元婚約者
「そういえば、ミチル」
「はい」
ペンを動かしていた手を止める。
今日は雨のため、室内で座学である。
とはいっても、一度全て修めているのでさらうだけだが。
「リョウヤに、目覚めたことを伝えたのか」
あなたがそれを聞くか…!
ミチルは心の中で叫んだが、表情は動かさない。
鍛えられた精神力はこんなところでも役に立つ。
「直接リョウヤさまに伝えたわけではありませんが、王家には報告してあるのでご存知だとは思います」
「元とはいえ婚約者だったのに、そっけないものだな」
そう。私には婚約者がいた。
その相手はイツキさまの弟君、リョウヤ・ロイスタリア第二王子殿下であった。
ミチルほどの力を持つ読人は、他国に渡ってしまえば脅威となる。
なるべくこの国に留めておきたい。
けれど、自国の貴族と結び付いてヘタに力を持たせたくはない。
幸いフローディア家は王妃の座に遜色ない家柄であるし、王子と婚約させてしまえばいいではないか、という親同士の話し合いのもと決められた。
もちろん、その当時からいつか王家を出る予定だった第一王子ではなく、第二王子との婚約であることは言わずもがなである。
イツキがいいと王にワガママを言ったはいいが、本人に拒否されてしまっては元も子もなく。
どんなに未練があってもイツキはもうティアード家の人間だ。
あそこにはちょうど年頃の娘が二人いたはずで、そのどちらを嫁にもらったのかは知らないが。というか知りたくもない。
左手の薬指に光る指輪が目に入るたびに、心がざわつく。
とにかく、イツキに婚約については触れられたくなかった。
「まあ、過去の話ですから」
「…そうか。しかし、ミチルはもう異界に縛られる心配はなくなったからな。それもどうなるかわからないぞ」
そういえば婚約を解消した表向きの理由は、ミチルがみちるの寿命以上に生きていられるのかわからないから、というものだった。
実際、それは誰にもわからなかった。
ミチルはみちるの寿命がもうそろそろ尽きるということを察していたし、まわりはミチルがみちるに同調する時間がどんどん長くなっていることに気づいていた。
みちるとともにミチルも死ぬかもしれない。
ミチルだけ帰ってくるかもしれない。
そんなきわどいところに存在するミチルを婚約者にしておくことは事実難しくて、すんなり婚約は解消された。
その表向きの理由はミチルが無事に目覚めたことで意味が失われてしまった。
確かにイツキが言うように、再び私を婚約者に、という声は上がるだろう。
しかし、本当の理由を知るミチルは、それは成されないことを確信している。
「リョウヤさまには今、ユリアさまがいらっしゃいますから」
そう。リョウヤは現婚約者、ペンシル公爵家令嬢ユリアを溺愛している。
ゆえに再びの婚約はないだろう。
この国は厳格な一夫一妻制であるし、第二妃ということも万が一にもない。
そして、王家との婚約が白紙になったミチルに残される選択肢は2つ。
死ぬまで家に引きこもるか。
王家に忠誠を誓い膝元で仕え果てるか。
ミチルは王家以外と結び付きを持つことを許されない。
もう女としての喜びは得られないが、それは別にいい。
ミチルにはそんなことよりやりたいことがある。
学院に行けば、あの人たちがいる。
優しい二人は、私がいたら想いあうことに罪悪感を覚えてしまうだろうと思って避けていたが。
でも、私は私のために、学院に行かなくてはならない。
「なあ、ミチル。ミチルはまだリョウヤを…」
イツキが何かいいかけたとき。
「ミチルさま、お勉強中に申し訳ございません。よろしいでしょうか」
「カンナ?ええ、平気よ」
珍しい、カンナが焦っている。
何かあったのだろうか。
「急ですが来客がございます。今は客間でお待ちいただいているのですが」
「お客さま?」
それが…、とカンナがいいかけたところに、一人の少女が飛び出してきた。
「ミチルっ!」
「ユ、ユリア?」
噂をすればなんとやら。
そこには、待ちきれず客間を飛び出してきたのだろうユリアと、それを追ってきたのだろうリョウヤがいた。
シャラン
剣を抜く音に何事かと振り向くと、イツキが剣を上段に構えリョウヤを見据えていた。
なんでめちゃめちゃ殺る気なのっ!?
「お前、何をおめおめとミチルの前に立っている。恥を知れ」
「兄さん!?ちょ、ストップ!」
「きかん!いざ!」
「やめーーーーーーい!!!」
ミチルは立てかけてあった自分の剣をひっつかみ間に入ると、鞘ごとでイツキの一振りを受け止める。
ついでに足払いをしかけるが、それは避けられてしまった。
「ミチル…いい動きだ」
「何を嬉しそうにしてるのです!急に剣を抜かないでください、しかもあろうことか殿下に!ユリアとリョウヤも、なぜ客間で待っていてくれないのですか!」
あ、ヤバい。
急に動いたせいか興奮したせいか、目が回る。
「ミチル?ミチルっ!」
ぐるぐるして真っ直ぐ立っていられない。
けれど今回も床に倒れる痛みはおとずれず。
この、冬の最中にある小春日のような穏やかな暖かさは。
「リョウヤ、覚えてなさい…」
「ええっ!僕!?」
みちる、あなたの中にいた頃の静けさが少しだけ恋しいわ。