第八話 フリューゲル(前編)
「楽しみができれば気持ちも変わると思うから、よろしくお願いします。」
「ええ。必ずご連絡差し上げます。」
その言葉に黒いスーツ姿の若い女性はぺこんと頭を下げる。
店の外まで彼女を見送った喫茶店フリューゲルの店主は『定休日』の札を確認すると鉄の門扉を閉めた。施錠して店内に戻ると、待ち構えていたのは息子とその恋人。
「二人とも母屋にいたんじゃなかったのかい。」早瀬加津杜は首をかしげる。
「都がひどく気にして……」自分より少し背の高い息子が言った。
隣に寄り添う小柄な少女が不安げに早瀬を見上げる。
「その……なんだか込み入った話みたいだったから……」
「うん、まぁちょっと面倒かな。でも……」
「す、すみませんっ。わたしが声かけたから……」
「助かったよ。」早瀬は少女を安心させるように微笑む。
「都ちゃんが声かけなかったら、彼女もっと困ったと思うから。それより竜杜、そろそろ栄一郎さんが来るんじゃないか?」
父親に言われて早瀬竜杜は左腕の時計に目を落とし「ああ、」と呟く。
「栄一郎さんは時間厳守だから、母屋で待ってるか。」
「僕も片付けたらすぐに行くよ。」
竜杜は頷くと、まだ不安げな表情をしている木島都を促して店の裏口に向かう。
二人を見送った早瀬はテーブルを片付け厨房の照明を落としてから、ふと思い出したように二階へ続く階段に足をかけた。
喫茶店フリューゲルの歴史は戦後からだが、使っている建物は大正時代に早瀬の先祖がこの地に建てたものだ。元々は住宅として造られその後事務所となり、その頃は二階も使っていたらしい。けれど早瀬が物心つく頃にはすでに階段には「関係者以外立ち入り禁止」と書かれた紙が貼ってあった。もちろん早瀬は関係者に属したが、子供の頃は行く用事もなかったので、当事の店主であった父親に「何かを取ってきてくれ」とか「これを放り込んでおいてくれ」と言われた以外、二階に立ち入ることはほとんどなかった。それは店を継いだ今も変わらず、ゆえにこの店に二階があることを意識する人も少ない。けれど外から見れば二階が存在するのは明らかで、時折「見せて欲しい」と言われるのを、そのつど断っている。
理由は明白。
「見せられる状況ではないから。」
きしむ木の階段を上ると狭いホールのような空間たどり着く。向かって右奥は昔のバスルーム。左奥は納戸。そして正面に並ぶ二つの扉の、右のドアノブに早瀬は手を伸ばした。冷たくつるりとした真鍮のノブを押し開けると、鼻につくのは埃っぽい匂い。中はかろうじて人が通れるものの、ダンボールや使わなくなった機材などで足の踏み場がない。
「やっぱり竜杜がいるうちに何とかするか。」そっと溜息をつく。
迂回して荷物に埋もれた古い木の机にたどり着くと、回転式のオフィスチェアをよけて一番下の引き出しを開けた。
木の擦れる嫌な音。
引き出しの中にあったのは古びた大学ノート。それも一冊二冊ではない。平積みになっているのを机の上に出し 表紙に書かれた年号を確認してより分ける。が、考え直してその辺にあった空のダンボール箱に全部放り込むと、箱を抱えて店の裏口から徒歩十秒の母屋に戻った。
廊下を進むと居間から賑やかな声が聞こえてくる。
「早瀬さん、お邪魔してます。」
彼に気づいた宮原栄一郎が頭を下げた。
自分より五つ年下、四十もとうに過ぎたいい大人なのだが、カジュアルな格好と眼鏡のせいか、つい「好青年」と呼びたくなってしまう。
「マスター、栄一郎さんの差し入れすごいですよ!」
先ほどとは打って変わった笑顔で都がテーブルの上の発泡スチロールの箱を指差す。その肩には、猫ほどの大きさの白い竜……銀竜がちょこんと止まっていて、興味津々といった様子で箱の中を覗いている。
そしてテーブルの上にも、もう一匹の銀竜が大人しく座って、やはり同じように箱を覗き込んでいる。
「せっかくの定休日に押しかけてすみません。うちは二人暮らしだって言ってるのに、知り合いが色々送ってきちゃって。」
「確かに立派な魚ばかりでいいね。今日はちょうど二人とも家にいる日だったし、このとおり都ちゃんも来てるし、ありがたく有効利用させもらおう。」
「栄一郎さんがごちそう作るって言ったら、冴さんも現場から直帰するって。」と都。
「仕事が終わったら笙子さんも来る予定だよ。」
「いつからうちは食堂になったんだ?」
ぼやく息子に、
「まぁいいじゃないか。」と早瀬は笑う。
「荷物置いてきたら僕も手伝うよ。都ちゃんは、まだやることがあるんじゃないのかい?」
「えーと……」
思案する都に竜杜が言った。
「食事前に清書まで済ませないと……」
「間に合わないよねぇ……」はぁと肩を落として観念する。
そんな二人のやり取りに早瀬は無意識に目を細める。
この家にこんな風に人が集まるようになったのはごく最近だ。
十一年前、生まれ育ったこの家に戻ってきた時は出迎えてくれる人などいなかった。唯一の肉親だった父親はすでに数年前に鬼籍に入っていたし、妻子に迷惑をかけたくないからと自分から単身赴任を言い渡したのだ。
そうして始めた一人住まいだったが、幸い近所はなじみの顔ばかりで古巣に戻ってきた早瀬を何かと気遣ってくれた。そんな周りの助けを借りて父親の残した店を引き継ぎ、気がつけばあっという間に十年が過ぎていた。
転機が訪れたのは一年半前。
ある特命を受けた竜杜が彼の相棒である小さな竜とともにこの家にやってきたのだ。
同級生の宮原笙子が、夫の栄一郎を連れてこの家に立ち寄るようになったのはその頃からか。
竜杜を生後間もない頃から知っている懐かしさもあっただろうが、今思えば長年離れていた息子との関係を心配してくれていたのかもしれない。実際、竜杜が木島都の保護者に彼女との交際を反対されて険悪になったときも、宮原夫婦が間に入ってくれてなんとか収まった経緯がある。
今ではその保護者……小暮冴も毎日のように店にやってきてコーヒーを飲んでいく。
そして当の都も、竜杜が「見習い」の名目でフリューゲルの手伝いを始めてからは以前にも増して店にも家にも足しげく通っている。
今日も「勉強で早瀬さんちに行く予定」とたまたま栄一郎に伝えたところ、「食べきれないほど魚が届いたから、早瀬さんちに持って行くよ」との連絡。それが結局「食事会」になってしまったのである。
「昔のメニューとは、妙なお願いだね。」手酌でビールを注ぎながら宮原笙子が言った。
長い髪は今日は束ねており、仕事場でもある実家の経営する医院からここまで自転車だったので、いつにも増してスポーティーな格好である。けれど着くなりビールに手を出しているので、その先自力で帰るつもりがないのは誰の目にも明らか。
「いつものことだし、今日は車で来るって予告してたからね。」夫の栄一郎が苦笑する。
彼がアルコールを一滴も飲まないこと、そして車に自転車を積んで郊外によく出かけているのは皆が知っている。それだけでなく小児科医として忙しい彼女に代わって家事全般を引き受けているのも周知で、目の前にはだいぶ食べ尽くされたが、彼が腕によりをかけて作った料理が並んでいる。
「カルパッチョもアクアパッツァも美味しすぎ。っていうか栄一郎さん料理上手すぎ。」思わず都は本音を漏らす。
「どれも素材がいいから美味しいんだよ。それに早瀬さんだって魚さばくの抜群に上手いよ。」
ああ、と笙子が何か思い出す。
「三十年前というと……それこそ早瀬が色んなもん、さばいてた頃だな。」
「そういえば……大学……四年くらいか。」早瀬も指折り数える。
「お互い忙しかった時期だよ。」
「試験もあったし、実験で研究室に泊り込む日も多かったからね。」
その言葉に、竜杜の銀竜と自分の銀竜、二匹に食事をあげていた都が首を傾ける。
「実験ってマスターって何やってたんですか?」
え?と皆の視線が都に集まる。
「わ、わたし変なこと言いました?」
「じゃなくて都ちゃん、早瀬さんの専門知らないの?」持参した白ワインに突入した保護者の小暮冴が驚く。
「専門?」
ああ、と早瀬が手を振った。
「それはもう……僕は臨床に行かなかったし、ドクターコースも中退だし、そもそも今は役に立ってないから。」
「こいつはね、銀竜の研究したかったんだよ。」早瀬の中学からの同級生、そして今は『共犯者』の肩書きを持つ笙子が補足する。
『銀竜』と聞いて、都はひざの上にいる白いコウモリのような羽根のある竜たちを見下ろす。
確かにこの家では珍しくないが、彼らはそもそもこの世界の生き物ではない。うっかり失言しそうになったときは「トカゲを飼ってる」ということにしてるし、早瀬と宮原の家以外、連れ歩くこともない。
それをどうやって勉強するというのだろう。
「そんな学校あるんですか?」
「あるわけないだろう。」笙子が笑った。
「だから一番役に立ちそうなところ、ってんで獣医学部に行ったんだ。」
「じゅうい?」と言って一瞬考える。
ようやく脳内で漢字変換した瞬間、
「ええーっ!」
声に驚いた銀竜が軽く飛び上がった。
「獣医、って動物のお医者さん?」
「やだ、本当に知らなかったんだ。」冴が眼鏡の奥の瞳を丸くする。
「僕もあえて言ったことなかったけど……そんなに意外かい?」
「ああ、その、すみませんっ!そういう意味じゃなくて……」
「謝らなくていいよ。別に獣医になりたかったわけじゃなく、そのまま大学に残って、でも竜杜ができて結婚したからリタイアしたんだし。結果として、『向こう』で望む研究はできたから悔いはないし。」
「大学って、そういう活用法もあるんだ……」
「それより都ちゃん、よくその人に声掛けたね。」それまで皆の話を聞いていた栄一郎が言った。
「確かにそれもびっくりだわ。」と冴も同意する。
血は繋がっていないが、家族同様小さい頃から今現在も一緒に暮らしているので、都の引っ込み思案な性格は嫌と言うほど了解しているのだ。
「だって、門にしがみついて中のぞいて、すごく切羽詰ってるみたいだったから……」
都が彼女を見かけたのは、竜杜との待ち合わせより早い時間だった。
先に撮影済みのフィルムを預けた写真屋にDPEを受け取りに行こう、と考えながら定休日のフリューゲルの前を通り過ぎたとき、門柱にしがみついて必死で中を覗き込んでいるスーツ姿の女性が目に留まったのだ。思わず声をかけると、千載一遇のチャンスとばかりに彼女は都に詰め寄った。
「あなたこの店の関係者?」
「えと……関係者って言うか知り合いっていうか……」
そんな問答をしているところに都の来訪に合わせて竜杜が帰宅し、そこで近所の知り合いとバーボン談義をしていた早瀬を急遽呼び戻してもらったのだ。
早瀬が何事かと店に戻ると、白のシャツに黒スーツを着たショートカットの若い女性が待っていた。早瀬を見るなり立ち上がりきっちりと角度をつけて頭を下げる。そうして切り出した内容は、いささか風変わりなものだった。
自己紹介によれば彼女の名は園村百合。都内の大学に通う学生だという。
「じゃあその格好は……」てっきり何かの営業だと思った早瀬が気付く。
「就職活動中なんです。あ、でも法事にも使えて便利でしたよ。」
「法事?」
彼女の話によると数日前に親戚の法事があり、それに合わせて神戸に住んでいる伯父が彼女の祖母を連れて上京したのだという。
「祖母はずっと東京だったんですけど、十年前に祖父が死んで一人では心配だからって神戸の伯父の所に行ったんです。最初は渋ってたんですけど、今ではお友達もできて、私も高校まではよく神戸に遊びに行ってました。」
「おばあさまのこと、お好きなんですね。」
「はい。でも今回上京する少し前に、病気が見つかって……心臓の不具合みたいな感じで、まだ何か症状が出てるわけじゃないから今のうちに手術すれば大丈夫って言われたんです。ただ年齢的なものもあってリハビリには少し時間がかかるかもって。そうしたらおばあちゃん、このままでいいって言い出して。私たちは手術を受けてほしいんだけど聞いてくれないんです。それで平行線のまま、ひとまず伯父は先に神戸に帰ったんだけど、おばあちゃんは久しぶりだから東京に残ってお友達に会ったり、母とお芝居見に行ったりして……私もおばあちゃんの好きなコーヒーを一緒に飲みに行ったんです。そしたら突然、『そういえば昔ね、』ってこのお店のこと話し始めて。」
「フリューゲルのことを?」
「はい。昔、おじいちゃんに連れられて来たことがあるみたいなんです。おじいちゃんコーヒーと甘いものが好きで、最初は会社の人に教えてもらったとか。それがすっごくよくておばあちゃんを連れて来たみたいです。そのとき……三十年前に来たとき飲んだコーヒーと、一緒に注文したフレンチトーストが美味しかったって。最初は適当に聞いてたんだけど、あんまり美味しそうに言うから気になり始めて、それでネット検索したんです。」
「うちは特にホームページも出してませんが?」
「口コミサイトみたいなところです。それと沿線にある別のカフェのブログに載ってました。」
ああ、と早瀬は思い当たる。
「カフェ無限大さんですね。」
「あ、はい、確かそんな名前のところ。私まさかそのまま営業してると思わなかったから半信半疑で……でも来てみたら古い建物がすごくいい雰囲気で、おばあちゃんが気に入るのも納得しました。だからもう一度ここで思い出の味を食べることができたら、そういう楽しみができたら前向きになってくれるのかなって思って。」
「つまりおばあさまを元気付けたい、と。」
はい、と園村百合は大きく頷く。
早瀬は無意識に口髭に触れる。そして切り出した。
「先に申し上げておきますが、現在うちのメニューにフレンチトーストはありません。」
え?と落胆した表情。
「でも昔は……」
「さっきから思い出そうとしてるんですが、どうも記憶になくて……もしかしたらそのメニュー、ある期間だけだったのかもしれません。」
「えと、でも三十年前にこのお店で働いてた方ならわかりますよね?」
「当時は僕の父が店に立っていました。そして残念ながら彼は十四年前に亡くなっています。僕は父が亡くなってからこの店を継いだので、その辺りの詳しいことを知りません。」
そんなぁ、と泣き出しそうな声を出す。
「おばあちゃんを東京に引き止めておけるの、日曜までだと思うんです。」
「今日を入れて五日……ですか。」
「はい。」
「せっかくここまでたどり着いたのに……」スーツ姿の女子大生は背中を丸めてしょんぼりする。
「園村さん……少しお時間をいただけますか?」
のろのろ顔を上げた園村百合を、早瀬はまっすぐ見据えた。
「まずレシピが残っているかどうか調べてみます。もし仮にあったとして、それがちゃんと再現できるのか検証させてください。」
「け、検証?」自分が考えていた以上に壮大な言葉が出てきて園村は戸惑う。
「言ったとおり現在メニューにはありませんから、お客様にお出ししてよいものかどうか確かめる時間をください、ということです。」
「それは……確かにそうですよね。」早瀬の説明に園村も納得する。
「そうですね……明後日までに一度ご連絡を差し上げます。」
「じゃあ私の携帯番号、書いておきます。その……最悪フレンチトーストなしでも、コーヒーは変わりませんよね?」
うーんと早瀬は腕組みする。
「いや……ブレンド豆の配合も昔とちょっと変わってる……」
「ああっ、そういうの素人にはわかりませんから!とにかく、一度お祖母ちゃんを誘ってみます。」
園村の言葉に早瀬はにっこり微笑む。
「もし再現できなくても、最大限のおもてなしはさせていただきますよ。」
最後の話。当然のフリューゲルです。
そして今回、早瀬さんの理系気質をこっそり表現してみました(^^;
それと当初この話は前編後編の予定だったんですが、まさかまさかの前編中編後編になります。ということで追加一本!
実は更新する直前まですごく悩みまして、無理やり二回にするかそれとも読みやすいように小分けにするか。大幅に削ることも考えたんですが、やっぱり描写のないフリューゲルは書いててつまらん!ということで、あきらめて増やすことにしました。そんなわけで九月にちらりと食い込みそうですが、どうぞお付き合いのほどよろしくお願いいたします。




