虹の忘れ物
堺虹がモノクロ荘の新たな住人となってから、一夜が明けた。
昨日一日だけで様々なことが起きた。
信じられないような光景を目にして、信じられないような事実が明らかになって、それ以上に多くの謎が深まった。
しかしその謎も時が経つに連れ、きっと少しずつ明らかになる。
一晩寝て、起きて、そしてまた一つの真実が明らかになった。
虹はフライパンの上の、目玉焼きになるはずだった黒い塊を見下ろしていた。
「どうやら僕は、料理ができない」
*
「記憶喪失……?」
自らの身体の秘密を明かしたばかりの黒絵は、明かされた虹の真実に言葉を失った。
「それってさっき頭をぶつけたから? どうしましょ、だとしたらオレがドア開けた時に避けちゃったせいだわ……」
口調は緊迫感に欠けるが、光里の声色は真剣さを帯びている。記憶喪失の原因が自分にあるのではないかと責任を感じているようだ。
「いえ、それが原因ではないと思います。ここに来る以前から、何かおかしいと思っていたので」
「そう……でも、良かったとは喜べないわね。結構普通にしていたように思えるんだけど、記憶がないってどの程度か自覚ある?」
「物の名前や使い方……そういった知識は残っているようですが、自分の情報だけが抜け落ちている感じです。個人情報全般と、思い出の類でしょうか」
黒絵はしばらく呆然と二人の会話を聴いていたが、何かに気付いたのか声を上げた。
「で、でも、名前! 名前は解ってるじゃないですか。堺虹さんで間違いないんですよね?」
「堺虹という名前は僕が名乗ったわけではありません」
「あ……」
思い返せば『堺虹』という名は、この青年自らが名乗った名前ではない。黒絵が青年の正体を今日入居するはずであった『堺虹』という人物だと決め付け、青年はそれを肯定すらしなかったが否定もしなかったというだけの話だ。
「あの時はまだ頭がぼーっとしていたので、管理人さんに名前を呼ばれて、それが自分の名前だと思って受け入れてしまいました」
「つまり黒絵ちゃんの早とちりと」
「あう……」
気まずげに俯く黒絵。
「でも他にそれっぽい人が現れていない以上、虹ちゃんが本人で間違いないんじゃない?」
「そうですね。僕が本物の堺虹を殺してその人に成り代わっている、とかでなければ……」
「え、えええ?!」
物騒な可能性に黒絵は大いに動揺したが、言った本人と光里は落ち着いていた。
「まぁ、記憶喪失が嘘だったとしても、犯罪者が自分でそんなこと言わないわよね。で、どうしたい?」
どうしたい、というのは光里自身も含め、この場にいる全員に投げかけた質問だった。普通なら実家に連絡を入れた上で病院か警察にでも行くべきだろう。むしろそれしか選択肢がないように思えるが、光里は選択肢を与えずに本人らの意思を問うた。
「……あの、しばらくここに住まわせてもらってもいいですか?」
控えめに手を挙げて、まずは暫定で堺虹だとされる人物が自分の考えを口にした。
「別に、今までの記憶があってもなくてもあまり変わりがないと思うんです。どうやら僕は、馴染みのない土地で一人暮らしを始めて、新しい学校に通うつもりだったみたいですから……『知らない』のも『覚えていない』のもそう変わりがないという気がします。日常生活には支障はなさそうですし、もしかしたら、すぐにでも記憶を取り戻すかもしれませんし……あまりおおごとにはしたくないと言うか、家族を心配させたくない……と、思うんです。多分」
所々曖昧な物言いなのは記憶を失った今の自分と、記憶を失う以前の自分の考えが一致しているか自信がないためだろう。
「あのっ、私もそれがいいと思います。折角ここの住人になってもらえたのに、すぐにお別れなんて寂しいです。そうすることが本当に虹さんのためになるのかは自信ないですけど……できる限り虹さんのお力になれるよう、私も頑張りますから!」
「……ダメでしょうか?」
黒絵の賛同を得て、虹は残る一人にも同意を求めた。
「なんだか捨て犬を飼ってもいいかってねだられてる気分になってきたわ……オレに許可求めたって仕方ないでしょ? 当事者と管理人がいいって言ってるんだから、オレにはダメって言える理由はないわよ」
どうやら、三人の意見は一致したようである。
こうして改めて、堺虹はメゾンモノクローム、通称モノクロ荘の新たな住人として迎えられた訳であるが―――
「……でも、本当にいいんですか? 僕みたいな素性の知れない男をここに住まわせてしまって……」
「いいんじゃないの? ワケありなんてここじゃ珍しくないし、オレは気にしないわよ。黒絵ちゃんも、ね?」
光里が同意を求めると、黒絵も千切れんばかりの勢いで首を縦に振った。確かにこの二人からして、戸籍と性別がどうなっているのかすでに怪しい。
「他の住人の方は、嫌がらないでしょうか?」
現在、このアパートの住人は半数以上が留守にしている。隣に住む人間の名前も知らぬような無関心な住人ばかりならばそう問題はなかったが、生憎と言うべきかこのアパートの住人は皆、交流を密に行っているらしい。二人の意見がアパートの住人の総意と受け取ってよいものか、不安が残る。
「平気よぉ、虹ちゃん人畜無害そうだもの。他のコ達に比べたら問題ないない」
「他の人達の方が問題あるんですか……?」
「でもいい人ばかりですよ!」
問題があることは否定しないらしい。
虹にとっては不安事項が増えたばかりであったが、その日はそれでひとまず解散となった。
*
「あら、おはよう虹ちゃん。昨日はちゃんと眠れた?」
財布を片手にアパートの外付け階段を下った所で、虹は丁度仕事から帰ってきた光里と出くわした。
「お……おはようございます」
光里の格好は昨日見たすみれ色のカクテルドレスに、春物のコート。朝から立ち眩みを引き起こしそうな美女っぷりに、思わず半歩後ずさる。
そういった反応には慣れているのか、光里は少し呆れたような視線を送った。
「あのねぇ、そう怯えなくたっていいわよ。昨日も言った通りこの格好はただの趣味。女の子の格好するのが好きなだけでソッチの趣味はないから、取って食ったりしないわよ」
「すみません……でも、第一印象とのギャップが激しくて、すぐには慣れそうにないです……」
親切なイケメンから親切な美女への変貌。似て対極なる変化である。
「別にひた隠しにしてるワケじゃないけど、初対面の人にいきなり地を見せたらさすがに引かれちゃうでしょ? でも虹ちゃんには早々にこの格好見られちゃったからもういいかなーって。あ、この格好の時は『ひかりちゃん』って呼んでくれていいわよ」
TPOは弁えているようであるが、弁えた結果余計なギャップを生み出し混乱を招いているという気もする。ニューハーフあるいは男の娘なるものに対する偏見は、記憶の有無に関係なくそう簡単には拭えそうになかった。
「ところで、どこか行くの?」
「あ、はい。何か食べる物も買いに、コンビニに」
引っ越したばかりで食料の備蓄がなく、昨夜の食事はコンビニの弁当で済ませた。夕食の調達ついでに翌日の朝食の材料も買っていたが、それは先程灰燼に帰したところである。
「朝ごはん? それなら、黒絵ちゃんに頼めばいいのに。ついてらっしゃい」
そう言うと光里は虹の腕を掴み、管理人室の方へと引っ張った。
「え、そ、そんな、迷惑になりますよ」
「だーいじょうぶよぉ。黒絵ちゃん料理好きだから、むしろ喜んでくれるわ」
黒絵本人が「できる限り力になる」と言っていたとはいえ、料理ができないからと食事をたかりに行くというのはさすがに気が引けた。虹は遠慮したが、光里は構わず管理人室のドアを叩いた。
「黒絵ちゃーん、おはよー。虹ちゃんにメシ食わせてやってー」
「はい喜んでー!」
ドアの向こうから居酒屋のような返事が返ってきた。居酒屋と違うのは、その返事が本当に喜びに満ちた返事であるということだ。
ぱたぱたと玄関に向かって走る音が聴こえて、すぐにエプロン姿の黒絵が姿を現した。
「うわっ!?」
「黒絵ちゃん、ドア開けるの忘れてる」
喜びのあまり、黒絵はドアを開けるのを忘れてすり抜けて出てきてしまった。
「あ、ご、ごめんなさい」
再びドアをすり抜け、今度はきちんと内側からドアを開けた。正体が幽霊だと解っていても、入居二日目の虹にとっては目の前で心霊現象を見せ付けられるのは心臓に悪い。
「おはよ。悪いんだけどさ、虹ちゃんコンビニ行こうとしてたから、ちゃんとしたごはん食べさせてやってくれない?」
「はい、簡単なものでよろしければ。光里さんも食べていきますか?」
「オレはいいわぁ。帰ってきたばかりだから眠たくって。じゃ、あとは任せるわねー」
そう言って光里は黒絵に後を任せると、欠伸をしながら自室へと戻って行った。
「すぐに用意しますから、座って待っていてください」
勝手に話を進められてしまったが今更遠慮できる雰囲気でもなく、虹は素直に管理人の部屋に上がった。
しばらくして、虹の目の前に料理が並べられた。メニューは白米に味噌汁、出し巻き玉子に作り置きのひじきの煮物。昨日の昼食に作ってもらったおにぎりに使われていた自家製梅干も食卓に並んでいた。素朴で凝ったものではなかったが、一人暮らしの学生の朝食としては充分に豪華と感じられるメニューだった。
配膳を終えた黒絵がエプロンを外し、対面に座るのを待ってから虹は手を合わせた。
「いただきます」
まずは味噌汁を一口啜る。具材はにんじん、玉ねぎ、さつまいもと根菜が豊富で、出汁の香りと共に野菜の甘みが口の中に広がった。
出汁巻き玉子も一口分切って口に運ぶ。出汁の取り方がしっかりとしているのだろう、こちらも文句なしに美味。
「美味しいです」
その感想を待っていたのか、それを聞いてからようやく黒絵も手を合わせ、食事に手をつけた。
自分で作った料理を実に美味そうに食べる。その姿を見て、ふと疑問に思う。
「幽霊も、食事が必要なのですか?」
「うーん……多分、必要ではないと思うんですけど、気分的にお腹は空いちゃいますね。昔から作るのも食べるのも好きでしたから、目の前にあると我慢できなくて」
確かに、これだけ美味い料理を作れるのに自分はおあずけというのは耐えられないな、とひじきを咀嚼する。
「昔からって……そういえば管理人さんって、いつから幽霊やってるんですか?」
まるでそれが職業であるかのような妙な尋ね方になってしまったが、黒絵は気にしていないようだった。
「そうですねぇ……五十年くらいでしょうか?」
「ごじゅ……っ」
想像していたよりも倍以上の数字であった。黒絵の見た目は二十歳前後、プラス五十年の幽霊暦となると、生きていれば虹から見て母親どころかおばあちゃんよりも年上かもしれない年齢だ。
「もしかして、五十年も前からずっとここの管理人をしているんですか」
「そうですね。気付いたらここにいて、いつの間にか、ここの管理人になってました」
「まさか、管理人さんが亡くなったのって、僕の部屋の銃痕が関係しているのでは……?」
204号室の壁に貼られていたガムテープ。その下には銃弾がめり込んだ痕が隠れていた。黒絵は204号室で事件はなかったと主張したが、黒絵の身の上と銃痕には何か因果関係があるのではないかと虹は考えた。
「あ、それは全然関係ないです」
関係ないらしい。黒絵が撃たれたのではないと分って少し安心したが、それはそれで銃痕の正体が分らないままで怖い。
「よく覚えていないんです。どうして自分が死んじゃったのか、どうして自分がこの世に留まり続けているのか」
「そうなのですか……すみません……」
無遠慮に足を踏み込みすぎたと反省したが、黒絵は慌てた様子で箸を持った手をぶんぶんと振った。
「そんな、覚えてないって言っても虹さんと比べたら全然深刻じゃないんですよっ。むしろ、私はここにいることができてとても幸せなんです」
箸を振り回す無作法に気付いたのか、黒絵は顔を赤くして一旦箸を置いた。
「私、毎日が充実してるなって思うほどに身体が透けてくるんです。多分、人生に満足し切っちゃえば完全に身体が消えて、成仏することができると思うんです。……だけど、人生って楽しいことばかりじゃないじゃないですか。辛いことや悲しいことがあるとそれが『もっといい人生送りたい』って未練になって、全然成仏できなくなっちゃう」
アパートの管理人の仕事をしていると、定期的に店子との出逢いと別れ――黒絵にとっての喜びと悲しみが繰り返される。
この世に留まるために管理人をしているのか、管理人をしているからこの世から離れられないのか――それは、黒絵自身にも解らなかった。
「……でも、いいんです。辛いことがあるのは生きていれば当たり前。それ以上に、私はここでの生活が好きで、幸せなんです――とっくの昔に死んじゃった人間が、しつこく生きていたいなんて思うのは、欲張りだって言われちゃうかもしれませんけど」
そう言って、眉をハの字にして笑って見せた。
虹は、それが特別欲をかいた考えだとは思わなかった。黒絵が現在の見た目の年頃で命を落としたのだとすれば、それはあまりにも薄命である。もっと生きたかったと未練を残しても当然だ。実質七十年近く生き続けているようなものなのだからもう充分ではないかとも思えるが、まだまだ生きていたいと思っている七十代の人間は山ほどいるはずだ。
黒絵だけが欲張りで、そんなことを思ってはいけない――そう言える理由は、考える限りどこにも見当たらなかった。
「ああ、ほら、冷め切らないうちに食べちゃってください。そうだ、お茶淹れますねっ」
しんみりとした空気を払うように明るくそう言って、黒絵は席を立った。
虹はその背中に何か言葉を掛けようとしたが上手く言葉にまとめられず、組み立てかけた言葉をぬるくなった味噌汁で喉の奥に流し込んだ。