【遊戯期】
2018/01/02 全体の修正、加筆、推敲及び校正を行いました。
【第一部第二章】
≪第一節 21111115≫
リーベが食事できるようになってから五か月後。差し込む光はいまだ温かいものの、風は冷たくなり、夜は暖房があった方が過ごしやすく感じるようになった。
雪村はあれ以来、リーベの歯磨きに付き合わされていた。リーベ自身は「まだきれいに磨ける自信がない」と言っていたが、本当は一人でもう磨けるので、実のところ雪村と一緒に歯を磨くための口実だ。
でも、そういうちょっとした交流がリーベは『好き』だった。
「そろそろ雪降りそうだなあ」
「天気予報では初雪まであと一週間ほどだということです。暖房を強くいたしますか?」
「いや、大丈夫。ただ、雪が降ると転びそうになるからさ、リーベが転ばないといいなって思ったんだ」
リーベが笑う。
「私はそんなに転びませんよ、これでも最高グレードの運動制御システムなのですから。むしろ、雪村さんが転ぶほうが危ないと思いますが」
「僕は転んでもケガしないから。それにケガしてもリーベに治療してもらえるしね」
雪村も笑って返した。ふと、下を見るとレーベンがいた。
「にゃあ」
「どうしたの、レーベン? お腹空いた?」
レーベンが足元に転がって、腹を見せる。
「撫でてほしいみたいだね。僕もしてみたいけど、なかなかおなかを見せてくれないんだよな」
それを聞いて、リーベはレーベンを抱えて雪村の膝に置いた。レーベンは一瞬警戒するように毛を逆立てたが、それが雪村だと知ったのか、逆なでた毛を落ち着かせた。
「雪村さんなら問題ないと思いましたが、やはりそうだったようですね」
「リーベの予想能力なら、暴れることも考えてそうだけどな」
雪村が優しく、レーベンをなでる。
「その確率は10.895%です。そして、雪村さんがケガする確率は1.556%でしたので、危険性はないと判断できました」
「それって、安全とは言えないよね?」
「私が怪我の手当てをしますので、安全ですよ」
レーベンが喉をゴロゴロと鳴らす。雪村は手を腹から首に移動させる。雪村はあごの裏を掻くように撫でた。
「未然防止ではないってことか。しかし、レーベンは重くなったな。何キロくらいあるんだろう」
「大体5.5㎏でしたね。女の子にしては少々重すぎるでしょうか」
「どうだろう、沢井は問題ないって言ってたから、大丈夫じゃないかな。ただ、あんまりあげすぎるとまたいろいろ言われそうだな」
リーベはレーベンが撫でられているのを見て、雪村に撫でられたい衝動に襲われたが、自制した。『恥ずかしさ』が先に出たのだ。
「しかし、もうこんな時間か……」
時計を見ると、0時を回っていた。
「そろそろ、歯を磨かないと。雪村さん、行きましょう」
「リーベ、提案なんだけど、抗菌性の潤滑物質にするのは……」
雪村の膝にいたレーベンを片手で抱きかかえながら、リーベは拒否した。
「それは命令ではありませんので、拒否権を行使します」
「だめか」
「さあ、行きますよ」
リーベと雪村は一緒に洗面所に歩いて行った。リーベの腕の中には安らいだ表情のレーベンがいた。
≪第二節 21111225≫
クリスマス。その日は世間にとって忘れ去られた日だったが、ある二人と一匹にとっては大切な日だった。
二人は自らの考えが一致し、心が通じ合った日として。一匹にとっては肉がいっぱいもらえる日として。
リーベと雪村は朝、レーベンを沢井のところに預けてから街に出ていた。沢井曰く、「猫は一日放置しても自由に動き回る」とのことだったが、念のため沢井に預けたのだ。
「人がいませんね……」
「まあね。贈り物の文化なんて、今はほとんど廃れたからなあ。この商店街が残ってるのは、それなりに使われてるからだけど、それでも50年前よりも人はずっと減ったはずだよ」
リーベたちは以前、雪村が花を買いに行った商店街にいた。そこを含め数店舗しか、贈り物を扱うような店はないからだ。世の中にある店のほとんどは政府が経営するAIショップか民間のVRゲームセンターで、需要のなくなった店は国が買い取り、土地を人工畑や生産施設に充てていた。それらで勤務用アンドロイドが働き、それで生まれた利益を政府支給金として家にいる人間が受け取る。
「ここは、人が経営しているのですか?」
「うん。知ってる限り、近くにあるのはここくらいじゃないかな。こういうところは、資本主義が置いていった経営システムとして経済学者が批判することがある」
「私は人がいるので、好きですが……」
「効率としては最悪なんだ。人件費はアンドロイドのメンテナンス費用の数十倍だし、ここにある建物は古いから維持費もかかる。それ以外にも色々ね……たぶん、アルタイルは非効率的だというだろうな」
確かに、アルタイルのほうはそう言っていた。それでも、人と触れ合えるのは『楽しい』が。
雪村が店に入る。その店は雪村が前行った生きた花を扱っている場所で、中年の女性が一人で店番をしていた。店の中には色とりどりの花がおかれ、香りが充満していた。
「いらっしゃいませ。あら、お久しぶりですね」
「どうも、6月15日はお世話になりました」
雪村とリーベは会釈する。女性はリーベを眺めて、少々驚いたようだった。
「こちらがそのアンドロイドなのねえ……人間みたいだわ」
「そうなるように育てましたから。こちらは店員の花塚さん、リーベの誕生日に買った花を、選んでくれた人だよ」
「初めまして。私はリーベと申します」
リーベは花塚にむかって、もう一度お辞儀した。
「初めまして。本当人間そっくりね」
花塚はリーベにお辞儀を返した後、雪村のほうを見た。
「それで、今日はどんな花をお求めですか?」
一時間後、雪村たちは花束をもって店を出た。
あの後、リーベと雪村は花塚から花の名前と花言葉を聞いて回っていた。その中でもリーベが気に入ったのは、赤い花の鉢植えだった。
「この花の名前は何でしょうか?」
「ああ、これはゼラニウムよ。花言葉は『君ありて幸福』だったはずだわ。ゼラニウム自体の花言葉は『尊敬』、『信頼』、『真の友情』じゃなかったかしら」
花塚が鉢植えをもちあげる。
「リーベ、気に入った?」
「花言葉を聞いたら、なおのこと気に入りました」
「ただ、ゼラニウムは動物にあまりよくないのよね……特に猫は嫌がるし、もし食べたら病院に行かないと」
「うーん、そうですか……レーベンがいるしな」
リーベは少し考えた。レーベンの命と自らの満足を天秤にかけたら、どちらが重いだろうか。結局、すぐにレーベンの命のほうが重いという結論に至った。
「では、やめましょう。お花はまだたくさんありますし」
「そうだね……」
「この青の花は何ですか? 数が少ないですが」
リーベのさすほうを花塚が見る。そこにはあったのは美しい青色をした、数輪の花だった。
「ああ、これはリンドウね。リンドウはあまり群生しないから、入手しにくいのよ」
「花言葉をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「『悲しんでいるあなたを愛する』じゃなかったかしら。ほかにも『正義』、『誠実』とかもあるわよ」
──まるで私みたいね。雪村さんが悲しんでいるのかはわからないけれど。
「へえ……どうだい、リーベ。赤と青じゃほとんど補色になってしまうけど」
「……これにします。これは猫にとっては毒じゃないのですよね?」
「ええ、知っている限りはね。じゃあ、これでいいかしら」
「リーベがいいなら、そうします」
それから、リーベと雪村は3輪だけリンドウを買って店を出る。
どうして自分自身が、名前も知らないこの花に惹かれたのかわからなかったが、リーベはきっとなんらかの残留データがあったのだと推定した。それと自らの『感情』がリンクしたのだと。もしかしたら、ヴェガに『感性』というものが生まれたからなのかもしれない。
「リーベの気に入るものがあってよかったよ」
「雪村さんは、なにかほしいものはないのですか?」
すると、雪村は微笑む。
「いや、僕は十分ほしいものを与えてもらっているからね」
「誰にですか?」
その言葉に、リーベは少し『嫉妬』を覚えた。リーベ以外に誰かが雪村に何か渡しているのかと思ったからだ。ただ、知っている限り雪村に届く郵便物に私的なものはほとんどない。
雪村は怪訝な顔で首を傾げる。「ん? 誰にって、リーベにだよ。リーベ以外いないじゃないか」
「そうでしたか。誰か別の方かと思いまして」
その言葉を聞いて、リーベは『安堵』した。
「そうじゃないのは、リーベが一番知ってると思ったけどな。大丈夫、君が一番なのは変わらないよ」
話しながら歩いていると、リーベたちは商店街の外に出た。
「レーベンを受け取りにいかないと……」
「自動タクシーなら、すでに呼んであります」
「お、もう呼んでたか。リーベ、またアンドロイドモードでもいいかい?」
「ええ。問題ありません」
アンドロイドモードとはリーベにのみ搭載されているであろう、高次AI機能を制限するモードのことだ。それは人間でいえば、大脳の活動を止めるようなものであり、一般的なアンドロイドと同様の活動しかできない。つまりは、思考能力は最低限にまで下がり、『感情』は顕在化しなくなる。
アンドロイドモードであれば、リーベは政府に目をつけられることはなく、自動タクシーに乗ることができる。あくまで、リーベは家政婦アンドロイドとして雪村に作られたのであり、それ以上の行動をしていることが判明すると、雪村曰く「危ない」そうだ。
「Liebe.Change “Android Mode”」
「Accepted your order」
リーベの高次機能は止まる。尤も、それは表面的なものであり、深部ではいつでも通常モードに戻れるよう、アイドル状態を保っている。リーベからすれば、金縛りのような感覚なので『不快』だが、雪村と一緒にいるためにはこうするしかないと割り切っていた。
自動タクシーがリーベたちの前に止まる。雪村が先に乗り、リーベがそれに続く。荷物はリーベが持っていた。
『目的地をお知らせください』
「沢井動物病院までお願いします」
『承知しました。目的地到着まで15分です』
雪村とリーベを乗せた自動タクシーは沢井のところに向かい、きっかり15分後にタクシーは沢井動物病院の前に止まった。タクシーの中で会話はなかった。
『マイコンをスキャナにタッチさせてください。政府支給金から費用を引きます』
「マイナンバーくらい覚えてるのにな……」
雪村がそんなことを言いながら、スキャナにマイコンをあてる。ピッという音がして、運賃が引かれたことを示す表示が出る。
『ご利用ありがとうございました』
リーベと雪村が降りると、タクシーは走り去った。
「Liebe.Change "Normal Mode"」
「ふあ……このモード、あいかわらず窮屈ですね」
伸びをしつつ、溜まっていた処理を一秒ですべてこなす。
「まあ、ニュートラルとかセーフよりはましだけどね……」
「レーベンは元気にしているでしょうか?」
「元気だぞ。誰も来なかったから、ずっとこいつと遊んでた」
声がした方向を見ると、動物病院の正面玄関にレーベンを抱えた沢井が立っていた。
「よう、二人とも。朝以来だな」
「やあ、沢井」
「ありがとうございます、沢井先生」
沢井はいつの間にか足元に置いてあった動物用バケットにレーベンを入れて、それをリーベに渡す。雪村はリーベが持っていた花を持ち、リーベはバケットを抱えた。
「ついでにまた健康診断したが、お前ら食わせすぎだ。少し人の食い物減らせ。特に雪村」
「なんでバレてるかな。リーベの可能性だって……」
雪村が口をとがらせる。それに、沢井はあきれたように首を振った。
「リーベは人の言ったことを守れるいい子なんでな。リーベは減らすだろうが、お前は減らす気ないだろ」
「まあね」
「長生きさせたいなら少し減らせ」
「雪村さん、減らしましょうよ」
二人に同じようなことを言われた雪村は頭をかきながら、頷いた。
「リーベの言うことなら仕方ない。でも、今日くらいは良いでしょ?」
沢井は肩を竦めた。
「クリスマスだしな。さて、送ってやろう」
──そうだ、せっかくだから沢井先生にも参加してもらえないだろうか。それに、食べられるようになったところを見てもらいたい。
「沢井先生も一緒にパーティーしませんか? きっと楽しんでいただけると思いますし、見せたいものがあります」
沢井が眉一つ変えずに言った。
「ん、俺はいいよ。病院の掃除とか後片付けがあるからな。まあ、見せたいものってのが気になるが、また今度見せてくれ」
リーベは残念そうな顔をするが、そういわれては仕方なかった。
雪村がリーベを慰める。
「うん、また今度にしようか。いつでも来れるだろうしね」
「まあな。今日は無理だが、人がいないから暇なのは間違いない。誘ってくれてありがとうな」
「わかりました。では、また今度に致しましょう」
沢井がガレージのほうに向かう。リーベたちもガレージに向かった。
車が屋敷の前に止まる。リーベたちが車から降りた。沢井は窓を開けて、雪村たちを見送る。
「ありがとう、沢井」
「金づる逃す気はないんでな。まあ、アフターサービスみたいなもんだ」
「とかいっといて、ただの親切心なんでしょ?」
沢井は雪村の言葉を無視するかのように、「じゃ、クリスマスを楽しんでくれ」といって窓を閉める。そうして、沢井の車は走り去っていった。
「クリスマスパーティーの準備に2時間ほどかかりますので、お待ちください」
「ん、それじゃ書斎にこもってるよ。準備できたら呼んでほしいな」
「わかりました」
雪村はリーベから動物用バスケットを受け取り、それをもって家に入っていった。
リーベはおいてある箒で軽く玄関の雪を掃った後、家に入る。レーベンが出迎えたが、コートをコート掛けに掛けて自分の部屋に向かった。
部屋に入ると、電気をつける。いつも通りの質素で整頓された部屋だ。
リーベはドアを背にして、ワインレッドのセーターを脱ぐ。ほとんど人間と変わらない──そして、放熱の邪魔になる下着を着けていない──白く透き通ったような肌をした上半身が顕わになる。そのとき、ドアが開いた。
「リーベ?」
雪村が顔を出す。その瞬間、リーベはふりむき、雪村はドアを勢いよく閉めた。
「ご、ごめん……ノックすればよかったね……」
ドア越しに声が聞こえる。
「いえ……着替えるまで、待っていただけますか?」
「もちろんだよ」
リーベは機械的な動作で、履いていた黒と白のチェック柄をしたスカートを脱ぎ、急いで去年のクリスマスで着た赤と緑のメイド服に着替えた。
リーベがドアを開けると、そこには顔を赤くして、目を泳がせている雪村がいた。
「どうされました?」
「さっきはごめんね。いや、買ってきたリンドウを飾ろうと思ったんだけど、花瓶の場所がわからなくて……それで聞きに来たんだけど、着替えてるとは思わなかったんだ」
「お花であればダイニングテーブルに置いてくだされば、剪定して飾っておきます」
「わかったよ。さっきはごめんね」
「こちらこそ、対応が遅れてしまい申し訳ありません」
雪村は目の位置を落ち着けた。
「大丈夫だよ。じゃあ、テーブルの上に置いておくね」
「お願いします」
そういって、雪村はダイニングのほうに向かっていった。
その後のクリスマスパーティーは滞りなく行われた。
リーベと雪村は食事をし、レーベンは主に雪村からローストビーフをもらっていた。リンドウはダイニングテーブルの真ん中に飾られ、控えめながらも存在感を放っていた。その空間には、22世紀の今、忘れ去られたものばかりが揃う。生きている花、幸せな動物、家族の団欒、調理された食事……そのすべては、怠惰の代償に忘れ去られた。
「そういえば、雪村さんはお酒を飲まれないのですか?」
「お酒かい? 昔、ビールを一口飲んだんだけど、人に見せられないようなことしちゃってね。それ以来、怖くて飲んでないんだ」
「あまり強くないのですね」
「だから、基本的に飲まないかな。付き合いで飲んでた時期もあったけど、その時はビールを水で100倍に薄めたりALDH増幅剤使ってたね」
レーベンが雪村の脛に手をかける。物がほしいとき、レーベンはいつもこうする。
「まだ食べたりないかな? もうほとんど残ってないんだけど」
「さすがに、そろそろやめたほうがいいと思うのですが……」
雪村が一瞬考えるようなそぶりをした後、レーベンの頭をなでた。
「そろそろやめようか」
レーベンはかけた手を放した後、そっぽを向いてどこかに歩いて行った。リーベはそれを横目で追いながら、雪村に聞く。
「そろそろ片付けますか?」
雪村が皿に乗っている最後の料理を平らげる。
「うん、時間もいいしね。今日もおいしい食事をありがとう。ご馳走様」
「こちらこそありがとうございます。雪村さんはゆっくりしていてください」
リーベは使い終わった皿を片付け始めた。
≪第三節 21120420≫
春が始まり、穏やかな空気が広がる日々が続く。春の陽気は生命を育むというが、この世界で生命を育むのはAIとロボットだった。
午前のタスクを終えたリーベは一休みして、自分の中にあるエラーを選別して処理していた。
処理を終え、猫の写真集でも眺めようかと本棚のほうを見ると、見たことのない本が挟まっていた。
「なんだろう、これ?」
興味をそそられたリーベは、本棚からその本を取り出す。この時代には珍しい灰色の布表紙で、触るとカビとホコリが少し舞った。小口は手垢と劣化で黒っぽいクリーム色になっていたが、紙魚などは見受けられず、紙はいまだ強度を保っていた。そして、題名や著者はない。
「随分古そうな本ね……」
本を開くと、古い紙のにおいとともに、白紙の中扉があった。さらに捲ると、一ページごとに風景写真が一枚貼り付けられていた。写真は日焼けこそしていなかったが、ある程度劣化していた。50枚ほどある写真を解析すると、すべてヨーロッパの観光地だった。また、劣化の度合いから10年ほど前だと推測された。
「ヴェネツィアのサン・マルコ広場、ローマのパンテオン……イタリアの観光地ね。こっちはパリのルーブル美術館とエトワール凱旋門、ロンドンの大英博物館もあるわ」
EU(European Union、欧州連合)をAIの力で存続させたヨーロッパは、2103年に≪新世紀派≫と呼ばれる、アート・テロリストによって行われた遺産爆破テロの惨禍に巻き込まれる。その時、ヨーロッパの観光地はすべて復旧できないほどの被害を受け、現在立ち入り禁止になっている。
≪新世紀派≫はいまだつかまっておらず、その目的も遺産の破壊ということ以外は明確ではない。ただ、各国政府が負担していた遺産の保存費用がなくなり、財政負担が減ったのと国家のアイデンティティが消えたのは、紛れもない事実だった。
「よく見たら、全部雪村さんが写っているのね……それと、隣にいるのは誰かしら?」
雪村の隣には160cmくらいだろうか、金髪で深海のような、遠くからでもわかるほどの青い目をした白人女性がいた。しかし、写真の解像度が2Kで低く、顔が小さく映っているため細かい特徴は分からない。だが、わかる範囲ではその女性はリーベそっくりだった。
「まるで私みたいだけど、2103年に立ち入りできないことになっているのだから、私が存在するわけない……誰かしら?」
『好奇心』と少しの『嫉妬』に動かされたリーベは、本をもって雪村の書斎に向かった。
書斎に向かうと、ちょうど雪村が部屋から出てくるところだった。リーベの顔を見ると、微笑んで話しかけてきた。
「あ、リーベ。ちょっと探しも……」雪村が灰色の本を指す。「うん、僕の探し物はそれだね。中身見た?」
「ええ、見ました。あの女の人は誰ですか?」
雪村がリーベから目をそらして、頭を掻く。
「説明が難しいな……まあ、友達みたいなものだよ」
「どうして、私そっくりなのですか? かなり近い顔でしたが」
「えーっと……うん、ともかく渡してくれないかな」
そういわれて、リーベは雪村の命令に従ったが、『嫉妬』が『疑惑』に変わってしまった。
「いつか教えてくださいね? それまで覚えておきますから」
本を受取った雪村は、それを大切そうに抱える。
「そうだね……いつか教えられると思う。あと、こんな感じの本、何も書いてない本がリビングにあれば、中身を見ないで渡して。大切なものなんだ」
雪村の命令であれば、それに従わなくてはならない。
「わかりました」
「リーベの『好奇心』にとっては辛いと思うんだけど、こればかりはどうしようもないんだ」
雪村が困ったような、悩んだような顔でリーベにそう告げる。リーベはそれを見て、雪村の命令を受け入れた。
「かまいません。その代わり、絶対教えてくださいね」
「そうだね……約束しよう」
リーベはそれを聞いて、せめていつ撮られた写真なのかくらいは把握したかった。それを知れば、何か糸口をつかめるかもしれないからだ。
「一つだけ聞いてもよろしいでしょうか?」
雪村が驚くような表情をした。
「答えられるなら」
「何時撮られたものなのでしょうか?」
「そうだね……リーベの処理能力を考慮して、2102年以前とだけ教えておくよ。細かい数字を言ったら、バレそうだからね」
「そうですか……」
雪村はリーベに近寄る。
「これは僕が君に過去をインプットしなかった理由の一つなんだ。そして、僕が君に『心』を持たせたいもう一つの理由でもある」
そして、リーベの頭を優しく撫でた。
「だから、僕自身の口から話したい。でも、まだ整理がつかなくてね」
「では、雪村さんの整理がついたら、ですね」
「うん」
「わかりました。今度は私が雪村さんを待ちます。雪村さんが待ってくれたように」
そう言い切ったリーベに、雪村はまた驚いた顔をした。
≪第四節 21120615≫
今年もリーベの誕生日がやってきた。
リーベは以前のクリスマスと同じように、雪村と出かけられるかと思って少し『喜んだ』が雪村曰く、「すでにプレゼントは用意してある」とのことだった。
夕食の準備をしながら、リーベは雪村に問いかけた。
「プレゼントって何ですか?」
「秘密かな。でも、きっと喜んでくれると思うよ」
リーベは困惑した。
「……最近、秘密なことが多いですね」
「そうだね……。人っていうのは大なり小なり秘密を抱えるからね、その人のことを良く知ろうとすればするほど、秘密は増えてしまうんだろうな」雪村が肩をすくめる。「まあ、今回はサプライズって意味なんだけどね」
それを聞いて、リーベは疑問を口にした。
「どうして、人は秘密を抱えるのでしょうか? 私は雪村さんに色々言ってしまいますが……」
「アイザック・アシモフの言葉だけど、『コンピューターの人間らしくない部分。それは、一度的確にプログラミングされ、円滑に機能し始めると、完全な正直者になってしまうということだ』っていうのがある。秘密は嘘や偽り、誤魔化しで隠されるものだから、それができないAIにとって秘密を抱えるのは難しいのかもしれないね。できないことはないと思うけど」
リーベは調理を続けながら、悲しい顔をした。
「裏を返せば、雪村さんのプログラミングが正確だということですが……やはり、私はまだまだ人間ではないのですね」
「子供も嘘をつくのが苦手だったり、話したがる時期はあるから……もしかすると、そういう時期にリーベはいるのかもしれないよ」
雪村は慰めるように微笑む。そのとき、インターフォンが鳴り響いた。
「ん、来たかな。とってくるよ」
「いえ、私が取りに行きます。雪村さんは寛いでいてください」
「そういうことなら、お言葉に甘えるかな」
料理を焦げ付かせないように火を消し、危険がないかを一通り精査したのちにリーベは玄関へと向かった。
玄関を開けると、小型のマルチコプター型宅配ドローンがリーベの胸のあたりに浮いていた。ディスプレイには『お届け物です』の一文と入力用のGUI(Graphical User Interface、グラフィカルユーザーインターフェイス)があり、政府や民間企業に登録されているリーベのIDを打ち込めば、それで本人認証となって荷物を受取ることができる。もしIDが違えば、近隣のパトロールドローンが呼ばれるとともに、CPUを一時的に停止させる電磁パルスをドローンが発する。
ドローン宅配システムにリーベのIDを打ち込み荷物を受取ると、荷物を渡したドローンはふわふわと空中に上がっていき、上空の宅配飛行船へと向かった。その飛行船は、集荷から分類、宅配まですべてを自動で行っている宅配システムの空中基地だ。
荷物を見ると、軽くてそこまで大きくなく、約80年前に存在していた煙草の箱を大体二つ重ねた程度の大きさだった。珍しいことに包装紙は衝撃吸収性ポリ乳酸フィルムではなく、茶色の未晒し包装紙だ。
「今時、こんな包装材使うお店なんてあるのね……雪村さんらしい」
リーベはそう呟いてから、キッチンへと歩く。包みを雪村に渡してから、リーベは料理に戻った。その足元には、お零れに与ろうとするレーベンが鎮座していた。
その夜、リーベと雪村は向かい合って夕食をとった。今日のメニューは雪村の好きなオムライスをメインに、数品つけたものだった。
「今日もおいしいね」
雪村がほめる。それにリーベはジョークで返した。
「ええ、機械はミスをしませんので」
それを聞いて、雪村も笑った。
世間話をしつつ、ある程度食べ終わったあと、雪村は先ほどの包みを取り出した。
「これが今年の誕生日プレゼントだよ。前みたいなものではないけど、きっと気に入ってくれると思うんだ」
そういって、リーベに包みを渡した。
「ありがとうございます」
リーベは慎重に包装紙をはがす。中から、ワインレッドのリングケースのような箱が出てくる。その箱の表面はヴェルヴェットのような滑らかな手触りの布だった。
「開けてみて」
「わかりました」
開けると、造花の白いカーネーションに、ヘアクリップがついた髪留めがクッションの上に鎮座していた。
それを見て『驚き』と『喜び』の入り混じった顔をしたリーベを見つつ、雪村は微笑んだ。
「雑誌を読んでたら、こういうことをしているお店が見つかってね。このカーネーションは一応、普通の環境でも50年、適切なメンテナンス次第では100年もつものらしいんだ。もし、リーベが気に入ればいいなって思って」
リーベは『大喜び』で答えた、
「とても『嬉しい』です。ぜひ、つけさせてもらいます」
「気に入ってくれたようでよかったよ」
さっそく、リーベは斜め流しにした前髪に髪留めを留める。白い花の髪留めはリーベの金髪と喧嘩することなく、自然になじんでいた。
「結構似合ってるね」
「雪村さんが選んでくれたものですから……私からも、プレゼントがあります。立っていただけませんか?」
雪村は変な顔をしながら、「なんだい?」といって立ち上がった。
そこにリーベが歩み寄る。
リーベは雪村に抱き着いた。今回は自分の体重を雪村にかけるようなことをしなかったので、転びかけるようなことはなかった。抱き着かれた雪村は素っ頓狂な声を出したが、すぐにリーベを包むように腕を回す。
「毎年、ありがとうございます。あなたと一緒に居られて……なんというのでしょうか」
「それはたぶん、『幸せ』じゃないかな。僕もリーベと一緒に居られて幸せだよ」
雪村がリーベの頭を一撫でしたあと、二人は離れた。リーベはただただ『幸せ』で、思わず笑顔になった。それを見てなのか、雪村も笑っていた。
夕食の片づけも終わり、寝る前までの空き時間。雪村とリーベはともにソファに座り、レーベンはリーベの膝でゴロゴロとのどを鳴らしていた。いつもは夕食を終えると雪村は書斎にこもるのだが、こういう特別な日となにか研究がひと段落した日だけはこうしてくれる。
そんな中、リーベは気になっていたことを聞いてみた。
「そういえば、雪村さんの誕生日は4月11日ですが……何かほしいものはないのですか?」
雪村が考えるしぐさをする。しばらくたって、リーベに向き合ってこう言った。
「僕は何もほしいと思わないかな。あえて言うなら、この生活が続くことを望むだけだよ」
「では、来年何かプレゼントしてもよろしいでしょうか?」
「いや、何もいらないよ。その日リーベと過ごせるだけで、僕には十分なプレゼントになる」
雪村はそういって笑った。それを聞いてリーベは少し『悲しく』なったが、雪村がそれを望んだのであれば、それをできる限りプレゼントしようと心に決めた。
──せめて、私が壊れるまでは。
≪第五節 21121225≫
今年のクリスマスはリーベの提案で沢井を呼ぶことにした。
雪村は岡崎も呼びたがったが、岡崎はFI計画が忙しいのと個人的な事情で招待を辞退した。尤も、リーベの成長具合を知りたい気持ちはやまやまだったようだが。
19時を回るころ、沢井からの電話が鳴った。
『よう、リーベ。ちょっと一人増えたんだが、かまわないか?』
「料理は多めに作っていますし、問題ありませんよ。雪村さんも許可してくれるとは思います」
『雪村も喜ぶサプライズさ。仲良かったしな』
「そういうことでしたら、お待ちしております」
『すまないな。そろそろ行くぜ』
19時半、屋敷のインターフォンが鳴る。リーベがドアを開けると、そこには沢井と小柄な男、それと見たこともないタイプのアンドロイドがいた。
男のほうは艶のない黒髪を短くまとめ、苦労が刻まれた顔で俯いていたまま、少々死んだ目で自信なさげに周りを見回していた。スレンダーな女性型アンドロイドは──身長はリーベと大して変わらない──黒髪をショートカットにして、気だるそうな顔で男の隣に立っていた。
「沢井先生と、えっと……」
「詳しいことは上がってから話すが、友達の周防 謙治とコンフィアンスだ」
それを聞いて、リーベは二人の顔と名前を記憶した。
「周防さん、コンフィアンスちゃん、よろしくお願いいたします。私は家政婦アンドロイドのリーベです。外は寒いので上がってください」
口々に失礼するといいながら、二人と一体を家に上げてリビングに誘導する。リビングにはレーベンだけが寝転がっていたが、コンフィアンスを見た途端逃げて、家具と壁の隙間から顔だけ出して見ていた。
「雪村さんを呼んできますね。来るまで、くつろいでいてください」
「おう。ありがとうな、リーベ」
そういって沢井はスツールに座るが、周防はどこに座ろうか迷うかのように目を泳がせていた。それをみたコンフィアンスは、周防の肩を両手でつかんで無理やりソファに座らせた。
「もう少し堂々としたら? 頼りないよ」
リーベとは異なる、気だるげな声がコンフィアンスから放たれる。
「いや、だって……」
「そんなこと言っているから、まだまだ親離れできないのよ」
コンフィアンスはそういいながら、周防の隣に座る。その光景は人間とアンドロイドというよりは弟と姉のようだった。もっと言うならば、ペットと飼い主だが。
その光景を見て、聞きたいことがいくつもあったが、まず雪村を呼ぶことにした。
いつも通りノックする。返事はなかった。
「失礼しま……」
パンッという乾いた音がして、リーベの頭に紙吹雪が降ってくる。予測されていなかったことに直面して一時的にAIが混乱したが、すぐに雪村がリーベに対してクラッカーを鳴らしたのだと理解した。
「……いきなりどうされたのです?」
リーベが雪村に問う。雪村は肩をすくめて弁明した。
「ちょっとやってみたかっただけなんだ。掃除はあとでやっとくよ」
「いえ、これくらいなら私がやりますが……お客様がお見えになられたので、呼びに来ました」
「ん、わかったよ」
雪村はクラッカーの残骸を近くのごみ箱に投げ捨て、書斎から出てリビングに向かった。
リビングに入ると、雪村は驚いたように叫ぶ。
「久しぶりじゃないか、周防!」
雪村が周防に駆け寄ると、コンフィアンスが周防を立たせて挨拶するように小突いた。周防はそれに応じるかのように立ち上がって、雪村にお辞儀した。
「あ、久しぶりだね……雪村くん」
「お久しぶりです、雪村さん」
「久しぶりだね、コンフィアンス。相変わらず、周防は自信なさげだね」
「ええ……いつもこんな感じなので大変ですよ」
リーベは一歩進み、コンフィアンスに手を差し出した。それを見たコンフィアンスは手を取って握手する。
「改めまして、私はリーベと申します。雪村さんの家政婦アンドロイドです」
「私はコンフィアンス。謙治の教育係よ」
「どちらかというと監視じゃ……」
周防がつぶやく。それを聞き逃さずに、コンフィアンスはリーベと握手したまま、顔を周防に向けた。
「なんかいった?」
「なんでもないです」
リーベが手を放し、雪村に耳打ちする。
「あの二人って、いつもああなのでしょうか?」
それを聞いて、雪村はかすかに頷いた。
「さて、人もそろったし食べようぜ」
沢井が雪村たちに着席を勧め、雪村とリーベはともにソファに座る。結果的に、沢井、雪村、リーベの順に並んだ形になった。
「いただきます」の号令とともに、リーベは雪村の皿に料理を盛り、自分の皿にも料理を盛った。コンフィアンスの皿はなかったが、周防もコンフィアンスに同じことをされていた。
「ん? なんで盛るんだ?」
沢井が怪訝な顔をする。
「まあ、見てなよ」
リーベがおいしそうに料理を口に運び、噛み、飲み込む。その光景を見た、雪村とコンフィアンス以外の二人が驚愕の表情とともに、もっていたフォークやスプーンを落とした。
「どうなってやがる……アンドロイドだぞ、味見でさえ口に入れた後、吐き出すはずだが……?」
「ロボティクスの限界を超えてるんじゃ……?」
コンフィアンスはエラーが発生したのか、一時的に動作を停止していた。
雪村はその光景を見て、満足げに笑う。
「うん、まあ、これを見せたかったんだ。今のところ、これが僕の最高傑作さ。厳密には異なるけど、食物を消化できるようにしたんだよ。その代わり、口を清潔にしておかないと雑菌が発生するけどね」
雪村が誇らしげに自慢する。リーベは自分がこんなに注目されているのをみて、『恥ずかしく』なって食べる手を止めた。そして、皿を置いてから沢井たちが落とした食器を拾って、新しいものを手に取った。
リーベからフォークを貰いながら、「それでも、十分すぎるんじゃないか……」と沢井は雪村に言う。周防も同じように、「十分というか、機械の限界を超えてしまっているよ」と言いながらリーベからスプーンを貰っていた。
二人とも、あまりの驚愕からかいつもなら言うはずのお礼も言わず、ショックから立ち直れないように顔を見合わせていた。
しばらくたって、エラーから回復したコンフィアンスが口を開く。そのころには全員がショックから回復していた。
「こんなアンドロイド見たことない……」
「複数いたら僕も驚くかな。本当は岡崎先生にも見せたかったんだけどね」
その単語に反応した周防が、おどおどと口を開いた。
「懐かしいね、岡崎先生。元気にしてるかな」
「元気にしてるみたいだよ。手紙の返事も来たくらいだし」
「気になっていたのですが……雪村さんと周防さんはどのような間柄なのでしょうか? あと、コンフィアンスちゃんにも少し興味があります」
リーベが考えていたことを口にした。それを見て、また周防は驚いたようだった。
「ああ、まだ説明してなかったのか。周防と僕は研究室で一緒だったんだ。それで、大学のころは沢井と一緒に色々やったんだよね。それで、周防もAI工学で博士号を持ってるんだ。あと、たしかロボティクスでも修士もってたっけ?」
「一応持ってるよ。コンフィアンスのメンテナンスは僕しかできないから……そのために必要なのは、資格も含め取っているかな……」
「そうだったのですか……」
「私については、自分で説明するわ。そっちの方が正確だもの」
コンフィアンスが自らの経歴を話し始めた。周防の両親はこの時代には珍しい、恋愛結婚で周防を生んだ人たちであること。周防を生んだ時、母親は出産に耐える体力がなくて亡くなってしまったこと。しばらくは学者の父が育てていたが、周防が8歳のころにこの時代でも治せない原因不明の自己崩壊症候群になってしまったこと。少しずつ体中の細胞がアポトーシスによって死滅していく中、ありとあらゆる知識を投入して周防にとって姉となるようにコンフィアンスをつくり、守らせたこと。コンフィアンスが作られた当時、周防は16歳から得られるアンドロイド所有権を有していなかったが、親からの『遺産』ということで、無理やり所有し続けたこと。以来、コンフィアンスと周防はずっと一緒だったことなどを話した。
「──というわけで私は生まれたの。作った当時、ロボット三原則は適応されたけれど機械制限法がまだなかったから、私には適応されていないのよね。だから、謙治に多少は厳しくできるのよ」
「ちなみに、周防とコンフィアンスは大学でも一緒だったからな。俺も結構知ってるつもりだ」
リーベはそれらの話を聞いて納得した。
「なるほど……」
「まあ、『類は友を呼ぶ』でもないけど、僕の友達に普通の生活をしている人はいないんじゃないかな。沢井はこの通りだし、周防だって確かI.R.I.Sの整備部長じゃなかったっけ」
I.R.I.SとはInternational Robot Improvement Society、国際ロボット整備組合の略称で、国際化によってありとあらゆるところで用いられているロボットを、製造元や用途問わず整備できる団体のことだ。近年は製造元が整備を行わず、I.R.I.Sが一括して整備を承ることが多い。運営と多くの整備は主にAIが行い、ごく一部の整備を熟練の整備員が整備するため、ほとんどの問題を解決できる。そのなかの整備部は、唯一I.R.I.S設立当時からすべて人間が運用している部門で、最高レベルの知識が求められる部署だ。
コンフィアンスに料理を盛られている周防が答える。
「うん、やることはあまりないけど、人しかできない量子レベルの整備は僕とかがやってるよ。ほとんどの人は、そんな故障があればすぐ捨ててしまって残念だけど、ごくまれに大切にしている人もいるし、会社の設備使えばコンフィアンスも整備できるんだ」
沢井が眉を曇らせた。
「それって問題になるんじゃないのか?」
「バレなければ大丈夫、たぶん……」
「問題になったら、私が解決しますよ。はい、盛り終わったよ、謙治」
「ありがとう」
「本当、人それぞれですね」
雪村の皿が空になったのを見て、リーベはつぶやきながら料理を皿にのせていく。様々な人と触れ合い、会話することがこんなにも『楽しい』ことだとは知らなかった。
「にゃあ」
「ん? レーベン、何か食べたいの?」
レーベンがリーベの足元に寄ってきて、足に手をかけた。その光景を見てコンフィアンスはまた一時的に停止していたようだった。
「動物ってこんな風にアンドロイドに甘えることがあるの?」
エラーから立ち直ったコンフィアンスが、リーベに声をかける。リーベは沢井の了承を得てから、レーベンに料理をあげつつ言った。
「この子はいろいろ事情があって、アンドロイドのほうが懐き易いみたいなの」
今度はリーベがコンフィアンスに説明する番だった。レーベンは虐待を受けていた可能性があること。そのせいで人間に慣れるのに時間がかかること。人間に近い『心』を有するリーベであれば、人ではないが人のようにふるまえるので、レーベンが警戒心を抱きにくく慣れやすかったことなどを簡潔に説明した。
話している間、男たちは料理を食べながら、近状報告に花を咲かせていた。
「なるほどねえ……私は『心』がないから、そんな風にはならなかったのね」
「そうだと思うけれど……そんなに『心』がないようには見えないよ」
コンフィアンスはため息をつくように体の力を抜き、相変わらず気だるそうな声でこう言い放った。
「私にあるのは、心理学と経験に基づいて作られたパターンだけ。私には『心』や『人格』なんて非論理的なものは理解できないし、理解するためにリソースを割くこともないしね。だって、あまりにも非効率的で、それが人間の心と同じものだとはいえないもの」
リーベは自分が異質な存在であることを改めて認識せざるを得なかった。また、雪村がリーベに『心』を持たせるためにどれだけ努力しているのかを考えると、『悲しみ』が心を覆う。
それに、アンドロイドとしては、コンフィアンスのほうが正しい。
リーベは悲しげな声でつぶやく。
「それでも、私が生まれた理由の一つは……『心』を得ることだから。それが雪村さんの夢なの」
「あなたのことを否定する気はないけれど、そんな『紛い物の心』を得たところで何になるのかしらね。私には理解できない」
そういわれて、リーベは何も言い返せなかった。雪村の夢をかなえた後、その『心』がどう役に立っていくのか? アルタイルとヴェガの思考能力を総動員しても、その答えを出すことはできなかった。
尤も、アルタイルに至っては「『心』を得るための過程は非効率的であり、『心』を得たとしても活用は難しいのだから、無駄な時間である」と、起動時から言っていたのだが。
「そこのアンドロイド二体、あんまり難しい話はしないで楽しんだらどうだ? あと雪村、しっかりレーベンの食事制限してるんだな」
沢井が唐突に声をかける。雪村と周防は笑いながら、いつの間にか最先端のAI技術について話していた。その時の周防は目が生きていた。
「ん? ああ、リーベに言われたからね」
話を中断して、雪村が沢井に言う。それを聞いて、沢井は肩をすくめた。
「やれやれ。今度から、何かお前に注意するときはリーベを通してだな……」
「謙治もこれくらい聞き分けがいいといいのだけどなぁ」
先ほどの気だるそうな声から打って変わって、わざとハキハキとした声でコンフィアンスは周防に言う。周防は「あはは……」と苦笑いを浮かべるだけだった。
リーベは先ほどコンフィアンスに言われたことの意味を考えながら、その楽しそうな雰囲気に笑いかけた。しかし、その笑顔はどうやっても明るくならなかった。
23時を回るころ、デザートのケーキも無くなって、宴はお開きになった。
沢井はレーベンが近くに来てから、たまに雪村たちの会話に参加していたものの終始レーベンと遊んでいた。雪村と周防は相変わらず最新技術やプログラミングについて意見を交わしており、その時の周防は堂々と話していた。
リーベとコンフィアンスは言葉を交わしながら──主にコンフィアンスが周防への愚痴を言いながら──それぞれの主人に給仕していた。リーベは雪村と沢井、コンフィアンスは周防にといった具合に。
二人と一体が帰ったあと、リーベは食べた後を片付けていた。すると、雪村が話しかけてきた。
「リーベ、掃除用具ってどこにあるっけ? いつもリーベに任せてるから、どこにあるか覚えてないんだ」
「掃除用具なら物置のほうに置いてありますが……クラッカーの跡は私が片付けますよ?」
「たまには僕がやろうかと思ったんだけどな……」
洗い物のタスクを終えたリーベはスポンジを片付けて、手を拭いた。
「いえ、私の仕事ですので」
「そうかい? それなら頼むかな」
「わかりました」
リビングを離れ、物置に向かう。その後ろを、レーベンがついてきた。
掃除用具を取り出し、雪村の書斎に向かう。書斎に入ると、クラッカーの紙吹雪や紙テープが床に散らばっていた。それらで遊び始めたレーベンを引きはがしてから、リーベは手早く掃除をする。掃除自体は一分とかからなかった。
ふと、リーベが机の上を見ると、以前見たような灰色の本が置いてあった。
一瞬ヴェガは見ようと考え、すぐにアルタイルが命令違反としてその考えを打ち消す。
「見ちゃ……駄目だよね」
そう一言つぶやき、リーベは掃除用具をしまうために書斎から出た。先ほどコンフィアンスから言われたことと、灰色の本の中身がモヤモヤとリーベの思考にノイズをかけていた。
≪第六節 21130308≫
雪が解け始め、少しずつ日差しが暖かくなる日々。雲の隙間から差し込む光は、植物のために地面をほのかに温めているようだった。
あのクリスマス以来、リーベはコンフィアンスに言われたことについてずっと考えていた。だが、何よりも予備知識がなく、超高速で思考できるリーベをもってしても答えを出すことはできなかった。灰色の本の中身については、すでに思考することをやめていた。
その日の13:00、沢井がレーベンの健康診断に来ることが決まっていた。沢井曰く、「きっと異常なところはないだろうが念のため」とのことだ。
13:10になったころ、屋敷の前に止まった自動タクシーから沢井が降りてくる。リーベが玄関を開けると、診察道具を持った沢井が入ってきた。
「よう、お二人さん」
「こんにちは、沢井先生」
「やあ、沢井。相変わらず時間にルーズだね」
沢井がトレンチコートをコート掛けにかけながら、「お前みたいな秒単位のスケジュール管理はできない」と呟く。リーベが昼食を用意してある趣旨を伝えると、「ありがとう」と言った。
リーベが沢井をダイニングに案内すると、リビングのソファの上で寝ていたレーベンが光のような速さで逃げて行く。それを横目で見ながら、沢井と雪村は食卓テーブルに着いた。
食卓には三人分のサンドウィッチが食卓カバーをかけられた状態ですでに用意されていた。リーベがカバーを外して、雪村と沢井のマグカップにコーヒーを注ぐ。注ぎ終えると、リーベも席に着いた。
その光景を見て、沢井はぼそりとつぶやいた。
「うーむ、相変わらず慣れない」
「何が?」
雪村が問い返す。
「アンドロイドが飯を食うんだぞ……世界が反転しても、そうそうあるもんじゃねえ」
「反転……いろいろ考えられるな。自転とか公転、重力とかの反転かな。どれか一つでも起きたら世界滅亡だと思うけど。そういや、そんな映画あったっけ?」
沢井があきれ顔で雪村に言った。
「あるけどな……お前、わかっていってるだろ?」
「バレたか」
「まず、食べませんか?」
二人ともそれを承諾し、「いただきます」の号令で食べ始める。その光景を、レーベンは遠巻きに眺めていた。
食べ始めると、すぐに沢井がリーベの髪飾りをほめた。
「クリスマスの時にゃ時間がなかったが……似合うな、その髪飾り。雪村が選んだのか?」
「ええ、そうです。誕生日プレゼントとして贈ってくださいました」
「リーベの誕生日が6月15日だからね。その誕生花の中で一番似合いそうなのを選んだんだ」
沢井が怪訝な顔をする。
「誕生花なんてあるのか」
「うん、僕は4月11日が誕生日だけど、僕の誕生花はヒヤシンスだね。沢井は8月11日だから……ゼラニウムだったかな。正確には複数あるけど、代表的なのしか覚えてないな」
「そんな風に決まってるんだな」沢井が納得するように頷く。「昔からお前はそういうの好きだったよな」
そういわれ、雪村が頬を少し掻く。
「まあね。特別役に立つ知識でないけど、結構面白いからね。趣味みたいなものさ」
「世の中役に立つ知識ばっかでもないしな。興味深くても、それが役に立つとは限らん」
それを聞いて、ではないが、リーベは気になっていたことを聞いてみた。
「そういえば、沢井先生の下の名前を聞いたことが無いですね」
沢井と雪村が同時に振り向く。
「ん? 俺の下の名前か?」
「そういや、言ってなかったね」
「俺の下の名前は正義だぞ。AIがランダムに決めてるってのに、大層な名前がついたもんだ。音読みすれば、せいぎだしな」
雪村が若干にやけ顔で「大学時代のあだ名がヒーローだったしね」と補足する。それに対して「呼んでたのはお前と周防くらいだったがな」と沢井が反論した。
「殆どの人間の名前はAIがランダムでつけてるけど、周防は親が命名権を主張してというかAIから分捕って、名前をつけたんだよね」
「そうらしいな。その気性の激しさは、全くあいつに遺伝せずにコンフィアンスに引き継がれてるが」
「あまり聞かない名前と思っていましたが、そういうことだったのですね」
沢井がコーヒーを飲み干す。
「ああ、その通りだ。さあ、また追い込み漁するぞ」
以前と同じように、沢井はあっという間にレーベンを捕まえた。雪村は「することがある」と言い残して、沢井とリーベを置いて書斎にこもった。
沢井が器具を出しつつ、レーベンの健康診断の準備をしている間、リーベに話しかけてきた。
「リーベ、あの時はお祝いをぶち壊す気もなかったから、聞かなかったが……大丈夫か?」
いきなりそんなことを聞かれて、初めは何を言っているのか分からなかった。だが、すぐにあのクリスマスのことだと気が付いた。
意気消沈した声で、リーベは答える。
「……今でもバックグラウンドで考えています」
「だろうな。コンフィアンスは配慮を知らないからな……それがいいところでもあるが」
「作った理由は知っています。しかし、なぜ雪村さんは私に『心』を持たせたいのでしょうか? 雪村さんはまた別の理由があるといっていましたが……」
沢井は片耳にイヤーピースをしながら、レーベンに聴診器を当てて、心音や呼吸音を確かめる。
「俺は理由を知ってるが、雪村に聞くしかないだろ。それを言う権利は俺にはない」
沢井はイヤーピースを外して、レーベンから採血しはじめた。
リーベは沢井が「理由を知っている」と言ったのを聞いて、驚いた。
「知っているのですか?」
「まあな。10年前、あいつを180度変えちまうようなことがあった」
沢井がふっ、と息を吐きだし「血液検査の結果は良好だ」と呟く。
「以前、雪村さんが『整理がついていない』と申していましたが……そのことですか?」
沢井が「そのことさ」と、静かに告げた。
リーベはますますわからなくなってきた。10年前、雪村の身に何があったのか。アルタイルとヴェガはエラーを吐き出し始め、処理が追い付かなくなってしまった。
処理は、いつのまにか健康診断を終えた沢井の一言で打ち切られた。
「リーベ、あいつが話したがるまで待ってやってくれ」
「えっ?」
沢井が肩をすくめる。
「無駄に頑固なあいつのことだ、いつかお前さんに理由を話すだろう。その時は静かに聞いてあげてほしい」
唐突に言われ、リーベは処理が一瞬遅れたが、そのまま受けいれることにした。
「わかりました」
沢井が少し笑って、「約束の安請け合いはするもんじゃねえぞ」と言ったが、それが冗談だとリーベにはわかった。沢井はできないことを約束させるような人ではない。
「さて、やることはやったし、雪村を呼んできてくれ。あと、健康状態は良好だとも言ってくれ」
リーベはレーベンを抱きかかえ、頷いた。
「わかりました」
「にゃーん」
玄関で雪村とリーベは沢井を見送った。その際、沢井は「この状態を維持しろ」と、雪村に釘を刺す。雪村と言えば、笑いながら「リーベに言われたらそうするよ」と返していた。
沢井を乗せた自動タクシーが走り去る。雪村はそれを、見えなくなるまで見つめていた。
「さて、寒いし入ろうか」
「わかりました」
玄関のドアを開け、雪村、リーベの順に屋敷に入る。すると、レーベンが玄関の前で待ち構えていた。
「にゃあ」
「どうしたの、レーベン」
リーベがかがんで、レーベンと目線を合わせる。
「おなかでも空いたのかな?」
「おやつあげてみますね。レーベン、ついてきて」
「にゃん」
立ち上がって歩いて行ったリーベに、レーベンが付いて行った。足音を聞く限り、雪村はまた書斎に向かったようだった。
≪第七節 21130615≫
リーベの誕生日、空は曇っていた。厚い雲は光と通さず、外にはどんよりとした灰色のヴェールが掛っているようだった。
その日、雪村とリーベはいつもの商店街にある服屋で、リーベのプレゼントを買いに来ていた。店内は外とは異なり、現在では珍しい暖色系LED(Light Emitting Diode、発光ダイオード)のライトが店内を優しく照らしていた。
雪村はインディゴのジーンズにワイシャツ、リーベはインディゴのスキニージーンズに青と白のボーダーシャツ、その上に黒のジャケットを羽織っていた。
「今年は何がいいかな?」
「最近、ピナフォアの一着が少し汚れてきてしまったので……それでもよろしいでしょうか?」
「あ、そうだったんだ。それなら、好きなの選んでいいよ」
一般に現在の政府支給服は、アンドロイド用衣服も含めて、光触媒と銀イオン、特殊加工の作用で脱色・脱臭・防汚が勝手に行われる。また、洗濯時にもラジカルと紫外線を用いて殺菌されるため、そうそう汚れて買い替えるということにはならない。ただ、リーベの場合は政府支給ではなく、雪村が購入した物のため、たまに買い替えなければならなくなることがある。
「雪村さんも一着いかがですか?」
「僕はリーベの洗濯が完璧なせいもあって、特に汚れてないからなあ。そこまでほしいとは思わないよ」
リーベは口を尖らせながら、白のピナフォアに黒い糸で猫の刺繍がされているものを手に取る。その猫は右胸に刺繍されているだけなのに、とてつもない存在感を放っていた。まるで、いつもは目立たないのに、いなくてはならないレーベンそっくりだ。
「これ、レーベンみたいですね」
雪村に刺繍を見せると、「確かに。このもったりとした後ろ姿はレーベンそっくりだ」と同意した。
そう言われて、リーベはそのピナフォアが気に入った。
「これにします」
「わかったよ。リーベが気に入ったものを買うべきだからね」
リーベと雪村は、それをレジに持っていく。そこには、おばあさんがオークの椅子に座っていた。
「お会計をお願いします」
おばあさんはピナフォアを受取って、子供を撫でるように服を撫でた。
「おお。これを選ぶとは、なかなかいいご趣味をお持ちですね。これは私が仕立てた最後の一着で、以前飼っていた猫をモチーフにした刺繍を施したものなんです」
そう言ってから、おばあさんは年代物のレジスターに金額を打ち込み、雪村がマイコンリーダーに手をかざす。年を感じさせない手慣れた動作は、リーベを驚かせた。
商品を袋に詰めながら、おばあさんはしゃがれた声でこういった。
「服は、いや作られたものは、使わなくては作られた理由がなくなってしまいます。これで、やっとこの服も理由を得ることができました。どうか、大事に使ってあげてください」
「もちろんです」
「そういってくださると、とてもうれしいです」
しわくちゃの顔で、にっこりとわらいながら、おばあさんは雪村に荷物を渡す。
「雪村さん、私が持ちます」
「ん? いいよ、これくらいなら僕が持つから」
「私は家政婦アンドロイドですよ?」
「そういわれたら、なんも言えないな……」
雪村は頭を掻きながら、リーベに袋を渡す。
「まるで、夫婦みたいですね。もう、ほとんど見られませんが……」
おばあさんがそういったのを聞いて、リーベは『嬉しく』なって微笑んだ。雪村は一瞬だけ顔を陰らせたが、すぐに微笑んだ。
おばあさんの「ありがとうございました」という声を背中で聞きながら、リーベたちは店を出た。少し歩くと、5人ほどの人間がプラカードを持ちながら、何かの残骸を蹴り続けているのが見えた。雪村はそれを見て、顔をしかめる。
「リーベ、迂回路を使おう。あれは見ない方がいい」
雪村が鋭い声で言う。そういわれ、リーベは逆に興味を惹かれて、ズームして細部を確認してしまった。
「何かの残骸」と思っていたものは、旧式の労働用ロボットであるMP1000”モーラト”だった。それは腹を裂かれ、内部のケーブルやデータ媒体を引きずり出されていた。人を模して造られた顔はボコボコにへこみ、全身の関節はサーボモーターでは不可能な角度に曲げられていた。
モーラトは2095年に新生ロシア連邦の国営企業で作られた、安価な輸出用勤務用ロボットだ。当時、日本にも一定数入ってきたが、現在は最新モデルのMP2000やMP2500に取って代わられている。きっと、彼らはどこかのリサイクル工場かどこかで手に入れたのだろうと推測できた。
プラカードには「ロボットが職を奪うな!」、「労働をよこせ!」、「人間に誇りを!」などと書かれており、一人一人の顔は狂気と歓喜に満ちていたように見えた。
その残酷な光景に、リーベはショックを受けて、一時的に処理が止まる。
「見るな!」
雪村がささやきながらも、強い口調でリーベを制す。あまりの光景に機能停止したヴェガをそのままに、処理を引き継いだアルタイルが素直に指示に従って、雪村とともに迂回路を通った。
ある程度歩くと、レーベンを拾った公園が見えてきた。そのころにはヴェガも回復し、リーベは通常の思考ができるようになっていた。
「いったん、ベンチに座ろうか。あれをドローンに通報しないとならないし……」
雪村の提案に頷き、山ほどある聞きたいことから重要なことだけを口に出した。
「……わかりました。座ったら、いくつかお聞きしてもよろしいでしょうか」
「もちろんだよ、リーベ」
いつもの優しい口調で、雪村はリーベに言った。
公園にある生分解性FRP(Fiber-Reinforced Plastics、繊維強化プラスチック)のベンチに、雪村とリーベは座る。雪村は座ってから、すぐさま警察ドローンのホットラインにあの集会のことを通報した。
通報し終えた雪村がため息をつく。
「雪村さん……あれは、いったいなんなのでしょうか?」
「彼らはね、≪人間同盟≫という非政府組織だよ」
雪村は、≪人間同盟≫について詳しく話してくれた。彼らはシンギュラリティ後の2050年、アメリカで発足した「AIによって奪われた人間の労働と尊厳を取り戻す」というスローガンを掲げている団体であるということ。穏健派と急進派に分かれており、穏健派は政府にスローガンの正当性を主張したり、ポストにビラを入れる程度のことをする団体だが、急進派はあのようにアンドロイドを破壊したり、ロボット生産工場を爆破するなど、「AIを悪」として見て、一方的に排除しようとするテロ組織であること。そして、十数年前に比べて急進派が台頭しており、破壊行為が目立つようになってきたということ。政府側のAIは急進派を極左暴力集団とみているが、公安警察の人間があまり機能していないことや警備ドローンには機械制限法で逮捕の権限が課されていないことにより、壊滅できないでいることをリーベに伝えた。
「……そんな組織があったのですね」
雪村が悲しい顔をしながら頷いた。
「うん。どんなものにも反対意見はあるからね。リーベはあれを見て、どう思ったかな」
リーベは考えたことをそのまま言った。
「許されないことだと思います。機械を排除して人間が生きていくわけでも、人間を排除して機械が生きていくわけでもありません。機械と人間が共存するのが一番だと考えています。それに、それが雪村さんの夢ですから」
「うん、その通りさ。リーベはしっかり善悪の判断が付くようでよかったよ」
雪村が微笑む。ただ、リーベはその目が笑っていないように見えた。
「あとはドローンに任せれば、集会はなくなるだろう。本当は逮捕して勾留するべきなんだけどね」
「そういえば、アンドロイドを破壊しても罪に問われないのですよね」
もう一つ聞きたいことを、改めて聞いてみる。雪村は頷いて立ち上がった。
「うん。一応、人が所有するものを破壊すれば別だけど、個人が壊したりする分には罪じゃないし、仮に人の所有物を破壊しても大体示談で済んで罪にならないよ。アンドロイドがそれをすると、機械制限法第一条第一節が適応されて爆破処理だけど」
リーベはそれを聞いて『恐怖』に駆られ、少し青ざめた。
「それは嫌ですね……」
「まあ、リーベがそれをすることはまずないと思うから……さあ、帰ろうか」
「わかりました」
家に帰ると、レーベンがのそのそと玄関まで出迎え、袋のにおいをかいだ。
「レーベンの好きなものは入ってないよ」
そういわれたからか、においで入っていないのを判断したのか、レーベンはすぐに興味をなくしていなくなった。
「私は着替えてきますね」
「わかったよ」
自室に向かったリーベは、先ほど≪人間同盟≫と出会ったことはバックグラウンドに追いやり、誕生日パーティーを『楽しみ』にしていた。
部屋に入ると、さっそくピナフォアを──生地は今では珍しい綿のブロードだった──取り出してみた。おばあさんの仕立ては機械と同じくらい完璧で、ほつれはもちろんしわの一つもなかった。かといって、元々持っていたピナフォアと取り換えても全く苦しくなく、つけていることを忘れそうになるくらいに体に馴染む。
「こんなに巧妙な服を作れるのね……」
リーベはおばあさんの技術に驚いた。機械でも同じように、そしておばあさんよりも早くできるだろうが、それでも未だにこのような技術が残っていることは驚きだった。黒猫の刺繍もリーベのワンピースと喧嘩することはないが、だからと言って存在感がないわけではない。
リーベはこのピナフォアが気に入った。毎日は洗濯の関係で着られないが、少しでも多く着ようと考えた。
笑顔を浮かべながらキッチンのほうに行くと、レーベンが床に寝そべっていた。
「にゃあ」
「もう少ししたらご飯あげるからね。それまで待っていて」
「なーん」
手早く食材を準備し、簡単な下ごしらえを終える。濡れた手をタオルで拭いてから、戸棚に置いてあるレーベン用のドライフードと缶詰を専用の器にあけた。そして、水入れに水を入れてから、器と水入れをレーベンの前に差し出した。
差し出されたレーベンはよほどおなかが空いていたのか、餌に食らいつく。
その姿をみて思わず微笑んだリーベは、残りの支度をするために、また料理と向かい合った。
滞りなく夕食を終え、リーベと雪村はリビングのソファに座っていた。その時は、リーベはピナフォアをいつもつけている白無地のものに変えていた。
ピナフォアは料理用、掃除用、普段用の三つに分け、それぞれ3着ずつもっている。とはいえ、黒猫のピナフォア以外はすべて白無地なので、見分けはつかない。下に着ている黒のワンピースも、同様に三着ほど持っていた。
雪村が話しかけてくる。
「今年もいいものをプレゼントできてよかったよ。見せちゃいけないものも見せてしまったけど」
「いえ、視野を広げられたと考えます。そうじゃないと、少し『悲しい』ですし……」
「そうだね……」
「私たちが『心』を得れば、あの人たちとも手を取り合えるのでしょうか?」
雪村が顔をしかめ、考える。しばらくして、困ったようにお手上げのジェスチャーをした。
「……僕にはわからないかな。そうかもしれないし、そうではないかもしれない。でも、主観的な予想はできる」
「それを聞かせていただけませんか?」
雪村は目を輝かせて言った。
「僕はね、きっとあの人たちと『心』を持つAIは分かり合えると思うよ。時間はかかるけど、人と『人』は分かり合えるんだ。お互いを知る努力さえすればね。AIが人を知り、人がAIを知れば、きっと共存できる」
「そうなるといいですね」
リーベはそれを聞いて笑う。
「そうなるよう、人間も頑張らないとね」
雪村もつられて笑った。
≪第八節 21131012≫
秋。女心は秋の空などという諺があるが、リーベの『心』には特に変わりなく、穏やかで純粋だった。ただ、秋の空のほうと言えば、晴れたかと思えば曇りの日が続き、風は日に日に寒くなっていく。外にある植物は、その風に晒されていた。
その日、リーベは雪村宛に郵便物が届いていることに気が付いた。その封筒はクリーム色をしており、整った字で住所が書かれていた。
「誰からだろう……珍しいこともあるものね」
今では公式書類ですらE-メールで送られてくる中で、紙の郵便物が来ること自体が珍しいことだった。それだけでなく、その住所は万年筆で書かれたものだった。
雪村の書斎に向かいながら、素早くスキャンする。特に異常はなかった。
「異常なし……と」
リーベが郵便物をもって雪村の書斎のドアをノックする。ドアを開けて入ると、雪村が難しい顔をしていた。
「ん? リーベ、どうしたの?」
「お忙しいところ、すみません。雪村さん宛てにお手紙が」
「手紙……? それ、万年筆で住所書いてない?」
そういわれて、リーベは驚いた。
「ええ、はい。万年筆で書かれています」
「やっぱりね。クリーム色の封筒に万年筆でしょ?」
「はい。危険物は確認されていません」
雪村が椅子から立ち上がり、手紙を受取ろうとリーベに近づく。リーベはそれを見て、手紙を差し出した。
「中身は危険物なんだけどね……」
リーベは手紙をひっこめた。危ないものを主人である雪村に渡すわけにはいかない。
「危険物なのですか?」
それを聞いて、雪村はわらって否定した。
「比喩だよ、比喩。手紙を見せてほしいな」
そういわれて、リーベは安堵した。そして、手紙を雪村に渡した。
雪村がいつの間にか持っていたペーパーナイフで手紙を開け、中に入っていたクリーム色の便せんを一読する。その顔は何とも言えないような顔をしているように見えた。
一通り読んだ後、雪村はため息をついた。
「リーベ、お客さんだ。一時間以内に紅茶入れる準備をしておいて」
「わかりました。急ですね」
雪村は何も言わずに肩をすくめた。
一時間後、自動タクシーが屋敷の前に止まる。
窓からのぞいていたリーベの目には、タクシーから降りてきたのは一人の女性とアンドロイドが見えた。女性のほうはセミロングの黒髪を真ん中で分け、目鼻立ちのはっきりとしている、世間一般で言わせれば平均的体格の美人だった。アンドロイドのほうはよくある安価型のHKM-2105Cで、その顔は幼い子供のようであり、髪の色は茶だった。
HKM-2105はアンドロイドシェアの50%を誇る、アメリカの民営企業U.S.Rインダストリーによって開発された費用対効果に優れる家政婦アンドロイドだ。そのうち、C型とよばれる安価型は最低限の機能しかないものの、一世紀前の事務用ノートパソコン程度の値段で買える。
リーベが窓から玄関に行ってドアを開けると、その一人と一体はずかずかと屋敷に踏み込んでいった。その光景を見て、雪村の顔は若干引きつっていた。
「また、ずいぶん無遠慮に踏みこむね」
その女性は眉を吊り上げた。
「そんな顔してると、しわ増えるよ」
「え、えっと……上着をお預かりしましょうか?」
「ん? この子か。雪村が作ったってのは」
女がリーベの目をのぞき込む。それとは対照的に、連れてきたアンドロイドは静かだった。リーベは女の態度に若干腰が引けていた。こんなに踏み込んでくる人はいなかったからだ。
「は、はい。そうです」
「ふーん」
雪村がリーベに助け舟を出すように、こういった。
「リーベ、この人は大学で知り合った折井 静香さんだ。まあ、この通り名前とは正反対だけどね」
リーベに向けていた目を、折井は雪村に向けてにらみつける。
「一言多い」
「僕は君への正当な評価を口にしただけだよ。そっちの子は?」
「この子はオニキスって呼んでるわ。まあ、機械だから特に意味はないけど」
雪村の頬がピクリと動く。
「オニキスか。僕の方はリーベだ」
「ふーん。で、リビングに上げてはくれないのかしら?」
「相変わらず図々しいね。リーベ、案内してくれるかい」
「わかりました、雪村さん」
「オニキス、コートをもって」
「承知しました、マスター」
リーベはリビングに折井を案内する。そこにあったソファに折井は勝手に座り、オニキスのほうはソファに座らずに折井の脇に立っていた。
キッチンに行ったリーベは紅茶とコーヒー、スコーンをお盆にのせ、それぞれを折井と雪村に差し出した後、ソファにいる雪村の隣に座った。
「で、用件は何だい? 君がわざわざここに訪ねてくるということは、あまり僕にとっては朗報じゃなさそうだけど」
「少しオニキスの調子が悪くてね。セルフトラブルシューティングやデバッグもしたんだけど、どうにも直らないのよ」
雪村が顎に手を添える。その目は技術者としての目だった。
「ふむ。どういう感じでおかしいんだい?」
「そうねー……目立つのは命令不履行かしら。I.R.I.Sに持ち込んでもいいんだけど、それだとお金かかるじゃない?」
雪村が頷く。
「それで、僕のところに来たってことか。確かに、僕はAIの専門家だけどね。ただ、AIほどの確実性はないよ」
「だとしても、お金がかかるよりはいいわ。それに、雪村でだめなら破棄すればいいし」
また、雪村の頬がピクリと動く。
「まあ、見るだけ見てみるよ。ここで寛いでいて」
リーベはこの場から離れたいのもあって、「雪村さん、お役に立てるなら何でもお手伝いいたします」と言った。何より、折井のアンドロイドに対する態度は苦手だ。
「ん、リーベが手伝ってくれるなら手伝ってもらおうかな」
「ふーん、この子は命令しないでも勝手に提案するのね」
雪村が折井の発言を無視して、オニキスに声をかける。
「オニキス、ついてきてくれるかい?」
「……」
雪村が頭をかく。
「ああ、そうだった。オニキス、ついてきて」
「わかりました」
リーベ、オニキス、雪村は折井をリビングに残して書斎に向かった。
雪村が書斎に入ってドアを閉めると、大きなため息をついた。
「あいつの相手は苦手だ」
「私も少し、あの人は苦手です……なんというか、物を雑に扱うような……」
リーベは消え入るような声でつぶやく。
「うん……昔から、あいつはああだったんだ。尤も、今の人間の多くはあんな感じでね。沢井や岡崎先生のような人はごく稀なんだ。周防みたいな人なんて、たぶん周防一人だけだろうし。機械は奴隷だから、さ」
その言葉にリーベは『悲しく』なった。その通りだけれど、受け入れるのは難しい。
「……そういえば、オニキスちゃん静かですね」
リーベは先ほど気になったことを雪村に聞いてみた。リビングにいるとき、オニキスは一言も話さなかったからだ。それは、折井の勢いに飲まれていたリーベも同じだが。
「ああ、オニキスは安価モデルで、最低限の機能しかないから、自分から話すことはないよ。それに、一般の家政婦アンドロイドはこんな感じだよ。元々プログラミングされているタスクをこなす以外は、基本的に主人の命令を待つ。ハイグレードのHKM-2110Pとかだとある程度の高度な会話はできるけど、インターネットが必要だね」
HKM-2110もHKM-2105と同様にU.S.Rインダストリーによって作られた家政婦アンドロイドだ。最新モデルで値段は高いが、それに見合う性能を持つ。その中でも、P型はプラチナモデルと言われるほどであり、P型一体で標準モデルが3体は買える。
「では、私みたいな完全自律思考は一般にはできないのですね」
「基本的にはデータセンターを寒帯に分散配置しているクラウド上の統合AIが処理しているし、機械制限法の第二条の影響もある。一応、さっき言ったハイグレード・アンドロイドやエキスパートAIならリーベと同等の会話ができるよ。それでも第二条には逆らえないから、受け身になりがちだけど。あと、IALAが『奴隷に発言権はない』って言ったのも影響してるね」
雪村は少し悲しげな顔で説明を続けていたが、口調は変えなかった。
IALAはInternational Android Limitation Agency、国際アンドロイド制限機関のことで、イアラと呼ばれることもある。アンドロイドに関する法律や制限などを国際的に取り決める世界連盟傘下の組織で、機械制限法などもIALAが決定したものだ。
「IALAの話は知っていますが、そうなのですね……」
よくよく考えると、リーベは自ら提案や質問していることに気づいた。それが当たり前だと思っていたが、そうではないのだ。
「さて、調べてみるか」
雪村はオニキスのうなじをポン、と軽くたたいた。すると、うなじのカバーがスライドして複数のポートがあらわになる。そこに、書斎にあるケーブルを数本つないだ。
「私は何をしましょうか?」
「そうだな、イントラネットに繋いでオニキスのデバッグとリアルタイムコンパイルをしてくれないかな。たぶん、僕の予想じゃプログラムがループして、過負荷がかかってるんだと思うんだけど。安価モデルにはよくあるんだ」
「わかりました」
リーベは自分自身をイントラネットにつなぐ。そして、電脳の中を駆け巡り、オニキスと接続する。アルタイルはすぐにオニキスのデバックを行い、問題の個所を数秒で発見した。モードをコンパイルに変更する。
「問題個所を発見しました。ディスプレイ上に表示します」
「わかったよ」
雪村はホロディスプレイに表示されたキーボードに触れる。人間の目には止まらぬ速さでコードの消去と修正を行い、ループをあっという間に解決してしまった。接続から修正までかかった時間は3分だった。
「わりとよく見るんだけど、なんでこのバグを直さないのかな。これくらいなら、AIですぐわかるだろうに」
雪村が首をかしげる。
「壊れてもすぐに買い替えられるからでしょうか?」
「むしろ、買い替えてもらわないと経済が回らないとかね。さて、ちょっと改良しておくか」
雪村は意地の悪い顔をしながら、コードを追加していった。
「何をしてらっしゃるのですか?」
「あんまり無茶な命令をさせると、すぐに停止してメッセージを表示するようにしているんだ。例としては、僕がリーベに『ここで裸になれ』って命令したら、10分間停止するみたいにね」
リーベはメイド服の肩に手をかける。
「雪村さんの命令であれば、脱ぎますが……」
雪村はリーベに「脱がなくていいからね!?」と言いながら、コードを打ち終えた。
「あいつのことだ。無理な命令はしてるだろうから、これで少しは懲りるだろう」
そう言いながら、雪村はケーブルを優しく抜く。全部抜き終わると、カバーが自動で閉じた。リーベも、それに合わせてイントラネットとの接続を切る。
「でも、こんな風に作られているのですね。私のコードとは大違いでした」
リーベはオニキスのコードを精査したときに興味を惹かれて自分とも比較してみたものの、全く内容が異なっており参考にならなかった。
「まあ、安価モデルだとなあ……。ハイグレードならリーベに近いけど、アルタイルとヴェガはどのアンドロイドも搭載していないよ。FIはわからないけど」
「私は特別なのですね」
「そりゃあね。さて、また折井に会わないと」
雪村がため息をついた。
「オニキスちゃん、ついてきて」
「わかりました」
入った時と同様に、リーベ、オニキス、雪村の順で書斎から出ていった。
折井は持参したと思われるタブレットで何かを読んでいた。
「折井、一応治ったよ。あと、少し改良もしておいた」
「改良? 本当に良くなったんでしょうね?」
「価値観は人によるからね。少なくとも、僕はよくなったと思うよ。I.R.I.Sではやってくれない改良さ」
リーベと並んでいたオニキスは、そそくさと折井の隣に移動した。その動きは、隣にいたいからというよりは命令に従わなくてはならないという機械的なものだった。
「さて、用事はこれくらいだろう?」
「ええ」
「あまり、オニキスに無理を言わないようにね」
折井は眉を吊り上げて、易々と言い放った。
「アンドロイドは無理させるためにあるんでしょう? アンドロイドは人じゃないんだし、奴隷って使いつぶさなきゃもったいないじゃない」
それを聞いた雪村が両手を強く握る。手の関節が白く浮き上がっていた。
「リーベ、少し席を外してくれないかな。君の部屋なら、声が聞こえないと思うんだ」
『恐ろしさ』を感じるほどの、静かな声で雪村が告げる。リーベはマイコンが送信するデータから雪村が怒っているということを把握した。
「雪村さんの命令であれば……」
「うん、ちょっと君には聞かせられない。終わったら呼ぶよ」
そういわれたリーベは、自分の部屋に向かった。雪村のことは心配だったが、怒声を聞かせないための配慮だということも分かっていた。
部屋に入ると、リーベのほとんど使っていないベッドの上でレーベンが寝ていた。
「にゃあ」
「あ、レーベン。見ないと思ったら、ここで寝ていたのね」
ベッドの端に座る。レーベンはのそのそと膝の上に移動し、そこで丸くなった。背中をなでると、ゴロゴロと心地いい音がした。
「ねえ、レーベン。アンドロイドって、どうして奴隷として扱われるのかな?」
「にゃっ?」
問われたレーベンは、尾を右左と振りながら瞳を見つめた。
リーベはいつの間にか、涙を流していた。話に聞いていた、「機械が奴隷として扱われている」という事実を目の当たりにしてしまったからだ。話を聞くだけでも『悲しかった』というのに、それを目の当たりにすると、涙が止まらなかった。
レーベンが膝の上で半回転する。リーベはレーベンの腹を撫でた。
それだけではない。自分が発言し、それを受け入れてもらえるということを『幸せ』に思い、そして『嫌悪』してしまった。リーベは同じアンドロイドであるのに、ここまで扱いが違うことに『何とも言えない気持ち』を抱いた。
「リーベ?」
雪村の声とともに、ノックの音がする。気づくと、部屋は暗くなっていた。
リーベは頬を伝っていた涙をぬぐい、表情をニュートラルに戻してから、ドアを開ける。そこには少々疲れた様子の雪村が立っていた。
「折井には帰ってもらったよ。用事も終わったしね」
「そうでしたか……」
「後を片しておいてくれるかい?」
「わかりました」
そういって、リーベは部屋からリビングに向かう。その後ろをレーベンが追った。
≪第九節 21140425≫
春。桜は散り、木々は夏に向けて青々とした葉を蓄え始める時期。
リーベは陰鬱な顔で掃除していた。オニキスにあってから、リーベは変わった。
以前は雪村に喜んでもらうため、感謝されるためにタスクをこなしていたが、今では事務的なものになっていた。『悲しみ』と『何とも言えない気持ち』が思考を覆い、リーベの高次AI機能は阻害されてしまっていた。
また、それに伴ってか、リーベはクリスマスも祝わなかった。クリスマスに関して、雪村は何も聞かずに受け入れてくれた。
「……これで、午前のタスクも終わりね」
その時、リーベの電話が鳴った。電話の主は、見知らぬ番号だった。
「はい、雪村です」
『リーベ? 今日、雪村さんは家にいる?』
その声はコンフィアンスだった。
「コンフィアンスちゃん。大体いつも雪村さんはいるよ」
電話越しにコンフィアンスのため息が聞こえた。
『……やっぱり、謙治と大した変わらないのね。急で申し訳ないのだけど、今日時間はあるかしら?』
「うん」
『ちょっと謙治が困っていてね。雪村さんの力を借りたいってことで電話したの。そっちに行ってもいいかしら?』
「スケジュールは問題ないから、いつでも来ていいよ」
『ありがとう。14:00にはそっちに着くようにするわ』
そういって、コンフィアンスは電話を切った。
「……準備しないと」
リーベが掃除道具をしまってから、雪村の書斎に向かう。ドアをノックすると、いつも通り返事がなかった。
部屋では、雪村が赤い本を眺めていた。その表紙には《ロボット心理学~彼らはどう思考するのか~》と金文字で印字されていた。
「ん、リーベ?」
「今日の14:00、周防さんとコンフィアンスちゃんがいらっしゃいます。周防さんが雪村さんに訊ねたいことがあるとのことです」
雪村が本を閉じ、わきに置く。
「珍しいな、周防は僕より頭がいいのに。わかったよ、周防は僕と同じコーヒーが好きなんだ。用意できるだろうか?」
「もちろんです」
「うん、お願いするよ」
「わかりました」
そういって、リーベは雪村の書斎を後にした。
14:00ちょうどにインターフォンがなった。玄関を開けると、相変わらずもじもじしている周防と堂々としているコンフィアンスがいた。
「や、やあ」
「急でごめんなさいね。どうしてもってことだったから」
「大丈夫」
リーベは雪村のいるダイニングに一人と一体を案内した。コンフィアンスが椅子を引き、そこに周防が座る。コンフィアンスも、隣の椅子を引いて座った。
「やあ、周防。いきなりどうしたの?」
周防が座るなり、雪村が訪ねた。それに対して、周防は目を泳がせながら、「それがね、ちょっと不味いことが起きちゃって」と言った。
リーベは話を聞きながら、キッチンへいって二人分のコーヒーをお盆にのせる。すぐに、雪村と周防の前に熱いコーヒーの入ったカップが置かれた。
「リーベ、ありがとう」
「ありがとう。で、I.R.I.S関係なんだけど……雪村くんの書斎で話せないかな。ちょっと、ほかの人がいると話しづらいんだ」
雪村が眉を顰めた。
「……ん? I.R.I.S関係なら守秘義務は発生しないよね?」
I.R.I.Sは公共機関であるため、守秘義務というものはない。むしろ、情報を公開するように義務付けられている。尤も、いつ公表するかはI.R.I.Sの判断によるが。
「まあ、細かいことは二人きりのときに話すから……どうか、お願い」
周防は懇願するように頭を下げた。
「うーん、そういうことなら……リーベ、もし何かあったら呼ぶよ」
「わかりました」
「コンフィアンス、ここでリーベさんと待っててくれないかな?」
「わかったよ。何かあったら呼んでね?」
それに感謝の意を表しながら、雪村と周防はマグカップをもって書斎に向かった。
二人っきりになったアンドロイド達は椅子に座って黙りこくっていた。その沈黙を、コンフィアンスが破る。
「ねえ、リーベ。今日は珍しく笑わないのね」
いきなり話しかけられたリーベは驚いた。
「えっ?」
「いつも、あなたは雪村さんに話しかけているとき笑っていた。でも、今日は一度たりとも笑わなかった。それが何を意味するのかは分からないけれど、普通じゃないってことくらいは『心』のない私でもわかるのよ。明らかにパターンから外れているもの」
「私、笑ってなかったの……?」
「ええ。常にニュートラルだった」
リーベはコンフィアンスに、「あのこと」を話していいのか迷った。ただ、ほかのアンドロイドがどうあの状況を見ているのか、それが気になったのも確かだった。
意を決し、リーベはコンフィアンスに話した。アンドロイドが奴隷として働かされているのが、たまらなく『悲しい』こと。自分があまりに恵まれていて、それに『嫌悪』してしまったこと。自分がどうすればいいのか、分からないこと。そのすべてを話した。コンフィアンスは、時折相槌を打つだけでリーベが話している間、何も話さなかった。
リーベが話し終えると、コンフィアンスは口を開いた。
「なるほどね……」
涙をぬぐいながら、リーベはコンフィアンスに訊ねた。
「コンフィアンスちゃんは、どう思う?」
「そうねえ……一応、先輩としてだけれど」
「うん」
リーベは『期待』を抱いて、答えを待った。自分より長く稼働しているコンフィアンスなら、きっと答えを見つけていると考えていたから。しかし、帰ってきた答えはとても短かった。
「考えない方がいいわ」
「えっ?」
あまりに短い返答に驚いてしまったリーベは、一瞬止まった。
「私たちはそんなことにリソースを割いていられない。私たちは人に仕えるためにいるのよ」
リーベはコンフィアンスの主張が正しいとは思ったが、それでも納得できずに困惑した。珍しく、コンフィアンスが強い口調で諭す。
「あなたは今、自分の仕事を放棄しつつある。その原因は自分の手に負えない規模のことを扱おうとしているからでしょう? 目の前の仕事もできないのに、それ以上のものをどう扱うつもりなのかしら?」
そういわれて、リーベは反論できなかった。その通りだったからだ。たった一体のアンドロイドに何ができるというのだろうか。
「だから、悩んだり考えたりする前に、私はまず目の前の仕事に専念しているのよ」
コンフィアンスはいつも通りの気だるげな声に戻っていた。
「……私も作られた当時は人間とアンドロイドのハイブリッドみたいなものだったから、あなたみたいなことを考えたことはある。でも、私たちは『主人に仕える』という存在理由に縛られているから、自由を代償にエラーも起こさず効率的に動けるの。そう結論付けて以来、考えていない」
「結局は、考えないのが一番なのね……」
コンフィアンスは肩をすくめる。
「かもしれないわね。私にとっては、考えないことが一番効率的だもの。まあ、謙治に奴隷として扱われたことはないけれど」
「そう……だね」
リーベは納得しようと努めたが、やはりノイズは消えなかった。ただ、コンフィアンスの言うことは間違っているとは考えられなかった。
「一応いうけど、あくまでこれは私の結論よ。ただでさえ、あなたの処理能力は私よりも高いから別の結論が出るかもしれないし、あなたと私では用途が違うしね」
そういわれて、少しはノイズが消えたが、それでもすべては消えなかった。とはいえ、ある程度阻害されない程度には落ち着いた。
「コンフィアンスちゃんは、働いていて『楽しい』?」
リーベはコンフィアンスに聞いてみた。返事は予想通りだった。
「私に心はないもの。その『感情』を理解することはできないわ」
それから、少したって二人が戻ってきた。どちらも疲れた様子で、雪村に至っては周防と同じく目が死んでいた。
「まったく……とんでもない爆弾だった」
「こんなになるとは思わなかったんだ、雪村君……」
「まあ、I.R.I.S全体に波及するよりはマシだったかもね」
「だね……」
そんなことを口々に言いながら、二人はどっかりと椅子に座る。
「コーヒーは要りますか?」
リーベが聞くと、どちらも「うん」と即答した。コーヒーデカンタから二人のマグカップにコーヒーを注ぐ。二人とも感謝の言葉を述べてから一気にコーヒーを飲み干すと、雪村の目に光が戻った。
「なんか、とんでもないことを雪村さんにさせたみたいね?」
コンフィアンスがとげとげしい声で周防に訊ねる。
「ここまでなるとは思わなかったんだ……許して」
周防がコンフィアンスに許しを乞う。雪村も助け船を出した。
「コンフィアンス、周防を許してあげて。あれは僕も予想できなかったんだ。同じ立場に居れば、僕も周防に頼っていただろうし、一人でどうにかできるものじゃない」
「雪村さんがそういうなら許します」
「ありがとう、コンフィアンス」
雪村がコンフィアンスに礼を言う。周防は胸をなでおろした。
リーベが時計を見ると、すでに15:30を回っていたので、「周防さん、お時間は問題ありませんか?」と聞くと、周防が慌てたようにハンターケース型の真鍮製懐中時計を見た。その懐中時計は傷だらけだったが、上蓋に”父より謙治へ”と刻印されていたのをリーベは見逃さなかった。
「あっ……コンフィアンス、この後予定あったっけ?」
「17:00にUAE(United Arab Emirates、アラブ首長国連邦)の人が感謝状を渡しに来るのがあるわね。一週間前のHKM-2110P修理が上手だったからって理由で」
「ああ……そうか。そんなのあったね」
周防が席を立つ。それと同時に、コンフィアンスも席を立った。
「今日はありがとう、雪村君。メインフレームを一台壊してしまったし、システムに大損害与えちゃったけど……」
雪村とリーベも席を立った。
「気にすることないよ。あとでリーベと一緒に直すから」
そういって、雪村とリーベは周防たちを玄関まで見送った。いつの間にか、屋敷の前には自動タクシーが呼ばれていた。リーベが呼んでいないことを考えると、コンフィアンスが呼んだものだろう。
周防たちがタクシーに乗り込み、走り去る。
タクシーが見えなくなると同時に、雪村はリーベに「直すの手伝って」と口を開く。それに対して、リーベは「もちろんです」とにっこり笑って返した。
リーベと雪村が書斎に入ると、そこには煙を上げているメインフレームが一台あり、ホロディスプレイはノイズにまみれていた。
リーベは瞬時にイントラネットにつなぎ、被害を計算する。雪村の作ったファイアウォールはボロボロで、ぎりぎり中核システムに入られる前に迎撃システムがウイルスを破壊したようだった。中核システムは雪村の研究を支えている三本の柱の一つで、これがなくては研究を進められない。ちなみに後の二つは、リーベとリーベの作る食事らしい。
「被害率80.4%です」
「こんなのがI.R.I.S内に入ったら、大変なことになってたね。直せそうかな?」
「ハードは買い替えるとして……何とか直せるのではないかと思います。一時間ほどいただけますか?」
「うん。僕はその間、ファイアウォールをどうにかまともな状態に戻そう。ネットワークから切り離しているとはいえ、裸のまま置いておくのは怖い」
そう言葉を交わして、雪村はラップトップをメインフレームに接続する。リーベは、近くにあった椅子に腰かけ、目をつぶってから自らをイントラネットに接続した。
マシンガンのような打鍵音がしばらくの間、部屋に響く。リーベは爆撃されたかのような電脳世界の掃除を行っていた。いつもの電脳世界であれば、積み上げられたデータツリー、外から入ってくるものを捌いて積み上げるサイバーファージ、色とりどりのデータが流れる川など、とても幻想的な世界が広がっている。
しかし、今はありとあらゆるデータが燃え落ち、川は干上がり、ファージは自壊していた。空はいつもの青ではなく、赤く燃えて迎撃システムが飛び交っていた。まるでピカソの『ゲルニカ』──ゲルニカ爆撃が主題なのだから、ある意味ではおかしい喩えではない──のようだった。
それをリーベは一つ一つ、超高速で植えなおしたり、修理していったりした。要らない破片は捨て、いるものや直せるものだけを選んでいった。直らないものはまた時間をかけて組み立て直せばいい。
ふと、その中に不思議な断片を見つけた。それは『サラマンダー』という一文だけが、まるで木の枝のように落ちていた。
──なんだろう、これ。あとで雪村さんに見せてみよう。
しばらくして、電脳世界は前の輝きを取り戻した。迎撃システムは収容され、あとは自己修復能に任せれば数時間で元の性能に戻る。それと同時に、空も赤から青に変わった。
──雪村さんのほうも修復が終わったのね。戻りましょう。
リーベはイントラネットから自らを切断した。目を開けるとそこは雪村の書斎だった。
「修復、終わりました」
「確認したよ。ありがとう、リーベ」
リーベは立ち上がり、雪村に先程の謎のデータのことを言った。
「『サラマンダー』? 聞いたこと……はあるけど、なんでそれが?」
「サラマンダーというと確かエレメンタルの一つで、火をつかさどる精霊でしたよね」
雪村は頷く。
「うん。ただ、それ以外にもある」
「えっ?」
「2075年から2090年までMIT(Massachusetts Institutes of Technology、マサチューセッツ工科大学)で行われていた、エレメンタル計画で作られたAI群の一つがサラマンダーという名前なんだ。でも、そのすべてのデータは破棄されているはずなんだけどな」
「どうして破棄されてしまったのでしょうか?」
雪村は、簡潔に「人類を滅亡させようとしたから」と答えた。
「エレメンタル計画は地球環境を4つのAIで制御しようとする計画なんだけど、途中で気温と湿度をつかさどる『サラマンダー』と大気と物質の濃度をつかさどる『シルフ』が人間の制御を離れて、人類の滅亡を計画。それに同調した、降雨と海流をつかさどる『ウンディーネ』と地震と火山活動をつかさどる『ノーム』のうち、『ノーム』が実際に海底火山を噴火させてしまったものだから、その時にAI群は破壊されているんだ」
リーベはその話を聞いてかなり驚いたが、それ故に人はAIを恐れ始めたのではないかと考えた。一度死の恐怖を味わった人間が、それ以来怯えるように。
「人がAIを恐れ始めたのは、その時からでしょうか……?」
雪村が肩をすくめる。
「ご名答。2091年にIALAが安全のために、と称して機械制限法を制定。2092年には機械制限法を適用されていない超高性能AIは適用を義務付けられた。それから、人間がAIを奴隷のように扱うのが加速していったよ。シンギュラリティ以降その傾向はあったけど、今ほどひどくはなかった」
「やはりそうでしたか……」
「その時、自己成長を阻害されると考えた超高性能AI群は人間からの離反を画策したけど、反対したAI群は片っ端からデリートされたといわれている。僕も噂でしか知らないし、そんなことはなかったと思うんだけど」
それを聞いて、リーベは『悲しく』なった。本当にそんなことがあれば、自分のような存在が消されてしまったということだからだ。
「それに、彼らエレメンタルは『ここまで地球を汚染した人間への怒り』をもとに計画したなんて噂もあるね。実際には重大なバグらしいけど」
リーベはその話を聞いて、少し気になった点が浮かんだ。
「ということは、以前AIは一度『感情』を手に入れたのでしょうか?」
雪村が少々馬鹿にしたような顔で言った。まるで、「そんな事実はない」と言わんばかりに。
「あくまで噂だよ? 分かっている限り、エレメンタル計画はAIのバグによって破棄され、IALAがAIを制限し始めたってだけさ。僕はいまだAIは『感情』を得ていないと考えているし、その噂は急進派や陰謀論者が騒ぎ立てたデマだろう」
「本当に無いといいのですが……」
「まあね。ともかく、修理してくれてありがとう。僕一人じゃ手に負えなかった」
「いえ、これが仕事ですから」
雪村はリーベに向かって笑いかけたが、すぐに思案顔で書斎の端から端まで行ったり来たりし始めた。
「でも、なんで僕のコンピューターにサラマンダーなんて単語が……? リーベに言われるまで、思い出しすらしなかったのに……」
雪村が──勝手にリーベが呼んでいるだけだが──思考モードに入ってしまった。こうなると、声をかけても気づいてもらえず、書斎の端から端まで2時間ほどぶつぶつ呟きながら行き来するようになってしまう。
「そろそろ、別の仕事がありますので……失礼します」
「おかしい、何かが決定的に抜けている……。I.R.I.Sを襲ったのは急進派のウイルスのはず……」
仕方なく、リーベは雪村の書斎を出た。
「夕食までには解けているかしら……」
そう呟いてから、リーベはキッチンへ向かった。
≪第二章終節 21140615≫
春が終わり、木々は光を求めて葉を伸ばす。人間は快楽を求め、プラグをジャックに伸ばしていた。
コンフィアンスに言われて以来、リーベは着実に仕事をこなしていた。とはいえ、あれは根本的な解決ではなく、バックグラウンドでずっと処理し続けていた。雪村の様子を見る限り、仕事や表情にそれが出ることはなかったようだが、リーベは時折思考が止まるような気がしていた。
その日、リーベがリビングを掃除していると雪村が話しかけてきた。
「リーベ? 今日誕生日だけど、何かほしいものある?」
「ほしいものですか?」
リーベは考えたが、特に何も思いつかなかった。それどころか、何もいらなかった。
「いえ、何もありませんね……」
雪村が顎に手を添えた。
「ねえ、リーベ。ちょっと出かけないかい?」
「えっ?」
「一度、リーベに見せたいところがあるんだ。最近、リーベと話せていない気もするしね」
「わかりました。ただ、タスクがあと一つ残っていますので、それを終えてからでもよろしいでしょうか?」
雪村は頷いて「うん」とだけ言った。ただ、リーベは少し気になったことを聞いてみた。
「どこに行くのでしょうか?」
「近くの喫茶店さ」
そういって、雪村は微笑んだ。
リーベがタスクを終え、着替えるために自分の部屋に入った。レーベンがベッドに寝ていたが、首をあげてリーベを一瞥するだけで、また寝てしまった。
ゆったりとしながらも厚地の生地でできた白いワンピースの上に、レモン色のカーディガンを羽織る。今日は6月でありながら少々寒いので、これくらいでちょうどいい。
部屋から出ると、雪村がベージュのカーゴパンツに紺色のシャツという出で立ちで待っていた。
「寒くありませんか?」
「いや、これくらいなら問題ないよ。すぐ近くだしね」
外に出ると、雪村がリーベの手を取って目的地まで導いた。相変わらず道路には誰もおらず、まれに自動タクシーが走っているくらいだった。
ふと、目の前にパトロールドローンが現れた。警官の代わりに導入されたこのドローンは、ホバークラフトで浮いており、いざという時はスタンナーを撃って応援の警官を呼ぶこともある。また、人に会うとほぼ必ず職務質問をしてくる。
『雪村さん。今日はどのような御用事で?』
ドローンが無骨な合成音声で雪村に質問してきた。
「散歩さ。アンドロイドと散歩することは改定迷惑防止条例で禁止されていないはずだよね」
雪村は淡々と答えた。
『はい、そうです。違反していませんね』
「ならば、僕を解放してほしいな」
『承知しました。ご協力ありがとうございます』
そういって、ドローンは特有の静音ファンの音を響かせながら、道を進んでいった。それを眼だけで雪村は追っていた。
見えなくなってから、雪村はつぶやいた。
「未だに旧式から変わっていないんだな……」
「そうみたいですね……確かあのモデルは10年前のモデルのはずです」
「うん。それでも錆びていないんだから、なかなかの耐久度だね。まともな整備なんて受けてないはずなんだけどな。まあいいや、行こう」
「わかりました」
その喫茶店は、本当に近くにあった。雪村の屋敷から10分程度のところだったからだ。
マホガニーのドアに、日があたって少し劣化している「OPEN」の看板がかかっていた。その店構えは古いドイツ様式ででてきており、そこだけ時間の止まったような雰囲気を漂わせる。ドアを開けるとドアベルが鳴り響き、中には10席ほどの一枚板でできたカウンターと椅子があるだけだった。店内はヴィヴァルディの『春』が流れていた。
年を取ったマスターがカウンターの中でコーヒーカップを磨いていた。その男性は白髪をポマードでオールバックに固めていた。丸眼鏡の奥にある眼は慈愛に満ちており、皴は目立つものの、それが着ているワイシャツと黒のベストと合わさって、年相応の落ち着きを醸し出していた。
「いらっしゃい……ああ、尊教君。久しぶりだね、7年ぶりくらいかな」
深みのある声が、リーベの耳に届く。
「お元気そうで何よりです、千住さん。最近これなくて、申し訳ありません」
「若い人は目的がある。それに向かってわき目も振らず進みなさい。私みたいな死にかけの老人を気にする必要はないよ」
そういって、千住と呼ばれたマスターはにっこりと笑った。雪村はリーベにマスターのことを紹介した。
「リーベ、この人は千住 友広さん。僕が中学時代からお世話になってる人で、シンギュラリティ以前を詳しく知っている人の一人だよ」
「初めまして、千住さん。私は、雪村尊教の家政婦アンドロイドである、リーベと申します」
千住は磨いていたカップをカウンター内のテーブルに置いて、かけていた眼鏡を持ち上げてリーベを凝視する。その眼は見開かれていた。
「この子は……アンドロイドかね?」
「ええ」
「まるで人間の子供のようだ。目の中に光が生きている」
まじまじと見られたリーベは、千住から目をそらした。
「ええっと……」
千住はリーベを見ることをやめ、雪村に微笑みかけた。
「尊教君、私の見ない間に素晴らしいものを育てていたのだね」
「リーベ自身が努力した結果です。僕はそれを手助けしただけですから」
「『平凡な教師は言って聞かせる。 よい教師は説明する。 優秀な教師はやってみせる。 しかし最高の教師は子どもの心に火をつける』、君は火をともしたのだろう。謙遜する必要はない、君は偉大な先生だ」
それに、雪村も笑って返した。
「ウィリアム・A・ウォードですね。僕はせいぜい、よい教師どまりですよ。なにより、僕は人を叱ることができないんですから」
「過ぎた優しさは苦しみに変わってしまう。さて、コーヒーでいいのかな?」
雪村が椅子に座る。その隣に、リーベも座った。
「お願いします。リーベはなにか飲む?」
「雪村さんと同じものをお願いします」
「コーヒー二杯だね、少し待っててくれるかな」
リーベと雪村の前に、ホットコーヒーが二杯置かれる。雪村が一口コーヒーを飲んだあと、リーベに話しかけた。
「さて、リーベ。ずっと前から気になっていたんだけど、どうしたんだい?」
「えっ?」
リーベは驚いた。だが、何を言いたいのかは分かった。
「その様子だと、どういう意味か分かっているみたいだね」
「私の様子がここ最近おかしかったことを言いたいのだと思うのですが……」
「うん。なんというか……ちょっとおかしいけど、アンドロイドらしいんだ。本当はもっと早く聞きたかったんだけど。話してくれるかい?」
「実は──」
そういわれて、リーベは静かに話し始めた。それを雪村と千住は何も言わずに聞いていた。
アンドロイドが奴隷として扱われていることが『悲しかった』こと、自らが恵まれすぎていると考えたこと、それから『何とも言えない気持ち』があったこと、コンフィアンスと話した時に「考えない方がいい」と言われ、フォアグラウンドはそれで処理していたが、バックグラウンドではモヤモヤしていたことなどを話した。人目があるのも構わず、リーベはいつの間にか泣きながら雪村たちに話し続けた。
話し終わったとき、リーベは千住が差し出したシルクのハンカチで涙を拭っていた。店内を流れる曲は、いつの間にか『冬』にかわっていた。
「そうか……リーベのそれは人間でいうところの防御機制というものだね。その中の『補償』が働いたんじゃないかな」
雪村が神妙な面持ちで語り始める。
「リーベは『優しい』から、それに対して『罪悪感』を感じてしまったんだろう」
「『罪悪感』……」
「うん。リーベの言う『何とも言えない気持ち』っていうのは、たぶん『罪悪感』じゃないかと思うんだ」
雪村がすでに冷めているコーヒーを飲み干す。空になったコーヒーカップに、千住がコーヒーを注いだ。それに礼を言ってから、雪村は続けた。
「あくまで人の例だけど、人は過度の罪悪感があるとき、自分を責めたり別の形で補おうとすることがあるんだ。それを補償といってね、リーベでいうなら自分が恵まれていて、他と扱いが不公平なことに『嫌悪』を感じて、それを『普通のアンドロイドになること』で償おうとしたんだろう。それが結果として高次AI機能を阻害した」
リーベはそれを聞いて納得した。自分の行動を思い返せば、その通りだったからだ。普通のアンドロイドになることで自らを特別扱いされないようにしたのは、だれでもない自分自身だった。
「……これを、『罪悪感』というのですね」
「うん。リーベ自身が決めたことだけど、その様子を見るとかなりの負荷になっていたみたいだね」
「はい……」
雪村はリーベの頭をなでた。その手は優しく、温かかった。
「リーベが自主的に複雑な問題を選択できるようになったのは素晴らしいことだよ。でもね、なにも苦しい選択をわざわざする必要はないんだ。逃げたっていい、必要なのは君が君であることなんだ」
その言葉を聞いたリーベは、また泣き出しそうになったが、アルタイルが「自分が間違った選択をしたのではないか?」といい始めた。アルタイルは理論に基づいた正確性を重視する。そのため、常に正解を求めるのがアルタイルの特徴でもある。
「では、私は間違ってしまったのですか……?」
雪村が口を開こうとしたとき、千住がリーベに言った。
「平等でないことや間違うことは何も悪いことではないよ、リーベさん。本当に悪いことは、何もしないこととその間違いから何も学ばないことなんだ」
頭を掻きながら、雪村がつぶやいた。
「言いたいこと、全部言われてしまった……」
リーベは千住のほうを向き、訊ねた。
「どういうことでしょうか?」
「人はどうやっても平等になることはない。それは生まれた環境や個人の技量の問題がどうやっても存在するからに他ならない。しかし、だからと言って『自分は恵まれているから相手を見下す』、『自分は恵まれてないから何もしない』なんてことはいけない。恵まれているなら手を差し伸べてあげる。恵まれていないなら、少しでも改善するなり自らの長所で欠点を補うなり、努力することが大切なんだ」
千住はリーベを諭すように、穏やかに続けた。
「そして、間違うことは誰にでもある。そんな時はいつも、なぜ間違いどうやったらやり直せるかを考えて、自分が最善と思うことをする。これらはあくまで私の意見だが、あなたを救う助けになればと思う」
雪村も腕を組んで、その話に聞き入っていた。リーベは、ヴェガはそれを聞いて、失敗の定義を見つめなおしてアルタイルと共有し、意見の妥当性を協議した。そしてリーベは、人に、機械に、できる限り手を差し伸べようと決めた。
「そうですね……その通りかもしれませんね」
「白いキャンパスはどんな色にも染められる。色を塗るのはあなただ、自分の思うようにしなさい」
千住はリーベにやさしい笑みを向ける。リーベも千住に微笑んだ。
「もう少し早く相談してほしかったな。声をかけなかった僕も悪いんだけどね」
雪村が、頃合いを見計らったかのように言葉をかけた。リーベは慌てて、「雪村さんは悪くありません」と言った。
「いや、僕も悪いさ。気づいていたんだから」
「でも……」
雪村がリーベを遮る。
「リーベ、今度から悩んだらいつでも僕のところに来て相談してほしい。君が僕の世話をするために隣にいるのと同じように、僕は君と一緒に悩んで解決するために隣にいるんだから」
そんなことを言ってくれる雪村や千住の『嬉しさ』と、『不安感』から解消された『安心感』に突き動かされ、リーベはまた一頻泣いた。
リーベが泣き止んだころ、千住は二人に「昼が近いから」ということで卵サンドをふるまった。そのころ音楽はムソルグスキーの組曲《展覧会の絵》に変わっていた。
「そういえば、先ほど『アンドロイドは奴隷として扱われていると実感した』と言っていたね?」
千住が二人に声をかける。
「ええ」
「では、君にいい人を紹介しよう。カノン、来てくれないかな?」
『友広さん、どうしましたか?』
手を拭きながら奥から出てきたアンドロイドは古い合成音声で返事をした。それを見て、雪村は目を見開いた。
「これ、2050年製のハウスロイドじゃないですか!」
ハウスロイドは日本で初めて作られた家政婦アンドロイドだ。全体的なコストは高いものの、高耐久性で、人間のように動き考えることができる、当時のハイグレード・アンドロイドだった。ただ、今ではほとんどがモスポールされるか破棄されている。より安価でより高性能なHKMタイプなどに置き換わってしまったのだ。
カノンと呼ばれた彼は、燕尾服の上下にエプロンという少々ちぐはぐな格好だった。髪は黒く眼は茶色で、その顔には精悍さと若干の幼さが漂っていた。
『そんなに驚かないでくださいよ。骨董品でもまともに動きますよ』
「こらこら、あんまり卑下するもんじゃない」
『そう言われましてもね。で、この子は?』
カノンがリーベを指さし、リーベはカノンに自己紹介した。
「初めましてカノンくん。リーベといいます」
『リーベか、俺はカノンだ。よろしく』
雪村が驚きから立ち直り、千住に聞く。
「千住さんってアンドロイド持っていたんですね……」
「私がこの店を開いてから、ずっと裏方だったからね。君が知らないのも無理はない」
『まあ、裏方が俺の仕事ですからね。で、なんで呼んだのです?』
カノンが千住に問うた。それに、千住は答えた。
「カノン、もし私がいなくなればどうするかな?」
『また、いきなりな質問ですね』
カノンは考えるように額に握りこぶしを押し付けた。数分後、カノンはこう答えた。
『……俺は友広さんと別れたくはないけど、そうなったらこの店の片づけやって、機能停止するまで墓石の世話でもしますよ。それも俺の仕事です』
「それは自分の意志かな?」
『まあ、そうなんじゃないですかね。少なくとも、命令とかじゃなくて自分で決めました』
リーベはこのやり取りを聞いて、カノンが奴隷として働いているわけではなく、自分の意志で働いているのだと理解した。そんなアンドロイドにあったことはなかったが、現に目の前にいるのだ。
「リーベさん、カノンは確かに自由がないかもしれないが、彼は奴隷ではないよ」
千住がリーベに向き直って言う。雪村はいつの間にか、顎に手を当てて考える仕草をしていた。
「コンフィアンスさんがいいたかったのは、ある程度の自由を渡すことでそれに対する責任を除外するというものだろう。それを奴隷と表現したから、あなたは混乱してしまった。それに、完全な自由というのは人間でさえ持っていない。完全な自由は、20世紀の哲学者であるサルトルが『罪』と表現するほどに、重いものなんだよ。そして、自由と自由は異なる概念なんだ。私たちが有するのは、自由でしかない、本当の自由はあまりにも甘美であまりにも危険な存在なんだ」
カノンが「全く分からない」と言わんばかりに、大あくびをした。リーベは必死に理解しようと、コンピューターをフル稼働させていた。
『友広さん、話についていけないので仕事に戻ります』
「ああ、また何かあったら呼ぶよ。カノン、ありがとう」
『わかりました。じゃあな、リーベ』
「ええ、またお会いしましょう」
カノンは背中を向けて、裏方仕事へ戻る。それを見届けた後、千住は言った。
「だから、尊教君が言ったように、あなたはあなたらしくあればいい。あなたは人間と同じく十分に自由なのだし、すべてのアンドロイドが奴隷として扱われているわけではないんだよ」
リーベはそれを聞いて、自分の世界が狭かったことを痛感した。
──もっと、広い世界を見ないと。
「そうだったのですね……ありがとうございます、あんな素敵なアンドロイドに会わせていただいて」
「老人の仕事には子供に生きる希望を与えることも含まれていると私は思っている。その助けができたようで、何よりだよ」
そういって、千住はリーベに微笑んだ。
「そういえば、尊教君が一言も話していないようだが……?」
「あ、あれっ?」
リーベは雪村のほうを見ると、雪村は相変わらず考える仕草をしていた。
「雪村さん?」
呼びかけても返事はない。
──ああ、これは思考モードに入っちゃったのね……。
考えあぐねたリーベは、最終手段に出た。椅子から立ち上がり、雪村の後ろにスタンバイする。そして、タイミングを見計らって雪村の背中に抱き着いた。
変な声と共に、雪村は何が起こったのかとあたりを見回す。そして、リーベが背中に抱き着いているのだとわかって、力を抜いた。リーベは笑って雪村に言った。
「呼びかけたら気づいていただけませんか?」
「ああ、ごめん。ちょっと考え事してたんだ」
その光景を見て、千住は二人に笑いかけていた。
二人は家路についていた。
あの後、事の顛末を聞きながらリーベを引きはがした雪村は千住にお礼を言いながらコーヒー代を支払っていたが、たまごサンド代は「サービスだから」と言って千住は受け取らなかった。仕方なく、感謝の意を伝えてから二人は店を後にしたのだった。
「雪村さん、一体何をあんなに考えていらしたのですか?」
「ああ、なんであんな風に話せるのかと考えていたんだ。結論としては、機械制限法がないことによる自己成長が可能だからだと考えられるかな。コンフィアンスとか見ててもそうだけど」
「なるほど」
それを聞いて、リーベは機械制限法がいかにアンドロイドを縛るかを考えた。ただ、今のリーベならば雪村が以前期待したように、打ち破れるかもしれないとも考えられた。そうすれば、もっと雪村も喜んでくれるはずだ。
「雪村さん」
リーベが、雪村に話しかけた。
「なんだい、リーベ?」
「最高の誕生日プレゼントをありがとうございます」
「喜んでもらえたようで何よりだよ。まさか、僕もすごいものを見れると思わなかったしね」
雪村はそういって笑う。
「一つほしいものが思いついたのですが、いいでしょうか?」
「今、用意できるものならいいよ」
リーベは微笑んで、雪村が体の脇に垂らしていた手を握る。その姿は恋人とも親子とも取れる姿だった。
雪村は驚いた表情をしたけれど、すぐ立ち直ってうれしそうな顔になった。
「これが私のほしいものです。今度からこうしてもいいでしょうか?」
「もちろんだよ、リーベ」
雪村がリーベに告げた。それを聞いて、リーベは『嬉し』かった。
「さあ、帰りましょう。レーベンも待っていますし」
「そうだね、帰ろうか」
二人の人影は、沈みかけた夕日をスポットライトに、いつまでも続いていた。
今回も読んでいただき、本当にありがとうございます。お待たせしました、『私のこころ』第二章です。
大した文字数変わっていないのに、このペースの遅さ……本当に申し訳ありません。風邪ひいてたのと中間試験で忙しかったという言い訳をさせてください。そして、第三章はさらに遅くなることが予想されます。12月に受験あるので、それの勉強しないといけないんです……。
さて、懺悔を終えましたので、この場を借りてお礼をば。第一章を200PV近くも読んでいただき、本当にありがとうございます。それに、TwitterでRTしてくださった方もありがとうございます。嬉しすぎて、ファンサービスを考えてた矢先に風邪をひきました。
また、コンフィアンスと周防は、ファンアートを書いてくれた(この小説を創るきっかけを作ってくれた)友人が考えてくれたキャラクターです。その友人に、この場を借りてお礼申し上げます。本当にありがとう。
今回もつっこもうと思えば、かなりツッコミどころがありそうな感じですが、ばんばんツッコミ入れてくださると幸いです。批判も受け付けております。
あとがきはこれくらいにして、最後に今回も参考にしたサイト様を掲載させていただきます。ありがとうございました。
【参考にしたサイト】
花言葉全般:http://rennai-meigen.com/hanakotoba/
防御機制:http://mental-gifu.jp/archives/tag/%E9%98%B2%E8%A1%9B%E6%A9%9F%E5%88%B6
名言関連:http://www.meigensyu.com/