弱点
「今大会を最後に引退するキャプテンは笑顔で語った……『後輩たちにしっかりとタヌキを繋ぎたい』……」
「『タスキ』だよ」
「……ん……?」
『タヌキを繋ぐ』って何だ。
「涼和くん……起きてる?」
「ああ……」
本当か? 目が閉じかけてるぞ。
「訳は合ってるよ? 確かに『ス』が『ヌ』みたいに見えるけど」
「そうか……良かった」
「良くはないよ、ヘタしたら減点されちゃうよ!?」
彼の字は、書いた本人ですら読み間違えるほどの素晴らしいシロモノだった。
期末試験まであとわずか。私は今、図書館の自習室で涼和くんと向かい合って座り、一緒に試験勉強をしている。彼は眠そうに英文を訳していた。
「タヌキか……腹減ったな。タヌキうどんが喰いたい……」
「いや、『タヌキ』は関係ないから! 『タスキ』だよ、涼和くん!」
自習室はほぼ満席だ。さすが冷泉院の人々、熱心である。
「ん……? お前はキツネ派か……?」
「えっ? うーん、どうせならかき揚げとか海老天とかいっぱい載っけて――じゃなくて! 今はうどんのことは忘れて!」
というか涼和くん、ほんとに起きてるか? 私の声は聞こえてるか?
(怪しいな……)
何しろ、この人は教科書を開いたその瞬間、急性惰眠症に陥る体質だ。今も意識がはっきりしているか否か、定かではない。
「次の文は訳せた?」
「このキャプテン、これからどうするんだろうな……優勝も推薦も逃して……」
「人のこと心配してる場合じゃないよ! このキャプテンはきっと元気に生きてるから! 涼和くんも勉強頑張ろうっ?」
現在、我々の机には教材の英字新聞や辞書、ノートなどが広がっている。英語演習の一環、長文和訳の練習中だ。時間内にただ訳すだけでなく、キーワードを外さずに要約しなければならない。
「この科目……丸暗記できないんだよな……」
涼和くんはぼやいた。
そう――この科目は単語や文法の出題範囲は決まっているが、訳さなければならない長文自体は試験で初出するものである。つまり、授業で使用した訳文を暗記しても意味がない。
「でも、訳を丸暗記するよりは単語だけ覚えるほうがまだ楽じゃない?」
「そうか……? 俺は、自力で文章まとめるのは苦手だ……」
「……」
まさかテスト中も眠ってはいないでしょうね、涼和くん?
(いや、さすがにそれはないか)
ここは名門、冷泉院。その入試を突破してるのだから、涼和くんだって本来は優秀なはずだ。もし他の普通の学校に行っていたら、むしろ成績はいいほうだったかもしれない。
が――ここでは、周りもレベルが高い。そのため、彼の頭脳も学習意欲も埋もれてしまっているのだろう。
(――ん? 待てよ)
ふと、私は思い出した。
「そういえば涼和くん、数学も苦手だったよね?」
「ああ……。あれも、暗記すりゃいいってもんじゃないからな……」
「……。ちなみに、得意科目は?」
「体育……」
「それ以外で!」
「日本史と、世界史……。あとは……地理とか」
「……」
応用をさほど必要としない、『覚えればいい科目』ばかり。
もしやこの人、今まで暗記力だけで乗り切ってきたのか? それはそれで凄いけど。
「お前は……?」
「えっ!?」
ギクッ。
「う、うーん……特には……」
「そうか……凄いな」
「……」
涼和くんは都合よく勘違いしてくれたようだ。『篠沢恵瑠夢』には苦手科目がない、という意味に取ったのだろう。
実際は逆だ――本当の私には、得意科目などない。
(まあ、『篠沢恵瑠夢』は確かに何でも出来るけど……)
凄いのは『この子』だ。私じゃない。
「門叶と同じだな……。あいつは、実技はさっぱりだが……」
「実技?」
「体育はもちろん……美術も音楽も家庭科も……」
涼和くんはふっと遠い目をした。
「一応言っとくが……奴の歌は聞くな。耳が死ぬ……」
「ええっ!?」
そこまで!?
「い、いや、心配しなくても、そんな機会はないと思うよ?」
「分からないだろ……。二年で同じクラスになったら、音楽の授業は一緒だ……。歌のテストがある……」
何を思い出しているのか、彼はなおも遠くを見つめている。
「あいつ……筆記は完璧なくせに……」
「そ、そう? 門叶くんなら理論も完璧な気がするけど」
「理論……発声法とかか? そうだな、確かに声はいい……」
涼和くんはふっとこちらを見た。
「けどな――恵瑠夢」
「う、うん?」
「理論の前に……音階だ……」
「……」
目が真剣だった。
世に音痴と言われる人は、大きく分けて二種類いる。声が小さいか、音が外れているか――門叶くんは後者らしい。
(もしかして……声が大きくて音階が破滅的、ってこと?)
それは――最強かもしれない。
「なんか、逆に聞いてみたくなってきたような……」
「よせ……。これは悪口じゃない、事実だ……あれはひどい。フォローしようもないほどひどい……」
「そこまで言われると気になるよ!?」
この人は女子にはそっけないが、男子には普通に愛想がいい。たとえあまり親しくない相手であれ、むやみにけなしたりはしないはずだ。ということは。
門叶くんの歌声は、本当にかなりなシロモノに違いない……。
(……この字と、どっちがヒドイだろう……)
ノートに躍る『タヌキ』――いや、『タスキ』を見下ろして、私はつい、口にしたら怒られそうなことを考えた。
人間とは、何かしら弱点を抱える生き物である……。




