ご近所トラブル
大学からの帰り道、堺虹は正面から見覚えのある人物が歩いて来ることに気が付いた。
相手も虹の存在に気が付いたらしく、片手を挙げて気さくに挨拶をしてきた。遠目からでもその立ち居振る舞いに溢れ出るイケメンオーラ。財布片手にジャージ姿という格好だが、それでも充分に格好良く見えてしまうのには同姓として多少の嫉妬を覚える。
「おかえりー、虹ちゃん。大学はどう? 上手くやってる?」
同じアパートの住人である遠野光里は、虹の手前まで来ると足を止めた。
「はい、特に何も問題なく」
「何もってことは、記憶に繋がるような手掛かりも見付かっていないのね」
気の抜ける女言葉。多少の嫉妬が本格的な嫉妬にまで燃え上がらないのはこれが原因である。それ故に嫌味がないのだとも言えるが、虹は光里が口を開くたびに残念な気持ちに襲われる。
「どうやら大学には僕のことを知っている人はいないようです」
大学に通い始めて数日経過したが、今のところ顔見知りだと言って虹に近付いて来るような人物は現れていない。しかし顔見知りではないようだが声を掛けてくる人物は数名ばかりいた。講義でたびたび顔を合わせる学生に声を掛けられ、最近はよくつるむようになった。
要するに虹は、友人が出来てごく普通にキャンパスライフを満喫していた。
「地元の知り合いがいないってことは、虹ちゃんはこの辺りの出身じゃないのかもしれないわね。実家が近いのならわざわざ一人暮らしもしないでしょうし――――」
「あの、ちょっとすみません」
二人が立ち話をしていると、見知らぬ女性が声を掛けてきた。虹と光里は互いに「知り合いか?」と一瞬顔を見合わせたが、どちらの知り合いでもないようだ。
「あの、この場所ってどうやって行けばいいんでしょう? この辺りだと思うんですけど……」
そう言って女性は地図が表示されたスマートフォンの画面を見せた。どうやらただ道を尋ねたいだけのようだ。
「ああ、それならこの道をまっすぐ行って――……」
土地勘のある光里が地図を確認して道順を説明する。説明を受けながら、女性はちらちらと光里の顔を見上げていた。
「信号で曲がったらすぐに分かると思うよ」
「あ……ありがとうございました」
「この辺は見通しが悪いから、車に気を付けてね」
笑顔でさりげなくこういった気遣いの言葉を付け足せる辺り、外見だけではなく中身もイケメンである。ものの数秒で彼女の目は恋する乙女の瞳になっていた。
名残惜しげに背を向ける女性に軽く手を振って、光里は話題を元に戻した。
「ま、本人が楽しくやれてるのなら良い事だわ。焦る必要はないわよね」
口調も元に戻っている。本人曰く、こちらの口調が地であるらしい。
本人が楽しくやれているのならばそれは良い事だという意見には虹も賛成である。
しかし本人が楽しんでいると解っていても、やはり傍から見ていて残念なものは残念だった。
コンビニへ行くのだと言う光里と別れ、虹は一人アパートへと戻った。
「あッ!」
虹の部屋は二階にある。外付けの階段に近づくと、上の階から男の声が聴こえた。何事だろうと見上げると、目の前に薄い長方形の物体が迫ってきた。
「わっ!?」
虹は落下物が顔面に直撃する前に、真剣白刃取りよろしく両手で挟んでそれを受け止めた。
受け止めた箱には何語かは解らないが外国の文字が書かれていた。重量とパッケージのイラストから察するに菓子の類だ。
菓子の箱を手にもう一度二階を見上げると、階段から身を乗り出しこちらを見下ろすスーツを着た男の姿があった。
「いや~、すまなかったね。ナイスキャッチありがとう」
二階に上がってきた虹から箱を受け取ったスーツ姿の男の足元には、持ち手の紐が切れた紙袋が置いてあった。階段を上りきった所で紙袋の紐が切れ、階段の隙間から箱が滑り落ちてしまったらしい。先日もこの場所で段ボール箱の底が抜けるという事故が起きたので、おそらくこの場所にはそういった呪いが掛かっているのだろう。
紙袋の後ろには大きなスーツケースが置いてある。箱を持っていない方の手にはリクルート鞄。察するに、出張帰りのサラリーマンといったところか。そしてわざわざ二階まで大荷物を抱えて上がったということはやはりモノクロ荘の住人なのだろう。そう考えて虹は自己紹介をしようとした。
「ええと、初めまして。僕は――――」
「知ってるよ、虹くんでしょ? 記憶喪失の堺虹くん」
男は細い目をさらに細めて言った。最初から笑っているような目をしているので解り難いが、どうやら笑ったらしい。
「どうしてそれを……?」
「光里くんがメールで教えてくれた。写真付きで」
「写真撮られた記憶がないんですけど……」
どう考えても隠し撮りである。本人の知らない場所で個人情報が洩らされていた。しかし記憶喪失の事実が既に伝わっているのは、自分自身がよく解っていない事情を説明する手間が省けてありがたかった。
「出張に行く前に、黒絵ちゃんからも新しい人が入るって聞いてたしね」
「そうでしたか。ええと……」
「ああ、俺は――――」
「風間彦一」
男が名乗ろうとすると、別角度から名前を呼ぶ声が聴こえた。203号室のドアから住人である有沢しずくが体を半分覗かせていた。学校から帰ってきたばかりなのか、セーラー服を着ている。
「あ、ただいまー、しずくちゃん」
「おかえりなさい」
彦一が振り返って挨拶を交わした瞬間、かしゅん、と妙な音が鳴った。
不思議に思った虹は二人の間を覗き込んだ。
彦一は持っていた鞄を持ち上げ顔の前に翳していた。しずくは黒い塊を握った片手を前に突き出している。
皮製の硬い鞄にめり込んだ金属の塊。消音器を取り付けられた拳銃から発射された弾丸は、鞄がなければ確実に彦一の眉間を貫いていた。
「今日こそ殺す」
物騒な物を構えた物騒な女子高生の口から、物騒な台詞が飛び出した。




