はじめての子守り
黒絵との食事の時間以外、虹は日々暇を持て余していた。
現在は春休み。休み明けから大学へ通い始める予定だが、学校に通っていない学生というのは実に暇なものだ。
加えて虹は自身の記憶を失っている。共に遊んでくれるような友人の有無も不明であれば、一人で遊べるような趣味の有無も不明なのである。
そこで虹は近頃、街の散策をして日中の暇を潰すことにしていた。生活の中で利用する商店の類は黒絵に案内してもらっていたが、自らの足で自由に歩き回るのも新たな発見があってなかなかに楽しい。
行き先を決めずに出歩いているのでどちらへ向かえば良いか迷うこともあるが、そんな時は信号が青の方へとひたすら進んで行くなどとあらかじめルールを決めておく。道順を忘れてしまうと迷子になってしまう危険もあるが、それもまた一興である。もはやこれが趣味だと言えるかもしれない。
今日も昼過ぎから散策へ出掛け、迷子になることなくモノクロ荘へと戻ってきた。この日はまだ陽が高い時間での帰宅である。
敷地内に入ると、一階の付近に人の影があった。子供を抱えた見知らぬ中年男性が、管理人室のドアの前をうろうろとしている。
「ああ、どうしよう、どうしよう……」
明らかに困っている様子だ。虹はアパートの外付け階段の方には向かわず、男性の方へと近付いていった。
「あの、どうかされましたか?」
「え、はい? え……?」
見知らぬ男性という評価は、この中年男性から見た虹に対しても同様である。突然見知らぬ相手に話し掛けられ、振り返った男は少し困惑した。
「あ、すみません。この間ここの204号室に引っ越してきた堺という者です」
「ああ、そうでしたか! 私は105号室の百瀬と申します」
そう言って百瀬と名乗った男性は、髪の毛を二つに結んだ女の子を抱えたまま軽く会釈をした。
「何かお困りのようですが、どうかしたのですか?」
「ああ、それが……今から出掛けなければならなくて、黒絵さんに娘を預かってもらおうとしたのですが……どうやら留守のようで」
管理人である黒絵が長い間留守にすることは滅多にないが、今はタイミング悪く買い物に出掛けてしまっているようだ。
「急ぎの用事ですか?」
「はい、帰省から戻ってきて郵便受けを開けてみたら、知らせが入っていまして……すぐに行かなければならないのです」
長旅から戻ってきてすぐに出掛けなければならないとなると、かなりの火急の用件のようだ。身内に不幸でもあったのだろうか、百瀬はかなり慌てている。
「あの……僕でよければ、娘さんを預かりましょうか?」
黒絵もすぐに戻って来るだろうし、それまでの間ならば大丈夫だろうと思いそう申し出た。相当に困っている様子なので、とても放っては置けなかった。
「いいのですか? 是非お願いします!」
初対面の相手に子供を預けるのは抵抗があるかと思われたが、百瀬は即座に申し出を受け入れた。それだけ切羽詰っているということなのだろう。
抱えていた女の子を受け渡され、虹は少し足元をふらつかせた。百瀬は自分の娘を軽いもののように抱えていたが、子供を抱え慣れていない虹にとっては少し重たい。
「なるべく早く帰って来ますので、その間よろしくお願いします! 早く、早く行かないと――……」
百瀬は傍に置いてあった自転車に跨ると、猛然とペダルを漕ぎ出した。
「一パック九十八円の卵が売り切れてしまう!!」
「え、ええええっ!?」
どうやら火急の用件とはスーパーの特売であったようだ。やはりちょっと待ってくれと引き止める間もなく、立ち漕ぎでトップスピードに達した自転車の姿はあっという間に小さくなっていった。
深刻な事情を想像していただけに拍子抜けしてしまった。しかし子供を預かってしまった手前、どんな事情であろうと面倒を見なくてはならない。
抱えた女の子をちらりと見やると、屈託のない笑顔を向けられた。
「ももせあすかです。五さいです。おにーちゃんはさかいさんってゆーの?」
「あ……は、はい。堺虹です。十八歳です……多分」
記憶がない所為で自分の年齢も正確には解っていないのだが、高校を卒業して大学に入学する年齢となると、浪人経験はないと仮定して十八か十九になるだろう。
「じゃあ、こーにぃだね」
虹の呼び方が決定されたところでそろそろ腕が限界になり、あすかを地面に降ろした。
「ええと……何をしようか?」
面倒を見ると言ったはいいが、どうやって子供の相手をすればいいのか解らない。とりあえず、あすかに何をして遊びたいか尋ねてみた。
「えっとね、あーちゃんかくれんぼがしたい」
「かくれんぼ……二人で?」
できなくはないだろうが、二人ではいまいち盛り上がりに欠ける気がする。それに、他にも人がいた方が子守りに慣れていない虹にとっては助かる。
「他に誰かいないかな……?」
虹がアパートの方に目をやると、くい、と袖を引っ張られた。
「あのね、ひこにぃはお昼はおしごとだからおるすだよ。とーのさんは夜におしごとだから、お昼はねてるの。おこしちゃめーだよ」
ひこにぃなる人物はまだ会ったことがないので知らないが、102号室住人の遠野光里が夜の仕事をしていることは承知していた。そろそろ起きていてもいい時間だとは思うが、まだ眠っている可能性を考慮して百瀬は光里に娘を預けるのを遠慮したのだろう。
しかしそれとは別に気になるのは『ひこにぃ』に対して光里は『とーのさん』と呼ばれていることだ。光里は夜の仕事をしているイケメンだが、ホストではない。詳しく尋ねたことはないので予想だが、勤め先はおそらく性別不詳な人達が集うバーの類だろう。
(小さな子にまで混乱を招いてますよ、遠野さん……)
ともかく、光里に声を掛けるのは遠慮した方が良さそうだ。
「……有沢さんはどうだろう」
「しずねぇ、もうかえってきてるの?」
どうやら百瀬親子はしずくが不在にしていることは知っていたようだが、帰ってくる日時までは把握していなかったようである。
しずくとは今朝が初対面なので声を掛けるのは気が引けたが、あすかとしても見知った相手がいた方が安心できるだろうと、203号室を尋ねた。
「留守みたいだ」
「いないねー」
ドアをノックしてみたが、しずくからの返事は返ってこなかった。
「仕方ないね。じゃあ、やっぱり二人でしようか」
諦めて階段を下りようとしたところ、あすかが落下防止用の鉄柵に駆け寄った。
「あっ、くろねぇだ! くろねー!」
柵の隙間から階下を覗き込み、呼び掛けながら手を振っている。虹も階下を覗き込むと、黒絵が買い物用の袋を持ってアパートに向かってくるのが確認できた。
呼び声に気付き、黒絵は二階を見上げる。
「あーちゃん! おかえりなさーい。虹さんと一緒なんですね、お父さんはー?」
「ただいまー! パパはねー、おかいものだよー。スミヤにいったのー」
「スーパースミヤ! ……ということは、狙い目は一パック九十八円の卵ですね! さすがは等さん、帰ってすぐだというのに素晴らしい情報察知能力と行動力です。私も昨日卵を買っていなければスミヤまで足を伸ばしたのですが……無念です」
いつになく真剣な口調で感心と落胆を示す黒絵。スミヤはモノクロ荘の郵便受けにチラシが頻繁に入るスーパーマーケットだが、歩いて往復するには少し気合のいる距離にある。数円単位の差額にこだわって買い物をする感覚は虹には理解出来なかったが、黒絵の感心ぶりからは百瀬等という人物の主夫能力の高さが伺えた。
「あのねー、いまからこーにぃとかくれんぼするのー」
「あの、管理人さん、良かったら管理人さんも付き合ってもらえませんか? 僕一人じゃ、ちょっと……」
子供という生き物は空気を読む能力が未発達のためマイペースである。黒絵の落胆などどこ吹く風と、現状報告を続ける。虹もそれに続いて、階下に向かって話し掛けた。
「はい、喜んで! ちょっと待っててくださいねー」
虹の困っている様子を察してくれたらしく、黒絵は快く了承すると荷物を置きに一旦アパートの中に姿を消した。
このまま黒絵に子守りを任せてしまってもよかったが、預かった責任があるため最後まで付き合うつもりだ。
とりあえずは一人ではなくなったことに安堵する。ほっと息を吐いた直後、背中に寒気を覚えた。
「!?」
刺すような視線を感じて、背後を顧みる。そこには203号室のドアがあり、視線を下げた位置ではあすかがにこにこと虹の姿を見上げているだけだった。
「いこう、こーにぃ」
「う……うん」
(気のせいかな……?)
首を傾げつつ、虹はあすかと手を繋ぎ階段を下りた。