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エルム、エルム  作者: 十枝内 清波
一年生
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バレンタイン(サントノレ)

 職員室の前はきゃあきゃあと賑やかだった。人気のある先生にチョコをあげたい女子の集団である。私はそこを通り過ぎた。

 校長室の前は誰もいなかった。が、職員室前の女子の声がまだ聞こえてくる。私はそこも通り過ぎた。

 そして、理事長室の前。ここも校長室前と同じく、誰もいない。女子の声は届かず、静かだった。

 私はいかめしいマホガニーの扉をノックした。

「――どうぞ」

 聞き慣れた声が返ってくる。扉を開け、中へ入った。

「失礼しま……す……!?」

 ――入った瞬間、ぎょっとした。

 由和さんはソファーに座り、ココア色のロールケーキを食べている。そして――彼の目の前のローテーブルには、物凄い数のスウィーツが所狭しと並んでいた。

「君か。チョコレートの匂いにつられて来たのかね」

「そんな嗅覚は持ち合わせてませんよ!」

 犬じゃあるまいし。――犬はチョコ食べないけど。

 とりあえず扉を閉め、私はローテーブルへ近づいた。

「今日は一段と大量ですね」

 と、思わず門叶くんの言葉を引用してしまう。

「ふむ。今日でバレンタイン期間も終了だからね」

「限定品の食べ納めですか!?」

 なるほど。言われてみれば、ローテーブルのスウィーツはほとんどがチョコ味かハート形のものだ。

「今夜は沙弥花さんがチョコレートフォンデュを用意してくれるんですよね? 昼にこんなに食べちゃって大丈夫ですか?」

「うちで食べれば、彼女は怒るだろうね」

「いや、バレることを心配してるんじゃないですよ!? 夜もどうせたくさん食べるんですよね? さすがに体調崩しませんか?」

「彼女はどうせ摂取制限をかけてくるからね。夜は大して食べられないよ」

「……」

 その代わり、今は大した量を摂取している。

「ところで、君も昼食を取りにきたのかね。座りなさい。テーブルが狭くてすまないね」

「……。いえ」

 由和さんはスウィーツを少し寄せ、ローテーブルの上にわずかなスペースを空けてくれた。私は彼の向かいに腰を下ろした。

(……)

 せっかくだが、空けてくれたスペースではお弁当を広げるのに足りない。私はそこに、本日のデザートを入れた紙袋だけを置いた。

 幸い、お弁当のメニューはサンドイッチだ。膝の上でランチボックスを開けても、食べるのに支障はない。ちなみに具は、チーズ入りメンチカツ、茄子のみそマヨ、鮭フライ、コーンとうずら卵入りのキーマカレー、ハムステーキ&半熟卵など、いろいろ。

「おや。今日は紙袋が二つあるね」

 と、由和さんはさっそくスウィーツの気配を嗅ぎつけた。

「こっちはバレンタインのバラま……いえ、配布用です」

 自分の傍らに置いたほうの紙袋の説明をしてから、私はローテーブルの紙袋へ目を移した。

「でも由和さん、どうせ私のデザートを狙ってると思って、多めに作ってきましたから。一緒にこっちを食べましょう」

「『狙ってる』とは何かね。そんなことはひと言も言っていないが」

「いらないんですか?」

「いるとも」

 やっぱり。

「で、バラまいたのはどんなものかね」

「両方欲しいんですか!?」

 さすがスウィーツマニア。甘い物を見逃さない。

「『欲しい』とは言っていないが」

「いらないんですか?」

「くれる物は貰うよ」

 そうでしょうとも。

(……まあ、いいか)

 私は傍らの紙袋からブラウニーを一つ取り、理事長様へ献上した。

「ふむ、ブラウニーか。それほど手間のかからないわりに見栄えのいい贈り物だね。等分しやすく、大勢へ配るには適している。ありがとう」

「……はあ」

 何だか今、身もフタもないことを言われた気がする。

 由和さんはローテーブルを示した。

「良ければ、君も好きな物を食べなさい」

「えー、そんなー。いいんですかー?」

「わざとらしいね」

「別に狙ってたわけじゃないですけど」

「いらないのかね?」

「いります」

 この人はタダでは何もくれないが、ちょっとした協力やら賄賂やらを提供すれば、わりとあっさりスウィーツを分けてくれる。

 ローテーブルに並ぶバレンタイン限定品を物色しつつ、私はとりあえず、自分の膝の上のサンドイッチを平らげた。


「ほう。サントノレだね」

「はい。由和さんとはシュークリームがきっかけで知り合いましたから」

「そうだったね。君の見事な体当たりが扉ごと私に直撃して――」

「あの時はすみませんでした!」

 まだ恨んでいたのか、ひょっとして?

 静かな声、静かな表情。が、今一瞬、鋭い気配を感じた。

「慌てなくてよろしい。もう怒っていないよ」

「そうですか? 私が逆の立場だったら一生忘れませんけど」

「ふむ。私も『忘れた』とは言っていないよ。根に持っているわけではないがね」

「……」

 潰れたシュークリームの代わりにパリブレストを献上したとか、潰れたのと同じシュークリームを後日分けて差し上げたとか、そんなことは関係ない。あの日、あのタイミングで由和さんが食べたかったのは、あくまであの限定シューセットだったのだ。

 食べられるはずだった物が目の前で駄目になった――その衝撃を思えば、確かに未だ怒っていても無理はない。

 私にはよく分かる。食べ物の恨みは恐ろしい。

「ま……まあまあ。ほら、このシュークリーム、ココアクッキーをかぶせて焼いてあるんですよ!」

「どうかしたかね、声が震えているよ。怒っていないと言っているのに」

「どうもしません! さあどうぞ!」

 私はサントノレをひと切れ、理事長様へ献上した。

 サントノレとは、シュークリームを王冠のような形にぐるりと並べたお菓子である。底の土台部分は円形のパイ生地だ。

 今回、シュークリームはココアのクッキーシューで、中身はチョコカスタードとキャラメルカスタードの二種類。平らな部分を上にし、ハート形のチョコプレートを載せてある。王冠の真ん中にはホワイトチョコクリームをこんもりと絞り、赤とピンクのハートのチョコチップを散らした。我ながらバレンタインらしい飾りつけだ。

「ふむ。サントノレの基本はフィユタージュ(パイ生地)とシューとキャラメルがけだが、キャラメルの代わりにクッキー生地で固い食感を演出したわけだね。キャラメルはトラブルが多いからね。フランスでは、これが厚過ぎて歯を折ったり口の中を切ったりする人もいたらしい」

「……日本じゃあんまり聞きませんけどね……」

 歯を折るケーキを売るような店は、日本だったら遠からず潰れそうだ。味も重要だが、ここは安全第一の国である。

 ――そう、このお菓子は本来、シュークリームの頭が飴で覆われたような状態になっている。が、今日はバレンタインなのでチョコプレートを載せたのだ。キャラメル味は中身のクリームに潜んでいる。由和さんはそのクッキーシューに取りかかった。

 一方、私のほうは今、『ラ・ベル・シモーヌ』のスフレ・オー・ショコラを食べていた。これは、しっとりと柔らかいチョコレートケーキだ。表面には粉砂糖でハート模様が施されている。由和さんがだいぶ食べてしまったが、ローテーブルの上にはまだ数種類のケーキが残っていた。

「――それにしても、たくさん仕入れましたね」

 ふと、私は呟いた。

「『仕入れた』? 私は業者ではないが」

 業者さんはこんな仕入れ方しないでしょうよ。

「これ、今日買ったんですか?」

「日持ちしない物は前もって買えないからね。それに、買ったところで今日を待たずに食べてしまうよ」

「……」

 気持ちは分かる。私だって甘い物は大好きだ。

 が、それはさておき。

「ケーキ屋さんって、だいたい十時か十一時開店ですよね? 並びました?」

「ふむ。人気店は開店前から行列が出来ていたよ」

 ――ということは。

「由和さん、今日のお仕事は?」

「……」

「……」

「問題ない」

「またですか!?」

 サボッたらしい。いいのか、理事長様!

「それはそうと、篠沢くん。冷凍庫にグラス・ミルフィユ・ショコラが入っている。良ければそれも食べなさい」

「しかも、また口止めですか!」

 いい加減にしましょうよ、理事長様!

「いらないのかね」

 ……。

「いります」

 グラス・ミルフィユ・ショコラ――ネーミングから察するに、ミルフィユ風のチョコレートアイスのようだ。

 人のことは言えない。ちょっとした賄賂と引き換えに、結局いつも、私は彼の職権濫用を黙認している。

(校長先生……ごめんなさい)

 由和さんのせいで多分一番苦労しているであろう人物を思い浮かべつつ――私は、給湯スペースの冷凍庫へ向かった。



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