虎 ~シラフはつらいよ~
宴は酣。初めに鍋に投入した具材が空になり、関東風で作り直したすき焼きも半分ほどに量が減った頃、アルコールがいい具合に身体に回った大人たちはすっかりと出来上がっていた。
「だからねー、俺はスカートは短けりゃいいってもんでもないと思うんだよー。長いスカートからのチラリズムの方がありがたみがあるっていうかー」
「はいはい、でも短いのも好きなんでしょ」
酔っても酔っていなくとも彦一の発言内容にあまり変化はない。
光里もそれなりの量を飲んでいるはずだが、彦一ほどは酔っ払っていない。仕事柄呑み慣れているのだろう、単純に酒に強いと言うよりは呑み方のペース配分が上手いようだ。加えて人に呑ませるのも上手い。相槌を打ちつつ、相手のビールが空になるのを見計らってさりげなく新しい缶と取り替えている。
こうして順調に増えていく飲酒量。酒量が増えてゆくごとに話は弾み、話題は尽きない――――というのは呑んでいる人間視点での話である。
(つらい)
呑んでいない人間からするとまた視点も変わってくる。
「虹さーん、ちゃんと食べてますかー? 主役なんだからちゃんと食べないとダメですよー」
「食べてます……というか、さすがにそろそろお腹いっぱいなんですが……」
赤い顔をニコニコとさせながら虹の取り皿に鍋の中身を放り込む黒絵。
既にこのやり取りは三回目だ。満腹中枢は警鐘を鳴らしているが、断ると「私の料理が食べられないんですか」と瞳を潤ませて絡んでくるので虹に拒否権はない。
「虹さんはすき焼きの具は何がお好きですかー? 私はですねー、お豆腐かなー」
この話題も三回目だ。所謂『管を巻く』状態とはこういうことを言うのだと身を持って実感していた。
酒を呑めない虹とひどりはその分、肉や野菜を胃に詰め込むしかなかった。胃の容量が限界に近付き辛いのもあるが、素面で酔っ払いたちのテンションに付き合わなければならないのも辛い。楽しい雰囲気に付き合いたいのは山々なのだが、同じような内容の話を延々と繰り返されてはさすがにうんざりとしてくる。
まだ正気を保っている光里に助けを求めてみたが「これも社会勉強よ」などと尤もなことを言われ助けては貰えなかった。確かに酔っ払いに付き合うスキルは将来必要になるだろうが、自分が主役の宴の席で辛い思いをしなければならないのはどこか釈然としない虹である。
虹は共に試練に耐えている戦友の様子を見る。ひどりは箸を持ったままうつらうつらと船を漕ぎ始めていた。
「眠みぃ……」
時刻は夜九時、よい子はもう寝る時間だ。睡魔と戦うのに必死でひどりは既に目の前の酔っ払いと戦うどころではなくなっていた。
「あ……もうだめだ……」
「待ってひどりくん置いてかないで」
「ムチャ言うな……ぐぅ」
抵抗虚しく、縋る虹を置いてひどり撃沈。
ベッドから引っ張り出した毛布をひどりの身体に掛けてから席に戻ると、またしても黒絵に捕まった。
「ひどりくん寝ちゃったんですねー。じゃあ、虹さんがひどりくんの分も食べましょうねー、うふふふふふ」
笑顔で恐ろしいことを言う黒絵。少し席を離れた隙にまた取り皿の中身が増やされていた。テーブルの上に皿を置いていると椀子蕎麦の如く次から次へと中身を増やされてしまうので、虹は皿を手に取り黒絵の箸が届かないようにした。
「あの……そもそも量が多くないですか?」
まだ鍋に入れていない生の食材も多く残っている。五人、うち一人は幼児が食べる分量にしては量が多過ぎる。
「だって等さんもしずくちゃんも来られなくなっちゃったんですもーん」
実質七人分の量を用意していたという訳だ。二人の欠席を事前に知っていながら仕込む量を見誤ったのは黒絵らしくない。おそらくは手伝いをした光里が勢いに任せて無責任に仕込んだに違いない。そして酔って判断力の低下した鍋奉行がそれを無責任に鍋に放り込んでいく。まだ作る気だ。
「いやあの管理人さん、百瀬さんもしずくちゃんもいないって今自分で言いましたよね? これ以上作ってもこの人数では食べきれないですって」
「それですよそれー!」
「どれですか」
先程まで笑っていたかと思えば今度は突然怒り出した。今の会話のどこに地雷があったのか理解できず、困惑と呆れ隠せない虹。
「なんでしずくちゃんは『ちゃん』付けで、私は『管理人さん』なんですかー!?」
「えっ、そこですか?」
予想の斜め上の方向から爆弾が飛んできた。光里のように戯言と聞き流せばよいものだが、まだ酒の席で場数を踏んでいない虹は律儀に返事をしてしまう。酔っ払いの会話に脈絡というものを求めてはならない。
「光里さんも彦一さんも黒絵ちゃんって呼んでくれてるのになんで虹さんだけ呼んでくれないんですかー?」
「ですけど年上の人をちゃん付けで呼ぶのはどうなんですか……」
虹と黒絵の正確な年齢は不明だが、少なくともこの場では酔っ払いと未成年ということで黒絵の方が年長という扱いになる。
「なんですかー、虹さんからしたら私はおばさんだって言いたいんですかー?」
「いえ、決してそんなことは……というか、それを言ってしまうと管理人さんは……」
この場に居る誰よりも年上ですよね、と言おうとしたが余計に話がこじれると感じ、ぐっと言葉を飲み込んだ。
「あー! ほら、また管理人さんって呼んだー! もう、また管理人さんって呼んだらすき焼き食べさせませんからねー!」
「管理人さん管理人さん管理人さん」
ここぞとばかりに連呼した。虹は既に満腹である。
「光里さーん、虹さんがいじわる言いますー!」
「遠野さん助けてください、管理人さんが面倒くさいです」
二人揃って光里に助けを求めた。
「光里くん、なんだかさっきから若者が痴話喧嘩しているよ! 羨ましいんだけど!」
何故かそこに彦一も加わってきたが、それは「はいはい」と聞き流された。
「だから言ったでしょ、黒絵ちゃんは酔うと面倒で可愛いって」
面倒さは身を持って実感中だが、可愛さの方はまだいまひとつ実感できていない。
(絡んでくるのが一般的には可愛いと言うのだろうか……)
虹からすると軽い拷問のようだが、上手く伝わっていないだけで黒絵からすると実は可愛らしく甘えてきているつもりなのかもしれない。はたと閃く。
「なるほど、これがツンデレというやつですね」
「多分それ、ツンデレの認識間違ってるわね」
違うらしい。酒の席では呑んでいなくとも場に酔うということが起きるが、虹も判断能力が鈍ってきているようだ。ツンデレのツンとは拷問のことを指さない。
「もぅ~、こうなったら呼んでくれるまで帰しませんからねー」
尚もしつこく食い下がる黒絵。帰さないも何もここは虹の部屋であるが、いつまでも居座られれば迷惑なことに変わりはない。
「どうしたらいいですか遠野さん……」
「そりゃもう諦めて呼んであげたらいいんじゃない? 減るもんじゃないんだし」
虹自身もそれが一番手っ取り早い方法だとは分かっていた。分かってはいるが目の前にはにやにやと事の次第を見守っている光里と、羨ましそうな表情の彦一がいる。
「神経が磨り減ります」
「まぁオレ達のことはお気になさらず。難しいんだったらアタシで練習してみる? リピートアフタミー、ひか」
「分かりました呼びます。呼びますから」
これ以上の辱めを受ける前に虹は決心した。
名前を呼ぶくらいどうということはない。本人が呼べと言っているのだから性別だの年齢だのと気兼ねする必要もないと自分に言い聞かせる。
ひとつ息を吐いて、虹は黒絵に向き直った。
「くー……」
「寝ますかそこで」
安らかに寝息を立てる音を聞き、虹は脱力してテーブルの上に突っ伏した。
*
その後、歓迎・お疲れ様会のすき焼きパーティーは残された男達により虹を慰める会へと内容を変え、開きとなったのは日付が変わる頃となった。
すっかり熟睡してしまったひどりは、仕事を終え帰宅した等に抱きかかえられ、無事に自分の部屋へ帰った。
同じく熟睡してしまった黒絵は虹と光里の二人掛かりで運んで管理人室に押し込んだ。黒絵は眠ると実体があやふやになるらしく、半分透過した身体をドアの向こうに文字通り押し込んだのだ。室内とはいえ玄関先に放置というぞんざいな扱いに風邪でも引かないだろうかと虹は心配したが、光里曰く酒には酔うが風邪を引いたことはないらしいので心配はいらないとのことだった。
ちなみに彦一も手伝いを申し出たが、二人に断られ黒絵より先に自室に戻された。酷く酔っ払って千鳥足だったということだけが理由ではあるまい。
翌朝、目を覚ました虹はまず部屋の片付けを始めた。余った食材は光里の協力で既に片付けてあったが、鍋や食器などはテーブルの上に放置したままだ。
普段全く料理をしないので手慣れてはいないが、洗い物くらいはできる。
洗い終わった鍋に食器を重ねて入れ、管理人室へと向かう。持ち切れなかった食器やコンロが部屋に残ったままだが、一度に運ぶのは無理なので後に回す。
「おはようございます。開けてもらえますか?」
管理人室の前で声を掛けると、返事があってすぐにドアが開いた。
「おはようございます――あ、お鍋……そのままにしてもらって良かったのに。すみません」
申し訳なさそうに鍋と食器を受け取る黒絵。
「ごはん、もう少し待ってくださいね。すぐに出来ますから」
「じゃあ、その間に残りの食器も運んできます」
黒絵はまたも申し訳なさそうに後で自分が運ぶと申し出たが、コンロなどはそれなりに重量のあるものなので虹はそれを断った。
何往復かして、借り物の食器類を全て運び切った。
「どこに仕舞えばいいですか?」
「後は私が片付けますから、置いていてください。ありがとうございました」
朝食の用意が整うにはまだ少しだけ掛かりそうなので、後は座って大人しく待つことにした。
黒絵はいつものてきぱきとした手際で食卓の準備を進めていく。すっかり酒気は抜けてしまっているらしく、昨夜の様子が嘘のようだ。
(もしかして、昨日のこと覚えてないんじゃ……?)
台所に立つ後ろ姿を見つめ、少し考えてから試しに小さな声で呼び掛けてみた。
「黒絵ちゃん」
がちゃん、と音を立ててお玉を落とした。
「なっ、なっ、なんですかどうしたんですか急に?!」
分りやすく動揺しているが、昨夜の痴態を思い出して照れているのか単に呼び名に照れているのかまでは判断しかねる。
「急にではないです。昨日、管理人さんが呼べと言ってきたんです」
「嘘っ! 私そんなこと言ったんですか?!」
顔を赤くしてオロオロとしている。どうやら全く憶えていないらしい。
「昨日は呼べませんでしたけど、かなりしつこく言ってきたのでやはり呼んだ方が良いのかと」
虹は一度覚悟完了させた後なので『黒絵ちゃん』と呼ぶことにあまり抵抗はなく、既に吹っ切れていた。黒絵が盛大に照れてくれているのでその分冷静になっているとも言える。
「い、言ったのかもしれないですけど、年下の人にそんな風に呼ばれたことないから照れると言うかなんと言うか、ちょっとどうなんでしょう……」
「どうなのかという問題は昨晩僕も提示しましたが……他の人達も同じように呼んでいるのにそんなに照れられるとは思いませんでした」
「だ、だって酔って言ったことだし、虹さんってそんなこと言うタイプの人じゃないと思ってたし……っ」
だからこそ昨夜は懸命に拒否し続けたのであって、そういったタイプでないことは本人も自覚している。
「それで、どうしましょうか黒絵ちゃん?」
「わわわわ……っやめてくださいっ! ああっ、でも名前で呼んでくれるのは嬉しいのであの、その……」
落ち着きのない挙動はいつものことと言えばいつものことであるが、今日は落ち着きのなさに拍車が掛かっている。
(確かに、これはちょっと……)
遠野さんの言っていたことも理解できる、などと真っ赤になった顔を手で覆う黒絵を眺めつつ思うのだった。
その後、呼び名の問題は今後「黒絵さん」と呼ぶということで纏った。




