根暗女
残酷な表現があります。苦手な人は気を付けて下さい。
6月の下旬、期末試験の終わった校内は静まりかえっていた。
聡美は高校演劇部の練習に付き合って帰る前に職員室に寄り、用があって先に帰った真由子の代わりに上原に練習の様子を報告した。
「あっ、しまった…」
職員室を出て帰ろうとしたところで―――思い出した。
演劇で使うために借りていた、いじめ対策人形の「命まもる君」だ。借りた教室に返すのを忘れていたのだ。
聡美はしぶしぶ職員室から離れたところにある、教室まで戻ることになった。
教室に向かいながら、伊佐川晴香のことを考えた。二人は最近、目も合わせないような仲だ、聡美の方から声をかけても無視される。
嫌われているのかとも思うが、そこはいつもの悪い癖だと、聡美も考えないようにしていた。
教室の近くに来ると、若い女の子のはじけるような笑い声が聞こえてきた。
あー、教室に誰かいるんだあ……、話すの面倒くさいなあ
聡美はため息をついて、教室の扉をスライドさせて開くと、教室の中でおしゃべりをしていた三人の少女達が、一斉に聡美を見た。居残りをしていた、演劇部の子達だ、その中に晴香の
顔もあった。
意外なことに―――晴香のほうから聡美に声をかけた。
「聡美さん忘れ物ですか? 私達、試験の答え会わせをしてたんです」
「ねっ」と相槌を催促するように、友達の顔を見る。隣のショートカットの女の子恵子が合わせるように頷いた。
「私は人形をかたづけるの忘れちゃってたから…」
「うちらも、そろそろ帰ろうよ!」
奥の机の上に腰掛けていた背の低い娘が、少女らしいふくよかな足を組みかえて、メンズのゴツい腕時計を見る。
「聡美さん! ちょっと…ちょっと」
晴香が聡美を手招きして呼ぶ。
聡美はこれまでの件があるので、少し変だと思ったが晴香に近づいた。
「アイ ウァント トゥ バーター」
?! 英語!!!
「えっ! 何? バター?」
晴香はにこにこしている。
「あっ! わかった、バターが欲しい―――でしょ?」
「バターだってっ!」
少女達が嬉しそうに笑う。
「聡美さんの言うように、バターが欲しかったら、Plese give me を使うのが普通です!」
晴香がもう一度
「バーター」
と言った。
「………」
「barterは物々交換って意味です」
「あー、……そうなんだ」
「ねえ、もう帰ろうよー」
ゴツい時計の少女、一枝が鞄を肩にかける。
「私も、もう帰りたい」
二人の少女が晴香をせかして、帰り支度をさせる。聡美は無言で三人の側を離れて、黒板の前に立たされていた人形=命まもる君に近づく。
「聡美さん、お疲れ様です!」
三人の声が重なるように聞こえて、静かだったはすの廊下が騒がしくなる。次第にばたばたした足音は遠のいていった。
聡美は一人、残された教室で考えていた。
これ……………………………………………………………この人形、どこに返せばいいの?
「こいつ…どうしよう?」
聡美は人形の命まもる君を、一人でひきずって廊下を通り、教材準備室に向かった。
聡美は準備室に来るとドアを引いて、全開にするとドアは90度の角度ぴったりで止まった。
床に置いた命まもるを、ふたたび羽交い絞めにするように上半身を持ち上げて、そのままの状態で準備室の中に入れる。後ろでガチャっと扉の閉まる音がした。
40キロはある、まもるは女一人で運ぶにはけっこうな重さだ。全身、汗びっしょりでイライラしてきた聡美は、
「どりゃっ!!」
という怒号と共に、まもるを投げ捨てると、命まもるは床に仰向けに転がった状態になった。そして聡美は勝ち誇ったように両手を腰にあてニヤリとした。
いつもいい子にしていると、たまには悪いこともしたくなるものだ。聡美はこれでよしといった感じで、ドアに向き直りドアノブを回して押す。
ガチャ。
もう一回、ノブを回して押す。
開かない…。
どうしたことか、押して開けるドアがガチャガチャいうものの、どんなに押しても開かないのだ。
―――どうしよう。
ドアノブをガチャガチャ回して押す。
開かない…。
焦る聡美の鼓動が速くなる。息が浅くなって、めまいがする。
パニックになりそうだ…こわい、こわい。
聡美は乱れた呼吸を整えるために、息を長くはいて短く吸うを何度も繰り返した。呼吸は少し楽になったが…動悸はまだ治まらない。
聡美は鞄に手をつっこんで携帯電話を探す。
ない、ない、ない。
慌てて鞄をひっくり返し、鞄の中身を床にぶちまける。それでも携帯は見つからない。
ない、ない、ない。
こわい、こわい、こわい。
聡美は助けを呼ぼうとドアを拳で強く何回もたたく。
「助けて! 誰か! 誰かいませんか?!」
外からの返答はない。
息が苦しい…。
もしかして…誰かに閉じ込められたのかもしれない…。
誰かに………………聡美は晴香の顔を思い浮かべる。
キャハハハハハハハハハハハハハハ
誰もいないはずの廊下から少女の甲高い笑い声が響くように聞こえる。
はあっ、はあっ、はあっ。
呼吸がまた乱れる。
10分前。
聡美が教材準備室に、まもるを運び入れたあと、開いていたドアは自然に角度を変えて閉まった。ドアが閉じたとき廊下をはさんだ壁に立てかけてあった、文化祭用の書きかけの看板が偶然、倒れドアと壁の間ぴったりはまった。
学校を出た晴香達は、街路樹の植えられた幅の広い歩道をあるいていた。
「聡美さん、ちょーキョドってたね」
「うん、あんなのテキトーなのにね」
「あっ! わかった、バターが欲しい…でしょ」
「あはははは、似てる~! 似てる!」
聡美の真似をする一枝を見て、二人はげらげら笑う。
「もっかいやる~?」
「やって、やって」
晴香と恵子がせがむと、一枝はもう一度モノマネを披露する。三人は大笑いしながら、くっ付いてもつれるように歩く。
すれ違った他校の男子高校生が、そんな三人の姿を不思議そうに眺めた。
聡美は全身に冷や汗をかいていた。めまいがして、床に転がっていた人形=まもるに寄り添うように仰向けになると、ゆっくり息を長く吐いて、短く鼻で吸う呼吸を繰り返す。
目を閉じると、目じりから一粒の涙が流れた。
白い長い廊下を、少女が俯いたままで歩いている。夏物のセーラー服の襟には二本のブルーのライン、ブルーのラインと同色のスカート。黒い艶のある長い前髪が少女の顔にかかっていて表情がよくわからない。中学生の私だ。
誰かが走ってきて私の腕をつかんだ、私は顔をあげて振り向く。
「ブス」
私の腕をつかんだままで、男は「ブス」と言った。男の分厚い唇がニタニタ笑っていた。
朝、学校に登校してくると細身で長身の男と背の低い女の子が横を、通り過ぎるときに、くすっと笑った。教室に辿り着くまでに、何度も同じことがあった。
誰かが後ろで
「精神病院から逃げてきたって」
と言った。
他の誰かが
「首吊って死んじゃうよ」
と言った。
私には、それが本当のことか―――わからない。
学校には、あまり行かなくなったが、たまに行かないといけないときもあった。
何かあるような日も、何もない日も、帰りはいつも自分が惨めで泣きたくなった。
よく公園のベンチでに座って泣いていた。
(泣き虫の根暗女のくせに)
泣いていたから、なぐさめようと思って近づいた、小学生の男の子に言われた言葉だ。私と同じように傷ついている子だと思った。
「……泣き虫の…根暗女…」
口に出してみた。
うるさい
うるさい、うるさい、うるさい
私は走り出していた。体がとても軽い、軽くて素早く動くことができた。
「――殺される前に、殺さなきゃいけない…」
私は学校に向かい、校内で同級生を次々とナイフで刺した。
ほとんど全員を刺して、辺りが血の香りで満たされてからも、床に倒れて動けなくなった同級生に跨ったて上から顔を押さえつけ、おしゃべりな奴は口の両端を切り裂いて、見ていた奴は目を串刺しにして、つぶした。
ナイフが血で汚れて、白い制服が血に染まると、
私は瞬く間に、元気になった。
「あはははははははははははははははははははははは」
もっと大切なものを奪いたい。
もっと大切なものを奪いたい。
もっと大切なものを奪いたい、そう思って全力で走った。
私の体は変化し皮膚は干からびて灰色になり、爪はするどくなって歯は牙に変わり、気が付くと四肢で地面を蹴って、四つん這いで走っていた。
もっと…大切なものだっ!!!!
赤ちゃんを抱っこしている若い母親が歩道を歩いている。
私は親子に飛びつくと、赤ん坊を奪って白い頬に喰らいついた。ギャーギャー泣く赤ん坊に覆いかぶさるように頬と上唇を食いちぎると、赤ん坊の歯茎があらわになった。
路上で赤ん坊がギャーギャー泣き叫んでいる。
「キャハハハハハハハハハハハハハハハハハ」
突然、若い母親がけたたましく笑う。
「アハハハハハハッ! こいつ、こいつ…こんな姿になっても泣いてるよ! こんなでも声って…ちゃんと出るんだ…フフ、可笑しい、可笑しいよ!」
私は糞みたいな母親の体を、鋭い爪のついた手で貫いた。
「人殺し!」
振り向くと少年が、私を指差している。
「人殺し! お前は人殺しだ! やった…やった! やったぞ俺は勝ち組だ!!!」
………苦しい。
苦しい、苦しい。
助けて、助けて…たすけて、たすけて、たすけて、たすけて、たすけて、たすけて、たすけて、たすけて、たすけて、たすけて、たすけて、たすけて、たすけて、たすけて、たすけて、たすけて、たすけて、たすけて…。
聡美は泣きながら拳で力いっぱい、まもるのボディを叩いていた。床に仰向けに寝ている状態の、まもるを両手で叩いているうちに、だんだん何もしたくなくなってきた。叩き方が徐々に弱くなって止まる。
「もうやだ…」
聡美は涙も枯れ果てたようになって、うなだれる。
自分のことを苛めた相手がいつか…酷い目に遭えばいい。
私と同じように傷つけばいい、そうなれば…私の気持ちもわかるだろう。
不幸になればいい。
罰を与えられるのは、当然だ。
などと…思えたのは、どうしてだろう?
不思議な感覚が芽生える。
聡美は両手で自分の首を絞めてみた。
こわい…、気持ちが悪い。
「もうやだ…もう、うんざり…」
涙が溢れて頬を伝い、しずくになって床に落ちる。聡美は床に突っ伏して声をあげて泣いた。
「勝手にすれば…いいんだ」
人は勝手にすればいいんだ…私が誰かの人生の責任をとる必要はない。
私の人生は…私のためにあるんだ。
私はやめる。
呪い禁止。
「おばさん、ウチのクラスのまもるがいなくなったんだけど…どこ行ったか知らない?」
山浦裕二はいなくなった二年一組のまもるを探すために、用務員室を訪れた。用務員室は入って右にキッチンがあり、床より高い位置に畳が何畳か敷いてある。
山浦は校外での暴力事件で停学になり、出席日数が足りなくなったため、留年していた。
おばさんは、のんきにお茶を飲み茶菓子を食べていたが、ちゃぶ台の上のノートパソコンを開くと、キーボードを見ずに、軽やかにパソコンのキーを打ち、
「三階の教材準備室にあるね」
とぶっきらぼうに言うと、湯のみを持ってお茶をすすった。
「ありがとう、おばちゃん」
山浦は暖簾をくぐって廊下に出ると、三階の教材準備室に向かった。
聡美は人を呼ぶのも諦めて、ドアを壊して外に出ようと考えた。とりあえず、蹴飛ばしてみたら壊れそうだと思い…構えたところで…
ドアが自動で開いた。
「あんた…何してんだ?」
山浦はファイティングポーズをとる聡美をひと睨みしてから、聡美の後ろに転がっている、まもるを肩に担ぎ上げる。聡美は呆気にとられていたが、
「ドア開けといて! 開けたままで…」
山浦にすがりついて叫ぶ。
山浦は怪訝な顔をしていたが、聡美の手を振り払って廊下に倒れていた看板を蹴っ飛ばすと、そのまま廊下を歩いて立ち去った。
聡美は突然、現れたヒーロー…とも言えない山浦の背中に向かって、
「ありがとう!」
と大きな声でお礼を言った。
山浦は振り向かなかったが、山浦の肩に担がれた、まもるは、にこにこ笑って喜んでいるようにも見えた。




