新しい思い出
「虹さん、午後から一緒にお買い物に行きませんか? この辺りお店とか、全然知らないですよね。私でよければ案内しますよ」
朝食の後、虹は黒絵にそう誘われた。
トイレットペーパーや歯ブラシなどといったその日すぐに必要となるような物は昨日の内にコンビニで買い揃えたのだが、まだまだ日用品の類には不備が多い。コンビニだけでは手に入らない物もあるだろうし、安くて便利の良い店を教えてもらえるのならばそれは虹にとってありがたい申し出だった。
午前中、黒絵はアパートの管理人として敷地内の清掃に忙しい。黒絵の仕事が終わるのを待つ間、虹は部屋の荷物を整理しつつ、失った記憶に繋がりそうな手掛かりを探した。
特に手掛かりを見つけられず正午を回り、昼食をまたしてもごちそうになってから、虹は黒絵と二人で買い物に出掛けた。
アパート近くのコンビニから少し進んだ場所にある商店街へと向かうが、歩いて買い物に行くにはさほど苦にならない距離であった。
商店街には八百屋、肉屋、魚屋、惣菜屋と並んでいて、食料品を買い揃えたいのならばここを一巡するだけで事足りそうである。しかし本日の買い物のメインは虹の日用品を買い揃えることなので、商店街を一旦通り抜けて更にその先にあるドラッグストアのチェーン店へと向かう。その間、黒絵は商店の店員に度々声を掛けられていた。その内容は本日のおすすめ商品から天気の話題、虹との仲をからかうものと様々であったが、皆一様に親しげな態度で接してきた。
「顔が広いんですね」
「まぁ、五十年も通ってますから」
黒絵のように若い女性が近辺でアパートの管理人をしていることも、商店に通うことも珍しいので、きっと可愛がられているのだろう――と納得しかけて、違和感に気付く。
「管理人さんって、五十年間その姿なんですか?」
「そうですね」
「五十年も変わらない姿で通い続けて、誰も不思議に思わないのですか?」
「そう、ですね」
二度目の返事には少し間があった。
「お肉屋のおじさんのことなんて、おじさんが赤ちゃんだった頃から知ってますよ。でも、私が幽霊だって知らない人達は、私のことを見ても何も不思議に思わない――そういう風になっているみたいです」
出逢った頃は年上のお姉さんだったが、やがてその年齢に追いつき、追い越す。しかしそれが不思議なことだとは思わず、何の違和感も持たず接し続ける。その感覚がどんなものなのか黒絵自身には知る術がないが、おそらく古い記憶は上書きされていくのだろうと本人は推測した。きっと黒絵に関する古い記憶は「昔よく似たお姉さんがいた」という具合に書き換えられているのだろう。
「多分、幽霊だから影が薄いんじゃないかなぁ。実際に顔を合わせると思い出してもらったりするんですけど、何年も会っていないような人は、すぐに私のこと忘れちゃうみたいです。昔モノクロ荘に住んでいた人達も、もう私のことは忘れちゃってると思います」
黙って話を聞いていた虹の方に目をやると、何か考え込むような真剣な表情をしていた。それに気付き、黒絵は慌てて発言を付け足す。
「でもっ、だから寂しい、なんてことはないんですよ! 皆が私のことを忘れても、私が皆のことを覚えていますから! 思い出だけは人一倍持ってるんですっ」
黒絵の勢いに、虹は思わず少し吹き出した。
「前向きなんですね」
「自分では、長所だと思ってます!」
「……少し、羨ましい気がします」
「あ……」
空気を悪くするまいと気を遣っていたつもりであったが、墓穴を掘っていた。自分にとっては心の支えになっている『思い出』というものを、虹は忘れてしまっているのだということを失念していた。
黒絵は何かフォローを入れなければと考えたが、口の代わりにおろおろと手ばかりが動く。しばらく妙な踊りを踊っていたがやがて、
「ちょっと待っててください!」
そう言って今抜けて来たばかりの商店街のアーケードに向かって駆けていった。
待っていろと言われたので戻って来るのを待つしかない。虹はその場に立ち尽くして、先程の会話の内容を頭の中で反復した。
(気を遣わせてしまったのか)
思い返してみて、ようやくそのことに気が付いた。
ただでさえ気遣い屋の黒絵のことだ、虹の失われた記憶をとてもデリケートなものとして扱っていたのだろう。それに対して虹自身はというと、そのことについてさほど思い悩んではいなかった。記憶がない所為で、自分自身のことを言われてもどこか他人事のように受け止めることが多かったのだ。
しかし記憶がなくても不便はないと思っていたのは、大きな間違いであったということが判明した。虹自身が『堺虹』という人物を知らないのである。つまり、自分の性格を知らない。どのような場面でどのような態度を示すべきなのか、発言するたびにこの反応で良かったのだろうか、と考えてしまう。
(難しいな、記憶喪失)
取り扱い説明書が見当たらない状態で『堺虹』を操縦している気分だ。
しばらく考えに耽っていると――傍目にはただぼんやりと突っ立っているように見える――黒絵が小走りで戻ってきた。両手に何か持っている。
「あのっ、これっ、食べてください!」
息を弾ませ差し出してきたものは、たい焼きだった。
「……ありがとうございます……?」
何を思って唐突にたい焼きを買ってきたのかは解らないが、食べ物を差し出され食べろと言われてしまえば食べるしかない。
包みからはみ出した頭の部分を一口齧る。焼きたての表面はかりっとしているが、内側のしっとりとした食感も楽しめるほどよい厚みの生地。中に詰まっているのはベーシックにつぶあんだ。
「うん」
美味い、と肯定の頷き。正直なところ昼食を食べたばかりで胃袋にたい焼きの入る余地はないと思っていたが、気が付けば二口目を噛り付いていた。別腹というものは虹の腹にもきちんと存在していたらしい。
「あの、私、たい焼き以外にも美味しいお店知ってます」
「うん?」
口に物が入ったままのくぐもった返事。黒絵は何故か真剣な表情でたい焼きを頬張る虹を見つめていた。
「食べ物だけじゃなくって、他にも景色の綺麗な場所とか……今の季節だったら、桜の綺麗な公園も知ってます」
「はぁ」
口内の物を飲み下しての返事。訴えたい内容が掴めないのでどの道大した返事はできていない。
黒絵の表情は尚も真剣だ。握り締めたたい焼きのエラの部分からあんこがはみ出しているが、全く気付かないほどに。
「無駄に五十年もここにますから、虹さんにいろんなこと教えてあげられると思うんです。虹さんまだ若いんですから、思い出なんてこれからいくらでも作れると思うんです!」
「……ああ」
ようやく虹は、この世話焼きな管理人が自分に思い出を分け与えようとしているのだということに気が付いた。当人以上に記憶喪失に対して真剣になっているのが可笑しくて、思わず笑みを零してしまった。
「ですから、あのっ」
「ありがとうございます」
適当な所で制止を掛けないといつまでも気遣いを続けそうだと思い、礼を言ってそれ以上の言葉を遮った。だからといってお礼の言葉自体が適当だということはなく、今の素直な気持ちであることには違いなかった。
「行きましょうか」
立ち止まっていてはいつまで経っても目的地に着きはしないので、歩を進める。歩き食いは行儀が悪いが、立ち食いもすでに行儀が悪いので今更かと食べかけを齧る。黒絵も隣を歩きながら、自分の分のたい焼きに口を付けた。
しばらくは黙々と歩き食いをしていたが、やがて虹が口を開いた。
「僕も、少し考えました」
「何をですか?」
「管理人さんのことです」
少し、ではない。朝食の時に黒絵の身の上話を聞いて、それからずっと考えていた。いつまでもこの世に留まり続けるのか、それともいずれは成仏してしまうのか解らない彼女に、どんな言葉を掛けるべきなのか。出逢って間もない自分に世話を焼いてくれる彼女に、何かしてやれることはないのか。
その答えが、解ったような気がした。
「僕も、管理人さんの思い出を増やしてあげたい」
言ってから他人のことばかり考えていたのはお互い様だということに気付き、また少し可笑しくなる。
けれどこれは自分のためでもあるのだ。黒絵が思い出を分け与えてくれると言うのならば、黒絵の思い出を増やすことは虹自身の思い出を増やすことに繋がるのだから。
「具体的にどんなことをすればいいのかも、記憶のない僕なんかが他人の思い出を作ることなんてできるのかも分りませんが」
「そ、そんなっ!」
黒絵は思わず足を止め、ばたばたと手を振った。手から落ちるたい焼き。
「わっ」
「あっ、ご、ごめんなさい!」
虹が素早くたい焼きをキャッチし、食べ物を粗末にする結果は免れた。しかし何故こうもこの管理人は、すぐに手に持っている物から手を離してしまうのか。
「『僕なんかが』なんて言わないでください。特別なことをしてもらう必要なんてないんです。私は虹さんがモノクロ荘に来てくれて、こんな風に言ってもらえて、それだけで充分に嬉しいんですから!」
「そうですか」
救出したたい焼きを手渡す。黒絵はそれを受け取ると、もじもじと手で弄んだ。何か言いたげである。
「あの、でも……そんな風に言ってもらえるんだったら、ちょっとだけわがまま言ってもいいですか……?」
「あれ、二人で買い物に行ってたの? おかえりー」
アパートに帰って黒絵が管理人室の鍵を開けていると、その音を聞きつけたのか隣の部屋のドアから光里が顔を出した。
「おはようございます、光里さん」
「おはようございます。管理人さんにこの辺りを案内してもらっていました」
今朝もこの挨拶を交わした上に、もうすでに夕方に近い時間であるが、光里は寝起きなのでこの挨拶が相応しいのだろうと虹は黒絵に倣った。買い物自体はすぐに終わったのだが、案内という名の寄り道が長引いてこんな時間になっていた。
買い物の量は虹の方が多かったのだが、重量的には食料を買い込んだ黒絵の物の方が重かったので、二人は互いの荷物を交換して持ち帰っていた。玄関の前で荷物を交換すると、黒絵は礼を言って荷物を自室に運び入れた。
「確かにオレ、あとは任せるって言ったけど、随分と虹ちゃんに世話焼いてるのねぇ」
管理人室のドアが閉まってから、光里はそんなことを呟いた。
「お陰で助かってます」
「いい子でしょ、黒絵ちゃん」
「それは昨日から知っています」
「そう。それならいいわ」
まるで自分自身のことのように満足げだ。それはともかく何故か妙にニヤニヤしているのが気になる。
「もしかして朝ごはん食べてからずっと出掛けてたの?」
「いえ、昼食をごちそうになってからです」
「昼ごはんまで作ってもらったのね」
「たい焼きもいただきました」
「順調に餌付けされてるわねぇ……気を付けなさい。黒絵ちゃんは店子を肥えさせることに喜びを感じるタイプだから、すぐにデブるわよ」
確かに、この調子で美味しい食事におやつまで付けられていては腹周りが危険だ。自主的に運動する習慣を付けた方がいいかもしれない。
「夕食も、一緒に食べることになりました」
腹の肉が心配ではあるが、少なくとも今日のところはその誘いを断る訳にはいかなかった。
―――ちょっとだけわがまま言ってもいいですか……?
そのわがままの内容が、一緒に食事をすることだった。
「時々でいいんです。一緒にごはんを食べてください」
当然ながらそのごはんを作るのは黒絵である。何かをしたいと言った虹が施される形になってしまっているが、黒絵がそうして欲しいと言ったのだからそれで良いのだろう。
「ま、他人に食べ物を分け与えるのは生き物の分りやすい愛情表現よねぇ」
幽霊の黒絵が生き物と言えるのかなどということよりも、先程から妙に楽しそうな態度なのが気になる。
「ところで、今日の晩ごはんは何だって?」
「ロールキャベツと言ってました」
「あ、いいなー。黒絵ちゃーん、オレも一緒に晩メシ食べるー!」
光里が声を張り上げると、管理人室のドアの向こうから「はーい」と返事が返ってきた。古い建物なので、大声を出せばドア一枚の隔たりくらいならば声が通る。
「あの、遠野さん」
「ん?」
「愛情って、管理人としてのですよね」
「それ以外に何かある?」
やはり楽しそうである。
その日の夜は、予定通り三人でロールキャベツを食べることになった。
ロールキャベツの味は今更わざわざ言う必要もないくらいに、文句なしに美味であった。