オオサンショウウオとマフラー
始発駅から約五分。田舎の象徴、一両編成の電車がドアを開くと、夕方の冷気とともに女子高生たちが一斉になだれ込んできた。……まあ、誇張表現なのだが。思わず、もこもこのマフラーに顔をうずめる。そういえば、この駅の近くに私立高校があったっけな、と僕は思い出した。田舎の私立と言えば、代名詞として「馬鹿」が付く。まあ、進学コースは別だろうが。だが、この寒いのに短すぎるスカートや化粧の濃い顔、アイロンをかけすぎて傷ついた髪を見れば、この女子たちが、少なくとも進学コースではないであろうことが察せられる。要するに馬鹿っぽい。大声で、「今からカラオケ行かない?」などと言っているあたり、放課後に勉強する習慣もないのだろう。格好に目を向ければ、スクールバッグもやけにてらてらしたフェイクレザーで、じゃらじゃらと大量のキーホルダーらしきものが付いている。その中には、中学の名札もあった。おそらく、卒業前に友達と交換したものだろう。僕もちょうど二年前に、その光景を見たことがあった。まったく、よくやるよ。てめえの友達の名前なんか知りたくもない。むしろ、知りたいのは――いつも見かける、『オオサンショウウオの子』。
僕は毎朝、七時十四分の電車に乗る。たいてい決まった場所からなので、同じ場所に乗ることになる。だからか、自然と乗り合わせる人の顔を覚えてしまったりするのだ。
彼女も、そのうちのひとりだった。
何とはなしに、あ、よく乗る人だ、と記憶していた。今どきめずらしいセーラー服から、僕のふたつ前の駅で降りる人たちだとわかる。装いは周りでよく見る女子高生とは違い、膝丈のスカートに、きっちりと収まったスカーフ。髪は短めで、肩にもつかないが、ちゃんと手入れがされている風だった。三角の眼鏡をかけていて、それが全体の柔らかい印象にアクセントを加えている。
彼女は僕よりも前に乗っていて、たいてい同じところに座っている。僕の最寄り駅につくころには既に席が埋まっているので、おそらく二、三駅前から乗っているのだろう。そのように最初は少し気に留めるだけだったが、とあるものを目にして、僕は衝撃をうけた。
ある日のことだ。たしか、初夏だった気がする。その日も僕はいつもの列車に乗り込み、単語帳を広げようとした。……だからその光景を見たのは、ほんの偶然だった。普段は、周りなんか見なかったから。
彼女は、一心不乱にケータイで何かを打ち込んでいた。しかもかなりの速さで。その後、たびたび見かけるその姿に、どうしても気になって覗いてしまったのだが、どうやら小説を書いているようだった。しかし当時の僕は当然知らなかったので、……正直に言おう。化物かと思った。
まあそれで、ほんの少しの間、僕は彼女に目を奪われていたわけだが。そのとき、電車の振動に合わせてゆらゆらするモノを見つけた。ケータイストラップだ。しかしそのケータイストラップ、何かのぬいぐるみのようだったが、色が地味だ。一体何のだろう。単語帳を見るふりをしつつ、ちらりと目を向ける。……やはり分からない。
と、諦めかけたそのとき、頭にちらりと光るものがあった。
――オオサンショウウオじゃないか、あれ?
気づいてしまえば、もうそれにしか見えなくなってくる。腹の部分の素材が違うようだったから、きっと画面クリーナーなのだろう。……しかし、なぜそのチョイス。
僕は思わず口を抑えた。……いや、確かに僕はかわいいと思うが。でも、まさか、女の子がこんなに堂々とつけているとは。
その日は言うまでもなく、単語なんかに集中できるはずがなかった。単語テストは余裕で満点だったが、授業中もオオサンショウウオのことを思い出しては、口元がゆるむのを抑えるのに相当な苦労を要した。
そんな彼女は最近、落ち着いた色合いの、しましまのマフラーをつけていた。素材も柔らかそうで、彼女によく似合っている。ああ、もしかしたらあれは手作りか。手芸屋さんで同じような毛糸を見かけた覚えがある。
こうして語ってみると、僕が彼女に片思いでもしているようにも聞こえるかもしれない。しかし、そんなことは、決してない。ただ僕は、オオサンショウウオが気になるだけであって。
――まもなく、○○。○○でございます。お出口は、右側です。
思わず、はっとする。ぼうっとしている間に、どうやら次の駅に着いたようだ。そう、ここがまさしく、彼女の学校がある駅。
向かいのドアが開く。セーラー服と学ランがいくつか入ってきた。そして、そのなかのひとりは見覚えのある、……目を疑った。たしかに彼女であった。
気付きはしないだろうな。そう期待せずに構えていたら、彼女は僕を見るなり、元から丸い目をさらに丸くした。軽く会釈をしてみる。あ、赤くなった。
しばらくあたふたしたかと思ったが、すぐに空いていた僕の隣に腰掛けた。
「あの、もしかして朝の電車の」
「はい。珍しいですね、帰りが一緒になるのは」
「……覚えてくださってたんですね」
ふわりと彼女が笑う。男子校に通う僕だが、女性と話すことに抵抗はあまりない。あたしのおかげでしょ、と何故か得意そうな妹がぽんと思考回路に侵入してきたが、あんなのには感謝したくないので、強制的に頭から追いやった。そもそもお前とこの子を一緒にするな。
「僕の方こそ、覚えて頂いてたなんて思わなかったです」
「……ああ、それは、ちょっとした興味も相まって、といいますか」
興味?
まさか僕にもオオサンショウウオに匹敵する何かが、と頭によぎったが、おそらくそれはないだろう。聞き返すと、彼女はまたしてもふんわりと笑んで、答える。
「そのマフラー、手編みですよね? 毛糸に見覚えがあって」
「ああ、なるほど。……あなたも、手編みでしょう?」
「はい! ふふ、以前から、マフラーにしたらあったかそうだな、って思ってたんです」
静かにはしゃぐ様子に、好感が持てた。……いや別に、恋に落ちたとかではなく。ただ、話すなら、こんな人とならいいかな、と思っただけで。
「手芸屋さんにはよく行かれるんですか?」
「ええ。編み物もそうですが、ビーズ編みとか、最近はレジンアクセサリーもいいなと思い始めました」
「ああわかります! 最近流行ってますからねえ。でも、ちょっと高くて」
「練習も積むとなると、かなりの出費ですからね。僕は、大学生になったら、手を出そうかと思ってます」
……楽しい時間はやはり、あっという間に過ぎ去るようで。気づけば、僕の最寄り駅の車内アナウンスが流れていた。
「すみません、僕は、ここで。……お話できて楽しかったです」
「はい、こちらこそ」
重力の方向が変わり、減速すると、列車は緩やかに停車した。
「……では」
彼女の、少し寂しそうな顔。
だから、僕は。僕は、そう言うしか、なかったのだ。
ボタンを押してドアを開ける。
「はい。……また、明日」
そう、だからこれは、不可抗力なのだ。言い逃げだとか寂しいだとか、決して、……この赤い頬は寒さのせいであって、断じて、恋に落ちたとかそういうわけでは、ないのだ。
北派文学クリスマス号掲載予定。