ひみつのひーくん
「ええと……つまりは二重人格?」
黒絵の不十分な紹介に補足を求め、ようやく虹はあすかと瓜二つの容姿を持った『ひどり』という子供の正体に辿り着いた。
「男の子っぽいですけど……」
「ぽいも何も、おれは男だよ。文句あんのか?」
人格は男であると主張するが、身体はあすかのものなので女の子である。
「遠野さんの逆パターン?」
「一緒にすんな」
またしてもふくらはぎを蹴られた。これで四度目なので、ズボンを捲ってみたら痣だらけになっているかもしれない。
「こら、ひーくん! 蹴ったらめっ、ですよ」
黒絵にたしなめられ、ひどりは少し気まずげにそっぽを向いた。虹に対しては敵意を剥き出しにしているが、黒絵に対しては多少大人しい態度になるらしい。
「これから一緒に同じアパートで暮らすんですから、仲良くしましょうね」
「でもねーちゃん、コイツちゃんとしたヤツなのかよ?」
「ちゃんと、って?」
「ちゃんとした身元のヤツなのかって聞いてんだよ。変なヤツだったら、あすかに近付けさせねーからな」
虹に対してとても五歳の子供とは思えぬ鋭い視線を送る。虹を警戒しているのは、あすかの身の安全を心配してのことのようだ。
「身元……」
黒絵と虹は互いに顔を見合わせ、次いで視線を泳がせた。
「ちょっと待て、なんだその反応」
何故一言『ちゃんとしている』と言うだけのことが出来ないのかと、ひどりは胡散臭げに眉根を寄せた。
「はぁ!? 記憶喪失? そんなヤツがなんでこんな所にいるんだよ、病院行け、病院!」
虹の事情を説明すると、ひどりは驚いた様子で大きな声を出した。
解離性同一性障害の人間に言われることには疑問を感じるが、ごく常識的な意見である。
「本当はどんなヤツか分かんねーってことじゃないか。危ないヤツだったらどうするんだ!」
「そうですね」
「そんなヤツと仲良くできるか。信用できねーよ」
「ごもっともです」
「もうっ、虹さんまで自分で何言ってるんですかっ」
ひどりの言い分を淡々と認める虹に、黒絵の方が少し怒ったような反応をした。
「ひーくん、会ったばかりの人を悪い人だって決め付けるのは良くないことですよ」
「決め付けてるのはねーちゃんの方だろ」
くるりと振り返り、ひどりは先程まで虹に向けていた矛先を黒絵に向けた。
「よく知りもしないのに、悪いヤツじゃないって決め付けてるじゃねーか」
「確かに」
「大体、黒絵ねーちゃんは危機感ってもんが足りてねーんだよ」
「僕もそう思います」
「な、なんで私が怒られてるんですかぁ?!」
助け舟を出したはずの黒絵だったが、何故かいつの間にか二人に責められる形になっていた。
「……なんかお前、さっきから自分に自信なさすぎじゃねーか? もうちょっとしっかりしろよ」
飛び火を喰らってしゅんとする黒絵を無視して、ひどりは再び虹に向き直る。先程から散々に言われているというのに、全く否定しようとしない態度に少し呆れているようだ。
「自分自身のことが解らなくて、確かなことは何も言えませんので」
そもそも、虹のことを一番信用できていないのは虹自身だ。黒絵や光里があっさりと身元不明の男を受け入れたことの方が異常であり、ひどりのような反応をされることの方が当然であると考えていた。
「自分で認めてるじゃねーか。表面上の人間性でしか判断できないようなヤツなんて、やっぱ信用なんねーよ」
「それはちょっと違うと思います」
ひどりの理屈に押され気味の黒絵だったが、これに対してはぴしゃりと反論してみせた。
「会ったばかりの人を表面上でしか判断できないのは当たり前です。記憶があってもなくても、そんなのは関係ないですよ」
「だったら余計に……」
「だから仲良くなって、ちゃんと知ろうとするんじゃないですか。初めから悪い人だって決め付けていたら、誰とも仲良くできなくなっちゃいますよ」
黒絵に言葉を遮られ、ひどりは顔を背けた。
「……おれには、あすかだけいればいい……」
「でも、あーちゃんはそうは思わないですよね? あーちゃんは、ひーくんにも色んな人と仲良くして欲しいって思ってるんじゃないかな? それに私、虹さんのこと良い人だなんて決め付けていませんよ」
本当はやはり身元が不確かな自分を疑っていたのだろうか、と虹は訝しげな顔になったが、黒絵はそんな虹に微笑んで見せた。
「虹さんが引っ越して来てから今まで一緒に過ごしてきて、それから虹さんは良い人だってちゃんと判断しました。ひーくんも、しばらく一緒にいれば虹さんが良い人だって解ると思いますよ?」
なんだか面と向かって人格を褒められているようで、虹は少し気恥ずかしくなった。そんな恥ずかしいことをさらりと言ってしまう辺り、決して悪い意味ではないのだが、他人の気持ちを考えない管理人である。
そんな言葉を聞かされたひどりはというと、言い返す言葉が見付からないのか悔しそうにそっぽを向いたままだ。
「……あすかと同じようなこと言う……」
ぽつり、そんなことを呟いた。
「だから、ねっ。仲良くしましょうね」
「あの、管理人さん。あまり押し付けるのは良くないかと……人間関係を作るのってそれぞれペースってものがありますし、ひどりくんはただ、あすかちゃんを守るために必死だっただけみたいですし……」
正直なところ、虹自身も黒絵のペースに困惑気味だ。ひとまず敵意は悪意によるものではないということが解ったので、ひどりをフォローする言葉を掛けたのだが、ひどりはその言葉に対して吠え付いてきた。
「当たり前だ! 黒絵ねーちゃんもあすかの父親も、人が良くてぼけっとしすぎなんだ。母親もいないし、おれがしっかりしてねーと、あすかを守ってやれないだろ」
「あすかちゃんの父親……?」
その言い方に妙な引っ掛かりを覚えた。ひどりはあすかのことを別の人間のように扱っているが、二人が同一人物であることには違いない。あすかの父親は、ひどりの父親でもあるはずだ。それなのにこの言い方はまるで、あすかの父親である等が他人であるかのようだ。
考えていると、道路の方からキキィーーッと甲高いブレーキ音が聴こえた。
「あっ、パパー!」
人格がひどりからあすかへと切り替わったのか、先程まで眉間に皺を寄せていた子供はぱっと表情を輝かせて音のした方へと駆けていった。
「挨拶もそこそこに娘を預かって頂いてありがとうございました。本当に助かりました」
自転車を押しながら敷地内に入った等はそのまま虹達の下へと近付くと、自転車を支えた状態で丁寧にお辞儀して礼を言った。
「いえ、間に合ったようで良かったです」
自転車のカゴに入ったビニール袋から卵のプラスチック容器が覗いている。どうやらお目当ての品は無事に手に入れることが叶ったようだ。
「黒絵さんもありがとうございます。帰ってきたのに挨拶もなしに面倒を見てもらって……」
「いえ、困った時はお互い様です。それに、スーパーへと急ぎたい気持ちはよく解りますから」
同じ台所を預かる者として尊敬、または通ずる部分があるらしく、黒絵は等に同調して頷いた。
「ええ……ですが、慌ててマイバックを忘れてしまい、ビニール袋代を取られてしまったよ……」
「あらら、それはもったいないですね……」
近頃は会計時にマイバック持参での値引き、あるいはビニール袋の使用料加算を行っているスーパーが多い。しかしこれも卵の値段同様、数円単位の差額なので、虹にはやはりよく解らない次元の話である。
「じゃあ、あーちゃん。パパは自転車を片付けてくるから、二人にちゃんとお礼を言うんだよ」
「はーい」
そう言い残して、等は自転車を押して駐輪場のあるアパート裏手へと一旦姿を消した。
「くろねぇ、こーにぃ、あそんでくれてありがとー。またいっしょにあそぼーね。えっとね、それからね……」
トコトコとあすかが歩み寄って来たかと思えば、突然虹の体が前方へ引っ張られた。
「おれのこと、あすかの父親には言うんじゃねーぞ」
胸倉――には手が届かないので腹の辺りの服を掴み、ドスを利かせた声色でひどりがそう言った。
「あーちゃーん」
「はーい! パパー、あーちゃんおなかすいたー」
「うん、すぐにごはん作るからね」
ビニール袋を手に戻ってきた等の呼び声に反応し、あすかに戻って父親の下へと駆けて行く。
等が一礼をして、百瀬親子は105号室の部屋に入っていった。
ドアが閉まるのを確認して、黒絵が口を開く。
「あの、虹さん……ひーくんのこと、悪く思わないであげてくださいね。初対面の相手にはいつもあんな感じですけど、本当はいい子なんです。住人のみなさんとも、ちゃんと仲良くできていますし……」
申し訳なさそうにそう言う黒絵に、虹はゆるゆると首を横に振った。
「いえ、そのことについては気にしていません。ですが、それとは別に気になることが……百瀬さんは、ひどりくんのことを何も知らないのですか?」
「あ、はい。みんなひーくんに口止めされているので、等さんは何も知らないはずです」
「そうですか……」
それだけ確認すると、虹は105号室のドアをぼんやりと見つめた。
「どうしてお父さんに秘密にするのかは話してくれないんですけど……あ、虹さんもお腹空きましたよね? すぐごはんの用意しますからね」
そう言って、黒絵も小走りでアパートの中へ消えていった。
「僕には解る気がする」
一人残された虹は、誰にともなく呟く。
きっと、ひどりはあすかの――自分の父親に心配を掛けたくないのだ。
もしも自分の子供が二重人格だと知ったら親は、家族はどう思うだろう。それは、ひどりの立場を記憶喪失である虹に置き換えてみても同じことが言えた。
きっと、ひどりは自分と同じなのだ。
自身のことを良い人だと断言する気はないが、虹はひどりのことを悪く思う気にはなれなかった。




