第六話 バー インヴァネス
「先日はお世話になりました……というか、ご心配おかけしました。」
「そんな謝らなくていいよ。店的に何かされたわけでもないんだし。」
神妙に頭を下げる相手に古関は苦笑した。
「それに被害者はむしろ竜杜くんでしょ。」
「被害と言うか……屈したのが悔しいような……」
「気持ちはわかるけど宮原じゃ相手が悪い。それで今日はどうする?アルコール抜きのカクテルでも作ろうか?」
「いえ、ビター……ハーフパイント。」
了解、と答えて古関はグラスを用意する。
会話の途切れたカウンター席に、控えめの音量にしたジャスが流れる。
彼以外の客は、テーブル席の会社帰りらしい男性二人しかいない。
平日の開店直後のバーならこんなものだろう。それにこの店の入っている建物は駅前から外れた線路沿いにある。店の看板を出すのは夕方以降だから、昼間この辺りを通る人は、まさかブティックの地下にシングルモルトとバーボンの壜が並んでいるとはつゆほどにも思わないだろう。
綺麗に泡の立ったグラスを滑らせる。
引き換えに、対面する相手はきっちりの小銭をそっと置いた。
その仕草が彼の父親である旧友にそっくりで、思わず笑みがこぼれる。
「竜杜くん、早瀬に似てるって言われたことある?」
「声が似てると言われたことは。電話に出て間違えられたことが何度か。」
「やっぱり息子は男親に似るんだろうな。そういう意味では、宮原に潰されたのも一緒だ。と言ってもずいぶん昔の話だけどね。」
「わかってるなら忠告してくれればいいのに……」
「そんなに悔しかったんだ。」
笑いながら、彼が初めて店を訪れた夜を思い出す。
週末とはいえすでに夜中近い時間だったので、店内は顔馴染みがほとんどだった。
そこに入ってきたのはさらに見慣れた顔。
長い髪にナチュラルなメイク、ジーンズ姿で「よ!」とカウンターに向かって手を上げるのもいつもの通り。けれどいつもと違うのは、背後に従えた若い男。
年の頃は二十代半ば。彼女より頭一つ分背が高く、店内を物珍しそうに見回していた。
「きょうはご主人、一緒じゃないのかい?」
「栄一郎くんは仕事中。」聞きなれたハスキーボイス。
「邪魔しちゃ悪いと思って家出してきたんだ。」言いながら、宮原笙子はカウンター席に座った。
「飲み歩いてるほうが迷惑だと思うが。」
「最後はここ、って決めてるから大丈夫だよ。」
「それにしてもご主人といい、宮原は年下好きだな。」古関は隣に座った男を目で示した。
「まさか研修医に手ぇ出したとか。」
ばーか、と笙子は言う。
「いくら私だって、オムツ替えたことのある子をどうこうするつもりはないさ。」
「だから、そういう話はやめろ。」若い男が口を開いた。
その声に古関は首をひねる。
「いいじゃないか。それだけ長い付き合いなんだから。」
「それは俺じゃなくて父親が、だろう。」
「全部ひっくるめて。」面白そうに笙子が言う。
ため息をつく男の横顔を、古関はちらりと盗み見る。彼が店に来たのは初めてだが、どこかで会ったように思うのは気のせいだろうか。
「いつもの奴、ロックで。竜杜くんはどうする?」
そうだな、と彼が思案する。
その名前に、古関はあっ!と思い出す。
「りゅうと……ってもしかして早瀬の息子か!」
え?と相手が顔を上げた。
慌てて笙子を振り返る。
「まさか!」
にやりと笙子が笑った。
「そ。古関も同じ中学の同級生。」
「といっても出来が悪かったから、高校は二人と違うとこだったけど。」
「そういう意味じゃなくて……これ以上行動見張られたら、たまったもんじゃないぞ!」早瀬竜杜は額を押さえる。
「あの家にいたらこういうこともある、ってことだよ。」なぁ、と笙子は古関に同意を求めた。
「あの家って……竜杜くん、お母さんの実家にいたんじゃなかったっけ?」
「連休明けから店の手伝いしてるんだよ。」
「それはまた……しかし早瀬の親父さん……竜杜くんのお祖父さんのお葬式で見かけたのがずいぶん前だろう。まさかこんなにでかくなってるとは。もう二十歳はとっくに超えてるんだよな。」
「ったり前だろ。自分、いくつになったと思ってるんだい?」
「宮原に言われたくないなぁ。店の手伝いって、今までの仕事は?」
「長期休暇がとれたので……」
「それだけじゃないだろ。」
「余計なことは言わなくていい。」
「肝心なことじゃないか。彼女の側にいたいって。」
古関は目を丸くする。
「彼女……こっちの人なんだ。」
「かわいい子だよ。」
「説明しなくていい。」
「いいじゃないか。別にやましいことしてるわけでもないんだから。」
「興味本位で聞かれるのが迷惑なだけだ。」
「言いたいのには言わせておけばいい。」
「彼女がこっちってことは……いずれあの店を継ぐ?」失礼かと思いながらも古関は気になってたずねた。
「それはまだ決めてません。」
「だからお試しで見習いするんだって。早瀬以上に真面目なんだよ。」
「って……なんで宮原が嬉しそうに言うんだ?」
「いやー、手塩にかけて診察した子が立派になって嬉しいなぁと思ってさ。」
「そりゃ……医者らしい台詞だな。」
「わたしはまっとうな医者だ、って言ってるだろ。」
そんな会話を皮切りに二人は飲み始め、結局明け方近くまで店にいたのである。
その半日後。
すっかり高くなった日差しを感じながら、古関は商店街のはずれにある古い洋館に向かった。
大正時代の文化住宅をそのまま使った喫茶店の、重厚な扉を押し開ける。
出迎えたのはコーヒーの香りと、驚いた昔なじみの顔。
「珍しいな。と、夕べはうちの倅がお世話になったようで……」
白髪の混じる頭に整えた髭は年相応だが、柔らかな笑みは四十年前と変わらない。
久しぶりに訪れていささか緊張気味だった古関も表情を緩める。
「そのお前の息子がどうなったか気になってね。宮原相手で結構なペースで呑んでたから、ひょっとしてこいつが必要なんじゃないかと思って。」言いながら手にしていたドラッグストアの袋をかざす。
「お見通しか。」早瀬加津杜は苦笑した。
「じゃあやっぱり……」
「明け方には帰ってたらしいんだが、さすがに店に出せる状況じゃなくて休ませた。」
「大丈夫か?」
「大丈夫。ただの二日酔いだよ。たまにはそういう休憩があってもいいさ。それよりせっかく来てくれたんだ。奢るよ。」
「じゃあ……」
古関はカウンター席に座りメニューをぱらぱらめくる。
「アイスコーヒー……いや。コーヒーフロート!」
一瞬の間。
「懐かしいな!」早瀬が笑った。
「だろ。」古関もにやりと笑う。
「お前、うちにくるとそればっかり頼んでた。」
「おれも今思い出した。コーヒーは苦くて、けどアイスといっしょなら平気だったんだよ。」
「じゃあ大人バージョンでうんと深煎りで作るか。」
「普通で結構。」
言いながら古関はぐるりと店内を見回す。
古色蒼然とした柱も梁も、そしてテーブルや椅子の配置も自分達が中学生だった頃とあまり変わっていない気がする。もちろん新しくなっているものもあるが、自分の中の思い出にあるフリューゲルと、イメージがなんら変わっていないのだ。
「宮原は夫婦で古関の店に行ってるのかい?」
注文のコーヒーフロートを置きながら早瀬が聞いた。
「ああ。ご主人がお酒飲まないから、適度にブレーキになってるんだよ。それが夕べはいなかった。うん、美味い。こりゃ普通のコーヒーでも良かったか?」
「ひょっとして不味いコーヒー出すとでも思ったのかい?」早瀬が言ったとき。
扉のベルが来客を知らせた。
いらっしゃいませ、と言いかけて、早瀬は慌ててカウンターを飛び出す。
「都ちゃん……」
彼が出迎えたのは小柄な少女だった。
年の頃は十代後半。柔らかな色のブラウスにスカートに、重そうなカバンを斜めに掛けている。きょろきょろと店内を見回し、
「今日はリュート、お店に出てないんですね。」
「それがその……二日酔いで……」
「へ?」
「もしかして約束してたのかい?」
「あ、いえ。時間があったら行くかも……しか言ってなかったから。」
「もう落ち着いてると思うから……よければ様子見てきてくれるかい?」
「い、いいんですか?」
「僕は手が離せないからね。和室に転がってると思う。」
「でも二日酔いなんて珍しい。」
「宮原相手じゃ仕方ないさ。」
「笙子先生?」少女がきょとんと首を傾ける。
「普通に元気でしたよ?さっき栄一郎さんのところに寄ってきたけど……」言いながら重そうなカバンにそっと触れる。
早瀬が古関の持ってきた袋と母屋の鍵を託すと、彼女は迷うことなく店の中を抜けて裏口へ向かった。そこが母屋への近道だと知るのは、この家に親しく出入りしたことのある者だけ。
「もしかして、今のが竜杜くんの高校生の彼女?」
戻ってきた早瀬に、古関は訊ねる。
「うん、木島都ちゃん。」
「宮原がえらくいい子だと褒めてた。」
「宮原のご主人とも仲が良いからね。最近はうちの専属カメラマンもしてもらってる。」
「写真……女の子にしちゃ珍しい。それに宮原は無敵だな。」
「まぁ懐柔できるのは栄一郎さんくらいなものだろうね。」
「さしづめご主人は猛獣使い、か。」
「それ、宮原には言うなよ。」
「当たり前だ!」
都は鍵を回すと、そっと家の中に入った。
上がり框にカバンを置いてジッパーを開く。待ちかねたように飛び出したのは、小さな猫ほどの大きさの羽の生えた白い竜。
「くあ」と鳴くのを「しーっ」っとなだめる。
「リュート具合が悪いみたいだから静かにね。」
竜は「きゅ」と頷くと勝手知ったる早瀬家のリビングに向かって飛んでいく。その後をついて行くと、ダイニングテーブルの上に空になったミネラルウォーターのボトルが並んでいるのが目に入った。縁側に回り、内包された和室を覗き込む。
果たして、座布団を枕に転がっている人影が一つ。
その傍らにうずくまっていた白い小さな竜の隣に、都の竜が舞い降りた。
うん?と呻く声。
漆黒の瞳がまぶしそうに薄く開く。
「コギン?都……か?」
「あ、うん。」和室の入り口にカバンを置いて、都は傍らに座った。
「二日酔い……大丈夫?」
「さっきシャワー浴びて、ようやく落ち着いた。」
「笙子先生と飲んでたって聞いた。」言いながら、竜杜のパートナーである銀竜の背をなでた。銀竜は気持ちよさそうに目を細めると、都の手に顔をこすりつける。
「閉店前に連れ出されて……記憶はあったんだが、油断した……それは?」
言われて都は袋からドリンク剤を取り出す。
「二日酔いの薬。マスターのお友達が持ってきてくれたって。」
「父親の友達?」
「バーのマスターって言ってたよ。」
「もしかして古関さん、来てたのか……」はぁ、と息をつくと腕で顔を覆う。
「水、持ってくる?」
「この状況でやけに冷静だな。」
「だって昔はお母さんと冴さん、二人して潰れること多かったもん。」
「嫌な慣れ方だ。」
「そっかな……」言いながら都は竜杜の額に手を触れる。
「手、冷たいな。」
「あ、ご、ごめん。」
「いや、気持ちいい。そのまま……」
「このまま?」
「うん……三十分だけ……眠らせてくれ……」
言い終えないうちに規則正しい呼吸が聞こえる。
二匹の銀竜が都を見上げる。
「わたし見てるから、フェスはコギンと遊んできていいよ。」
そう言うと、竜たちはふわりと舞い上がり隣の部屋へ飛んでいった。
縁側から入ってきた風が、都の細い髪をすくう。
都はもう一方の手でそっと竜杜の黒髪を梳いた。
「なんか……いつもと逆だね。」
そうして顔を彼に近づけると、耳元で名前を囁いた。
それから数日後。
開店直後の店に一人で現れた竜杜を、古関は笑顔で迎えた。
「今回は勉強だったね。」
「父親にも同じこと言われました。」
「それに宮原には、釘刺しておいてもらったから。」
「古関さんが?」
まさか!と古関は首を振る。
「早瀬が最強の猛獣使いに頼んだよ。」
「最強の……猛獣使い?」なんだそれ?と言いかけて「あっ!」と気づく。
「栄一郎さん?」
「当たり。」
「なるほど……じゃなくてその言い方は……」
「宮原のご主人も『なるほど』って言ったらしいよ。ついでに、『ぼく猫科の動物好きなんです』って言ったそうだ。」
「猫科……なのか?あれ。」うーんと唸る。
「ライオンかトラか……」くすくすと古関は笑う。
「どう考えても猛獣だ。」
「ただまぁ……早瀬もだけど宮原も、大人である君に直接口出しできない分、遠回りに心配してるんだと思うよ。」
「え?」
「恋人が高校生だから、周りからいろいろ言われるって言ってたじゃない。彼女に不愉快な思いさせてるって。そういうもの、君が抱え込むのを心配してるんだと思う。」
「俺……そんなこと言いましたっけ?」竜杜は怪訝な表情をする。
「宮原が席を立ったときに。ちょっと愚痴めいてたけど……って覚えてないのかい?」
竜杜はしばし思案する。
「その……他に何か言ってました?」
「まぁ独り言みたいなものだけど。」そう言って竜杜に耳打ちする。
そのとたん、竜杜は頭を抱え込んだ。
「全然……覚えてない……」
「竜杜くん、早瀬と同じで酔っても顔に出ないんだね。」
「やっぱり酔ってたのか?いや、でも……」
うろたえる竜杜に古関は苦笑する。
「他の人に言うつもりもないよ。特に……」
「笙子先生には!それをネタに何言われるかわからない。」
それに、と竜杜は肩で大きく息をつく。
「そんな昔の話……なんで今頃……」
「今頃だからこそ、出てきたのかもしれないよ。」
「出てこなくていい。」
「でも今回はプラスマイナスゼロ、でしょ。」
「ゼロ?」
「嫌な思い出プラス彼女に看護してもらったことイコール、ゼロ。」
「それは……独創的な考えた方、ですね……」
「そういう考え方があってもいいってこと。彼女とのことも、宮原の言うとおり言いたいやつに言わせておいて、それ以上に自分達でラブラブしてればいいじゃないの。」
はぁ、と竜杜は曖昧な返事をする。
「それに酒の失敗は若いうちの特権。」
「それに甘んじたくないが……まぁ、経験としては悪くもなかった、か。」
パイントグラスを傾けながら思い出す。
そっと触れる細い指の感触。
夢うつつの中で、けれど確かに聞こえた言葉。
「リュート……大好き、だよ。」
実際にありそうだなぁと思いつつ、つけた店の名前。
ご存知スコットランドの街の名前です(^^;
えーっと、こんな内容ですが自分の中では恋愛モードの話だと思ってます。




