第五話
「進路かぁ…」
ユニットバスに浸かりながら、都は低い天井を仰ぐ。
今までも考えなかったわけではない。けれどこの一年、あまりにも色々なことがありすぎて現実的に考える余裕がなかった…というのは言い訳だろうか。
はぁ、と溜息をつく。
その重苦しい雰囲気を払拭するように、歌とも鳴き声ともつかない音が聞こえる。
コギンだ。
プラスティックのバケツの縁に顎をのせ、気持ちよさそうに目を閉じて喉を鳴らしている。
銀竜は普通せいぜい水浴びする程度らしいが、コギンは都に付き合っているうち湯に浸かるのが好きになったらしい。そうして気持ち良くなると喉を鳴らし、満足そうにうっとりしているのである。
「カステラも食べたからご機嫌だ。」
うにゅ、と顔を突き出す。
その表情が可愛くて、思わず人差し指と親指でフレームの形を作って写真を撮る真似事をする。
銀竜にとっての名付け親は絶対的な主人。
しかも銀竜の寿命は人より長く、この先も都と一生を共にするはず。
そう言われたときは正直不安だった。
しかも銀竜は『向こう』の世界でも数の少ない貴重な生き物。そんなものをちゃんと育てることができるのだろうか、と。
けれど一緒に暮らし始めてみれば心配は杞憂に終わり、今ではコギンのいない生活は考えられなくなっている。昼間ひとりで留守番させたり、自由に空を飛ばせてあげられない悩みはあるが、そんなことをものともしないマイペースな小さな生き物に、むしろ都のほうが助けられている気がする。それに世界が違うほどの超遠距離で、互いの言葉を伝えるのは銀竜の能力を借りるしかない。それだけでなく、『門』を通るための道標として銀竜が必要なことを、都は一月ほど前に知った。
それは予定を過ぎても連絡のつかない竜杜を案じて、春休みに自ら『向こう』へ行ったとき。それが冴の言うところの「都ちゃんが男追いかけてわけわかんない所に行ってる間」なのだが……。
それは不思議で波乱に満ちた経験だった。
けれどそこで知り合ったのは、目の色や髪の色は違ってもごく普通の人々ばかり。右も左もわからない都に手を差し伸べ、あるいは字の読めない彼女を案じてくれた。
ふと、都は竜杜から聞いたここ数日の予定を思い出す。
「オーロフって、ネフェルのいるおうちだよね。ネフェルにも会うのかな?」
ねぇ、とコギンの頭を指先で突く。
ネフェル・フォーン。
かの地で出会った一つ年上の、金髪に緑の瞳が印象的な知的美人。
ひょんなことから知り合い行動を共にしたのだが、話してみれば同じ年頃同士。それに二人とも両親のいない境遇が似ていることも手伝い、意気投合するまでさほど時間はかからなかった。
「ネフェル、今頃何してるんだろう。語り部、続けてるのかな。」
年は一つしか違わないが、学生の都と違って古い文字を読むことを生業としていた。そのことが、心のどこかで都を焦らせる。
「わたしは……何がしたいんだろう……。」呟きながら立ち上がると、のぼせそうなコギンを抱き上げた。
風呂から上がり着替えて頭にタオルを引っ掛け、裸足のままぺたぺたと廊下を歩いてリビングダイニングを覗く。冴がダイニングチェアの上に胡坐をかき、眉間に皺を寄せ腕組みをしてノートパソコンの画面を睨んでいるのを見て、反射的に回れ右した。
こういうときは近づかないのが一番。
自室に戻ると机の上に放り出していた空白の進路調査票を手に取り、そのままベッドに寝転がった。
そして溜息。
「大学か……専門学校か……」
不意に、昼間言われた「結婚」という言葉を思い出す。
確かに反対はなさそうだ。
それどころか「一族の契約」が「結婚」と同義語で、それを都が受け入れたのだから、そういう選択がないわけではない。
「でも……やっぱまだ考えられない……。」
いくら慣れてきたとはいえ、未だ翻弄されているのは都で、そんな状況で一緒に暮らすなんて考えも及ばない。春休みに再会したときだって……。
「ようやく普通になった。」
不意に言われた言葉に、都は首を傾けた。
それはラグレス家の温室で二人きりの時間を過ごしていたときのこと。
その日の夜には帰らなければならないタイムリミットを惜しむように、唇を重ねた直後。
「普通って……」
「だって、前はこうするだけでうろたえてただろう?」
そう言って竜杜は都の頬に唇を触れる。
「そ、それは……だって……そういう経験なかったんだし……」仕方ないじゃない、と唇を尖らせる。
「そういう経験、ね。」漆黒色の瞳が意地悪そうな笑みを浮かべる。
嫌な予感がした次の瞬間。
不意に抱き寄せられた。
「えっ……ちょっ……」
首筋に唇が触れたくすぐったさに、都は思わず声を上げる。けれど都が動けば動くほど、彼女の身体を支える竜杜の手に力が篭る。
ぎゅっと抱きしめられ髪をなでられる。それだけで力が抜けた。
そのまま大きな手が都の華奢な体の線をなぞると、今度は震えるような、くすぐったいような感覚が湧き上がってくることに戸惑う。
「……んっ……」こらえ切れず思わず身をよじる。
「そこ……だめ……」
「聞こえない。」
「じゃなくて……」どうしていいかわからず、泣きそうな声になる。
次の瞬間。
「だ、だめっ!」
竜杜の膝の上で、都は飛び上がった。
逃げようとするが彼の腕が腰を抱き寄せているので逃げることができない。にもかかわらず、彼の手は意図的に都の脇腹をくすぐる。
とうとう都の唇から笑い声が漏れた。
「だっ、だからっ……やだ!くすぐったいの、弱いのっ!」
けらけら笑いながら「やだやだ!」と連呼する。
ようやく手が止まる。
都は肩で息をすると、涙の滲む目で相手をにらみつけた。
「意外な弱点だったな。」
「やだって言ったのに!」頬を膨らませてぷいとそっぽを向く。
その様子に彼は笑みをもらす。
「迂闊に手は出せないな。」
「だっ、だからそういう言い方……」
「安心しろ。この先は都がいいと言うまでしない。」
きっと自分はひどく困った顔をしていたに違いない、そんな都に竜杜は言ったのだ。
「都が嫌だと言っても、この先時間はたくさんある。」
そんなこと言ったって……と都は呟く。
「先なんて……まだ考えられないよ。でも……」と、枕元に手を伸ばす。
引っ張り出した華奢な鎖の先には、小さな銀の花がぶら下がっている。つぼみが開きかけたデザインで、中心には緑色の小さな石が嵌め込まれている。
誕生日に彼から贈られたもので、一族の『守り石』なのだという。
「そばにいられない分の気休めでしかないけどな。」
そう言って都の首にかけてくれたことを思い出す。
「でも……わたしだってリュートのこと、心配してる。」
痛感したのは向こうでトラブルに巻き込まれたとき。会えないもどかしさの中、それでも彼の存在を近くに感じたとき。
それまでずっと『契約』の意味がわからなかった。
けれどその時、ずっと会っていなかったにもかかわらず、確かに「近くに彼がいる」と感じたのだ。
それはずっと深いところで通じ合っているような、心地よい安心感。そのおかげで危険な立場にあっても、パニックを起こすことはなかった。
そしてそれが、互いを支える「契約」なのだとようやく納得したのだ。
なのにこうして学校が始まれば、また超遠距離になってしまう。
もっと頻繁に会いたい。
そう思う気持ちを真っ直ぐ言い出せないのは、彼の立場もわかっているから。自分が関わったことで彼が面倒な立場に置かれているのを知っているから。
だからこそ、本気で「この先」のことを一人で決めていいのか悩んでいるのだ。
「きっと……リュートはわたしの好きなようにすればいい、って言うよね。」
でもそれで本当にいいのだろうか。
「お母さんが生きてたら、なるようになるって言うんだろうけど……」
けれど考えれば考えるほど、同時に彼の実家であるフリューゲルも無視できないような気がする。
「ああ、もう、何をどうしたらいいのかわかんないよぅ!」
じたばたと転がる。
「きゅう!」と鳴きながら、コギンが小さな手で都の額をぴたぴた叩いた。
「え?なに?」
一呼吸おいて携帯メールの着信音。
手を伸ばして画面を開いて首をかしげる。
「ええと……新川くんからだ。」
「てーことで、三年生揃ったんで臨時会議開始、っと。」
細長い写真部の部室の、窓を背にした席に座った新川真が眼鏡を軽く押し上げた。中背で痩せぎすの、期待を裏切らない草食男子。
「卒業アルバム対応?」と聞いたのは新川に向かって左側、ホワイトボードを背に座っている箕田亜衣。
都と似たり寄ったりの小柄体型だが、耳の下で切ったショートボブと大きな声が特徴の元気少女。
「それも、ある。」
「も、っていうと、他もあるのか。んなに忙しかったか?三年って。」と、こちらは新川に向かって右側、グレーのスチールロッカーを背にした波多野大地。
「三年だから、というのもある。」
言いながら茶封筒から何やら引っ張り出しているのは、新川と波多野の間に座る林杏子。背は新川と同じほどなので女子としては高いほうだろう。背中の中ほどまで長く伸ばした髪を首筋で簡単に束ねている。
それに亜衣の隣に座る都を加えた五名の写真部三年が、新川のメールで呼び出されて放課後の部室で雁首揃えているのである。
杏子が茶封筒の中身を机に広げる。
わぉ!と亜衣が目を丸くした。
「コンテスト、色々!」
「ホントだ。学生向けも一般向けもあるけど……募集要項ばっか。杏子さんが集めたの?」と、都。
「先生に渡された。三年みんな、どれでもいいから出してみろってさ。」
「大雑把な指導だな~。」
「去年、木島さんと箕田さんが応募したのが勢いになったんだろ。」
新川の言葉に、都は亜衣と顔を見合わせる。
「でもわたし、選外だよ。」
「みやちゃんに同じ。」
「とりあえず出すとこから始めろってことでしょ。ウチの部、ここ数年そういうことやってなかったし。それに選外は当然。」
「杏ちゃん、きびしーなー。」と、亜衣。
「ウチの部で一二を争うフリーダムが、いきなりテーマに沿って撮るのたいへんじゃない?って私聞いたよね。」
「うん。言われた。」亜衣が頷く。
「でも杏ちゃんみたいな鉄に言われたくないなぁって思ったんだよね。」
でも、と都は首を傾ける。
「何撮っていいか困ったのは困ったんだよね。」
「テーマなんて後付でどうにでもなるよ~。」
きっぱりと言い切る亜衣に、波多野が苦笑する。
「だから自由部門にしとけって。箕田なんて親父さんと一緒に雑誌投稿してるんだから、その辺無理することねーだろ。」
亜衣の父親が筋金入りのアマチュアカメラマンで、彼女も子供の頃から仕込まれているのは周知のこと。しかもフィルムからトイカメラからピンホールのような特徴あるものまで、機材をランダムに使うのが彼女のスタイルなのだ。
「でもさー、それだといつもと同じじゃん?あたしだって進歩が欲しいの!ねっ!みやちゃん!」
「そこまでの覚悟はないけど……変わったことしてみたかったのかなぁ。」
「そりゃ良い台詞だね。」と、新川。
「へ?」
「これとは別件でさ、演劇部の部長が写真部の精鋭派遣しろって言ってるんだよね。部のポートフォリオ、作りたいんだと。」
ああ、と杏子も思い出す。
「そういえば前に言ってたね。ミノと都で決まり?」
「その二人がいいって。文化祭の写真見てのオファーだよ。」
「すげ!プロカメラマンみたいじゃん!」波多野も身を乗り出す。
「で、でもあれは風景で……演劇部ってことは舞台と人だよね。」
「あたしはいいよ。」あっさりと亜衣が言う。
「やったことないけど、それでよければ。あとみやちゃんが一緒なら。」にっこり笑顔。
「木島さん次第ってことか。」
どうする?と新川も促す。
「どうするって……この状況で断れるほど、わたし神経太くない。」
おお!と波多野が声を上げる。
「木島があっさり陥落。」
「サンキュ。じゃあ向こうの部長に言っとくよ。」
ああ、もう、と都は机に突っ伏した。
「ま、いいじゃねーの。別にそれで金貰うじゃなし。」
「上手くすれば展示に使えるだろうし。掲示板埋めるのも大変なんだから。」
波多野と杏子が頷き合うのに新川も同意する。
「それに箕田さんと木島さんなら、後輩達に示しがつくってもんでね。」
「そういや、こないだもそんなこと言ってたな。」
「うん。今年の新入部員に、二人の写真見てきた、ってのがいるんだよ。」そう言って新川は一年生女子の名前を挙げる。
「それ、初耳。」亜衣が目をぱちくりさせる。
「ミノと都はカメラ玩具にして育ったようなもんだから、やっぱ見る人が見ると違いがわかるんだろうね。」
そう杏子に言われても、意識してないだけに実感がない。
「いーじゃん。素直に受け取っとけばさ。」亜衣が「んーっ」と腕を上に上げる。
「よっしゃぁ!やる気出てきたぞぉ!んで、打ち合わせとか……」
「明日の放課後。木島さん大丈夫?」
「部活に出るつもりだったから・・・けど待ったなしなんだ。」
「大丈夫。大丈夫。何とかなるって!」
張り切る亜衣に押し切られる形で、都は渋々頷いた。




