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エルム、エルム  作者: 十枝内 清波
一年生
99/341

弱点

「今大会を最後に引退するキャプテンは笑顔で語った……『後輩たちにしっかりとタヌキを繋ぎたい』……」

「『タスキ』だよ」

「……ん……?」

 『タヌキを繋ぐ』って何だ。

「涼和くん……起きてる?」

「ああ……」

 本当か? 目が閉じかけてるぞ。

「訳は合ってるよ? 確かに『ス』が『ヌ』みたいに見えるけど」

「そうか……良かった」

「良くはないよ、ヘタしたら減点されちゃうよ!?」

 彼の字は、書いた本人ですら読み間違えるほどの素晴らしいシロモノだった。

 期末試験まであとわずか。私は今、図書館の自習室で涼和くんと向かい合って座り、一緒に試験勉強をしている。彼は眠そうに英文を訳していた。

「タヌキか……腹減ったな。タヌキうどんが喰いたい……」

「いや、『タヌキ』は関係ないから! 『タスキ』だよ、涼和くん!」

 自習室はほぼ満席だ。さすが冷泉院の人々、熱心である。

「ん……? お前はキツネ派か……?」

「えっ? うーん、どうせならかき揚げとか海老天とかいっぱい載っけて――じゃなくて! 今はうどんのことは忘れて!」

 というか涼和くん、ほんとに起きてるか? 私の声は聞こえてるか?

(怪しいな……)

 何しろ、この人は教科書を開いたその瞬間、急性惰眠症に陥る体質だ。今も意識がはっきりしているか否か、定かではない。

「次の文は訳せた?」

「このキャプテン、これからどうするんだろうな……優勝も推薦も逃して……」

「人のこと心配してる場合じゃないよ! このキャプテンはきっと元気に生きてるから! 涼和くんも勉強頑張ろうっ?」

 現在、我々の机には教材の英字新聞や辞書、ノートなどが広がっている。英語演習の一環、長文和訳の練習中だ。時間内にただ訳すだけでなく、キーワードを外さずに要約しなければならない。

「この科目……丸暗記できないんだよな……」

 涼和くんはぼやいた。

 そう――この科目は単語や文法の出題範囲は決まっているが、訳さなければならない長文自体は試験で初出するものである。つまり、授業で使用した訳文を暗記しても意味がない。

「でも、訳を丸暗記するよりは単語だけ覚えるほうがまだ楽じゃない?」

「そうか……? 俺は、自力で文章まとめるのは苦手だ……」

「……」

 まさかテスト中も眠ってはいないでしょうね、涼和くん?

(いや、さすがにそれはないか)

 ここは名門、冷泉院。その入試を突破してるのだから、涼和くんだって本来は優秀なはずだ。もし他の普通の学校に行っていたら、むしろ成績はいいほうだったかもしれない。

 が――ここでは、周りもレベルが高い。そのため、彼の頭脳も学習意欲も埋もれてしまっているのだろう。

(――ん? 待てよ)

 ふと、私は思い出した。

「そういえば涼和くん、数学も苦手だったよね?」

「ああ……。あれも、暗記すりゃいいってもんじゃないからな……」

「……。ちなみに、得意科目は?」

「体育……」

「それ以外で!」

「日本史と、世界史……。あとは……地理とか」

「……」

 応用をさほど必要としない、『覚えればいい科目』ばかり。

 もしやこの人、今まで暗記力だけで乗り切ってきたのか? それはそれで凄いけど。

「お前は……?」

「えっ!?」

 ギクッ。

「う、うーん……特には……」

「そうか……凄いな」

「……」

 涼和くんは都合よく勘違いしてくれたようだ。『篠沢恵瑠夢』には苦手科目がない、という意味に取ったのだろう。

 実際は逆だ――本当の私には、得意科目などない。

(まあ、『篠沢恵瑠夢』は確かに何でも出来るけど……)

 凄いのは『この子』だ。私じゃない。

「門叶と同じだな……。あいつは、実技はさっぱりだが……」

「実技?」

「体育はもちろん……美術も音楽も家庭科も……」

 涼和くんはふっと遠い目をした。

「一応言っとくが……奴の歌は聞くな。耳が死ぬ……」

「ええっ!?」

 そこまで!?

「い、いや、心配しなくても、そんな機会はないと思うよ?」

「分からないだろ……。二年で同じクラスになったら、音楽の授業は一緒だ……。歌のテストがある……」

 何を思い出しているのか、彼はなおも遠くを見つめている。

「あいつ……筆記は完璧なくせに……」

「そ、そう? 門叶くんなら理論も完璧な気がするけど」

「理論……発声法とかか? そうだな、確かに声はいい……」

 涼和くんはふっとこちらを見た。

「けどな――恵瑠夢」

「う、うん?」

「理論の前に……音階だ……」

「……」

 目が真剣だった。

 世に音痴と言われる人は、大きく分けて二種類いる。声が小さいか、音が外れているか――門叶くんは後者らしい。

(もしかして……声が大きくて音階が破滅的、ってこと?)

 それは――最強かもしれない。

「なんか、逆に聞いてみたくなってきたような……」

「よせ……。これは悪口じゃない、事実だ……あれはひどい。フォローしようもないほどひどい……」

「そこまで言われると気になるよ!?」

 この人は女子にはそっけないが、男子には普通に愛想がいい。たとえあまり親しくない相手であれ、むやみにけなしたりはしないはずだ。ということは。

 門叶くんの歌声は、本当にかなりなシロモノに違いない……。

(……この字と、どっちがヒドイだろう……)

 ノートに躍る『タヌキ』――いや、『タスキ』を見下ろして、私はつい、口にしたら怒られそうなことを考えた。

 人間とは、何かしら弱点を抱える生き物である……。



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