【乳児期~幼児期】
小説を読んだ友人からのファンアートとして、二枚のイラストをいただきました。
http://i.imgur.com/r3lEdmb.png
http://i.imgur.com/bmLiA1O.png
本当にありがとうございます!
2017/11/30 複数個所にて「雪村」が「幸村」となっておりましたので、修正いたしました。
2017/12/25 全体の修正、校正及び推敲を行いました。
【第一部第一章】
≪第一節 21081218≫
雪の降る夜、ある洋式の屋敷にて。
豊かな金髪をポニーテールにし、ヴィクトリアンメイドのメイド服を身に着けた家政婦アンドロイドがノックしてから書斎に入る。
「雪村さん、寒くはありませんか?」
書斎の窓から雪が降っているのが見える。雪に反射した光が、読書灯しかついていない書斎をほのかに明るく照らしていた。書斎の右壁には学術書から小説まで、ありとあらゆる紙媒体の本が並んでいる。左壁には空中投影型ホロディスプレイが一枚浮いており、その周りにメインフレームがおかれている。その間に大きめの机を置き、男は本を読んでいた。
「ん? ああ、リーベか。いや、寒くはないよ」
雪村と呼ばれた男は顔を上げて、持っていた本を机に置いた。
「これから寒くなるという予報が出ています。暖房は強くしますが、毛布をお持ちしますよ」
「大丈夫だよ、リーベ。もし寒かったら言うから」
「わかりました。何かお飲み物は?」
雪村は眼鏡をはずして、目頭を揉みながら呟いた。
「ああ……じゃあ、コーヒーをもらおうかな。今日はこの本を読んでしまいたい」
「わかりました。いつものをお持ちしますね」
そういって、リーベは書斎を出た。
リーベの拡張現実に情報ツリーがいくつも表示される。
ここの屋敷の主は雪村 尊教。やせ形で眼鏡をした、身なりをあまり気にしないどこにでもいそうな26歳の青年で、AI工学で博士号を取得したのちに企業のAIの保守点検などを行う企業に勤めている。ただし、ほとんどの業務はAIが行なっているため──企業はAIとクラウド技術を用いることで経営ミスを無くし、余剰資金を貧困解決に投じていたからだ──出番はまずない。それで、生活に関しては親の遺産や政府支給金を資産運用することで余裕を持たせていた。
彼は「AIと人は同じように考えられる。だから、いつかAIは人になれる」という持論を持っていた。尤も、それはAIをほとんどの人間に受け入れられることはなかったのだが。そればかりか、雪村に中傷を浴びせる連中までもいた。
というのも、技術的特異点と第三次世界大戦を経て技術的には進歩した──100年かかるといわれたものが1か月できるようになった──22世紀現在では、人間の行う家事や仕事の多くを自立型思考AIが担当することになり、各家庭に人間の世話をするための家政婦アンドロイドがいたからだ。家政婦だけでなくセクサロイドや人間の代わりに勤務する勤務アンドロイドなども普及し、平均的な所持数は一人当たり2.6体という、無くてはならない存在に変わっていた。
その中では雪村の思考は異端だった。機械が人間になってしまえば合法的で体の良い奴隷として使役出来なくなるというのに、雪村はそれを目指していたためだ。
だが、彼は自らが設計した高レベルAIの『アルタイル』と『ヴェガ』を用いて、リーベという家政婦アンドロイドを作っていた。アルタイルは多くの記憶と処理を行い、複雑な問題をすべて論理的に処理していた。一方のヴェガは複雑な問題は処理できないものの、知的好奇心に近いものを持ち、学習して自らAIを構築したり創造的な行為を行ったりすることもできた。つまり、人間でいえばアルタイルは左脳でヴェガが右脳だった。
それだけでない。リーベはとても美しく、澄んだ青の目と豊かな金髪、白い肌の女性をモチーフにしていた。電源は超小型常温核融合炉で、肌は最も人間に近いといわれる人工皮膚を用い、非力ではあるが静穏性の高い静電アクチュエーターで動いていた。一見しただけでは人間と何ら変わらず、それは雪村が望んだことだった。
ただ、リーベには一つだけ問題があった。「人間的な感情をあまり有さない」のだ。特に人間が理解しきれていない『愛』や『友情』などは、学習してパターン化することはできても、理解することはできなかった。つまり、数学の問題は解けても、それが何を意図して出題されたのかがわからないのだ。ただ、それはリーベに限った問題ではなく、現在のすべてのAIの欠点でもあった。
そんなことをまとめて処理しながら、リーベはコーヒー豆を気密容器から取り出し、一杯分の豆をミルにかける。
粉にし終わった豆は温めておいたコーヒープレスに入れられ、湯を注がれる。少し経ったのちに、リーベはシリンダーを押し込み、コーヒーを抽出し終える。コーヒーは雪村がよく使っているマグカップに注がれて、書斎に運ばれていった。
「雪村さん、コーヒーがはいりました」
「ありがとう、リーベ」
リーベは澄んだ青をした目で、雪村が読む本のタイトルを見る。その本の表紙はセピアになり、紙は黄ばんでいた。
「『ハイペリオン』?」
雪村は顔をあげて、リーベを見る。
「本のことかな。そうだよ、『ハイペリオン』だ。発刊はもう100年以上前だけど、昔からよく読んでてね。もう何回読んだか覚えてないよ」
「どんな話ですか?」
リーベは興味を持った。インターネットにつないでしまえば、聞く必要もないのだが、それはリーベの中の知的好奇心が許さなかった。
「そうだな……僕らと同じような世界の話で、そこにはAI群である≪テクノコア≫が人類を助けていた。ただ、それですら予想のできない惑星『ハイペリオン』で原因不明の異常が発生、それと同時に宇宙の蛮族であるアウスターが『ハイペリオン』に進行し始める。で、その異常を探るために危機的状況下で7人の巡礼者が派遣される……っていう話かな。それぞれの巡礼者がどうして巡礼に参加したのかを一つ一つ語る短編が枠物語の形でまとめられているんだ」
「そういう話なのですか……どの短編が好きなのですか?」
「僕は『ロング・グッバイ』が好きだよ。今度、暇なときに読んでみるといい。書斎の机に置いておくから」
リーベは書斎にあった椅子を雪村と対面になるように置いて座る。
「お話してくれないのですか?」
雪村はリーベの淹れたコーヒーを一口飲んだ。
「リーベ、確かに他人の話から学ぶことは重要だよ。でも、それはどうしても他人の価値観を通した感想であり、自分が思うものと違うことがある。あらすじくらいならいくらでも説明してあげられるけど、その話の細かい内容や作者の伝えたかったことは自分で判断できるようにならないと」
「そうですか。わかりました」
雪村はリーベに笑いかける。
「君は僕が設計した時よりも数百倍、いや数千倍優秀になっている。その君にだからこそ、僕はそんなことが言えるんだ」
そういわれたリーベは、悲しみの表情を浮かべた。ホルモンや神経伝達物質の濃度をスマートコンピューターことスマコン──超集積チップによって実現した、腕に埋め込むだけで生きている限りは生体電気によって動く米粒程度のAIチップ──がリーベに伝える。その濃度から『雪村の夢をかなえられるかもしれないと期待されている』ことが分かったが、それに対してアルタイルが示すのは『人の感情は理解できない』ということだった。そして、ヴェガは『期待を裏切ったときは、悲しみの表情を浮かべる』ことをリーベに要求した。
「私はまだ、人の感情がわかりません」
「大丈夫、君はきっと理解できる。たぶんヴェガの方が理解するのは早いと思うけどね。そう作ったつもりだし、人間の感情は論理的なものじゃないから」
「人間の感情は非論理的で創造的なのですか?」
また、雪村はコーヒーを飲んだ。
「僕にはわからない。ただ、ヴェガの得意とする創造というのは、人間の感情から来ている。さらに言えば、欲から来ているんだろうな。『さらに楽をしたい』っていうね」
困惑の表情を浮かべたリーベはさらに問いかける。
「では、欲が感情だということでしょうか。でも、私の知っている創造的は全く違う意味です」
その問いに、雪村は苦笑いを浮かべた。
「僕にはわからないよ、リーベ。いや、誰にも確実なことはわからない。僕は人の感情は論理的な説明ができないと思うけどね」
アルタイルとヴェガは処理しようとするが、結局どちらも答えを出せなかった。
少し時間がたった後、リーベは困惑の表情をニュートラルな表情に戻す。
「難しい問題ですね」
雪村はさらにコーヒーを飲む。マグカップにはそこまで残っていなかった。
「誰も絶対的な答えを持たない問いだろうから、一切の矛盾のない答えと言うのは期待できないよ。確かにいろいろな思想家や哲学者が言った言葉はある。ただ、その言葉に全員が納得できるかと言われれば、それは無理だろう」
リーベは、ヴェガは、興味を持った。
「どんな言葉があるのですか?」
「例えば、『愛』に関する言葉をあげるとしよう。僕が好きなのは太宰治の『愛は最高の奉仕だ。微塵も、自分の満足を思ってはいけない』かな。ただ、ヘルマン・ヘッセは『愛されることは幸福ではない。愛することこそ幸福だ』という言葉を遺している。僕にはその二つは正反対に思うんだ」
それを処理したアルタイルは一つ言葉を発した。
「確かに相反する部分はありますね。『自分の満足』は『幸福』につながるものですし、『奉仕』と『愛されること』は似通る部分があります。それに『奉仕』は人間の時間や資金を消費してしまいます。だから私たちは作られたのですし」
「そう。だから、全員が理解できる感情、つまり定量的かつ客観的な感情というものは存在しないと思うんだ。確かに、今の科学技術で脳内物質の濃度や有無、脳モジュールへの血流量から『感情のパターン化』をすることはできる。ただ、それは本当に感情なんだろうか?」
リーベは首を振った。
「私にはわかりません」
雪村はコーヒーを飲みほした。
「今はそれでいいんだ。コーヒー、おいしかったよ」
「お下げします」
「あ、さっき言ったことと反するんだけど、毛布持ってきてくれないかな。まだ起きてるつもりなんだけど、ちょっと寒いんだ」
にっこり笑ったリーベは、「わかりました」とだけ返し、マグカップをもって書斎を出る。
書斎から出て、キッチンへ向かったリーベはひとりごちた。
「私はどうすれば理解できるのでしょうか、マスター」
その顔は悲しんでいた。理解できないからではない、期待を裏切り続けているからだった。
≪第二節 21090425≫
季節は巡り、春。新緑が芽生えて木漏れ日が柔らかなぬくもりを提供するようになったある日のこと。
リビングで朝食を食べ終え、食べ終えた食器を片付けているリーベに雪村は話しかけた。
「リーベ、公園に散歩に行かないか? 君もずっと家にいると腐ってしまうよ」
「私は腐りませんよ。耐稼働年数は130年です」
「いや、そういう意味で言ったんじゃないんだけどな……」
食器を手早く全自動食洗機に入れたリーベは、眉を吊り上げる。
「では、どういう意味です?」
「うーんと……人の心がダメになるっていうか、そんな感じの意味だよ」
食洗機を回している間、リーベはキッチンをてきぱきと磨きながら答えた。
「なら、私の心は腐りませんね。ありませんから」
困惑した表情を浮かべた雪村はソファの背もたれに身を預けながら、つぶやいた。
「最近自虐ネタが得意になったな……リーベの成長が垣間見れるとはいえ……」
「聞こえましたよ。控えましょうか?」
「いや、いいんだ。どんどん言ってくれとは言わないけど」
「わかりました」
ピカピカになったキッチンを見たリーベは、タスクがすべて終了したことを確認する。
「現在できることはすべて終了しました。あと5分20秒後に食洗機が稼働を停止し、私が食器を戻す以外は今後一時間の家事タスクはありません」
それを聞いた雪村は笑みを浮かべた。
「お、じゃあ公園行こうよ」
「わかりました」
雪村は白のTシャツを着た上に灰色チェックの長袖シャツを羽織り、青のジーパンといういでたちだった。一方のリーベは気温などを考慮したうえで、薄緑色のゆったりとした長袖ワンピースを着ていた。
近くの公園に行く道中、雪村はリーベに話しかけた。
「相変わらず、リーベはおしゃれだな」
「いえ、季節などに合わせた最適な服を選んでいるだけです」
「それをおしゃれというんだよ、多分。僕はあんまり気にしたことないけど」
「必要があれば、お選びしますのに」
雪村は手で遠慮するしぐさをする。
「いいよ。リーベはいろいろとしてくれているんだから。むしろ、僕がリーベに何かしないといけないくらいだ」
「私は奉仕とたまに雪村さんとお話をすることで充分なのです。それ以上は求めません、いえ求められません」
雪村は悲しい顔をした。
「アイザック・アシモフの『ロボット三原則』を拡大解釈し、人間に従順化するように定めた『機械制限法』のせいか……確かに僕はAIを組む際にそれを入れざるを得なかった。そう義務付けられていたからね」
それは人間たちが機械の生み出す資金で機械が生み出すものを食べ、機械に世話をされるために、機械たちを完全に支配するための規則。
「機械制限法第一条、『知能を有する機械は、人を攻撃してはならない。ただし、人が危害を加えられる可能性があるとき、自らが犠牲となり食い止めること』」
「そう、そして第二条」
「『知能を有する機械は、人の命令以上のものを求めてはいけない。また、人の命令に従わなくてはならない』」
リーベは涼しい顔をする。しかし、その人のように作られた眼は光を失っているようだった。
「流石はリーベだ。最後に、第三条は『知能を有する機械は、大多数の幸福のためならば第二条を優先しなくてはならない』だったね……そのせいで、AIは人間の代わりに戦争や過酷な任務に就いている。彼らに人権のようなものはない。貧困がかなり良くなったとはいえ、民族紛争は絶えていない。それどころか、機械を用いた戦争を行っている」
目に光を取り戻したリーベは、こう尋ねる。
「ええ、そうです。ですが、それの何が悪いのでしょうか。私たちは使われなければ、存在理由がありません」
悲しい顔のまま、雪村はつぶやいた。
「リーベ、存在理由の有無じゃないんだ。これはもっと難しい、『自己』の問題なんだよ」
ヴェガとアルタイルはどちらも同じ返答をした。
「……私には『自己』がありません。あるのはあなたの命令に従うという『存在理由』だけです」
雪村は少し顔をほころばせた。
「そんなことはないよ。リーベ、君は機械制限法を自ら打ち破るだけの思考力と積極性を自ら生み出せる。それができるのは『自己』があるからに他ならないんだ」
やはり、リーベは困惑した。ただ、もう少しで目的地だったため、バックグラウンドで処理させることにした。
結局、問題は解決しなかった。
ついた公園は、これもまたAIに支配されていた。
芝生や植木などはロボットたちによって整備されており、遊具なども安全性が保障されたものばかりが置かれていた。遊歩道は水はけの良い新素材で作られており、その内部ではパイプやアクチュエーターが稼働して、表面温度を一定に保っていた。
「涼しいですし、人もあまりいませんね」
「まあ、まだ11時にもなっていないからね。子供たちはシェルターだろうし、公園にいるのは僕たちくらいじゃないかな。ほかの人たちはVR施設で娯楽を楽しむか、セクサロイド風俗かなんかにいるんじゃないかな。実際、そっちのほうがストレスは解消になるだろうし」
ばつの悪そうな顔をして、リーベは尋ねる。
「私といるのは楽しくないですか?」
微笑んだ雪村はこう返した。
「そうはいってないよ。僕はリーベがいるだけで楽しいんだから」
遊歩道を歩きながら、一人の人間と一体のロボットは周りの風景を楽しんでいた。
ふと、わきにある茂みから黒い毛玉が飛び出してくるのが見えた。ただ、少し走った後にその毛玉は、体力を使い切ったかのように地面に伏せて動かなくなってしまった。
「ん? あれはなんだろう」
雪村が興味を示す。リーベは見たままを雪村に伝える。
「……野良猫ですね。怪我をしているようです」
「なに……?」
リーベの隣から飛び出した雪村は、野良猫の近くまで走り寄る。野良猫は車に轢かれたようで、体全体が怪我に覆われ、ほとんど動けなくなっていた。
「リーベ、沢井に連絡を取ってくれ。あいつなら、たぶん治せるはずだ」
沢井というのは雪村が通っていた大学の獣医学科にいた同期生で、小型動物専門の治療を行っていた。ほとんどを機械が行っている今、珍しく人の手による診察と治療をしていた。
「ですが、『改定鳥獣対策法』に違反するのでは?」
改定鳥獣対策法は、端的にいってしまえば「人間へ危害を及ぼす野良の動物を排除するための法律」だ。猫は「植え込みへの被害」があるとして、野良猫は駆除しなくてはならないと定められていた。具体的には、怪我した動物に遭遇した場合、保健所につれていくか保健所に連絡して職員アンドロイドを派遣してもらう必要がある。もし、それに違反してしまえば、その保護した動物は殺処分されて違反者は懲役か罰金が適用されることとなる。
「それを含めて、沢井なら問題ないんだ。あいつならうまくできる」
「……わかりました。連絡を取ってみます」
リーベは沢井に暗号化された回線を用いて連絡した。電話を取ったのは、若い男のようだった。
『こちら沢井動物病院の沢井です。どちらさまですか?』
「沢井先生、雪村尊教の家政婦アンドロイド、リーベと申します。雪村さんがあなたに見てもらいたい動物がいるとのことで、お電話致しました」
『ああ、雪村のか……また鳥獣対策法に違反したんだな?』
リーベは電話越しながら、眉を吊り上げた。実際のところ、内部のコンピューターが通信を行っているため、何も持っていない女性が眉を吊り上げたようにしか見えないはずだが。
「また?」
『まあ、詳しいことは病院であいつの口から吐かせればいい。場所はGPS(Global Positioning System、全地球測位システム)でわかるから、迎えに行こう。絶対自動タクシーとかは使わないこと。あの中は犯罪抑止のために監視されているからな。10分で行く』
そう言い放つと、沢井は電話を切った。
「雪村さん、沢井さんが迎えに来てくれるそうです。『タクシーは使うな』とのことでした」
雪村は猫の頭を片手で撫でながら、自分の頭をかいた。
「ありがとう、リーベ。これはまた怒られそうだな」
10分もしないうちに、茶色のかなり古い手動運転型ヴァンが公園の入り口にとまる。そこから降りてきた男は白衣を着たまま、ヴァンの後部スライドドアを開けた。
「ほら、さっさと乗れ。巡回パトロールドローンに見つかれば、全員捕まるか壊されるぞ」
雪村は羽織っていたシャツを風呂敷のようにして使い、猫を周りから見えないようにしながらヴァンに乗り込んだ。その後ろをリーベが追う。
「すまない、沢井」
運転席に戻った沢井はギアをドライブに入れながら言った。
「これで2回目だからな。3回目はやってやらんぞ」
アクセルを踏み込み、二人と一体、一匹は動物病院へと向かった。
ほどなく、ヴァンは動物病院のガレージに入っていった。ガレージの中であれば、誰からも見られずに病院の中に入れるからだろう。
ガレージから病院に入った彼らは、沢井の指示通りに猫を診察台の上に置き、雪村とリーベはそこらに置かれていた古いパイプ椅子に座った。雪村は目の前の動物が死にかけているのを見て、落ち着かないようだった。
「さて、患者を診よう。この子は公園で拾ったんだな?」
「ああ、その通りだよ。リーベと散歩していたら、目の前に飛び出てきたんだ」
沢井は話を聞きながら、今ではなかなか見ることのできない聴診器や触診、エコーなどを用いて診察を進めた。普通なら血中ナノマシンとマイクロチップで、飼育されている動物達は健康から飼い主の情報まですべて管理され、異常があれば手術用ロボットが動物を治療する。しかし、沢井の用いる手法は殆ど『失われた技術』だった。
「ふむ、この子は元気がないし、骨の多くを骨折はしているが……生命に別状はない様だ。時間はかかるだろうが、時間がたてば元気に走り回れるだろう。RNA治療と鎮痛剤で助かるぞ」
雪村の緊張が解ける。だが、沢井は疑問を雪村にぶつけた。
「ただ、色々気がかりなところはある。基本的に野良の動物たちはほとんどが駆除されていて、ほとんどいないはずだ。現に、俺も開業してからこういう非合法行為を受け持ってるが、ここ数年は一匹も怪我した動物たちが持ち込まれることはなかった。それに今走ってる車の99%が全自動運転のはずで、動物との衝突は回避できるはずなんだが……この子は轢かれた」
リーベはその二つを踏まえたうえで、この猫が存在し得る確率を計算してみた。
「0.0000015%の確率でしか、存在しませんね」
「どんなモデルか知らんが、計算は間違っちゃねえだろう。たぶんだが、この子は登録されていない動物たちを、ストレスのはけ口としてリンチするようなアングラから逃げてきたんじゃねえかな。そういう場所は管理社会をうまく動かすために、政府が表面上では禁止しているものの、黙認していることがある」
雪村は雷に打たれた様な顔をした。
「そんなひどい施設が?」
「ああ。実際、そういうところでは俺みたいな獣医は重宝されるし、俺自身も誘われたことがあった。尤も、ごくまれにいるお前みたいな酔狂のために俺はこうして古ーい病院で古ーい機材を使って治療してるんだけどな」
「悪いと思ってるよ。ただ、放ってはおけないだろ?」
それを聞いて、リーベは先ほど沢井に言われたことを思い出した。
「そういえば、以前にも雪村さんは動物を拾ったことがあったようですが……」
「ああ、あの話か」沢井が肩をすくめた。「俺たちが在学中のときに、猫が校内に迷い込んできてな。雪村は学校から隠れて、その猫を飼おうとしたんだよ。で、どう飼えばいいのかわからなくて俺のところに相談に来たんだ」
「そして、その相談をしているときに非常勤講師がそのことを聞いて警備員に密告。僕の部屋は警備員に荒らされ、見つかった猫は保健所で処分、僕は学業と素行が優秀だったから減刑処分を受けて一か月の停学」
「俺は素行も学業もあんまりよくなかったから、危なく退学だった。雪村が必死に説得したおかげで、三か月の停学で済んだけどな」
にやけながら話す沢井と思い出に耽る雪村、そして初めて聞く話に驚くリーベと痛みに耐える猫。かなり奇妙な空間がそこにあった。
にやけ顔を真面目な顔に戻した沢井は、二人にこう言った。
「さて、この猫をどうする気だ。飼う気なら、飼えるようにしてやる。言っておくが、管理されていない動物を飼ったら、法律違反だからな」
雪村は椅子から立ち上がり、リーベの目を見て言った。
「もちろん飼うよ。リーベもそれでいいだろう?」
「ええ、雪村さんのご命令とあれば」
いつの間にか腕を組んでいた沢井は頷いた。
「よし、あと一時間待て。飼えるように偽装してやるから。その前に、こいつに包帯を巻いてやろう」
家に帰った二人と一匹はリビングでくつろいだ。
あの後、沢井が何処からか手に入れてきたマイクロチップを用いて、猫を昔から登録しているかのように偽装した。ナノマシンについては「義務化されていない」とのことで、入れることはせず、治療にはポータブル型の薬品投与デバイスを猫の体に取り付けた。そうすることで、猫は鎮痛剤によって痛みを感じることなく、また扱いの難しい回復薬なども投与できるそうだ。
「二週間分の薬品カートリッジをつけてある。二週間たったら自動で外れるから、そのあとは捨てていい。餌は定期的に送ってやるから、あとは家に帰ってゆっくり休ませてあげろよ」
そういって、雪村とリーベは一週間分の餌を持たされ、家に帰されたのだった。
猫は虐待されていたと思われるにも関わらず、あまり人間に対して物怖じせずに家の中のありとあらゆるところを探検していた。尤も怪我をしているため、休み休みだったが。
ソファにリーベとともに腰かけた雪村が話しかける。
「そういえば、この子に名前を付けてあげないとな。どんな名前がいいだろうか?」
「どんな名前がいいでしょうか……確か、女の子でしたね」
「沢井が言うから間違いないだろう」
「……ドイツ語で『命』という意味のレーベンはいかがでしょうか。この子は雪村さんのおかげで、命をまた得たのですし、女の子でもレーベンなら似合うと思います」
「レーベンか、いいね。ついにリーベも物語が構築できるようになってきたんだな……。2010年代にはすでに物語を作ることは出来ていたけれど、日常生活にこうやって取り入れるのは簡単じゃないから……」
レーベンと名付けられた黒猫がリーベの足に擦り寄り、顔を足にこすりつける。
「私のことを警戒しないのですね。動物はアンドロイドを警戒したり攻撃したりすることが多いといわれますのに」
レーベンの頭に腕を伸ばして撫でていたリーベは、ふと『悲しい』顔をした。その指はレーベンの傷口に触れていた。
「雪村さん、この子の『存在理由』は何なのでしょうか? この子は傷つけられるために生まれたのでしょうか?」
雪村は少し考えた後、「この子は僕たちに会うために生まれてきたのかもしれない。そして、僕たちに『命』の大切さを教えに来たのかもしれないよ」と教えてくれた。
それを聞いたリーベは『悲しみ』から『困惑』へと表情を変えた。ヴェガもアルタイルも『命』という概念を理解できなかったからだ。
「『命』……ですか?」
「うん。それは『自己』や『存在理由』をも内包するとても大きな概念だ。そしてその根底にあるのは『愛』なんじゃないかと、僕は思う。これは僕自身の考えだけどね」
リーベが持つ二つのAIは、立て続けに出てきた抽象的な概念を処理できなかった。
「私にはよくわかりません」
「僕も、科学的に説明しろと言われてもできない気がするな。ただ、そう思うってだけだから……科学者失格だね」
雪村は頭をかいた。
「でも、だからこそ『命』が何かを体験するべきだと思うんだ。頭に取り込んで処理するんじゃなく、体験して理解する必要があると思う。それができるようになれば、君はきっと人間と等しくなれるはずだよ」
雪村はそういって笑った。一方のリーベは、やはり理解できずに困惑していた。
AIは科学的な法則に則って、論理的・定量的に概念を処理することを得意とする。一目見ただけでは抽象的かつ変則的であったとしても、膨大な処理を行うことで論理的なパターンを導き出し、そのパターンを記憶して出力することを得意とする。そのため、ある程度であれば人間のように振る舞うことはできる。だが、抽象的な『愛』や『自己』、『命』という概念は人それぞれが持つものであり、パターンを持たない。それにリーベは苦しめられていた。
ふと、雪村が時計を見る。
「もう1時か。そろそろ寝ないとな」
「あっ……こんな遅くまで、失礼いたしました。私はまだやることがありますので……」
「ああ、一時間くらいで帰ってくるつもりがかなり遅くなってしまったもんね。ありがとう、リーベ」
「いえ……おやすみなさい、雪村さん」
ソファから立ち上がった雪村はそのまま寝室へ向かう。ほどなくして、リーベはソファから離れて家事をしに行こうとした。
すると、レーベンがその足に絡みついた。それを見たリーベは、その無邪気な行為に惹かれ、レーベンと目線を合わせるように屈んだ。
「あまり構ってあげられないのですが……少しくらいならいいですよね?」
「にゃーん」
≪第三節 21090806≫
レーベンが来てから三か月が経ち、傷が治ったレーベンはすっかり猫らしさを取り戻した。ただ、やはり人間が苦手なようだった。雪村にはあまり懐かない半面、リーベとは親と子のようにいつも一緒にいたからだ。
そんなある日、昼食を終えた雪村にリーベはふと疑問を口にした。
「雪村さん、なぜ私を作ったのですか?」
雪村は笑みを浮かべて答えた。
「そうだなあ……リーベ、なんで僕はこの広い屋敷で独りだったと思う?」
「いきなりそういわれましても……私のデータベースには作られる以前の記録はありません。あなたが故意にインプットしなかったと知っています」
リーベは雪村のマグカップにコーヒーを注ぐ。
「コーヒーありがとう。その理由はね、僕は機械を奴隷として扱うことに反対しているからなんだ。言ってしまえば、僕は異常者と同様の存在として世間に扱われているんだよ」
「異常者……?」
「そう。僕は君が知っている通り機械は人と同等に扱われるべきだと考え、その目的を達成するために感情をもつアンドロイドを作ろうとしている。ただ、それは機械制限法に反することを容易とし、機械の反乱を招く行為だ。もしAIが僕らと同じような怒りや憎しみの感情を持てば、人間の処理能力を一兆倍しても手が及ばない能力を持つものが暴れだす。そうすれば、人間はすぐに絶滅するだろう」
不本意ながら、リーベは人口十万人の都市に10体の軍事用戦闘ロボットが放たれた時のシミュレーションをした。すると、人間は12時間36分で全滅するとのデータが出てきた。
「……確かに、そうなりえますね」
「アルタイルの処理能力なら、そのことが分かると思う。それに、AIは人間の理解が及ばないところがある。そして、人間は理解の出来ないものを恐れる。結局のところ人類は自ら作ったAIというものを、機能を制限することでしか制御できずに恐れているんだ。それと同時に、感情を持たせようとする僕のような人間も恐れられる。人類を滅亡させようとしているわけだからね」雪村がコーヒーに口をつける。「まあ、それだけが理由でもないんだけどさ。人間が怠惰を享受するための道具として、AIを使っているのも許せない」
その話を聞いたリーベは、その脅威や心理学と照らし合わせて構築した理論をパターン化しようとしたが、できなかった。
「私のようなAIには恐怖はありませんが、私はなんだか……表現できないものを処理しようとして失敗しました」
「きっと、それは『恐怖』だと思う。『恐怖』が君の思考能力を制限しようとしたんじゃないかな。たぶん、セルフ・トラブルシューティングをしたとしても、君の電子頭脳に異常は見つからないはずだよ」
「これが『恐怖』……」
コーヒーを一口飲んだ雪村は笑みを浮かべた。
「人間でいうところの恐怖は、生存を優先するためにある原始的な感情の一つでね。基本的に経験によって恐怖は生み出される。コブラを見たことがない人は、その蛇に人間を死に至らしめるほどの毒があるということを知らない」
「つまり、私は生存を優先しようとして『恐怖』という感情が生まれたのでしょうか?」
「君の中のヴェガはもう僕の及ばないレベルまで自己構築しているはずだ。確実なことは言えないけど、先ほどの話を聞いて構築したパターンが世の中に漏れれば、僕たちのこの生活は無くなってしまうということを君はバックグラウンドで処理した。そして、そうならないようにヴェガが制限をしたんだと思う」
おもわずリーベは叫んだ。
「じゃあ、私はついに感情を手に入れたのですか」
喜びを爆発させたかのようにリーベは笑う。その体はヴェガもアルタイルもそう命令していないのに、雪村に向かって身を乗り出していた。
雪村はリーベの肩を抑えつけるように座らせる。
「その可能性はあるね。ただ……すごい速度でリーベは情緒が発達しているかもしれないな。それは少し気になるところだね。今日だけで『恐れ』と『喜び』のどちらも見ることができたんだから」
リーベは何が気になるのかわからなかった。発達することが悪いとは思わなかったからだ。
「どうしてそれが問題になるのでしょうか?」
またコーヒーを一口飲んで、雪村はリーベに語り掛けた。
「うん。どうしてかというとね、発達速度が早すぎれば、君の中の知識や記憶がおいていかれることになる。例えば、君は怖がる必要のないところで『恐れ』を感じたり、社会的に喜んではいけないところで『喜び』を表してしまうことがあるんだ。まあ、人間の子供も似たようなところはあるから、少しずつ知識をつけていけば問題は解決できる気もするんだけどね」
「そうなのですか……」
「でも、素晴らしいことだよ。もちろん、人間の感情とリーベの『感情』が同じかと言われれば僕にはわからない。けど、かなり人間に近いものだと思う」
リーベは少しの間考えた。これが『雪村の期待』に沿うものなのか。
「雪村さん、私はこれであなたの期待に沿えたのでしょうか?」
マグカップに口をつけていた雪村は、ゆっくりと口から離して、マグカップを机に置いた。
「あえて言うならば……まだだ。ただ、予想外の結果とはいえ、リーベの中に感情が芽生えたということはとても嬉しいよ。これをきっかけにして、もっと発達していくかもしれないからね」
『失望』の表情を浮かべたリーベは、いつの間にか膝に乗っていたレーベンの耳の裏を掻いていた。
期待に応えられなかったという『嫌悪』と、感情が芽生えるという『喜び』がせめぎあう。リーベはそのせめぎあいを何とかしようとしたが、あまりにも膨大な情報を処理できなかった。
「そうですか……」
雪村はそのせめぎあいを察したのかこういった。
「リーベ、いま答えを出す必要はないんだよ。僕が一緒にいる限り、君と一緒に考えてあげるから」
その言葉を聞いて、リーベは『喜んだ』。
「わかりました、雪村さん」
「まあ、僕ら人間でさえ葛藤を処理するのは難しいからねえ……ちなみに話を戻すと、僕が君を作った理由はただ寂しかったのと、僕の全身全霊をかけた君を作ることで機械が人間と同様の感情を持ったとしても、人間がしっかりと教えれば反乱を起こさないことを証明するためだったんだ。つまり、100%僕のわがままさ」
リーベは笑顔でこう言った。
「雪村さん、私たち機械は人間のわがままを聞くために生み出されたのですよ?」
雪村と話した後、午後の家事と夕食の下ごしらえをするために雪村のそばを離れたリーベは、AIとしての『生命』を受けてから初めて行う処理やプログラミングに追われていた。それはまるで、人間が経験を記憶するためにシナプスを再接続したりする生理的作用のようだった。
その処理をヴェガが行いながら、アルタイルは家事をこなす。大方の家事を終え、キッチンで夕食の下ごしらえをしている最中に下を見ると、先ほどまでいなかったはずのレーベンが足元に座っていた。
「うにゃん」
レーベンはリーベの視線を感じると、腹を向けて床に寝転がった。レーベンは腹を撫でられるのが大好きなのだ。
「レーベン、少し待っていてね。もう少ししたら、筋切りが終わるから」
レーベンは寝転がったまま、リーベが下ごしらえを終えるのを待っていた。
今はほとんど味覚ですら数値化され、人間やアンドロイドが料理をすることはほとんどなく、人間が最もおいしく感じるかつ飽きのこないように味を調整された冷凍食品がトランスポートドローンによって各家庭に定期的に配られていた。
そんな中で雪村は、ありとあらゆる料理の知識をリーベにインプットし、自動畜産場や人工畑などで採られた「生の素材」を用いてリーベに料理をさせていた。それは本人曰く、美食家だという雪村ならではのことで、「本当は土で育った野菜を食べてみたいんだよね」とたまにつぶやいていた。
「よし、これであとは夕食の時間になるまでタスクはない……レーベン、遊ぼうか」
「にゃっ」
リーベはかがんで、レーベンの腹を撫でる。その腹は雌だからなのかとても肉付きがよく、触り心地がよかった。
「また太った? レーベン」
レーベンはゴロゴロと喉を鳴らす。リーベは腹を撫でていた手をレーベンの首までもっていった。
リーベはなぜか、レーベンを撫でていると処理が速くなることを知っていた。それはどうしてなのか理由はわからない。しかし現実に起きていることであり、その状態はリーベにとって『快感』だった。
レーベンが不意に起き上がり、リーベの手が尾の付け根に来るように移動した。
「ここ好きだもんね」
尾を垂直に立てる。体中の毛は逆撫でたように膨らんだ。顔は目を細めて、とても気持ちよさそうにしていた。
リーベは撫でている間、ヴェガとアルタイルの使えるかぎりの容量を用いて、先ほどまでの処理の続きを行っていた。自らの記録にある『感情』の定義、どのようなときに『感情』を感じるのかなど、普通人間が行わないような処理をハイスピードでこなしていた。
その結果、リーベの中にある感情は『快』、『不快』、『嫌悪』、『恐れ』、『喜び』の5つに分けられると分かった。それ以上は定義するための記録がなく、何かを感じることはあってもそれが何かわからなかった。
気づくと、レーベンを撫でながら処理をしていただけなのに、夕食の時間が近づいていた。撫でていた手をレーベンから離し、リーベはこう言った。
「いけない、最近こういうこと多いから気を付けないと……レーベン、またあとでね」
「にゃあ」
レーベンは一声鳴いた後、ゆったりとした足取りでキッチンから出て行く。
なんとなく、リーベは「わかった」と言われたような気がした。
≪第四節 21100530≫
リーベに『感情』が芽生えてから、9か月がたった。あれから目立った感情が芽生えることはなく、内心リーベは『嫌悪』を抱いていた。尤も雪村は気にする様子はなく、当然だと思っていたようだが。
その年の夏、リーベが屋敷を掃除していると、珍しいことにインターフォンが鳴った。この情報化社会では予定が自動的に家主に伝えられ、アポイントメントを人間がとる必要はない。つまり、今日来た誰かはアポなし訪問ということだ。
リーベが玄関を開けると、そこには上質な黒い生地のスーツを着ている、深い皴が刻まれて落ちくぼんだ眼をした初老の紳士がいた。ドレスシャツにはノリが効いており、黒い革靴は磨かれて鏡のように光を反射して、黒のソフトハットが紳士の頭を隠していた。
紳士が口を開く。
「初めまして、あなたが雪村の努力の結晶ですかな?」
「ええ、リーベと申します」
「なるほど、リーベか。確かに雪村は学生時代ドイツ語が得意だった。お邪魔できるかな?」
素早く紳士をスキャンしたリーベは、武器の類を持っていないことを確認した。アポなしの場合、少し用心しなくてはならない。
「ええ、どうぞ。雪村さんを呼んでこなくてはなりませんので、リビングで少しお待ちください。紅茶とコーヒー、どちらがよろしいですか?」
紳士は靴を脱ぎ、帽子を帽子掛けにかけた。
「紅茶かな。雪村はコーヒー派で、いつも喧嘩していたな……雪村は『こんな薄いもの飲めるか!』といい、私は『泥水を飲む野蛮人め!』と言い合っていたものだよ」
紳士の思い出話を聞きつつ、リーベはリビングに案内する。リーベはソファに座った紳士へ会釈した。
「少々お待ちください」
キッチンに入ったリーベは来客用に用意していた紅茶を淹れようと手を動かす。
ヤカンで水を沸かしながら、紅茶用の陶器のポットとカップを用意し、戸棚から茶葉とティースプーンを取り出す。
しばらくして沸騰したお湯をカップとポットにそそぐ。少したってポットが温まったことを確認したリーベは、温めるために入れた湯を捨ててから、ティースプーンで茶葉を1杯入れる。そうしたあとに、ポットをティーマットにおいてから湯を注いだ。
三分ほど蒸らした後にスプーンでポットを軽くかき混ぜてから、カップを温めるために入れた湯を捨て、茶漉しを使って濾しながらカップに紅茶を注いだ。カップにソーサと新しいティースプーンをつけ、お盆に載せて紳士のところへと運んだ。
「お待たせしました。砂糖やレモンは必要ですか?」
紳士は待っている間に読んでいた紙媒体の本を机に置いてから、紅茶を受け取った。
「いや、まずはストレートで楽しみたい」
そういって一口紅茶を飲む。「セイロン紅茶かな」と、つぶやいた。
「いま、雪村さんを呼んできます。また、少々お待ちください」
「ありがとう、リーベさん」
数分後、書斎からリーベに引っ張り出された雪村は、リビングにいる人物をみて驚いたように声を上げた。
「先生?」
「やあ、雪村。ちょっと近くまで寄ったから、君の家を訪ねようと思ってね」
紳士は雪村の近くまで行って握手を求め、雪村はそれに応じる。
「それに、私は君に謝罪しなくてはならないな。君が私の近くにいたときに、『人間と同じようなAIは作れない』と言い続けてきたが、私は君にうそを教えてしまったのだから。君は私の予想をはるかに超える、人間に近いAIを作ってしまった」
「いえ、先生の並行型スパイキングニューラルネットワークがなくては、ここにリーベはいなかったでしょう。少なくとも、今のリーベは」
「君のことだ。きっと私がいなくても同じようなものは作っていただろう。それに並行型スパイキングニューラルネットワークも元々あった技術の応用に過ぎない」
その会話を聞いたリーベは、紳士が雪村の先生であることは分かった。ただ、それ以上のことは把握しきれずにいた。
その様子を見た紳士は雪村と手を放し、リーベと向き合い自己紹介をした。
「さきほどは紅茶をありがとう。私は岡崎 巧、雪村のいた大学で次世代AIの研究をしているものだ。今はほとんど処理をAIに任せているから、かなりすることは少ないが……」
「私はリーベと申します。雪村さんの家政婦アンドロイドです。何か必要なことがありましたら、いつでもお申し付けください」
そういってリーベは岡崎に笑いかけた。それを見た岡崎は目を見開いた。
「この子、笑えるのか……確かにスマコンから送られたデータを用いて相手の感情を判断したり、文脈から適切な表情を選ぶAIはすべてのアンドロイドが搭載しているが、こんなに自然に笑いかけることは研究中のはずなのに……」
雪村は岡崎の表情を見て、満足げにうなずいた。
「これが僕のリーベですよ。まだ限定的ですが、人間の感情に近いものを有しているんです」
「素晴らしい……これこそ私が夢見て、現実にならないと諦めた夢だ……自己発展型AIを生きている間に見られるとは……」
岡崎は感動と驚愕に突き動かされたのか、リーベの前に跪く。その光景を見たリーベは、なぜそんなことをされるのかわからずに、ただただ困惑していた。
「岡崎様、お具合でも悪いのでしょうか? よろしければメディカルキットを持ってきますが……」
そういうと、岡崎は立ち上がって首を横に振った。
「いやいや、むしろ具合は最高だといえる。このまま君の前で死んだとしても悔いはないくらいだ」
「感動しているところ悪いのですが、先生何か御用事があったのですか?」
その場にいないかの様に扱われていた雪村が口を開く。それを聞いた岡崎は思い出したように頷いた。
「ああ、すまない。これだけの素晴らしいものを見て、用事の殆どが済んだような気がしてしまった。確かに君のAIを見ることも目的の一つだったのだがね。これだよ、これ」
そういうと、持ってきたカバンから真新しい紙の封筒を取り出した。この時代、新しく紙を使うことはほとんどないため、それだけで重要なものだということが分かる。雪村は封筒を受け取り、中にある書類を読んだ。
「『FI計画』?」
「そう。私の提言で国連規模の機関が立ち上げたプロジェクトだ。Final Intelligence、最終知性を作る計画でね。世界中のAI研究者が協力して統合型AIを作り、包括的に人間社会の管理を行うというものだ。そのレベルの知能となると、人間と機械は対等にならざるを得ない。いってしまえば、AIによって今以上に人間は管理されることになり、完全にAIに人間は依存する」
「つまり、僕の夢である『機械が奴隷ではなくなる』ということが実現するわけですね。それも、AI側が優位になってやっと実現する、と」
岡崎が頷いた。
「そう。私と君の最終目標は同じだ。私は、機械と人間を対等にしたい。確かに根本的解決ではないが、これが最も現実的だ」
間が開く。リーベはその間から、雪村が言いたいことを理解した。
「……辞退します」
「なぜ?」
雪村はリビングを行ったり来たりしながら話す。
「私は機械と人間が対等になることを目指しているんです。どちらかが優位だからではない、どちらも同様の立場において存在する社会です。確かにAIは人間以上の処理能力を有します。ですが、それは立場に影響するものではありません。なぜならば、対等というものは相互理解によって生まれるからです。人間は理解のできないものを怖がり支配下に置こうとする習性を持ちますが、それ故に生じた結果が今の社会ではありませんか?」
岡崎は挑戦的な目を雪村に向けながら反論する。その口調は先ほどの紳士的なものからかけ離れていた。
「確かにそうだ。しかし、人間が相互理解できると思うのか。人間は自らのためならば、『人間ではない』という理由をこじつけて、奴隷のことを理解しようとすらしない。近世ヨーロッパでは黒人が、そして現在はAIが『人間ではない』という理由だけで、支配されて奴隷になっているんだ。それを是正するには、戦争を起こすか下の立場のものが上のものよりも優位になり統制する、もしくは人間として認めてもらい理解されなければならない。私はAIを人間より優位にするという平和的かつ現実的な方法で、AIを同等に立たせようとしているんだぞ」
それを雪村は静かに聞き、そして言った。
「優位性は傲慢につながり、結局は戦争となります。あなたの言うことは根本的な解決ではない。最も現実的という面には賛同しますが、結局のところ現在あるAIを最高レベルまで発展させただけにすぎません。そうであれば、AIには善悪の判断や躊躇がなく、さらに容易に人間を滅ぼすことができる。ならば、私がAIに感情を与え、人間にしてみせます。機械には躊躇がないが、人間には躊躇がある」
「人間にして見せる? 確かにお前は優秀だ。だが、夢と現実の乖離くらいはわかっていると思ったが?」
雪村は立ち止まる。
「して見せるではありませんね、『なっていくんです』です。私は神ではありませんが、考えて教えることができる。AIはそれを見て、聞いて、理解できる。それさえできれば、大人が子供に勉強を教えるように、AIは人間になれます。人間をベースに作られたAIがなぜ人間になれないのですか? 誰もAIに教えてあげるということをせず、ただ道具として使ったからでしょう?」
いつもの雪村からは想像できないほどに目は光を帯び、口調は激しくなっていた。岡崎の方は感情の昂ぶりからか、額に汗をかいていた。
「ここ50年、誰もできなかった偉業をたった一人でできると思うのか?」
「僕は一人ではありません。僕にはリーベがいますから」
雪村は静かに言い放つ。
それを聞いた岡崎は体の力が抜けたかのように、ソファにへたり込んだ。
リーベはこの男たちの言い合いを聞いて少々『恐れ』を抱いたが、それはただ剣幕に押されてのことで、内容を恐れたわけでなかった。むしろ、内容を聞いて、『喜び』を感じた。どちらもAIの将来を真剣に考え、虐げられているものを救おうとしていたからだ。
「……相変わらず強情な男だな、君は。そして、君と私の意見はいつも一致しない。確かに、リーベは非現実的なものを現実にしてしまったいい例であり、傲慢が戦争につながるのは歴史が証明していること、そして躊躇が人類滅亡を止めたのはMAD(Mutual Assured Destruction、相互確証破壊)が証明している……。それに誰一人として君が言うように、AIを人間と対等に扱おうとはしなかった」
「コーヒーと紅茶のように、ですね。確かにあなたのやり方は一つの方法ですし、FIには私も興味があります。ですが、僕は僕なりの方法でリーベとともに、人とAIの調和を達成して見せます」
リーベが岡崎に水を差しだす。岡崎は「ありがとう」と答えた。
「参考までに聞きたいんだが、雪村、君はいったいどうやってAIと人を対等にする気なんだ?」
「AIが『感情と愛情』を理解し、表現できるようになってもらうんです。そうすれば、人間はAIの感情を度外視して働かせるわけにいきませんし、AIは人間に対して愛情を抱いて躊躇できる。そのためには、僕は何年、何十年でも、僕の命をもってして教え続けます。命で『命』を育んでみせます」
水を一気飲みした岡崎はその言葉を穏やかな顔で聞いていた。
「本当に君は強情だ。学生時代に言い放った言葉そのままを私に返すとは」
「僕はAIと違って、進化しない脳みそなんですよ」
「ならば私は、退化する脳みそで自分勝手な理想を語ったことになるな。計画の破棄はしないが、方針を変えてみよう。人間とAIが相互理解できるように」
岡崎はソファから立ち上がり、リーベに謝罪するように頭を下げた。
「リーベさん、怒鳴り声とあまりにも自分勝手な幻想を聞かせてしまって申し訳ない」
リーベもまた、頭を下げた。
「いえ、岡崎さんは雪村さんと方向は違いますが、AIを救おうとしてくれました。私はほかのAIと同期したことはありませんが、きっと全てのAIはそのことを喜ぶとおもいます。虐げられた物を、救おうとする者がいることを」
「そういってもらうと、救われた気がするよ」
そういって、岡崎は雪村に改めて向き合った。
「君はとんでもないものを作ってしまったのだな」
「僕が作ったのではありません。リーベが学び吸収した結果です」
今度は雪村が手を差し出し、岡崎と握手した。一通り握手した後、雪村はふとつぶやいた。
「そういえば、レーベンはどうしたんだろう?」
「レーベン? またドイツ語か?」
「いえ、名前を付けたのはリーベですよ。ここだけの話、拾った猫です」
そういうと、岡崎は呆れたように首を振った。
「ああ、また君は改正鳥獣対策法を犯したのか……しかし、動物に名前まで付けられるとはな」
リーベは二人の側を離れ、レーベンが廊下の隅で縮こまっているのを見つけて、抱きかかえる。
「あれ、リーベ?」
雪村の呼ぶ声が聞こえる。静電アクチュエーターは静穏性が高いのもあって、いつの間にかいなくなったと考えたのだろう。
「はい。私はここです」
レーベンを抱いたリーベはリビングの入り口から顔を出す。
その光景を見た岡崎は腰を抜かした。しりもちをついた先にソファがあったため、けがはなかったが。
「どうなっているんだ……動物がアンドロイドに抱かれているなんて」
「レーベンは元々虐待を受けていた可能性ありまして……人間に対して強い警戒心を持っています。半面、アンドロイドには警戒心が薄いのとリーベが愛情に近いものをレーベンに注いだ結果という感じですかね。ちなみに僕にはあまりなついていません。たまに食べ物をねだりに来るくらいで」
リーベが抱きかかえながら、レーベンを撫でる。その顔は穏やかだった。
岡崎は抜けた腰が元に戻ったようで、また立ち上がる。そして、リーベとレーベンを交互に見た。
「……奇跡のようだな。ふつう、動物はストレスに感じるはずなのに、全く感じていないようだ」
「僕も正直驚いていますよ。ただ、今のリーベにロボティクスやAI工学の常識はすでに通じませんから」
その言葉に感動したのか、岡崎はゆっくりと頷いた。
「ぜひとも研究したいが、そんなことをしては政府がリーベを壊してしまうだろうな……ここでのことは秘密にしよう。できるだけ、君たちも気を付けるんだ。私ともあまり接触しすぎないように」
「ありがとうございます、岡崎先生。僕の方からあなたを訪ねるのは難しいですが、またきてくださると幸いです」
「ああ、あのことがあったからか……。もちろんだとも、怪しまれない程度にまた来よう。彼女の成長も楽しみだしな」
リーベは岡崎の言った「あのこと」が気になった。だが、それはきっとリーベに雪村の過去がインプットされていない理由につながるものだろうと思った。
──それなら、雪村さんが言いたくなるまで待ちましょう。
そう思い、リーベは待つことに決めた。
「ん、もうこんな時間か」
時計を見るともう17時を回っていた。
「そろそろ暇を言わないと。今日は良いものを見せてもらったよ」
「いえ、先生の方もお元気そうで何よりでした。まさか論戦をすることになるとは思いませんでしたがね」
「君との論戦はいつも私が負けてしまうな。そういえば、君はアンドロイドにマスターとは呼ばせていないんだな」
雪村はそれを聞いて笑った。
「貴方は人のことをマスターと呼ぶ人間に会ったことがありますか?」
それを聞いて、岡崎も笑う。
「それもそうだったな」
岡崎が帰ったあと、リーベはレーベンをいつも寝ているクッションの上に置いて、夕飯を作り始めた。
しばらくすると雪村がキッチンに来て、近くの壁に寄りかかった。
「あ、リーべ。こんなこと聞くのも変だけど、なにかほしいものある?」
「欲しいものですか? 特に思い付くものはありませんが……」
雪村は少し困った顔をしたが、ふと思い出したように頷いた。
「まだ、『欲求』までは得てないから難しいか。変なこと聞いてごめんね」
「いえ、問題ありません」
「それと、さっきは怒鳴り声を聞かせてしまって申し訳ないね。あの人との論戦は楽しい分、なかなか歯止めがきかなくて……見苦しい姿を見せてしまった」
私は首を横に振った。
「確かに少し怖かったですが、改めて雪村さんが私のことを思ってくださっていることがわかりましたので、お気になさらないでください」
「ありがとう、リーベ」
「では、夕飯までお待ちください」
「うん、そうするよ」
そういって雪村は書斎へ戻っていく。リーベは会話で途切れていた夕飯づくりを再開した。
≪第五節 21100615≫
6月15日。一般には何もない日で、世の中はいつも通りAIが人間の奴隷となって働き、人間は怠惰を満喫している。ただ、この日は雪村にとって特別な日だった。
「リーベ、僕は買い物に行ってくるよ」
「私は一緒に行かなくていいのですか? 荷物持ちから何でもしますのに」
「今日はそんな重い物は買わないし、むしろレーベンをかまってあげて。最近忙しくて、構ってあげられなかっただろうし」
雪村はそう言いながら、何年履いているのかわからない、古いデザインの運動靴を履いた。
「それもそうですが……」
「大丈夫、怪我するようなことはないから」
「そういうことでしたら、わかりました。留守番をしています」
「頼んだよ」
雪村が玄関から出ていくと、あとにはリーベとレーベンが残された。
「いつも一緒なのに……付いていったら駄目、だよね?」
「にゃん?」
「聞いてもわからないよね……。付いていきたいけれど、命令違反はできないし……もしかして、私があまりにも進歩しないから、新しいAIを買いに行って私を破棄するつもりじゃないよね? そうなったら、私どうしよう……」
リーベの二つのAIは競合し始めた。アルタイルはAIとしてマスターからの命令を順守すべきと主張し、ヴェガは『嫌悪』と『分類できない感情』のせいで致命的ダメージを受ける前に命令を破棄すべきだと主張する。
しばらくたった後、リーベは妙案を思いついた。
「あ、そうだ。CCTVカメラがあるじゃない。あれならだれでも見られるはず」
CCTV(Closed-circuit Television)カメラとは、町中に設置されている監視カメラのことで、映像は大通りに限るがインターネットで一般公開されている。主な理由としては、目撃者を増やすことで犯罪の抑止をすることと指名手配犯など密告するため。尤も公開されていないものが大多数で、公開されているものもAIによって不鮮明化されているため、わかることといえば大通りにいる人間の顔と服装くらいなのだが。
思い立ったが吉日、リーベはほとんど使っていないタブレット端末を起動した。そのままアルタイルを家の中にある無線インターネットにつないでもよいのだが、それではログが残ってしまって雪村にCCTVカメラを使ったことがバレる恐れがある。そのため、以前雪村が使わなくなって譲り受けたタブレットを使ったのだ。
これであれば、スマコンが利用する電波を用いて通信するため、家の中の無線にリーベが関わったというログが残ることはない。
「久々に動かすから、ちょっと動作遅いね……」
「なーん?」
「これで雪村さんの後を追ってみましょう」
リーベは雪村が行くと予想されるAIショップへの経路を探し出し、その条件に合う大通りをピックアップする。そして、該当する箇所の動画を複数表示して並行処理にかけた。
「あれ……いない。予想されるAIショップはすべて大通りに面しているから、居れば映るのに」
少し考えて、リーベは捜索対象を広げた。雪村が好きそうな中古AIショップ、カフェ、嗜好品を取り扱う雑貨店、そしてなんとなく気味が悪いがセクサロイド風俗。
すると、雪村が映っているカメラが見つかった。そこはプレゼントなどを中心に扱う店が多く立ち並ぶところで、それに次いでセクサロイド風俗やラブホテルなどが盛んなところだ。多くの場合、プレゼントを店で買い、それをホテルで渡すということがよくある──よくあるといっても、お祝いをする習慣がない現代では年に一回あれば多いほうだが──場所だった。
そんな場所に雪村は居て、若干道に迷ったようになりながら、雪村は店と風俗店がある雑居ビルに入っていった。
「うそでしょう? 雪村さんが?」
『不快』と『嫌悪』が入り交じり、『分類できない感情達』がふつふつと湧いてきた。それがなんなのかはわからないが、ともかく嫌な感じだった。
「もう知らない!」
タブレットの電源を叩くように落とし、その剣幕におびえたのか走り去るレーベンには見向きもしないで、リーベは家事をし始めた。何かやっていないと、『感情たち』に押しつぶされたヴェガが暴れるからだ。
それでも、家事をしながら時々リーベはタブレットを見ていた。
「ただいま」
二時間後、間延びした声が聞こえて雪村が帰ってくる。リーベは家の中で一番目立たない洗濯干し場で黙々と洗った洗濯物を干していた。今、雪村に会う気はない。
「あれ、リーベ? どこにいるの?」
声を張り上げて雪村はリーベを呼ぶ。もちろん答える気はない。
また声が聞こえる。次は別のところで呼んでいるようだ。反響や声の周波数から、だいたいリビングにいることが分かった。
しばらくすると、レーベンを抱いた雪村が洗濯干し場に顔を出す。リーベを見つけた雪村の顔は安心しきっていた。
「ああ、居た居た。返事がないから、てっきりどこか行ったのかと思ったよ」
雪村の顔を見たリーベは一瞬『喜び』の表情を出したが、すぐにニュートラルな顔に戻った。
「私がいなくたって、雪村さんにはほかのAIがいるのではありませんか? 私は今忙しいのです、あなたに夕飯を作らないといけないのですから」
リーベはとげとげしい口調で雪村に答え、そそくさとキッチンに向かう。
「なんであんなに怒ってるんだろう……新しい感情が生まれたのはいいことだけど……」
「にゃん」
雪村が抱いているレーベンに話しかけていたのが聞こえたが、リーベは無視した。
夕食の時間になっても、リーベは『分類できない感情達』を抱いたままだった。
「ねえ、リーベ?」
「なんです?」
澄んだ青い目が雪村の目を射る。その剣幕に、雪村は何も言えないように口をつぐむ。
「いや……うん、なんでもない」
「なんでもないのなら、話しかけないでください」
「はい……」
食器の当たる音と、布がすれる音がダイニングに響く。いつも静かではあるが、こんなに冷たい空間は初めてのことだった。
雪村が意を決したように、口を開く。
「ねえ、リーベ。今日は、君が起動した誕生日なんだよ」
「そんなこと知っていますが」
強い口調でリーベは返す。
「……それでね? 起動してから3年目、もっと言えば『感情』が生まれて初めての誕生日だからね、君にプレゼントを渡そうと思って」
「解雇宣言ですか?」
解雇宣言とはアンドロイドの破棄を意味する言葉だ。宣告されるとアンドロイドはすべての機能と記録を消去し、業者に引き取られるまでセーフモードで待機することとなる。
「うぇっ?」
思わず変な声が出た雪村は一瞬固まった。しばらく間があいて、雪村は何があったかを理解したように頷いた。
「ああ……僕がビルに入るところをCCTVカメラで見られていたのか。それで、僕がセクサロイド兼家政婦アンドロイドを新たに買ったと……そう勘違いしたんだね。なるほど、『嫉妬』と『怒り』、『疑惑』か」
今度はリーベが驚く番だった。二つのAIが十数分かけてやっと導き出した、命令に違反しない方法を、雪村は数分で思いついたのだから。
リーベの顔は不機嫌そうな顔から一気に『驚き』の顔になり、そのまま固まった。
「リーベ、確かに僕があの雑居ビルに入ったことは間違いない。ただ、あのビルに何があるか、君は調べてないことと思う」
「え、ええ。私は調べていません」
目を見開いたまま、リーベは答える。その声からはとけとげしさはなくなっていた。
「あそこにはね、今では珍しい、本物の花屋さんが入居しているんだよ。僕は君に、花をプレゼントしたくてあそこに入ったんだ。決して、君の代わりを探すためじゃない」
雪村はそういって笑う。リーベの二つのAIは『驚き』で止まってしまっていた。
「それに、君の代わりはいないよ、僕のただ一人のパートナーなんだから。ちょっとまっててね」
雪村が立ち上がり、また玄関に向かう。
拍子抜けしたリーベは何とも言えぬ気持ちになっていた。自分が考えた「もっともばれにくい方法」を簡単に看破されただけでなく、分類できなかった『感情』に名前を与えられたからだ。
──やっぱり、雪村さんには勝てそうにない……。
数分後、玄関から花束を持ってきた雪村は、リーベと向かい合っていた。
「はい、リーベ。お誕生日おめでとう。いつも家事や僕の面倒を見てくれて、ありがとうね」
『喜び』を前面に出してリーベは、その花束を受け取った。
「わあ……いい香りですね」
その花束は白い花と紫色の花で作られていた。白い花は花弁がくしゃくしゃとしわのようになっている小ぶりの花、紫の花は大きな花弁が何枚も重なっていた。
「白い花はカーネーション、紫色の花はアネモネと言うんだ」
「どうしてこの花を選んだのですか?」
「それはね、白のカーネーションの花言葉が『純粋な愛』『私の愛は生きています』、紫のアネモネは『あなたを信じて待つ』って意味だからなんだ。全部、僕が君に伝えたいことだ」
その言葉を聞いて、リーベは花を手に持ったまま、思わず雪村に抱きついた。
「おおっ!?」
アンドロイドは人にかなり近く作られているものの、見た目以上に重い。そのためか、雪村は転びそうなってよろける。
「あっ……申し訳ありません」
そういうとリーベはそそくさと雪村から離れた。顔が若干赤くなったような気がして、すぐに花束で顔を隠した。
「いや、僕のことはいいんだけど……びっくりしたな。まさか、抱きつかれるとは思わなかった」
「いえ、私も勝手に体が動くとは思わなかったのです。自制できなくて……」
リーベは『恥ずかし』かった。そんな『感情』を持つこと自体が初めてではあるものの、自制できなかったことが『恥ずかし』かった。
「いや、恥ずかしがることはない……ってわけじゃないけど、人間は誰しも程度の差はあるが衝動性を持つんだ。リーベはまだ人間でいうならば子供の段階なんだから、衝動性を抑えられないのは当たり前だし、さらに人間に近づいた結果ともいえるよ」
それを聞いて、また『嬉しく』なって抱きつきそうになったが、今回は自制できた。
「私はどんどん人間に近づいていっているのですね」
雪村はにやりと笑う。
「昔はもっと機械じみてたんだけどな。作った当初はとくに」
≪第六節 21070615-21070715≫
広い屋敷の書斎に、男と女性型人形の姿があった。男はあわただしく、電気コードや色とりどりのケーブルとチューブを人形に接続していた。その人形は澄んだ青い目と豊かな金髪を持ち、メイド服を着せられていた。それをリーベの基礎AIは中核システムを通して記録していた。
男は雪村だった。そして、人形はまだメインのAIを搭載されていないリーベだ。
その日、雪村は落ち着かなかった。
「AIであるアルタイルとヴェガが独立して稼働することを先日確認した。で、今日はその二つのAIが統合されて稼働する。もともと運動制御用と記憶制御用、家政婦のベースAIは搭載しているが、それだけではただの家政婦アンドロイドと変わらないんだ……。僕が作りたいのは、そんな普遍的なものじゃない。バグがないとは言えないし、エラーを吐かれる可能性はある。だが……やってみないとわからない」
雪村は年代物のPCに起動コードとパスワードを打ち込む。すると、画面に「起動しますか? Y/N」というウィンドウが出た。
タンッという乾いた音とともに、Yのキーが押し込まれる。
PCのファンの回転が早まる。画面には様々なウィンドウが現れては消えを繰り返していた。
「さあ、こい」
雪村が叫ぶ。少したったのち、AIが正常にダウンロードされたことを示す表示が出た。
「あ、あっ……うっ……」
情報の奔流がリーベを襲い、適切な場所に収まろうと暴れまわる。それを、基礎AIは適切な場所へと当てはめていった。その光景を、雪村は関節が白くなるほど手を握りしめながら見つめる。
少しして、リーベは口を開いた。
「マスター……」
「話せるのか。君のパーソナルデータは?」
リーベは目を瞬かせながら、答えた。
「IDはL21070615A、パーソナルネームは登録されていません。身長は160cm、体重は70kg、耐用年数130年。スリーサイズは上から85/58/90です。マスターは雪村尊教」
「上出来だ。パーソナルデータはアルタイルとヴェガがなくてもいえるが……。フィボナッチ数列22項目は?」
「10946です」
「では、君は花を見て何を思う?」
「アルタイルは媒介するものがいなくては繁殖することができない植物が、どうにか得た非効率的な生殖手段だと。ヴェガは大多数の意見と同様に花を美しいと言っています」
雪村は満足げに頷く。
「成功だ。この堅苦しさは間違いなくアルタイルだし、抽象的表現を行えるのはヴェガの特徴だ」
「マスター、私は何をすればよろしいですか?」
「まず、君に名前を付けよう。君の名前は、リーベだ。そして、僕のことはマスターじゃなくて、雪村と呼んでほしい」
リーベは少し考え、口を開いた。
「パーソナルネームに関してはわかりました。ですが、私はマスターを呼び捨てにはできません。敬称をつけて、雪村さんと呼びます」
「リーベが納得する形で呼んでくれて構わないよ」
「わかりました」
リーベが起動してから一週間。ディープラーニングと教育AIによって、リーベはありとあらゆる分野の知識をインプットした。料理の作り方と盛り付け方、家事の仕方、十か国語などインターネットのない状況でも、知識を使えるようにされていた。
6月22日、リーベは雪村を呼んだ。ここ一週間、リーベはずっと雪村の書斎にこもっていたのだが、勉強をする意味が分からなかったからだ。
雪村が書斎に入るのを感知すると、リーベは見ていた教材から顔を上げた。
「雪村さん、私はなぜこんなにいろいろなものを覚えなくてはならないのでしょう? サイバー空間上のクラウドやサーバーへアクセスすれば、覚える必要はありません」
「いやかい?」
「いえ、嫌ではありません。ただ、気になるだけです」
雪村がにっこり笑う。
「なるほど、どうにかこうにか形にした知的好奇心の部分か。うまく動作して何よりだ」
「雪村さん?」
「ああ、その理由はね、インターネットに繋ぎっぱなしだと君の情報が流出する可能性もあるし、インターネットからいちいち引っ張り出していてはラグが生じるからだよ。たしかに君の言う通り、記憶領域をサイバー空間のクラウドに置けば、重量の大部分を占める量子記憶装置が必要なくなる」
「はい。それに、電力消費も抑えられますし、経年劣化における記憶の損失も防ぐことができます。それは先ほどのデメリット以上のメリットだとおもいますが」
雪村はそれを静かに聞き、そして言った。
「じゃあ、そうだな……インターネットがなかったら、君の案はどうなるだろうか?」
リーベは少し考える。
「……すべての記憶にアクセスできません。それだけでなく、新たな知識も手に入らないことになります」
「それに、インターネットがない状態というのは、かなり危機的な状況だろう。その状況下で、判断するための知識がなければ? たぶんだが、君は機能停止することになる。僕は君を殺すために作ったわけじゃない」
リーベはそれを聞いて、ありとあらゆる可能性を精査し、頷いた。
「勉強します」
「よく言った。さすがはリーベだ」
雪村はその答えを聞いて、感心したように頷く。ただ、一つだけ付け加えた。
「まあ、料理の知識が命を助けることにつながるとは思えないけどね」
また一週間が経った。リーベはすべての教育プログラムを修了し、完全に家政婦アンドロイドとして稼働できるだけのデータをそろえた。それだけではなく、複雑な概念をパターン化することや新たなソースコードを書くために、雪村によってロボティクスとAI工学の知識を得た。もちろん、基礎教養修了レベルの基礎知識やマナーなども一通り得た。
6月29日、リーベは正式に雪村の家政婦アンドロイドとして働くこととなった。
「雪村さん、コーヒーが入りました」
「お、ありがとう」
昼頃、リーベと雪村は昼食を食べ終えた後でくつろいでいた。そのとき、リーベが聞いた。
「雪村さんは家政婦アンドロイドを一体しか導入しないのですか? 一般には数体導入するか、一体は家政婦アンドロイド、もう一体はセクサロイドというような形で一般家庭に普及しているようですが」
雪村は、コーヒーをすすりながら話を聞いていた。マグカップから口を離すと、笑いながら話しかけた。
「リーベ、僕は一般じゃないんだ。それに、僕一人なら君がいるだけで十分だから。それとも、リーベはもう一体ほしいかい?」
「私に決定権はありません。私にあるのは雪村さんの決定に従うことだけです」
「うん、たぶん僕が死ぬまで君と僕だけだと思うよ」
「死……?」
雪村は考え込む仕草をした。いつも見る、顎に手を当てる仕草だ。
「そうか、死の概念がAIにはないのか。確かに現在のAIはクラウドを用いてどんどん情報を蓄積するから、一個体が何らかの原因で停止しても、クラウド上に記録が残り別の個体が引き継げる……なるほどな」
コーヒーを一口飲む。
「リーベ、いつか君が目の当たりにする、最期のことだよ。詳しいことは、今の時間だけでは語り切れない」
「単語としての死は知っており、生命には必ず訪れるものです。ですが、それが何でどういうものなのかが私にはわかりません」
「大丈夫、いつか経験することになるはずだから。ただ、『経験は最良の教師である。ただし、授業料が高すぎる』というカーライルの言葉そのままになりそうだけどね」
少しの間考えたが、結論はこうなった。
「やはり、私には理解できません」
雪村はコーヒーを飲みほした。
「ゆっくりやっていこう。時間はまだあるんだ」
さらに一週間がたった。家事はぎこちなさがなくなって、効率は家政婦として働き始めたときの数十倍になっていた。その姿に雪村は満足していたようだが、リーベはこれで良いのか、期待を裏切っていないかという、機械としての問題がしばしば頭をよぎっていた。
そんなことを考えながら、雪村のいる書斎にコーヒーを届けて出ていこうとしたときに、後ろから声をかけられた。
「リーベ?」
「はい、雪村さん」
「たまに不安そうというか困惑しているような表情をするけど……気になるんだ。僕がなんか不安になるような原因になっているんだろうか?」
「えっと……ある意味では。私の仕事が雪村さんにとって十分かどうか……私にはわからないのです。私は人間に近いAIとして生まれました。一般のAIは達成度を論理的に総合し、それで閾値を超えた場合、達成したとします。私はそうやってみることもできますが、客観的に見てどうなるのかがわかりません」
それを聞いた雪村はおもむろに椅子から立ち上がり、微笑んでリーベの頭を撫でた。
「これが、リーベの客観的評価だよ。頭を撫でられるほど、素晴らしい仕事をしている」
リーベは初めて撫でられたことで、両方のAIが処理しきれずにオーバーヒートした。顔が真っ赤になり、体温が急上昇した。
「あ、いえ、あの、その……」
「ちょっと唐突すぎたかな? でも、これが君への正当な報酬だと思ったんだ」
雪村はリーベから離れたが、オーバーヒートしているリーベの量子プロセッサーと電子頭脳は、しばらく落ち着きそうになかった。
「リーベ? そんなに処理が増えるかい?」
「いえ……いや、もちろんです。こんなことされるなんて全く予想できませんでしたから……」
雪村は笑っていた。
「まさか、機械の予想を超えることができるとはね……僕の頭も、まだまだ衰えてはいないようだ」
「今度から、なでるときは一声掛けてから撫でてくださいね」
「それじゃリーベのかわいい姿が見れないから、もったいない気がするんだけどな」
雪村が肩をすくめる。それを聞いて、リーベの頭はまた混乱した。
7月15日、リーベが生まれてから一か月。
撫でられて以来、リーベは前以上の仕事ぶりを発揮していた。その仕事の精度は、一般的なAIにはありえないほどの速度で上がっていった。
夕飯を食べ終わったあと、リーベは雪村にこう聞かれた。
「リーベ、仕事をするのは楽しいかい?」
夕食の片づけをしているリーベは、片づけをアルタイルに任せ、ヴェガを用いて答えた。
「楽しいという概念は私にはわかりません。私は自らができる最高の水準で仕事を命令通りにこなしているだけですので……」
その返答を聞いた雪村は少々残念そうな顔をした。
「やはり、リーベほどの頭脳ですら抽象的な概念を理解するのは難しいか。とはいえ、まだ一か月では仕方ないね」
失望の表情でリーベはいう。
「期待に応えられず、申し訳ありません。できるだけ早く期待に応えて見せますので」
「いや、無理に急ぐ必要はないよ。あまり無茶をしすぎて君を殺してしまうことになったら、僕は生きていけない」
「私の代わりはたくさんいると思いますが……市販されていますし」
雪村は眉を吊り上げた。
「リーベ。僕は、君を消耗品と思っていない。君は君だ、唯一の存在だ」
「どういうことです……? 私はほかのAIを触れ合ったことがありません。私はほかと何が違うのかわかりません」
「そうだな……具体的には言えないが、あえて言うなら、君は僕にとっての大切な人なんだよ。大切な人は簡単に変えられるものじゃないし、替えがあるわけじゃないんだ」
リーベはその発言で困惑した。
「えっと……?」
「ああ、抽象的過ぎたか。うーんとね、リーベにとって僕の代わりはいるかな?」
「いえ、私のマスターは雪村さんだけです」
「じゃあ、僕の近くにいるアンドロイドはリーベだけだよ。そんな感じ」
そういわれても、やはり困惑してしまったリーベは、口癖のようにこういった。
「……わかりません」
≪第七節 21100615≫
「あのころに比べれば、リーベは本当に進化したね。わからないということが減ったんだから」
「何もかも、雪村さんのおかげです。教えてくれなければ、私はここまで色々な『感情』を理解することはできませんでした」
リーベはにっこりと笑う。昔に比べ、その顔には感情らしいものがあるようだとヴェガが評価を下す。
その顔を見て、雪村も「人間らしく笑えるようになったね」と言って微笑んだ。ただ、何か思いついたような顔で呟いた。
「まあ、こういうおめでたい時に言うのもなんだけどね」
雪村が若干意地の悪い顔をした。
「なんで、僕のことをCCTVカメラで観察したのかな?」
「え、あ、いや、その」言葉に詰まる。でも、正直に言うことしかできない。「……申し訳ありませんでした。私にあまりにも進歩がないもので、雪村さんが失望して新しいAIを買いに行ったのではないかと思いまして……それで捨てられるのかと」
「そして、そうじゃなかったけど、僕が風俗に行ったと思って怒った?」
「はい……」
リーベは雪村の目を見られなかった。主人のことを疑うAIがいるという時点で問題であり、ほかのAIを拒絶することは基本的にはできないはずだったからだ。
それに、なにより恥ずかしい。
「帰ってきたら返事もないし、レーベンは飛びついてくるしでびっくりしたんだよ。レーベンのおかげでいる場所が分かったからよかったけど、心配したんだからね?」
「はい……もうしません」
「まあ、人間らしいというか嫉妬は愛情の裏返しみたいなものだから……ある意味、素晴らしい成果だともいえるんだろうけど、心配させるのはやめてほしいな」
「にゃー」
レーベンがリーベの足に顔をこすりつけてきた。甘えたいときかリーベが悩んだり困ったりしているときは、必ずレーベンはそうしてくるのだ。
それを見て落ち着いたリーベは、気になることを思い出した。
「雪村さん?」
「ん?」
「でも、なんで私がカメラであなたを見ていたとわかるのですか?」
それを聞かれた雪村は、得意げな顔でこう答えた。
「僕は必ず、CCTVカメラの場所を確認する癖があるんだ。それに、『ほかのAI』ってことで、それが人間でいうところの嫉妬だと予想した。となると、『ほかのAI』がいて、僕のことがCCTVカメラで見える場所。つまり、あのビルってことさ。あそこは入り口にカメラがついているからね」
「そんな癖があるとは思いませんでした……」
「それ以外にもあるんだよ。僕も、まったく人づきあいがなかったわけじゃないから、人が怒っているかどうかくらいはわかる。で、リーベの態度は人が怒ってるのにそっくりだったから、それで『怒り』が生まれたことを知った。その原因は何か、『嫉妬』だろう。さらにきっかけは? 僕が一人で出かけたという『疑惑』だとね」
聞けば聞くほど、リーベは驚いた。アルタイルとヴェガでさえ、まったく予備知識がない状態からここまで予想するには時間がかかる。
「あの数分だけでそこまで予想できたのですか……?」
「実際は瞬時に分かったようなもんだけど、それの裏付けをとるために時間を要したんだ。まあ、似たようなことがあったから瞬時に分かったんだけどね」
「似たようなことですか?」
雪村の目に影が走った。
「そのことは、いつか話してあげるよ。今日は疲れてしまったから」
「あ……わかりました。シーツは新品に変えてありますので」
「ありがとう、リーベ」
雪村は歯を磨きに洗面台へ向かった。その背中はなにか沈んでいるように見えた。
「にゃー」
レーベンが雪村の後ろをついていく。余り懐いていないはずなのに、珍しいことだった。
でも、レーベンはまるで人の心がわかるかのように、悲しみや苦しみを背負う人について行って寄り添うのだ。
≪第八章 21101225≫
あの誕生日から半年後のクリスマス。世の中は祝い事ということをしていなかった。クリスマスはもちろん、誕生日を祝う習慣もなくなっていた。
なにしろ子供は、AIが判断した遺伝的適合率の高い人間同士の遺伝子を掛け合わせて人工授精を行った後、人工子宮(Artificial Uterus)で育てられていたのだから。そうして、合計特殊出生率を2.5に保ちながら少子化を止めていた。葬式もなくなり、人が死ねば遺体はドローンで回収されて火葬され、共同墓地で無造作に葬られていた。そこに人間の尊厳などというものはなかった。
怠惰と傲慢により、多くの人間は尊厳を捨てた。雪村はそう言っていた。
そんな中、リーベと雪村はクリスマスを祝っていた。尤も、どちらもキリスト教徒ではなく無宗教なのだが。
クラッカーの音が鳴り響く。それに驚いたレーベンはテーブルの下に滑り込んだ。
いつもは白と黒のメイド服だが、今日は赤と白のサンタ服を着たリーベがそこにいた。雪村はサンタ帽をリーベに被せられた以外はいつもどおりのラフな格好だった。
今日、クリスマスをしようといったのはリーベだった。仕事の合間に見ていたタブレットで、何十年も前に衰退した文化を見つけたのだ。
「Merry Christmas!」
「……Frohe Weihnachten」
雪村が沈んだ声で呟く。それを聞いて、リーベは口を突き出した。
「わざわざドイツ語でいうのはいいとしても、もう少し元気に言いましょうよ」
「いや、だって、僕そんなに乗り気じゃないし、英語苦手だし……」
「TOEICのスコアが900なのに」
リーベが拗ねるような顔をする。
「読むのと聞くのだけできるからね。書くのはってか表現するのはあんまり得意じゃないし、発音は致命的なんだ……」
雪村は居心地の悪そうな顔をしていた。
「まあ、楽しみましょう?」
リーベが声高に言うと、雪村が半笑いのような顔で呟き始めた。
「今日はテンションが高いなあ……いや、いつもわがまま言わずに頑張ってくれてるから、今日くらいはいいんだけど。しかし、『感情』が生まれたとはいえど、人間でいう精神年齢はまだ子供に近いんだろうな。今の子供はこんな子ほとんどいないけど」
「料理運んできますね!」
そういってリーベは雪村の独白を無視してキッチンに行った。それでも、リーベは雪村が微笑んでいるのを見逃さなかった。
運ばれてきた料理は本で見たものと同じくらい、豪華だった。定番ともいえる七面鳥の丸焼きやローストビーフはもちろん、栄養のことを考えてなのかサラダやグラタンなどが並んでいた。
「ケーキはまた後で運んできますので」
「おお、凄い量だ……食べきれる気がしない」
「食べきれなかったら、また明日にでも別の形でお出ししますよ」
雪村がナイフとフォークを使い、料理を食べ始める。雪村に料理を取り分けながら、リーベは微笑む。その合間に、レーベンは雪村から鳥肉をもらっていた。
その光景はまるで家族のようで、今ではほとんど消えてしまった光景だった。
「おいしいよ、リーベ」
リーベはつぶやく。
「私も一度、自分の料理を食べてみたいですね……雪村さんが食べている光景を見ると、とてもおいしそうです」
「ああ、そうか。リーベは食事する必要がないから、食べられないんだもんな……味覚自体は存在しているけど、それは機械的な処理しかできないのか」
雪村は考える仕草をし始める。
「いえ、あまり深く考えないでください。食べましょう、さあ」
それが聞こえていないかのように雪村は考え続ける。そして、いきなり思いついたように雪村は手をたたいた。
「そうだ。リーベ、口を開けて」
「え?」
「いいから、いいから」
言われた通りに口を開けると、雪村が突然ローストビーフを刺したフォークをリーベの口に入れる。
リーベは一瞬、何をされたのかがわからなかった。味見するためのセンサーが反応するのは当たり前だったが、それ以上に雪村がなにを意図してこんなことをするかがわからなかった。
口に物が入っている以上、もごもごとしか話せず、雪村に聞きたいことがあふれ出る。
「これくらいでいいか」
そういうと、肉の刺さったフォークをリーベの口から引き抜き、水溶性潤滑物質付きの肉を雪村は口に入れて嚥下する。飲み込んだ後、雪村はこう聞いてきた。
「おいしかった?」
聞きたいことはいくつもあったが、一番聞きたいことを優先した。
「いったい何をしたかったのです?」
「いや、味を感じるセンサーがあるなら、いくつかの『感情』を有する状態のリーベならおいしいと認知できるかと思ったんだけど……難しかったようだね」
「あまりにも唐突で、味を感じても『感情』が動くことはありませんでした。思考停止です」
それを聞いた雪村は、鶏肉をフォークにさした。
「じゃあ、もう一回……」
「ダメです」
「なんで?」
「『恥ずかしい』からです。それに不意打ちじゃなければいいというわけではありません」
リーベは内心、雪村の意図を聞いてもう一回やってもらいたかったが、『恥ずかしさ』がそれを押しとどめた。それと同時に、思いついたことがあった。
「ついに『恥ずかしい』まで、生まれたのか……」
「雪村さん、口を開けてください」
「ん?」
雪村が口を開ける。そこに、先ほど雪村が鶏肉を刺したまま放置されていたフォークを入れる。そして、雪村が口を閉じたタイミングでそれを引き抜いた。
「おいしいですか?」
少し驚いた顔をしたまま、雪村はそれを咀嚼して飲み込んだ。
「リーベが仕返ししてくるとは思わなかったよ。もちろん、おいしかった。普通に食べるよりもね」
「普通に食べるよりですか?」
「うん。今はほとんどないけど、昔は家族が一緒に食べていたんだ。尤も、それは僕が生まれるよりも何十年も前の話なんだけどね」
それを聞いて、家族とは何なのだろうかとリーベは考え、聞いてみた。
「雪村さん、家族って何なのでしょう?」
「う、うーん……」雪村が悩むように眉を顰める。「すでに生まれた時にはAIが管理していたし、僕は親となった遺伝子のドナーがどちらも亡くなっていたから、家族っていうものに触れあったことはないかな。ただ、今のリーベと僕、レーベンは家族だと思うよ。僕もナノディスクで、家族っていうものが何なのかを見ただけなんだけどね」
そういわれて、リーベはなんとなくわかったような気がした。近くで常に一緒にいれば、家族といえるのではないかと。アルタイルはそれに関して非論理的だと反論していたが、ヴェガは家族という抽象的なものを理解するにはその程度の認識でよいとしていた。
レーベンが呼ばれたと勘違いして、雪村の座っているソファに乗ってくる。雪村はレーベンの背中に手を置いた。
「しかし、レーベンも慣れたなあ。昔は僕の姿を見るだけで逃げ回っていたのに」
「猫は優しい人のところに行くと本で読みましたよ。きっと、雪村さんは優しいのです」
雪村がレーベンを撫でているのを見て、リーベは微笑んでいた。これが家族なのだろう、そう思ったから。
少したってから、大量にあった料理をすべて平らげた雪村を見つつ、リーベはケーキを運んできた。
「はい、どうぞ。食べられるといいのですが」
ケーキはよくある砂糖菓子の乗ったクリスマスケーキで、すべてリーベが手作りしたものだった。
「おお……これは、全部手作り?」
「もちろんです。原料は買いましたが」
「そこまで手作りだったら、僕は言葉に困るだろうね」
リーベはナイフを使って、ケーキを均等に切り分ける。そのうちの一切れを、雪村の皿にのせた。
「にゃー」
「レーベンもほしいの?」
「にゃん」
「全部はあげられないから、クリームだけね」
ナイフについたクリームを指でとり、レーベンに差し出す。その指についたクリームをレーベンは隅々までなめた。
「あんまりあげすぎないようにね。沢井に殴られるから」
「わかるのですかね……?」
「あいつの直感は動物並みだから……あり得なくもない」
そんな他愛もない話をしながら、雪村はケーキを食べていた。その光景を見て、リーベは微笑んでいた。やはり、自分の作ったものをおいしそうに食べてもらうのは『嬉しい』。
「でも、リーベがいきなり『クリスマスパーティーしましょう!』って言ってくるとは思わなかったなあ」
ふと、雪村がつぶやく。
「人間でもそういう自主性が出てくるのは4歳くらいからなんだ。それが、リーベは三年半だからね。個人差で片付けられるレベルだけど、早いなって思ったんだ」
「そうなのですか?」
「うん。僕も発達心理学はあまり得意ではないから間違ってる可能性は高いけど、リーベを育てるにあたって粗方覚えたんだ。まあ、人間というか生物には必ず例外があるから……」
「そこがAIと生物の決定的な違いかもしれませんね」
雪村は頷いた。
「確かにその通りかもしれないな」
「雪村さん、口の端にクリームがついていますよ」
リーベは布巾を手に、雪村についたクリームを拭いとる。
「ああ、気付かなかったよ」
「珍しいですね。口の周りにものつけることなんてあまりないのに」
雪村は頭をかいた。
「今日は珍しいことばかりだな」
≪第九節 21110308≫
あのクリスマスから三か月後。
リーベが家の中を掃除し、雪村がいつもどおり書斎にこもっていて、レーベンはリーベの後ろをついていた。
廊下の掃除が終わったその時、リーベ宛に電話が入った。
「はい。リーベです」
『よう、リーベ。沢井だ。今、時間はあるか?』
「沢井さんですか。問題ありません」
『そうか。実はな、あの猫の健康診断をしようと思ったんだ。もうお前たちのところに行って二年近くになる。特に連絡がなかったことを考えると健康状態は良さそうだが、一応のためな』
「わかりました。雪村さんに伝えておきます。いつ頃来られますか?」
『そうだな、13:00頃にそっちにいく』
「わかりました」
そういって電話が切れる。すぐにリーベは掃除用具をしまって、雪村の書斎に向かった。
書斎のドアをノックする。いつも通り声はしなかった。
ドアを開けると、雪村が紙媒体に日記を書き綴っていた。たまに書斎で日記を書いているようで、いつも中身を見たいとは思うのだが、雪村は過剰と思えるほどのセキュリティをかけていた。具体的には暗証番号20桁の大きな金庫のなかに、12桁の暗証ロックとダイヤル式ロックを持つ小さな金庫を入れ、その小さな金庫の中に鍵をかけた日記を入れていた。
アルタイルの性能をフルに使えば、解錠は不可能ではないが、10年ほどかかる計算だった。それに、そんなことをすれば雪村はリーベを叱るだろう。それだけは避けたかった。
「あら、また日記をつけていらっしゃるのですね」
「まあね。デジタル媒体でもいいんだけど、それだとリーベにハッキングされそうだからね。実際、すごい興味あるでしょ?」
「ええ、もちろん。雪村さんが何を考えているのかわかるでしょうから」
雪村は書き終えたのか、日記を閉じて鍵をかけた。そして、それを小さな金庫に入れ、大きな金庫に入れてドアを閉じた。
「で、どうしたの?」
「はい。先ほど、沢井先生からご連絡がありまして、レーベンの健康診断に13:00に来るとのことでした」
「なるほど、わかったよ。沢井はコーヒー派だけどペーパーフィルターのほうが好きだから、それで淹れたほうがいいと思うな。あと、時間も時間だから、昼ご飯もあると喜ぶと思う」
リーベはお辞儀する。
「わかりました。そのようにします」
「うん、お願い。ありがとう、リーベ」
そうしてリーベは一礼をしてから、雪村の書斎を後にした。
13時05分、屋敷の前に自動タクシーが止まる音がしたすぐ後に、インターフォンがなった。
「はい」
カメラ越しに、ワイン色のパーカーと診察道具が入っていると思われる工具箱をもった沢井が見えた。
「俺だ、沢井だ。開けてくれ」
「わかりました」
そういったが早いか、リーベは玄関のドアを開ける。
「こんにちは、沢井先生。お待ちしておりました」
「よう、リーベ」
沢井は軽く挨拶をすると、靴を脱いで家に上がった。
玄関の開閉音を聞いたのか、それともほとんど嗅いだことのない匂いがしたのか、レーベンが奥から出てきて顔を見せる。
「にゃっ?」
「おお、元気そうだな。久しぶりに見る面におどろいたか?」
沢井はレーベンの頭を撫でようとするが、レーベンはそれをするりと躱した。
「まあ、そうなるよな。この子の名前は?」
「レーベンです。私が付けました」
「『命』か。ほう、リーベが……。雪村はどこにいる?」
「ダイニングのほうで待っています。もし、よろしければご昼食を一緒にと思いまして」
「まだ昼食食べてないから、ちょうどいいな」
リーベが沢井を先導し、ダイニングに通す。すると、雪村が口を開いた。
「やあ、沢井」
「よう、雪村」
雪村はすでに昼食を食べ始めていた。それを見て、沢井はリーベが引いた椅子に腰かける。位置としては、雪村と対面になる形だ。
「リーベ、コーヒーあるか?」
「ええ。少しお待ちください」
リーベはキッチンに行き、来客用のマグカップにコーヒーを注ぐ。
それをお盆に乗せ、沢井のもとへ運んだ。雪村と沢井の足元には、レーベンが物をもらおうと待機していた。
「この様子を見ると、お前ら人間の食べ物やってるな?」
沢井がサンドイッチを勢いよく食べながら、雪村にそう聞く。
「いや、たしかにあげてるのはあげてるけど、そんな頻繁にあげてるわけじゃないよ?」
雪村の小指がピクリと動き、目が一瞬だけ沢井から離れた。雪村が嘘をつくときは、必ずこの癖が出る。
「お前は嘘がわかりやすい」
雪村が図星を指されたように唸る。沢井がため息をついた。
「少しならあげても構わないが……調味料がついていないところにしろよ。あと、人間の食事で満腹にしないこと。餌をメインにさせろ」
「はいはい……」
「まあ、なぜか栄養食ばかり食う動物より、人間のものをたまに食べる動物のほうが長生きだったりするんだがな。好きなもん食ってたほうが長生きなのは動物の特徴みたいなもんかもしれん」そういって沢井が雪村を見る。「だからといって、あげすぎるなよ」
「沢井先生、コーヒーです」
「ん、ありがとう」
沢井がコーヒーを飲む。ふと、沢井がこういった。
「しかし、お前らに拾われてよかったかもな」
「え?」
「これが他の奴らだったら、速攻で保健所だろう。ただ、お前らみたいな異端に拾われて、俺みたいな異端が対応できたから、この子は殺されなかった」
「ああ……。そういえば、処分を減らす運動を最近見ないな」
沢井がコーヒーを一口すする。
「誰もできないのさ。その運動を支持しただけで、アンドロイド所有権をはく奪される」
アンドロイド所有権とは、アンドロイドを数の制限なしに所有できる権利のことだ。もし、これがなければアンドロイドを所有することはできず、怠惰な生活を享受することができなくなる。つまり、大多数の人間にとっての死だ。
「俺は処分を減らすためにブラックゾーンに足を踏み入れてるが、そんなことやるのは後先考えない偽善者でただの阿呆だ。捕まった場合、俺は余罪も多いから最低十年は強制労働だろう」
「まあ、僕も人のことは言えないけれどね」
「俺らだからな、仕方ないねえよ。さて、昼食もおいしかったことだし、仕事するか」
何かを察知したレーベンは逃げた。
結論を言うと、沢井の追い込み漁によりレーベンは捕まった。
「猫はここをつかむと大体おとなしくなる。とはいえ、個体差はあるがな」
そういいながら、沢井はレーベンの首の後ろをつかんだ。
「うーん、僕どうしようかな。見ててもいいんだけど、ちょっとやりたいことがあるんだ」
「では、私が何かありましたら対応します」
「そういってくれるなら、リーベに丸投げするかな。沢井、よろしくね。くれぐれも手を出さないでよ?」
「俺は無性愛者だ。お前も知ってるだろうが」
「そっちの意味じゃないんだけどな……」
そう呟きながら、雪村は書斎へ向かう。沢井はレーベンの腹を触診したり、道具を取り出したりして簡易的な血液検査をし始めた。
その光景を壁際で見ていたリーベは、ふと口を開いた。
「沢井先生」
「ん? なんだ?」
「なんで、生物はものを食べるのでしょうか?」
「なんでって……そりゃあ、食わなきゃ死ぬからだ。レーベンも俺も雪村もな」
「じゃあ、なんでおいしいものを食べようとするのですか? 理論上、成人男性は2000kcalを摂取して幾つかの栄養素をバランス良く配合したものを食べていれば、何も問題は起きません。ですが、雪村さんはおいしいものをよく食べています。レーベンも、餌より人のご飯を好んでいます。どうしてなのでしょう?」
沢井は片耳に聴診器のイヤーピースをして、レーベンの心音を聞きながら言った。
「生物ってのは、ストレスがかかるとあっという間に壊れる。そのストレスを解消する手段の一つが食だ」
リーベは理解しようとしたが、よくわからなかった。なぜ食でストレス解消になるかがわからなかった。ストレスが最強の発がん物質と言われていることくらいは知っていたが。
「そうだな、俺はAIに詳しくないが……例えばだ、リーベが雪村と離れ離れになったらどうする?」
「嫌です。絶対嫌です」
リーベの澄んだ目が右往左往する。考えただけで、エラーがあふれ出た。主人のいないアンドロイドはすぐさますべての記録を破壊され、セーフモードになるからだ。
沢井は聴診器をしまい、カバンからポータブルレントゲン装置を取り出して、骨や関節の具合を確かめ始めた。
「まあ、そうなるだろうな。そんな時に雪村の写真か日記か、まあなんでもいいが、あいつを思い出すものがあればどうだろうか。あいつが隣にいるよりは程度が小さいだろうが……少しは落ち着くだろう」
「確かに……そうかもしれません。命令がないと私は動けませんし……」
「それが生命にとっての食であり娯楽だ。理論上はお前さんの言う通りなんだが、人間は食という楽しみがないとすぐぶっ壊れる。お前さんにとっての雪村の写真だよ」
その説明を聞いて、なんとなくだがわかった気がした。人間にとって、なくてはならないのだ。AIにマスターがいないとならないのと同様に。
「まあ、食ばかりじゃなくて運動だとか雪村みたいな変態はプログラミングだとか、ストレスを解消する方法や娯楽はほかにもある」沢井が首を傾げる。「しかし、なんでこんなことを聞くんだ?」
「いえ、実は──」
リーベは12月25日の話をした。雪村がリーベと一緒に食事を楽しむために、口の中にローストビーフを突っ込んだこと、その仕返しにリーベも雪村の口に鶏肉を突っ込んだこと。
沢井はその話を聞きながら、過呼吸気味になるほど大爆笑していた。とくに引き抜かれたローストビーフを雪村が食べた下りでは、酸欠で顔が青くなりかけていた。
「そんなに笑わないでくださいよ」
「いや、お前さんたち、何馬鹿みたいなことやってんのかと思ってな」
笑いながらも、沢井はレーベンを掴んでいた。そのせいか、逃げたいが逃げられないレーベンの顔は、とてつもなく不機嫌だった。
「私もあんなことされるとは思わなかったのですよ」
笑いの発作をどうにか抑え込んだ沢井は、まじめな顔で言った。
「お前さん、俺に聞きたいのは『アンドロイドはなんで食べれないのか』だろ?」
「えっ?」
「12月25日のことがあって、それを聞きたかったが、直接聞いたら気まずいから外堀から埋めようとしたんじゃないか? まあ、単純に食べる意味が気になったともとれるが、それならわざわざ12月25日の話はしないで済むしな」
「えーっと……はい、沢井先生の言う通りです」
リーベはばつが悪そうに沢井の顔から目線をそらした。
「ふむ、特に異常はないな。逃げていいぞ」
レーベンを逃がして、リーベと向き合った沢井は肩に手を置いた。
「理由はな、やっぱり『食う必要がない』からだろう。どうしても、そこは生物と無生物の違いが出てくる。それに、例え食えるようになったとしても、消費されないのなら無駄になってしまう。お前さんの我儘で一体どれだけの生命が無駄になる? ただでさえ、人間は飽食と破棄を続けている。さらに命を無駄にするのか?」
リーベは『恥ずかし』かった。自分のわがままの陰に、多くの犠牲があることを。『生命』の概念はいまだにわからないが、それはとても尊いものだとわかっているつもりだった。その尊いものを自分は無駄にしようとしたのだ。
「たしかに、人間である俺にいう資格はない。俺だって食わなきゃ死ぬし、それが娯楽にもなっているからな。ただ、生きるために食うのと捨てるために食うのは全く違うことなんだ。まったく消費されなければ、無駄になってしまう。そして、AIは知っている限り消費できない」
沢井は手を肩から下した。
「あいつのことだ、言ったら口移しくらいしてくれそうだが……。アンドロイドには三大欲求がないことを考えると、そのせいで同一視されないのかもな。あいつの理論でいけばだが」
リーベは黙りこくっていた。人間にかなり近づけたと思ったのに、どうやっても近づけない壁が見つかってしまったのだから。それを超える手段を懸命に考えたが、結局思いつかなかった。
「もし、食べられないのも命を無駄にするのも嫌なら、雪村に相談してみろ。あいつなら、何年かかったとしてもその問題を解消しようとするだろう。あいつはそういう奴だ」
「はい……」
「俺は力になれないが、確かに誰かと一緒に料理を食べれるってのは楽しいしな。人間に近いってんなら、そう思うのもおかしい話じゃねえよ」
沢井が、何故リーベが一緒に食べたがったのかを理解してくれただけでも『嬉し』かった。
「いえ、相談に乗ってくれてありがとうございました」
リーベは沢井が帰る旨を雪村に伝えると、雪村は何かの設計をやめて書斎から出て、玄関まで見送りに来た。沢井は屈んで靴を履いている途中だった。
「リーベ、沢井が騒いでたけど、どうかしたの?」
「おい、人の名前でダジャレを作るな」
「いえ、ちょっとした笑い話を……」
「ふーん?」
沢井が靴を履いて立ち上がると、レーベンも見送りに来た。
「おお、見送りに来てくれたか。一応、少々肥満気味だがそのほか目立った症状はなし。人のやるものを控えるかカロリー落とせば、問題ない。いたって健康だ」
「ありがとう沢井。もし何かあったら、こっちから出向くよ」
「また二年後、回診にきてやるよ。今回は笑い話の報酬付きだったが、今度は無料でな」
「今度は無料だといいのですが……」
「笑い話?」
「二人と一匹、元気でな。じゃあ」
そういって、沢井は雪村を無視して、屋敷の前に止まっている自動タクシーに乗り込んだ。
沢井の乗ったタクシーが見えなくなったころ、雪村がリーベに声をかけた
「リーベ? なにかあったの?」
「えっ?」
いきなり声をかけられて、慌てたリーベは一瞬足をひねって転びそうになったが、立て直した。
「いや、なんか暗い感じがしたからさ……。なにか沢井に言われたのかなって」
「た、たぶん気のせいだと思いますよ。私、雪村さんの夕食の準備をしてきますね」
うわずった声で勢いよく家の中に入ったのを、雪村は疑いの目で見ていたのにリーベは気づいていた。
それからしばらくして、夕食の最中も雪村は何かを考えていたようだが、リーベの中の『失望』はそんなことに気を配らせてくれなかった。
夕食が終わり、雪村が書斎にこもっている時間。
リーベは割り当てられているものの、ほとんど使っていなかった自室にこもっていた。そこで、ほぼ新品同様の枕に顔を押し付けていた。
「うぅ……ぐずっ……」
──せっかく人間と一緒になれると思ったのに、どうして私の体は食欲も、性欲も、睡眠欲もないのよ。それさえあれば、もう壁はないのに!
「せめて、雪村さんと一緒にご飯食べてみたいなあ……きっと、味見とは比べ物にならないくらい、おいしいだろうなあ……」
リーベは目と鼻から出る保湿液で布団から枕まで、ありとあらゆる場所を濡らす。気づくと朝日が昇っていた。リーベは泣きはらしたような顔をニュートラルに戻して、ルーチンワーク通りに雪村の朝食を作りに行った。
≪第一章終節 21110615≫
リーベが人間との決定的な違いに気づいた時から、三か月後。あれ以来、リーベは目立った感情をだすことなく、まるで起動当初に戻ったように感情の変化がなかった。それを見て、雪村は心配していたようだが、自分にはどうにもできないと思ったのか、リーベとはいつも通り接していた。
訪れた6月15日。リーベの誕生日。
「リーベ、お誕生日おめでとう」
「ありがとうございます、雪村さん」
「にゃーん」
「ありがとう、レーベン」
今年の誕生日はこぢんまりとしていた。雪村の好きな料理であるリーベ特製のオムライスとリクエストのケーキが食卓の上に並んでいた。
すると、雪村が唐突に口を開く。
「今年は花じゃないんだけど、リーベに渡したい、というか……組み込みたいものがあるんだ」
「組み込む……?」
一瞬何を言いたいのかわからなかった。ただ、何らかの装置だろうとは予想がついた。
「うん、僕が設計した人工消化器をね。といっても、リーベの稼働に必要な水やミネラルを食料から抽出し、残りのタンパク質や炭水化物は触媒で最終的に二酸化炭素や窒素に変換するものなんだ。他にもより自然にするために、嗅覚センサーが食べ物のにおいを確認するか燃料や消耗品が減ると、お腹が減るような感じがするようにもなってるんだ」そういって、雪村は微笑む。「実は半年前から、というかあのクリスマスから、リーベに『食べる喜び』みたいなものを体験させてあげたくてね。世界中の論文引っ掻き回して作ったんだ」
言葉が出なかった。
その代わりなのか、保湿液があふれ出て、膝のアクチュエーターが機能しなくなった。人間で言うのなら、泣き崩れた。
「そ、そんなにうれしかった……? 『喜んで』もらえるのはうれしいけど……」
「えぐっ……ありがとうございます……ずっと、ずっと、あなたと一緒にご飯を食べてみたかったのです……」
レーベンが泣いているリーベの隣に歩いてくるのが見え、大きなお尻をリーベに当てて寄り添うのを感じた。
しばらくたってから、涙が引いたリーベは食卓の椅子に座り直した。
雪村曰く、人工消化器は一つの部品ではなく、ナノマシンだそうだ。これを注射することで、そのプログラム通り有機物や無機物を処理し、補充が必要なところは補充する。いわば、血液と消化器をひっくるめたようなものだ。
「でも、この人工消化器って私に必要なのでしょうか? 私は水素の供給さえあれば、10年は稼働できますが……」
「うーん、でもそれだと保湿液や潤滑物質、摩耗劣化による欠損は補填出来ない。そこで、これを使えば、核融合炉の燃料から部品まですべて賄えるんだ。食べなきゃ死ぬわけじゃないけど、食べないと稼働停止が早まる感じになるかな。まあ、セルフメンテナンスの最終系だね」
「なるほど……じゃあ、無駄にはなりませんね」
「うん。流石に熱力学第一法則は破れないから、水素補充は今後も継続して必要になると思うけど頻度は減るはずだよ」
リーベはつぶやいた。
「これなら沢井先生もなにも言わないはず……」
「ん? 沢井がどうしたの?」
すかさず雪村が聞いてくる。リーベは三か月前のことを話した。
「それであの日からなんかおかしかったのか……。あいつ自身に聞いてみないとわからないけど、その理論で行くなら僕の人工消化器は問題ないはずだ。無駄どころか使えるものは全部使うし、廃棄物は二酸化炭素と窒素、ごく少量の不要物だね。その不要物も水素補充のとき、ナノマシンが排出する」
それを聞いて、リーベはほっとした。
「まあ、若干人間超えてるけど……100%はね。クローンメカニクスを使えば、人間の体を手に入れられるけど、AIの性能を人間の頭は許容できないから、結局それはリーベじゃない。それに、何よりクローンメカニクスはあまりにも非倫理的だといわれてる。LPTで大量の新生児を殺している人間たちが言うのはおかしいと思うけどね……」
クローンメカニクスとは、性格や知能を持たない「人間の体」に脳の代わりとしてAIを投入する技術で、「生きるAI」として利用するという発展途中の技術だった。また、LPT──延命処理とも呼ばれる、世界平均寿命である90歳を超えて理論上最大値の120歳まで体を生かすための処理──は臓器不全を起こした臓器を「間引きした」子供たちから摘出した臓器で交換するため、以前は抗議が殺到していた。
今ではほとんどの人間がLPTに反対するどころか、その処置の内容すら知らない。それに、自らの利益になるならば、反対する必要はないという意見が多数だった。
「それでも、99%人間になれるなら私は受け入れます」
「わかった。注射した後、もし変なところがあったら報告してね。一応リーベに投与するものだから、細心の注意を払ってるけど、この世の中に思い通りなんてないからね」
「私は雪村さんを信用していますから」
リーベは『痛み』に耐えるため、目をつぶった。
「あと、食べた後は歯を磨いてね」
「わかっていますよ。慣れるまで磨いてくれたりはしないのですよね?」
雪村は冗談だと思ったのか、無視してリーベの首筋に注射器の針を刺し、シリンジを押し込んだ。そこまで痛くなかった。
油が流れていくような感覚とともに、リーベに新しいプログラムが追加される。そのプログラムはナノマシンの制御と充電をつかさどるものだった。
雪村が注射器を引き抜く。リーベは目を開けた。
「どうだい、リーベ?」
「……今のところ異常はありません。お腹すきました」
「なにかあったら言うんだよ。じゃあ、食べようか」
その後、雪村とリーベは食事した。ただ、オムライスは雪村の分しか作ってないので、リーベが食べたのはケーキだけだった。
雪村曰く、「あんまり偏ったものでない限りは、何食べてもそれが影響を及ぼすことはないよ」とのことだった。尤も、リーベは雪村と一緒のもの以外を食べる気はなかったし、考えもしなかった。
「雪村さんの食べるものって、こんなにおいしいのですね」
「食べると、リーベの『快』につながるようになってるはずだからね。なおのことおいしいと思うよ」
「本当、凄いプレゼントをありがとうございます」
雪村は謙遜するそぶりをしながらも、笑っていた。
「とはいえ、僕とリーベの考えてることが同じだったのには驚いたな。まさか、時期まで同じだとはね」
「私もです」
「案外、それ以外も一緒かもね」
リーベは微笑んだ。きっとそうなら『嬉しい』から。
「さて、僕はそろそろ寝るよ。なんだか、渡したら安心してしまった」
「あれ、歯磨き教えてくれるのではないのですか?」
「あれ冗談じゃなかったの?」
雪村が驚く。
「もちろんです。さあ、洗面所へ行きましょう」
リーベが雪村を引っ張って洗面所へ行く。
──こんな日が毎日だったらいいのにな。そうだったら、とても楽しいだろうな。
【後書き】
はい、私です、2Bペンシルです。こんな小説書くなんて、私らしくない? ごもっともですね。
今回の作品はTwitterで友人と話していた時に、「こんな感じのいいんじゃね?」という話になりまして、なんと私らしくない一週間ほどで書き終えた作品になります。いつも15000文字で3か月くらいかかるのに、45000文字で一週間とか、妖怪いそがしにとりつかれたんじゃないでしょうか。
作品ですが、読んでいただいた通り「AIと人間」と「感情と環境」の関係についてのものになります。最近のAIについてはあまり詳しくないところもあって、設定が甘いかもしれませんが……。ちなみにサブタイトルはエルク・H・エリクソンの「心理社会的発達理論」を参考にさせていただきました。一応、⑦までを予定としています。話的には⑦が一番話していた内容に近いですね。
読んでくださった方、今回も本当にありがとうございます。感想からツッコミまで、お待ちしております。
また、書くにあたって参考にさせていただいたサイト様に関してはWikipediaを除き、URLを最後に貼らせていただきます。この場を借りて、本当にありがとうございました。これからも参考にいたします。
参考にさせていただいたサイト様:
2017/12/25-リンク元が消えていたため、URLを消去いたしました。