仕送りパイナポー
ことん、と音がして堺虹は目を覚ました。
目を開けたはいいが、目の前は真っ暗だ。まだ、夜の深い時間であるらしい。
「……ん……」
一声呻いて、寝返りを打つ。
そういえば昨夜もこんな具合に目を覚ましたな、と闇を見つめる。今夜はすぐには再び眠りにつくことができそうにない。
もう一度寝返りを打つ――と、闇の中で何かが動く気配がした。
「……?」
虫でも入り込んでいるのだろうか。害虫だったら早めに外に逃がすなり退治するなりしてしまいたい。見失ってしまったらそれこそ一晩中眠れなくなってしまいそうだ。
音を立てて逃がしてしまわないようにそろりと起き上がり、手探りで電気スイッチの紐を手繰り寄せた。
紐を引くとかちり、と音を立てて部屋の中が明るくなり、目の前に飛び込んできた光景に虹は固まってしまった。
自分一人しかいないはずの部屋に、何故か今朝初めて会ったばかりの隣部屋の住人・しずくがいた。
パジャマ姿で、壁に向かって膝を立てて座っている。頭にはヘッドホンを装着していて、ヘッドホンのコードは手に構えた謎の機械に繋がっている。
「……ええと……?」
なんだかよく解らない光景に掛けるべき言葉が思い付かず、これは夢かと考え込んでしまう。
虹と目が合うと、しずくはヘッドホンを外した。
「こんばんは」
「あ……はい……こんばんは」
お辞儀と共に夜の挨拶をされて、虹は思わず挨拶を返す。
「あの……一体ここで何を……?」
「大丈夫、気にしないで」
それだけ言ってしずくはヘッドホンを付け直そうとした。
「いや、僕は大丈夫じゃないし、すごく気になります……」
そんなこんなで気が付けば虹はしずくと向き合い、膝を付き合わせて互いに正座をしていた。
(なんだろう、この状況……)
近所に住む不思議系女子高生が深夜、一人暮らしの男の部屋にそっと忍び込んだ――と纏めてしまうと、青少年向けライトノベルにでもありそうな展開だが、実際のこの光景はなかなかにシュールである。
「あの、有沢さん」
「しずく」
「し……しずくちゃん」
下の名前で呼ぶようにと言われていたことを思い出し、観念して『ちゃん』付けで呼び直した。
訊きたいことが多過ぎて何から尋ねていいか分らない。とりあえず、思いついたことから順に尋ねていくことにした。
「その機械は何ですか?」
「集音器」
素直に答えてくれる気はあるらしい。
しかし、集音器? と虹は首を傾げる。文字通りならば音を集める器具だが、そんな物をこの部屋で使う用途が分らない。
「何に使っていたんですか?」
「205号室の様子を伺うため」
205号室といえば壁を隔てた右隣の部屋だ。虹が引っ越して来てから現在まで留守にしていると聞いているが、そのことを伝えると、しずくは言った。
「知ってます。でも、虚偽の可能性がある」
「虚偽って……」
居留守を使っている可能性があるということだろうか。その真偽を確かめるためだけに205号室の隣部屋である虹の部屋へと忍び込んだのだとしたら、随分と大袈裟な話だ。
「というか僕、この部屋の戸締りはしていたと思うのですが……」
「ピッキング」
空き巣事件の手口としてよく聞く名称をさらりと口にした。
「ちょろい」
確かにアパートの鍵は簡素な作りではあるが、ちょろくてもやってはいけない。管理人さん、アパートのセキュリティに問題がありますよー! と虹は心の中で階下の管理人室に向けて叫んだ。
しずくは相変わらず下向き加減の上目遣いで大人しそうに見えるが、言っている言葉からは段々と犯罪の臭いが漂い始めていた。
「なんでそこまでして隣の様子を?」
「迷惑を掛けるから詳しくは言えない。けど、本当なら誰にも迷惑はかけないつもりだった。入居の時、対象の部屋の隣に拠点を置くつもりだったけど、こちらの手違いで一つ隣の部屋に……入居して、覗き穴を開けたら隣部屋は空で、それで初めて手違いに気付いた」
不法侵入をされている時点で虹にはすでに迷惑が掛かっている。誰にも迷惑は掛けないと言ったが、壁に穴を開ければ管理人に迷惑が掛かるとは考えなかったのか。
「部屋を替えて貰おうとは思わなかったのですか?」
虹は入居の際に部屋を替える提案を持ち掛けられている。交渉次第では希望の部屋に替えて貰うことも可能だったはずだ。
「部屋を決める時に契約を交わしてる。それをこちらの勝手な都合で破るのは迷惑になる」
何故かそこだけ常識的な選択を優先させている。
「住む部屋は替えられないけど、205号室の監視は必要。この部屋には誰も住んでいなかったから、しばらく監視部屋として使わせてもらっていた」
「以前は空部屋だったかもしれませんが、今はもう僕が住んでいるのですが……」
やんわりともう勝手に侵入しないで欲しいと主張する。所々非常識的な考えを持っているようだが、根は素直な少女だと思う。嫌がっているのだという意思を伝えれば、同じことを繰り返すことはないだろう。
しずくはこくりと頷いた。
「今後はバレないように侵入する」
「……じゃなくて、侵入するの自体をやめてください」
やはり駄目なことは駄目だときちんと伝えなければならないようだ。はっきりとNOと伝えられないのは典型的な日本人の欠点である。
しかし意思を伝えた甲斐はあったようで、渋々といった感じではあるがしずくは再び頷いた。
なんとか同じことを繰り返さないよう約束を取り付けることはできたが、どうにも釈然としない。それと言うのも、しずくが隣部屋を監視する理由が不明なままだからだ。理由は言えないらしいが、被害者の側としてはやはり納得できる理由が欲しい。虹は最後に、少し確信に迫った質問をぶつけてみた。
「ストーカーですか?」
「違います」
違うらしい。そして少しどころか直球の質問だ。
結局、それ以上の質問をすることはできなかった。しようと思えばできたかもしれないが、聞いてしまえば引き返せなくなる事実を知る危険性があった。
その後、しずくが虹の部屋に無断で侵入してくることはなかった。侵入しているが気付いていないだけかもしれない、という可能性は除いての話だが。
ともあれ虹はあの夜以降、しずくとこれといったトラブルもなく近所付き合いをしている。
ある日、虹が外へ出掛けようと部屋のドアを開けると、二階の柵越しに運送会社のトラックがアパートの敷地から出て行くのが見えた。
階段へと向かうと、誰かが階段を上ってくる音が聴こえた。しずくが段ボール箱を抱えて階段を上ってくる。出掛ける途中か帰ってきたところか、丁度下の階で運送屋と鉢合わせて荷物を受け取ったのだろう。抱えている段ボール箱は重量があるのか、階段を上る足取りはふらふらと危なっかしい。
「大丈夫?」
「だ……だいじょ……だい、じょぶ……」
大丈夫そうではなかったので、虹はしずくが階段を上り切ったところで段ボール箱を受け取った。
「ありがとう……助かりました」
しずくが自室の鍵を開けて礼を言った。
「随分と重たいですけど、何が入ってるんですか?」
階段から203号室のドアの前までの短い距離抱えていただけだが、腕が引き攣りそうな重さだ。箱に貼り付けられた伝票の『品名』の欄には『日用品』とだけ書かれている。
「秘密」
何かと秘密の多い隣人である。虹はこれ以上深く追究しようとはせず、しずくに荷物を受け渡そうとした――瞬間、ばつんっと音がして、内容物の重みに耐え切れなくなった段ボールの底が抜けた。
「あ……」
しずくは素早くしゃがみ込むと、落ちた荷物を拾い集め始めた。
虹は軽くなった段ボールを抱えたまま、ごろごろと転がるしずくの荷物を目で追った。
転がってゆく黒い物体は映画くらいでしかお目に掛かることはなく、日常ではまず目にすることはないだろう代物だった。
「日用品……?」
黙々と荷物を拾い集めるしずくの手には、大量のパイナップル型手榴弾が抱えられていた。
呆然とその様子を見つめる虹の視線に気付いたしずくは少し考えた後、手に抱えていた物を一つ手に取り、虹に向かって差し出した。
「おすそわけ」
虹はその好意を丁重にお断りした。




