モノクロームの管理人
春、桜舞う季節。
それは別れの季節。
新たな生活を始めるために去る者がいれば、それを優しく送り出す人がいる。
そして、新たな出会いの季節でもある。
新たな生活を始めるためにやって来る者がいれば、それを暖かく迎え入れてくれる人がいる。
そんな営みを人は何度も繰り返す。
穏やかで暖かい風と共に、今年もその季節が訪れた。
風に乗って鼻歌が流れてきた。それは今の流行の歌のメロディではなく、ひと昔前に流行したアイドルの曲だった。
「おはよう、今日は朝からご機嫌だねクロエちゃん」
頭の上から声が降ってきて、竹箒で庭先を掃き清めていた女性は背後の外付け階段を見上げた。振り向き様に、一部だけを三つ編みにした長い髪がふわりと揺れた。
「おはようございます、彦一さん」
「おはよ」
重たげなスーツケースを持ち上げえっちらおっちらと階段を下るサラリーマン風の若い男に朝の挨拶をすると、改めて挨拶が返ってきた。男は階段を下り切ると一旦地面に荷物を下ろし、一息吐いた。
「出張、今日からでしたね」
「うん、しばらく留守にするけどよろしくね。いやぁ~、しばらくクロエちゃんと会えないと思うとやる気出ないわー。ここの人数減っちゃって、クロエちゃんも寂しいんじゃない?」
「あはは、そんなことないですよ」
「あ、そう……」
笑って軽く流され、男はがくりとうな垂れる。その落胆した様子に気付き、クロエと呼ばれていた女性はわたわたと手を振った。思わず両手で手を振ってしまったため、握っていた竹箒がからんと音を立てて地面に倒れた。
「あっ、ち、違うんです! 彦一さんがいなくても平気って意味じゃなくて、今日から新しい人が入るからここもまた賑やかになるって意味で……っ」
「あ~、なるほどね。だから上機嫌だったんだ」
「はいっ! 家族が増えるのって、やっぱり何度経験しても嬉しいことですから」
「そっか。じゃ、その新入りさんに俺の分もよろしく言っといてよ」
竹箒を拾い上げてやってから、男は自分の荷物を持ち直した。
「気を付けていってらっしゃい」
「いってきます」
出立の挨拶を交わすと、男はスーツケースを引っ張って出掛けて行った。舗装の粗い道路の上をケースの車輪が転がり、がらがらと大きな音を立てる。その音が遠く小さくなってから、黒絵は鼻歌交じりに庭先の掃除を再開した。
手元の紙切れを見ながら歩いていた青年は、がらがらと大きな音に顔を上げ、一旦足を止めた。
大荷物のスーツ姿の男が目の前を通り過ぎていく。サラリーマンの出社にしては少し遅い時間帯だ。出張だろうか、とスーツケースを転がすその後ろ姿を見送って、それから今の男が出てきた敷地に目をやった。
二階建てで部屋数が十ほどのこぢんまりとしたアパート。さすがに木造建てというほどは古くないが、それなりに年季の入った造りだ。
青年は建物と手元の紙に書かれた住所を見比べてから、敷地の中に進入した。
アパートの庭先では女性が一人掃き掃除をしていた。近付くに連れ、竹箒の先端が地面を擦る音に加えて聴き慣れないメロディが耳に付いた。
(何の曲だろう?)
その女性は青年の接近に全く気付くことなく、鼻歌を歌いながら掃除を続けている。上機嫌な様子なので邪魔をしてしまうことに少し気が引けたが、青年は思い切って声を掛けてみることにした。
「あの」
「ひぁはいっ!?」
個性的な悲鳴を上げて竹箒を取り落とした。思いのほか驚かせてしまったようだ。
「すみません、驚かせるつもりはなかったのですが……」
「い、いえっ、私の方こそお聴き苦しいところを……」
聴き苦しいというのは鼻歌のことか不思議な悲鳴のことか、どちらにしても顔を真っ赤にして恥ずかしそうだ。
竹箒を拾い上げ、手渡して礼を言われてから、ようやく青年は声を掛けた目的を告げた。
「メゾンモノクロームというのはここでしょうか?」
横文字の名前が似合う雰囲気ではないが、確かにこのアパートの名称は『メゾンモノクローム』という。実際に対面するのは初めてであったが、青年の容姿は黒絵が事前に聞いていた新しい入居者の性別・年齢と一致していた。彼の口からアパートの名前が出たのを確認して、ぱっと表情が輝いた。
「コウさん?」
「コウ……?」
青年が訝しげに首を傾げたのを見て、黒絵の顔がまた赤くなった。
「ご、ごめんなさい! いきなり下の名前で呼ぶなんて失礼でしたよね……堺さん、ですよね。私、ここの管理人です」
「管理人?」
竹箒にエプロン、黒いストッキングに包まれた足先に履かれているのはミュールなどと呼ばれるようなおしゃれなサンダルではなく、色気のない所謂便所サンダルと呼ばれるような物だ。管理人らしいといえば「らしい」スタイルであるが、青年の目には管理人と名乗った女性の年齢は二十歳前後で自分とそう変わらないように映った。
「随分と若いですね」
「見た目よりは歳なんですけど……ええと、改めまして、管理人の白石黒絵と申します」
管理人はそう自己紹介すると、箒を握ったまま丁寧にお辞儀をした。
シライシクロエと脳内で反復し、名前を漢字に変換してふと気付く。
「だからメゾン『白黒』?」
「あ、はい、そうなんです。みんなここのことは『モノクロ荘』って呼んでるんですけど、白と黒なんて地味な名前ですよね。コウさんとは正反対です」
カタカナ文字と『荘』の組み合わせは妙に思えたが、アパートの外観からするとメゾンと呼ぶよりも『モノクロ荘』と呼んだ方がなるほど、しっくりくるように思えた。
「あのー、堺さん……」
ぼんやりアパートを見上げていると、黒絵が遠慮がちに声を掛けてきた。言い難いことなのか、握った箒の柄を落ち着きなく揺らしている。
「もし嫌でなければ、なんですけど……下の名前でお呼びしても構いませんか?ここって小さなアパートですから住人同士の交流も結構多くて、みんな家族みたいな感じなんです。私にとってもみんな本当の家族みたいな存在で……その、できれば一緒に住む家族のことは下の名前で呼びたいなー、なんて……」
「はぁ」
すでに何度か下の名前で呼ばれていたため、彼にとっては少し今更と思えるお願いであった。イエスともノーとも取れない返事をしてしまったが、黒絵はこれをイエスと捉えたようだ。
「わあ、ありがとうございますっ」
よほど感激したのか、黒絵はまるで神様にお祈りでもするかのように自分の両手を合わせた――握り締めていた物から手を離して。
「わっ」
「あっ、ご、ごめんなさい!」
竹箒は地面に倒れる前に青年の手に掴まれ、本日三度目となる転倒を免れた。
この管理人は見た目よりも歳を取っていると自称していたが、その割には落ち着きがなくそそっかしい。
「名前で呼ぶのは構いませんから、箒はしっかり持っていてください」
苦笑しながら箒を差し出すと、黒絵は恥ずかしそうに、でも少し嬉しそうにそれを受け取った。
「すみません……あの、こんな管理人ですけど、これからどうかよろしくお願いしますね、虹さん」
そう言って白石黒絵は、地味な名前とは裏腹に華やかな笑みを浮かべた。
「虹さんは一度もここの下見にいらっしゃいませんでしたから、簡単に説明をさせていただきますね」
引越し業者に頼んだ荷物が届くまでまだ少し時間があるというので、その間に虹は黒絵から敷地内の案内を受けることになった。
「管理人室はここです。お買い物に出ている時以外はほとんどここにいますから、何か困ったことがあれば時間は気にせず声を掛けてください」
アパートの一階、101号室に当たる部屋に黒絵は一人で暮らしている。階段下の物置に竹箒を片付けてから、黒絵は管理人室から鍵を持ち出し、虹を二階へと案内した。
外付けの階段を上り、手前から数えて四番目、奥から二番目の部屋が虹の住居となる204号室だ。ドアの横の透明なプレートにはすでに、手書きで『堺』と書かれた表札がはめ込まれている。階段を上ってすぐの二部屋には表札がなかったが、204号室の両隣のドア横には同じように手書きの表札がはめ込まれていた。
「このアパート、今はほとんど人がいないんです。空き部屋が多いというのもあるんですが、春休みですから」
引越しシーズンではあるものの、今期は虹以外の新規入居者は獲得できなかった上、住人の多くは帰省等の理由で留守にしているらしい。両隣の住人も不在であるということなので、引越しの挨拶回りは必然的に先に見送ることになった。
「はい、どうぞ」
黒絵が同じ鍵を二本差し出す。
「ドアを開けた瞬間から、この部屋は虹さんのお部屋になります。どうぞ、自分で鍵を開けてください」
それはまるで、このアパートの住人になるための神聖な儀式のようだった。
虹は二本の鍵を受け取ると、その内の一本を鍵穴に差し込んだ。がちっ、と鍵の回る音がしたのを確認して、ドアノブに手を掛けた。
「ようこそ、モノクロ荘へ」
すぐ隣でそう言われ、少し照れくさい気持ちになりながら虹は自分の部屋のドアを開けた。
部屋の造りはキッチンとリビングがひと繋がりのワンルームだった。仕切りがないため窓から差し込んだ光が玄関まで届き、電気を点けなくとも部屋の中は充分に明るい。建物の外観から虹は無意識に畳張りの部屋を想像していたが、意外にも板張りのフローリング床であった。
「結構きれいですね」
「入居者がいない部屋は、私がこまめにお掃除させてもらっていますから」
虹が素直な感想を洩らすと、背後で黒絵が脱いだサンダルを揃えながら得意げにそう応えた。
「水周りもですね、一昨年にりふ、りほー……?」
「……リフォーム?」
横文字、と言うほど難しい単語には思えなかったが、言葉に詰まったようなので虹は助け舟を出した。
「あ、それです。リフォームしたばかりなのできれいなんですよ」
バス・トイレは掃除の手が行き届いているだけではなく、あまり使われていないのか、所々床に傷の目立つリビングと比べるとまるで新築のような清潔さがあった。
「ええと、あとは……そうそう、お庭の説明がまだでしたね」
浴室を覗き込む虹の傍をすり抜け、部屋の奥に進むと黒絵はベランダの窓を開けた。
「アパートの裏手は駐車場になっています。だけど今は車は一台しか停まっていませんので、空いた場所は共有のお庭として自由に使っていただいて構いません。あ、でも使う時はなるべく声を掛けて……」
ベランダ越しに階下の庭の説明をする黒絵であったが、反応がないことを不審に思い振り返った。
「虹さん、どうかしたんですか?」
虹はいまだ入口付近に佇み、ぼんやりと浴室を見つめていた。
「……あ……すみません」
声を掛けられて自分の状態に気付いたらしく、ようやく虹は浴室の戸を閉めた。
「大丈夫ですか?なんだか時々ぼーっとしているように見えますけど……?」
「大丈夫です。ただ、ここに来る前から何かを忘れているような気がしていて……」
「忘れ物ですか? そういえば虹さん、随分と身軽ですよね」
黒絵は意識してみて初めて気が付いたが、虹は住所の書かれたメモ用紙を手に持っていた以外、荷物らしい荷物を持ってきていなかった。荷物の運搬は引越し業者に依頼してあるとはいえ、貴重品を入れた鞄の一つくらい身に着けていてもいいように思える。
「う~ん……? とりあえず荷物が届いて、荷解きを始めたら何を忘れたか思い出すかもしれませんよ?」
「……そうですね」
荷物が届けば自ずと足りない物にも気付くだろう。虹は考え事を一旦隅に追いやって、ようやくリビングスペースに足を踏み入れた。
ぐるりと部屋の中を見渡す。とは言えまだ荷物は何もないため目に入るものは数が限られている。ベランダに続く窓、クローゼットの扉、コンセント、ガムテープ。
「なんですかこれ?」
虹の立ち位置から見て左手側、203号室側の壁の、腰の高さ辺りにガムテープが貼ってあった。
「あれ、お部屋を決める時に聞いていませんでしたか? それ、隣の人が穴開けちゃったんですよ」
少しガムテープを剥がしてみると、確かに直径二センチほどの穴が隠れていた。貫通しているらしく穴からちらりと隣の部屋の中が見えたが、他人の部屋をまじまじと見るわけにもいかず、すぐにガムテープを貼り直した。
「もちろんその分は家賃をお安くさせてもらっています。でも、もし気になるようでしたら、相談して部屋を替えることもできますけど……どうします?」
虹は少し考えてから首を横に振った。部屋を替えると簡単に言うが、面倒な手続きの類が必要になるだろう。
「大丈夫です。いざとなれば棚か何かで塞ぎますから」
言ってしまってから、穴自体よりも壁に穴を開けるような隣人と近所付き合いができるのかどうかということの方が問題だということに気が付いた。
「あ、引越し屋さんのトラックが来たみたいですね。ちょっと待っててください」
やはり部屋替えを検討すべきかと考えたが、外からピー、ピー、とトラックのバックする音が聴こえ、言い出す前に黒絵は業者を出迎えに行ってしまった。
(まぁいいか)
これから始まる新生活に若干の不安を覚えつつも、虹はこの場所を新居として受け入れることにした。
黒絵が戻ってくるまでの間、わずかに暇を持て余し、虹は改めて部屋の中を見回した。
(……あれ?)
ガムテープが貼られた壁の対面、その壁の隅にもガムテープが貼られていることに気が付いた。その壁の向こうは205号室。まさかこちら側の住人も壁に穴を開けたのではなかろうかと不安になり、虹はもう一つのガムテープにも手を伸ばした。
幸い、そこに穴は開いていなかった。しかしその代わり、壁に何かがめり込んでいた。
「これってもしかして……」
日常においてそう滅多にお目に掛かれるものではない。よって見るのは初めてで、虹の判断では確信を持つことはできなかったのだが―――
おそらくは銃痕である。
「虹さーん、今から荷物運び入れますねー」
玄関先から黒絵の声が聴こえ、虹は素早くガムテープを貼り直した。
「どうかしたんですか?」
虹が正座をして壁に両手を付いている姿が見え、黒絵はサンダルを履いたまま玄関先から部屋の中を覗きこむ。
「あの、管理人さん。一つ確認しておきたいのですが」
「はい、何でしょう?」
「この部屋の家賃が安いのって、本当に壁に穴が開いているからというだけですか?」
「……と、言いますと?」
とぼけているという訳ではなく、本気で何を言っているのか解らないといった反応だ。今度はさらに核心に迫った質問を投げかける。
「事故物件……つまり幽霊が出るとか」
「え!?」
明らかに動揺した応えが返ってきた。
「殺人事件があったとか?」
「な、ないですないです!」
「でも幽霊は出るんですか?」
「え、え~と……」
そこは否定しないらしい。しばらくお互いに沈黙し、それから黒絵は意を決したように宣言した。
「この部屋には、あんまり出ませんから!」
あまりにも正直過ぎる管理人の発言に、虹はこれから始まる新生活に大いなる不安を覚えた。