オルゴール
職員室を通り過ぎ、校長室も通り過ぎる。その先の廊下には誰もいない。ただ、いかめしいマホガニーの扉が睨みを利かせている。
私はその扉をノックした。すぐに返事がある。
「――どうぞ」
「失礼します」
扉を開け、私は中へ入った。
「……」
その瞬間、見慣れない物体が目に飛び込んできた。
(こ、これは……)
ケーキだ。ローテーブルにケーキが置いてある。それも、直径二十センチ超の大物が三台、ドーンと。
「由和さん……今日はまた……凄いですね」
扉を閉め、私はそちらへ近づいた。
バレンタインの時も期間限定スウィーツがずらりと並んでいたが――それとはまた違ったインパクトだ。
山のようにフルーツが盛られたタルト、飴細工の蝶が飾られた真っ黒なケーキ、それとドーム形の純白のケーキ。ドームの表面には赤いソースで描かれたベルと音符が踊っている。
「これ、全部食べるんですか? 今?」
「私の分ではないよ」
「えっ」
由和さんはソファーに座っていた。見れば、彼の傍らには小さな紙袋が一つ置いてある。私はそれに目を留め、尋ねた。
「それ、何ですか? ――あ」
尋ねた瞬間、ハッと気がついた。その紙袋には老舗百貨店のマークがある。
ということは。
「さては、このケーキのオマケですね!? 特定の商品を買わないと付いてこない幻の一品!? だからケーキのほうは私にお下げ渡しを!?」
「『お下げ渡し』……そんな言葉を日常会話で聞こうとは」
表情を変えず、由和さんは静かに呟いた。
「勝手に話を作らないでもらえるかね。名探偵のような顔をして」
私の推理は外れたらしい。
彼は傍らの紙袋を取り、立ち上がった。
「これは、君にあげよう」
「えっ」
紙袋を差し出された。
私は目をむく。
「またですか!? 今度はいったい何ですか! 私、何を黙ってればいいんですか!?」
「口止め料ではないよ。今日は」
「今日は!?」
いつものは口止め料なんですね、やっぱり。
彼は静かに続けた。
「そう。今日は――君の誕生日だろう」
「――え」
「おめでとう」
(……)
私はきょとんとした。差し出された紙袋を、改めてまともに見る。
クマはともかく――リューくんとミリちゃんに続き、この人まで。
「由和さん、どうして私の誕生日を知ってるんですか?」
「生徒名簿に載っていた」
「……」
またですか、職権濫用。
「……ありがとうございます」
とはいえ、悪意あってのことではない。私は微笑み、紙袋を受け取った。
「開けてもいいですか?」
「どうぞ」
紙袋の中には包装されたプレゼントが入っていた。私はそれを取り出し、開けてみた。
(おぉっ!?)
三角形にカットされた、イチゴのショートケーキが現れた。
――いや、違った。本物ではない。
「わ〜、凄い! 何ですかこれ! 美味しそう!」
「オルゴールだよ」
そう聞いてもなお本物に見える。赤く輝くイチゴのツヤといい、なめらかで濃厚な生クリームの質感といい、かなりリアルだ。しかしよく見れば、ケーキの断面部分は自然の木目を活かして再現されていた。職人技の光る木製だ。
「甘い物は脳の疲れを取るらしいからね。食べる隙もない時は、これでも眺めて気を紛らわせなさい」
「えっ」
そんな使い方!?
「『食べる隙もない』って……由和さん、そこまで仕事を溜め込んだりするんですか?」
「いや。ただ、私がこういった物を食べようとすると、うちのシェフがよく妨害してくるのでね」
「沙弥花さんの『隙』ですか!」
妨害? それはまあ、こんなモノを平らげようとすれば。
由和さんがローテーブルへ目をやったので、私もその視線を追った。
「今日はその心配もない。好きなだけ食べなさい」
「えっ? 誕生日だから特別にタダで分けてくれるってことですか?」
「『分ける』わけではないよ。全て君のものだ。バースデーケーキだからね」
「ええっ!?」
もしやこの人、自分のバースデーケーキは毎年丸ごと独り占めしてるのか!?
「あの、由和さん。バースデーケーキって、普通はみんなで分け合って食べるものじゃ――」
「一人では食べきれないのかね?」
「へっ!?」
そういう問題ではない。
が――言われてみれば、ローテーブルのケーキは三台とも大皿に移してあり、小皿やフォークやナイフも用意されている。持って帰らせるつもりなら箱入りの状態でくれただろうから、つまりこれは「今食べろ」ということだ。
「……当然平らげるのが前提みたいに並べましたね」
「食べきれないなら私が――」
「いえ、いただきます」
けど由和さん、相手が私じゃなかったら無茶な量だと思うぞ。
私はソファーに腰を下ろした。オルゴールはとりあえず紙袋に戻し、傍らへ置く。まずはお弁当を広げた。
今日はカツ丼だ。卵とじタイプとソースカツタイプ、二種類を持ってきた。他にベーコン巻きアスパラ、チーズポテト、プチトマトのサラダなど。デザートはクレープ。茶巾のように中身を包み、リボンで結んである。フィリングは缶詰の桃とみかん、パイナップル、そして手作りのカスタードクリームだ。
「由和さん、これ食べますか?」
「ほう。クレープだね」
茶巾包みを献上すると、理事長様は無駄に遠慮せず、受け取った。
しかしすぐには手をつけず、由和さんは一度、給湯スペースへ姿を消した。そこから再び現れた時には、彼はケーキの箱らしきものを持っていた。
「こちらはジェラートだよ。君も食べるかね」
「え」
クレープのお返し?
どうやら、そのジェラートは自分用に購入したものらしい。ローテーブルの大物三台は、本当に私に譲ってくれるつもりのようだ。
「い、いや……どうせなら、こっちのケーキもシェアしましょうよ……」
「ん? 何か気になるかね。味は保証するよ」
私の向かいへ腰を下ろし、彼はローテーブルのケーキに目を移した。
「これは『アン・フルール』のタルト・フリュイ、こちらはトゥール・リュミエールのショコラ・オランジュ、それからこれが『ラ・ベル・シモーヌ』のフロマージュ・クリュだよ」
それぞれフルーツタルト、チョコとオレンジのケーキ、レアチーズケーキのようだ。
「うちのシェフの手作りではないから、安心しなさい」
「そんな心配はしてませんよ!?」
それに、たとえ沙弥花さんの手作りだとしても、何を心配することがあるだろうか。
――いや、待てよ。
(そういえば、沙弥花さんのお菓子って見たことがないような……)
彼女が由和さんに持たせる重箱には、いつもお子様ランチのようなメニューが詰まっている。が、よく考えたら、デザートの類が付いていた記憶はない。
「沙弥花さんって、お菓子作りはしないんですか?」
「……。チョコレートフォンデュは作れる」
「えっ!?」
どういう意味だ。チョコレートフォンデュ以外は駄目なのか?
「あの、『シェフ』ってひと通り何でも作れるんじゃないんですか?」
「作れるよ。一応」
「……。一応?」
「食べられるよ。一応」
「……。由和さんの求める味のレベルが高過ぎるだけですよね?」
「さあ。自分ではそれほど厳しい舌を持っているとは思わないが」
「いやいや、由和さんの味覚は凄いですよ!?」
この人は自分を過小評価している。
――それはさておき。
「と、ともかく……一緒に食べませんか?」
「いいのかね。それでは君がもの足りないだろう」
「えっ!?」
もの足りない!?
「どういう意味ですか! 別に私、常に飢えてるから大喰いするわけじゃないですよ!? 単に美味しいものをたくさん食べたいだけですから!」
「そうかね。君は満腹感というものを味わったことがなさそうだと思っていたのだが」
「だから、どういう意味ですか!」
というか、アナタには言われたくないですよ、理事長様!
(……今日は、重箱はなしか……)
沙弥花さんは『妨害』に失敗したらしい。
由和さんはさっそくジェラートの箱を開けた。中が見える。十個入りだ。
「君はどれにする?」
「え!? えーと、じゃあそのピスタチオを……」
「これだね。どうぞ」
と、私に一個分けてくれた。あとは自分で食べるつもりのようだ。
九個全部。今。
(……人のこと言えないよね)
私にはこの人こそ、満腹感というものを味わったことがなさそうに見えた。
――スウィーツ限定で。




