「これは何でしょうか?」

 雪村と話していた花塚はそれを見て、「ああ、それはカモミールよ。カミツレともいって、ハーブの一種ね」と言った。

 リーベはバケツから一本カモミールを取り出し、試しに嗅いでみた。リンゴのような甘い香りが鼻の奥をくすぐり、朝から鼻を支配していた、あの得も知れぬ悪臭の記録をかき消す。

「いい香りでしょう? 花言葉はね、『逆境に耐える』なんて言葉があるわ」

「猫とかは大丈夫なのですか?」

「一応、知ってる限りは猫用の虫よけに使われたりすることもあるみたいだし、嗅ぐくらいなら問題ないみたいよ。食べさせない方がいいのは、いつものことね」

「なるほど」

 もう一度、カモミールの香りをかいでみる。

──これにしましょう。

「これにします。これを7輪ください」

「わかったわ」

 花塚は頷いてバケツから7輪カモミールを取り出し、ラッピングし始める。リーベは『満足』して周りを見回すと、雪村が見当たらない。

「雪村さん?」

「あ、リーベ。どうしたの?」

 雪村が棚の上に顔を出す。雪村のいるところに行くと、そこは鉢植えコーナーだった。

「何を見ていらしたのですか?」

「これさ。コチョウランっていうんだ」

 雪村はおいてある鉢植えを指す。それはピンク色の花をつけており、花弁は蝶々のようだった。

「綺麗な花ですね」

「花言葉もきれいでね、コチョウラン自体は『純粋な愛』や『幸福が飛んでくる』、ピンク色は『あなたを愛しています』っていうんだ」

 雪村は思い出を語るように、リーベのほうを見ずに、花を見てそう告げた。その横顔は、割れてしまって触れることも見ることもできない大切なガラスの彫刻をただ無力に眺めているかのような、そんな寂しそうな顔だった。

 リーベは目を合わせてくれなかったことに、若干の『不安』を抱く。

──どうして、雪村さんは私がいるのに寂しそうにするのかしら……。それに、どうして私を見ていてくれないのかしら。私がアンドロイドだから? それとも、私のことはどうでもいいの?

 そんなことが頭をよぎる。その考えを、リーベは小刻みに頭を振って、振り払った。

「リーベ?」

 それが見えたのか、雪村がリーベのほうを見て首を傾げる。リーベは「なんでもないです」と言って取り繕った。

「はい、どうぞ」

 後ろから花塚の声が聞こえる。振り向くと、きれいにラッピングされた花束を持った花塚がそこにいた。


 店から出た二人は、何ともなしに商店街をふらついた。雪村は「危ないから」と、あまりいい顔をしなかったが、リーベが歩くものだからついてきたみたいだった。

「リーベ、楽しい?」

 緊張しているかのように若干ひきつった顔で、雪村はリーベに聞く。

「ええ。楽しいですよ」

 笑顔で答えたリーベに、雪村は「そうならいいけど……」と歯切れの悪い答えを返す。

「雪村さん」

 リーベは立ち止まる。それにつられて、雪村も止まる。さっき考えたことを今のうちに聞いておかないといけない、そう考えたのだった。

「なんだい?」

 意識したわけではないが、少しずつ区切って言う。そのせいか強い口調になってしまった。

「あなたは、私のことを、どう思っているのですか」

 だが、『思い』の強さはそれでも足りなかった。先ほど雪村が見せたあの横顔を、リーベは忘れられなかった。どうしても、どうしても知りたかった。

 雪村がリーベをどう思っているか。そして、自分は雪村の寂しさを埋められているのかどうか。

「どうって……リーベは僕にとって大切な人だよ」

 質問の意味が分からないかのように戸惑いながら、雪村はいつものように微笑んで答える。けれど、リーベは首を振った。

「そうではありません。私はあなたを大切な家族だと、父親のような方だと考えています。あなたは私をどう見ているのですか? あなたは、私がいても寂しいのですか?」

 そういいながら、リーベは自分が泣いていることに気が付いたけれど、そんなことに構っている暇はない。

 沈黙が流れる。

 雪村は目を一瞬そらした後、口を開いた。

「僕は……僕は君を娘のようだと思っているよ。そして、娘のように愛しているつもりだ。君のおかげで、寂しいと思ったことはない」

 そういった雪村の小指がピクリと動く。

 その「癖」が何を意味するか、リーベは知っている。けれど、そういってくれた雪村をリーベは信じた。リーベにとって、信頼できる人はただ一人だから。

 リーベは涙をぬぐう。

「わかりました。私は、あなたを信じます」

 それを聞いた雪村は申し訳なさそうに目を下に向けて、俯いた。

 

 それから、二人は何も話さなかった。

 自動タクシーに乗る前にリーベは強制的にアンドロイドモードに移行させられ、自動タクシーに乗った後はもちろん屋敷に帰ってきた後も話すことはなく、お祝いだというのに一言も話さなかった。それを見ていたレーベンは不思議そうな顔をして、二人の前に出てくることはなかった。

 リーベは片づけを終えてから自分の部屋に向かった。雪村はというと、食べ終わった後に「メリークリスマス」と一言言っただけで、書斎にこもってしまっていた。

 暗い部屋で一人、いつも着ているパジャマに着替える。

「……」

 無言で着替え終えたリーベは、ベッドを椅子代わりに座る。ぽたぽたと涙が流れて、頬を伝い、太ももに落ちる。鼻をすすって、子供のように喘ぐ。その声を聞くものは誰もいない、それをわかっているからリーベは声を上げて泣くことができた。

 一番信じていた人に、信頼していた人がいなくなってしまった。自分の隣で笑っていてくれる人がどこに行ってしまったのか、わからない。自分のAIが一つ欠けてしまったような感覚さえした。

──あなたは、どうして、私に……?

「……あんな質問をしなければよかった」

 『悲しみ』と『嫌悪』、『驚き』が入り混じり、新しい感情を生み出した。リーベはその不快な感情に、『失望』と『後悔』という名前を付けた。以前、読んだ本の主人公がそういう言葉を使っていた。

 それからしばらく泣いていると、今日の朝のことを思い出した。そういえば、雪村は手に持っていたボウイナイフを回収せずに、ナイトテーブルの上に置きっぱなしにしている。

「返しに行かなきゃ……」

 ベッドから立ち上がってナイトテーブルを見てみると、そこには雪村が持ってきたナイフが置いてあった。鞘から抜いてみると、刃渡り20cm程度のチタン製の刃と握りやすいように溝を掘られた持ち手のナイフで、その刃にはドイツ語で”Ich werde immer bei dir bleiben.”と彫られていた。

「『あなたといつも一緒』……雪村さん、こんな大切なものを置いておくなんて」

 リーベは急いでナイフを返しに行こうと思ったが、アルタイルが「今は話しかけない方がいい。統計的に見て、会話にはならない」と返したので、それに従うことにした。

「……また、時期を見て返しに行きましょう」

 そういって、リーベはナイフを鞘に戻して、ナイトテーブルの引き出しにしまった。


≪第九節 21170308≫

 冬が変える支度をし始め、雪や氷が少しずつ溶けていく日々。草木はそれを歓迎していたが、リーベはそれを喜べなかった。

 あの日以来、雪村は食事と身の回りを整えるとき以外で書斎から出てくることはなく、リーベが話しかけようとしても「忙しいから」の一点張りで、すぐにこもってしまって話しかけることができなかった。リーベは雪村との間に溶けない氷の塊があるような錯覚さえしていた。二人を阻む、春になっても溶けることの無い氷の壁。それが二人を隔てていたように感じていた。

 そんな日々を過ごしながら、リーベは毎日を送っていた。

 本を読みながら、外を眺める。1950年に刊行された、とあるSF短編集の再編版だ。

「雪は溶けるのにな……」

 ふとインターフォンのチャイムがなる。時間を見ると、13:10だった。

「あっ」

 今日は沢井がレーベンの定期検診に来る日だった。それをリーベはすっかり忘れていた。もちろん、雪村にも言っていない。

 仕方なく、リーベは玄関に向かう。雪村は後で呼べば許してくれるだろう。

 玄関を開けると、トレンチコートをきた沢井がいた。前あったときよりも老けているように見えたのは気のせいだろうか。

「よう、リーベ。雪村はどうした?」

「すみません、予定を忘れてしまっていて、雪村さんを呼んで居ないのです」

 リーベは頭を下げ、一拍子おいてから頭をあげる。そこには、驚いた顔をした沢井がいた。

「アンドロイドが予定を忘れることがあるのか。雪村はよく予定を忘れてたが……」

 その話の続きを聞きたかったが、まずは上がってもらうことにした。

「申し訳ありません。雪村さんを呼んできますので、リビングで待っていていただけますか?」

「ああ、もちろんだ」

 沢井はトレンチコートをコート掛けに掛け、いつものようにダイニングに向かう。リーベは沢井にコーヒーとホットサンドを出してから、雪村のいる書斎に向かった。

 ノックすると、いつも通り返事はない。

 開けると、雪村がショットグラスにウォトカを注いだまま、書斎にある机に突っ伏していた。

「え?」

 駆け寄ったリーベは、脈をとって雪村が生きていることを確認した。ごくまれに死亡している場合でも、通常なら心停止を知らせるマイコンが誤作動で知らせ損ねることがあるため、必ず一度確認をしなくてはならない。

「ただ、酔いつぶれているだけなのね」

 そういって胸をなでおろしたリーベは、ピナフォアのポケットからDDS(Drag Delivery System、薬物輸送システム)モジュールを取り出し、「酔い覚まし」のアンプルを装置に差し込んだ。DDSモジュールはいくつかの薬物──大半が「酔い覚まし」や「痛み止め」などの日常的に使うものだ──が入ったアンプルがケースに収められており、付属の使い捨てペンシル注射器に差し込んで使う。

 今回の「酔い覚まし」には肝臓でのアルコールとアセトアルデヒドの分解を補助する薬剤が入っており、投与後10分ほどで急速に作用してあっという間に酔いを醒ます。ただし、投与すると体に負担がかかることや脱水を起こしやすくなるため、投与後は十分に水分補給を行ったのちにベッドに寝かせて数日間は飲酒させないことになっている。

 リーベはためらいもなく雪村の腕をまくり、注射器を雪村の肘にある静脈に刺して、薬液を血中へ投与した。その後、注射器を廃棄ケースに入れて、雪村を横抱きにして寝室に向かう。

 寝室についたリーベは雪村をベッドに寝かせてから、近くの救急箱から輸液キットを取り出して雪村に点滴を始めた。あとは薬が効いて目が覚めたら、クエン酸製剤を飲ませればいい。

 

 数分後、雪村は目をしばたいた。

「ん……?」

 リーベは雪村の顔を覗き込む。

「お目覚めですか?」

「ん、ああ……バレたか……」

 雪村があたりを探る。その手に、リーベはクエン酸製剤を握らせた。

「飲んでください。あとは、私がどうにかしますから」

「うん……」

 雪村は寝たままリーベが持っていたシラップ薬を飲み干す。そして、ため息をついた後、勢いよく起き上がった。その勢いにリーベは驚いて転ぶ。

「きゃっ」

「ご、ごめん。今日、何日だっけ?」

 起き上がったリーベは雪村の問いに答えた。

「3月8日ですが……沢井先生のことですか? すでにいらっしゃいますよ」

 雪村は薬の作用か苦悩か、頭を抱えた。

「ああ……やっぱりか。あとは頼んでもいい?」

「もちろんです。先ほど、そういいましたから」

 リーベは微笑んで、いつのまにか近くにいたレーベンを捕まえた。その顔を見てから雪村はまた横になり、リーベは雪村の寝室を後にした。


 ダイニングに行くと、沢井はマグカップ片手に寛いでいた。

「ん、遅かったな。雪村は?」

「雪村さんは少々体調がすぐれないので……」

 沢井はそれを聞いて、考えるように首を左右に何回か傾ける。そして、すぐに頷いた。

「どうせ二日酔いだろ」

 リーベは驚いた。

「なんでわかったのですか?」

 沢井は得意気な顔をした。

「あいつが具合を悪くするのはな、やけ酒した時くらいなんだ。それ以外はほとんど体調を崩したことがない。まあ、今の新生児は免疫力も考慮されて交配されているんだけどな」

「やはり、やけ酒は珍しいことなのでしょうか……」

 そう問われた沢井は少々考え込んでから、「かなり珍しい。5回あったかどうかだ。あれが雪村にとっての自傷行為みたいなものだからな」と答える。

「どんな時にありました?」

「あー……」沢井は肩をすくめる。「あいつに言うなって言われてるんだ。お前さんの、人間でいうところの洞察力と予測能力は政府AIレベルだと聞いたんでな。言ったらバレる」

 政府AIはそのままの意味で、もともとは学術研究に使われていたスパコンがベースになっている。事務的な情報のやり取りしかできないが、ありとあらゆる能力に秀で、5年後のことを95%の精度で当てたり予想しなかった災害にも強いと言われていたりするAIだ。もちろん、いくらリーベでもそこまでの性能は持ち合わせていない。

「それは言いすぎです」

 沢井が口をひん曲げる。

「間違っちゃいないだろう。人間なんて言う複雑怪奇なものを真似しているんだ、性能が低いとは考えられない」

「確かにそうですが……」

 沢井が皮肉るように笑う。

「まあ、あいつの口から吐かせることだな。あいつの口は難攻不落だぞ」

「……わかりました」

 リーベが頬を膨らませて、ずっと抱き続けていたレーベンを沢井に渡す。もう何度も検査を受けているのからなのか、レーベンは抵抗しなかった。

「さて、仕事するか」

 沢井は持ってきたカバンを開け、検査用キットを取り出した。


 約10分後、レーベンは解放された。

「これくらいなら、まあ、大丈夫だろう」

 沢井が少し渋い顔をして、検査結果を眺めていた。

「どういたしました?」

「少し骨が弱いな。とはいえ、年取ってきているから仕方ないし子猫のころアングラに居たんだろうから、まともに食事も当たらなかったはずだ。最近、良く寝ていないか?」

 思い返すと、最近はよくベッドの上で寝ている。数年前は自走するおもちゃを追いかけて走り回っていたものだが。

「確かに、良く寝ていますね。何かした方がよろしいでしょうか……?」

 沢井は頷いて、「餌はそういう猫のためのものにする。お前さんはレーベンを運動させてあげてくれ」とリーベに言ってから、沢井は検査キットを仕舞いはじめた。

 キットをしまった沢井は「コーヒーとホットサンドうまかった」と言って玄関に向かう。リーベもそれについていき、玄関で沢井にコートを渡した。

「ありがとうな」

「沢井先生、一つだけお伺いしても?」

「ん、なんだ?」

 リーベは沢井なら何か知っていると踏んで、あの石碑のことを聞くつもりだった。最近のあれとは別に、ずっと気になっていたからだ。

「岬にある──」

 岬、といったところで、沢井はリーベを遮る。

「リーベ、人間には触れてほしいことと触れてほしくないことがあるって、前言わなかったか?」

「ええ、覚えています」

「今回の件はな、それだ。どうせあいつのことだから、口から漏れたんだろうし、謝れとは言わないが……つつき回るのはやめような」

 そういって、沢井は珍しくシニカルに笑う。でも、そういわれたらそれ以上のことを聞き出すことはできない。

「そういうことでしたら……答えていただき、ありがとうございます」

「まあ、またなんかあったら聞いてくれ。答えてもいいことなら答えてやるから。じゃあ、またな」

 ドアを開けると、先ほど呼んでおいた自動タクシーが目の前に停まっていた。

「そういえば、沢井先生はお車を使わないのですね」

「運転が面倒なんでな」

 沢井はコートをひっかけ、会釈してから自動タクシーに乗り込んで家へと帰っていく。それを見送ってから、リーベは家に入って雪村の寝室に直行した。

 部屋に入ると、雪村が上半身を起こして青色の表紙をした本を読んでいた。

「体調はいかがですか?」

 雪村ははにかんで、「ああ、リーベのおかげで元気だよ」と答えてくれた。

「夕食までは寝ていてください。あと、書斎からお酒はなくしておきますから」

「確かにそうしてもらわないと、また飲んでしまいそうだからね。断ったところで強制的に回収されるとは思うけど」

 そういって、雪村は本を閉じる。リーベはやけ酒をした理由を聞こうと思ったが、今は雪村の体調を優先させた。

「何かほしいものはありませんか? 必要であれば、用意いたしますが」

「いや、大丈夫だよ」

「わかりました。もし、何かありましたら呼んでください」

「ありがとう、リーベ」 

 リーベは雪村の寝室から出て、自分の寝室に向かった。


≪第十節 21170615≫

 木々が春の若草色の葉から、夏の松葉色や織部色に変わりはじめた季節。

 あの後、リーベは自分の寝室から雪村のボウイナイフを持ってきて、寝ている雪村に渡した。雪村はすっかり忘れていたようで、驚いた顔をしながらそれを受取り、愛おしそうにナイトテーブルの引き出しの中にあった皮づくりの黒い箱に仕舞った。雪村曰く、「これはある人がお守りとして渡してくれたものなんだ」と教えてくれた。きっと、ある人とは岬の石碑に眠る人のことなのだろう、とリーベは考えていた。

 そして何より嬉しい事に、無理な飲酒で酔いつぶれてから、二人の関係は元通りになったようだった。正確には雪村がリーベを避けるようなことはなくなった。ただ、やけ酒をした理由に関しては「ちょっと言えない」らしい。

 とはいえ、リーベは雪村が自傷するようなことをしてほしくはない。いや、できるものなら人が傷つくのは見たくない。だから、前以上にリーベは雪村を気遣った。それで可能性が減るなら十分だと考えて。

 そんなある日、インターフォンが鳴り響いた。

 その時、二人はリビングで寛いでいたが、鳴った瞬間に雪村の顔がひきつったのが見えた。

「誰か来る予定あったっけ?」

「いえ、ありません。なにか荷物を頼みましたか?」

 雪村は首を横に振った。

「いや、頼んでない。誰だ?」

 またインターフォンが鳴る。

「ともかく出てみますね。雪村さんはそこにいてください」

「いや、僕も一緒に出よう」

 そういって、二人は立ち上がって玄関に出た。ドアを開けると、そこには前見たときから随分やつれてしまった岡崎と見たこともないタイプのアンドロイドがいた。そのアンドロイドは、180cmはあろうかという長身と平均的男性モンゴロイドを模した顔タイプで、顔以外の全身を黒い服で覆っていた。手袋から靴に至るまで真っ黒で、まるであの夢に出てきた化け物みたいだった。

「先生? どういたしました?」

 雪村が拍子抜けたように尋ねる。

「お前に対抗できる物が出来たからな、見せに来たんだよ」

 やつれた顔に岡崎が笑う。リーベはそれを見て、若干の『恐怖』を覚えた。

──どうしたっていうの……? 前見た紳士的な岡崎先生とは全く違う。

 雪村も同じ気配を察したのか、震える声を絞り出した。

「と、ともかく上がってください。リーベ、紅茶を入れてあげて」

「わかりました」

 リーベは異様な空気から離れられるという『安堵』を抱きながらキッチンへ直行し、紅茶を淹れ始めた。


 盆にのせた紅茶とコーヒーを持ってきたとき、雪村と岡崎は無言で向かい合っていた。雪村のほうは顔に少しの恐怖を張り付け、岡崎のほうは不気味な笑みを張り付けていた。アンドロイドは岡崎の隣に座って、先ほどからずっと無表情だ。

「紅茶をお持ちしました」

 リーベが雪村と岡崎にそれぞれ飲み物を差し出す。だが、二人とも手は付けない。それにドギマギしながら、リーベは雪村の隣に座った。

「さあ、役者はそろったな」

 かすれた声で岡崎が言う。リーベは以前の岡崎の声紋と比べて同一人物とは確認していたが、明らかに性格が違う。まるで、取り換えられたかのような豹変ぶりだった。

「この子はね、ユニというんだ。Utility New Interface、万能新型インターフェイスだよ」

 その、「ユニ」と言われたアンドロイドはふてぶてしくお辞儀した。その動作は緩慢だけれど無駄がない。

「……これは、FIですか?」

 雪村が鋭い目つきで岡崎に訊ねる。岡崎が満足げに笑った。

「その通り。完成したんだよ、FIが」

 その言葉を聞いた雪村は顎に手を添える。考えるときの癖だ。

「先ほど、リーベに対抗できるといいましたね。どれだけの性能か、確かめさせていただいても?」

 アンドロイドの性能を確かめるとき、定量的な計測にはベンチマークをすればいいのだが、定性的な計測であれば二台を並べて数問の問題を出すだけで十分だ。そのため、手軽に調べることができる。

「もちろんだ」

 岡崎はソファの背もたれに寄りかかる。まるで、負けを知らないかのように。

「リーベ、手伝ってくれるかい?」

「もちろんです」

 雪村は頷き、「2101年1月13日は何曜日?」とリーベたちに問うた。リーベはカレンダーを辿って答えようとしたところ、ユニが低く威圧感を感じさせる声で「ツェラーの公式より、木曜日」と答えた。

 それをみて、雪村はさらに目を細める。リーベはというと、声が出るほど驚いた。それと同時に、張り合おうとクロック数をあげた。

「もう一問出すよ。1を101で割ると? 小数点以下10桁で答えて」

 またしてもリーベが答えようとすると、ユニが「0.0099009900」と先に答えてしまった。

「なっ……」

 喉から思わず声が出る。雪村はそれを聞いて不敵に微笑んだ。

「じゃあ、最後の問題だ。『歩く椅子』について教えてほしい」

 一瞬、リーベの処理が止まる。『歩く椅子』なんて聞いたことも見たこともない。

──歩く椅子? ポーターのこと? いや、そんなものじゃないはず。

「雪村さん、『歩く椅子』って何ですか? どこかでそんなものが売っていました?」

 リーベは雪村に訊ね、ユニは「歩く椅子というものはデータ上に存在しません」と答える。それを聞いた岡崎は目を見開いたまま身を乗り出す。その体は怒りに震えていた。

「チューリング・テストか」

 チューリング・テストというのは「機械が人工知能であるかどうか?」というテストで、イギリスの数学者、アラン・チューリングが発案したものだ。とはいえ、現在はかなり改変されており、専ら「AIは人間のような思考ができるか?」という方針に変わってしまっている。それでも基礎は変わっておらず、開発されて150年以上たつのに未だにこういう用途では使われ続けている。

 雪村は微笑んだ。決してあざ笑うわけではなく、あくまでもユニの成長を見守るように。

「ええ、その通りです。あなたのユニはまだまだ人間的な思考には劣るようですね。僕のリーベは人間的な思考に重点を置いていますが、そこに関しては未だユニを超えているようです。それ以外の性能は、残念ながら劣っていますが」

「くそっ」

 岡崎が自分の腿を叩こうとして、リーベが身を乗り出してそれを阻む。反射的だったけれど、人が自分を傷つけるのは見たくない。

「やめてください。怪我をされては困ります」

「『機械制限法』か」

「それもあります」リーベは岡崎の目を見つめる。「でも、私は人が傷つくことを見過ごせません」

 岡崎は力を抜いて、椅子にもたれかかった。

「大丈夫ですか、匠さん」

 ユニが声をかける。岡崎は「ああ……お前のせいで、負けてしまったがな」と吐息のように声を漏らす。リーベはソファに座りなおしてから、雪村に聞いた。

「そういえば、『歩く椅子』って何ですか?」

「ん? そんなもの存在しないよ。『電気羊』と同じようなもんさ。あの問題はあくまで好奇心を測るもの、人間なら見たことも聞いたこともないものに触れたら『なにそれ?』と聞き返すものだからね」

 雪村が悪びれる様子もなく答える。リーベは頬を膨らました。

「また嘘つきましたね、雪村さん」

「チューリング・テストは嘘ついてなんぼだから許してよ。嘘は人間の特権さ」

 リーベは岡崎が自分のことを愛おしそうに見ているのに気が付いた。ユニのほうに目を向けると、期待に応えられなかったことを悔いるように下を向いている。

「やれやれ……また、私はお前に負けてしまったようだ」

 リーベのほうを向いていた雪村が岡崎を見る。

「少なくとも、僕には負けていませんよ。先生が負けたのはリーベにです。僕は勝負すらしていませんから」

「確かに、そうかもしれんな……」

 雪村は微笑んだ。

「あと、僕はあなたに勝てません。話が平行線をたどることがあっても、それは勝利ではありませんし、勝利なんてものに固執する必要もありませんしね」

 それを聞いて岡崎も少し微笑んだが、すぐに険しい顔に戻った。

「だが、今回のことは忘れないぞ。今度はお前が出してくるチューリング・テストに対抗できるよう、ユニを育ててやる。ユニだって育つんだ」

 雪村はそれに笑顔で答える。

「では、僕はリーベと共に一日を大切に過ごしましょう。それが僕にできる一番のことです」

 岡崎と雪村は視線を交差させる。どちらの目にも光が灯っていた。尤も、その光の色は別々だったが。

「ユニ、帰るぞ」

「わかりました、匠さん」

 岡崎たちが立ち上がる。雪村は送ろうとしたが、岡崎が断った。そして、岡崎たちは玄関から外へ出て行ってしまった。

 残された二人の間を沈黙が横たわる。だが、それを破ったのは雪村のため息だった。珍しく、雪村が緊張の糸が切れたかのように震えている。

「あー、怖かった。岡崎先生、変わりすぎじゃないかな」

「私もそう思いました。まるでドラッグでも投与されているかのようで……」

 雪村はそれを聞いて、「まさか。そんなことしてれば、薬物対策課が岡崎先生を捕まえてしまうよ」とひきつった笑いで返した。


 それから数時間後、雪村たちは楽しくリーベの誕生パーティーをしていた。

 先ほどは出てこなかったレーベンも、ダイニングでおこぼれを貰いに来ていた。沢井がくれた餌はレーベンに合ったようで、最盛期ほどではないが前よりは動き回るようになっていた。

「雪村さん」

 雪村がほおばった料理を飲み込んでから、首を傾げる。リーベは気になっていたことを聞いてみた。

「どうして、チューリング・テストであの問題を?」

「ああ、あれはね、僕がアルタイルとヴェガを作ったときにした質問なんだ。もちろんどちらも初期化(フォーマット)してあるから知るはずないんだけど、試しにしてみたら上手く当たったってわけさ」

 リーベは頷く。ふたつのAIは「そんな記憶あるだろうか?」とバックグラウンドで検索していた。もちろんフォーマットされているのだから、あるはずがないのだけれど。

「なるほど」

「まあ、あんな定型文みたいな返答がユニから返ってくるとは思わなかったけど。ちなみにコンフィアンスにもしたら罵られたよ、『存在しないもの考えて楽しいですか?』ってね。今度はカノンにしてみるか」

「コンフィアンスちゃんなら、普通に言いますものね……カノンくんはなんていうでしょう」

 雪村は頭を掻いた。

「なんだろうな、『乗ったら楽しそうですね』とかかな」雪村が真剣な目でリーベを見つめる。「話は変わるけど、あの性能は脅威だ……あんなものインターネットにつなげば、不正アクセスで何でもできる。リーベだって本気出してたよね?」

 リーベは頷く。雪村はそれを見て「そうなると、地域一つならどうにかできることになる……やろうと思えば、世界規模でもできるはずだ」とつぶやいた。

 そのつぶやきを聞いたリーベは雪村と目線を交わした。

「そうですね……私、もっと頑張ります。もし、ユニくんが暴れたら止められるように。人が人を止めるように、アンドロイドがアンドロイドを止めないと」

 それを聞いて、雪村は目を見開く。そして、雪村は微笑んだ。

「リーベが決めたことなら、僕は応援するよ。行きすぎたら止めるけどね」

 今の機械制限法があるこの世界では、きっと私以外にその責務をこなせるアンドロイドは居ない。それに雪村が居れば何だって出来るはずだ。

 リーベは雪村に微笑み返した。

「あなたがいれば、私は頑張れます」

 はい、どうも2Bペンシルです。今回も、読んでいただき、本当にありがとうございます。

 もっと早く投稿したかったのですが、現実のほうで提出物ラッシュを食らいまして。それに追われていたら、こんな日になってしまいました。それに、前後編になってしまいましたし……第四章は前中後編の予定なのですがね。後編に関しては、年末に帰省もしませんので、これよりかは早く書けると思います。

 さて、今回のお話は少々小難しいというか、批判的な部分が多くなってしまいましたね。その分、キャラが勝手に動いて、コメディ要素が増えていった感じがあります。

 ちなみにですが、チューリング・テストは実在するもので、それをもとにした「模倣ゲーム」は飲み会の余興とかにも使えると思いますので、ぜひ調べてみてください。他、リーベの読んでいた本のタイトルは連絡いただければ、答え合わせも致しますよ。

 あと、≪人間同盟≫に関して早川書房、アイザック・アシモフ作、小尾芙佐訳の『われはロボット』に同名の組織が存在しており、主義が似ておりますが、全く関係ありません。実は、第二章執筆当時に『うそつき』のあたりを繰り返し読んでいて、後ろの方まで読んでいなかったのが原因です。思いついたものが、一緒だったんですね……。私の不手際というか、怠惰が原因です。状況によってはアナウンスの上、≪人類同盟≫に差し替えさせていただきます。ご了承ください。

 なんだか、懺悔だらけになってしまい、申し訳ありません。繰り返し、今回も読んでいただいて、本当にありがとうございます。声をかけてくださる方もいらっしゃり、本当にうれしい限りです。では、また。

 今回も、参考にしたサイトを掲載させていただきます。本当に、ありがとうございました。


夢関係:http://yume-uranai.jp/

花言葉:http://rennai-meigen.com/hanakotoba/

本文のドイツ語:https://www.spintheearth.net/german_love/

色関係:http://irocore.com/category/green/

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