膝の上、膝の下
「また言い出せなかった……」
自室に駆け込んだ黒絵は、後ろ手で閉めたドアに背中を預けてため息を吐いた。
新しい住人がこのアパートにやって来てからすでに数時間が経過している。その間いくらでも話し掛ける機会はあったというのに、黒絵は最も重要な事柄を言い出せないままでいた。
「さっき、思い切って言っちゃえばよかった」
そう呟いて黒いストッキングを穿いた自分の足元を見る。くるぶしの辺り、先程ベランダの窓枠にぶつけた箇所が破れて伝線してしまっていた。
下手に隠して誤魔化したりせず、勢いに任せて秘密を明かしていれば――と考えて、首を振った。
「ううん、過ぎたことを言っても仕方ないよね。いきなり言ってもびっくりさせちゃうだろうし、やっぱりきちんと順を追って話さなくちゃ! 部屋に呼んじゃったし、次こそはきちんと話さないと!」
言い訳と決意を済ませて、サンダルを脱いで部屋に上がる。
ヤカンに水を入れ、火に掛ける。それから急須に茶葉を入れて、すぐにでも茶を淹れられるように用意した。
「あ、ストッキングどうしよう……」
いっそこのままの格好の方が都合がいいのではないか? と少し考えたが、都合とは別に、破れたストッキングを穿き続けていることが単純に女として恥ずかしいことのように思えたのでやはり穿き替えることにした。
「ええと、たしか新しいのがあったよね……」
黒絵はスカートの下に手を入れてストッキングを脱いでから、タンスの中をごそごそと探り始めた。
「よいしょ……っと」
畳まれたダンボールの束をゴミ集積場に運び終えた虹は、手を払って一息吐いた。
細かな日用品の買い出しなど今日中に済ませておくべき仕事はまだ残っていたが、荷解きを全て終えてひとまず一段落ついたというところだ。
片付けを終えた虹は自室には戻らず、その足で管理人室へと向かった。片付けを終えたらお茶を飲みに来るようにと言われていたのもあるが、それ以上に足をぶつけてから急に慌て始めた黒絵の様子が気になっていた。
このアパートにはインターホンが備えられていない。ドアをノックして、声を掛けた。
「管理人さん、入っても構いませんか?」
ストッキングの買い置きはすぐに見つけ出すことができたのだが、それを開封するのに黒絵は手間取っていた。やっと袋から取り出したタイミングで玄関先から声が聴こえ、黒絵は慌てふためいた。
「わ、ちょ、ちょっと待ってくださーい!」
ストッキングを穿くという作業はなかなかに手間が掛かる。破いてしまわないように慎重に、しかし来客を待たせる訳にもいかないので急いでつま先を突っ込んだ。と、今度はピー! とけたたましい音が部屋の中に響いた。火に掛けていたヤカンの湯が沸いた音だ。
「わっ、わっ!」
白石黒絵という女性は、慌てると途端に二つ以上の仕事を同時にこなすということができなくなる人物である。
穿きかけのストッキング、火に掛けられたヤカン。この二つを同時にどうにかしようとすると、案の定と言うべきか、ろくな結果にはならないのである。
「きゃあ!」
入室の許可を待っていた虹はドアの向こう側で悲鳴と、がちゃんっと何かが落ちる音を聴いた。
「どうかしたんですか? 大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫です! ちょっと、ヤカンを落としてしまって……」
「ヤカン?!」
黒絵は虹を部屋に招くために茶を用意すると言っていた。となると、当然ヤカンは湯を沸かすために使われていたのだろう。それを落としたということは――最悪の事態を想像して、虹は青ざめた。
「管理人さん、入りますよ!」
「あ! だ、ダメです! まだ―――!」
制止を聞かず、虹はドアを開けた。
部屋に入ったと同時に湿った熱気が肌を掠める。足元には空のヤカンが転がり、フローリングの床からもうもうと湯気が立ち上っていた。床にぶちまけられた熱湯、その中心に黒絵は脚を投げ出して座り込んでいた。
「え……?」
しかし幸いと言うべきか、黒絵に火傷はないようだった。それどころか、投げ出された脚はまったく濡れてはいない。
穿きかけのストッキングが片方の足首に引っ掛かっている。否、正確には足首だと思われる部分に、である。
膝丈のスカートと足首のストッキング、その間にあるべきはずのものがなかった。
黒絵の脚は、膝から下が透けて存在していなかった。
「うわあああああ!!?」
虹は悲鳴を上げて、一歩後ずさった。閉じたドアに背中がぶつかる。
「な、何……何なんだ、これって、どういう……」
「あ、あの、これは、その……!」
黒絵が弁解を試みるが、目の前の光景を理解するのに手一杯で虹の耳には入らない。しかしその目の前の光景すらも理解が追いつかず、背中をドアに擦り付け頭を抱えた。
「ちょっと、今の悲鳴は何?!」
隣人が虹の叫び声を聴き付け、様子を見に来たのだろう。ノックもなしにドアが開かれた。
「あ」
ドアにもたれ掛かっていた虹は、外開きのドアに吸い寄せられるように移動した。
やがて支えを失いバランスを崩した虹は、地面に倒れ込んでそのまま気絶してしまった。
「……あ、良かった。目を覚ましたのね」
再び目を開けた虹の視界にまず映ったのは、見知らぬ女性の顔だった。
(……すごい美人……)
覚醒したばかりのぼんやりとした意識の中で虹はそんな感想を抱いた。目を覚まして最初に見るのが美女の顔、というのはなかなかに悪くない気分である。
それにしても妙に距離が近い。ふと、自分の置かれている状態に気付く。
(膝枕?!)
気恥ずかしさを感じると共に一気に意識が晴れ、跳ね起きようとした。しかし優しく肩を押さえられ、起き上がるのを阻止されてしまった。
「ダメよ、頭をぶつけたのだから急に動かない方がいいわ。頭、痛くない?」
肩を押さえていた手が離れ、頭を撫でる。
「頭は大丈夫ですが……少し首が痛いです」
膝枕に慣れていないせいか、膝に乗った首が痛む。近距離の顔を直視できずに視線を彷徨わせながらそう言うと、美女はころころと笑った。
「うふふ。まぁ、女の子の膝と比べちゃうと、どうしても硬い枕になっちゃうわよね」
「女の子の…?」
虹は今の物言いに違和感を覚えた。
女の子よりも硬い膝。
艶っぽいが、女性にしてはハスキーな声。
化粧をしているため印象は異なっているが、よく見ると見覚えのある整った顔立ち。
「……遠野、さん……?」
「はぁい♪」
虹がつい先程知り合ったばかりのイケメンの苗字を口にすると、膝を貸してくれている美女が返事をした。
「……の、お姉さんか妹さん……?」
「残念、オレ一人っ子よ」
わずかな可能性に賭けて発言を付け足してみたが、即座にその可能性は否定された。
爽やかで親切な絵に描いたようなイケメンは、すみれ色のカクテルドレスを纏った推定Eカップの美女と化していた。
「な、なんでそんな格好を……?」
「ああ、誤解しないでね。心配ないから」
虹の言わんとすることを察したのか、美女に化けた光里は顔の前で手の平を横に振った。
「ただの趣味よ」
どう考えても誤解と心配しか生み出さない回答である。
虹は、今度は注意を受けないようにゆっくりと身を起こした。
「あら、もう大丈夫なの?」
「大丈夫です」
「遠慮はしなくていいのよ?」
「大丈夫です」
遠慮と言うよりは拒絶である。
「それならいいわ。それじゃあ起きたばかりで悪いけど、今から黒絵ちゃんの話を聞いてあげてくれる?元々、そのために呼ばれたのよね?」
光里が指し示した先に、神妙な面持ちの黒絵が座っていた。部屋の主であるにも拘らず、遠慮がちに部屋の隅で正座をしている。折り畳まれているため全体を見ることはできないが、黒いストッキングに包まれた脚はあるべき場所にきちんと存在しているように見えた。
「……脚、ありますよね?」
ぽつり呟くと、黒絵は勢いよく頭を下げた。
「ごめんなさい虹さん! 隠すつもりも驚かせるつもりもなかったんです! ただ、なかなか言い出せなくて……!」
額を床に擦り付け兼ねない黒絵の態度は、虹の見た光景が夢でも幻でもないということを物語っていた。
「本当にごめんなさい! でも虹さんにはちゃんとお話しして納得してもらいたいんです! そのためなら私、今すぐにでも脱ぎますから!」
ブフォッと虹の口から勢いよく空気が噴出された。「ストッキングを」の一言が抜けたために問題発言になってしまっている。
「はしたないからやめましょうね」
光里がやんわりと制止を掛けなければ、今すぐにでも脱ぎだしそうな勢いであった。そもそも女性が異性の目の前でストッキングを脱ぐという行為自体、問題がないとは言い難い。
「ちょっと落ち着きなさい、黒絵ちゃん。虹ちゃんは……悲鳴上げてた割には落ち着いてるわよね?」
黒絵が虹以上に取り乱しているためそう見えるというのもあるが、先程から落ち着いて淡々と受け答えをしている。
「遠野さんの衝撃が大きくて直前の衝撃が吹っ飛びました」
「あら、オレのお陰?」
『お陰』と『所為』の表現の使い分けは紙一重である。
「それはともかくとして……管理人さん、あなたは一体何者なんですか?」
「ええと……それは、実際に見てもらった方が納得できると思うので……」
そう言うと黒絵はにじり寄り、虹の手を取った。握手をするように片手を握りこみ、そして、その手がするりと通り抜けた。
「!」
また悲鳴を上げそうになったが、なんとか飲み込む。
「私、生きている人間ではないんです」
黒絵は、自身の胸に手を当ててそう告白した。
「幽霊……?」
「はい。今みたいに触ったり透けたりっていうのは自分で調節できるんですけど、足元はどうしても透けて見えちゃうんです。形は、ちゃんと脚の形をしてるんですけど……」
虹に見せるために伸ばした脚は女性らしいラインを描いている。黒いストッキングは透明な脚を隠すための物のようだ。
幽霊には足がないとよく言うが、黒絵の場合はその時々で見えなくなる範囲が変わるらしい。現在は膝から下が消えてしまっているが、足首辺りまで見えていることもあるのだという。
「このアパートの住人は皆さん、このことを知っているんですか?」
「今の住人は皆承知してるわよ。だけど今までには最初から最後まで冗談だと思ってここに住んでいた人もいたわ。虹ちゃんみたいに、説明の前に生脚見ちゃった人はレアよねぇ」
「信じてもらえないならもらえないで、別にそれでもいいんです。でも、今回みたいにいきなりバレてびっくりさせちゃうのが嫌で、事前にちゃんと説明するようにしてたんですけど……ごめんなさい。本当は私が膝枕するべきだったんですけど、こんな脚だから、気持ち悪いんじゃないかって思って……」
その結果が光里の膝枕である。普通の枕を敷くという選択肢はなかったのだろうか。ついでにいつの間にか光里に下の名前を『ちゃん』付けで呼ばれている、などと色々言いたいことはあったが一旦飲み込んだ。
「ここに住むか出て行くかは虹ちゃんの自由だけど、できれば黒絵ちゃんのことを嫌って欲しくないわ。黒絵ちゃんがオレたちのことを家族だと思ってくれているように、オレたちも黒絵ちゃんのことを家族だと思っているの。黒絵ちゃんが一生懸命でいい子だってことは、住人を代表してオレが保証する」
それは虹も充分に理解していた。幽霊だと解った今でも、目の前にいるのは落ち着きがなくそそっかしい、気遣い屋の管理人さんだった。
「気持ち悪いとか嫌いとか、そういうことは思っていません。ただ、突然のことで驚いてしまっただけで……僕の方こそ、悲鳴なんて上げてしまってすみませんでした」
「い、いえ、私の方こそ! 驚かせちゃって本当にすみませんでした」
虹が頭を下げると、黒絵はそれに負けじとさらに深く頭を下げた。二人向き合って土下座のような姿勢になっていると、光里が終了の合図をするように手を叩いた。
「お互いにそれくらいにしときましょ。でも良かったわね、虹ちゃんが理解のある人で。心霊現象肯定派?」
「さあ…どうなんでしょう?今はちょっと、自分の中の常識に自信が持てなくなっていたところなので、管理人さんのことはすんなりと受け入れられたのかもしれません」
光里についてはすんなり受け入れられていないらしい。しかし、自分の事だというのに随分と曖昧な物言いだ。
「なんだかずっと、何かを忘れているような気がしていたんです」
「そういえば、そう言っていましたね。忘れ物、何か思い出せたんですか?」
黒絵は虹が度々何か物思いに耽ってぼんやりとしていた姿を思い浮かべた。
「いえ、思い出せていません。だけど『思い出せない』ということに気が付いたんです」
「どういうこと?」
詳しい経緯を知らない光里が黒絵に子細を求めるが、黒絵も解らない、と首を横に振った。
「思い出せないんです、ここに来るまでのことが。自分がどこからどうやって来たのか、これまで何をしてきたのか」
自らの身に起きた異変の正体を虹は淡々とした口調で、こう結論付けた。
「どうやら僕は、記憶喪失というヤツのようです」