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モノ×カラ  作者: ナルハシ
二話
6/15

障子はないけど壁には目あり

 ことん、と音がして堺虹(さかいこう)は目を覚ました。

 目を開けたはいいが、目の前は真っ暗だ。まだ、夜の深い時間であるらしい。

 虹の住むアパート、メゾンモノクロームの壁は薄く、防音性はそう高くない。隣人が物音を立てれば他の部屋に響くこともある。音の少ない深夜ともなれば尚のことだ。

「……ん……」

 一声呻いて、寝返りを打つ。神経質な者ならば微かな物音でも気になって一晩眠れなくもなるだろうが、虹の神経はそこまで繊細ではないようだ。

 寝返りを打った後すぐにまた瞼が重たくなり、そのまま再び眠りに付いた。


 だから、気付くことはなかった。

 物音がしたのは壁や床を隔てた向こう側などではないことにも、すぐ傍にベッドの上の虹を見下ろす眼があったことにも―――








 虹の朝は、自堕落になりがちな長期休暇中の学生にしては早い。

 メゾンモノクローム――通称モノクロ荘に引っ越して来てから数日が経過した。一人暮らしの身の上、本来ならば自分が食べる物は自分で用意する必要があるのだが、虹はアパートの管理人である白石黒絵(しらいしくろえ)にほぼ毎日三食の食事を用意してもらっていた。

 食事を共にするのは『時々一緒にごはんを食べてほしい』という黒絵からの希望があってのことだ。料理が不得意な虹にとってはこの上なくありがたい話であるが、さすがに毎日三食の面倒を見てもらうことには気が引けた。一度コンビニで弁当を買い、食事の誘いを断ったことがあったのだが、その時はひどく悲しそうな顔をされてしまったのでそれ以降は下手に遠慮をするのはやめることにした。

 しかし好意に甘えるにしても、時間の都合まで合わせてもらうのは甘え過ぎだと考え、虹が黒絵の食事時間に合わせるように心掛けている。早起きの黒絵に合わせているがために、虹も早起きなのである。


 顔を洗い、身支度を整える。

 上着を着替えながらふと、昨夜物音で目を覚ましたことを思い出した。


(誰か、帰ってきたのだろうか)


 現在モノクロ荘の住人の半数は、帰省等の理由で留守にしているらしい。二階の部屋には虹一人しかいないはずだが、昨夜の物音は階下から聴こえたにしては妙に音が近いように思えた。春休みもそろそろ終わる頃なので、帰省を終えて住人が戻ってきたのかもしれない。

 壁に貼られたガムテープを見つめる。それは、隣の部屋まで貫通した穴を隠す役割をしているものである。

 隣の部屋の住人が帰って来ているのであれば、引っ越してきたばかりの虹は挨拶をしに行かなければならない。礼儀として必要だとは思っているが、気が重い。黒絵の話によると壁に穴を開けたのは壁を挟んだ隣部屋、203号室の現在の入居者の仕業であるらしい。借家の壁に穴を開けるような非常識な人間に挨拶をしなければならないのだ、気も重たくなる。


(いや、でも、本当に帰ってきているとは限らないし……)


 折角決意を固めて挨拶に向かっても、相手がまだ留守だった場合はその決意が無駄になってしまう。昨夜の物音は単なる家鳴りだという可能性も否定できない。

 虹はガムテープの端に指先を伸ばす。

 虹に覗きの趣味はない。このガムテープを剥がしたのは引っ越してきた初日のただ一回のみである。良識を捨ててはいないが、一度気になってしまうと駄目だ駄目だと思うほどに余計に気になってくるのが人情というものである。


(少しだけ……部屋の中に人影があるか確認するだけだ)


 隣の住人に勘付かれないよう、息を潜めてそろりとガムテープを捲った。

 ―――と、壁の穴が覗いたと同時に隣の住人と目が合った。


「うっわ!?」

 思わず叫び声を上げて身を引いた。

 偶然目が合ったという次元の話ではない、穴から直接片目が覗いていたのだ。どうやら虹がそうしようとしていたように、隣の住人は壁に張り付き穴を覗いているようだ。


「引っ越してきた人……?」


 壁の目がきょろりと動いて声を発した。若い女の声だ。

「あ、は、はい! そうです」

 虹は姿勢を正し、壁に向かって応えた。部屋を覗こうとしたことへの後ろめたさから正座である。

「新しい人が入るって、黒絵さんから聞いてました……有沢(ありさわ)と言います。よろしくお願いします」

「あ、堺と申します……あの、できれば直接会って挨拶したいのですけど……壁越しではなく」

 壁に穴を開けるなど、どんな破天荒な人物だろうと不安に思っていたところに意外と丁寧な挨拶をされて安心したが、虹は仕切り直しを要求した。


 今のところ、隣人の顔は眼球しか見えていない。




 ガムテープで再び穴を塞ぎ、虹は靴を履いて玄関へと回る。左隣の203号室のドアをノックすると、すぐにドアが開かれた。

 声色から若い女性であることは予測していたが、ドアを開けたのは想像していたよりも幼い、小柄な少女だった。中学生くらいだろうか、前髪にヘアピンを挿した内気そうな女の子だ。半開きのドアから顔を覗かせ、上目遣いに来訪者を見上げる姿は小動物を連想させる。

「……有沢、しずくです」

「あ、ええと、堺虹です。よろしくお願いします」

 相手がフルネームで名乗ってきたので虹も名乗り返し、改めて挨拶をした。

「学生さん、ですよね?」

「高校生……今年から、です」

「一人暮らし……ですよね?」

 こくりと頷く。ということは、壁に穴を開けたのは彼女しかいないということになる。

 しかし一見したところ、この少女はとても大人しそうな印象を受ける。たどたどしくはあるが、礼儀を知らないという訳でもなさそうだ。とても壁に穴を開けるなどと非常識なことをやるような子には見えない。


「……壁……」


 虹が頭の中で考えていることを察したかのように、しずくが小さく呟いた。

「穴開けて、ごめんなさい……黒絵さんにも、叱られました」

 温厚そうな黒絵だが、きちんと叱るべきところは叱ることのできる管理人のようだ。ひとまず、隣人には自らが穴を開けたという自覚も、反省する気持ちもきちんとあるらしいことが解って安心した。

「いえ、僕も相手が女の子だとは知らずにテープを捲ってしまってすみませんでした。こちらからは棚を置いて穴を塞ぐようにしますので、一応、そちら側からも塞いでください」

 反省の意思はあるようなので、事故か故意かを問い詰めるのは避けた。

 穴を開けたのは彼女自身であるとはいえ、若い女の子が男に部屋を覗かれるかもしれない危険を感じながら生活したいとは思わないだろう。互いに穴を塞ぐよう提案すると、しずくはこくりと頷いた。


「虹さーん、朝ごはん……あれ?」

 なかなか朝食の席に現れない虹の様子を見に来たらしい黒絵が、外付けの階段を上ってきた。玄関の前にその姿を見付けて声を掛けたのだが、遅れて203号室のドアが半開きになっていることにも気が付いたようだ。

「しずくちゃん、帰ってたんですか。おかえりなさい」

「昨日、夜中だったから……ただいま」

 帰宅したのが夜中だったため声を掛けるのを控えた、という意味だろう。やはり昨日の物音はしずくによるものだったようだ。

「二人とも、挨拶は済みました?」

「あ、はい。今済んだところです」

 虹がそう答えると、しずくも頷いて同意を示した。

「それなら、そろそろ朝ごはんにしませんか? しずくちゃんも一緒に」

「わたしは、もう食べたから……」

 いいです、と首を横に振る。

 表情豊かな黒絵と比べると、しずくは表情に乏しく言葉数も少ない。大人しいのは初対面の相手に緊張している所為かと思ったが、黒絵とのやりとりを見る限り、普段からこの調子のようだ。

「そうですか。それじゃ虹さん、もう準備できてますから、いつでも下りてきてくださいね」

 そう言って黒絵は先に階段を下りて行った。

 ひとまず引越しの挨拶という通過儀礼は終えたことであるし、あまり黒絵を待たせるのも悪いので、虹はこのまま直接朝食に向かおうとこの場を切り上げることにした。


「それじゃあ、有沢さん……」

「しずく」


 虹がしずくのことを苗字で呼ぶと、彼女は素早く自分の下の名前を被せてきた。

「しずくでいいです。モノクロ荘(ここ)の人はみんな、そう呼ぶから……」

 そういえば、ここの住人たちは家族のようにお互いを下の名前で呼び合っている、というようなことを黒絵が言っていた。

 下の名前でいいと言われてしまったが、いきなり呼び捨てにする訳にもいくまい。苗字ならばまだしも、年下の名前を『さん』付けで呼ぶのもなんだか変な気がする。ならば先程の黒絵に倣って『しずくちゃん』と呼ぶべきかと考えるが、初対面の女子高生を『ちゃん』付けで呼ぶのは少し抵抗がある。

 あれこれと考え言葉に詰まっていると、虹の葛藤に気付いたのか、しずくは妥協案を提示した。



「アリッサでも可」



 外国人風のあだ名は余計に呼びづらい。

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